2011年1月31日月曜日

友達の友達は、友達だ

先日(20110126)、友人の51歳の誕生会のときのことだ。

会場は、本日の主役である友人のお客さんが経営する料理屋さんだった。この宴は、主役の知り合いがこの料理屋で、宴会の予約を入れていたのですが、都合が悪くなってキャンセルになり、そのキャンセルを残念がる料理屋のマスターのために、それならばと近づく自分の誕生日に、ちょっとでもこの料理屋さんの売り上げに寄与できるならばと、誕生会を思い立った。誕生会?なんて、年甲斐もないと笑わないでください。私らは真面目なんです。

料理は、河豚(ふぐ)と鮟鱇(あんこう)の2種類の鍋と、河豚の刺身、はまちの兜(かぶと)煮、はたはたのから揚げ。主役の自作自演の宴会だ。こんな料理が私の席の目の前に、そして私が箸をつけていい河豚や鮟鱇がこれほど並べられたのは、何年ぶりのことだろうか。友人に感謝。それが、1月26日の夜だった。参加者は、主役と私、主役がかって勤めていた会社の前の前の会社の同僚、その会社の下請け会社の社長さんの4人だった。

当然のように私は招かれた。だって、友人にとっては、頭数が多ければ多いほどいいのだ、売り上げを伸ばしてやりたいのだから。マスターびいきの友人のことだ。友人の実家はこの料理屋さんの近所だったので、その幼少の頃の友達が来るかもしれない、と言われていたので、内心楽しみにしていた。幼少の頃の友人の「裸」を聞かせてもらいたかった。友人が子供だった頃、どんな子供だったのだろうか、他人の口から、遠慮のない口述を期待していたのですが、生憎夜は老母の看護のため家を出られないとのことだった。

その代わりと言えば失礼だが、友人の前の前の会社の元同僚が呼び出された。元同僚とは5,6年前に同じ会社で働いていた。この元同僚とはいい具合に打ち合わせをしなければならないこともあったようだ。こいつが面白かった。元同僚は、私の知らない友人の一面を屈託なく話してくれた。

元同僚の話は、友人が貧乏な暮らしをしているのを見るに見かねて、ちょっとした仕事を仕掛けてやるので、その話に乗らないかということだった。生活が苦しんだろう、お前は貧乏だからな、老(ふ)けたし、と元同僚は歯に衣着せぬ口ぶりは止まない。なんだよ、偉そうに腕組みなんかしやがって。いいんだよ、ちょこっと、ぺっぺっとやればそれでいんだよ、松さんにちょんちょんとやらせて、この社長に渡しさせすれば、この社長さん何でもかんでもちゃんと後始末をつけてくれるからさ、怒られたら始末書を誰かに書かせれば、それでいいんだよ。あなたが、始末書を書いてくれるんでしょ、と友人が聞き返すと、そんなこと俺は知らんよとあっさりすっ呆(とぼ)けられた。

社長さんはすっかり白髪なのですが、顔のつやはてかてか、まだまだ若いのだろう。喋るしゃべる、顔全体をよくもこれだけ動かせるものだと感心していた。私のところまで、どうにかしてもらえれば、そりゃなんだって一生懸命やりますよ、でも、内部でああだ、こうだ、と言って私のところに、後2時間とか、後1日とかで持ってこられては困る。しかるべき時間がちゃんとくだされば、何だってびしっとやりますよ。それと、何かあったときに、私の責任でしたと名乗れる人をちゃんと用意しておいてくださいね。この社長さん、自分の会社を守るために必死だ。この気持ち、私はよく理解できます。

元同僚と友人との約3時間半にわたるやり取りを聞いていて、友人に対する元同僚の気遣いが、横に座っている私にも伝わってきて幸せな気分になれた。その人を知るには、その人の友人を知るのが早道と言われているが。アイツはいいやつだなあ、と不用意に友人に言ったら、友人は俄然力を込めて、お前は騙(だま)されているんだよと百、千もの語句が返ってきた。この二人は、どこまでも平行線なのに、憎めない者同士だ。

帰途、友人に俺はアイツが好きだな、又会いたくなりそうやと言うと、お前はアイツをよく解(わ)かってないんだよ、と説明しだしたので、その剣幕に怖気づき、私は解かった判った、と逃げた、、、、、。

友達の友達は、みな友達だ。坂本 九ちゃんにそんな歌があったような気がする。

2011年1月25日火曜日

混声三部合唱 めぐりあい

友人のブログで「めぐりあい」という歌を知った。ニッコリ、意味深な表情で「いい曲ですから、聴いてください」と言われた。友人にも友人なりの交際の世界がある。その世界でめぐり合った人のことを、何らかの理由で私に何かを知らせたかったのかもしれない。その意味は後日、本人から聞かせてもらうことにしよう。

友人は学生時代、音楽を専門的に勉強した。ピアノが弾ける立派な音楽人だ。私はと言えば、ドミソもドファラも、シレソもみんな同じように聞こえる先天的な音痴だ。カラオケで、ヤマオカは音痴やなあ!無茶苦茶や!と感心されて、そのような非人道的、非文化的な発言を浴びせられても、一向に私の心は乱れない。中学校の2年生のとき、梅田先生がマンツーマンで和音の聞き分けテストを最後まで付き合ってくれたのですが、どうしても聞き分けができなかった。梅田先生は我が家の親戚にあたる人だったから、熱を込めて一所懸命教えてくれたのですが、先生の苦労は無駄骨だった。50年前の記憶が鮮明だ。

そんな私が、今、「YouTubeめぐりあい」を福島県 郡山市立第二中学校のコーラスで聴いている。音楽がよく解らないが、なんだか凄くいいように聞こえる。2007(平成19)年、第74回NHK全国学校音楽コンクールで、中学校混声合唱の部で銀賞を得たときのものだ。このコーラスのよさについては、私には何もコメントできないが、実際に聴いてみてくださいな。作曲者は高嶋みどりさん。

国語人間の私は、コーラスでさえも言葉を優先して、先ずは歌詞を追ってしまうのです。元々音楽を語る資格はない人間なのでしょう。耳で歌詞を追って、頭で文字にして、想いをめぐらせた。歌詞はいい。この歌詞に曲が巧く乗っかったのだろうか、曲があって、それに歌詞を考えられたのだろうか。

作詞は、重松 清さんだ。流石(さすが)だ。最近、彼の本を大量に読んだので、彼の本質を私なりに理解していて、彼なりの言葉を綴っているな、と感心したのです。

ところで、友人はこの合唱歌をどうして、私に関心をもたせようとしたのだろうか。

友人の真意は何だろうか、と歌詞をじっくり確認しながら聴き入った。

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2011年1月24日月曜日

笑顔のノーサイド、大阪朝鮮・権選手

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(試合を終え、相手チームの選手らと握手する権裕人)

