2012年2月29日水曜日

光母子殺害、元少年に死刑

山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し後の上告審で、最高裁は20日、殺人と強姦致死などの罪に問われた被告の上告を棄却する判決を言い渡した。死刑とした差し戻し後の二審・広島高裁判決が確定する。

この事件に関する下記の文章は全て、20120221の朝日新聞・朝刊の記事のままです。死刑が確定した元少年は、犯行時18歳1ヶ月だった。少年法では、犯行時18歳以上の場合は死刑判決を言い渡すことができる。

事件当時、18歳よりたった1ヶ月しか過ぎていない被告を死刑にしたことには、後年に大いなる問題を残したのではないか、と思っている。もう少し慎重でなければならないのではないか。私は死刑廃止論者だ。

かって、1968、-69年に亘って、4人の連続ピストル射殺事件を起こして逮捕され、死刑判決を受けた永山則夫に関する本や、彼自ら著作した本を集中的に読んだ時期があった。逮捕されたのは、彼が19歳10ヶ月のときだ。永山則夫死刑囚から、私は色んなことを学んだ。永山は、生まれて一度も人に抱かれたことがなかった。

2009年から裁判員制度が実施されたことで、私は真剣に考えるようになった。特定の刑事裁判において事件ごとに、有権者からアットランダムに裁判員に選ばれて、法の裁きに加わることになった。私にだって、この大役が回ってくる可能性があるとなれば、この光母子殺害事件も傍観者ではいられない。ヤマオカ君、君ならどう裁くのか?

考えなくてはならん問題が余りにも多く、とりあえず、新聞で得た情報をこの際、大いに確認しておきたいと思った。

先ずは、新聞記事をそのまま転載させてもらう。問題は、余りにも重く、深い。

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1面

元少年の死刑確定

光母子殺害事件

最高裁が上告棄却

山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し後の上告審で、最高裁第一小法廷(金築誠志裁判長)は20日、犯行当時18歳1ヶ月の少年で、殺人と強姦致死などの罪に問われた大月(旧姓・福田)孝行被告(30)の上告を棄却する判決を言い渡した。死刑とした差し戻し後の二審・広島高裁判決が確定する。

 

犯行時18歳1ヶ月

大月被告は最高裁に統計が残る66年以降、犯行時の年齢が最も若い死刑確定者になるとみられる。第一小法廷は「犯行時少年だったことなどを十分考慮しても、死刑をやむを得ない」と言及。判決を踏まえ、少年による凶悪犯罪の裁判では、犯行時の年齢や立ち直りの可能性よりも結果の重大さが重視される流れがさらに強まりそうだ。

少年法は18歳未満の少年への死刑適用を禁じており、主な争点は18歳になったばかりの少年に適用することの是非だった。当初の一、二審は被告が立ち直る可能性を重視して無期懲役としたが、2006年に最高裁が「少年であることは死刑を回避すべき決定的事項ではない」と述べ、無期懲役判決を破棄。差し戻し後の二審判決は死刑としたため、2度目の最高裁の判断が注目されていた。

第一小法廷はこの日の判決で、「冷酷・残虐で非人間的な犯行。心からの反省もうかがえず、遺族の被害感情も厳しい」と指摘。犯行時の年齢や立ち直りの可能性など、被告にとって有利な事情を踏まえても、「刑事責任は余りにも重大で、死刑を是認せざるを得ない」と述べた。

裁判官4人中3人の多数意見。弁護士出身の宮川光冶裁判官は「犯行時の年齢に比べ、精神的成熟度が相当低かったことがうかがえる以上、改めて検討しなおす必要がある」として、審理を高裁に差し戻すべきだとの反対意見を述べた。最高裁が死刑と結論づけた刑事裁判の判決で、かかわった裁判官から反対意見が示されたのは、無人電車が暴走し6人が死亡した「三鷹事件」の大法廷判決(55年)以来とみられる。

被告は裁判が始まった当初、起訴内容を認めていた。差し戻し前の上告審で一転して殺意を否認。今回の上告審で弁護側は、犯行状況を再現した独自の鑑定をもとに「殺意はなかったという現在の主張が真実」と訴えていた。(山本亮介)

 

天声人語

13年前の不幸がなければ、本村洋さん(35)の名が知れ渡ることはなかった。大手製鉄会社の技術者として、同い年の妻と中学生の娘、もしかしたらその弟や妹と静かに暮らしていただろう。その人が記者団を見すえて語った。「日本の社会正義が示された」

山口県光市の母子殺害事件で、当時少年だった被告(30)の死刑が固まった。ひと月早ければ極刑を科せぬ若さだった。その未熟さ、立ち直る可能性をくんでなお、所業のむごさは死をもって償うほかない、との判断である。

妻子を奪われた本村さんは、自殺の願望を振り切り、悲運を糧に「被害者の権利」を世に問い続けた。独りで始めた闘いは、同情や共感だけでなく、重罪に厳罰を求める世論を揺り起こす。犯罪被害者への支援拡充にもつながった。

死刑の宣告は難しい、というよりつらい。国民の生命を守るためにある近代国家が、法の名において一命を奪う。矛盾といえば矛盾、廃止論の根拠である。

他方、遺族の処罰感情は容易に収まらない。凶悪犯罪を抑える効果については異論もあろうが、この事件の結末が「より安全な社会」につながらねば、誰ひとり浮かばれない。

極刑ゆえ、被告の実名が広く知られることになった。裁かれしは生身の人間と実感する。「反省した状態で、堂々と刑を受け入れてほしい」。最愛の家族のために闘い抜いた人の言葉は重い。帰らぬものは多すぎるが、本村さんが残したものも多い。後半生で「無名の幸せ」を取り戻してほしい。

 

36面

少年でも「結果」重視

異例の反対意見も

〈解説〉

18歳と30日。犯行が1ヶ月前なら死刑選択が許されない年齢だった元少年への死刑もやむを得ないーーーー。最高裁の判決は、重視されるべきは犯行の「結果」であることを示し、司法が少年事件での「厳罰化」にかじを切ったことを改めて印象づけた。

日本が死刑を存続しながら18歳未満への死刑を禁じているのは、未熟な少年の刑事責任は大人より軽くすべきで、適切な教育を受ければ更生できるという理念に基づいている。では、18歳には達したが、成人でない場合はどう判断するか。4人を殺した当時19歳だった少年に対する死刑が問題になった「永山事件」で死刑を選択した際、最高裁は1983年、「永山基準」を示した。九つの要素を総合的に考え、「やむを得ない場合に死刑が許される」と述べた。あくまで「死刑は例外」との立場だった。

これ以降、刑事裁判の実務では、殺された被害者の数が重視されてきた。少年事件で死刑が確定したのは、92年に千葉県市川市で一家が殺害された事件と、94年に大阪、愛知、岐阜の3府県で起きた連続リンチ殺人事件の2件、いずれも殺されたのは4人だった。

成人の場合は、被害者が2人で死刑になる例は珍しくない。永山事件の判決確定後、少年が2人を殺して無期懲役が確定した例は2件あるが、死刑はない。裁判官たちは少年特有の性質を重視し、適用に慎重な姿勢を示してきた。

光市母子殺害事件の一連の裁判経過は、こうした流れを変えた。2006年の差し戻し前の上告審判決で最高裁は「特に斟酌すべき事情がない限り、死刑を選択するしかない」と指摘。「例外的に死刑を許容してきた最高裁が、原則と例外を逆転させた」とする受け止め方が広まった。

最高裁が永山基準を変えたわけではないが、06年判決は実務に影響している。宮城県石巻市で2人が殺された事件で、仙台地裁は10年、同じ表現を使って少年に対して裁判員裁判初の死刑判決を言い渡した。判決後、裁判員の一人は「人の命を奪うのは、大人と同じ刑で判断すべきだ」と語り、少年の特性よりも結果を重視したことをうかがわせた。

ただ、今回の判決は、死刑とする結論では極めて異例の反対意見が付き、最高裁の裁判官の間でも意見が分かれたことを示した。結果の重大性と少年の未熟さや立ち直る可能性をどう考え、刑罰を科すのか。裁判員裁判が行なわれている今、市民も判断を迫られるテーマだ。(山本亮介)

 

