2017年3月19日日曜日

ラジウム温泉だ


大船ラドン温泉のメインテーマは、ラジウムのことだ。
 

「ラドン温泉」「ラジウム温泉」を掲げる温泉地は日本の各地にあるが、ラジウム鉱石を自然崩壊することにより発生するアルファー線を利用した温泉のことだ。この温泉が、体の何に効果があったのか?それについては知識がない。この温泉のパンフレットには、滝のある温泉と謳ってある。
この稿は、ラジウム温泉モノだ。
田谷の地下300メートルから湧出する温泉は、褐色で良質な成分を豊富に含むナトリウムー炭酸水素塩温泉である。

私が現実にこのラジウムとかにお世話になったのは、山梨県北杜市須玉の通仙狭の近場、本谷川をのぞむ静かな山の湯、増富ラジュム温泉だ。
約450年程前の戦国時代、武田信玄公は川中島合戦の際の傷病兵や甲州金山の採掘の鉱夫達の怪我や病気の湯治場として利用された。
今では、神経痛、リューマチ、切り傷、糖尿病に特効があると言われている。
50年前、大学時代のサッカー部の休暇に、一人で秩父連山を歩いた。何処から入山して山歩きを決行したのか、記憶にない。
雲取山から奥秩父へ。
金峰山や瑞牆山(みずがき)、国師ヶ岳、北奥千丈岳、甲武信(こぶし)ヶ岳を通り越して、この温泉街の近所に着いた。のんびりした山行(幸)だった。二日か三日の行程だった。千曲川や本谷川も眺めた。
万年貧乏学生だったので、どのように帰路につけばいいか、考えていた。金のかからない方法と手段。


昨日(2017 03 17)、真言宗大覚寺派田谷山瑜伽洞(ゆがどう)の隣にある大船ラドン温泉の前を通りかかったときに、ここのラドン温泉のラドンとはどういうことですかと聞かれ、私は以前に行った増富ラジウム温泉のことを思い出した。
が、この関連した知識は正解ではなかった。私が増富ラジウム温泉で、女店員から聞いたラジウムの説明が、この大船にはどうしても適応しない。

ここで、どうしても確認しておかなければならないのは、ラジウムのことだ。
キューリー夫妻は、微量の放射腺を出すラジウムの発見がガン治療など人類に大きな貢献をしたと認められ、ノーベル賞を受賞した。実はこの時発見したラジウムの種類は「ラジウム226」であった。
日本にはラジウム温泉は数多くある。但し、ラジウム226の温泉は一つ、秋田県にある玉川温泉だけだ。
よって、この大船ラドン温泉にはこのラジウム226とは関係ない。キューリー夫妻の新発見とも、関係がなかった。


以下には、ネットで得た文章を転載させてもらった。
いいか?悪いか?後日のための知識にしてもらえれば、幸いです。
医学的に確立した理論はないが、ラドン温泉・ラジウム温泉は療養泉として国内外で認知されている1963年(昭和38年)以降、日本ドクターズクラブの研究スタッフは、物理学や医学界の諸先生のご指導によりラドン発生装置を研究開発し、各地にラドン温泉センターを開業した。ちなみに、1963年と言えば、日本が動力試験炉の発電に成功した年でもある。私の高校生時代だ。
ラドン開発事業団・日本温泉医学研究所の研究によって、1号機が開発されたのは1972年。直属の学術機関として「ラドン温泉医学会」の名が記されているが、この医学会こそが日本ドクターズクラブなのだろう。そして1972年といえば、大船ラドン温泉が開業した年。
この医学会のその後の発展については、何も知らない。



2017年3月17日金曜日

夫のことを思い出したのよ?

