2014年2月26日水曜日

森さんは、後悔していますよ

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以前、この私のブログ=「メダル、メダルと言いなさんな」で、ソチ五輪に出場するアスリートの崇高な挑戦を前に、どうか馬鹿かアホな観衆にはならないでください、と訴えた。開会式のバッハ会長の開会の辞に感動し、今の日本の、メダル、メダルとテレビ番組ではしゃぐ野郎に警告したのだ。

危惧したとおり、案の定、その大馬鹿者がやっぱり現れた。その馬鹿者とは、何と、あろうことか、2020年に東京で開催が決まった五輪とパラリンピック組織委員会の会長に就任したばかりの森喜朗元首相のことだ。

バッハ会長はこのソチ大会の開会の式辞のなかで、世界の政治指導者に、スポーツは、国別の対抗ではないと申し上げます。国民のアスリートを支援してくださっていることに感謝します。かれらは国の最高の選手たちです。敬意、寛容、卓越、平和という選手たちのオリンピックメッセージを尊重してください、と述べた。

我が国の元首相でもあった馬鹿・森は、スポーツの本質のほんの一部も理解できない男だ。

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20140220 朝日・社会

SP当日練習で左手を差し伸べる浅田真央選手=山本裕之撮影

中盤のステップで、浅田は切なさそうに遠くを見つめる。一度視線を切ってから、今度は天(亡くなった母)に届けと、左手を上に向って伸ばす。

 

以下は、馬鹿・森の発言を記事にしたものだ。20140221の朝日・朝刊の社会面の記事をそのまま引用させてもらった

2020年の東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森善朗元首相が20日に、福岡市での講演会でフイギュアスケート女子の浅田真央選手のショートプログラムでの演技について

「頑張れと思って見てたら、見事にひっくり返ってしまった。あの子、大事な時には必ず転ぶんですよね。何でなんだろうな」と述べた。

また、団体で日本が5位になったことについても「あれは出なければよかった。浅田さんが3回転半をすれば、ひょっとしたら3位になるかもしれないという気持ちで浅田さんを出したが、見事にひっくり返った」とも述べた。

さらに「団体戦も惨敗を喫し、その傷が浅田さんに残っていたら、ものすごくかわいそうな話だ。負けるとわかっている団体戦に浅田さんを出して恥をかかせることはなかった」とも語った。

 

確かに、この馬鹿・森の発言通り、浅田真央選手(23)はショートプログラム(SP)で、冒頭のトリプルアクセル(3回転半)ジャンプで転倒、残りのジャンプでも精彩を欠いた。散散(さんざん)、まさかの16位。浅田選手を応援している人々の間からどよめきが起こった。

でも、この時のどよめきって奴は、決して失望ではなかった。この口軽で馬鹿な森には解らないだろうが、真央ちゃん、大丈夫、前を向いて頑張って、と激励のどよめきだったのだ。

SPが終わった夜、浅田選手に佐藤信夫コーチの叱咤激励の雷が落ちた。そして、翌日のフリー当日の練習でもやはりジャンプ練習はさえなかった。その間にも、佐藤コーチからは厳しい言葉で励まされた。表情はさえないとテレビは報道していた、が、そんなことはない、そんなことはない、と私は念じた。

そして、やっぱり、さすが浅田選手、馬鹿・森発言の翌日、日本時間21日の未明、失意のどん底から立ち直って最高の演技を見せた。見せてくれた。見事だった。テレビの前で、涙、涙。パジャマの袖が涙でぐじゃぐじゃ。サッカーのゴールした時のように大声を出したかったが、そうもいかず、ただただ、涙を流した。よかった、よかった。馬鹿・森の馬鹿ぶりを見事に証明して見せた。

曲は、ロシアのロマン派音楽を代表する曲の一つ、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、あらゆる時代にも最も人気のある協奏曲だ。トリプルアクセルを綺麗に決めて、後のジャンプもきっちり、全6種類計8度の3回転ジャンプを華麗に跳び、142.71点と自己ベストを更新した。完璧な演技で、10人抜きで6位に入賞した。トリプルアクセルは、前回のバンクーバー五輪では計3回成功しており、2大会連続の成功は女子では初めての快挙だ。

演技の中ほどから、場内には観衆の手拍子が起こった。この手拍子の音源にしても音量にしても日本人の応援団だけではないなあ、と思った。会場の多くの人たちが、浅田選手の氷上の舞に魅了されるがままに、手を打っていた。ロシア人は、当然地元の選手を熱烈に応援しますが、他国の選手と言えども、いいものには徹底的に、賛辞を贈るんですよ、と外務省の元官僚がラジオで話していた。

メダルには届かなかったが、それはたいした問題ではない。あきらめない心、可能性に挑む勇気の大切さを、この大健闘は教えてくれたのだ=20140222 日経 春秋より。

世界のスケーターが真央ちゃんに賛辞を贈った。その内容を20140222の日経新聞で見つけたので下にその記事を転記させてもらった。

フィギュアの「皇帝」と呼ばれ、ソチでも団体で金メダルを獲得したロシアのエフゲニー・プルシェンコ選手は、浅田選手がフリーで成功させたトリプルアクセルを賞賛し、「真の戦士」と投稿した。

長野五輪で銀メダルに輝いた米国のミシェル・クワンさんはSP後「悲痛」と顔文字付きで書き込んだが、20日の会心の演技後は「永遠に忘れられないパフォーマンス」と喜んだ。

ソルトレークシテイー五輪王者のロシアのアレクセイ・ヤグディさんも「泣きたくなるほど素晴らしい」とたたえた。

五輪で2回銀メダルを獲得したカナダのエルビス・ストイコさんは、メダリスト3人にひと言づつ触れながら「私にとって今夜の主役は浅田真央だ」と記した。

 

25日、帰国後の記者会見で、浅田選手は馬鹿・森発言について、「私は別になんとも思っていないですけど、森さんが今、少し後悔しているのではないかと思います」。会場は爆笑に包まれたそうだ。

2014年2月23日日曜日

大雪小景、喜怒哀楽、、、

今月の15、16日、関東甲信と東北にかけて大雪に見舞われた。

フイリッピン人の私の友人は、最初は冷たいとか、寒いとか、体だけではなく頭脳までも萎縮していたが、慣れに従って元気に私のパートナーとして除雪作業に精を出してくれた。この雪が年に一度か二度の天の神様の余興かと受け流せば、この能天気、馬鹿者め、と叱られそう?