20110123の朝日・朝刊のスポーツ欄は、白鳳の6連勝とアジア杯で日本代表が4強に残ったニュ-スを大きく取り扱っていた。そして、ラグビー記事コーナーの隅っこにこの記事を見つけた。当然、サッカー記事は穴の空くほどの眼力で読んだことは言うまでもありませんが。

私は、何故かこの手の記事に弱いのです。主役が高校生だ、というのもいい。この試合の開催を思いついた人、それに応えるように開催まで労を厭(いと)わなかった人。試合を開催する原因になった当の本人、その部友や関係者、試合に臨んだ対戦相手チームの面々とその関係者。そんなこんなを、周囲から温かく見守るラグビーファンや、ただ熱いエールを送るだけの人も、この試合はなんとも色んな意味で、人間味溢れるものになって、ラグビーには無頓着な私も、この記事には、涙腺が緩んだ。スポーツならではのことかもしれない。

いい話だ。この記事をパクらせていただいた。

 

大阪朝鮮・権選手 他校の仲間と親善試合

第90回全国高校大会の試合中に脳震盪(のうしんとう)を起こし、国際ラグビーボードの規定により以後の試合に出場できなかった大阪朝鮮のCTB権裕人(コンユイン)(3年生)のための親善試合が22日、兵庫県西宮市の関西学院であった。ベスト4入りした大阪朝鮮と初優勝の桐蔭学園(神奈川)や8強の東海大仰星(大阪)など計7校の14人らで結成した選抜チームが対戦。最後の高校ラグビーを満喫した。

大阪朝鮮の呉英吉(オヨンギル)監督が呼びかけて実現。権は持ち前のパワーを生かした突破を見せ、トライも決めた。後半残り10分には、審判が突然、権に「強すぎる」とレッドカード。退場しようとした権に相手ジャージが手渡され、今度は選抜チームでプレーする粋な演出も。試合は21-10で大阪朝鮮が勝った。

権は「本気でプレーでき、とにかく気持ちよかった。ラグビーというスポーツに感謝したい」と笑顔を見せた。桐蔭学園WTB竹中祥(3年)は「万全な彼と大会で戦いたかったが、こんな機会があって良かった」と話した。

この親善試合に参加した中から何人かは、日本のラグビー界を担う人が必ず生まれるのでしょう。高校生は、まだまだ未熟ですが、今、日本ラグビーを率いている先(輩)達はよく、この時期に得たものが核になって今がある、と仰っている。

権選手、他の選手達も頑張ってくれ、そして日本ラグビーに物足りなさを感じている私を、奮い立たせてくれ。

2011年1月23日日曜日

何十年ぶりの休暇だ?箱根の湯

20110121、22の両日、次女の家族と箱根の温泉に行って来た。次女の家の大事な書類をしまってあるところから、突然旅行券が出てきた。次女も夫の竹ちゃんも、その出どころを知らない。コウノトリではないが、青い鳥が運んでくれたのだろう。この券を見つけたころ、私と私の会社は大ピンチに陥っていた。そんな父を励まそうと、どこか温泉でも行かないかの誘いは、素直に嬉しいなんて喜べなかった。その後何度も、どうしよう、止めるか、行くかのやり取りの果てに、昨年の年末に何があっても行こうと私が皆に言い放った。その頃には、私の頭の中は元の状態に戻っている筈だと決めてかかった。そして決行することになった。

行き先は、箱根小涌園ユネッサンインだ。1泊2日の短い旅だったけれども、何年ぶりのことだろう。1泊して家族や身内で旅行などしたのは、本当に久しぶりだった。10年ぶり、いや20年ぶりか、遠い昔のことのようで思い出せない。それほど、私は家族や身内での旅行には参加していなかった。家人が参加しても、私だけは仕事を理由に参加しなかった。仕事で参加できなくても、仕事が忙しいことが嬉しかったのだ。

温水プール  

温水プール             

hakone 026(次女夫婦(花と竹ちゃん)と孫・晴)

温泉の湯を利用した各種の風呂、サウナ、とプール岩盤浴やゲームコーナーがあって子供連れには、楽しく時間を過ごせるように工夫してあった。やはり、温泉シリーズは興味深かった。コーヒー温泉、ワイン温泉、緑茶風呂、酒風呂、チョコレート温泉、岩風呂、炭風呂、次から次に新しい温泉が出現して面白かった。食事は朝食も夕食もバイキングだった。

一日目の夜は、思わぬことに、アジアカップの準決勝戦のテレビ観戦。会場開催地のカタールと日本代表との試合、結果3-2で日本代表が逆転勝ちした。この1ヶ月、猛烈に忙しく、また一身上の都合で住んでいる所にはテレビがなくて、大好きなスポーツ、それもサッカーの試合を見てなかったので、今夜の逆転勝ちというおまけ付きで楽しめたのはよかった。私は痛飲中での観戦で、全体的にはよく憶えていないが、香川、伊野波のゴールシーンははっきり瞼の裏に焼き付けた。吉田の二枚目のイエローカードの反則もよく見えた。

2日目は、朝からプールと温泉三昧だ。各種の風呂の趣向に気乗りするのは、大人に近い年頃から上の者ばかりで、我が家の孫・晴などにとっては、コーヒーであろうとワインであろうと、余り楽しくないようで、彼は、私か母親を捕まえてはプールでなんだかんだと遊んでいた。何時間でも、遊ぶのです。独り言を呟きながら、潜ったり、ぷか~んと浮いたりしていた。私は、親亀になって孫を背中に背負い、深く潜っては孫を慌てさせたり、プールの底に平目のようにピタッとくっ付いたり、鯨だといって口にいっぱいにふくんだ水を仰向けになって、天井に向かって潮を吹いたように見せたり。それにしてもネタ不足で、そのうち勝手にめいめいに遊んだ。

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午後、私 は温泉からもプールからも離れて、一人でホテルの周りの雑木林や野原を歩いた。空気は冷たくなかった。陽が射していて、背中がぽかぽかと暖かかった。陽だまりで猫のようになって本を読んだ。路肩には雪が残っていた。迷わないように目印になるものを確認しながら5キロぐらいは歩いたようだ。犬の療養所もあった、会社の保養所、別荘、マンションもあった。雉を撃つことも、花を摘むことも避けたかったのですが、でも、やっぱり木陰で小用、失礼しました。

ホテルのフロントに戻って、彼らが出てくるのを待った。フロントの隣の売店からよく聞き慣れた声が弾んでいる。我等の一行さんだ。支払いを済ませてホテルを後にした。楽しかった、面白かった、車の中は興奮気味、運転手だけは冷静にハンドルを操る。小田原で有名な蒲鉾屋さんで、再び土産か、それとも明日のおかずか。高いね、と言いながらもいくらか買ってきたようだ、私は寝ている孫の子守で留守番だったのです。

