2014年2月15日土曜日

東海村臨界事故

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『朽ちていった命 被曝治療83日間の記録

NHK「東海村臨界事故」取材班  執筆者・岩本裕(いわもと ひろし)

(新潮文庫)

 

恐(こわ)い本を読んでしまった。

ホ・ン・ト・ウの放射線の恐ろしさを知ったショックは強力だった。そして思いついた。どれだけの日本人が、この恐ろしさを解っているだろうか、と。

2001年5月に放送されたNHKスペシャル「被曝治療83日間の記録~東海村臨界事故~」は、第56回文化庁芸術祭テレビ部門優秀賞や第42回モンテカルロ国際テレビ祭ニュース番組部門・時事問題番組ゴールドニンフ賞をはじめ、内外の数々の賞を受賞した。この本は、この放送番組を書き上げたものだ。

1999年9月に茨城県東海村で臨界事故が発生した。核燃料の加工作業中に大量の放射線を浴びた患者を救うべき83日間の壮絶な医療団の闘いが、この本の内容だ。一番多く放射線を受けた作業員は35歳の大内久さん。妻と小学3年生の息子がいる3人家族の大黒柱だ。

読み終えて、即、この本のダイジェストに着手した。専門的なことが多く、経過を追って内容を切り貼りした、と考えていただきたい。著者、発行所の新潮社には無断で申し訳ありません。ご理解を願う。

 

★発生したのは、1999年9月30日。

★発生した場所は、茨城県東海村核燃料加工施設「ジェー・シー・オー(JCO)東海事業所。

★大内さんが亡くなったのは、1999年12月21日。

 

ーーーどのようにして、臨界が起こったのか。

1999年9月30日午前10時、事業所内の転換試験棟で作業を始めた。核燃料サイクル開発機構大洗工学センターの高速実験炉「常陽」で使うウラン燃料の加工作業だ。大内さんにとって、転換試験棟での作業は初めてだった。上司と同僚の3人で9月11日から作業にあたってきて、いよいよ仕上げの段階に来ていた。大内は最初、上司の指示に従い、ステンレス製のバケツの中で溶かしたウラン溶液をヌッチェと呼ばれる濾過器で濾過していた。上司と同僚は濾過した溶液を「沈殿槽」という大型の容器に移し替えていた。上司はハンドホールと呼ばれる覗き窓のようになった穴にロウトを差し込んで支え、同僚がステンレス製のビーカーでウラン溶液を流し込んだ。濾過の作業を終えた大内は上司と交代し、ロウトを支える作業を受け持った。

バケツで7杯目。最後のウラン溶液を同僚が流し込み始めたとき、大内はパシッという音とともに青い光を見た。臨界に達したときに放たれる「チェレンコフの光」だった。その瞬間、放射線のなかでももっともエネルギーの大きい中性子線が大内たちの体を突き抜けた。被曝したのだ。

原子力発電の燃料として使われるウランは、濃縮施設で、核分裂が起こしやすいウラン235の割合を高める濃縮をしたあと、JCOのような核燃料加工施設で、燃料として扱えるよう加工される。

今回、核燃料サイクル機構から発注された仕事は、燃料を「硝酸ウラニル」というウラン溶液の状態で57キログラム納入するというものだった。

一般の原子力発電所で使われる核燃料は濃縮度が5パーセント以下だが、大内たちが扱っていた燃料は18.8パーセントだった。核分裂を起こしやすウラン235の割合が高い分だけ、臨界に達する危険性も高かった。

 

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事故発生時の作業状況。大内氏はウラン溶液を注ぐロウトを支えていた。溶液を注いでいた篠原氏も大量の中性子線を浴びた。

ーーー正しい作業手順ではなかった。

ウラン化合物を溶かしてウラン溶液にする過程で、当初は溶解塔という臨界にならないように形状を工夫した容器を使っていた。しかし、93年1月から溶解塔の代わりにステンレス製のバケツを使うという違反行為が始まった。溶解作業では1回の作業が終わる度に容器を洗浄しなくてはならない。溶液が残っているとウラン235が蓄積され、濃度が変わる恐れがあるためだ。その点、バケツは洗浄が簡単で、作業時間も短縮できる。それが理由だった。

また、できあがった製品のむらをなくして、品質をならす均一化の工程でも、許可を受けていない方法がとられるようになった。本来の方法では臨界を避けるため、製品を小分けしていたが、手間を省くために貯塔という細長い形の容器に入れて、混合してから撹拌し、均一化する方法が採用された。現場から始まったこれらの違法行為は2年後の1995年7月には会社の承認を得て、作業手順書、いわゆる「裏マニュアル」となった。

