チュニジアの20110114日の大規模デモのニュースを、新聞記事で知った。同日、ベンアリ前大統領は国外退去した。23年間続いた強権支配を打倒、民衆革命だった。チュニジアのみなさん、やってではありませんか。横浜の保土ヶ谷から心を込めて、拍手喝采。
以下は、朝日新聞の20110118の朝刊を参考にした。写真も使わせていただいた。
私、一身上の都合で今の暮らしにはテレビがなくて、たまたま買った朝日新聞で、チュニジアで民主革命が平和的に成功したことを知った。新聞には大きな題字で「アラブ初の民衆革命だ」、歓喜と緊迫、とある。この類のニュースが何よりも好きな私は、経緯を知らないまま結果だけを新聞報道で知って、なんじゃと内心忸怩(じくじ)たるものが沸き起こった。俺は世間に取り残されている、俺を抜きにこんなニュースを楽しんでいるなんてズルイぞ、と心の中で叫んだ。
国花のジャスミンから、「ジャスミン革命」と呼ばれ始めているそうだ。
チュニジアでは、昨年12月17日、中部の都市シディブジャドで、大学は出たものの職を得ることができずに、路上で野菜を無許可で売って生計を立てていた26歳の青年、モハメド・ボアジジが、警察の非情な取締りに抗議して、焼身自殺を図ったことがきっかけになって、国内のあちこちでデモが行なわれるようになった。高失業率や物価上昇に国民が大いに不満を抱いていて、今回大きく爆発したようだ。
そんな大衆の苦しみに何の斟酌もせずに、大統領職に居続けたベンアリは、恥入るが如く海外、サウジアラビアのある町に逃げ去った。腰抜けの大馬鹿者だ。
大規模なデモの舞台になったのは内務省だった。人びとは、大統領官邸ではなく内務省に集まったのは。警察を管轄する内務省こそが、ベンアリの権力の根源だということを大衆は知っていたからだ。
16日にはチュニス(首都)郊外の大統領官邸で、大統領警護隊などベンアリ前大統領派とみられる部隊と、大統領を見放した軍との間で銃撃戦が起きた。まだまだ治安情勢は依然不安定だ。
市民が警護に立つ兵士にコーヒーを振舞った。「軍の兵士は市民の見方だ」。
このような事件はどうしてもブログに書き込んで、マイファイルしておきたいと私は思うのです。この国の真実を明らかにする歴史の1ページだ。兎に角、現実に起こった出来事で、私が最大に喜ぶ内容なのだから、幸せな気分で、文章を綴りたい。
が、今日はちびりちびりやっていた酒の量がダンダン増えてきて、キーボードを叩く指が、ちょっと覚束なくなってきた。顔は赤鬼だ。今後、どのような体制で政治がなされていくのか、それを見据えなければならないのだろうが、ここは、ちょっとお祭りごとにして、再び乾杯だ。
20110118
朝日・天声人語
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チャップリンが初めてつくったト-キー映画は1940(昭和15)年の「独裁者」だった。権勢をきわめていたヒトラーに敢然と挑んだ作品は、時代への深い洞察に満ちた名画の中の名画とされる。
それまでは無声映画にこだわっていたという。だが、対決する独裁者は、言葉を操って人心をあおる扇情の徒である。自ら語る声なしには挑めなかっただろう。結びのヒューマニズムあふれる演説は名高く、映画史上最も感動的な台詞(せりふ)という人が少なくない。北アフリカのチュニジアで、長年の独裁政治が崩壊した。強力な警察組織によって言論が厳しく制限されてきた国である。打ち破ったのは、インターネットだったそうだ。強権にあらがうコミュニケーションの道具に、チャップリンが頼みにしたトーキーが重なり合う。
時代も背景も違うが、ともに「個」を権力者に対峙させうる利器であろう。チュニジアでは、携帯で撮影されたデモの映像や、次のデモの呼びかけが広がり、市民を動員していった。その威力を、天井の喜劇王はうらやんでいようか。
今回の政変は、チュニジアを彩る花から「ジャスミン革命」と命名されたそうだ。周辺には似たような強権国家が多い。民主化のドミノ倒しを案じ、漂う芳香に気の休まらぬ権力者もいるように聞く。
映画のチャップリンは演説で「飛行機とラジオは私たちの距離を縮めた。民主主義の旗の下で手をつなごう」と呼びかけた。いまやネットで世界が瞬時につながる時代である。「両刃の剣」は承知しつつ、より良き世界への希望を見る。
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20110118
朝日・社説
チュニジア政変
強権支配、市民が倒した
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北アフリカのチュニジアで23年間、政権を率いていたベンアリ大統領が、政府批判デモの中、国外に脱出した。
政変と言っても、民主化の指導者がいるわけでも、市民の代表者がいるわけでもない。しかし、強権支配に対する民衆の怒りが噴き出した。
発足する新政権の第一の任務は、強権支配の清算と、民主主義の実現である。できるだけ早い時期に、すべての政治勢力が力を合わせて総選挙をし、民意を問う必要がある。
そうしなければ、事態は収まらないだろう。求められているのは、民意に立った再出発である。緊急事態を引き継いだ首相も暫定大統領も、そのことを明確に認識する必要がある。
チュニジアは地中海を背景にした世界的なカルタゴの遺跡が有名で、紛争やテロがはびこる中東では、政治的にも安定している国と見られてきた。
イスラム教徒が大半の国でありながら、一夫多妻制を廃止し、女性の社会進出を進めるなど、欧米よりの近代化政策をとった。
ところが、1月になって失業対策や政権の腐敗に抗議する市民のデモに警官隊が発砲し、多くの死者がでた。穏健な外面の裏に隠されていた警察国家の顔が、市民の怒りを引き出した。
議会は大統領の与党が牛耳って批判勢力は排除された。秘密警察を操り、とくに2001年の米同時多発テロの後は「反テロ法」を作って、野党政治家や人権活動家、ジャーナリストを拘束してきた。
都市と農村の格差は広がり、失業率は15%に迫った。なかでも大卒者の失業は20%を超えた。それなのに大統領の一族は優遇され、手広くビジネスをしているという批判が強かった。
唐突ともいえる政権崩壊は、近代化の裏で民主化を無視し、強引な支配を続けた政府への国民の不満と怒りが燃え上がったものだ。
チュニジア政変の教訓は、長年、この国に体制を支えてきた欧米、日本にも反省を迫っている。
日本政府は80年代から定期的に二国間の合同委員会を開催し、経済協力などを協議してきた。友好国として、人権や民主化について賢い忠告をすることはできなかったのだろうか。
強権体制は、中東・北アフリカ諸国に広がり、さらには世界中にある。
今回の政変ではデモに参加した市民がインターネットで情報を交換して、大きなうねりが生まれたとされる。
反政府勢力や指導者を権力で排除して政治を思い通りにできた時代は、終わりが見えてきた。大衆を侮らない政治が求められている。