記録的な大雪に、生活にも仕事にも大変な被害を被ったが、尻込みして、嫌だ嫌だと、文句ばかり言って居ては始まらない。スタッフが自動車のタイヤにチェーンを取り付けてくれた。尻を押すように、どうぞ、頑張って物件の周りの除雪をやって来てください、激励と共に見送られた。どうせやるなら、楽しく取り組むしかないではないか。

今回の降雪で、嫌なことばかりではなかったことを、この数日で知った。行き交わせない狭い通路で、向こうから来るお年寄りや女性や子どもたちに、すれ違うずうっと前に通路を外れて相手に譲る、その時に、相手は有難うとかすみませんとか声を掛けてくれるのだが、こんなことは、雪があってこそのことだ。往路で声を掛け合うのは、山ではよくあっても、普段街中では見掛けることはない。

物件の周りの除雪作業においても、近所の人たちとはよく声を掛け合った。誰もが等しい状態に追い込まれ、その対策においても等しく応じなければならない。言わば我々には、同好の士か好(よしみ)か? 親近感がお互いの気持の中に生まれたのだろう? にこやかに会話ができた。

それでも、なかには相手のことを考えない、ちゃっかりした暴君がいた。余りにも降った雪が大量だったので、家の前面道路の雪の持って行き場所に誰もが苦心していた。駐車場も除雪しないと、車の出し入れができない。道路の向かい側や隣地が空地の場合は、その周辺に置かせてもらうことができた。ところが、ある空家の前には、大量の雪が彼方(あっち)此方(こっち)から持ち込まれ、駐車場はおろか玄関前にも高く積み上げられ、家の敷地内に入ることさえできない、そのような光景が見られた。これって、空家の持ち主が見たらどう思うだろうか、近所には失礼な奴がいるもんだ、と怒るだろう。雪を持ち込んだ人は、どのように考えたのだろう、か。

そんな嫌なことも遭ったが、流石(さすが)、お・も・て・な・しの国、日本らしい良い話も耳に入ったので、ここに、書き留めておきたいと思った。滝川クリステルさんが述べたおもてなしの心とちょっと趣は異なるが、大雪の中に、素の心遣い気遣いがあった。

心温まる小話だ。

その1は、大雪で閉された中央道の談合坂SAでのこと、ヤマザキ製パンの配送車が同じように動かなくなったトラックの運転手たちに積荷のパンを配った。他の運転手たちも手伝った。もらった運ちゃんは、これからはヤマザキのパンしか食わねえ、と感激したとか。スタバや蕎麦瓦屋からも食料を無料で提供した、とネットで知った。

その2は、東京電力福島第1原発事故で避難、仮設住宅に住むおじいちゃんやおばあちゃんが、福島市の国道で立ち往生した車の中の飲まず食わずの運転手たちに、お握りを差し出した。コシヒカリを集会所で炊き出し、海苔と梅干しを各自持ち寄った。20人ほどで、300個を握った。16日昼、糖尿病の影響で頭がぼーっとしていたら、窓をノックする音で気が付くと「おにぎり食べて」と差し出された、と感謝を述べている。

その3は、数百台が立ち往生した青森県横浜町の国道279号だ。運転手たちは、国道沿いの小学校や集会所などに避難し 一夜を過ごした。集会所には近所の人から差し入れのおにぎりや味噌汁などが届いたという。
集会所では石油ストーブをつけ、座布団を用意した。地元の消防団がカップ麺を渡すと、 「温まる」「ありがたい」と大事そうに受け取った。

上の2と3のようなことは他の場所でも行われた。又、ボランティアが出動してお年寄りの住む家屋の屋根の雪下ろしや、移動のための通路を確保する作業にも参加した。

 娘婿が3年前に新築した住宅の屋根には、沢山の雪の滑り止めを装着したのだが、それでも「お父さん、雪止め、大丈夫でしょうね」と気にかけて電話してきた。近所に迷惑を掛けてはならないと思っての質問だった。

そんなこんなで、雪がもたらす災厄を凌ぐことでさえ、心が温かくなる作業に転化してしまう、お見事です。

やさしい人たちに、乾杯!! 

2014年2月19日水曜日

雀の涙が、枯れるのでは

 

先日母校から、当学の発展のために格別のご尽力を賜り、心から感謝し、貴台の当学に対する多大なご貢献に対し、「何とか?員」の名称を贈呈させていただく、このような内容の文書をいただいた。私が昨年に雀の涙ほどの寄付をさせていただいたことに対する返礼のようだ。

いただいた文書には、他にも、この「何とか?員」の名称の贈呈式を執り行うので、その日程が確定次第お知らせするのでぜひともご来臨賜りたいとのことだった。

ネットで調べて知ったことだが、寄付した額が、雀の涙ほどの金額から目がくらむほどの大金までを、金額ごとにそれぞれ「何とか?員」とか「何とか?何とか?員」とか、名称が用意されているらしいのだ。

母校ではよく検討されたことだろうが、文書を受け取った私は、これって、ナンダ! ちょっと違うぞ、と直感した。

私は45年前から4年間お世話になった大学のサッカー部に対して、親からの仕送りが途絶え活動中の部員が止むを得ず退部することや、資格がありながら貧困故に母校への入学を諦める受験生があってはならないと考えて、彼らの学資や生活費の一部に、それだけに遣ってもらうための資金として、雀の涙ほどの寄付をさせてもらったのだ。いかにも、ヤマオカらしく、ささやかに。

寄付の額によって区割りされ、「何とか?員」の名称がそれぞれについているなんて、奇態、奇怪、奇妙奇天烈(けったい)だが、それでも、こういう世界では、こんなこともあるのか?と無理無理納得しようと思っていたら、今度は、学校から封書が届いた。同封されていたものが余りにも豪華なのに、又、驚かされた。

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・当学のサポーターズ倶楽部の会員証(カード)

・立派な手帳

・当学募金広報誌

・講義録/コンピューター将棋の現状(政治経済学術院教授・瀧澤武信)

・中長期計画

こんな立派な品々が同封されていた。オイ、お~い!! オイラはこんな物をもらうとか、「何とか?員」の名称を贈呈されるために「雀の涙」を行ったわけではない。こんな品々を制作するにも多額の費用が必要だろう。贈呈式だって、金のかかることだ。学校側にも体裁を保たなくてはならないこともあるだろうが、もっと、違うやり方があるのではないか、と。私の「雀の涙」が、こんな事務的なことで、又どうでもいいことで。雲散霧消してしまうのではないかと、危惧したのだ。