核分裂が連鎖的につづく臨界に達するのは、核分裂を起こしやすい性質を持つウラン236などの放射性物質が一定の条件の下に一定の分量以上集まったときだ。逆に言えば、条件や分量をきちんと制限していれば臨界に達することはない。このため臨界の防止対策としては質量制限と形状制限という2つの制限による対策がとられる。

質量制限は、一回に取り扱うウランの量を臨界に達しない限度に制限することだ。しかし、質量制限を超えるウランを扱っても、臨界にならない場合がある。中性子が外に飛び散りやすいような容器の表面積を広げてやればいいのだ。こうすると中性子が他の原子核に当たらなくなるため、核分裂が連鎖的に起こらなくなり、臨界には達しない。このように臨界に達しない形の容器を使うことが形状制限だ。

裏マニュアルでは細長い形状、つまり表面積が広い貯塔を使うことで、臨界を回避していた。

ところが、事故を起こした今回の作業では、この裏マニュアルさえ無視された。均一化の工程で貯塔を使わず、より球形に近い、ずんぐりとした形状の沈殿槽を使ったのだ。貯塔にくらべて背が低く、作業しやすかったためだと言われている。この危険なやり方さえも、加工工程を管理していたJCO東海事業所の主任が承認していたことがわかっている。

 

ーーー東海村に「裸の原子炉」

臨界による核分裂の連鎖反応は、膨大なエネルギーを生み出す。原子爆弾はこのエネルギーを破壊のために使うが、原子力発電所は原子炉を分厚いコンクリートと金属で覆い人為的にコントロールし、発電のために利用している。

今回の事故では最初に臨界に達した際の瞬間的なピークの後も臨界が継続していた。まったくコントロールがきかないうえ、放射線を閉じ込める防護措置もない「裸の原子炉」が突如、村の中に出現したのだった。東海村は事故現場から350メートルの範囲の住民に避難を要請、茨城県も半径10キロメートル圏内の住民約31万人に屋内退避を勧告した。

翌日の10月1日午前6時15分、中性子線を出し続けた「裸の原子炉」は消滅した。

大内さんの被曝量は、20シーベルト前後、これは一般の人が1年間に浴びる限度とされる量のおよそ2万倍に相当する。

 

ーーー前代未聞の治療

大内さんの治療する責任者には、東京大学医学部教授・前川和彦がなった。原子力との接点がないにもかかわらず、救急医療に携わっているならば、被曝医療にも関わるべきだと説得され、結局、原子力安全研究協会ひばく医療対策専門委員会の委員長を務めることになった。

この委員会で、原子力関連施設周辺の病院医師や医療スタッフに被曝医療の知識が徹底して教育されていないことを知って、驚いた。

大内さんは放医研から東大病院に転院。大量の放射線に被曝すると、体の中でも細胞分裂の活発な部分、つまり細胞が次々に生まれ変わっている部分から影響が出てくる。免疫をつかさどる白血球、腸の粘膜、皮膚などだ。とくに白血球が少なくなるとウイルスや細菌、カビなどに感染しやすくなり、ときにその感染が命取りになる。その治療法として、白血球などの血液を作り出すもとになる造血幹細胞を移植して免疫力を取り戻させる方法がある。これからは、前川教授が陣頭指揮を執ることになる。

 

ーーー染色体の破壊とは

大内さんの顕微鏡で拡大した骨髄細胞には、染色体が写っていなかった。染色体がばらばらに破壊されたということは、今後新しい細胞が作られないことを意味していた。染色体は生命の設計図である。

病気が起きて、状況が徐々に悪くなっていくのではないんですね。放射線被曝の場合、たった零コンマ何秒かの瞬間に、すべての臓器が運命づけられる。

ふつうの病気のように血液とか肺とかそれぞれの検査値だけが異常になるのではなく、全身すべての臓器の検査値が刻々と悪化の一途をたどり、ダメージを受けていくんです。

染色体が破壊されたことで最初に異常が現れたのは血液の細胞だった。白血球のなかでもリンパ球は、ウイルスや細菌などの外敵に感染した際、その外敵にあった抗体というタンパク質を作り出す。

リンパ球が全くなくなった。さらに白血球全体も急速に減少した。抵抗力のある健康な人なら感染しても問題のないウイルスや細菌などが異常に増える「日和見感染」を起しやすく、きわめて危険な状態に陥った。

 

ーーー造血幹細胞移植

血小板の数が1立方ミリメートル当たり26、000まで減少した。健康な人ならば12万から38万程度あり、3万を切ると血が止まりにくい危険な状態になる。輸血を開始した。白血球の数も健康な人の10分の1近くの900にまで下がっていた。造血幹細胞移植を急がなければならなかった。

