2019年8月28日水曜日

「違い」を嫌う権威主義者

20190822の朝日新聞に掲載されていたオピニオンをそのまま転載させていただいた。

政治季評早稲田大学教授=富永郁子(とみながいくこ)

トランプ氏を支持したのは
「違い」を嫌う権威主義者



テレビで報じられるアメリカのトランプ大統領の支持者集会の様子に私たちは衝撃を受ける。
憎悪と攻撃性をあらわにして熱狂する人々を目の当たりにするからだ。
ここに見る度を越した政敵叩き、移民叩きは、アメリカ国民に広く支持され得るものだろうか?

2016年大統領選挙でのトランプ氏の勝利は、当初、経済的格差や貧困に関連づけて理解され、グローバル化の敗者である貧しい労働者階級の白人有権者がトランプ氏を支持したという物語が広まった。
だが、これはトランプ氏を支持した地域の特徴に基づいて語られたものであり、トランプに票を投じた個人についての調査が進むにつれ、異なる様相が浮かび上がってきた。

何より、所得も階級もトランプ票には関係しないことが判明した。
世代や教育の影響が論じられたが、それらもトランプ票を十分には説明できない。
そんな中、トランプ氏支持を最もよく説明するとして注目されたのが「権威主義」だ。
政治体制のことではない。
個人に存在する心理的傾向のことである。

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アメリカにおける権威主義の研究は、ファシズムを支持した人々の心理的特徴を捉えようとした。
ドイツ出身の社会学者アドルノらの1950年の著書を嚆矢(こうし)とする。
90年代に政治学者の間でリバイバルがあり、研究の蓄積が進んだ。
そして、トランプ氏が共和党の大統領候補に選出された予備選挙の段階で、ある大学院生が発見する。
「権威主義者たちがトランプを支持している!」

権威主義者と呼ばれる人々は、2大政党のどちらの支持者にも存在するが、徐々に共和党に集まるようになっていることは知られていた。
そうして共和党内で力を増した彼らが党の本流をなす保守主義者たちを抑え、ダークホースのトランプ氏を大統領候補に押し上げたという。
さらに大統領選挙の本選では、民主党支持層や無党派層の中にいた権威主義者たちもトランプ氏を支持した。

権威主義者とは何者か。
アメリカの政治心理学者ステナーが2005年に発表した有名な研究によれば、権威主義者は「一つであること、同じであること」を求める。
「違い」を嫌い、多様性が苦手だ。
強制的手段を用いてでも規律を全体に行き渡らせてくれる強いリーダーを好む。

個人のこうした傾向を意味する権威主義は、普通、あまり表に出てこない。
だが、ある条件下で活性化され、表面化する
ステナーは面接調査により、次のような発見をした。
権威主義者は、政治指導層に問題があると思う時、あるいは社会から共通の価値観が失われていくと思う時、「違い」に対してより不寛容になる。
それは人種関係、道徳観、政治的見解、刑罰など寛容が問われる全ての領域で起こる。
逆に確かなリーダーシップと共通の価値観が保障される時、権威主義者は不寛容を表さず、差別是正など進歩的な社会改革の支持層にもなり得る。

権威主義は決して異常な傾向ではない。
誰もが集団に従うことと、個人の自由との間で折り合いをつけて生きている。
そのバランスが前者に傾く人が権威主義者であり、その反対がリバタリアン(自由至上主義者)だ。
リバタリアンは「違い」を楽しみ、多様性にストレスを受けない。
アメリカの白人有権者の44%が権威主義者ともいう。
あなたが、私が、権威主義者でもおかしくない。

権威主義は保守主義とは違う。
保守主義の不寛容はすでに不寛容が存在している特定の領域に限られるが、権威主義は「違い」全般に不寛容である。
保守主義者には受け入れやすい「安定した多様性」を権威主義者は嫌う。
逆に権威主義者が好む「共に変わっていく」というビジョンに保守主義者は怖気(おぞけ)をふるう。
アメリカには国家の介入を嫌う保守主義の系譜もあるが、権威主義者は場合によっては国家の介入を歓迎する。
面白いのは、権威主義者が子育てに関する質問によって見分けられることだ。
たとえば、子供には「行儀の良さ」と「思いやり」のどちらが重要化という質問に、前者と考えるのが権威主義者だ。
「行儀の良さ」を重視する人々の間では、どの所得層でも一様にトランプ票が多い。

