2011年1月23日日曜日

清冽、詩人茨木のり子の肖像

私の楽しみの一つは、新聞の書評を読むことです。

本の題名=「清冽 詩人茨木のり子の肖像」

著者=後藤正治

発行=中央公論新社

20110123の朝日新聞の書評欄の見開きに、右側にドストエフスキーとあり、左側には茨木のり子さんの名前がちらっとした。両方の目がそれぞれに題字を同時にとらえた。それから、右目を外し左目に重力を傾けた。右目も左側に寄ってきた。著者・後藤正治さんのにこやかな表情の写真がある。

早速私は、近くのスーパーマーケットのサティにある本屋に予約に走った。私は、何とかオフの105円コーナーで、好みの本を探すのを得意としているのですが、今回は新刊本を買うのが久しぶりで、非常に嬉しい。気分が高まっている。それも、茨木のり子さんの生涯を綴ったものらしい。1995円というのは、廉くはない。結構な価額だ。本が届くまでが待ち遠しい。知り合って、デイトの申し込みに快諾を得て、そのデイトの当日までの、待て状態に似ていると思うのは私だけだろうか。

清冽(せいれつ)とは=水が澄んで冷たいこと・さま(日本語大辞典・講談社)

本=「清冽 詩人茨木のり子の肖像」の書評は、新聞記事のままです。

「天のどこかから、私の中に落ちてきた」。本の題名『清冽』という言葉だ。「茨木さんの本質は何かと考えた。詩に品格があり、覚悟と潔さ、素朴な正義感がある」

「私が一番きれいだったとき」「倚りかからず」などの詩で知られ、2006年に79歳で死去した茨木のり子の生涯を丹念に追った。近親者のほか、詩人の谷川俊太郎さんや元NHKアナウンサーの山根基世さんら親交があった人たちにも取材し、女性詩人の「凛とした姿」を浮き彫りにした。

「茨木のり子を強い人といってさしつかえあるまいが、それは豪胆とか強靭といった類の強さではなくて、終わりのない寂寥(せきりょう)の日々を潜(くぐ)り抜けて生き抜く、耐える強さである」と書いた。

茨木のり子さんの名を初めて知ったのは、大学4年生のときだった。今から40年前のことだ。私に強い影響を与えたテレビ脚本家の牛さんが、山ちゃん、今ここを素敵なオバサンが通って行ったんだけど、その人は楚々として端麗な人なんですよ、実は私の勝手な恋人なんですよ、その名は茨木のり子さんといって詩人なんです、その方のお家も知っているんですけどね、山ちゃんには教えてあげないよ。この近くなんだ。

茨木のり子さんが歩いて通ったという道は、早稲田大学のサッカー部とラグビー部のグラウンドの金網越しの道のことです。入学した頃は、東京都北多摩郡保谷町東伏見だった。私は4年間、このグラウンドで、多い日は一日9時間、短い日でも4時間は、サッカーの練習に明け暮れた。私が22歳、茨木のり子さんが44,5歳だったのでしょう。

その夜、牛さんから茨木のり子さんの何かの詩集を渡され、ゆっくり読んでごらんと言われた。その夜、汚いシーツの冷たい布団の中で読んで、痺(しび)れた。本を持つ手、指に力が入った。凛とした姿の茨木のり子さんの風態(ふうてい)がなんとなく浮かんできた。奇麗で、可愛くて、何よりも優しくユーモアがあって、高潔で厳しくて、強い、そんな女性を想像した。このオバサン、ただモンじゃないぞと、粛々と襟を正(ただ)した。背が高くて、宝塚のスターを思わせる雰囲気があった、とどこかで聞いたことがある。

それから、既刊の詩集を買い漁り、新刊が出るたびに買い求めた。私の書庫の一番目立つところに、茨木のり子さんの詩集が占めています。誰をも寄せ付けないオーラが、本にもあるようですよ。

それからの私は、茨木のり子さんの末席の子分に、勝手にさせてもらったのです。

そして書評見開き右ペ-ジに目をやった。「ドストエフスキー」 著者・山城むつみ。人間と言葉の関係、根本から問い直す、とある。この本も、ドストエフスキーに首根っこをつかまえられている私には、興味あるのは当然なのですが、今回は書評を読むだけに留めて起きたい。予算に限りがあるのです。