2017年3月3日金曜日

糞ったれ、腰痛野郎!!

今、激痛に苦しむ腰痛の元は、やはりサッカーだったのか?

サッカーをすると腰痛になる、と書かれているネット記事を読んで、これは、なにもネットでなくても、自分自身で感じていたことだった。でも、読まないわけにはイカンわ。

私は、中学校の時はバスケットに、高校・大学ではサッカーに心から体まで魅入られてしまった。ファールの微妙な判断が気にいらなくて、私のバスケット頭はパニクッた。そんなバスケットに情熱の火は点(つ)かなかった。
それで、だから、サッカーになってしまった。大学からは、朝から夜まで一日中、只、サッカー一途だった。

大学時代は、午前中はサッカーの授業の助手として、それが終わってからラーメン屋=芳葉の皿洗い、そして1時からは大学のサッカーの練習。大学の練習が終わったころに早稲田実業高校のサッカー部の練習に参加。それからは自主練習。

ボード板にボールを何回も蹴った。試合になると、何があるか解らない。相手の何かを見定めて、一つの動作をしてから、ボールを蹴る。1年で1万回蹴ったとしたら、4年間で4万回から5万回。それほど、蹴っていた。
ヘッディングの練習。地面から2メートルほどの高さに宙吊られたボールを、右から左から走ってきてガツーンと一発。面白くないから、飽きてしまう。それでも、私は挫(くじ)けない。
キックでは左足ばかりを入念にこなした。右足でのキックはどうにでもなった。ボールはどちらから来るか解らない、そして、左右のどちらのキックが必要なのかは、試合の流れで決まる。
やった、やった、、、、、やり通したーーーーー左足のキック練習を。
早実が帰り、真っ暗になって、グラウンドに誰もいなくなったら、そろそろ俺の練習も終わり。更衣室の中にある共同の浴場で、ゆったり湯を浴びる。最後の最後の浴槽には砂利がいっぱいある。湯はぬるく、決して美しくない。田舎で口遊(ずさ)んだ歌謡曲を他人のことを気にせず、大きな声で歌った。グランド管理のオジサンが、なんだ山岡か!とチェックに来る。
入浴料が無料、俺には最高にいい! 

授業の助手としては1時間240円、ラーメン屋では1時間で700円をいただき、それに昼飯をご馳走になった。飯はニラレバ定食。助手の1時間240円というのは、体育局からは1時間120円しか出せないことになっているので、山岡、悪いから、誰でもいいから2人でやっているように報告しておく。その一人の名前を教えてくれればいい、ということだった。吉田先生はサッカー部のコーチでもあり、雨の日は来ず、私がルールを教え、雨でも平気な奴にはサッカーの試合をさせた。学生の出欠をとるのも重要な仕事だった。

そんな日常だったので、俺ほどサッカーの練習をした奴はいない。朝9時から夕方7時、8時までが私のサッカー練習だった。教室で勉強するなんて、考えたこともない。でも、俺が一番上手だったわけではない。いつまでも、下手は下手のままだった。
大学の練習の休みは月曜日。俺は独人(ひとり)で井の頭公園や善福寺公園まで走った。早く走ったり、亀さんのようにゆっくり走ったり。決めた電柱までは思い切り早く走り、次の電柱まではやけにゆっくり。
公園内を、時間の過ぎるのを惜しまなく、ゆっくり歩いて遊んだ。樹木の緑葉や、幹が逞しく私を喜ばしてくれる。散歩道をウサギ飛びやら、高い塀の上を歩いたり走ったり。小さな植物の上や垣根、大きな水の溜まりを、片足で両足で飛び越えた。

皆(みんな)でやる練習で、一番気をつけたのは、迷惑を掛けないことだった。恐ろしいほど妙技は見せられないし、捏(こ)ね繰(く)った技はなく、ひたすらに迷惑をかけないことだった。ここで、自分の左足のキックだけは、気を貼り付けた。失格は許されない、だからと言って、いつも必ず完璧なキックができなかった。

スポーツを愛する人、特にサッカーを愛する人は、腰痛で苦しむ人が多い。
日々の生活態度次第で、腰痛に痛んでいる人も多い。スポーツをしなければ腰痛はないのですが、サッカーをする度に同じ症状が繰り返される。
症状は上半身を捻(ひね)たり、左足でシュートを打つ等の動作をしたときに、左尻の少し上のあたりに激痛が走り腰痛になりサッカーができなくなる。一時的になっても、またサッカーをするとこの痛みは繰り返される。腰痛の原因はいくつも思い当たることはあるが、何よりも私にはプレーヤーとしての機能力、対応能力が少なかったもので、始終、無理をしていたのが、決定的な原因だったように思う。無理矢理、無理無理の連続だった。
サッカーこそ腰痛の宝庫だ。

私のサッカーに対する技術は貧困だった。凄まじい程、悲しい貧困の無さだった。おまけに体力が無かったので、マークする相手を何もできないように牛耳ることは困難。体感というか体幹というか、この能力についても悲しいものだった。
頼れるのは、負けん気の強さだけだ。

