下の文章は、20120210の日経新聞朝刊、3面(総合)の一部と1面(春秋)をそのまま書き写したものです。
復興庁発足について、後々のためにも、この記事を書き写して保存することには意義があると思った。
今さらっ、と思うほど対応が遅いのと、運営について不安な要素を抱えながらのスタートのようだ。成果は、終わってみないと何とも言えないが、どうか、スムーズに大いに被災地や被災された人々のために働いて欲しい。
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復興庁発足、「縦割り」の壁
省庁への勧告、強制力なし
被災地の要望に一元対応
東日本大震災からの復興の司令塔を担う「復興庁」が10日に発足した。
省庁ごとの縦割りを排し、被災地の要望を一括して受ける。9日には、岩手、宮城、福島の被災3県の来年度予算も出そろった。ただ、震災から約11ヶ月を経て誕生した同庁に対しては、権限などの面で力不足との指摘もある。復興事業の加速を必要とする被災地には「二重行政に陥るのでは」との見方は多い。
漁港は水産庁、土地のかさ上げは宮城県、下水道や上水道は市の担当部局ーーー。所管が違い、復旧に向けた意見調整に時間がかかるためだ。石巻市職員は「総合的な窓口があれば複雑な事業が前に進みやすい」と言う。
復興庁は3県の県庁所在地に置く復興局などを通じ自治体からの要望や相談を受ける。「ワンストップ(1ヶ所)対応につなげる」(藤村修官房長官)ことで復興を早めるのが狙いだ。復興交付金の受付や、税制で産業振興などを促す復興特区の認定も手がける。
しかし、本当に復興の速度を上げられるのか、被災地には疑問の声が多い。理由の一つは権限だ。被災地と各省庁の意見が合わない場合、復興相はその省庁に勧告できるが、強制力はない。
「2月中に具体的な対策に移していきたい」。前田武志国土交通相は9日の衆院予算委員会で、被災地で公共工事の入札が成立しない「入札不調」への対策に乗り出す方針を明らかにした。ただ人手不足から入札不調が頻発し、復興が滞り始めたのは昨年11月からだ。
こうした対応の遅れを復興庁に相談しても「所管省庁を本当に動かすことができるのか」(政府関係者)との懸念は強い。被災地でも「結局は復興庁と所管官庁の両方に働きかける必要があるのではないか」とみる。
復興支援金の配分では、政府方針と被災地の要望との食い違いを調整することが急務だ。事業総額2,3兆円のうち1月末時点でまとまったのは5千億にとどまる。1月に政府の東日本大震災復興対策本部の担当者が市町村を回り、事業を厳しく査定した。
全額国費で賄われるため、安易に使われないよう「チェックするのは当然」(復興本部)。だが自治体からは「国は自由度の高い交付金を配ると言っていたのに、今までの補助金と何も変わらない」との不満も漏れる。
「春秋」
明治初めの西南戦争、国内最後の内戦は、薩摩軍が率いた西郷隆盛の自決で幕を閉じたが、新たな闘いが続いた。凱旋した政府軍兵士にまん延したコレラだ。猛威をふるう疫病。その闘いの中に、ひとりの若い医師がいた。後藤新平だ。
後に大物政治家として知られる後藤は、若いころには西洋医学を学んだ。西南戦争ではコレラとの闘いで地獄をみた。その体験から、なにより予防を重んじ、病が起きたら迅速な対処が大切として「健康警察医官」の創設まで提言した。日清戦争では疫病のまん延を防ごうと、帰還兵への大がかりな検疫に奮闘した。
恐らく、こんな経験が行動を促したのだろう。関東大震災の直後、内相の後藤は東京大改造構想を唱え、わずか1ヶ月弱で帝都復興院を立ち上げた。自ら総裁になった。「計画が1日遅れれば、実行は百日遅れる」との焦り。そして「後世の子孫に再び同一の惨禍に遭遇させる危険」を防ごうという思いがあった。
東日本大震災から11ヵ月後、復興庁がきょう発足する。帝都復興院と比べてあまりに遅かったが、より重要なのは子孫のため、どんな実績を残すかだ。後藤の壮大な構想は財政不足や内閣総辞職でとんざしたものの、都内には昭和通りなど主要幹線、避難場所となる隅田公園など、その片りんはいまも残る。