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さて、トランプ氏は大統領選挙に際して、ワシントンの政治指導層の腐敗と失敗を執拗に言い立てた。
さらに当時から今日まで一貫して、特に中南米からの移民に関して、犯罪者を多数含む、アメリカ人の価値観とは相いれない不法移民が大量に国内に流れ込んでいる、というイメージを喧伝(けんでん)し続けている。

これらは誇張と虚偽をふくむ主張だが、少なからぬ人々の権威主義を活性化させた可能性がある。
彼らは突如、あらゆる「違い」に不寛容となり、自分たちとは違う個人や集団に対するトランプ氏の攻撃をすべて支持し始めたかもしれない。

トランプ大統領が乗じる不寛容やそのより過激な形態であるヘイトは、経済的困窮が生んだものでも保守主義によるものでもなさそうだ。
それは権威主義が人々に引き起こしたものであり、多くの人においては忽然と現われたとも考えられる。
明日は私たちのことかもしれないと身構える必要はあるだろう。



2019年8月20日火曜日

夭折の新聞記者 北村兼子

20190804の朝日新聞から下の記事をそのまま転載させてもらった。

日曜を想う
編集委員福島申二
題名は夭折の女性記者 色あせない勇気

NHKの大河ドラマ「いだてん」は視聴率こそいまひとつだが面白い。
先月の放送では伝説の名選手、人見絹江が、アムステルダム五輪の陸上800メートルで銀メダルをとっていた。

女性ゆえに偏見や好奇の目にさらされながら、それをはね返すように新しい道を拓いたアスリートだ。
しかし栄誉から3年後の1931(昭和6)年夏、24歳で病のために早世してしまう。

ドラマに重なるように胸に浮かんだのは、同時代を生きた一人の女性ジャーナリストだった。
性差別という理不尽に立ち向かい、洞察に満ちた14冊の本を残して、人見と同じ夏に27歳で夭折(ようせつ)した。

その人は北村兼子という。

関西大学に学び、高等文官試験を受けようとしたが女性には許可されず、大阪朝日新聞の記者になった。
たちまち頭角を現してめざましい筆を振るった。

たとえば、「(女学校で)教わったことは大きな嘘である。先生は『女は奴隷に甘んぜよ』という耳ざわりの悪い言葉を修身に用いないで、『女は女らしく』といったような、円滑で狡猾な陰険的感化をもって、限定せられた不自由な範疇の内に女性を追い込んでしまう」

あるいは、「婦人が向上したら(参政の)権利を与えようというが、権利をくれないで束縛せられては向上のしようがない。
束縛を解いてくれれば女の手足が伸びる。
夜が明けたから太陽が昇るのではない。
太陽が昇るから夜が明けるのである。
思いの丈(たけ)をつづる筆は冴(さ)え、羨望の念を抱かせるほど歯切れがいい。

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男女共学を唱え、女卑に抗(あらが)い、優れた記事を連発する一方、歓楽街への潜入ルポを試みるなどした。
しかし記者として名声が上がるにつれ、幾つもの通俗紙ゴシップ誌がモダンガール風の彼女を餌食にし始める。
「淫婦」などといった性的な中傷を執拗に書き立てた。

彼女は反論する。
「卑しい男子が数でかかって夜襲する―――婦人が社会に立って何らかの働きをすれば、すぐ中傷の糸がからむ、無限のことでも繰り返しているうちに事実化してしまうから恐ろしいーーーー」。
このあたりの状況は、約90年を経た今も驚くほどに変わらない。