私のことは、ほっといてくださいな、サポート勝手連ぐらいに考えていただければ、幸甚なり。

今年も、来年も「雀の涙」を継続する心算でいるが、運用の報告こそ知りたいものだ。

2014年2月18日火曜日

除雪作業を楽しむ

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天の神さま、よくも沢山、雪を降らせてくれたもんですね。

先々週の8、9日の土日は、40余年ぶりの大雪だった。そして、先週の15、16の土日は、先々週にまさる記録的な雪の量だったというが、その記録的の説明がない。どちらも、低気圧が発達しながら本州南岸を西日本から東日本に進んで北に去った。天気図は1週間遅れの相似形だ。夏の台風の移動と同じだった。

13と14日の気象予報では、「今週は先週ほどの雪は降りません。13日の夜半には気温が上がって雪が雨になります」だった。雨になると聞けば、聞き手の勝手だろうが、それならば、雪は融けるだろうとつい思ってしまう。かくして、油断してしまった。

関東甲信と東北の幹線道路は大雪のために動けなくなった車の列が数珠つながり。車の中で過ごすドライバーのために、道路の近くの住民が豚汁やお握りをふるまった。心配してお握りを握るオバサンたち、恐縮するドライバーたち。山梨や群馬、長野などでは集落が孤島化した。ヘリコプターで救出されるのをテレビで観た。スーパーやコンビニの食料棚は空っぽ状態。

私達の営業エリアの神奈川県でも、交通は、幹線道路は通行止め、普通の街路はチェーンを装着した車だけがなんとか走れる状態、電車は止まった。一部の地域では停電になった。

16日、朝4時半、権太坂の自宅から歩いて会社に出た。勝手口を出て第一歩、ずぼっとゴム長が埋まった。積雪は60センチ以上だろう。いつもなら1時間もかからないが、1時間半かかった。駅前の牛丼屋で朝飯。経営責任者の中さんと仕事をどうするか、スタッフは7時前後に自宅を出るだろうから、それまでに、何らかの指示を流してやりたい、その打ち合わせをした。取り敢えず、スタッフには、昼までは自宅待機にして、又、再度連絡することにした。最終的にはスタッフの自主的な行動に委ねた。

こんな大雪になる筈ではなかった、のが正直な気持ちだ。

そして翌日20130217、降雪が止(や)めば、我々には仕事がある。商品化した住宅の周りの除雪だ。整然とした住宅街にあって、弊社の商品だけが、だらし無い風情では困る。なかでも一番緊張感のある状態を維持しておかないと、見に来てくれたお客さんに失礼だ。買ってもらえない。

そして、私とアシスタントのスチィーブ君がこの仕事を担当した。この二人、何故か、このような仕事が大好きなんだ。

前面道路の雪は往来の障害になるので、優先的に除雪をした。そして玄関への通路だ。雪の量が多いので置き場に苦慮した。駐車場の除雪も大事だ。それ以外の雪は、頼りなげなお天道(てんとう)さまの日差しにお願いしよう。

2014年2月15日土曜日

東海村臨界事故

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『朽ちていった命 被曝治療83日間の記録

NHK「東海村臨界事故」取材班  執筆者・岩本裕(いわもと ひろし)

(新潮文庫)

 

恐(こわ)い本を読んでしまった。

ホ・ン・ト・ウの放射線の恐ろしさを知ったショックは強力だった。そして思いついた。どれだけの日本人が、この恐ろしさを解っているだろうか、と。

2001年5月に放送されたNHKスペシャル「被曝治療83日間の記録~東海村臨界事故~」は、第56回文化庁芸術祭テレビ部門優秀賞や第42回モンテカルロ国際テレビ祭ニュース番組部門・時事問題番組ゴールドニンフ賞をはじめ、内外の数々の賞を受賞した。この本は、この放送番組を書き上げたものだ。

1999年9月に茨城県東海村で臨界事故が発生した。核燃料の加工作業中に大量の放射線を浴びた患者を救うべき83日間の壮絶な医療団の闘いが、この本の内容だ。一番多く放射線を受けた作業員は35歳の大内久さん。妻と小学3年生の息子がいる3人家族の大黒柱だ。

読み終えて、即、この本のダイジェストに着手した。専門的なことが多く、経過を追って内容を切り貼りした、と考えていただきたい。著者、発行所の新潮社には無断で申し訳ありません。ご理解を願う。

 

★発生したのは、1999年9月30日。

★発生した場所は、茨城県東海村核燃料加工施設「ジェー・シー・オー(JCO)東海事業所。

★大内さんが亡くなったのは、1999年12月21日。

 

ーーーどのようにして、臨界が起こったのか。

1999年9月30日午前10時、事業所内の転換試験棟で作業を始めた。核燃料サイクル開発機構大洗工学センターの高速実験炉「常陽」で使うウラン燃料の加工作業だ。大内さんにとって、転換試験棟での作業は初めてだった。上司と同僚の3人で9月11日から作業にあたってきて、いよいよ仕上げの段階に来ていた。大内は最初、上司の指示に従い、ステンレス製のバケツの中で溶かしたウラン溶液をヌッチェと呼ばれる濾過器で濾過していた。上司と同僚は濾過した溶液を「沈殿槽」という大型の容器に移し替えていた。上司はハンドホールと呼ばれる覗き窓のようになった穴にロウトを差し込んで支え、同僚がステンレス製のビーカーでウラン溶液を流し込んだ。濾過の作業を終えた大内は上司と交代し、ロウトを支える作業を受け持った。

バケツで7杯目。最後のウラン溶液を同僚が流し込み始めたとき、大内はパシッという音とともに青い光を見た。臨界に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。その瞬間、放射線のなかでももっともエネルギーの大きい中性子線が大内たちの体を突き抜けた。被曝したのだ。

原子力発電の燃料として使われるウランは、濃縮施設で、核分裂が起こしやすいウラン235の割合を高める濃縮をしたあと、JCOのような核燃料加工施設で、燃料として扱えるよう加工される。

今回、核燃料サイクル機構から発注された仕事は、燃料を「硝酸ウラニル」というウラン溶液の状態で57キログラム納入するというものだった。

一般の原子力発電所で使われる核燃料は濃縮度が5パーセント以下だが、大内たちが扱っていた燃料は18.8パーセントだった。核分裂を起こしやすウラン235の割合が高い分だけ、臨界に達する危険性も高かった。