造血幹細胞移植ではもっとも問題になるのが、HLAという白血球の型である。HLA一致する確率は兄弟姉妹なら4分の1だが、一致しなかった場合、まったくの他人から探さなければならない。この場合の確率は数千分の1から数万分の1だ。

妹さんが一致して、造血幹細胞の採取に応じた。

 

ーーー皮膚がはがれ落ちてきた

健康な人の皮膚はさかんに細胞分裂をしている。皮膚の表面にある表皮では、基底層という一番下の部分にある細胞が分裂して、新しい細胞を作り出している。基底層で作られた新しい細胞に押し出されるようにして、細胞は徐々に表面に向っていく。表皮の表面の細胞が垢となってはがれ落ちる。基底層の細胞の染色体が中性子で破壊され、細胞が分裂できなくなった。体を覆い、守っていた表皮が徐々になくなり、激痛が襲った。

 

ーーー 呼吸困難に陥る

X線撮影で見ると右の肺を中心に影が出ていた。肺の中で出血しているのか。血管の外に浸み出て水分がたまり肺水腫を起こしているのか。簡単には診断がつけられなかった。血液中の酸素の量を増やすために、圧力をかけて強制的に肺を広げ、酸素を送り込む医療用のマスクを付けた。が、悪化が進み、血液に酸素を十分にとりこめなくなった。

ペントキシフィリンを投薬した。この薬は大量の放射線を浴びたことによって起きる肺炎など、肺障害の予防薬としても効果があるといわれている。

気管にチューブを入れた。

 

ーーー妹の造血幹細胞が根付いた

被曝から17日目。骨髄の細胞の一部を調べると、若く生まれたばかりの白血球が確認できた。白血球は急速に増え、健康な人と変わらない6500になった。翌日には8000に。ゼロになっていたリンパ球も白血球の30%を占めるまでに、赤血球や血小板も増えた。

被曝から18日目の末梢血幹細胞移植の検査結果から、妹の造血幹細胞が根付いたことを確信した。大量の放射線を浴びて、免疫細胞がほぼ完全に破壊されていたことが逆に幸いし、妹の細胞を拒絶しなかったためではないかと考えられた。

末梢血幹細胞移植が成功したといっても、造血能力は赤血球やいくつもの種類の白血球、それに血小板などを作るまでには回復していなかった。赤血球を増やす働きのある「エリスロポエチン」や、血小板を作る血液細胞を増やす「トロンボポエチン」という薬を投与した。赤血球や血小板自体の輸血も毎日行われた。

 

ーーー放射線化

だが、被曝から26日目に届いた骨髄細胞に関する検査結果の報告書には、胸骨から採取された60の細胞ついて、染色分体のBREAKが、30細胞中3細胞に認められた、とあった。根付いたばかりの妹の細胞の10%に異常が見つかったというのだ。1番と2番の染色体に傷がつき、折れ曲がっていた。染色体に傷がつくというのは、めったにないことだ。

この染色体の傷については医療チームのなかでも議論になった。一つの推測として、体を貫いた中性子線が体内の物質を放射化し、染色体を傷つけたのではないかという考え方があった。中性子が体内のナトリウムやリン、それにカリウムなどに当たると、これらの物質の性質が変化し、自らの放射線を発するようになる。これが放射線化だ。

 

ーーー次々に起こる放射線障害

抹消血幹細胞移植が成功した後に警戒していたのは、GVHDだった。このGVHD(移植片対宿主病)は、造血幹細胞移植の後に起きることのある副作用で、移植片(移植された造血幹細胞)から成長したリンパ球が、宿主(移植を受けた患者自身)を攻撃してしまう。臓器移植で起きる拒絶反応では、移植された臓器が、移植を受けた患者のリンパ球などから攻撃を受けるが、GVHDはその逆の現象である。

被曝から27日目、大量の緑色の水のような下痢が始まった。原因はGVHDと放射線障害の二つが考えられた。

大腸の内視鏡の検査の結果、モニターに現れた腸の内部は、粘膜がなくなって粘膜下層と呼ばれる赤い部分がむき出しになっていた。死んだ腸の粘膜は所々に白く垂れ下がっていた。

腸の組織の生検をして、組織にリンパ球が集まっていれば、妹のリンパ球が組織を攻撃していてGVHDと診断できるのだが、「放射線による消化器官の障害で生検は禁忌」と、アドバイスを受け、避けた。放射線の障害を受けた組織は、絶対出血が止まらないからだ。

