2019年8月2日金曜日

月着陸50年

Aldrin Apollo 11 original.jpg

20190729の朝日新聞社説(Editorials)より、記事そのままを転載させていただいた。

月着陸50年
宇宙利用に新たなルールを

米国アポロ11号の飛行士が、人類史上初めて月に降り立ってから50年の時が流れた。

米ソ対立が深刻化するなか、宇宙開発で後れをとった米国が膨大な金と人を投じて実現させたのがアポロ計画だ。
冷戦時代の象徴といえるが、一方で計画を明らかにした当時のケネディ大統領は、一般向けの15分余の演説で「平和」という言葉を5回用い、月着陸をもたらす「新しい希望」にも触れていた。

その米国が、再び月に人を送り込もうとしている。
見すえるのはそこにある資源の開発と利用だ。
夢や理想は後景に退き、むき出しの国益が語られる。

交錯する利害と思惑

きっかけは今年3月のペンス副大統領の演説だった。
これまでの方針を4年前倒しする月探査計画を発表し、「米国の地から打ち上げる、米国製のロケットで」と力を込めた。
米政権の宇宙政策を担う国家宇宙会議の事務局長は朝日新聞の取材に「政治的な大きな隔たり」を理由に、ロシアと中国の参加は想定していないと話す。

米国が前のめりになる背景にあるのが他国の台頭だ。
中国は6年前、月に無人探査機を着陸させ、1月には世界で初めて月の裏側への到着も果たした。
ペンス氏は「月探査で優位に立とうとする野心は明らかだ」と警戒心をあらわにした。

中国だけではない。
ペンス演説の翌日、インドがミサイル人工衛星を破壊する実験に成功し、その能力を持つ4番目の国になった。
ただ、中ロと対抗するために米国はこうしたインドの動きを事実上黙認。
自らの都合を優先させた各国間の駆け引きは熾烈さを増している。

しかし忘れてならないのは、この半世紀で宇宙は日常生活の基盤になったということだ。
天気予報、テレビ放送、カーナビゲーション、スマホ端末の位置情報、、、、。
どれも人工衛星があってのサービスだ。
民間企業も次々と参入し、宇宙旅行は絵空事でなくなった。
「宇宙は新たな戦闘領域だ」とトランプ大統領は言う。
だがそんな認識では、これからの宇宙利用は到底立ちゆかない。

個別交渉積み上げて

国家が覇権を争う場所ではなく、人のくらしを支える公共空間であり、ビジネスを展開する市場。
それが21世紀の宇宙だ。
今こそ「平和的目的のための探査と利用」「全人類の共同の利益」をうたう国連宇宙条約の原則に立ち返らねばならない。

宇宙の憲法と言われるこの条約は67年に発効した。
宇宙空間について、主権を主張したり占拠・取得したりする行為を否定する。だが、資源開発に関する付帯的な言及はない。

その後、月の天然資源を人類の共同財産と定める「月協定」が84年に発効したが、日本を含む主な宇宙活動国は署名しておらず、実効性を欠く。

プレーヤーの増加に伴い、紛争の種が複雑・多様化してきたからこそ、それを調整する新たな取り決めが求められる。

動きがないわけではない。

たとえば、使命を終えた人工衛星やロケットの破片など宇宙空間を漂うゴミ(デブリ)の発生を抑える指針が、07年に国連宇宙空間平和利用委員会(COPUOS)で採択された。

資源開発をめぐっても、有志国や宇宙機関、学者、企業でつくる「ハーグ宇宙資源ガバナンスワーキンググループ」が、国際ルールの草案を2年前に発表した。
企業に資源の採取権を認めつつ、利潤は「すべての国の利益」に資する形で分配するという内容となっている。

前者は法的拘束力がなく、後者もおおまかな原則を示すにとどまるもので、限界はある。
それでも国際交渉の場で包括的な合意を形成する難しさを考えれば、個別分野で少しずつ実績を積み上げていくしかない。
地道な営みを通じて、宇宙は公のものだという認識が深まれば、兵器配備などの行為にも歯止めがかかる。
そう期待したい。

日本の役割は大きい

14年春、ウクライナ情勢をめぐって欧米とロシアが厳しく対立したときのことだ。
上空400キロにある国際宇宙ステーションには、ロシアの飛行士3人と米国の2人が滞在し、若田光一さんが船長を務めていた。