 

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事故発生時の作業状況。大内氏はウラン溶液を注ぐロウトを支えていた。溶液を注いでいた篠原氏も大量の中性子線を浴びた。

ーーー正しい作業手順ではなかった。

ウラン化合物を溶かしてウラン溶液にする過程で、当初は溶解塔という臨界にならないように形状を工夫した容器を使っていた。しかし、93年1月から溶解塔の代わりにステンレス製のバケツを使うという違反行為が始まった。溶解作業では1回の作業が終わる度に容器を洗浄しなくてはならない。溶液が残っているとウラン235が蓄積され、濃度が変わる恐れがあるためだ。その点、バケツは洗浄が簡単で、作業時間も短縮できる。それが理由だった。

また、できあがった製品のむらをなくして、品質をならす均一化の工程でも、許可を受けていない方法がとられるようになった。本来の方法では臨界を避けるため、製品を小分けしていたが、手間を省くために貯塔という細長い形の容器に入れて、混合してから撹拌し、均一化する方法が採用された。現場から始まったこれらの違法行為は2年後の1995年7月には会社の承認を得て、作業手順書、いわゆる「裏マニュアル」となった。

核分裂が連鎖的につづく臨界に達するのは、核分裂を起こしやすい性質を持つウラン236などの放射性物質が一定の条件の下に一定の分量以上集まったときだ。逆に言えば、条件や分量をきちんと制限していれば臨界に達することはない。このため臨界の防止対策としては質量制限と形状制限という2つの制限による対策がとられる。

質量制限は、一回に取り扱うウランの量を臨界に達しない限度に制限することだ。しかし、質量制限を超えるウランを扱っても、臨界にならない場合がある。中性子が外に飛び散りやすいような容器の表面積を広げてやればいいのだ。こうすると中性子が他の原子核に当たらなくなるため、核分裂が連鎖的に起こらなくなり、臨界には達しない。このように臨界に達しない形の容器を使うことが形状制限だ。

裏マニュアルでは細長い形状、つまり表面積が広い貯塔を使うことで、臨界を回避していた。

ところが、事故を起こした今回の作業では、この裏マニュアルさえ無視された。均一化の工程で貯塔を使わず、より球形に近い、ずんぐりとした形状の沈殿槽を使ったのだ。貯塔にくらべて背が低く、作業しやすかったためだと言われている。この危険なやり方さえも、加工工程を管理していたJCO東海事業所の主任が承認していたことがわかっている。

 

ーーー東海村に「裸の原子炉」

臨界による核分裂の連鎖反応は、膨大なエネルギーを生み出す。原子爆弾はこのエネルギーを破壊のために使うが、原子力発電所は原子炉を分厚いコンクリートと金属で覆い人為的にコントロールし、発電のために利用している。

今回の事故では最初に臨界に達した際の瞬間的なピークの後も臨界が継続していた。まったくコントロールがきかないうえ、放射線を閉じ込める防護措置もない「裸の原子炉」が突如、村の中に出現したのだった。東海村は事故現場から350メートルの範囲の住民に避難を要請、茨城県も半径10キロメートル圏内の住民約31万人に屋内退避を勧告した。

翌日の10月1日午前6時15分、中性子線を出し続けた「裸の原子炉」は消滅した。

大内さんの被曝量は、20シーベルト前後、これは一般の人が1年間に浴びる限度とされる量のおよそ2万倍に相当する。

 

ーーー前代未聞の治療

大内さんの治療する責任者には、東京大学医学部教授・前川和彦がなった。原子力との接点がないにもかかわらず、救急医療に携わっているならば、被曝医療にも関わるべきだと説得され、結局、原子力安全研究協会ひばく医療対策専門委員会の委員長を務めることになった。

この委員会で、原子力関連施設周辺の病院医師や医療スタッフに被曝医療の知識が徹底して教育されていないことを知って、驚いた。

大内さんは放医研から東大病院に転院。大量の放射線に被曝すると、体の中でも細胞分裂の活発な部分、つまり細胞が次々に生まれ変わっている部分から影響が出てくる。免疫をつかさどる白血球、腸の粘膜、皮膚などだ。とくに白血球が少なくなるとウイルスや細菌、カビなどに感染しやすくなり、ときにその感染が命取りになる。その治療法として、白血球などの血液を作り出すもとになる造血幹細胞を移植して免疫力を取り戻させる方法がある。これからは、前川教授が陣頭指揮を執ることになる。

 

ーーー染色体の破壊とは

大内さんの顕微鏡で拡大した骨髄細胞には、染色体が写っていなかった。染色体がばらばらに破壊されたということは、今後新しい細胞が作られないことを意味していた。染色体は生命の設計図である。

病気が起きて、状況が徐々に悪くなっていくのではないんですね。放射線被曝の場合、たった零コンマ何秒かの瞬間に、すべての臓器が運命づけられる。

ふつうの病気のように血液とか肺とかそれぞれの検査値だけが異常になるのではなく、全身すべての臓器の検査値が刻々と悪化の一途をたどり、ダメージを受けていくんです。

染色体が破壊されたことで最初に異常が現れたのは血液の細胞だった。白血球のなかでもリンパ球は、ウイルスや細菌などの外敵に感染した際、その外敵にあった抗体というタンパク質を作り出す。

リンパ球が全くなくなった。さらに白血球全体も急速に減少した。抵抗力のある健康な人なら感染しても問題のないウイルスや細菌などが異常に増える「日和見感染」を起しやすく、きわめて危険な状態に陥った。

 

ーーー造血幹細胞移植

血小板の数が1立方ミリメートル当たり26、000まで減少した。健康な人ならば12万から38万程度あり、3万を切ると血が止まりにくい危険な状態になる。輸血を開始した。白血球の数も健康な人の10分の1近くの900にまで下がっていた。造血幹細胞移植を急がなければならなかった。

造血幹細胞移植ではもっとも問題になるのが、HLAという白血球の型である。HLA一致する確率は兄弟姉妹なら4分の1だが、一致しなかった場合、まったくの他人から探さなければならない。この場合の確率は数千分の1から数万分の1だ。

妹さんが一致して、造血幹細胞の採取に応じた。

 