永山基準

1968年に東京などで4人をピストルで射殺した当時19歳の永山則夫元死刑囚=97年に死刑執行=の事件をめぐり、最高裁が83年に示した死刑の基準。死刑を選択するかどうかの判断項目として①犯行の罪質②動機③態様=特に殺害方法の執拗さや残虐さ④結果の重大性=特に殺害された被害者の数⑤遺族の被害感情⑥社会的影響⑦犯人の年齢⑧前科⑨犯行後の情状ーーーの9項目を挙げた。最高裁は、これらを総合的に考慮し、他の事件との刑のバランスや同様の犯罪を抑止するといった観点から「やむを得ない」ときに死刑の選択が許される、とした。

 

39 社会面より、妻子を奪われた遺族・本村洋さん(35)の判決後に関係者に話したコメントを拾ってみた

*ずっと死刑を科すことについて考え、悩んできた13年間でした。

*遺族としては大変、満足しています。ただ、決して、うれしさや喜びの感情にありません。厳粛に受け止めなければならない。

*勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者なんだと思う。

*君の犯した罪は万死に値する。君は自らの命をもって罪を償わなければならない。

*(被告)は眼前に死が迫り、自分の死を通して感じる恐怖から自ら犯した罪の重さを悔い、かみしめる日々がくるんだと思う。そこを乗り越えて、胸を張って死刑という刑罰を受け入れて欲しい。

*妻と娘の命を無駄にしたくない。事故が社会の目にさらされることで、司法制度や犯罪被害者の状況の問題点を見てもらいたい。

*もう一度、人並みの人生を歩みたい。

*まずは自分と家族が幸せになること。事件のことだけ引きずって生きるのではなく、前を向いて、笑って、自分の生活、人生をしっかり歩いていくことが大事だと思う。

*裁判が終わることが事件の区切りではない。毎日、ふとした瞬間に事件を思い出したり、考えたりしながら生きていくんだと思う。

*法制度や裁判への関心の高まりに影響を与えることができたよと、守ってあげられなかった罪滅ぼしの一つとして、報告してあげたい。

(斉藤靖史 高田正幸)

 

元少年 非難・反省揺れた心

大月被告は広島拘置所にいる。「〈死刑に対して)怖い気持ちがまったくないわけではない」。6年間で10回以上接見してきた記者に昨年12月、そう明かした。

裁判記録などによると、被告は幼少期から母親に暴力を振るう父親の姿を目(ま)の当たりにして、自身も父親から暴力を受けていた。

中学1年のとき、母親が自宅で首をつって自殺。後に父親が若い外国人女性と再婚し、異母弟が生まれたことで、より孤立感を深めていったという。高校を卒業後、水道設備会社に就職。すぐに無断欠勤をするようになり、事件を起こした。

裁判が始まると、法廷で謝罪した。だが、無期懲役とされた一審判決後、判決前後に被告が知人にあてた手紙の内容が明らかになる。《被害者さん(中略)ありゃーちょーしづいている》《犬がある日かわいい犬と出会った。---そのまま『やっちゃった』--これは罪でしょうか》

被告は手紙の内容については「遺族をたびたび傷つけたことは深く反省しないといけない」と記者に語った。

差し戻し後の控訴審の判決が出る直前の08年3月、26歳の大月被告に接見し、事件当時と今の認識を尋ねたことがある。「当時は自分中心で、相手がどう感じるのか度外視していた。自分に向かい合い、弱さに気付いた」

差し戻し後の控訴審で遺族の意見陳述を聞いた後には「胸に迫るものがあった」

08年4月、差し戻し控訴審で死刑が言い渡された。2週間後、記者に手紙を寄せた。

「つらくないわけではない。しかし、ぼくよりつらい御立場の方(遺族)がおられる以上、ますますつつしみながらかんじゅし、学ばせていただきたいとする気持ちも、またまぎれもない真実です」

上告後の09年3月には接見した記者に「支えてくれた人からいただいたものを胸に、なぜ悪くなったのかを見つめて改善する、大きな人間になりたい」と話し、続けた。「判決が自分に有利でも不利でも、死刑でも、そうでなくても」

2年ほど前から、母子の月命日に支援者に頼んで犯行現場に花を捧げてもらっているという。

(斉藤靖史)

天声人語20120229

毎朝、配られてくる朝日新聞の天声人語を、コーヒーを飲みながら読むのが、朝一番の私の楽しみだ。

文章の巧さには私ほどの者が言うことはない。いつも感心させられるのだが、何よりも嬉しいのは、今の世の中での出来事を、本紙の他の記事とは切り口を代えての論評、ウイットを混(ま)ぜての文章は、非常に勉強の材料になっている。中学生からのお付き合いだ。

さて、今朝の記事は、各所で各人が含蓄のある話をされたことをまとめたものになっている。こんな1話、1話もやはりマイポケットに仕舞い込みたい。

そういうことで、20120229の天声人語を下にそのまま転載させてもらった。

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冷え込む閏日(うるうび)は、春の到来を1日遅らせるいたずらっ子のようだ。7月には閨秒もあり、今年は平年より1日と1秒長い。長い余韻を引く2月の言葉から。

ローザンヌ国際バレエコンクールで優勝した菅井円加(まどか)さん(17)がねだったのは、母賀子(よしこ)さん(48)の手料理だった。娘にバレエを勧めたその人は「親はドアを開くだけ。あとは本人が道を選択して最後に『よかった』と思ってくれれば」。

郵便不正事件で無罪の村木厚子さん。国が払った賠償金の約3千万円を、刑務所を出た知的障害者を支援する社会福祉法人に寄付する。「お金欲しくて提訴したのではない。税金は最も光が当たりにくい人々のために」と。

土下座ブームらしい。漫画「どげせん」を企画した板垣恵介さんは、土下座は相手を追い詰める「暴力」だと言う。被災地の東電社長がいい例だが、「土下座しなきゃならない状況は大抵、土下座では解決できません」。

〈首都直下型地震、4年以内に70%」の報道に、木造が密集する荒川区の西川太一郎区長が語った。「多くは『嫌だなあ』と思っただけかもしれないが、『何かしなければ』と思った人もいるはず。その割合が無事な数を決める」。

「森は海の恋人」の運動で知られる宮城県気仙沼市のカキ漁師、畠山重篤(しげあつ)さん(68)は「三陸で暮らす養殖業者は壊滅する宿命を背負っている」と話す。それでも続けるのは「この海が好きだからです。魚がとれるからだけではなく、空気とか風景とか、潮の香りだとか」。

2012年2月28日火曜日

天皇を元首に

昭和天皇

124代  昭和天皇

先週の土曜日20120225、朝一番に三井のリハウス東戸塚店に寄って書類を受け取り、弊社に向かうために東戸塚駅から横須賀線に乗った私の座席の隣に、私よりも10歳程年上のオジサンが広げた新聞記事を見て驚いた。このオジサン、食い入るように読んでいた。自民党の憲法改正推進本部(本部長・保利耕輔元政調会長)が作成した憲法改正原案らしい。

『天皇は「元首」憲法明記 自民原案』 こんな見出しだった。新聞は産経新聞で、記事は1面トップ。

そこで、ちょっと待てよ、ところで「元首」ってなんだったけ? と考えてみても、大日本帝国憲法下なら天皇が元首だと考えられるが、今、また此処で「元首」とは? 私には馴染みが薄過ぎて正確に理解できない。

元首、元老、元帥、元勲、どの言葉も埃(ほこり)を被ってかび臭い、生理的に嫌な気分を惹き起こす。その中でも元首は一番やっかいな言葉だ。こんな言葉を使わないで済むものならば、使いたくない。

先ずは講談社の日本語大辞典で調べたら、元首=「一国を代表する国家の最高機関または行政府の首長」とあった。そうと知れば、それほど忌み嫌う言葉ではない。ならば、元首は内閣総理大臣なのではないのか。それが、どうして天皇なんだ?