結局、反論に疲れはてて2年半で退社した。
しかし、挫折によって行動と思考のスケールはいっそう大きくなる。

女性参政権の活動などで欧米や中国などを訪ね、旺盛に執筆して次々に出版した。
「フリーになってからの彼女はまぶしいほどでした」と、評伝「北村兼子―炎のジャーナリスト」を20年前に敢行した関西大教授の大谷(おおや)渡さんは言う。



さらには航空機の時代を予見して操縦を習得した。
欧州へ飛び立とうとする矢先に病で急逝したのだった。
「大空に飛ぶ」が遺著のタイトルになった。

大谷さんは北村を「当時の日本女性では最高のリベラリスト」とみる。

「マンに対するウーマンという区画を立てるそのことが既に婦人にとっては一種侮辱と考える」といった彼女の言葉を挙げ、「現代の最先端でも色あせない視点と思想がある。今はほとんど忘れられた存在なのが残念です」と惜しむ。

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百年、二百年後の人たちが、私たちがもつ世界観に、信じられぬと首をふることは考えられるでしょうか?
これはドイツの文学者エンデの問いかけだ。

思えば人間の来し方は、小さなことから大きなことまで、今日は当たり前と思われていることが、明日になれば間違っていたという錯誤と変容の繰り返しだった。
「いだてん」が描くオリンピックもそうだ。
クーベルタンは女性のスポーツに不寛容だった。
だから第1回に女子の姿はない。
彼だけが石頭だったのではなく、そのような価値観の時代だった。

世界は変わる。
しかし黙っていて変わるわけではない。
「正しさ」はたいてい少数者、弱者の勇気あるチャレンジから始まる。
そしていつの時代も、道を拓こうとする人の歩む道は険しい。

女性、障害者、性的少数者ーーー今も様々なチャレンジが進行中だ。
変わっていくことこそが人間の営みであろう。
勇気への敬意、それを忘れまいと思う。





2019年8月5日月曜日

一体、彼奴(あいつ)は何者なんだ?

表題の「彼奴は何者なんだ?」ではなく、私自身「一体この俺は何者になってしまったのだろうか?」と頓珍漢(とんちんかん)に考えるようになった。

嬉しいのか?悲しいのか! 不思議な感慨だ。
散歩していて、ちょっとした私に対する挨拶だけで、そんなことを考えることが多くなってしまった。

他人には、私の上下半身の衣装の気まずさ、靴のせいなのか歩き方なのか、身振り手振り、容赦のない視線の向きなのか、私のことをどのように目移りしてしまったのだろうか。

何故、そのようなことを考えるようになったのか?
それなりにそんなことを考える機会が多くなってしまった。
ママとお出掛け 38098599
(ネットでお借りしました)

出社から帰宅するまで、電車やバスを使ったことはなく、只管(ひたすら)徒歩オンリーだ。
歩くと頭のなかがスッキリして、体全体が軽くなる。
体の何処も、何もかも健康な元気者なら、そんなにまでして歩くことないじゃないの。
無理することはないんじゃないのと考えるようだ。
この私だって、そのように考えていた。
でも不思議なんだ、何もしないでじっとしていると、体が可笑しくなってしまう。
帰路、会社から自宅までの徒歩は出社したときに使った疎通のバック転だ。
余り仕事をしていないのに、歩くことには真剣勝負だ。

でも、どっこい。
5年半前、高さ5,6メートルの樹木の上から落下して後頭部を道路に叩きつけてからは、そんな、常識的な考えは遙か遠くの世界に忘却してしまったようだ。
あっちこっち高次脳機能障害を得てしまった。

そんななか、歩くのが凄く快感なのだ。
痛いとか草臥れたとかそんな感覚なんて露(つゆ)知らず、歩くことから得られる疲労感が、身が引きさがるほど快感なのだ。
足腰はそれなりに辛いだろうが、頭は痺れるように気持ちがいい。

だから、休日だからと言って、自宅でのんびりグザグダするなんて思いつかない。
家に居るよりも、外に歩きに出る。
自宅で本を読むよりも、敢えて1時間ぐらい徒歩して、野良作業やら図書館に行く。
そんなにまでして、無茶苦茶(むちゃくちゃ)歩いてから、何かに精を出すことが幸せなのだ。