ーーー皮膚がはがれ落ちてきた

健康な人の皮膚はさかんに細胞分裂をしている。皮膚の表面にある表皮では、基底層という一番下の部分にある細胞が分裂して、新しい細胞を作り出している。基底層で作られた新しい細胞に押し出されるようにして、細胞は徐々に表面に向っていく。表皮の表面の細胞が垢となってはがれ落ちる。基底層の細胞の染色体が中性子で破壊され、細胞が分裂できなくなった。体を覆い、守っていた表皮が徐々になくなり、激痛が襲った。

 

ーーー 呼吸困難に陥る

X線撮影で見ると右の肺を中心に影が出ていた。肺の中で出血しているのか。血管の外に浸み出て水分がたまり肺水腫を起こしているのか。簡単には診断がつけられなかった。血液中の酸素の量を増やすために、圧力をかけて強制的に肺を広げ、酸素を送り込む医療用のマスクを付けた。が、悪化が進み、血液に酸素を十分にとりこめなくなった。

ペントキシフィリンを投薬した。この薬は大量の放射線を浴びたことによって起きる肺炎など、肺障害の予防薬としても効果があるといわれている。

気管にチューブを入れた。

 

ーーー妹の造血幹細胞が根付いた

被曝から17日目。骨髄の細胞の一部を調べると、若く生まれたばかりの白血球が確認できた。白血球は急速に増え、健康な人と変わらない6500になった。翌日には8000に。ゼロになっていたリンパ球も白血球の30%を占めるまでに、赤血球や血小板も増えた。

被曝から18日目の末梢血幹細胞移植の検査結果から、妹の造血幹細胞が根付いたことを確信した。大量の放射線を浴びて、免疫細胞がほぼ完全に破壊されていたことが逆に幸いし、妹の細胞を拒絶しなかったためではないかと考えられた。

末梢血幹細胞移植が成功したといっても、造血能力は赤血球やいくつもの種類の白血球、それに血小板などを作るまでには回復していなかった。赤血球を増やす働きのある「エリスロポエチン」や、血小板を作る血液細胞を増やす「トロンボポエチン」という薬を投与した。赤血球や血小板自体の輸血も毎日行われた。

 

ーーー放射線化

だが、被曝から26日目に届いた骨髄細胞に関する検査結果の報告書には、胸骨から採取された60の細胞ついて、染色分体のBREAKが、30細胞中3細胞に認められた、とあった。根付いたばかりの妹の細胞の10%に異常が見つかったというのだ。1番と2番の染色体に傷がつき、折れ曲がっていた。染色体に傷がつくというのは、めったにないことだ。

この染色体の傷については医療チームのなかでも議論になった。一つの推測として、体を貫いた中性子線が体内の物質を放射化し、染色体を傷つけたのではないかという考え方があった。中性子が体内のナトリウムやリン、それにカリウムなどに当たると、これらの物質の性質が変化し、自らの放射線を発するようになる。これが放射線化だ。

 

ーーー次々に起こる放射線障害

抹消血幹細胞移植が成功した後に警戒していたのは、GVHDだった。このGVHD(移植片対宿主病)は、造血幹細胞移植の後に起きることのある副作用で、移植片(移植された造血幹細胞)から成長したリンパ球が、宿主(移植を受けた患者自身)を攻撃してしまう。臓器移植で起きる拒絶反応では、移植された臓器が、移植を受けた患者のリンパ球などから攻撃を受けるが、GVHDはその逆の現象である。

被曝から27日目、大量の緑色の水のような下痢が始まった。原因はGVHDと放射線障害の二つが考えられた。

大腸の内視鏡の検査の結果、モニターに現れた腸の内部は、粘膜がなくなって粘膜下層と呼ばれる赤い部分がむき出しになっていた。死んだ腸の粘膜は所々に白く垂れ下がっていた。

腸の組織の生検をして、組織にリンパ球が集まっていれば、妹のリンパ球が組織を攻撃していてGVHDと診断できるのだが、「放射線による消化器官の障害で生検は禁忌」と、アドバイスを受け、避けた。放射線の障害を受けた組織は、絶対出血が止まらないからだ。

血液中には「ミオグロビン」というタンパク質が大量に流れだしていた。ミオグロビンは「筋肉ヘモグロビン」とも呼ばれ、赤血球に含まれるヘモグロビンと同じように筋肉のなかで酸素を貯蔵する役割がある。ミオグロビンは筋肉の組織が壊れると血液中に流れ出し、腎臓で処理されて、尿として排泄される。そして、腎臓の機能が悪くなっていく。

事故の瞬間もっとも多くの放射線を浴びたとみられている右手は、被曝から2週間経った頃から表面が徐々に水ぶくれになっていた。この水ぶくれが破れた部分に、新しい表皮ができてこないことに気づいた。

被曝から1か月後の右手は、皮膚がほとんどなくなり、右上腕、右胸から右脇腹の部分、そして太股(ふともも)へかけて、皮膚が水ぶくれになっては、はがれ落ちていった。

体を包んでいたガーゼや包帯は、体からしみ出す体液を吸い込んで重くなっていた。しみ出した体液は、1日1リットルに達していた。悪化っして2リットルを超えるようになった。

目蓋が閉じない状態になっていた。目が乾かないよう黄色い軟膏を塗っていた。

爪もはがれ落ちた。

 

ーーー培養皮膚の移植

中性子線を直接浴びた体の前面の皮膚がほぼ完全にはがれ落ちたが、背中側の皮膚はそのままきれいに残っていた。被曝から3週間が過ぎたころ、白血球の型が同じ妹の皮膚を培養することにした。妹の太股から2センチ✕4センチの面積の皮膚を採取、愛媛大学で培養を始めた。十分な大きさに成長するまでには2週間から1ヶ月必要だった。

最終的には、妹が提供した培養皮膚を含めて70枚が移植されたが、大量に浸み出す体液のために、3、4日もすると浮いてしまい、生着することはなかった。

 

ーーー下痢が止まらず、下血が始まった

血小板が作ることができないため、腸の粘膜がはがれると大出血を起こす可能性が高い。腸の粘膜の増殖を促すため「Lーグルタミン」を投与していた。潰瘍の治療薬「プロトンポンプ阻害剤」も点滴した。

内視鏡検査では、モニターで映し出されたファイバースコープの丸い視野には、粘膜がほとんどなくなり、表面が赤くただれていた。下血は、1日に800ミリリットルに及んだ。

下血や、皮膚からの体液と血液の浸み出しを合わせると、体から失われる水分は1日10リットルに達した。

 

ーーー心停止

被曝してから59日目に心停止した。心臓が停止したことが確認されたため、心肺蘇生措置を続けた。心臓マッサージを続け、塩酸ドーバミン、メイロン、マグネゾールといった治療薬を投与した。心肺再開。