そんな何十年ぶりかの休日だった。このように時間をかけて、家族と過ごしたことがなかったことに、今更ながらに驚いている。

清冽、詩人茨木のり子の肖像

私の楽しみの一つは、新聞の書評を読むことです。

本の題名=「清冽 詩人茨木のり子の肖像」

著者=後藤正治

発行=中央公論新社

20110123の朝日新聞の書評欄の見開きに、右側にドストエフスキーとあり、左側には茨木のり子さんの名前がちらっとした。両方の目がそれぞれに題字を同時にとらえた。それから、右目を外し左目に重力を傾けた。右目も左側に寄ってきた。著者・後藤正治さんのにこやかな表情の写真がある。

早速私は、近くのスーパーマーケットのサティにある本屋に予約に走った。私は、何とかオフの105円コーナーで、好みの本を探すのを得意としているのですが、今回は新刊本を買うのが久しぶりで、非常に嬉しい。気分が高まっている。それも、茨木のり子さんの生涯を綴ったものらしい。1995円というのは、廉くはない。結構な価額だ。本が届くまでが待ち遠しい。知り合って、デイトの申し込みに快諾を得て、そのデイトの当日までの、待て状態に似ていると思うのは私だけだろうか。

清冽(せいれつ)とは=水が澄んで冷たいこと・さま(日本語大辞典・講談社)

本=「清冽 詩人茨木のり子の肖像」の書評は、新聞記事のままです。

「天のどこかから、私の中に落ちてきた」。本の題名『清冽』という言葉だ。「茨木さんの本質は何かと考えた。詩に品格があり、覚悟と潔さ、素朴な正義感がある」

「私が一番きれいだったとき」「倚りかからず」などの詩で知られ、2006年に79歳で死去した茨木のり子の生涯を丹念に追った。近親者のほか、詩人の谷川俊太郎さんや元NHKアナウンサーの山根基世さんら親交があった人たちにも取材し、女性詩人の「凛とした姿」を浮き彫りにした。

「茨木のり子を強い人といってさしつかえあるまいが、それは豪胆とか強靭といった類の強さではなくて、終わりのない寂寥(せきりょう)の日々を潜(くぐ)り抜けて生き抜く、耐える強さである」と書いた。

茨木のり子さんの名を初めて知ったのは、大学4年生のときだった。今から40年前のことだ。私に強い影響を与えたテレビ脚本家の牛さんが、山ちゃん、今ここを素敵なオバサンが通って行ったんだけど、その人は楚々として端麗な人なんですよ、実は私の勝手な恋人なんですよ、その名は茨木のり子さんといって詩人なんです、その方のお家も知っているんですけどね、山ちゃんには教えてあげないよ。この近くなんだ。

茨木のり子さんが歩いて通ったという道は、早稲田大学のサッカー部とラグビー部のグラウンドの金網越しの道のことです。入学した頃は、東京都北多摩郡保谷町東伏見だった。私は4年間、このグラウンドで、多い日は一日9時間、短い日でも4時間は、サッカーの練習に明け暮れた。私が22歳、茨木のり子さんが44,5歳だったのでしょう。

その夜、牛さんから茨木のり子さんの何かの詩集を渡され、ゆっくり読んでごらんと言われた。その夜、汚いシーツの冷たい布団の中で読んで、痺(しび)れた。本を持つ手、指に力が入った。凛とした姿の茨木のり子さんの風態(ふうてい)がなんとなく浮かんできた。奇麗で、可愛くて、何よりも優しくユーモアがあって、高潔で厳しくて、強い、そんな女性を想像した。このオバサン、ただモンじゃないぞと、粛々と襟を正(ただ)した。背が高くて、宝塚のスターを思わせる雰囲気があった、とどこかで聞いたことがある。

それから、既刊の詩集を買い漁り、新刊が出るたびに買い求めた。私の書庫の一番目立つところに、茨木のり子さんの詩集が占めています。誰をも寄せ付けないオーラが、本にもあるようですよ。

それからの私は、茨木のり子さんの末席の子分に、勝手にさせてもらったのです。

そして書評見開き右ペ-ジに目をやった。「ドストエフスキー」 著者・山城むつみ。人間と言葉の関係、根本から問い直す、とある。この本も、ドストエフスキーに首根っこをつかまえられている私には、興味あるのは当然なのですが、今回は書評を読むだけに留めて起きたい。予算に限りがあるのです。

2011年1月21日金曜日

アラブ初の民衆革命だ

チュニジアの20110114日の大規模デモのニュースを、新聞記事で知った。同日、ベンアリ前大統領は国外退去した。23年間続いた強権支配を打倒、民衆革命だった。チュニジアのみなさん、やってではありませんか。横浜の保土ヶ谷から心を込めて、拍手喝采。

以下は、朝日新聞の20110118の朝刊を参考にした。写真も使わせていただいた。

私、一身上の都合で今の暮らしにはテレビがなくて、たまたま買った朝日新聞で、チュニジアで民主革命が平和的に成功したことを知った。新聞には大きな題字で「アラブ初の民衆革命だ」、歓喜と緊迫、とある。この類のニュースが何よりも好きな私は、経緯を知らないまま結果だけを新聞報道で知って、なんじゃと内心忸怩(じくじ)たるものが沸き起こった。俺は世間に取り残されている、俺を抜きにこんなニュースを楽しんでいるなんてズルイぞ、と心の中で叫んだ。

国花のジャスミンから、「ジャスミン革命」と呼ばれ始めているそうだ。

地図の説明

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チュニジアでは、昨年12月17日、中部の都市シディブジャドで、大学は出たものの職を得ることができずに、路上で野菜を無許可で売って生計を立てていた26歳の青年、モハメド・ボアジジが、警察の非情な取締りに抗議して、焼身自殺を図ったことがきっかけになって、国内のあちこちでデモが行なわれるようになった。高失業率や物価上昇に国民が大いに不満を抱いていて、今回大きく爆発したようだ。

そんな大衆の苦しみに何の斟酌もせずに、大統領職に居続けたベンアリは、恥入るが如く海外、サウジアラビアのある町に逃げ去った。腰抜けの大馬鹿者だ。

大規模なデモの舞台になったのは内務省だった。人びとは、大統領官邸ではなく内務省に集まったのは。警察を管轄する内務省こそが、ベンアリの権力の根源だということを大衆は知っていたからだ。

16日にはチュニス(首都)郊外の大統領官邸で、大統領警護隊などベンアリ前大統領派とみられる部隊と、大統領を見放した軍との間で銃撃戦が起きた。まだまだ治安情勢は依然不安定だ。