軽快な徒歩中、不思議なことに巡り合うのでそのヒトコマひとこまを書いてみた。
出社するときは、保土ヶ谷公園を縦走(歩)と言えばいいのか、権太坂から神奈川坂を登りきり、公園の谷間に雪崩(なだれ)落ち、そのまま天王町駅に向かう。
7、000歩、距離にすると3、5キロぐらいだろう。
休みの日には5コースほど定番のコースがあって、お陽さまや雲の流れと、その日の私の気分で決める。
コースを決めるのに、イーハトーブの様子見も兼ねることがある。

朝早く市沢団地から左近山団地を抜けて、二俣川の近くでターンしてイーハトーブの快楽農地の様子見と草刈り、適当な水量を差して自宅に帰る。
1万3千歩、距離として6キロ。
この日本住宅公団の団地を歩いていると、私のことを団地の役員とでも思われるのか、おジイサンからお早うございますと挨拶される。
私はその相手の心の裡など何もお構いなしに、微笑みをもって同じように、お早うございますと返す。
ただ、それだけのことだが、静かな営みです。

自宅から環状2号に沿って平戸立体まで、そこから国道1号線の裏道を芹が谷を過ぎて児童遊園地の傍を自宅まで帰るコース。
1万5千歩、距離として7キロ。
そのコースの芹が谷交番の前には常に若いお巡りさんが交番の前に立って何かがあれば、私に申し立てて下さいと言わんばかり。
以前、交番の前のお巡りさんは、前を通り越す人々に挨拶していて、エライお人やなあと感心していた時代があった。
ところがその後、通行人との挨拶は少なくなってきたように思っていたが、違うんですここの駐在所のお巡りさんは、散歩の私にだって几帳面に挨拶してくれる。
私は恥かしげもなく、大きな声でお早うございますと返す。

休日だった昨日、20190804のこと。
鎌倉を目指して、自宅を06:15に軽くパンを食って、麦茶を持って出かけた。
頭は多少寝ぼけたままだったが、気象は爽やか心も軽い! 空気は清澄、何も文句なかった。
旧東海道を歩いていたら、黄色いシャツを着たオジサンにお早うございますと挨拶された。
始めてお会いした人だったが、私に相性が好く表情が輝いていた。
私の心の隅々まで、鋭気が漲った。
自宅から東戸塚駅、戸塚駅まで9800歩、約1時間。
そこから鎌倉を目指すほど体に余裕がなく、鎌倉を諦めて大船駅を目指した。

帰途、大船駅から東戸塚駅まで電車に乗ったから、総歩数は2万4000歩、歩いた距離は12キロは超えているだろう。
東戸塚駅から30分ほど歩いて自宅に落着、この日はこれで完結した。
ところがどうしても鎌倉駅までは歩きたくて何とかしたい。

その願望を達成するための術を思いついた。
先ずは、東戸塚駅から鎌倉駅まで電車で往って、駅前に素寒貧(すかんぴん)の状態で立つ、そして還りに付くこと。
それならば、根性無しでない私のこと、なんとか帰り切れるのではないか。
今は、これしかないと思い込んでいる。
次の日曜日に敢行したいと思い込んで、楽しみにしている。

会社から帰宅までのこと。
誰にでも起こり得ることだろうが、旧東海道の権太坂には高校、支援学校、小学校がありその通学のためこの道を歩く生徒、先生は多い。
私の子供たちも全てこの学校の何れかに通った。
今は、孫が1人2年生だ。

その学校の周りに近ずくと、私の身に流れる血脈までもが騒ぎ出し、視線だってどの学校にも注ぐ。
そんな状態で小学校の前を歩いていたら、前から来た年とった紳士から、私の顔を見てにっこり今日はと挨拶された。
私は、良く解らないまま、同じように今日はと返した。
これって、なんだったんだろう?
一体全体、他人は私のことを何と思っているのだろうか。
学校の何らかの関係者? PTAの役員、教材の納品会社の人、地元自治会の役員、市か教育委員会の事務員?
よく解らないできごとだった。

