2012年2月29日水曜日

光母子殺害、元少年に死刑

山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し後の上告審で、最高裁は20日、殺人と強姦致死などの罪に問われた被告の上告を棄却する判決を言い渡した。死刑とした差し戻し後の二審・広島高裁判決が確定する。

この事件に関する下記の文章は全て、20120221の朝日新聞・朝刊の記事のままです。死刑が確定した元少年は、犯行時18歳1ヶ月だった。少年法では、犯行時18歳以上の場合は死刑判決を言い渡すことができる。

事件当時、18歳よりたった1ヶ月しか過ぎていない被告を死刑にしたことには、後年に大いなる問題を残したのではないか、と思っている。もう少し慎重でなければならないのではないか。私は死刑廃止論者だ。

かって、1968、-69年に亘って、4人の連続ピストル射殺事件を起こして逮捕され、死刑判決を受けた永山則夫に関する本や、彼自ら著作した本を集中的に読んだ時期があった。逮捕されたのは、彼が19歳10ヶ月のときだ。永山則夫死刑囚から、私は色んなことを学んだ。永山は、生まれて一度も人に抱かれたことがなかった。

2009年から裁判員制度が実施されたことで、私は真剣に考えるようになった。特定の刑事裁判において事件ごとに、有権者からアットランダムに裁判員に選ばれて、法の裁きに加わることになった。私にだって、この大役が回ってくる可能性があるとなれば、この光母子殺害事件も傍観者ではいられない。ヤマオカ君、君ならどう裁くのか?

考えなくてはならん問題が余りにも多く、とりあえず、新聞で得た情報をこの際、大いに確認しておきたいと思った。

先ずは、新聞記事をそのまま転載させてもらう。問題は、余りにも重く、深い。

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1面

元少年の死刑確定

光母子殺害事件

最高裁が上告棄却

山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件の差し戻し後の上告審で、最高裁第一小法廷(金築誠志裁判長)は20日、犯行当時18歳1ヶ月の少年で、殺人と強姦致死などの罪に問われた大月(旧姓・福田)孝行被告(30)の上告を棄却する判決を言い渡した。死刑とした差し戻し後の二審・広島高裁判決が確定する。

 

犯行時18歳1ヶ月

大月被告は最高裁に統計が残る66年以降、犯行時の年齢が最も若い死刑確定者になるとみられる。第一小法廷は「犯行時少年だったことなどを十分考慮しても、死刑をやむを得ない」と言及。判決を踏まえ、少年による凶悪犯罪の裁判では、犯行時の年齢や立ち直りの可能性よりも結果の重大さが重視される流れがさらに強まりそうだ。

少年法は18歳未満の少年への死刑適用を禁じており、主な争点は18歳になったばかりの少年に適用することの是非だった。当初の一、二審は被告が立ち直る可能性を重視して無期懲役としたが、2006年に最高裁が「少年であることは死刑を回避すべき決定的事項ではない」と述べ、無期懲役判決を破棄。差し戻し後の二審判決は死刑としたため、2度目の最高裁の判断が注目されていた。

第一小法廷はこの日の判決で、「冷酷・残虐で非人間的な犯行。心からの反省もうかがえず、遺族の被害感情も厳しい」と指摘。犯行時の年齢や立ち直りの可能性など、被告にとって有利な事情を踏まえても、「刑事責任は余りにも重大で、死刑を是認せざるを得ない」と述べた。

裁判官4人中3人の多数意見。弁護士出身の宮川光冶裁判官は「犯行時の年齢に比べ、精神的成熟度が相当低かったことがうかがえる以上、改めて検討しなおす必要がある」として、審理を高裁に差し戻すべきだとの反対意見を述べた。最高裁が死刑と結論づけた刑事裁判の判決で、かかわった裁判官から反対意見が示されたのは、無人電車が暴走し6人が死亡した「三鷹事件」の大法廷判決(55年)以来とみられる。

被告は裁判が始まった当初、起訴内容を認めていた。差し戻し前の上告審で一転して殺意を否認。今回の上告審で弁護側は、犯行状況を再現した独自の鑑定をもとに「殺意はなかったという現在の主張が真実」と訴えていた。(山本亮介)

 

