20120131(火) 今日は1月最後の日だ。
経営責任者の中さんと、茅ヶ崎東海岸、寒川大曲の物件を見て、最後に小田原の物件の下調べをした。全て中古の住宅だ。小田原城の堀に沿った道を進むと小田原競輪場がある。何で、こんな所に競輪場があるんだ、不思議だ。物件はその直ぐ傍だった。今回は、物件のことには触れない。
昼飯のことを話そう。
この二人は、共に朝早く行動するパターンが共通していて、朝飯が早く、当然昼飯も早い。会社内での仕事の時は、11時にもなれば、二人は昼飯の準備に入る。弁当を持って来る時もあれば、安い弁当を買って来て、インスタントラーメンを添えて済ますこともある。二人は申し合わせたように、11時頃になると、流しで、ガスコンロや電子レンジの前で顔を合わせることが多い。
そこで、本日の二人の昼飯のことを公開しよう。
私は、今日は朝から遠くまで物件の調査に行こうと、前日、中さんから言われていたので、朝、弁当を作った。チャーハンの上に、薩摩芋と南瓜(カボチャ)の輪切りにしたものを2切れづつフライパンで焼いて、それをのせたものだ。
中さん用には、昨日、月曜恒例の昼のカレーの余ったご飯で、管理の和さんが焼きお握りにしてくれたのを、私がすかさず3個ゲットしておいた。ぎっちり握られた大きなお握りだ。
下見を終えての帰途、小田原厚木バイパスを通るので、その途中に「めだかの学校」がありますので、そこで昼飯にしましょう、と中さんが提案、私は鵜呑みした。
それからの中さんの行動が賢い?というか、実に要領がいいのだ。バイパスの入口に向かう道すがらにスーパーがあって、そこで、私の弁当と中さん用のお握りをチーンした。
そして、ご飯のお供のスープには、おでんの汁(つゆ)と考えて、スーパーの道路向かいのミニストップに行って、おでんの売り方をチェック。お客さんのオーダーしたものを店員がカップに入れる方式を確認して、それならば、中さんの目的は果たせず、諦めて戻って来たというのだ。
ファミリーマートがもう少し進めばありますので、そこへ行きましょう。ファミリーマートでは、自分が好きな物をカップに入れてレジに持って行って精算するというやり方なのだ。2人分の2カップにお汁をたっぷり、私にはダイコン1個75円、中さんはガンモドキ1個幾らだったか。かくして、安くて、温かくて、多くのスープを手に入れた。これ、中さんのマル秘の大作戦だ。
店員は、カップの中身を覗いて、ガンモドキの下には何か入っているんですか、といつも聞かれるんです、よ。ガンモドキだけです、と愛嬌たっぷりに微笑み返しすると、店員さんはそれ以上何も言いません。
そして、昼食の会場が「めだかの学校」。これも中さんの設定。確か、駐車場のスペースがあって、ベンチもあったように憶えているんですが。
めだかの学校は、小田原市荻窪の荻窪用水脇にあった。
めだかの学校の隣の庭園の石垣に尻をついて、昼飯にした。気温は低いが風がなく陽光が燦燦、昼飯は気分良く頂けた。
ところで、ヤマオカさんが食っていた弁当は何だったんですか?と、帰りの車の中で聞かれた。私は、チャーハンだよ、と答えると、キャベツが入っていませんでしたか、と聞くので、キャベツとニンジン、タマネギ、玉子を、ご飯と一緒に炒めたんだよと、言っても、どうも中さんの頭の中にあるチャーハンとは違うらしい。チャーシューも豚肉も、鳴門蒲鉾も入っていない。
こんな昼飯だったということです。ハイ、おわり。
Wikipediaより知識拝借
めだかの学校は、作詞・茶木滋、作曲・中田喜直の童謡。1950年(昭和25年)に茶木氏によって作詞され、1951年(昭和26年)3月、NHKのラジオ番組「幼児の時間」のコーナー「歌のおけいこ」で発表された。同年4月、NHKのラジオ番組「うたのおばさん」で安西愛子が歌った。
茶木が作詞したきっかけになったのは以下のようだ。
小田原市に在住していた茶木は、戦中は家族で箱根に疎開して難を逃れた。しかし、自宅が全焼したために、戦後はバラックのような家に住むことになり、食糧を確保するためにたびたび買出しに出た。
ある日、買出しのために息子と山を降りて荻窪用水周辺を通りかかると、息子がメダカを見つけた。息子が大声を上げるとメダカが姿を隠してしまったので、茶木が「あんまり大声を出すんで逃げてしまったんだよ」と言うと、息子は「大丈夫、またくるよ。だってここはメダカの学校だもん」と返答した。
(めだかの学校)
めだかの学校は 川のなか
そっとのぞいて みてごらん
そっとのぞいて みてごらん
みんなで おゆうぎ しているよ
めだかの学校の めだかたち
だれが生徒か 先生か
だれが生徒か 先生か
みんなで げんきに あそんでる
めだかの学校は うれしそう
水にながれて つーいつい
水にながれて つーいつい
みんなが そろって つーいつい