先週の日曜日、早起きして特別コースを歩いていた。
自宅から東戸塚駅、川上町、横浜カントリークラブの脇を通り、お稲荷さん、今井町、そしてイーハトーブの畑に向かっていた。
2万5500歩。
ベースボールのユニフォームを着た自転車乗りの小学生が、私の服装に興味を持ったのか、私の顔をよく見つめて、にっこりお早うございますと声を掛けてくれた。
私が身に付けている服装から、先生とでも早とちりしたのだろうか。
暑いから気をつけて、バッチリ頑張ってよと返した。
子どもに負けないように、私の顔は満面、破顔だった。
これも、これも不思議な出来事だった。

20190722  自宅に着くと三女がこれから保土ヶ谷球場へ母校の横浜商業(Y高)が県相模原高校と野球の試合をするのだが、お父さんが観に行くなら一緒に行きたいんだけどと言われた。
天下晴れての甲子園球場!を目指す。
高校時代にとって破格、極上の舞台だ。
今でこそ究極の成績は挙げられていないけれど、Y高だって名の知れた野球の優秀高だった。
横浜の育ち盛りの頃の企業人・商業人を沢山育てた、校歌が森鴎外さんだよと言えば誰だって魂消(たまげ)るぞ。
私も以前にグラウンドの傍に貸家を持っていて、年老いたOBたちと練習を観たものです。
この日は、4:3でY高は県相模原高校に惜敗した。
そして20190727、横浜球場にて県相模原高校と東海大相模高校の準決勝戦を、三女夫婦と観に行った。
孫はいつも付きっ切りだ。
糞っ垂れと言いたいほどの成績、11:2で東海大相模高校は勝った。
この試合を観ていて、こんな程度のレベルでは甲子園まで行っても、計り知れないほどの成績を収めきれないぞ、と発破をかけたくなった。

三女家族はバスで自宅に向ったが、私は歩いて帰ることにして、少し早い目にスタジアムを後にした。
この日、朝、自宅から会社まで、会社から横浜球場、横浜球場から自宅まで、約3万歩。
流石に疲れ果て、自宅前700メートル辺りの保土ヶ谷バイパスの陸橋の上で、暫しの疲れを癒すために橋の手摺に両手で身を委ね一休みしていた。
そしたら、黒い大きな車が前方50メートルで止まり、車中から2,3人の手を振るのが見えて、私には不思議な人もいるものだ、俺のことを誰かと間違っているのではないかと思った。
翌日、昨日の現場はこの辺かなあとバイパスの陸橋を見ると、ハッキリと私の両手の手形の跡が残っていた。
面白いものだと感慨深かった。

窓から顔を出す人がいて、驚くことなかれそれが長女だった。
長女家族が横浜へウナギではなく、何か好い物を鱈腹喰ってその帰り道だったようだ。
変なオジサンが、どうしたんだろうと眺めていたら、正真正銘お父さんだったなんて、吃驚したわ、と慰めて?くれた。
娘が幾つになっても、変な親父はいつまでも変なんだ。
感動?してくれたのか、悪口だったのか。

















2019年8月2日金曜日

月着陸50年

Aldrin Apollo 11 original.jpg

20190729の朝日新聞社説(Editorials)より、記事そのままを転載させていただいた。

月着陸50年
宇宙利用に新たなルールを

米国アポロ11号の飛行士が、人類史上初めて月に降り立ってから50年の時が流れた。

米ソ対立が深刻化するなか、宇宙開発で後れをとった米国が膨大な金と人を投じて実現させたのがアポロ計画だ。
冷戦時代の象徴といえるが、一方で計画を明らかにした当時のケネディ大統領は、一般向けの15分余の演説で「平和」という言葉を5回用い、月着陸をもたらす「新しい希望」にも触れていた。