天声人語

13年前の不幸がなければ、本村洋さん(35)の名が知れ渡ることはなかった。大手製鉄会社の技術者として、同い年の妻と中学生の娘、もしかしたらその弟や妹と静かに暮らしていただろう。その人が記者団を見すえて語った。「日本の社会正義が示された」

山口県光市の母子殺害事件で、当時少年だった被告(30)の死刑が固まった。ひと月早ければ極刑を科せぬ若さだった。その未熟さ、立ち直る可能性をくんでなお、所業のむごさは死をもって償うほかない、との判断である。

妻子を奪われた本村さんは、自殺の願望を振り切り、悲運を糧に「被害者の権利」を世に問い続けた。独りで始めた闘いは、同情や共感だけでなく、重罪に厳罰を求める世論を揺り起こす。犯罪被害者への支援拡充にもつながった。

死刑の宣告は難しい、というよりつらい。国民の生命を守るためにある近代国家が、法の名において一命を奪う。矛盾といえば矛盾、廃止論の根拠である。

他方、遺族の処罰感情は容易に収まらない。凶悪犯罪を抑える効果については異論もあろうが、この事件の結末が「より安全な社会」につながらねば、誰ひとり浮かばれない。

極刑ゆえ、被告の実名が広く知られることになった。裁かれしは生身の人間と実感する。「反省した状態で、堂々と刑を受け入れてほしい」。最愛の家族のために闘い抜いた人の言葉は重い。帰らぬものは多すぎるが、本村さんが残したものも多い。後半生で「無名の幸せ」を取り戻してほしい。

 

36面

少年でも「結果」重視

異例の反対意見も

〈解説〉

18歳と30日。犯行が1ヶ月前なら死刑選択が許されない年齢だった元少年への死刑もやむを得ないーーーー。最高裁の判決は、重視されるべきは犯行の「結果」であることを示し、司法が少年事件での「厳罰化」にかじを切ったことを改めて印象づけた。

日本が死刑を存続しながら18歳未満への死刑を禁じているのは、未熟な少年の刑事責任は大人より軽くすべきで、適切な教育を受ければ更生できるという理念に基づいている。では、18歳には達したが、成人でない場合はどう判断するか。4人を殺した当時19歳だった少年に対する死刑が問題になった「永山事件」で死刑を選択した際、最高裁は1983年、「永山基準」を示した。九つの要素を総合的に考え、「やむを得ない場合に死刑が許される」と述べた。あくまで「死刑は例外」との立場だった。

これ以降、刑事裁判の実務では、殺された被害者の数が重視されてきた。少年事件で死刑が確定したのは、92年に千葉県市川市で一家が殺害された事件と、94年に大阪、愛知、岐阜の3府県で起きた連続リンチ殺人事件の2件、いずれも殺されたのは4人だった。

成人の場合は、被害者が2人で死刑になる例は珍しくない。永山事件の判決確定後、少年が2人を殺して無期懲役が確定した例は2件あるが、死刑はない。裁判官たちは少年特有の性質を重視し、適用に慎重な姿勢を示してきた。

光市母子殺害事件の一連の裁判経過は、こうした流れを変えた。2006年の差し戻し前の上告審判決で最高裁は「特に斟酌すべき事情がない限り、死刑を選択するしかない」と指摘。「例外的に死刑を許容してきた最高裁が、原則と例外を逆転させた」とする受け止め方が広まった。

最高裁が永山基準を変えたわけではないが、06年判決は実務に影響している。宮城県石巻市で2人が殺された事件で、仙台地裁は10年、同じ表現を使って少年に対して裁判員裁判初の死刑判決を言い渡した。判決後、裁判員の一人は「人の命を奪うのは、大人と同じ刑で判断すべきだ」と語り、少年の特性よりも結果を重視したことをうかがわせた。

ただ、今回の判決は、死刑とする結論では極めて異例の反対意見が付き、最高裁の裁判官の間でも意見が分かれたことを示した。結果の重大性と少年の未熟さや立ち直る可能性をどう考え、刑罰を科すのか。裁判員裁判が行なわれている今、市民も判断を迫られるテーマだ。(山本亮介)

 