私の過ごした大学は、日本中(じゅう)の特別優秀な人が多く、育った地域の方言を憚(はばか)ることなく、平気だった。全国大会でも常にトップクラスの静岡、広島、埼玉、京都、大阪、東京のサッカー名門校の出身だ。
今、恥かしくて言えないけれど、先輩からは常に「ワセダ・ザ・ファースト」と言われ、部員は重い熱を背負わされていた。寮内のあっちこっちにこのフレイズが書かれていた。誰もが重荷か重圧を背負い、身震いしながら生きていた。
かって、大学のチームでありながら、社会人のチームを含めての大会で、日本一・天皇賞を獲得したこともあった。

昭和44年の入学、入部だった。優秀な部員が沢山いた4~5年前からは、俊敏で優秀な人が少なくなって、苦戦していた。
1年生のときは、4年生に優秀な人がいっぱいいたのに、負け戦ばかりだった。私の目には、根性のない人ばかりだったように思えた。キャップテンは一時、サッカー日本一(天皇賞獲得)になった法人に何年も勤め上げてから入学した人だった。良識のある立派な人だったが、チームを引っ張る牽引力の足りない人だったのではないか。4年生のその他の選手は、高校でこそ立派だったかも知れないが、大学に入って腰抜かせになってしまった。情けない、と横目で見ていた。

その次の4年生は、前年の弱みを再び味わいたくないと、練習は走ることをメインにガツガツやってくれた。キャップテンは藤枝東高校。
このキャップテンから、私のことを、「此奴はゴミだよ」だった。でも、その後、何だか?私を可愛がってくれた。悔しいことも苦しいことも楽しいことも、みんなごじゃごじゃ、だった。
私は2年生。長距離に短距離。技術に縛られない練習ほど、私を面白くさせてくれた。頑張って、頑張って、関東大学リーグでは首位を走った。このときの充実感は、並大抵のものではなかった。

その次の4年生のキャップテンは、大阪の有名な高校出だった。私は3年生。
私より1年先輩だったが、どういう訳だか知らないが、能力の貧弱な私をよく可愛がってくれた。もっとコウしろ、もっと強くしろ、もっと早く走れ蹴れ、もっとしつこくやれ、アドバイスはそんなにレベルの高いものではなかったが、アドバイスの声に愛情が溢れていた。体力は2年間で、随分身についていた。言われたことを、完璧にこなせなくても、なんだかんだと付いていけた。
この頃から、チームの一選手としてやれる自信みたいなものが、付いてきた。
それはどういうことか、と言えば、もっと強く、もっと早く走れ蹴れ、もっとしつこくやれ、これらの先輩のアドバイスを良く理解できて、そのようにプレーできるようになったからだ。

大学のメンバーは、ある程度は優秀で、ある程度はダメで、その間の人は、頑張り次第ではどうにでもなる人たち、そんな構成だった。
3年生になるまで、私は情けないほど、ダメな部員だった。
新入生のときは、先輩たちに飽きられた。こんな奴は、どうにもならないではないか?そのように疑われていた。当然だ。

入部を目指す人は、入学が決まる前に、すでに部と打ち合わせしていた。これが常識だった。その際、サッカー部のことや大学のことを先輩たちはよく教えてくれたそうだ。

私の大学時代。
有難いこともあった。ラッキーだったことだ。
部員が少なく、紅白戦をやると、人間が足りなくなることもあった。
だから、3年生になると、私だって試合に出してもらえた。俺は下手だから、困ったなあなんて言ってはいられない。下手は下手なりに、上手は上手らしく、選手として立派にやらなければならない。その実感、それこそが、私の喜びだった。

当時、入部のための厳しい審査がなかった。そんなことで、滅茶下手な僕だって入部できた。今の入部基準では、私は入部することは絶対できなかっただろう。新入部員担当の4年生が、この人も京都の山城高校出身で、私が宇治の城南高校の出ですと言うと、解ってくれた。明日にも荷物を持ってきなさい、と快諾してくれた。この4年生は、有名な山(やま)さんだ。

入部して気を引き締めてやったことは、体を張って強くしつこく、誰よりも早くスタートして、諦めないことだった。マークする相手を自由にプレーさせない。
どんなボールでも蹴るかヘッドをするか、相手のボールコントロールを徹底的に邪魔すること。手にしたボールを攻撃しやすい所に早い目に出すことだった。
役に立たないニャロメじゃ、死んだ方がましや!!

医者では腰椎椎間板痛といわれ腹筋、背筋を鍛えることだと言われても、骨が痛いのではなく筋が痛いように感じて、なかなか医者の指示に従えない。
こういう症状はどこが悪くてどういう対処をしたらいいのか分かる方、アドバイスお願いします。

私が4年生、大学最後の学年。
関東大学サッカー選手権と全日本大学サッカー選手権、この二つの大会で優勝した。
栄光の2冠王だ。この貧弱な私でさえ、ちょこちょこ試合に出してもらったことが嬉しい。
関東大学リーグでは2試合に出してもらった。
全日本選手権では(旧)大阪商科大学との決勝戦に出してもらった。後半、我がチームのふんわりした相手ゴール前へのボールが、何故か不思議な動きをした後、相手ゴールに入った。
ボールが何故、どうして? それは誰も解からなかった。
ボールの周りには我が大学の選手は、何人もいたのに。
このゴールを早稲田の「神がかりシュート」だと言って、新聞の記者に喜んでもらった。翌日のサンケイスポーツには、この言葉が紙面に躍り上っていた。
夜、私の双眸には喜びの涙が溢れた。