その米国が、再び月に人を送り込もうとしている。
見すえるのはそこにある資源の開発と利用だ。
夢や理想は後景に退き、むき出しの国益が語られる。

交錯する利害と思惑

きっかけは今年3月のペンス副大統領の演説だった。
これまでの方針を4年前倒しする月探査計画を発表し、「米国の地から打ち上げる、米国製のロケットで」と力を込めた。
米政権の宇宙政策を担う国家宇宙会議の事務局長は朝日新聞の取材に「政治的な大きな隔たり」を理由に、ロシアと中国の参加は想定していないと話す。

米国が前のめりになる背景にあるのが他国の台頭だ。
中国は6年前、月に無人探査機を着陸させ、1月には世界で初めて月の裏側への到着も果たした。
ペンス氏は「月探査で優位に立とうとする野心は明らかだ」と警戒心をあらわにした。

中国だけではない。
ペンス演説の翌日、インドがミサイル人工衛星を破壊する実験に成功し、その能力を持つ4番目の国になった。
ただ、中ロと対抗するために米国はこうしたインドの動きを事実上黙認。
自らの都合を優先させた各国間の駆け引きは熾烈さを増している。

しかし忘れてならないのは、この半世紀で宇宙は日常生活の基盤になったということだ。
天気予報、テレビ放送、カーナビゲーション、スマホ端末の位置情報、、、、。
どれも人工衛星があってのサービスだ。
民間企業も次々と参入し、宇宙旅行は絵空事でなくなった。
「宇宙は新たな戦闘領域だ」とトランプ大統領は言う。
だがそんな認識では、これからの宇宙利用は到底立ちゆかない。

個別交渉積み上げて

国家が覇権を争う場所ではなく、人のくらしを支える公共空間であり、ビジネスを展開する市場。
それが21世紀の宇宙だ。
今こそ「平和的目的のための探査と利用」「全人類の共同の利益」をうたう国連宇宙条約の原則に立ち返らねばならない。

宇宙の憲法と言われるこの条約は67年に発効した。
宇宙空間について、主権を主張したり占拠・取得したりする行為を否定する。だが、資源開発に関する付帯的な言及はない。

その後、月の天然資源を人類の共同財産と定める「月協定」が84年に発効したが、日本を含む主な宇宙活動国は署名しておらず、実効性を欠く。

プレーヤーの増加に伴い、紛争の種が複雑・多様化してきたからこそ、それを調整する新たな取り決めが求められる。

動きがないわけではない。

たとえば、使命を終えた人工衛星やロケットの破片など宇宙空間を漂うゴミ(デブリ)の発生を抑える指針が、07年に国連宇宙空間平和利用委員会(COPUOS)で採択された。

資源開発をめぐっても、有志国や宇宙機関、学者、企業でつくる「ハーグ宇宙資源ガバナンスワーキンググループ」が、国際ルールの草案を2年前に発表した。
企業に資源の採取権を認めつつ、利潤は「すべての国の利益」に資する形で分配するという内容となっている。

前者は法的拘束力がなく、後者もおおまかな原則を示すにとどまるもので、限界はある。
それでも国際交渉の場で包括的な合意を形成する難しさを考えれば、個別分野で少しずつ実績を積み上げていくしかない。
地道な営みを通じて、宇宙は公のものだという認識が深まれば、兵器配備などの行為にも歯止めがかかる。
そう期待したい。

日本の役割は大きい

14年春、ウクライナ情勢をめぐって欧米とロシアが厳しく対立したときのことだ。
上空400キロにある国際宇宙ステーションには、ロシアの飛行士3人と米国の2人が滞在し、若田光一さんが船長を務めていた。

的川泰宣(まとがわやすのり)JAXA名誉教授は著書「3つのアポロ」で、若田さんが「地上げでは対立しているが、宇宙では協力しているところを見せよう」と、良好な雰囲気づくりに心を砕いたエピソードを披露している。

先に紹介したCOPUOSは今年6月、持続可能な宇宙活動をめざして、デブリ監視や国際協力の促進を盛り込んだ新たな指針を、ロシア、中国も加わった全会一致で採択した。
日本は提案国のひとつとして、9年がかりでこの交渉をまとめた。