私が毎日通院している整形外科でのことだ。

毎日午後3時ごろになると、私はJR東戸塚駅の近場にある・・整形外科クリニックに行く。午後の開業は3時からなので、先ずは受付にある顧客リストに名前だけでも書いておけば、診療の順位が確保される。

それから時間が経つのを惜しむように、新聞や雑誌を読む。この時間が嬉しいわけではない、しょうがないだけのことだ。

今の私の体は、頭が重たく気分がすぐれない、、、、体全体がコンクリートで固められたようにゴチゴチだ。下肢や臀部に刺すような痛みがある。他人には聞えぬ声でヒィーヒィー移動している。ヘルニアの劇的な重症だ。
私のコンチクショウ状態のカラダの事情を分からない人には、なんとも、見苦しく見えていることだろう。魑魅魍魎(ちみもうりょう)。生気が無いどころか生体が危なかしい。厭らしい、何の魅力があろうか?

歩き方も実に貧乏たらしいのだ。かっての私は早足が得意で、ちんたらちんたら、ノロノロ歩く奴のことが、嫌で嫌でしょうがなかった。実に、蛇足?ノロ足だ。仕事現場でのこのような野郎を間抜けだと思っていた。

ところが、今、私は赤恥を掻いている。どんな小さな穴でも、入り込んで、人の目に触れたくない。死んでしまいたい、と思うことだってある。

整形外科への患者さんは、お年寄りの人が多くて、私のような68歳の人は少なく、もっともっと(老)老人ばかり、面白くない。

aオバアサンとbオバアサンの話が面白くて、こんなブログを書く羽目になった。
一人のオバアサンが、「私ね、昨日の夜から朝にかけて全然寝られなかったのよ、夜は背骨が痛くて、朝方は去年亡くなったオジイサンのことを思い出したのよ」 「へえ、あんなオジイサンのことを思い出さなくてもいいのよ」
「変なオジイサンだったよね、もう死んじゃったんだから、思い出さなくていいの」
「思い出しても、いいことなんか、な~んもないんだから」

もう一組の老人夫婦。静かにしているオジイサンが、去年の秋に行った京都でのことをオバアサンに言い出した。何があったのだろう、「何で、あの時大きな声で、あんなことを言ったの?」
「馬鹿なことを、こんなに人がいるところで言うものじゃないよ」と、ピシャリとオバアサンが幕を閉ざした。これで一部は終わり。
それから、オジイサンが何か思いついたのだろう。一言言い出したと同時に、「なんで、あんな所で、あんな事を、大きな声で言いだしたの」と、これまたこれで終わりだった。

それからの老人たちは、小さな声で、ちょこちょこ話すものだから、私には聞き取れなかった。話さなくてもいいの、と言うけれど、二人の会話は幾らでも続いていた。

この稿の内容はそれだけの話だが、私にはとっては面白く聞き取れた。

何故、このような話を持ち出したのかと言えば、実は、夫婦が離婚することで、自宅を売り出すことになったケースが多いのだ。そんな物件を買わしてもらう。家を観にお邪魔しても、ご夫婦はしらっばっくれている。
年老いた狸と狐の離婚話なんか聴きたくない。
オジイサンが仕事に熱中している時には、オバアサンは従順で丁寧で、いかにもいい夫婦なのだけれど、何かが変わると何かが変わるものなのだ。
老夫婦のことは、よう解らんわ。いつの時代も、夫婦善哉はいいものだ。

問題は、60歳から70歳を過ぎたような年齢の夫婦だ。
何も、この年になって、離婚などすることはないじゃないの、と思う。
20才代や30才代なら、離婚したって、男はうら若き別嬪さんを、女は粋のいい優男を見つけ出すことだってある。
そうなれば、粋のいいカップルだって生まれる。
互いに、思わぬ新しい人生が得られるのだ。

2017年3月14日火曜日

脳波って?

安心仕切っていたのか?

私が余りにも能天気だったのか?