停止と再開を3度繰り返した心臓は、心臓マッサージや強心剤の投与など分刻みの処置を行った結果、再び自らの力で鼓動を始めた。

心停止中も心臓マッサージを持続的に行ったため、脳血流が完全に途絶した時間はなかったと考えられた。

腎機能はほぼ廃絶したと考えられたので、「持続的血液濾過透析装置」を導入した。

肝臓で作られ、出血を止めるために必要な血液凝固因子が極端に減っていることも検査の結果わかった。肝血流の低下から、肝不全に陥ったと考えられた。

 

ーーーマクロファージ

被曝から63日目、血液の中で新たな事態が起こっていることが判明した。顕微鏡の視野の中で、赤血球や白血球にアメーバーのような形をした細胞が襲いかかっていた。マクロファージという細胞だ。

マクロファージは、本来、体に侵入した細菌やウイルスなどを攻撃する免疫細胞だ。アメーバーのように変形しながら、細胞やウイルスを中に取り込んで消化することから「貪食(どんしょく)細胞」と呼ばれる。古くなっていらなくなった赤血球なども取り込んで処理するが、このマクロファージが異常をきたし、正常な赤血球や白血球を、まさに「食べて」いたのだ。「血球貪食症候群」と呼ばれる症状だった。

 

ーーー血漿交換

血液の液体部分である血漿をすべて、健康な他人のものと交換して、血漿に含まれる有害物質を取り除く治療だ。静脈から血液を抜き取って分離装置にかけ、血液細胞と血漿とを分ける。分離された血液細胞に新鮮凍結血漿を加えて、体に戻す。古い血漿は廃棄する。

妹から提供された造血幹細胞から作られ、体の中で増えていた白血球は、異常をきたした自らの免疫細胞・マクロファージによって次々と攻撃され、力尽きていった。

 

ーーー意識が悪化

脳の検査に瞳孔の対光反射を調べるのがある。呼吸や血液の循環など生命維持に直結する機能をつかさどる脳幹という部分がダメージを受けていると、瞳孔は光に反応しなくなる。ほとんど対光反応は確認できなくなっていた。

人工呼吸器もこれまでの自発呼吸を助ける設定から、自発呼吸がなくても強制的に呼吸させる設定に切り替えられた。

 

ーーー昇圧剤投与

血圧を上げるために昇圧剤を4種類、限界まで投与した。家族との話し合いでこれ以上増量しないこととした。

末梢の血管の抵抗を強めることによって、血圧を上げる作用がある。逆に言えば、体の中心部に血液を集めるために、体の末端には血液が行き渡らなくなる。

血液の流れが悪くなったことで、抗生物質や抗真菌剤が全身に行き渡らなくなった。体の表面には浸み出してくる体液を栄養分にして「アスペルギス」というカビの一種が生えてきた。銀白色のアスペルギスは体から腕、そして足の付け根の部分に広がってきた。

心拍数が低下、血圧も低下。強心剤のボスミンのアンプルを3本使ったが、効果なし。

 

ーーーそして、被曝から83日目

1999年12月21日、亡くなった。

 

★解剖が行われた。

焼死体のように全身が真っ黒ではなく、放射線が当たったと思われる体の前面だけが火傷のように、皮膚の表面が全部失われ、血がにじんでいた。背面はあくまでも白く、正常な皮膚のように見えた。放射線が当たったところと、そうでないところの境界がくっきりと分かれていた。

腸はふくらんで大蛇がのたうちまわっているよう。胃には2040グラム、腸には2680ッグラムの血液がたまっていた。

体の粘膜という粘膜が失われていた。腸などの消化官粘膜のみならず、気管の粘膜もなくなっていた。

骨髄にあるはずの造血幹細胞もほとんど見当たらなかった。細胞の分裂がさかんなところは放射線にたいする感受性が高く、障害を受けやすい。粘膜や骨髄などの組織はすべて大きく障害を受けていた。

通常は放射線の影響をもっとも受けにくいとされている筋肉の細胞の繊維がほとんど失われていた。そのなかで一つだけ、筋肉細胞だけが鮮やかにきれいに残っていた臓器があった。それは心臓の筋肉だけは破壊されていなかった。

 

臨界 【りんかい】

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

核分裂の連鎖反応が安定した状態で続くこと。原子炉にとって特別重要段階で、実質的に動き出したといえる。プルトニウムなど核物質の原子核中性子がぶつかると核分裂が起きる。核分裂の際に発生する熱で電気を起こすのが原子力発電だ。もんじゅ場合、核分裂で一つの原子核から中性子が新た平均3個飛び出す。この中性子がさらに別の原子核にぶつかって核分裂を起こし……と続く。中性子を吸収する制御棒を徐々に引き抜いてその数が一定になるように調整し、核分裂の連鎖反応が安定的に保たれた状態が「臨界」。コピー機に例えれば、スイッチを入れることが制御棒を引き抜く作業にあたり、機械が温まってコピーできる状態になったのが「臨界」だ。
( 2010-05-08 朝日新聞 夕刊 1社会 )

2014年2月14日金曜日

雪中、ブロッコリーの収穫だ

2014 012

どうですか? このブロッコリーのでき栄えは。我がイーハトーブの果樹園の野菜畑で収穫したものだ。

この3週間、私の腰痛が激しく、併(あわ)せて風邪をひいて、それに40余年ぶりの大雪に襲われ、イーハトーブに足を運べなかった。昨日20140213、久しぶりにイーハトーブに行ってみたら、畑はすっかり25センチほどの雪に覆われていた。果樹は、蜜柑、栗、柿、無花果、金柑、ブルーベリー、李(スモモ)に桃、どいつもこいつもしょんぼり、不安げだ。もう少しの辛抱だ、春は必ずやってくるサカイに元気を出していこうぜ、と発破をかけてやった。背の高いブロッコリーと野沢菜は茎の中ほどから外に顔を出して陽(ひ)を受けていた。ミズナやキャベツ、玉ねぎ、春菊、ほうれん草は雪に埋もれて、じっと我慢していた。

雪を取り除いてやれば、耐えている野菜たちに、さぞかし、喜ばれるのだろうが、気の利かない私は、そのための準備をしてこなかったことに後悔した。素手では無理だ。

ブロッコリーは、アブラナ科の緑黄野菜。花を食用とするキャベツの一種がイタリアで品種改良され現在の姿になったとネットで知った。だから、地中海が原産地と言われるのだ。