的川泰宣(まとがわやすのり)JAXA名誉教授は著書「3つのアポロ」で、若田さんが「地上げでは対立しているが、宇宙では協力しているところを見せよう」と、良好な雰囲気づくりに心を砕いたエピソードを披露している。

先に紹介したCOPUOSは今年6月、持続可能な宇宙活動をめざして、デブリ監視や国際協力の促進を盛り込んだ新たな指針を、ロシア、中国も加わった全会一致で採択した。
日本は提案国のひとつとして、9年がかりでこの交渉をまとめた。

探査機はやぶさの活躍が示すように、日本は最先端の技術をもちつつ、宇宙の軍事利用とは一線を画してきた。
ルールづくりに向け、その力と立場を生かして議論を引っ張れば、価値の高い国際貢献となるだろう。


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★ネットで得た文章をそのまま使わせていただきました。


アポロ11号は2人の人間を世界で最初に着陸させた宇宙飛行であった。

ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=協定世界時)にアポロ月着陸船「イーグル」号を月に着陸させた。

アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。

二人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47.5ポンド(21.5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。

2人が月面にいる間、マイケル・コリンズ司令船操縦士はひとり月周回軌道上で司令船「コロンビア」号を飛行させた。

アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。
アポロ11号は、7月16日13時32分(UTC)にフロリダ州メリット島にあるケネディ宇宙センターからサターンV型ロケットで打ち上げられ、NASAのアポロ計画の5番目の有人ミッションとなった。
アポロ宇宙船は次の3つの部分(モジュール)から構成される。

3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である司令船(CM)と、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する機械船(SM)、そして月に着陸するための下降段と、月を離陸して再び月周回軌道まで宇宙飛行士を送り届けるための上昇段の二段式になっている月着陸船(LM)である。
アポロ11号はサターンVの第三段の推力で月に向かう軌道に乗り、宇宙船をサターンVから切り離したあと、およそ3日間かけて旅し、月軌道に入った。

アームストロングとオルドリンは月着陸船「イーグル」に移乗し、静かの海に軟着陸した。2人は「イーグル」の上昇段を使用して月面を離陸し、司令船「コロンビア」で待つコリンズと再び合流した。

「イーグル」を投棄したあと、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、エンジンを噴射して月軌道を離脱した。

3人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に着水 (splashdownした。
アームストロングが月面に最初の一歩を踏み下ろす場面は、テレビジョン放送を通じて全世界に向けて生中継された。

アームストロングはこの出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた。

アポロ11号は実質的に宇宙開発競争を終わらせ、1961年に故ジョン・F・ケネディ大統領が掲げた「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という国家目標を見事に達成した。

背景[編集]

1950年代後半から1960年代前半にかけて、アメリカ合衆国(米国)は地政学的な競争相手のソビエト連邦(ソ連)と冷戦の最中にあった。

1957年10月4日、ソ連は世界初の人工衛星となるスプートニク1号を打ち上げた。

この出し抜けの打ち上げ成功でソ連は世界中を驚かせ、人々の不安を煽り、想像力をかき立てた。

ソ連には大陸間の距離を越えて核兵器を打ち込める能力があることを証明して見せ、米国の主張する軍事・経済・技術的優位を試したのである。

これにより、突如としてスプートニク・ショックが起こり、宇宙開発競争の端緒が開かれた。
ソ連によるスプートニクの挑戦に対して、米国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領は国家航空宇宙局(NASA)を創設し、人を地球周回軌道に乗せることを目指すマーキュリー計画に着手した。

しかし、1961年4月12日にソ連のコスモノート(宇宙飛行士)、ユーリイ・ガガーリンが世界で最初に宇宙を飛行し、初めて軌道上で地球を周回した人物となったことにより、スプートニク・ショックで傷ついたアメリカ人の自尊心に追い打ちをかける形となった。

ソ連に遅れることおよそ1か月、1961年5月5日にアラン・シェパードが約15分間の弾道飛行の旅を成し遂げ、初めて宇宙を飛行したアメリカ人となった。

シェパードは大西洋から回収されたあと、アイゼンハワーの後任のジョン・F・ケネディ大統領から祝いの電話を受けた。
ケネディは、他国に優越せんとすることは合衆国の国民的関心の中にあって、米国の国力に対する認識は少なくとも現実(の国力)と同程度に重要であると信じていた。