2017 3月8日(水)11:00。
新百合ヶ丘総合病院での定期検査で脳波検査とmri検査を受けた。
5,6メートルの樹上から路面のアスファルトに落下して、後頭部を強く打った。果てに、高次脳機能障害になってしまった。
恥かしくて、悲しくて悔いてばかりいてもしょうがない。事故後3年間、ひたすら病院に通って医者の指導を受けてきた。

3か月前に、担当してくれている医者と相談のうえ、今までの薬を止めて、脳の検査をしてみましょう。その結果次第で今後の施療方法を考えましょう、だった。
脳の検査で異常がなければ、これで終わり。よく頑張ったね、今後、このようなことのないように、気をつけて下さいね、でオシマイだった。

ところが結果は良くなかった。
私は、気楽に考え過ぎていたようで、お医者さんも気楽に考えていたようで、二人の顔は急に真剣になってしまった。

医者のこんな真面目な顔を見たのは、初めてだった。
というのは、私の脳波に時間の経過のなかで、思いっきり波髙の髙い波が露出する。
この波高の波は、普通の高さがどの程度なのか教えてもらわなかったが、その高さが急激に高いと、テンカンを起こすことがある。
低くても、精神障害になることもある。
現実に、記憶力・忍耐力の低下、企画・計画・イメージの貧困、精神の乱調、もう既にヤマオカさんの頭脳生活は、やられ放しだ。

その話を聞かされたとき、まさか俺のことか?とブルってしまった。今更、臆病になることもないじゃないの、と腹を括(くく)っている妻は、冷静だった。妻は、このようなことは、前から、診断のたびにお医者さんから聞かされていたじゃないの、と言う。

この診断の後、今までとは違う新しい薬をもらって自宅に帰ったのだが、車中、心は落ち着かなく、ハリが生まれない。
それから、2,3日の私の元気の無さは異常だったようだ。
孫が学習塾に行くのに、あんまりむきになって勉強しなくてもいいよ、ボチボチや、と言っていた私に、孫たちは、ジイジイ何だか元気ないのが心配や、と力をつけてくれるのが、不思議だった。
ジイジイと孫の立場が逆転してしまった。

ーーーーーーーーーーーーーー下記はネットよりーーーーーーーーーーー

脳波検査とは
脳はその活動にともなって常に微弱な電波を出し続けており、それは頭の表皮上におけるわずかな電位差(電流は電位の高いほうから低いほうへ流れる)となってあらわれます。その電気的な変動を頭部に付けた電極でとらえ、増幅し、波形として記録するのが脳波検査です。

脳波検査を安心して受けられるよう知っておこう!

外来での検査編

脳検査を知っておこう!1

【1】脳波ってなに?
脳の神経細胞が発する微弱な電気を増幅させて記録したもので、大脳皮質の表層に生ずる電位変動を見ます(完全予約制です)。

痛みはありません。ご安心ください。 

【2】どんな時に検査する?
てんかん、脳腫瘍、脳挫傷、脳出血、脳梗塞による意識障害などの疑いがある場合

【3】誰が検査する?検査は医師の指導監督の下で、臨床検査技師が行います。

【4】脳波検査の時はどうすればいい?
案内した特別の部屋に入りリラックスした状態で、受けてください。
頭皮上と両耳、両手首に検査用電極をペースト(糊状のクリーム)で付けますが、痛みはありまん。
(脳波は両手、額など合わせすべて取り付けると32です。

検査内容によって電極の数が違ってきます。

時間はペースト貼り付け、取り外しなど込めて約30~60分ほどです。


★検査内容(大人の場合)

①動かないこと。目閉じた状態で基本的にはします。
②初めのうちは、臨床検査師によって目の開閉眼の指示が出ます。

③時間がしばらくたって、光の点滅がありますが目は開かないでください。
④深呼吸があります。「吸って」「はいて」の指示が出ます。

指示に従って約3分くらいします。

⑤指示が終わって、少し時間が空きますが睡眠状態になっても大丈夫です。

薄暗い部屋で行う検査なので睡眠脳波が検査の対象にもなります。
⑥検査が終わったら、検査師が起こしてくれます。

ペーストを取り除くことをします。5分~10分くらい時間をみてくだい。                                                                            
※必ずしも内容によっては上記通りではなく、順序が変わってくることがあります。