市民が警護に立つ兵士にコーヒーを振舞った。「軍の兵士は市民の見方だ」。

このような事件はどうしてもブログに書き込んで、マイファイルしておきたいと私は思うのです。この国の真実を明らかにする歴史の1ページだ。兎に角、現実に起こった出来事で、私が最大に喜ぶ内容なのだから、幸せな気分で、文章を綴りたい。

が、今日はちびりちびりやっていた酒の量がダンダン増えてきて、キーボードを叩く指が、ちょっと覚束なくなってきた。顔は赤鬼だ。今後、どのような体制で政治がなされていくのか、それを見据えなければならないのだろうが、ここは、ちょっとお祭りごとにして、再び乾杯だ。

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20110118

朝日・天声人語

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チャップリンが初めてつくったト-キー映画は1940(昭和15)年の「独裁者」だった。権勢をきわめていたヒトラーに敢然と挑んだ作品は、時代への深い洞察に満ちた名画の中の名画とされる。

それまでは無声映画にこだわっていたという。だが、対決する独裁者は、言葉を操って人心をあおる扇情の徒である。自ら語る声なしには挑めなかっただろう。結びのヒューマニズムあふれる演説は名高く、映画史上最も感動的な台詞(せりふ)という人が少なくない。北アフリカのチュニジアで、長年の独裁政治が崩壊した。強力な警察組織によって言論が厳しく制限されてきた国である。打ち破ったのは、インターネットだったそうだ。強権にあらがうコミュニケーションの道具に、チャップリンが頼みにしたトーキーが重なり合う。

時代も背景も違うが、ともに「個」を権力者に対峙させうる利器であろう。チュニジアでは、携帯で撮影されたデモの映像や、次のデモの呼びかけが広がり、市民を動員していった。その威力を、天井の喜劇王はうらやんでいようか。

今回の政変は、チュニジアを彩る花から「ジャスミン革命」と命名されたそうだ。周辺には似たような強権国家が多い。民主化のドミノ倒しを案じ、漂う芳香に気の休まらぬ権力者もいるように聞く。

映画のチャップリンは演説で「飛行機とラジオは私たちの距離を縮めた。民主主義の旗の下で手をつなごう」と呼びかけた。いまやネットで世界が瞬時につながる時代である。「両刃の剣」は承知しつつ、より良き世界への希望を見る。

 

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20110118

朝日・社説

チュニジア政変

強権支配、市民が倒した

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北アフリカのチュニジアで23年間、政権を率いていたベンアリ大統領が、政府批判デモの中、国外に脱出した。

政変と言っても、民主化の指導者がいるわけでも、市民の代表者がいるわけでもない。しかし、強権支配に対する民衆の怒りが噴き出した。

発足する新政権の第一の任務は、強権支配の清算と、民主主義の実現である。できるだけ早い時期に、すべての政治勢力が力を合わせて総選挙をし、民意を問う必要がある。

そうしなければ、事態は収まらないだろう。求められているのは、民意に立った再出発である。緊急事態を引き継いだ首相も暫定大統領も、そのことを明確に認識する必要がある。

チュニジアは地中海を背景にした世界的なカルタゴの遺跡が有名で、紛争やテロがはびこる中東では、政治的にも安定している国と見られてきた。

イスラム教徒が大半の国でありながら、一夫多妻制を廃止し、女性の社会進出を進めるなど、欧米よりの近代化政策をとった。

ところが、1月になって失業対策や政権の腐敗に抗議する市民のデモに警官隊が発砲し、多くの死者がでた。穏健な外面の裏に隠されていた警察国家の顔が、市民の怒りを引き出した。

議会は大統領の与党が牛耳って批判勢力は排除された。秘密警察を操り、とくに2001年の米同時多発テロの後は「反テロ法」を作って、野党政治家や人権活動家、ジャーナリストを拘束してきた。

都市と農村の格差は広がり、失業率は15%に迫った。なかでも大卒者の失業は20%を超えた。それなのに大統領の一族は優遇され、手広くビジネスをしているという批判が強かった。

唐突ともいえる政権崩壊は、近代化の裏で民主化を無視し、強引な支配を続けた政府への国民の不満と怒りが燃え上がったものだ。

チュニジア政変の教訓は、長年、この国に体制を支えてきた欧米、日本にも反省を迫っている。

日本政府は80年代から定期的に二国間の合同委員会を開催し、経済協力などを協議してきた。友好国として、人権や民主化について賢い忠告をすることはできなかったのだろうか。

強権体制は、中東・北アフリカ諸国に広がり、さらには世界中にある。

今回の政変ではデモに参加した市民がインターネットで情報を交換して、大きなうねりが生まれたとされる。

反政府勢力や指導者を権力で排除して政治を思い通りにできた時代は、終わりが見えてきた。大衆を侮らない政治が求められている。

 

2011年1月17日月曜日

俺は不死身だ

1月のある夜、友人と食事を兼ねて酒を飲みに行った。行ったお店は、昼は定食を中心にした食事がメインで、夜はその地域の呑ン兵たちの酒場として、貴重な存在感があった。まるで地元呑ン兵たちのサロン、否、ちょっと失礼な言い方かもしれないが飯場の食堂にでもいるような雰囲気だった。店主は多能料理人で、メニューは多彩だ。料理の仕上がりは上々、美味かった、腕は確かだ。許可を得たので、その店の名前を明らかにする、長後街道をちょっと逸れた横浜市泉区中田東、創作料理「くるま坐」さんだ。なんでくるま坐なんですか、と聞いたら別に深い意味がないんです、とトコトン何気ない言い方。オーナーなのに、店の命名には参加してないようで、全く自分の店の名前に関心がないようだった。不思議に思っているので、今度、もう一度確かめる心算だ。

この店のご主人さんは、友人のお客さんだ。新しくお客さんになっていただいたようだ。メジャーのデニーズだとかワタミの展開する居酒屋なんかで金を落とすぐらいなら、地元の頑張っている店を利用する方が、地元活性化のためにも賢明でしょ、まさか私の意見に反対するなんてことはないだろう、と半ば強制的に、その店に連行された。店の主(あるじ)は40歳代、つい最近、晴れて独身になりました、と言っていた。

その店で、私は鍋焼きうどん900円をたのんだ。車で来たので、酒類は禁物。友人はおでんに梅酒(うめざけ)。お酒を飲むことで売上げに寄与、日頃の感謝の気持ちを表したいようだった。テレビでお馴染みのウメッシュとは違って、梅焼酎でもない。一口頂いたのですが、美味しかった。お腹に卵をいっぱい抱いたハタハタの焼き物はサービス。この卵を噛むとコリコリと音がした。ハタハタは漢字で魚偏に雷と書くんですよ、と知ったかぶり。念のために翌日辞書で調べたら、別の漢字で表すこともあるようだ。私が、大学時代に秋田の後輩の実家にお邪魔したときに、後輩のお父さんが雷が鳴る時によく獲れるのでカミナリウオとも言うのですよと教えてくれた。昔の人は雷を神が鳴ると信じられていた。こんなことが記憶に残っていた。