改正案全般の内容については、遅ればせながら、20120228の朝日新聞・朝刊に掲載されていたので、その記事を無断でそのまま下に転載したので、確認してもらいたい。

それにしても、こんなに保守的でいいの!!と思ったのが、第一印象だ。

後日、議論が賑やかに交わされるだろう、私も、理論武装しておかないと、イカンと思っている。かっての左翼学生も、世の中に随分もまれてきました。

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原案では「国民主権」をうたったうえで、「我が国は、長い歴史と固有の文化を持ち、日本国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家」と前文に明記。また、現行憲法に規定のない国旗、国歌について「日本国の表象として法律で定める」とし、「尊重しなければならない」と義務づけた。

安全保障分野については、首相を最高指揮権者とする「自衛軍を保持」と明記。現9条の「戦争放棄」は維持するものの、集団的自衛権の行使も念頭に「自衛権の発動を妨げるものではない」として「自衛権」を明確化した。

有事やテロ、大災害の際の緊急事態への対応も新設された。国会承認を前提に、首相は閣議で「緊急事態」を宣言。法律と同じ効力の政令を制定し、地方自治体の首長に指示ができるとした。「何人も国その他公の機関の指示に従わなければならない」と規定し、緊急事態宣言の効力がある間衆議院は解散されない」としている。

政教分離原則については、国や地方自治体の宗教的活動について「社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超えないもの」に限って容認。自民党は2005年10月の「党新憲法草案」で、首相の靖国神社参拝などを合憲とするため、こうした表現を使っている。

また、現憲法で衆参各院の3分の2以上の賛成が必要とされている憲法改正の発議について、各院の過半数の賛成に緩和することを明記。「結社の自由」を保障する一方で、公益及び公の秩序を害することを目的とした結社は認められないことを明記。公務員の労働基本権を制約することも盛り込んだ。

サンフランシスコ平和条約の発効から60年にあたる4月28日までに、新憲法案を決定し、国会提出を目指す。

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地域政党「大阪維新の会」代表の橋下徹大阪市長は24日、自身のツイッター上で憲法9条改正の是非について、2年間国民的議論を行なった上で国民投票で決定すべきだとの私見を明らかにした。次期衆院選の公約となる「維新八策」に盛り込む。憲法改正問題は、衆院選の争点になりそうだ。

(産経新聞20120225)

2012年2月27日月曜日

排泄機能障害の猫が、我が家に

先月201201の中頃、友人から猫を暫らくお世話になってもいいか、と言われて、良(い)いも悪いもないうちに、我が家に猫が持ち込まれた。友人が野良猫を保護したのだ。多分、頭の中では猫を迎える覚悟もないまま、友人から頼まれれば止むを得ないと半ば観念、半ば諦め、あいまいなままの承諾をしたのだろう。毅然と断っていたら、友人だって猫を持ち込まなかった筈だから。

 

mi-

この仔の名前は、ミー。雄でお父さん、年齢は10歳前後と思われる。長後街道に面した、全国展開している回転寿司屋の「従兄弟寿司」を根城にしていた。この仔は、子供たち3頭と奥さんの5頭暮らしだった。家族の全頭は、友人が最寄の動物病院で、避妊、去勢して、お父さん以外はやはり寿司屋とその裏の猫愛好家の辺りで、今も暮らしている。

ミーは、排泄機能障害をもっている。

我が家にやってきたときには、後ろ足はウンコとオシッコまみれ。お尻の周りは汚くて異常に臭かった。肛門が開いていて、便が見える。濡れているから、座るたびに、床に便の跡が残る。早速、動物病院で、尿と便を絞(搾)りだしてもらった。連れ帰って、部屋の中を歩くのを見て、こりゃ、大変なことになったぞ、と恐れた。下半身というのか後半身というのか、拭いてその日はケージに入れて、動き回るのを規制した。お尻を触られると、シャーと怒る。猫が怒るときには、シャーと言うのを初めて知った。

mi- 001

保護した当夜、ミーは一晩中泣いていた。隣の部屋で寝ていられないほど、大きな泣き声だった。自由奔放、放縦、好き勝手に暮らしていた。家族団らんを破壊されて悔しかったのか。寿司屋のにいさんが、休憩時間に寿司のネタの端切れを、ポイポイと投げてくれる。美味しいものばかりだ。塩分も猫にとっては過量だったのだろう。また、駐車場で寝そべっていると、近所の子どもが、何やら食べ物を持ってきてくれる。こんな結構な、暮らしを満喫していたのに、、、、、、、。それが良くなかった。

翌日も動物病院で、尿と便を絞りだしてもらった。排泄機能に障害があるだけで、それ以外はいたって健康体だということが検診の結果、判った。

何回か動物病院に通って解ったのだが、この仔は小動物の割には栄養価の高いものを食い過ぎたのが原因の一つかもしれない、が事故か何かで脊椎と脊髄に重大な損傷を受けているのではないか。想像したくないのだけれど、心無い人間様に危害を加えられたのではないか、と勘繰った。動物虐待のことを翳(かす)めた。下半身、肛門の括約筋や尿を押し出す筋肉、それを掌(つかさど)る神経系統が機能していないのでは、と獣医さんに尋ねたら、そうでしょうねと言っていた。尻尾に表情がないのだ。

便は、食べ物を食うと、限界までたまれば、否応なしに外に出る。尿もそれなりには出るのだが、異常にたまってくるのが外見から解る。、尿毒が怖いのだ。

保護1ヶ月経って、尿を絞りだしてもらいに行く頻度を少なくしても、大丈夫なように見受けられる。此の頃は中3日をとって、4日目に行くようにしている。獣医さんから、尿の絞りだし方をいくら教えてもらってもマスターできない。獣医さんは、膀胱を確かめて、このように押してやればいいのですと言うが、私にはその膀胱を手のひら、指の腹でどうしても確かめられないのだ。

ネットで調べたら、ちゃんと自宅で愛猫の尿を絞り出している人はいた。

ミーちゃんの膀胱の位置は確かめ難(にく)いですと獣医は言っていた。何度も獣医さんの手ほどきを見たが、真似できない。

ところが、先日尿を絞り出しにいつもの病院に行って、いつもの獣医に診てもらったら、尿のたまりが少ないとのことだった。獣医は、ウンコを絞り出すことによって、尿の出がよくなったのかもしれませんね、と言ってくれた。これって、私がミーの肛門を絞って便を出している成果なのだ。

ミーは気品高く、しぐさが実に上品なのだ。

その後のことは、又の機会に報告する。

2012年2月22日水曜日

クローズド・ノート

クローズド・ノート

 著者・雫井脩介(しずくい しゅうすけ)

 

思うところがあって、存命中の作家の本は、ここ暫くは読むまいと決めていたのに、私よりも20歳も若く現役バリバリの作家の本を読んでしまった!! 「クローズド・ノート」だ。

携帯サイトで、連載時から100万件のアクセスを突破した感動の恋愛小説だとの広告コピーを目にして、つい買ってしまった。これは間違いなく誇大広告だ。アクセスがあったからと言って、読者とはかぎらない。私たちの業界では誇大広告は厳禁だ。お店の名前は「何とか船」で、105円だった。携帯サイトで人気がある小説とは、どんなもんなんだろう、かと興味が湧いた。この類の本を今まで斜視的に捉えていたので、105円なら騙されたっていいや、そんな気になったのだ。

この作品は、文学的にはどの程度に評価されているのだろうか。唯、携帯サイトで、それほどアクセスされて、読まれていると知れば、穏かではない。たくさんの若者の読者に支持された。確かに、若い男女のなす清清(すがすが)しさや爽やかさ、気持ち良さは、多分アクセスで楽しんだ人たちと私も同感だ。

でも、私は年をとり過ぎてしまったのだろうか、がつ~んと私の心に響かない。

題材は今様で、ストーリー展開には工夫がみられる。この辺りが携帯サイトで好まれた原因なんだろう、とは理解できる。繰り返す、初老の私には、がつ~んとこないと満足しないのだ。

そんなことを言いながらも、前々回の私のブログ「紫煙と文士たち 林忠彦」の中で、40余年前のこと、私が夢中で田中英光の「オリンポスの果実」を読んだことを紹介した。この淡い恋愛小説もさほど評価されなかったが、私はハラハラ、ドキドキして読んだもんだ。主人公のような恋愛に強烈に憧れたのだ。

読み終わって、これは若者向きの映画にピッタリだと思ったら、やっぱり監督・行定勲、出演・沢尻エリカ、伊勢谷友介、竹内結子で映画化され、2007年9月に東宝系で公開していた。

 

ーーー後々のために、粗筋をここに著しておくことにしたーー

教育大学に通う堀井香恵は、小学校の先生を目指している。学校では、マンドリンのサークル活動、空いた時間は文房具屋さんでアルバイトに励む、普通の女子大生だ。

引っ越してきたアパートの部屋の収納の隅っこに、前の住民が置き忘れていった1冊のノートを見つける。手にとる心算はなくそのまま放置して置いた。

そんなある日、アパートに戻ってきた香恵は、自分のアパートを前面の道路から見上げている男に気付いた。白いシャツを着た若い男で、自転車に乗っていた。

そのうち、この若い男が、アルバイト先の文房具屋さんの万年筆フェアにやって来た。その後も何度か来店して、各種の万年筆を試し書きしているうちに、この若い男は新進のイラストレーターで、名前はリュウと知った。