・・脳波検査時の様子・・

脳波しているところ.jpg
 ★頭につける電極です。
脳波検査。。。頭.png
注意
  • 1.身の回りのものを必ず取り外しましょう。
      (眼鏡、時計、アクセサリー〔特に女性はイヤリング・ピアス〕)
    1.前日はよく洗髪し,整髪料などは使わないで下さい。  
    1. 検査時間が1時間以上かかる場合があります。
       お手洗いは必ず検査前に済ませて下さい
    1.薄暗い部屋で検査を行います。
       暗い所がこわい人、狭い部屋の苦手 な人は申し出て下さい
    1.検査済んだらクリームを取り除きますがきれいに取り除けないので家へ
      帰って からきれいに洗髪しましょう。
  • 当日女性の場合、化粧はしないでください。(額や目の近くに電極を当てます)
こども脳波.jpg
子供の検査中

MRI検査とは
(MRI=MagneticResonanceImaging:磁気共鳴画像診断装置)
MRI検査は強力な磁石でできた筒の中に入り、磁気の力を利用して体の臓器や血管を撮影する検査です。
様々な病巣を発見することができますが、特に脳や、脊椎、四肢、また子宮、卵巣、前立腺等の骨盤腔に生じた病変に関して優れた描出能が知られています。
また、色々な病気の早期発見



2017年3月3日金曜日

糞ったれ、腰痛野郎!!

今、激痛に苦しむ腰痛の元は、やはりサッカーだったのか?

サッカーをすると腰痛になる、と書かれているネット記事を読んで、これは、なにもネットでなくても、自分自身で感じていたことだった。でも、読まないわけにはイカンわ。

私は、中学校の時はバスケットに、高校・大学ではサッカーに心から体まで魅入られてしまった。ファールの微妙な判断が気にいらなくて、私のバスケット頭はパニクッた。そんなバスケットに情熱の火は点(つ)かなかった。
それで、だから、サッカーになってしまった。大学からは、朝から夜まで一日中、只、サッカー一途だった。

大学時代は、午前中はサッカーの授業の助手として、それが終わってからラーメン屋=芳葉の皿洗い、そして1時からは大学のサッカーの練習。大学の練習が終わったころに早稲田実業高校のサッカー部の練習に参加。それからは自主練習。

ボード板にボールを何回も蹴った。試合になると、何があるか解らない。相手の何かを見定めて、一つの動作をしてから、ボールを蹴る。1年で1万回蹴ったとしたら、4年間で4万回から5万回。それほど、蹴っていた。
ヘッディングの練習。地面から2メートルほどの高さに宙吊られたボールを、右から左から走ってきてガツーンと一発。面白くないから、飽きてしまう。それでも、私は挫(くじ)けない。
キックでは左足ばかりを入念にこなした。右足でのキックはどうにでもなった。ボールはどちらから来るか解らない、そして、左右のどちらのキックが必要なのかは、試合の流れで決まる。
やった、やった、、、、、やり通したーーーーー左足のキック練習を。
早実が帰り、真っ暗になって、グラウンドに誰もいなくなったら、そろそろ俺の練習も終わり。更衣室の中にある共同の浴場で、ゆったり湯を浴びる。最後の最後の浴槽には砂利がいっぱいある。湯はぬるく、決して美しくない。田舎で口遊(ずさ)んだ歌謡曲を他人のことを気にせず、大きな声で歌った。グランド管理のオジサンが、なんだ山岡か!とチェックに来る。
入浴料が無料、俺には最高にいい! 