この店に、豪快、不死身オヤジがいたのです。このちょっと変なオヤジさんの話です

「俺も独身だ。俺のお腹か、胃の3分の2は切り取ったんだ。悪いところをを切り取ったんだから、残ったところは丈夫なもんさ。そして、脳梗塞を3回やったんだ。そこの西部横浜国際病院は、俺を三度も助けてくれた。仕事場で頭がくらくらして、おかしくなったので自分で仕事用の車で自宅に戻り、着替えて今度は仕事用でない車に乗って病院に行ったもんだ。そしたら、帰らせてくれなくて、即入院だった」。(三度ともそのようにきちんとされたのか、確かめなかったことにに悔いが残る)。「そんなことで、酒は飲むなと言われているんだ」、と言いながら、真露(じんろ)をストレートでぐうい、ぐい。それから、「俺は肺結核なんだ」、ときたもんだ。「それでタバコは絶対止めないといけないよ、と言われているんだが、そんなもの止められっこないよね」、真っ黒な歯をニタニタさせながら、私に同意を求めてきたが、私は他人の命にかかわりたくないので、ヘラヘラと笑っておいた。ところで、オヤジさん、そんなに沢山病気をしたんだから、恥ずかしい病気には罹ったことはないんですか、と揶揄を込めて聞いてみたのだが、このオヤジあんなに雄弁だったのに、このことには触れずじまい、馬耳東風、ひたすら焼酎を飲んでいた。私の質問は、虚しく空(くう)に消えた。松葉杖は、脳梗塞をやったときの後遺症なのだろう、片方の足は意のままには動かすことができないようだった。

懲りないオヤジは、これからが格好いいことを言ってくれるんだ。これには、俺には叶いっこないと思った。「俺な、六本木と新宿にマンションを持っているんだ。ここからときどきそこへ行くんだ、女がいるんだよ」え、え、このオヤジにお・ん・な!!が。俺の口から、嘆息が漏れたのを傍にいた友人は見逃さなかった。松葉杖をついて、彼女のマンションを訪れるオヤジの様子を想像して、この真面目なロマンチストに人間味を感じた。それって、滑稽だよなんてふざけたら、血相を変えて、松葉杖で叩きのめされたことだろう。艶福オヤジのこれからますます幸多いことを、この文章を読んでくれた皆の衆、祈ろうではありませんか。オヤジ、酩酊しての松葉杖は注意が必要ですぞ、くれぐれもご自愛ください。

このオヤジ、さすがにこれだけの大病を患ってきたからなのだろう、気の毒なことに、54歳の年齢には老けて見えた。私達が食事を終えて帰ろうとしたときに、地元の呑ン兵が三人連れ立ってやって来た。この店は一段と賑やかになり、今夜も、夜の暮れ行くのを忘れて、兵(つわもの)どもは盃に盃を重ね、重ね、深いアルコール海の底を遊泳し続けるのだろう。羨ましかった。車を捨て置いて、彼らといつまでも一緒にいたい気持ちだった。

創作料理「くるま坐」さんのますますの繁栄を祈る。

ぽっつうんと、名刺入れ

201101中頃、外回りから帰ってきて、会社の自分の机についた。疲れていた。もう一仕事してから、今日の仕事を終えよう、と思いながらビジネスバッグの中を整理していたら、名刺入れが出てきた。

名刺入れ

名刺入れが、視野に広がって懐かしさが込み上げてきた。久しぶりに手にとってじっくり眺めた。20年以上は使い古したもので、表面に小さい傷がいくつもできている。鶯(うぐいす)色が少しくすんでいる。見飽きたほど、見慣れた。掌中、すっかり馴染みの手触りだ。形崩れはなく、凛としたその姿は美しいままだ。気品は維持されていて、まるで高貴な老婦人を偲ばれる。これって、ちょっと言い過ぎか。

今日は、こんな名刺入れに、なんでこんなにセンチメンタルになるのだろう。営業の前線で、誇り高く名刺を差し出す機会が減ってきたことに、一抹の不安や戸惑で、感傷的になったのだろうか。62歳という年齢のせいだろうか。私のセンチメンタル中枢が揺らいだ。

今までどれだけの人と、名刺交換をしたことだろう、その際、常にこの名刺入れから私の名刺が出ていって、新しく知り合った人の名刺がこの名刺入れに納まった。知り合って、恩人になった人、私に強烈な印象を与えた人、好きになった人、亡くなった人も多い。終生の良きライバルになったり、知り合ってそれからずうっと酒飲み友達になった人もいる。知り合った最初の儀式に欠かせない役割を果たしてきたのがこの名刺入れだ。

この名刺入れは、友人から貰ったものだ。私が以前の会社の代表取締役になって、一つの会社を任されたとき、友人がそれを祝って、プレゼントしてくれたものだ。私が尻のポケットや財布のなかから無造作に名刺を引っ張り出すことに、その友人は見ていて嫌だったらしい。それまで他人からこのようにプレゼントされたことは初めてで、嬉しかったよりも驚いた。恥ずかしかった。

今後も、どれだけこの名刺入れは活躍してくれることだろうか。この名刺入れとともに、私の活躍の場を広げたいと切に思う。

大宅壮一の原点を知る

得意の「105円何とかオフ」で見つけた本の中で、小沢昭一さん流の表現を借りれば、大宅壮一の「大宅壮一的心」を知った。大宅壮一は日本を代表するジャーナリストで、毒舌の社会評論家だった。彼の実績は偉大だ。

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猪瀬直樹さんの本を読むのは初めてだ。猪瀬さんは現東京都副知事。105円コーナーで表装の黄色が目立って、奇麗で、絵柄が面白かったので、優先順位の高い購入希望の候補リストに入れた。そして、当然買った。

本の題名が「マガジン青春譜」、ちらちらとページをめくってみると、日本の雑誌や小説、評論などの出版の歴史と、それにかかわった出版会社の社長さんや編集者、物書きと言われた人たちの青春群像を著したものだなと、直感した。そして表紙の絵柄の丸顔の太った紳士は、芥川龍之介を意識して著した「無名作家の日記」の菊池寛だ、と直感した。ズバリ、当たった。小学校のとき、講堂で観た映画「末は博士か大臣か」の菊池寛役をフランキー堺が演じていた、その時の残像が、フランキー堺=菊地寛になってしまったのだろう。

この本に登場するメインの作家は、茨木中学校の同窓生で、3歳年上の川端康成と大宅壮一だった。他にも、興味ある作家が登場するのですが、この二人を中心に進められている。