そんな折、リュウは香恵にモデルになってくれと頼む。それに部屋を見せてくれとも言う。今度の展覧会用の絵の創作のために、アパートのベランダにいる姿を、外の道から写真に撮らせて欲しい、と。

リュウとこのアパートには何らかの繋(つな)がりがあるようだ?と勘繰る。

香恵は、気になるノートを、見てはならぬものと思いながらも、垣間(かいま)見たい衝動にかられ、ついにそのノートを開いてしまった。ページをめくってみる。ノートは日記だった。書き手は、香恵にとって憧れの職業の小学校の教師だ。先生の名前は、真野伊吹。

自らの病気と戦いながら、新任として初めて担当したクラスの生徒たちとの充実した交流が書かれていた。子どもたちに囲まれた伊吹の写真に心が和む。不登校の女の子とその母親との微笑ましい交流など、ひたむきな伊吹の生き方に憧れる。持病の喘息にもめげずに奮闘する伊吹を励ました。

ノートには、大学時代の友人・隆との恋愛が思うように進展しないもどかしさも切なく記されていた。大学時代には、友人としての付き合いだったが、社会人になってからは、もう少し進んで恋愛の意思を伝えたいと思っているが、なかなか、巧く相手に伝わらない。ところが、春休みを前に急展開しそう。二人で旅行をしようなんて、話題に上りだしたのだ。恋に悩み恋に励む伊吹先生。

伊吹の恋の成就を願いながら、自分はリュウに魅(ひ)かれていく。が、一方では香恵に好意を寄せる男が近づくが、香恵はこの男を遠ざけ、リュウに寄せる思いが徐々に高じていく。

リュウから、香恵がモデルになった絵も出展するので、自分の個展に来てくれないか、と誘われる。リュウにとっては、イラストレーターとして、自分の作品を関係者がどのように評価するか、試される場でもある。

香恵は、リュウから個展会場で、マンドリンを弾いてくれと頼まれる。リュウのためになるならばと、快く承諾した。

リュウには、代理店の社員で星美という女性が、マネージャー役のように付きまとう。リュウと星美の関係に、香恵は嫉妬に似た感情を持ち始める。星美は、大人の色香をにじませた綺麗な女性だ。仕事における星美の発言は、実に要領がいい。リュウにとってどういう存在なのだろうか。二人は恋愛しているわけでもなさそうだが。

日記で、伊吹は、自分の気持ちが隆に向かってドンドン進んでいくのに、現実は足踏み状態だと嘆く。香恵もまた、同じようにリュウに恋心を抱くものの、なかなかうまく進まない。

星美から、香恵がモデルになって描かれたものだと思い込んでいた絵の人物は、実はリュウが今でも愛し続けている女性を描いたものだと知らされる。

そして、絵に添えられたサインが隆で、集まった人たちはリュウと呼んでいる。ノートの中の、伊吹が愛し続けていた石飛隆の、隆は香恵が勝手にタカシと呼んでいただけだったのだ。隆とリュウは同一人物だったことに、はっと気付く。

伊吹から、香恵さんやっと気付いたのね、と聞こえてくるようだ。

終業式の前の日、隆の誕生日に寄せる文章を書いてみる、と書かれたところで日記は終わっている。

読み終わった日記を伊吹に返そうと、勤務先の若草小学校を訪ねた。下校中の生徒に、終業式の日に伊吹先生は交通事故で亡くなったと知らされる。

個展の初日に、香恵ではなくリュウが愛した女性を描いた絵を、リュウが途中で失くしてしまった。駅のゴミ箱で見つけた香恵は、絵の中の真野伊吹に会った。感動が涙になって溢れた。

個展会場では、お祝いの挨拶が順番に行なわれ、香恵にも順番がまわってきた。これからお話しするのは、私の言葉ではありません、私の部屋に残されたノートに書かれていた言葉です、愛する人の誕生日に向けられたものですと前置きして、真野伊吹の言葉を石飛隆に、できるだけ一字一句間違いないように話した。

石飛隆は、絵の中の伊吹を見ながら、はらはらと涙を流した。

2012年2月19日日曜日

思わぬ、里芋の収穫だ

里芋 003

昨年の初夏の早朝、自宅の周りの農道を散歩していて、広い畑の隅っこに、捨てられていたサトイモ(里芋)のクズから、新しい芽が伸びているのを見つけた。

どの芋も腐って欠けていたが、腐っていない部分から、濃い緑の葉柄が勢い良く伸びていた。瑞瑞(みずみず)しい、幼芽も脇から出ている。しめしめ、この元気者を捨てて置くことはないぞ。芋の部分はジャガイモ同様、茎だ。

このような類の光景に、生来、私の感性は激しく反応するのだ。どのように反応するかって?そりゃ、実家が百姓の子せがれだ。育てて食いたい!!と直感した。この芋を頂戴して、イーハトーブの果樹園に移植することを思いついた。

イーハトーブの果樹園の名は、宮沢賢治さんが命名(私が勝手に、思い込んでる)してくれた。果樹だけを植えていて、それなりの収穫が得られるまでに育っている。でも、まだどれも背丈は低く、空地がそれなりにあって、その空地利用を考えていた矢先だった。

樹木の間の空地を深く耕して、瓜系のキュウリ(胡瓜)、カボチャ(南瓜)、トウガン(冬瓜)を植えた。これらは痩せた土地でも、十分育つことを知っていた。他に、芋系としてはジャガイモは長く放(ほ)っぽらかした酸性度の強い土地には不向きで止(や)めた。大好きなサツマイモ(薩摩芋)が良かったのだが、その苗を買う機会を失った。そこで、棚からぼた餅、拾ってきたサトイモを2本植えた。友人から牛糞を貰って根元にばらまいた。他に、宿根草のフキ(蕗)と種子の飛散で増えやすいシソ(紫蘇)を植えた。手間がかからないで、自然に増えることを期待しての選択だ。

その後、瓜系のものは存分に育ち、有り余る収穫が得られた。時々寄るうどん屋さんにも、貰ってもらった。日頃のサービスのお返しだ。

そして、先日、キンカン(金柑)とキノメ(木の芽)を新たに植えに行った時に、サトイモの植えてあった地面が盛り上がっているのに気づいた。冬になって、ズイキ(芋茎)は枯れ果て、サトイモの存在に気付かなかったのだ。ズイキとは、サトイモの葉柄のことだ。 

それまでに、何度も果樹園に行ったが、収穫することを思いつかなかった。ズイキだって、皮をはがして煮物などにできたのに。私の母は、ズイキを乾燥させて、煮物にしていた。

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葉身は、盾形や、卵やハートの形で団扇の2、3倍の大きさになる。表面はろう質が分泌されていて滑らかで、水を弾き易く、水滴が表面張力によって球体になることを、学校で習った。その際の教材によく使われた。

何十年か前のことだ。四条河原町の南座の道路向かいの京料理のお店「味舌」さんで食事をしたとき、水滴に濡れる葉身の上に、小さなお団子をのせたものがでてきて、その発想の豊かさに感心した。今は、随分、昔のことになってしまった。

上の写真は、今回、収穫したサトイモだ。

どのように料理しようか、楽しみだ。この芋を見た、料理好きの弊社の経営責任者の中さんは、筑前煮ができますね、と言いながら通り過ぎたが、私には、筑前煮と言われても、直ぐには思い浮かばない。

私の田舎では、サトイモの親株が大きくなった芋のことを頭芋(かしらいも)と呼んでいた。正月のお雑煮に、その頭芋を拳の大きさに切って、白味噌の汁に他の具と一緒に入れる。祖母は、孫たちに大きくなったら、お頭(かしら)になるんだよ、と毎年言っていた。頭芋の周りに小芋がいくつもくっ付いて成育することから、一家が頭を中心に仲良く繁栄するようにと、頭芋に幸運を託して祈った、そのように新年の腹を満たした。

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母が、サトイモを「芋の子洗い」をしていたのを思い出した。桶にサトイモをできるだけ隙間なく入れて、棒でかき回すと、棒と芋がぶつかり合ったり、摩擦し合って、皮がむけるのだ。サトイモの皮は、柔らかくて、容易にはがれた。田舎では大所帯だったので、此のぐらいのことをしないと、間に合わなかったのだろう。このようなことから、電車などで混み合う模様を、芋の子を洗うような、と表現するようになったようだ。