授業の助手としては1時間240円、ラーメン屋では1時間で700円をいただき、それに昼飯をご馳走になった。飯はニラレバ定食。助手の1時間240円というのは、体育局からは1時間120円しか出せないことになっているので、山岡、悪いから、誰でもいいから2人でやっているように報告しておく。その一人の名前を教えてくれればいい、ということだった。吉田先生はサッカー部のコーチでもあり、雨の日は来ず、私がルールを教え、雨でも平気な奴にはサッカーの試合をさせた。学生の出欠をとるのも重要な仕事だった。

そんな日常だったので、俺ほどサッカーの練習をした奴はいない。朝9時から夕方7時、8時までが私のサッカー練習だった。教室で勉強するなんて、考えたこともない。でも、俺が一番上手だったわけではない。いつまでも、下手は下手のままだった。
大学の練習の休みは月曜日。俺は独人(ひとり)で井の頭公園や善福寺公園まで走った。早く走ったり、亀さんのようにゆっくり走ったり。決めた電柱までは思い切り早く走り、次の電柱まではやけにゆっくり。
公園内を、時間の過ぎるのを惜しまなく、ゆっくり歩いて遊んだ。樹木の緑葉や、幹が逞しく私を喜ばしてくれる。散歩道をウサギ飛びやら、高い塀の上を歩いたり走ったり。小さな植物の上や垣根、大きな水の溜まりを、片足で両足で飛び越えた。

皆(みんな)でやる練習で、一番気をつけたのは、迷惑を掛けないことだった。恐ろしいほど妙技は見せられないし、捏(こ)ね繰(く)った技はなく、ひたすらに迷惑をかけないことだった。ここで、自分の左足のキックだけは、気を貼り付けた。失格は許されない、だからと言って、いつも必ず完璧なキックができなかった。

スポーツを愛する人、特にサッカーを愛する人は、腰痛で苦しむ人が多い。
日々の生活態度次第で、腰痛に痛んでいる人も多い。スポーツをしなければ腰痛はないのですが、サッカーをする度に同じ症状が繰り返される。
症状は上半身を捻(ひね)たり、左足でシュートを打つ等の動作をしたときに、左尻の少し上のあたりに激痛が走り腰痛になりサッカーができなくなる。一時的になっても、またサッカーをするとこの痛みは繰り返される。腰痛の原因はいくつも思い当たることはあるが、何よりも私にはプレーヤーとしての機能力、対応能力が少なかったもので、始終、無理をしていたのが、決定的な原因だったように思う。無理矢理、無理無理の連続だった。
サッカーこそ腰痛の宝庫だ。

私のサッカーに対する技術は貧困だった。凄まじい程、悲しい貧困の無さだった。おまけに体力が無かったので、マークする相手を何もできないように牛耳ることは困難。体感というか体幹というか、この能力についても悲しいものだった。
頼れるのは、負けん気の強さだけだ。

私の過ごした大学は、日本中(じゅう)の特別優秀な人が多く、育った地域の方言を憚(はばか)ることなく、平気だった。全国大会でも常にトップクラスの静岡、広島、埼玉、京都、大阪、東京のサッカー名門校の出身だ。
今、恥かしくて言えないけれど、先輩からは常に「ワセダ・ザ・ファースト」と言われ、部員は重い熱を背負わされていた。寮内のあっちこっちにこのフレイズが書かれていた。誰もが重荷か重圧を背負い、身震いしながら生きていた。
かって、大学のチームでありながら、社会人のチームを含めての大会で、日本一・天皇賞を獲得したこともあった。

昭和44年の入学、入部だった。優秀な部員が沢山いた4~5年前からは、俊敏で優秀な人が少なくなって、苦戦していた。
1年生のときは、4年生に優秀な人がいっぱいいたのに、負け戦ばかりだった。私の目には、根性のない人ばかりだったように思えた。キャップテンは一時、サッカー日本一(天皇賞獲得)になった法人に何年も勤め上げてから入学した人だった。良識のある立派な人だったが、チームを引っ張る牽引力の足りない人だったのではないか。4年生のその他の選手は、高校でこそ立派だったかも知れないが、大学に入って腰抜かせになってしまった。情けない、と横目で見ていた。