ところで、このブロッコリーなるハイカラな野菜を、初めて口にしたのはいつの頃だったのだろう。郷里では父の作った自家製の野菜以外は食ったことがない。

1968年、上京して学生になってから、合宿やパーテイーなどで、こいつを見つけたときは、マヨネーズを山盛りにして食った。みんなから、栄養があるんだと言われて、日常的に貧乏暮らしの私は、ヒートアップ、ここぞとばかりに餓鬼になった。

私にとっては、今でも高級野菜だ。半分は茹でてやはりマヨネーズをたっぷりのせて、半分は塩味で炒めていただきました。

2014年2月13日木曜日

ソチ五輪、開幕。

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20140208 朝日・朝刊

7日、金属探知機が並ぶ入り口(後方)を通ってソチ五輪の開会式へ向かう観客たち=川村直子撮影

20140208、第22回冬季オリンピック競技ソチ大会の開会式をテレビで観た。開会式は7日、2014年にちなんで20:14から始まった。日本時間では、8日午前1時14分だ。

今まで、1964年の東京オリンピックから、夏季冬季の五輪を何度も世界の各地で開催されたが、テレビで開会式を初めから終わりまでしっかり観たのは、2008年の北京と2012年のロンドンと今回のソチ大会だけだ。東京オリンピックは、当然テレビにかぶりついて観た。高校生だった。映画でも2回観ている。

今回のソチは、私にも余裕が生まれたのだろう、充分楽しめた。今までは、明日の仕事に差しさわりがあるとか、酒に酔ってしまったからと言って、実に不真面目な視聴者だった。

競技会場の工事が遅れているとの報道が昨年の年末あたりからあったが、外務省の元官僚が、ラジオ番組で、ロシア人はいつもはチンタラ仕事をするのですが、イザ、後何日までに完成させろということになった時には、短期間、集中して物凄いパワーを出すんですよ、一人で二人分、三人分の仕事をやっちゃうんですよ、と話していたので、私はその話を鵜呑みにした。

どこの開会式でも、その様式やアトラクションに、その開催都市や開催国の独自の趣向や工夫が凝らされ、その意気込みを見る側に感動を与える。ロンドンはゆったり楽しめたが、北京は力が入り過ぎで疲れた。今回のソチには、ソチというかロシアにも歴史的な事情があって、その意気込みの凄さの源を探る新聞記事があったので、それを保存した。

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20140208 朝日・朝刊

 

 

20140208 朝日・朝刊  モスクワ支局長 駒木明   

苦難の道歩んだロシアの縮図

 

「新しいロシアを見てもらいたい」

プーチン大統領は意気込みを語る。

ソチ五輪では、施設の全てがゼロから造られた。11ヶ所の競技場だけではない。鉄道、高速道路、宿泊施設。開催決定の2007年から、新しい都市を一つ建設したようなものだ。

費やされた経費は日本円にして約5兆円。夏季を含めた五輪史上最高額だ。

ロシアの力を誇るため、だけではない。やむを得ない理由もあった。1991年のソ連崩壊で、ロシアはウインタースポーツの拠点を失ってしまったのだ。

たとえば、スピードスケート。ソ連時代に世界最高のリンクがあったカザフスタンは、外国になった。02年の米ソルトレークシティー五輪で、ロシアは自国の代表選考会をドイツで開く屈辱を味わった。

ソチの7年間の突貫工事は、ソ連崩壊後にロシアが歩んだ22年間の縮図だ。ロシアにとってソチ五輪は、苦難の時代を乗り切り、再び胸を張る機会なのだ。

そんな晴れの舞台に、テロの脅威が影を落とす。国外からは昨年成立した「反同性愛法」への批判が噴出。大統領の願いとは別に「相変わらずのロシア」が世界に伝わっている。

それでも、忘れてはいけない大きな変化がある。

80年夏のモスクワ五輪では、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して日米など多くの国がボイコットした。「冷戦」が「熱い戦争」に変わるかもしれない世界。それはもう過去のものだ。ソチには、冬季史上最多の国と地域が参加する。

「異なる民族、宗教、職業の選手たちが選手村で1ヶ月近く生活を共にする。互いに理解し合い、すばらしい雰囲気が生まれる」。テロが相次ぐロシア南部ダゲスタン出身で、レスリングで3度の金メダルに輝いたブワイサル・サイティエフ選手(38)の言葉だ。

世界最高のアスリートの競演を大いに楽しみつつ、五輪の持つ力を私たちも共に感じる機会にしたい。

2014年2月12日水曜日

メダル、メダルと言いなさんな

 

オリンピックという檜舞台で活躍するアスリートたちを、甚(いた)く尊敬している私にとって、昨今のテレビの実況中継を観ていて、腹立たしくなったのでこの稿を起こした。今、開催中のソチオリンピックのテレビ報道のことだ。

キャスターが、オリンピックは決して国対抗の大会ではないのに、阿呆の一つ覚えのように、ニッポン、日本と、日本を取り立てて持ち上げる。またメダルだ、金だ銀だ銅だと叫ぶ。

これから始まろうとする競技の出場選手に対して、彼ならば絶対金メダルが狙えますよとか、オリンピックごとに順位を上げてきているので、今回はメダル間違いないですよ、といとも気楽に語っているのを耳にすると、無性に腹が立ってくるのだ。

ゲストとして呼ばれた元アスリートの解説者が、言葉を選んで競技の内容について、選手の個性について、他の選手についても詳しく説明している側(そば)で、馬鹿騒ぎしている光景にムカムカするのだ。

いつもは聞き流していた開会式の国際オリンピック委員会のバッハ会長のスピーチを、今回は私にも余裕が生まれたようで、ネットでも見つけて吟味した。バカ騒ぎをしている連中は、このスピーチの一つ一つの言語を確認して欲しい。中でも私が気に入ったところを抜粋させてもらった。

これほどのスピーチを、あなたはどれ程の覚悟を持って聞き入りましたか。私には、感動を受けた幾つもの言葉があった。

アスリートたちの崇高な挑戦を前に、どうか、馬鹿か阿呆にはならないでください。

 

(以下、開会式のスピーチのダイジェストです)