川端康成は、資産家の息子だった。身近な肉親はことごとく亡くなり、財産管理人の遠い親戚の方に、生活費が無くなれば送ってくれと言えば何とかなる、裕福な学生だった。成長とともに、女性に関心を高めていくのですが、そのことを当然女性に対しては表現できない、男の体に触ることぐらいで、鬱々として一高から東京帝大に進む。カフェの女性と恋に落ちるのですが、どちらかと言えば、片思いのような恋愛をした。同人誌を出すことや恋人とのために、実家に資金を工面してもらい、それらをことごとく散財した。この時期に、何回か訪れた伊豆での出来事が、その後、「伊豆の踊り子」として世に出ることになるようだ。

方(かた)や大宅壮一は、茨木中学では隔日登校主義を貫いていた。嫌な学科や勉強しなくても理解できる学科の授業には出席しなかった。長男が放蕩の末、軍隊に取られ、次男である大宅は家業の醤油醸造の仕事だけではなく、田畑を耕し、幼い弟を背負い、麦刈りにも精をだした。できあがった醤油を一日5里も7里も、大阪の町を肩曳き車に醤油樽を積んで歩いた。

中学時代は、仕事と勉強の合間に投稿に情熱を注いでいた。かって、この時代の雑誌はと言えば投稿してきた原稿を大いに掲載していたようだ。「少年世界」「少年」「日本少年」「少年倶楽部」「中学世界」などへの投稿で、大宅少年は時事新報社の「少年名誉大賞牌」をもらった。今で言えば、年間投稿最優秀(MVP)賞、というところだろう。茨木中学を放校処分。専門学校入学者資格検定試験に合格、第三高等学校に入学。

内村鑑三に興味をもち、東京帝大に入学して、「死線を越えて」の賀川豊彦の社会活動に関心を寄せる。そして、この頃から社会に対峙した物書きを目指そうとする気概が感じられる。東京帝大時代には結婚していた。大学で学びながら、岩倉鉄道学校で夜学の英語教師をして糊口をしのいだ。やがて、東京帝大も中退する。

 

少し話は、端折(はしょ)らさせてもらう。

これからが、この稿で、みんな~聞いて、聞~い~て、と私が叫びたいところなのです。文章の構成力において稚拙な私には、こんな文章を挿入して他人の注意を喚起させる方法しか見いだせないのです。この本の「第七章 親切の棄て所」だ。後日、大宅はこの部分を小説に書き上げているそうだ。この部分が、私がこの本に興味をもった全てです。

1日目。東京帝大2年生だった大宅は、帰省先から東京に戻ろうと京都駅に朝10時30分に着いた急行列車に乗ったのでした。この列車は、岐阜、名古屋に向かうのですが、どうも走行する様子が変だった。それは、首都圏で大きな地震が発生した影響だった。関東大震災のことだ。本には時間の経過が示されていないので、私なりに想像してみる。大学時代東京から大垣までの銀河2号を利用した経験から、京都から沼津まではきっと5時間はかかっていると思われるが、この日はのろのろ運転なので、7時間ほどかかったとしたら沼津には夕方の5時ごろと思われる。

沼津でストップしてしまった。静岡に戻って、中央線を目指したが不通だった。遠い東の空にぼんやり見える赤い色は夕焼けではない、大火事なのだった。未曾有の大震大火のため、目下横浜全市は宛然(えんぜん)火の海の如し、東京市も同様の見込み、だと知らされる。

8ヶ月の娘と妻が待って居る東京になにがなんでも戻らなくてはならない。

手荷物を運送屋に預けて、5、60人ほどで箱根峠を越えることにした。先ずは三島まで歩く。役場前には、帝都は八十八箇所より出火してほとんど全滅せりの掲示板。

東海道を三度も行脚したという老僧が先頭に立った。箱根の中腹に至るまでにメンバーは半分に減った。見晴らしのいい場所に出たところで、箱根湯本、湯河原、熱海から避難してきた人たちがめいめいに情報を交換した。それでも、前進を決意したのは、9名のみになった。

芦ノ湖を見て、転げるように麓(ふもと)の村について、小学校の講堂で寝かせてもらう。

2日目。朝が明けぬうちに村を発った。小田原を過ぎると、避難民が押し寄せるようにやって来る。大宅たちはみなが逃げてくる方角へ逆に進んだ。震災の惨状は擦れ違う人たちの口々の訴えや嘆きに、鮮明になった。国府津、二宮、大磯と線路に沿って歩いた。相模川の橋が落ちていた。渡し舟で渡った。

横浜では朝鮮人が暴動を起こして、押し寄せてくると警告された。戸塚で老僧の知り合いの寺に宿泊を願ったが、許しを得られなかった。保土ヶ谷で老僧と別れ、闇のなかを川崎から多摩川にたどり着いたときは、朝になった。

3日目。老僧が別れる際にくれた握り飯1っ個しか口にしていない。道に面した床屋で、握り飯と、熱いお茶だと出されたのはお酒だった。ごくりとコップ一杯ご馳走になった。屈託のない親切に感謝する。

三日三晩の苦難の旅を終え、下落合の長屋に着いたのは夕刻だった。

この箱根越えには、一緒に歩いた人々との交流や、知らない女の荷物を持ってやったことで、その荷物のことをあれこれ考える様子が面白く物語り風に書かれていて、その文章はとっても楽しいのだが、それはそれ、後日語ることにして、今は、この大宅の心身の頑健さ、苦難な状況におかれながらも、冷静に客観的に、愛情をもって外の世界を見通す眼力は、もう既にこの時期にきちんと確立されていたのだ、そのことに私は痛く感動したって、ーーーーーわけさ。

前の方で書いた文章をもう一度ここで引用する。長男が放蕩の末、軍隊に取られ、次男である大宅は家業の醤油醸造の仕事だけではなく、田畑を耕し、幼い弟を背負い、麦刈りにも精をだした。できあがった醤油を一日5里も7里も、大阪の町を肩曳き車に醤油樽を積んで歩いた。1里は約4キロですから、20~30キロを歩いていたことになる。そして、隔日登校主義を貫いていた茨木中学校は放校処分、東京帝大は中退。

こんな大宅だからこそ、この沼津から箱根を越えて、自宅のある東京・下落合まで歩き通せたのだろう、私はおっ魂消(たま)げたのです。そして、後には辛口社会評論家として、偉大な仕事を残した。

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ネットで調べた大宅壮一の造語/一億総白痴化・駅弁大学・男の顔は履歴書である・恐妻・太陽族・口コミ

2011年1月16日日曜日

アジア支える大学教育を

下の文章は、朝日新聞の20110111の社説だ。このような動きがあることは知っていても、このように記事になると、襟を正してもう一度確認して、機会があれば、皆に話すことも必要だろうと思って、朝日新聞に無断で転載させていただいた。そっくりそのまま、転載させてもらうんだから、大きな問題はないだろうと、自分勝手に判断している。国境を越える若者たちが、日本でも育ってくれないと、日本の国は立ち行かなくなるのは、私のような視野の狭量な者でも理解できる。