その次の4年生は、前年の弱みを再び味わいたくないと、練習は走ることをメインにガツガツやってくれた。キャップテンは藤枝東高校。
このキャップテンから、私のことを、「此奴はゴミだよ」だった。でも、その後、何だか?私を可愛がってくれた。悔しいことも苦しいことも楽しいことも、みんなごじゃごじゃ、だった。
私は2年生。長距離に短距離。技術に縛られない練習ほど、私を面白くさせてくれた。頑張って、頑張って、関東大学リーグでは首位を走った。このときの充実感は、並大抵のものではなかった。

その次の4年生のキャップテンは、大阪の有名な高校出だった。私は3年生。
私より1年先輩だったが、どういう訳だか知らないが、能力の貧弱な私をよく可愛がってくれた。もっとコウしろ、もっと強くしろ、もっと早く走れ蹴れ、もっとしつこくやれ、アドバイスはそんなにレベルの高いものではなかったが、アドバイスの声に愛情が溢れていた。体力は2年間で、随分身についていた。言われたことを、完璧にこなせなくても、なんだかんだと付いていけた。
この頃から、チームの一選手としてやれる自信みたいなものが、付いてきた。
それはどういうことか、と言えば、もっと強く、もっと早く走れ蹴れ、もっとしつこくやれ、これらの先輩のアドバイスを良く理解できて、そのようにプレーできるようになったからだ。

大学のメンバーは、ある程度は優秀で、ある程度はダメで、その間の人は、頑張り次第ではどうにでもなる人たち、そんな構成だった。
3年生になるまで、私は情けないほど、ダメな部員だった。
新入生のときは、先輩たちに飽きられた。こんな奴は、どうにもならないではないか?そのように疑われていた。当然だ。

入部を目指す人は、入学が決まる前に、すでに部と打ち合わせしていた。これが常識だった。その際、サッカー部のことや大学のことを先輩たちはよく教えてくれたそうだ。

私の大学時代。
有難いこともあった。ラッキーだったことだ。
部員が少なく、紅白戦をやると、人間が足りなくなることもあった。
だから、3年生になると、私だって試合に出してもらえた。俺は下手だから、困ったなあなんて言ってはいられない。下手は下手なりに、上手は上手らしく、選手として立派にやらなければならない。その実感、それこそが、私の喜びだった。

当時、入部のための厳しい審査がなかった。そんなことで、滅茶下手な僕だって入部できた。今の入部基準では、私は入部することは絶対できなかっただろう。新入部員担当の4年生が、この人も京都の山城高校出身で、私が宇治の城南高校の出ですと言うと、解ってくれた。明日にも荷物を持ってきなさい、と快諾してくれた。この4年生は、有名な山(やま)さんだ。

入部して気を引き締めてやったことは、体を張って強くしつこく、誰よりも早くスタートして、諦めないことだった。マークする相手を自由にプレーさせない。
どんなボールでも蹴るかヘッドをするか、相手のボールコントロールを徹底的に邪魔すること。手にしたボールを攻撃しやすい所に早い目に出すことだった。
役に立たないニャロメじゃ、死んだ方がましや!!

医者では腰椎椎間板痛といわれ腹筋、背筋を鍛えることだと言われても、骨が痛いのではなく筋が痛いように感じて、なかなか医者の指示に従えない。
こういう症状はどこが悪くてどういう対処をしたらいいのか分かる方、アドバイスお願いします。

私が4年生、大学最後の学年。
関東大学サッカー選手権と全日本大学サッカー選手権、この二つの大会で優勝した。
栄光の2冠王だ。この貧弱な私でさえ、ちょこちょこ試合に出してもらったことが嬉しい。
関東大学リーグでは2試合に出してもらった。
全日本選手権では(旧)大阪商科大学との決勝戦に出してもらった。後半、我がチームのふんわりした相手ゴール前へのボールが、何故か不思議な動きをした後、相手ゴールに入った。
ボールが何故、どうして? それは誰も解からなかった。
ボールの周りには我が大学の選手は、何人もいたのに。
このゴールを早稲田の「神がかりシュート」だと言って、新聞の記者に喜んでもらった。翌日のサンケイスポーツには、この言葉が紙面に躍り上っていた。
夜、私の双眸には喜びの涙が溢れた。