オリンピックスポーツは人々を結びつけるものです。競争相手に敬意を払うことで、更に素晴らしい勝利を目指すことが出来ます。

競争相手同士も寛容な心を持って、いかなる理由による差別もなく、一つ屋根の下で仲良く暮らすことが出来ます。

競争相手であっても、相手に耳を傾け、理解し合い、平和な社会のお手本となることが出来るのです。オリンピックの目的は常に人々を結びつけ、架け橋を築くことです。

オリンピックは、人々を分断する壁を作るのが目的ではありません。

オリンピックは人々の多様性と絆を受け入れるスポーツの祭典です。ですから、世界の政治指導者にこう申し上げます。国民のアスリートを支援してくださっていることに感謝します。かれらは国の最高の選手たちです。敬意、寛容、卓越、平和という選手たちのオリンピックメッセージを尊重してください。意見の違いがある場合には、選手の後ろに隠れるのではなく、平和な直接的な政治対話によって解決する勇気を持ってください。

大会関係者やスポーツファンには、こう申し上げます。ェアプレイを目指す私たちの闘いに参加し、サポートしてください。

オリンピックのアスリートたちにはこう申し上げます。ルールを尊重してください。フェアなプレイをしてください。禁止薬物を使わないでください。競技中でも、競技の前後でも仲間の選手たちに敬意を払ってください。オリンピックの経験が喜びにあふれた素晴らしいものになることを願っています。

 

スポーツを愛する賢明な人たちよ、アスリートの活躍をじっくり楽しもうぜ。

2014年2月8日土曜日

こんな夢を、何故、何度も?

大学入試センター試験の初日の夜、私は今までに何度も見た夢を又見てしまった。年に2度も3度も、同じ夢を見るということが、私以外のみんなにもあるのだろうか?

その夢というのは、大学の卒業を控えた4年生のときのこと。卒業に必要な履修単位の取得数が、私が計算していた数字と、事務局が指摘する数字とが違って、あわや留年になりかねないと、てんやわんや、学部の事務局内でスタッフに噛み付きながら確認している。1単位の余裕もなかったのだ。私の計算に間違いはない、、、慎重に確認しているんだ、、、事務局スタッフとの大騒ぎの果てに、カッとなって目が覚める。毎回、同じところで目が覚める。

その背景には、切羽詰った私なりのお粗末な事情があったのだ。

私はクラブ活動を年内に終え、2月には、まだ卒業に必要な単位を取得していないにもかかわらず、卒業見込みの扱いで、就職する予定の会社の新入社員教育を受けていたのだ。人事担当からは、卒業できないと入社はできないんだよ、と念を押されていた。

社会科学概論と社会思想史の2科目の追試を受けなければならなかった。勉強していないのだから、試験では何も書けなかった。当然だ。この追試を乗り越えないと、卒業はできない。

追試を受けなくてはならないと知らされた翌日、人事担当に事情を説明して、会社を休んで2科目の担当のそれぞれの教授宅を訪ねた。私には、結婚相手が決まっていて、焦(あせ)っていた。この会社では、このような件に、人事担当はそれほど大問題とは考えていなかった、前例があったのだろうか。いろんな大学からやってきた新入社員は、パラパラと各大学の卒業式に出かけて行った。知り合ったばかりの明治大と法政大のアイスホッケー部の元主将らから、これ見よがしに、卒業証書を見せつけられた。

社会科学概論担当の教授は、君のような学生がいるから本学はいい学校になれないんだ。係属の高等学院と他学部でも授業を持っていて、学校をこよなく愛し、この学校が母校の教授だった。サッカー部に所属しているからといって、勉学をサボるのは許せない。勉強をしないからスポーツも弱くなるんだ、とか何とか、30分ほど説教された。奥さんがお茶を持ってきてくれた。それからも、現代の学生の気風が、私らの学生時代とは随分違うんだと、牛の涎(よだれ)、これも30分ほど説諭され、教授には時間的な余裕があったのだろう。

しびれを切らした私は、教授、何とかこれから1週間でやれるだけやってみますからと言い放ち、立ち上がって帰ろうとしたとき、唐突に、君、君、今度の追試にはこの5つの問題を出す心算なので、そのうち3問以上は完璧に答案用紙に書き込みなさい、と問題を教えてくれた。結果、5問とも満点をとったのは言うまでもない。これで、この科目はオッケーだった。

もう一つの科目社会思想史は、担当教授の専門がフランスの思想史だったようで、この科目は難関だった。この科目を履修科目に選んだのは、サッカー部の先輩の助言があったからだ。あの教授の試験は今までずうっと毎年同じ問題なので、受講しなくても、模範解答が歴代サッカー部に残されているので大丈夫、とのことだったのだ。浅墓にも、その話に乗った。

ところが、どっこい、今回の試験問題は、過去に一度も出たことのない問題ばかりで、授業に出席したこともなく、教科書を一度も開けたことのない私には、完全にお手上げ状態だった。

同じように担当の教授宅を訪ねたが、教授は留守がちで、会えたのは3度目にお邪魔した時だった。勉強しなかったことを詫(わ)び、現在は既に就職先で新入社員教育を受けていること、できるだけ早く結婚したいと思っていることを話した。学究肌の教授は、そんな言い訳を聞いていたのか、聞いていなかったのか、柔和な表情のまま肯(うなず)いていた。

教授は、兎に角、まだ1週間あるので、できるだけ勉強してください、だった。取り付く島もない教授に解りましたと辞した。それから、私は思いを巡らした。今まで、何年もこだわって出題した問題なのだから、その過去問題にこそ、私が今度受ける追試のためのヒントがあるように思えた。今までとは全然問題は違えども、何かが、教授が学生に習得して欲しいと思うことがある筈だと推察した。

過去問題をじっくりじっくり確かめた。そして、先輩たちが用意してくれた模範解答よりももっと深く調べて、自分なりの答案を原稿用紙に書き綴った。それだけの勉強では、大した対策にはならないことは解っていたが、今、できることはそれしかなかった。そして、追試の本番で、そこに出題された問題を見て仰天、アニハカランヤ、期末に出題された問題と同じものだった。ラッキー、充分合格をもらえるだけは書けた。そして、余った時間で、出題された問題とは別に、教授が過去の問題等でこだわってきた課題について、この1週間で学習したことを、できるだけ沢山、答案用紙に書けるだけ書いた。

合格点をもらえたことを確認した後、休日を利用して教授宅を、お酒をもって訪ねた。教授はニタッと微笑みながら、よく勉強したね、と褒めてくれた。立派な社会人になるようにと激励された。

こんな波乱含みの、単位取得騒動だったのだ。