20120215 今日は水曜日で、弊社の営業部の休日だ。
スタッフの細が、磯子区丸山で検討している物件を、朝一番で下見をした。それから西区境之谷の新築現場を見て、友人の和さんに、仕事で荷物を運ぶのにワゴン車を貸してくれと頼まれていたので、9:00に会社に着いた。
休日だけれど、川崎市麻生区東百合ヶ丘の中古住宅の売却の契約があるので、営業の佐だけは出勤だ。
昼少し前に、新聞のスクラップを終えて、今日最大のイベント『「紫煙と文士たち」林忠彦 写真展』を観に、渋谷にある「たばこと塩の博物館」 4階特別展示室に向かった。
この写真家・林忠彦氏には、とりわけ作家たちのポートレイトを撮影したものに秀作が多いので有名だが、この写真展を主催しているのが日本たばこ産業の「たばこと塩の博物館」で、当然といえば当然のことなのかもしれないが、被写体の作家の多くが紫煙をくゆらせている。煙草屋としての煙草礼賛は当たり前だのクラッカーだ。実際に、昔、煙草の専売公社だったときに、彼に宣伝用の煙草を撮ってもらっていた。
どうも、この辺だなあ、煙草屋と文士と、この写真家の関係は。
私が大学生だった4年間、太宰治と織田作之助、坂口安吾、田中英光、それに檀一雄を徹底的に読み耽った。今回、この企画を知った時から、会場に足を入れるまではそわそわした気分だった。四(よっつ)昔前の、恋人に会う心境だった。
珠玉の小説「オリンポスの果実」の田中英光が、敬慕していた太宰を真似て、同じバー「ルパン」のカウンターの前で、健康的な表情で写っていたのが、印象的だった。そのカウンターで撮られた太宰は死んで、織田作も死んだ。同じ場所で撮ることを嫌がる林忠彦氏に、自分も同じ所で同じ様に撮って欲しいと田中英光は強くせがんだ。幼心をも併せ持つ大男だった。写真家は断れなかった。その後、田中英光は太宰の墓の前で服毒、手を切って自殺した。
田中英光は、早大在学中に、ボートの選手としてロサンゼルスオリンピックに出場している。向かう船上で知り合った走り高跳びの秋ちゃんとの淡い恋愛を小説にしたのが「オリンポスの果実」だ。この題名は、太宰が考えた。文学作品としての評価は私にはお構いなし、夢中で読んだ。私も同じ大学で、どっぷりサッカー部漬け、田中英光のような恋愛に憧(あこが)れていたのだ。ボートは気で漕げ腹で漕げ、だ。
林忠彦の写真として、この無頼派シリーズ以外も秀作揃いなのだろうが、私には、彼ら以外に関心がない。1時間ほど、彼らの写真の前、後ろ、横で、しゃがんだり、背伸びしたり。写真家の作家たちとの縁だとか、関係だとか、作家の性格や癖、撮った前後の様子、私生活の一部などの林忠彦氏の小文が添えられていた。
きちんと読んで、私の中に、長く眠っていた無頼派を眠りから覚めさせようと努力した。変な奴と思われないようにウロウロしては、彼らの前に戻ってきた。そんなことを何度も繰り返した。
展示室内は、写真撮影は禁止されていたが、上の写真だけは、この椅子に座って撮ることはいいですよ、と案内されていた。
私は、写真を観に来た人に撮ってもらうわけにはいかないので、田舎から出てきたもんで、と1階の受付の女性に言って、撮ってくれるようにお願いした。快く了解してくれた。どうしても、記念写真にしたかった。
林忠彦。昭和を代表する写真家の一人だ。戦前から報道・宣伝写真のカメラマンとして活躍し、終戦後は混乱期の街頭やそこにたくましく生きる人々を捉えた写真、小説家などのポートレイトを撮影し、人気写真家として知られるようになった。特に戦後の文壇を賑わせた「無頼派」の作家たちの写真は、林忠彦の代表作として知られるのみならず、多くの人が思い浮かべる個々の小説家のイメージにもなりました。
銀座のバー「ルパン」の狭いカウンター席で時代を謳歌するかのような風貌の織田作之助や太宰治、雑然と散らかる書斎でレンズに対峙する坂口安吾の姿など、背景も含めて多くの人の記憶に残る作品群になっています。(たばこと塩の博物館のホームページより)
林忠彦さんのそれぞれの作家の写真に添えられていた小文は、朝日新聞20120203に広告の一部として載せられていたので、その文章をここに転載させてもらう。林氏の「文士の時代」から抜粋したと記されていた。
織田作之助
織田作之助は、僕が文士を撮りつづけるきっかけになった作家ですが、彼が酒場「ルパン」に来はじめたころ、僕には彼が実に異様に見えました。言葉は大阪弁だし、当時珍しい革のジャンパーを着込んでいるし、それで長髪で、顔面蒼白で、なあんとなく昔の作家とちがうイメージがあふれていましたね。チラッチラッと気になって見ていると、やたらに咳き込む。ハンカチにパッと咳き込んで痰を出すと、血痰が出ているように見えたんですね。あっ、これはいけねぇな、と思いました。この作家は、あまり長くないから撮っておかなければ、と思いました。
太宰治
ある日、織田作之助をバーのカウンターで撮っていると、反対側に安吾さんと並んで座っていた男が、ベロベロに酔っ払って、「おい、俺も撮れよ」って、わめいていたのです。うるさい男だなあと思って、「あの男は一体何者ですか。うるさい酔っ払いだなあ」って訊いたら、「あれが今売り出し中の太宰治だよ。撮っておいたら面白いよ」って、誰かが教えてくれたのです。四十年経って、いまだにこれが僕の代表作といわれているのは、なんとなく成長していないなあという気分があって、いつも気恥ずかしく思いますが、やっぱり写真っていうのは、ある程度、材料のよさ、モチーフのよさが決定するところがあるんですね。撮る側よりも写される側の力が強いっていうことの証拠でもありますね。本当に、この太宰治の一枚の写真ぐらい不思議な写真はありません。
坂口安吾
部屋中、一センチはほこりがたまっていました。万年床で、綿がはみ出して、机のまわりは紙クズの山。そのなかに洋モクはどこにあるのかって懸賞がついたものです。でも、原稿の文字は実にきれいでした。さすが作家とは違うものだとぞくぞく興奮して、崩れそうな出窓の上に乗っかかると、グラッ、ミシミシって折れそうな音がしましたが、夢中になって撮りました。そのときのことは安吾さんが随筆に書いています。