2012年2月18日土曜日

命懸けの電車の屋根客

うひゃ!! これって、命懸けだ、と新聞の記事を見て驚いた。

これって、どうなっているんだ、と記載の写真と記事を凝視、読んでみて、ようやく理解できた。

電車の屋根の上に、金を払わなくてスリルを楽しみながらの移動と洒落込む? 同好の士らの、ジャカルタ鉄道の平常の様子だ。命懸けの無賃乗車。それにしても、どこで、どのようにして、たくさんの人たちが高い電車の屋根の上に乗るんだろう?その乗り方を知りたい。滑稽で、憎めない光景、ちょっと楽しそうだなあ、と言えば叱られるだろうか。

かって日本でも、終戦直後の混乱期には、電車の込み方は異常だったらしい、でもその実体験は私にはない。写真報道やニュース映画として、知っているに過ぎない。車内は殺人的に込んだのだろうが、インドネシアのような光景は知らない。

この写真は、ゲ!ン?ザ!イ?のインドネシアの光景なのだ。

インドネシアの人口は、日本の約2倍、世界第4位の2億3千万人。GDPは日本の10%程度。基本的には農業国だけれども、鉱業資源に恵まれていて、今後の経済発展は十分に見込めるが、まだまだ投資環境において抱える問題は少なくない。首都ジャカルタの中心街の風景はまさしく都会で、高層のビルが群立しているものの、その他の地域においては、なかなか、大変な国情であるようだ。

この20120214の朝日新聞の記事が、今のインドネシアのことだと知れば、やはり、現在のインドネシアの一断面としてマイファイルしなくてはイカンわいな。

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インドネシア鉄道

屋根の客ブロック

放水・滑る油⇒5キロのコンクリ球

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(屋根の上にたくさんの人が乗るインドネシアの鉄道=ジャカルタ AP)

 

朝の通勤ラッシュ時に列車の屋根に上る乗客が絶えないジャカルタで、業を煮やした鉄道会社が珍作戦を次々と繰り出している。無賃乗車やスリルを求めてなど理由はさまざまだが、どうしても上がりたい乗客側と、下ろしたい鉄道会社側との攻防戦になってきた。

政府が株式100%を持つインドネシア鉄道会社のアフマド・スジャディ安全部長(49)によると、2010年は43人、11年は37人が屋根から落ち、計15人が死亡した。数百人が屋根に座る光景は名物だが、鉄道会社にとっては「危険きわまりない犯罪行為」だ、

同部長がこの2年間で試みた作戦は数多い。最初は放水だったが、「レインコート姿の乗客が続出して失敗」。次に、滑って上がれないように油を塗ったところ、「車両管理部から、電気系統がショートして火事になると怒られた」

先月に「ゴールド・ボール作戦」を遂行し、線路にサッカーゴールのような枠を設け、屋根ぎりぎりの高さに一つ5キロもあるコンクリート球をつるした。「頭に当たったら死んでしまう」と苦情が相次ぎ、上がる乗客は激減。だが、ヘルメットをかぶる強者もいた。

現在、実験中なのは「擬似トンネル作戦」。列車が通過する時、屋根すれすれの位置に鉄板をつけた枠を設置する。「それでもだめなら、汚水をひたしたモップをつける悪臭作戦を考えている」という。

(ジャカルタ=郷富佐子)

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(乗客が屋根に乗らないようにコンクリートの球が線路上につるされた=インドネシア鉄道会社提供)

2012年2月15日水曜日

紫煙と文士たち 林忠彦

 

20120215 今日は水曜日で、弊社の営業部の休日だ。

スタッフの細が、磯子区丸山で検討している物件を、朝一番で下見をした。それから西区境之谷の新築現場を見て、友人の和さんに、仕事で荷物を運ぶのにワゴン車を貸してくれと頼まれていたので、9:00に会社に着いた。

休日だけれど、川崎市麻生区東百合ヶ丘の中古住宅の売却の契約があるので、営業の佐だけは出勤だ。

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昼少し前に、新聞のスクラップを終えて、今日最大のイベント『「紫煙と文士たち」林忠彦 写真展』を観に、渋谷にある「たばこと塩の博物館」 4階特別展示室に向かった。

この写真家・林忠彦氏には、とりわけ作家たちのポートレイトを撮影したものに秀作が多いので有名だが、この写真展を主催しているのが日本たばこ産業の「たばこと塩の博物館」で、当然といえば当然のことなのかもしれないが、被写体の作家の多くが紫煙をくゆらせている。煙草屋としての煙草礼賛は当たり前だのクラッカーだ。実際に、昔、煙草の専売公社だったときに、彼に宣伝用の煙草を撮ってもらっていた。

どうも、この辺だなあ、煙草屋と文士と、この写真家の関係は。

私が大学生だった4年間、太宰治と織田作之助、坂口安吾、田中英光、それに檀一雄を徹底的に読み耽った。今回、この企画を知った時から、会場に足を入れるまではそわそわした気分だった。四(よっつ)昔前の、恋人に会う心境だった。

珠玉の小説「オリンポスの果実」の田中英光が、敬慕していた太宰を真似て、同じバー「ルパン」のカウンターの前で、健康的な表情で写っていたのが、印象的だった。そのカウンターで撮られた太宰は死んで、織田作も死んだ。同じ場所で撮ることを嫌がる林忠彦氏に、自分も同じ所で同じ様に撮って欲しいと田中英光は強くせがんだ。幼心をも併せ持つ大男だった。写真家は断れなかった。その後、田中英光は太宰の墓の前で服毒、手を切って自殺した。

田中英光は、早大在学中に、ボートの選手としてロサンゼルスオリンピックに出場している。向かう船上で知り合った走り高跳びの秋ちゃんとの淡い恋愛を小説にしたのが「オリンポスの果実」だ。この題名は、太宰が考えた。文学作品としての評価は私にはお構いなし、夢中で読んだ。私も同じ大学で、どっぷりサッカー部漬け、田中英光のような恋愛に憧(あこが)れていたのだ。ボートは気で漕げ腹で漕げ、だ。

林忠彦の写真として、この無頼派シリーズ以外も秀作揃いなのだろうが、私には、彼ら以外に関心がない。1時間ほど、彼らの写真の前、後ろ、横で、しゃがんだり、背伸びしたり。写真家の作家たちとの縁だとか、関係だとか、作家の性格や癖、撮った前後の様子、私生活の一部などの林忠彦氏の小文が添えられていた。

きちんと読んで、私の中に、長く眠っていた無頼派を眠りから覚めさせようと努力した。変な奴と思われないようにウロウロしては、彼らの前に戻ってきた。そんなことを何度も繰り返した。

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展示室内は、写真撮影は禁止されていたが、上の写真だけは、この椅子に座って撮ることはいいですよ、と案内されていた。

私は、写真を観に来た人に撮ってもらうわけにはいかないので、田舎から出てきたもんで、と1階の受付の女性に言って、撮ってくれるようにお願いした。快く了解してくれた。どうしても、記念写真にしたかった。

林忠彦。昭和を代表する写真家の一人だ。戦前から報道・宣伝写真のカメラマンとして活躍し、終戦後は混乱期の街頭やそこにたくましく生きる人々を捉えた写真、小説家などのポートレイトを撮影し、人気写真家として知られるようになった。特に戦後の文壇を賑わせた「無頼派」の作家たちの写真は、林忠彦の代表作として知られるのみならず、多くの人が思い浮かべる個々の小説家のイメージにもなりました。

銀座のバー「ルパン」の狭いカウンター席で時代を謳歌するかのような風貌の織田作之助や太宰治、雑然と散らかる書斎でレンズに対峙する坂口安吾の姿など、背景も含めて多くの人の記憶に残る作品群になっています。(たばこと塩の博物館のホームページより)

 

林忠彦さんのそれぞれの作家の写真に添えられていた小文は、朝日新聞20120203に広告の一部として載せられていたので、その文章をここに転載させてもらう。林氏の「文士の時代」から抜粋したと記されていた。

 

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織田作之助

織田作之助は、僕が文士を撮りつづけるきっかけになった作家ですが、彼が酒場「ルパン」に来はじめたころ、僕には彼が実に異様に見えました。言葉は大阪弁だし、当時珍しい革のジャンパーを着込んでいるし、それで長髪で、顔面蒼白で、なあんとなく昔の作家とちがうイメージがあふれていましたね。チラッチラッと気になって見ていると、やたらに咳き込む。ハンカチにパッと咳き込んで痰を出すと、血痰が出ているように見えたんですね。あっ、これはいけねぇな、と思いました。この作家は、あまり長くないから撮っておかなければ、と思いました。