でも、2012の3月に卒業予定の就職希望者を対象に実施した調査によると、「学業より就職活動を優先する」と答えた人が8割に上った、という内容の新聞記事(20110108の日経)を見つけた。日本の今の学生の実態を知るに、この転載させてもらった記事の内容とは余りにも違いが大き過ぎることに、ショックだ。

私の息子のことに触れてみたい。私の息子は約10年前に某理系私大に入学したのですが、1年を過ぎたあたりから大学の就職指導が頻繁に行われて、大学に勉強をしに来たのに、就職、就職とはなんでや、と学校当局の配慮に嫌気が差し、卒業後外国へ留学した。このことは、息子のその後の就職や生活に思わぬ恩恵をもたらした。こういう場合もあるわけで、就職難な時代とはいえ、若者の飽くなき挑戦をオジサンたちは期待しているのであります。

資金が心配?そんな心配をする前に、何かを企ててみろ。お金は企画についてくるもんだ。

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社説/国境を越える若者

アジア支える大学教育を

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アジアはいま、多くの共通課題に直面している。

国境を越える環境汚染、エネルギーや食糧の確保、急速に進む高齢化、海洋権益や領土をめぐる対立も、空を飛ぶ鳥の目から見れば、アジア諸国が一緒になって、答えを見つけ出さなばならない共通の問題だ。

こうした時代認識を切実に抱えてきた地域がある。欧州だ。

20世紀半ばまで、国々はいがみ合い、戦争を繰り返してきた。停滞から没落への転落をどうしたら避けられるのか。手がかりにしてきたのが、国境の壁を取り払う地域統合である。

欧州27カ国は欧州連合(EU)の旗の下、経済統合を進め、不戦共同体を作り上げた。降りかかるユーロ危機にも、一国ではなく、地域全体の解決策を見つけようと苦闘している。

EUの拠点があるベルギーの首都ブリュッセルから鉄道で1時間。古都ブリュージュにある欧州大学院大学(カレッジ・オブ・ヨーロッパ)を訪ねた。欧州一円から集まった約400人の若者が学んでいる。多くのEU幹部が輩出しており、EU内に太い人脈を持つ卒業生たちは時に「ブリュージュ・マフィア」と呼ばれる。

創設は、第2次大戦直後の1949年。欧州統合の枠組みは何一つない時代だった。統合への一歩として、まず学校を開き、人材を育てる。「欧州合衆国」結成を訴えた英国のチャーチル元首相らはそう考えていたのだろう。

 

「欧州人」意識育む

講義は英語とフランス語で行う。食堂や寮では多くの言語が飛び交い、週末には各国の料理や生活を紹介するパーティーが開かれる。出身国とは別に「ヨーロッパ人」の意識を学生が持つようになるのは、こうした1年間の全寮制教育を経験するためだ。

卒業生の欧州議会職員エドアルド・ディリグ(28)と会った。両親の出身国でる英仏両語に加えて、学校で覚えた独語やイタリア語を駆使して各国の利害調整に奔走する。「国益ではなく欧州のために働くことにやりがいを感じる」と言う。

欧州の多くの学生が複数の言語を話せる背景には、充実した留学制度がある。単位互換制度や奨学金支給によって欧州内の留学を後押しするエラスムス計画には80年代末以来、約220万人もの学生が参加した。

アジアは欧州と歴史的背景や事情は異なる。それでも各国経済の相互依存は欧州並みに高い。地域協力も進み、東南アジア諸国連合(ASEAN)と日中韓3カ国は金融の安定や防災、食糧安保で連携している。

教育でも変化の波が起きている。

 

英語が共通言語に

創設者大隈重信の銅像を見下ろす東京・早稲田大学の11号館。

一帯を歩くと、さまざまな外国語が聞こえてくる。ここにある国際教養学部の約3100人の学生の3分の1強は外国人。その6割以上が韓国と中国から来る。授業は全て英語だ。外国人学生の多くが母国語、英語、日本語のトリリンガルになる。日本人学生は1年間の留学が必修だ。

近くにある独立大学院アジア太平洋研究科は「アジア地域統合のための人材育成」を目標の一つに掲げている。ここの講義も英語が基本。300人を超える学生の多くがアジア出身だ。

英語のみで授業を行う学部が秋田の国際教養大、法政、大分の立命館アジア太平洋大などに広がっているのは当然だ。グローバル化の波は英語をアジア共通の言語にしつつある。

日本で学ぶ外国人留学生は約14万人。9割がアジア出身者だ。英語による授業にひかれて、留学生が増える意義は大きい。海外に向かう日本人留学生もさらに増やしたい。

 

グローバルな発想で

ただ、単に留学生の数を増やすだけでは時代の要請に応えたとはいえまい。中国やインド、ブラジルなど新興国の台頭によって、国際社会の構図は大きく変わりつつある。

いま求められるのは、国境を越えたグローバルな知識を持ち、国と国を結びつけるような発想を持つ人材だ。国家の枠内で内向きな人材を育てる考え方から脱しなければならない。

まずアジア版のエラスムス計画を作り、学生の域内留学を増やす必要がある。日中韓の大学間交流を進めるために一昨年から論議されている「キャンパス・アジア」構想は足がかりになる。早急に肉付けしてもらいたい。

教育改革も急務だ。中韓の学生との討論で日本の学生が力負けしているのを見かける。英語力とともに自分の考え方を深め、、説得する力を強めたい。

欧州大学院大学では毎年秋の開講にあたって、欧州の指導者が演説する。昨年招かれたメルケル独首相は学生を前に、冷戦終結によって起きたドイツ統一の体験を語った。

「自由は突然やってきました。ドイツ統一は欧州統合なしでは考えられません。欧州がもたらすチャンスを生かせるのは、あなたたちなのです」

アジアにはまだ分断国家があり、地域内の不信や疑念も根強い。この厳しい状況をどう克服し、共生と共存の道をいかに切り開くか。その結果は一国にとどまらず、アジアのすべての国々と人々の運命を左右する。

アジアの未来を支える国際人を育てていかなければならない。

2011年1月2日日曜日

今年は川崎大師にチャレンジだ

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(川崎大師平間寺)

昨年、一昨年と大晦日の夜、21:00頃自宅から歩いて、寒川神社に初詣をしてきた。地図上で、簡単に距離を想定したら、自宅から23キロぐらいだった。休憩、牛丼、ウンコの時間をいれて、片道大体5時間は要した。帰りは、昨年はバスと電車だった、一昨年は朝会社に出社してから参拝に来た同僚と合流して帰った。昨年は、次女・花の夫・竹ちゃんと二人で、一昨年は会社の同僚・出さんと長さんの三人だった。