それゆえに、宇宙探査の分野においてソ連が(米国よりも)先進的であることは耐えがたいことであった。ケネディは、合衆国は競争しなければならないと固く決心し、勝機を最大化する試練を探し求めた。
当時、ソ連は米国よりも優れたブースターロケットを有していたため、ケネディは米国がソ連と対等の立場で競争を始められるよう、既存世代のロケットの最大出力を超える試練を要求した。

たとえそれが軍事上、経済上、科学上の理由で妥当なものとして認められなかったとしても、壮大な見世物であった。

ケネディは自身の顧問と専門家に相談した結果、そのような事業計画を選択した。

1961年5月25日、ケネディは "Urgent National Needs" (至急の国家的要請)に関して合衆国議会で次のように演説した。
私は、この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標を達成することに我が国民が真剣に取り組むべきであると信ずるものであります。 
これ以上人類に強い印象を与える宇宙事業計画はこの時代にただのひとつも存在せず、それが長期に及ぶ宇宙の探査のために重要であることもまたとないことでしょう。
そして、完遂するためにこれほど困難をともない、費用のかかるプロジェクトもそうないことでしょう。
我々はしかるべき月宇宙船の開発を加速するつもりです。我々は、これまでに開発されたいずれのものよりもはるかに大型で、それらの代わりとなる液体および固体の燃料ブースターを一定の優れた成果が得られるまで開発するつもりです。
我々は、その他のエンジン開発および無人探査、我が国民が決して見落とすことのないことには、この大胆な宇宙飛行を最初に行う者が生還すること、そのひとつの目的のために特に重要である探査に充てる追加的な基金を提案します。
しかし、本当の意味で、ただ一人の人間が月に行くのではありません
我々がこの判断を肯定すれば、全国民が月に行ったも同然です。と申しますのも、彼を月に送り込むには我々皆が働かなければならないからです。
第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ、1961年5月25日、上下両院合同会議における演説より
人間を月に着陸させるための取り組みには、すでにアポロ計画(Project Apollo)という名前がつけられていた。

直接上昇英語版方式と地球軌道ランデブー英語版の両方にかかわる月軌道ランデブーは、早期にあったきわめて重大な決定事項であった。

宇宙空間におけるランデブーとは、2機の宇宙船が宇宙空間を航行して落ち合う軌道操縦のことである。

1962年7月11日、NASA長官のジェームズ・ウェッブは月軌道ランデブー方式を用いることに決定したと発表した。その結果、はるかに小さいロケットと3つのモジュールから成るアポロ宇宙船とでアポロ計画は進められることになった。

この方法を選択したことは、アポロ宇宙船が(当時開発中だった)サターンV型ロケットで打ち上げられるであろうことを意味した。
アポロ計画に要求される技術および技巧はジェミニ計画で開発されたものである。

アポロ計画は、1967年1月27日にアポロ1号が火災事故に遭い、3名の宇宙飛行士が亡くなったことと、それに関する調査のため、不意に中断された。

1968年10月にアポロ7号が地球周回軌道上で司令船の評価を行い、同年12月にアポロ8号がそれを月周回軌道上で試験した。

1969年3月にアポロ9号が地球軌道上で月着陸船の調子を試し、同年5月にアポロ10号が月軌道上で予行演習を実施した。

こうして1969年7月までに、アポロ11号が月面に到達する最終段階までに必要な準備がすべて整った。
ソ連は米国と宇宙開発競争を繰り広げたが、米国のサターンVに匹敵するN-1ロケットの開発の度重なる失敗によって初期の優位は失われていた。

それでもソ連は米国に打ち勝とうとして無人探査機を飛ばし、月物質を地球に持ち帰ること(サンプルリターン)を試みた。

アポロ11号の打ち上げの3日前にあたる7月13日、ソ連はルナ15号を打ち上げ、アポロ11号よりも先に月軌道に到達させた。

しかし、月面へ降下する間に探査機が機能不全に陥り、危難の海に激突した。そのときの衝撃はアポロ11号が月面に設置した地震計に詳細に記録された。

アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につくおよそ2時間前のことであった。

イングランドにあるナフィールド電波天文学研究所の電波望遠鏡が月へ降下中のルナ15号から伝送された信号を記録しており、それらはアポロ11号の40周年記念にあたる2009年7月に公表された[