 

 

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太宰治

ある日、織田作之助をバーのカウンターで撮っていると、反対側に安吾さんと並んで座っていた男が、ベロベロに酔っ払って、「おい、俺も撮れよ」って、わめいていたのです。うるさい男だなあと思って、「あの男は一体何者ですか。うるさい酔っ払いだなあ」って訊いたら、「あれが今売り出し中の太宰治だよ。撮っておいたら面白いよ」って、誰かが教えてくれたのです。四十年経って、いまだにこれが僕の代表作といわれているのは、なんとなく成長していないなあという気分があって、いつも気恥ずかしく思いますが、やっぱり写真っていうのは、ある程度、材料のよさ、モチーフのよさが決定するところがあるんですね。撮る側よりも写される側の力が強いっていうことの証拠でもありますね。本当に、この太宰治の一枚の写真ぐらい不思議な写真はありません。

 

 

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坂口安吾

部屋中、一センチはほこりがたまっていました。万年床で、綿がはみ出して、机のまわりは紙クズの山。そのなかに洋モクはどこにあるのかって懸賞がついたものです。でも、原稿の文字は実にきれいでした。さすが作家とは違うものだとぞくぞく興奮して、崩れそうな出窓の上に乗っかかると、グラッ、ミシミシって折れそうな音がしましたが、夢中になって撮りました。そのときのことは安吾さんが随筆に書いています。

 

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2012年2月13日月曜日

快晴、楽しい地鎮祭でした!

20120211 14:00から、私の二女夫婦の住宅新築工事の地鎮祭をとりおこなった。生気に溢れた地鎮祭だった。

この地には、2週間前までは私たちの家が建っていた。私の家が壊されて、そこに、今度は二女夫婦たちの家を建てることになった。建築主は竹ちゃんだ。施工会社は我が社パラディスハウス、設計者は長年の友人関口直史氏だ。

一昨年は、同じ設計者と同じ施工会社で、この現場から150メートル離れた所に、長女・実たちが家を建てた。施主は長女のご主人の森さんだ。

私の娘や息子たちとその相方たちは、建設的に力強く生きている。新しい、生命が生まれている。実に真剣に家族を、家庭を創りあげている。

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孫・晴、長男・草が加わっての記念写真

 

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私と中さん親子、関口氏はこの後仕事に向かった。  上下の写真は弊社・桜、撮影

 

猿田彦神社の神主さんによる地鎮祭だ。

猿田彦大神は、ものごとの最初に出現して万事「善いこと」へお導きになる大伸だ。天孫を導いた後、伊勢の地を本拠として国土の開拓を指導した、と猿田彦神社公式ホームページにあった。その大神さまに、弊社の工事担当者の桜は心酔していて、彼が担当する全ての企画において、この大神にお世話になっている。

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施主・竹ちゃん

 

先日、私らが長年暮らしてきた住宅の解体最中に顔を出した。壊されていく我が家を見て、何とも言えぬ寂寞(せきばく)たる想いで、暫(しば)し、呆然(ぼうぜん)としてしまった。

家人に寂(さみ)しいなあ、と声をかけたら、彼女は泣いていた。

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施工会社・中さん

 

それにしても、大勢の若い人たちが参加した地鎮祭だった。私は、この血縁集団の中で、か細い1本の間柱に過ぎないと実感した。もう、すっかり、脇役の脇役だ。家人は、老いては若い人に従わなくっちゃ、と言っていた。

この世代交代を喜べばいいのだろうが、複雑なおもいだ。

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孫・晴

 

二女の息子・晴が、翌日の音楽教室の発表会の打ち合わせのために、遅れて地鎮祭に参加した。その晴の送り迎えは、久しぶりに日本に帰ってきた長男・草が付き合ってくれた。

二人は、丁度、神事が終わって記念撮影も終わったときに戻ってきたので、二女は自分の息子・晴にもお祈りをさせたいと神主さんに申し出た。

気のいい神主さんは、付録というか、延長というか、再び大神さまに降臨を願って、きちんと正式な神式にのっとって、お祓いをしてくれた。

孫・晴は、全員衆目のなかで、恭(うやうや)しく頭を下げながら、神主さんの祝詞を「適当に、ぐじゃぐじゃ、言っているんじゃないの」なんて口走りながら、神妙な顔をしていた。

2012年2月12日日曜日

今度こそ相撲改革、北の潮親方

30日、任期2年満了による日本相撲協会の理事選挙が行なわれ、その後の理事会で、満場一致で北の潮親方(58)(元横綱 本名・小畑敏満)が第12代の理事長に選ばれた。

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北の潮親方が、理事長在任中、2007年7月、時津風部屋で兄弟子や親方による集団リンチで序の口力士が死亡。この傷害事件で、元双津竜(前時津風親方)は愛知県警に傷害致死で逮捕された。

2008年9月、ロシア力士の大麻事件が世間の耳目を集めたなかで、事件の対応が批判の対象になった。責任者としての統治能力、自覚が乏しいと、理事長の座を追われるように辞任した。

継いだ武蔵川親方(元横綱三重ノ海)は、20105月に端を発した大相撲野球賭博問題で辞任、元東京高検検事長の村山弘義氏が代行、放駒親方(元大関魁傑)が理事長を継いで、今回の改選になった。この間に、何らかの改革の芽は生まれたのだろうか。表面的には何ら変わったようには見えない。

北の潮親方は、理事長辞任後も、、2011年4月には、弟子が八百長事件に関与したことを受けて、理事から役員待遇委員に降格した。

脛に傷だらけ、引責辞任が喉元を過ぎてもいない元理事長の北の潮親方だ。そのお方が、今回、理事長として再登板したというのだ。憤飯と言えば、叱られるかな。

現行の制度では、協会運営の人材不足はしょうがないのだろう。現役時代の最年少の21歳2ヶ月で横綱になったこと、幕内で最高優勝24回の成績が、投票する者にトラウマになってはいないだろうか。力士として残した成績は、他を圧倒するものがある。

再登板となった北の潮新理事長は、神妙な顔で記者会見を行なっていたが、果たして、相撲改革にきちんと取り組めるだけの統治能力が発揮できるのだろうか、その表情を窺いながら、不安を感じた。

先ず迫っているのが、日本相撲協会を公益法人へ移行するために年寄名跡(親方株)をどうするかといった問題だ。

問題が余りにも多くて、今後の改革には、相撲社会どっぷりの人たちだけでは、どうにもナランと思う。所管の文部科学省、知識人が加わった何とか委員会を発足して、組織を一旦、全てを壊わさないと、アカンのではないか。組織や運営方法の改編、親方株などに象徴される従来からの制度の見直しについて、下の新聞記事はヒントを与えていると思ったので、ここに転載、引用させてもらった。

日本相撲協会の「ガヴァナンスの整備に関する独立委員会」副座長の慶応大学教授・中島隆信氏が、20120207の日経新聞・33面「スポートピア」で指摘している問題点の、今後の行く末を見守りたい。

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八百長を擁護するわけではないが、そもそも大相撲の魅力は白黒つけがたい「曖昧さ」にあると考えている。たとえば、力士のランキングを表する番付は、テニスやゴルフのようにはっきりした算定基準がない。

他競技に先駆けて導入したことで有名なビデオ判定もその一つだ。普通ならば勝ち負けがより明確化するはずなのに、物言いがついてビデオを参考に協議した結果、しばしば「同体とみて取り直し」となる。野球ならばフェアかファールか微妙なので「投げ直し」を命じるということだ。立ち合いにしても、陸上競技のようにスターターピストルが鳴るわけではない。両力士が呼吸を合わせて自発的に立ち上がり、初めて競技がスタートするのである。

こうした曖昧さは他のスポーツにはなく、文化的色彩の強い相撲ならではの魅力ともいえる。

しかし、望ましくない曖昧さもある。相撲部屋の師匠が勝負審判を兼ねているのはどうだろうか。監督やコーチが自分のチームの試合で審判を務めているようなもので、真剣勝負に対する公平な裁きが担保されているとは到底思えない。審判部の専権事項である番付編成は、審判員が自分の弟子に有利になるように昇降を決めているのではと疑われても致し方あるまい。

組織運営を見ても、協会の理事と師匠の兼務には問題がある。これまでの数々の不祥事は、協会による相撲部屋へのガヴァナンスが甘かったことが根本的な原因だ。率先して改善に取り組むべきなのに、今回も協会は相も変わらず従来通りの方式で理事選挙を実施した。