探査機はやぶさの活躍が示すように、日本は最先端の技術をもちつつ、宇宙の軍事利用とは一線を画してきた。
ルールづくりに向け、その力と立場を生かして議論を引っ張れば、価値の高い国際貢献となるだろう。


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★ネットで得た文章をそのまま使わせていただきました。


アポロ11号は2人の人間を世界で最初に着陸させた宇宙飛行であった。

ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=協定世界時)にアポロ月着陸船「イーグル」号を月に着陸させた。

アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。

二人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47.5ポンド(21.5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。

2人が月面にいる間、マイケル・コリンズ司令船操縦士はひとり月周回軌道上で司令船「コロンビア」号を飛行させた。

アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。
アポロ11号は、7月16日13時32分(UTC)にフロリダ州メリット島にあるケネディ宇宙センターからサターンV型ロケットで打ち上げられ、NASAのアポロ計画の5番目の有人ミッションとなった。
アポロ宇宙船は次の3つの部分(モジュール)から構成される。

3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である司令船(CM)と、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する機械船(SM)、そして月に着陸するための下降段と、月を離陸して再び月周回軌道まで宇宙飛行士を送り届けるための上昇段の二段式になっている月着陸船(LM)である。
アポロ11号はサターンVの第三段の推力で月に向かう軌道に乗り、宇宙船をサターンVから切り離したあと、およそ3日間かけて旅し、月軌道に入った。

アームストロングとオルドリンは月着陸船「イーグル」に移乗し、静かの海に軟着陸した。2人は「イーグル」の上昇段を使用して月面を離陸し、司令船「コロンビア」で待つコリンズと再び合流した。

「イーグル」を投棄したあと、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、エンジンを噴射して月軌道を離脱した。

3人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に着水 (splashdownした。
アームストロングが月面に最初の一歩を踏み下ろす場面は、テレビジョン放送を通じて全世界に向けて生中継された。

アームストロングはこの出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた。

アポロ11号は実質的に宇宙開発競争を終わらせ、1961年に故ジョン・F・ケネディ大統領が掲げた「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という国家目標を見事に達成した。

背景[編集]

1950年代後半から1960年代前半にかけて、アメリカ合衆国(米国)は地政学的な競争相手のソビエト連邦(ソ連)と冷戦の最中にあった。

1957年10月4日、ソ連は世界初の人工衛星となるスプートニク1号を打ち上げた。

この出し抜けの打ち上げ成功でソ連は世界中を驚かせ、人々の不安を煽り、想像力をかき立てた。

ソ連には大陸間の距離を越えて核兵器を打ち込める能力があることを証明して見せ、米国の主張する軍事・経済・技術的優位を試したのである。

これにより、突如としてスプートニク・ショックが起こり、宇宙開発競争の端緒が開かれた。
ソ連によるスプートニクの挑戦に対して、米国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領は国家航空宇宙局(NASA)を創設し、人を地球周回軌道に乗せることを目指すマーキュリー計画に着手した。

しかし、1961年4月12日にソ連のコスモノート(宇宙飛行士)、ユーリイ・ガガーリンが世界で最初に宇宙を飛行し、初めて軌道上で地球を周回した人物となったことにより、スプートニク・ショックで傷ついたアメリカ人の自尊心に追い打ちをかける形となった。

ソ連に遅れることおよそ1か月、1961年5月5日にアラン・シェパードが約15分間の弾道飛行の旅を成し遂げ、初めて宇宙を飛行したアメリカ人となった。

シェパードは大西洋から回収されたあと、アイゼンハワーの後任のジョン・F・ケネディ大統領から祝いの電話を受けた。
ケネディは、他国に優越せんとすることは合衆国の国民的関心の中にあって、米国の国力に対する認識は少なくとも現実(の国力)と同程度に重要であると信じていた。

それゆえに、宇宙探査の分野においてソ連が(米国よりも)先進的であることは耐えがたいことであった。ケネディは、合衆国は競争しなければならないと固く決心し、勝機を最大化する試練を探し求めた。
当時、ソ連は米国よりも優れたブースターロケットを有していたため、ケネディは米国がソ連と対等の立場で競争を始められるよう、既存世代のロケットの最大出力を超える試練を要求した。