永山基準

1968年に東京などで4人をピストルで射殺した当時19歳の永山則夫元死刑囚=97年に死刑執行=の事件をめぐり、最高裁が83年に示した死刑の基準。死刑を選択するかどうかの判断項目として①犯行の罪質②動機③態様=特に殺害方法の執拗さや残虐さ④結果の重大性=特に殺害された被害者の数⑤遺族の被害感情⑥社会的影響⑦犯人の年齢⑧前科⑨犯行後の情状ーーーの9項目を挙げた。最高裁は、これらを総合的に考慮し、他の事件との刑のバランスや同様の犯罪を抑止するといった観点から「やむを得ない」ときに死刑の選択が許される、とした。

 

39 社会面より、妻子を奪われた遺族・本村洋さん(35)の判決後に関係者に話したコメントを拾ってみた

*ずっと死刑を科すことについて考え、悩んできた13年間でした。

*遺族としては大変、満足しています。ただ、決して、うれしさや喜びの感情にありません。厳粛に受け止めなければならない。

*勝者なんていない。犯罪が起こった時点で、みんな敗者なんだと思う。

*君の犯した罪は万死に値する。君は自らの命をもって罪を償わなければならない。

*(被告)は眼前に死が迫り、自分の死を通して感じる恐怖から自ら犯した罪の重さを悔い、かみしめる日々がくるんだと思う。そこを乗り越えて、胸を張って死刑という刑罰を受け入れて欲しい。

*妻と娘の命を無駄にしたくない。事故が社会の目にさらされることで、司法制度や犯罪被害者の状況の問題点を見てもらいたい。

*もう一度、人並みの人生を歩みたい。

*まずは自分と家族が幸せになること。事件のことだけ引きずって生きるのではなく、前を向いて、笑って、自分の生活、人生をしっかり歩いていくことが大事だと思う。

*裁判が終わることが事件の区切りではない。毎日、ふとした瞬間に事件を思い出したり、考えたりしながら生きていくんだと思う。

*法制度や裁判への関心の高まりに影響を与えることができたよと、守ってあげられなかった罪滅ぼしの一つとして、報告してあげたい。

(斉藤靖史 高田正幸)

 

元少年 非難・反省揺れた心

大月被告は広島拘置所にいる。「〈死刑に対して)怖い気持ちがまったくないわけではない」。6年間で10回以上接見してきた記者に昨年12月、そう明かした。

裁判記録などによると、被告は幼少期から母親に暴力を振るう父親の姿を目(ま)の当たりにして、自身も父親から暴力を受けていた。

中学1年のとき、母親が自宅で首をつって自殺。後に父親が若い外国人女性と再婚し、異母弟が生まれたことで、より孤立感を深めていったという。高校を卒業後、水道設備会社に就職。すぐに無断欠勤をするようになり、事件を起こした。

裁判が始まると、法廷で謝罪した。だが、無期懲役とされた一審判決後、判決前後に被告が知人にあてた手紙の内容が明らかになる。《被害者さん(中略)ありゃーちょーしづいている》《犬がある日かわいい犬と出会った。---そのまま『やっちゃった』--これは罪でしょうか》

被告は手紙の内容については「遺族をたびたび傷つけたことは深く反省しないといけない」と記者に語った。

差し戻し後の控訴審の判決が出る直前の08年3月、26歳の大月被告に接見し、事件当時と今の認識を尋ねたことがある。「当時は自分中心で、相手がどう感じるのか度外視していた。自分に向かい合い、弱さに気付いた」

差し戻し後の控訴審で遺族の意見陳述を聞いた後には「胸に迫るものがあった」

08年4月、差し戻し控訴審で死刑が言い渡された。2週間後、記者に手紙を寄せた。

「つらくないわけではない。しかし、ぼくよりつらい御立場の方(遺族)がおられる以上、ますますつつしみながらかんじゅし、学ばせていただきたいとする気持ちも、またまぎれもない真実です」

上告後の09年3月には接見した記者に「支えてくれた人からいただいたものを胸に、なぜ悪くなったのかを見つめて改善する、大きな人間になりたい」と話し、続けた。「判決が自分に有利でも不利でも、死刑でも、そうでなくても」

2年ほど前から、母子の月命日に支援者に頼んで犯行現場に花を捧げてもらっているという。

(斉藤靖史)