大相撲の良き曖昧さを文化的価値として認めてもらうためにも、あしき曖昧さを改善していく知恵が協会に求められている。

2012年2月11日土曜日

粋な計らいだ、日本サッカー協会

日本サッカー協会は、粋な計らいを企ててくれた。そのことに触れたい。

その1は

今年の全日本大学選抜チームの遠征で、インドネシアに行くことにした全日本大学サッカー連盟の判断のことだ。

私がかって所属していた大学は、長年に亘って立派な選手を輩出し、日本のサッカー界の屋台骨をを支えてきた。プレーのみならず協会運営においても然りだ。

40余年前のことだ。私が寝起きした合宿所のベッドの奥の収納庫の扉には、ワセダ、ザ、ファーストと落書きされていた。プレーヤーとして、日本サッカー協会の本部や地方のスタッフとして、後年、素晴らしく多大な功績を残した大先輩の、若かりし頃の野心がほとばしる落書きがあちこちに残されていた。若者らしい筆致で。私は、その息吹を感じながら、4年間を過ごした。

ところが、どっこい。それから20年後、我が大学はスピードを加速して、一部の上位から二部へ、さらにその下部リーグに転落した。短い期間の、あれよあれよの転落に、現役選手は当然、OBたちも青ざめた。

そのようなどん底時に、後輩たちと酒を酌み交わしては、私は大学サッカーとは斯(か)く斯く然然(しかじか)であらねばならない、と話したことを、今回の全日本大学選抜チームのインドネシア行きのニュースを聞いて思い出したので、この稿を書く気になった。

Jリーグが発足してから、多くの優秀な選手たちは大学へ進学しないでプロ契約をしてリーグに参加した。その結果、大学サッカーの存在が薄れた。そのような環境下でも頑張る大学、強化を進めた大学も現れ、溜飲したものだ。後に、大学のサッカーチームに所属しながらJリーグの試合にも出られるような制度が作られた。

大学でサッカーに没頭するということは、唯、単にサッカーをするだけではなく、政治や経済、法律、文学、理工など各分野で高等教育を受けながら、将来の教育者、指導者、立派な社会人になるための人材養成機関でもあるんだよ、と言い続けてきた。私は、大学の4年間で少なからず人格の重要な部分を育て上げてくれた。

そんな彼らを、学生だからこそ遠征を通じて学ばせたいことがある、との連盟の思いが粋だ。インドネシアは昨今の経済発展には目を見張るものはあるが、まだまだ発展途上国だ。そのような国を自分の目で見つめ、逆に、日本はどのように見られているかと感じとる。遠征中に、インドネシアの子どもたちを集めてサッカー教室を開催、指導に当たらせる、とも聞いた。中古のサッカーボールを土産に持って行く。欧米の先進国への遠征では得られないものを、きっと学びとることだろう。

 

その2は

8日、日本での開催が政府承認された女子のU-20(20歳以下)ワールドカップの会場を、決勝と準決勝は東京・国立競技場で行うが、それ以外の試合会場をFIFAの強い要望でもあったが、宮城や福島を候補地にする計画案を国際サッカー連盟(FIFA)に提出したことだ。開催日などはまだ決まっていない。

被災地の人々にサッカーの醍醐味を楽しんでもらいたいとの配慮と、地元経済の活性に少しでも役に立てればとの計らいだ。被災地の今までは、とりわけスポーツに縁の薄かった女性たちにも、頑張る日本の女子サッカーを見てもらいたい、との意図なのだろう。

この大会は当初、ウズベキスタンで開幕する予定だったが、FIFAのインスペクションの結果、準備等に不備が見受けられ、代替会場が健闘されていた。大会には大陸予選を勝ち抜いた16チームが参加する。

昨季、なでしこジャパンはワールドカップを制し、日本中を元気にさせてくれた。主将の沢穂希は、アジア人史上初のFIFA最優秀選手賞(FIFAバロンドール)を得た。その結果、日本女子サッカーリーグ(1部はなでしこリーグ。2部はチャレンジリーグ)の試合には多くのファンが駆けつけるようになり、俄然、注目度が上がった。

嬉しいことに、次代を担う若い世代が育っていることだ。日本での女子の競技人口は,まだまだ少ないけれど、Jリーグから受けた影響は大きく、ますます強くなることだろう。昨年のU-19アジア選手権で、日本は優勝している。

日本の女子サッカーの進化と人気の盛り上がりが続けば、サッカー文化がますます大きく花開くことだろう。期待したい。

今さら? 復興庁発足

下の文章は、20120210の日経新聞朝刊、3面(総合)の一部と1面(春秋)をそのまま書き写したものです。

復興庁発足について、後々のためにも、この記事を書き写して保存することには意義があると思った。

今さらっ、と思うほど対応が遅いのと、運営について不安な要素を抱えながらのスタートのようだ。成果は、終わってみないと何とも言えないが、どうか、スムーズに大いに被災地や被災された人々のために働いて欲しい。

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復興庁発足、「縦割り」の壁

省庁への勧告、強制力なし

被災地の要望に一元対応

 

東日本大震災からの復興の司令塔を担う「復興庁」が10日に発足した。

省庁ごとの縦割りを排し、被災地の要望を一括して受ける。9日には、岩手、宮城、福島の被災3県の来年度予算も出そろった。ただ、震災から約11ヶ月を経て誕生した同庁に対しては、権限などの面で力不足との指摘もある。復興事業の加速を必要とする被災地には「二重行政に陥るのでは」との見方は多い。

漁港は水産庁、土地のかさ上げは宮城県、下水道や上水道は市の担当部局ーーー。所管が違い、復旧に向けた意見調整に時間がかかるためだ。石巻市職員は「総合的な窓口があれば複雑な事業が前に進みやすい」と言う。

復興庁は3県の県庁所在地に置く復興局などを通じ自治体からの要望や相談を受ける。「ワンストップ(1ヶ所)対応につなげる」(藤村修官房長官)ことで復興を早めるのが狙いだ。復興交付金の受付や、税制で産業振興などを促す復興特区の認定も手がける。

しかし、本当に復興の速度を上げられるのか、被災地には疑問の声が多い。理由の一つは権限だ。被災地と各省庁の意見が合わない場合、復興相はその省庁に勧告できるが、強制力はない。

「2月中に具体的な対策に移していきたい」。前田武志国土交通相は9日の衆院予算委員会で、被災地で公共工事の入札が成立しない「入札不調」への対策に乗り出す方針を明らかにした。ただ人手不足から入札不調が頻発し、復興が滞り始めたのは昨年11月からだ。

こうした対応の遅れを復興庁に相談しても「所管省庁を本当に動かすことができるのか」(政府関係者)との懸念は強い。被災地でも「結局は復興庁と所管官庁の両方に働きかける必要があるのではないか」とみる。

復興支援金の配分では、政府方針と被災地の要望との食い違いを調整することが急務だ。事業総額2,3兆円のうち1月末時点でまとまったのは5千億にとどまる。1月に政府の東日本大震災復興対策本部の担当者が市町村を回り、事業を厳しく査定した。

全額国費で賄われるため、安易に使われないよう「チェックするのは当然」(復興本部)。だが自治体からは「国は自由度の高い交付金を配ると言っていたのに、今までの補助金と何も変わらない」との不満も漏れる。

 

「春秋」

明治初めの西南戦争、国内最後の内戦は、薩摩軍が率いた西郷隆盛の自決で幕を閉じたが、新たな闘いが続いた。凱旋した政府軍兵士にまん延したコレラだ。猛威をふるう疫病。その闘いの中に、ひとりの若い医師がいた。後藤新平だ。

後に大物政治家として知られる後藤は、若いころには西洋医学を学んだ。西南戦争ではコレラとの闘いで地獄をみた。その体験から、なにより予防を重んじ、病が起きたら迅速な対処が大切として「健康警察医官」の創設まで提言した。日清戦争では疫病のまん延を防ごうと、帰還兵への大がかりな検疫に奮闘した。

恐らく、こんな経験が行動を促したのだろう。関東大震災の直後、内相の後藤は東京大改造構想を唱え、わずか1ヶ月弱で帝都復興院を立ち上げた。自ら総裁になった。「計画が1日遅れれば、実行は百日遅れる」との焦り。そして「後世の子孫に再び同一の惨禍に遭遇させる危険」を防ごうという思いがあった。

東日本大震災から11ヵ月後、復興庁がきょう発足する。帝都復興院と比べてあまりに遅かったが、より重要なのは子孫のため、どんな実績を残すかだ。後藤の壮大な構想は財政不足や内閣総辞職でとんざしたものの、都内には昭和通りなど主要幹線、避難場所となる隅田公園など、その片りんはいまも残る。