今年は、何処に行こうかと思案していたら、川崎大師を思いついた。竹ちゃんは、同行を非常に喜んでくれた。ちょうど、寒川神社とは距離も同じぐらいですよ、と竹ちゃん。お参りの後は海側に出て、東京湾からの日の出を見ようと盛り上がった。行きは歩き、帰りは交通機関に恵まれているから、どうにでもなる。その竹ちゃんが、最近どういうわけか、ランニングに懲りだして、走る距離をドンドン伸ばし、走る頻度もドンドン増(ふ)やして、結局、お股部分の骨か腱か、筋肉がやられてしまって、今回は無念の欠場。無理はイカン。私一人の、独歩行とあいなりました。

仕事において難事を抱えており、明日元日も朝早くから打ち合わせることになったので、それならば、早くに行って早く帰って打合せに備えなくてはならない。余裕をもって、明日の仕事に影響が出ないようにしなければならない、ならば、21:00ではなくて、18:00に出て、ちょっとでも早く寺の近辺に着いて見学を済ましておけば、帰りは早く、明日にも万全だ。

仕事をしている古さんに、悪いなと言いながら、我輩は事務所を後にした。

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それでは、20101231~20110101の川崎大師初詣、徒歩でお参りに行きます。

進む方向は、東京に向かっていけばいいのだ。どの電車も、東京に向かっている。それに沿って行けば、大きく逸(そ)れることはない、何とかなる。

弊社がスタート地点。缶ビール2缶で景気づけた。帷子川を渡ったのが、18:06.八王子街道(通称・16号線)の宮田町二丁目の信号を右折、洪福寺。手前で、松原商店街の一画に足を入れる。ここは、横浜の台所、と言われているかどうか知りませんが、お客さんを惹き付ける魅力あるお店が多くて、訪れる買い物客は多い。今は、商売を終えてどの店も片づけが行なわれていた。今日は大晦日なのだ。それから、環状一号線で、浅岡橋、浅間町、浅間下、楠木町。iroiro 011

よく食べに行くラーメン屋さんの前を通る。店は閉まっていた。お兄さん、久しぶりだね、彼女、元気、なんて声を掛けてくれるグレートなママさんがいるんだ。鶴屋町。環状1号=第二京浜(国道1号線)をJR東海道線に沿って、川崎方面。桐畑、反町、東神奈川。ここで、間抜けた友人からメールが入る。コンビニで、日本酒を買う。内容が下らないものだったが、こちらからは気の利いた返信をしてやろうと、小休止も兼ねて立ち止まった。ヴァッカスを味方につけた。相手をやり込めてやった。ここで、19:12だ。

浦島丘、七島町、入江町、新子安、子安台、岸谷、東寺尾、荒立、響橋の下を通った。響橋の写真を撮ったのですが、巧く写っていなかった。東寺尾北台、諏訪坂、下末吉。このままこの方向に進むと川崎から、今更ながら外れていくことに気づいて、下末吉の交差点を右に、末吉大通りから三角通りを歩いて、鶴見駅西口入口から東海道線の線路の下を通って、区役所通り、第一京浜(国道15号線)の職安入口を左に第一京浜を川崎方面に向かう。鶴見川の鶴見橋を渡る、20:30。

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鶴見駅の近くには、有名な曹洞宗の総持寺がある。その寺院が運営している鶴見女子中学校がある。大学も、高校もある。この学校は教育熱心な先生が多く、私の娘は中学校でお世話になった。詳しいことは次の機会にしたいのですが、私の娘を担当した当時の、担任、学年主任、教頭、副校長はことごとく退職されたり配属替えになって、娘の前からは居なくなった。娘にそれほどの何かがあったのでしょうか。ミステリアスですなあ。

菅沢町、市場富士見町、市場大和町、池田、元木、貝塚、東田、榎町、多摩川の手前の競馬場の信号を右折、大師道をひたすら京浜急行大師線の川崎大師駅をめざす。コンビにで缶ビールのロングサイズを買って、小用をすます。まだまだ、遠いですよ、とは奇麗な店員さんの励ましの言葉。それでも、23:28、川崎大師に到着した。

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除夜の鐘が撞かれた。いっせいに本殿に向かうのですが、ここでは「護摩木」という、四方がほぼ1センチ角の、長さが30センチほどの白木が用意されていて、そこに祈願する内容、名前、年齢を書き込むのです。

私は、自分のことはそっちのけで、昨年、病気や怪我、仕事に恵まれなかった人を家族含めて20人分は書いた。順風満帆の人には、あえて何もしなかった。名前や年齢、祈願する内容以外にも、私は裏表横のスペースに書き込めるだけ書き込んだ。商売繁盛だけではなく、契約が多く取れるようにとか、いい家を作って見せますとか、コストを意識して作業に取り組むとか、具体的に書いた。尿結石で悩んでいる人には、尿結石だけにしてくださいなとか。思いつくまま書き込んだ。空海さんなのか、御釈迦さんに、随分強欲な奴だと思われただろう。そんなに思われたって構うもんか。

私個人のお祈りはと言えば、ただただ健康に恵まれますようとお願いした。今年は特に精神的にも肉体的にも、タフでハードな一年になる。どのようなことにも、真摯に誠実に、真面目に取り組みたい。精神的には、常に心がけてはいるものの、病が不意にやってくるのが怖いのです。お百度ではあるまいが、このように自らの体に鞭打ってお参りにきたのです。よろしく、お願いします、と何度も何度も頭を下げた。少々のアルコールはお許しください。

友人にくず餅(包装紙には久寿餅と書いてあった)を頼まれたので最小の物を800円で買った。本殿までの広場では屋台がたくさん出店していた。私が子供の頃とは売っているものが全然違う。私たちが子供の頃は、コマや鉄砲のおもちゃ類、金魚や水の入った風船玉のようなものを釣ったり、水飴類、焼きそば、イカの焼いたものだった。

歩行距離は20キロぐらい。真剣に歩けば、3時間で歩き通せるだろう。帰りは電車で帰った。当初考えていた初日の出は帰ってからにした。住まいに戻ったのは、02:30だった。

ーお勉強ですー

1128年、平間兼乗という武士と高野山の尊賢上人が建立したのが、現在の川崎大師平間(へいけん)寺。真言宗智山派のお寺で、成田山新勝寺、高尾山薬王院とともに、智山派関東三山の一つ。ご本尊は弘法大師像。1813年、徳川幕府の将軍家斉が厄除けに訪れたことから厄除け大師として広がる。お護摩とは、梵語でホーマといい『焚(た)く』『焼く』などの意味をもつ言葉で、仏の知慧の火をもって煩悩(苦の根源)を焼き尽くすことを表しています。