たとえそれが軍事上、経済上、科学上の理由で妥当なものとして認められなかったとしても、壮大な見世物であった。

ケネディは自身の顧問と専門家に相談した結果、そのような事業計画を選択した。

1961年5月25日、ケネディは "Urgent National Needs" (至急の国家的要請)に関して合衆国議会で次のように演説した。
私は、この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標を達成することに我が国民が真剣に取り組むべきであると信ずるものであります。 
これ以上人類に強い印象を与える宇宙事業計画はこの時代にただのひとつも存在せず、それが長期に及ぶ宇宙の探査のために重要であることもまたとないことでしょう。
そして、完遂するためにこれほど困難をともない、費用のかかるプロジェクトもそうないことでしょう。
我々はしかるべき月宇宙船の開発を加速するつもりです。我々は、これまでに開発されたいずれのものよりもはるかに大型で、それらの代わりとなる液体および固体の燃料ブースターを一定の優れた成果が得られるまで開発するつもりです。
我々は、その他のエンジン開発および無人探査、我が国民が決して見落とすことのないことには、この大胆な宇宙飛行を最初に行う者が生還すること、そのひとつの目的のために特に重要である探査に充てる追加的な基金を提案します。
しかし、本当の意味で、ただ一人の人間が月に行くのではありません
我々がこの判断を肯定すれば、全国民が月に行ったも同然です。と申しますのも、彼を月に送り込むには我々皆が働かなければならないからです。
第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ、1961年5月25日、上下両院合同会議における演説より
人間を月に着陸させるための取り組みには、すでにアポロ計画(Project Apollo)という名前がつけられていた。

直接上昇英語版方式と地球軌道ランデブー英語版の両方にかかわる月軌道ランデブーは、早期にあったきわめて重大な決定事項であった。

宇宙空間におけるランデブーとは、2機の宇宙船が宇宙空間を航行して落ち合う軌道操縦のことである。

1962年7月11日、NASA長官のジェームズ・ウェッブは月軌道ランデブー方式を用いることに決定したと発表した。その結果、はるかに小さいロケットと3つのモジュールから成るアポロ宇宙船とでアポロ計画は進められることになった。

この方法を選択したことは、アポロ宇宙船が(当時開発中だった)サターンV型ロケットで打ち上げられるであろうことを意味した。
アポロ計画に要求される技術および技巧はジェミニ計画で開発されたものである。

アポロ計画は、1967年1月27日にアポロ1号が火災事故に遭い、3名の宇宙飛行士が亡くなったことと、それに関する調査のため、不意に中断された。

1968年10月にアポロ7号が地球周回軌道上で司令船の評価を行い、同年12月にアポロ8号がそれを月周回軌道上で試験した。

1969年3月にアポロ9号が地球軌道上で月着陸船の調子を試し、同年5月にアポロ10号が月軌道上で予行演習を実施した。

こうして1969年7月までに、アポロ11号が月面に到達する最終段階までに必要な準備がすべて整った。
ソ連は米国と宇宙開発競争を繰り広げたが、米国のサターンVに匹敵するN-1ロケットの開発の度重なる失敗によって初期の優位は失われていた。

それでもソ連は米国に打ち勝とうとして無人探査機を飛ばし、月物質を地球に持ち帰ること(サンプルリターン)を試みた。

アポロ11号の打ち上げの3日前にあたる7月13日、ソ連はルナ15号を打ち上げ、アポロ11号よりも先に月軌道に到達させた。

しかし、月面へ降下する間に探査機が機能不全に陥り、危難の海に激突した。そのときの衝撃はアポロ11号が月面に設置した地震計に詳細に記録された。

アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につくおよそ2時間前のことであった。

イングランドにあるナフィールド電波天文学研究所の電波望遠鏡が月へ降下中のルナ15号から伝送された信号を記録しており、それらはアポロ11号の40周年記念にあたる2009年7月に公表された[