2012年2月2日木曜日

復元納棺師  笹原留似子さん

20120131の朝日新聞・朝刊「ひと」を読んだ、瞬間、目頭が熱くなった。

東日本大震災で傷ついた遺体の顔を、元の通りに復元して納棺する復元納棺師、笹原留似子さん(39)の現地でのボランチア活動のことだ。

このような活動をして人がいることを、初めて知った。凄い。私の知識や想像力が、如何に偏狭(へんきょう)か、と思い知らされた。

昨秋、我が社のスタッフ・浅の叔父さんの葬儀で、浅は「おくりびと」の仕事を目の前で見せられて、映画そのものだったことを、感動しながら話してくれた。でも、私の知るところは、それまでだった。

そこに、この新聞記事だ。

この震災で笹原さんが手がけた遺体は400人を超える。津波による損傷は大きく、子どもらに親の遺体を見せられないで困った家族が多く、彼女の活躍は非常に感謝された、と知った。

笹原さんは、札幌の小学校の低学年だった時、通っていた教会で、バングラデシュで医療に従事していた長野の新生病院の医師・宮崎亮(まこと)さんから、バングラデシュでは多くの孤児たちが餓死していると聞かされ、使用済みの切手があれば、それでワクチンが買えて、子供たちの命は救われる、と教えられた。早速、通っていた小学校で大量に集めた古切手を宮崎医師に手渡して、驚かせた。

引っ込み思案だったこの少女は、この体験から大いに影響を受けたのだろう、その後は、巫女(みこ)になり、ホスピス病棟で末期患者を看取る仕事に従事し、そして、今の活動につながっていく。

★この記事はどうしても、マイポケットにしまい込みたくて、無断転載させてもらった。

 

震災犠牲者の遺体を復元し納棺してきた。 笹原留似子(るいこ)さん(39)

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震災で亡くなった約400人の遺体を復元し、納棺するボランチア活動を続けてきた。岩手県沿岸の遺体安置所で、死者に在りし日のほほ笑みを追い求めてきた。

全国でも数少ない復元納棺師。

表情を失った顔に元の笑みを戻す。心で呼びかけて顔に触れる。見えなかった笑いじわが出てくる。鼻の高さや眉毛の位置が分る。日々、人形で復元の技術を磨き、表情を探り当てる手を「ゴッドハンド」と呼ぶ人がいる。

損傷がなく、死後間もなくなら、20分程度で終わる。しかし、1週間も経つと厳しい作業になる。震災から43日後に見つかった遺体の復元には3時間かかった。

映画「おくりびと」の納棺とは異なり、遺族の参加を目指している。触れたい。添い寝したい。話したい。そんな希望をかなえるには復元がかかせない。培ってきた技術が、遺族と悲しみを分かち合い、寄り添う力になった。

岩手県北上市から被災地の安置所に出向き、活動を連日ブログで発信した。支援の輪が広がり、ほお紅や口紅が届いた。福島県から埼玉県に非難した小学生は150円の脱脂綿50グラムを送ってくれた。

30日、社会に貢献した人をたたえる今年度の「シチズン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、こうあいさつした。「お別れの場で、陰でお手伝いをした。遺族の深い悲しみが勇気に変わりますように」

(文・但木汎 写真・葛谷晋吾)

2012年2月1日水曜日

めだかの学校で、ハブ ア ランチ

20120131(火) 今日は1月最後の日だ。

経営責任者の中さんと、茅ヶ崎東海岸、寒川大曲の物件を見て、最後に小田原の物件の下調べをした。全て中古の住宅だ。小田原城の堀に沿った道を進むと小田原競輪場がある。何で、こんな所に競輪場があるんだ、不思議だ。物件はその直ぐ傍だった。今回は、物件のことには触れない。

昼飯のことを話そう。

この二人は、共に朝早く行動するパターンが共通していて、朝飯が早く、当然昼飯も早い。会社内での仕事の時は、11時にもなれば、二人は昼飯の準備に入る。弁当を持って来る時もあれば、安い弁当を買って来て、インスタントラーメンを添えて済ますこともある。二人は申し合わせたように、11時頃になると、流しで、ガスコンロや電子レンジの前で顔を合わせることが多い。

そこで、本日の二人の昼飯のことを公開しよう。

私は、今日は朝から遠くまで物件の調査に行こうと、前日、中さんから言われていたので、朝、弁当を作った。チャーハンの上に、薩摩芋と南瓜(カボチャ)の輪切りにしたものを2切れづつフライパンで焼いて、それをのせたものだ。

中さん用には、昨日、月曜恒例の昼のカレーの余ったご飯で、管理の和さんが焼きお握りにしてくれたのを、私がすかさず3個ゲットしておいた。ぎっちり握られた大きなお握りだ。

下見を終えての帰途、小田原厚木バイパスを通るので、その途中に「めだかの学校」がありますので、そこで昼飯にしましょう、と中さんが提案、私は鵜呑みした。

それからの中さんの行動が賢い?というか、実に要領がいいのだ。バイパスの入口に向かう道すがらにスーパーがあって、そこで、私の弁当と中さん用のお握りをチーンした。

そして、ご飯のお供のスープには、おでんの汁(つゆ)と考えて、スーパーの道路向かいのミニストップに行って、おでんの売り方をチェック。お客さんのオーダーしたものを店員がカップに入れる方式を確認して、それならば、中さんの目的は果たせず、諦めて戻って来たというのだ。

ファミリーマートがもう少し進めばありますので、そこへ行きましょう。ファミリーマートでは、自分が好きな物をカップに入れてレジに持って行って精算するというやり方なのだ。2人分の2カップにお汁をたっぷり、私にはダイコン1個75円、中さんはガンモドキ1個幾らだったか。かくして、安くて、温かくて、多くのスープを手に入れた。これ、中さんのマル秘の大作戦だ。

店員は、カップの中身を覗いて、ガンモドキの下には何か入っているんですか、といつも聞かれるんです、よ。ガンモドキだけです、と愛嬌たっぷりに微笑み返しすると、店員さんはそれ以上何も言いません。

そして、昼食の会場が「めだかの学校」。これも中さんの設定。確か、駐車場のスペースがあって、ベンチもあったように憶えているんですが。

めだかの学校は、小田原市荻窪の荻窪用水脇にあった。

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めだかの学校の隣の庭園の石垣に尻をついて、昼飯にした。気温は低いが風がなく陽光が燦燦、昼飯は気分良く頂けた。

ところで、ヤマオカさんが食っていた弁当は何だったんですか?と、帰りの車の中で聞かれた。私は、チャーハンだよ、と答えると、キャベツが入っていませんでしたか、と聞くので、キャベツとニンジン、タマネギ、玉子を、ご飯と一緒に炒めたんだよと、言っても、どうも中さんの頭の中にあるチャーハンとは違うらしい。チャーシューも豚肉も、鳴門蒲鉾も入っていない。

こんな昼飯だったということです。ハイ、おわり。

 

Wikipediaより知識拝借

めだかの学校は、作詞・茶木滋、作曲・中田喜直の童謡。1950年(昭和25年)に茶木氏によって作詞され、1951年(昭和26年)3月、NHKのラジオ番組「幼児の時間」のコーナー「歌のおけいこ」で発表された。同年4月、NHKのラジオ番組「うたのおばさん」で安西愛子が歌った。

茶木が作詞したきっかけになったのは以下のようだ。

小田原市に在住していた茶木は、戦中は家族で箱根に疎開して難を逃れた。しかし、自宅が全焼したために、戦後はバラックのような家に住むことになり、食糧を確保するためにたびたび買出しに出た。

ある日、買出しのために息子と山を降りて荻窪用水周辺を通りかかると、息子がメダカを見つけた。息子が大声を上げるとメダカが姿を隠してしまったので、茶木が「あんまり大声を出すんで逃げてしまったんだよ」と言うと、息子は「大丈夫、またくるよ。だってここはメダカの学校だもん」と返答した。

 

(めだかの学校)

 

めだかの学校は 川のなか

そっとのぞいて みてごらん

そっとのぞいて みてごらん

みんなで おゆうぎ しているよ

 

めだかの学校の めだかたち

だれが生徒か 先生か

だれが生徒か 先生か

みんなで げんきに あそんでる

 

めだかの学校は うれしそう

水にながれて つーいつい

水にながれて つーいつい

みんなが そろって つーいつい