血液中には「ミオグロビン」というタンパク質が大量に流れだしていた。ミオグロビンは「筋肉ヘモグロビン」とも呼ばれ、赤血球に含まれるヘモグロビンと同じように筋肉のなかで酸素を貯蔵する役割がある。ミオグロビンは筋肉の組織が壊れると血液中に流れ出し、腎臓で処理されて、尿として排泄される。そして、腎臓の機能が悪くなっていく。

事故の瞬間もっとも多くの放射線を浴びたとみられている右手は、被曝から2週間経った頃から表面が徐々に水ぶくれになっていた。この水ぶくれが破れた部分に、新しい表皮ができてこないことに気づいた。

被曝から1か月後の右手は、皮膚がほとんどなくなり、右上腕、右胸から右脇腹の部分、そして太股(ふともも)へかけて、皮膚が水ぶくれになっては、はがれ落ちていった。

体を包んでいたガーゼや包帯は、体からしみ出す体液を吸い込んで重くなっていた。しみ出した体液は、1日1リットルに達していた。悪化っして2リットルを超えるようになった。

目蓋が閉じない状態になっていた。目が乾かないよう黄色い軟膏を塗っていた。

爪もはがれ落ちた。

 

ーーー培養皮膚の移植

中性子線を直接浴びた体の前面の皮膚がほぼ完全にはがれ落ちたが、背中側の皮膚はそのままきれいに残っていた。被曝から3週間が過ぎたころ、白血球の型が同じ妹の皮膚を培養することにした。妹の太股から2センチ✕4センチの面積の皮膚を採取、愛媛大学で培養を始めた。十分な大きさに成長するまでには2週間から1ヶ月必要だった。

最終的には、妹が提供した培養皮膚を含めて70枚が移植されたが、大量に浸み出す体液のために、3、4日もすると浮いてしまい、生着することはなかった。

 

ーーー下痢が止まらず、下血が始まった

血小板が作ることができないため、腸の粘膜がはがれると大出血を起こす可能性が高い。腸の粘膜の増殖を促すため「Lーグルタミン」を投与していた。潰瘍の治療薬「プロトンポンプ阻害剤」も点滴した。

内視鏡検査では、モニターで映し出されたファイバースコープの丸い視野には、粘膜がほとんどなくなり、表面が赤くただれていた。下血は、1日に800ミリリットルに及んだ。

下血や、皮膚からの体液と血液の浸み出しを合わせると、体から失われる水分は1日10リットルに達した。

 

ーーー心停止

被曝してから59日目に心停止した。心臓が停止したことが確認されたため、心肺蘇生措置を続けた。心臓マッサージを続け、塩酸ドーバミン、メイロン、マグネゾールといった治療薬を投与した。心肺再開。

停止と再開を3度繰り返した心臓は、心臓マッサージや強心剤の投与など分刻みの処置を行った結果、再び自らの力で鼓動を始めた。

心停止中も心臓マッサージを持続的に行ったため、脳血流が完全に途絶した時間はなかったと考えられた。

腎機能はほぼ廃絶したと考えられたので、「持続的血液濾過透析装置」を導入した。

肝臓で作られ、出血を止めるために必要な血液凝固因子が極端に減っていることも検査の結果わかった。肝血流の低下から、肝不全に陥ったと考えられた。

 

ーーーマクロファージ

被曝から63日目、血液の中で新たな事態が起こっていることが判明した。顕微鏡の視野の中で、赤血球や白血球にアメーバーのような形をした細胞が襲いかかっていた。マクロファージという細胞だ。

マクロファージは、本来、体に侵入した細菌やウイルスなどを攻撃する免疫細胞だ。アメーバーのように変形しながら、細胞やウイルスを中に取り込んで消化することから「貪食(どんしょく)細胞」と呼ばれる。古くなっていらなくなった赤血球なども取り込んで処理するが、このマクロファージが異常をきたし、正常な赤血球や白血球を、まさに「食べて」いたのだ。「血球貪食症候群」と呼ばれる症状だった。

 

ーーー血漿交換

血液の液体部分である血漿をすべて、健康な他人のものと交換して、血漿に含まれる有害物質を取り除く治療だ。静脈から血液を抜き取って分離装置にかけ、血液細胞と血漿とを分ける。分離された血液細胞に新鮮凍結血漿を加えて、体に戻す。古い血漿は廃棄する。

妹から提供された造血幹細胞から作られ、体の中で増えていた白血球は、異常をきたした自らの免疫細胞・マクロファージによって次々と攻撃され、力尽きていった。

 

ーーー意識が悪化

脳の検査に瞳孔の対光反射を調べるのがある。呼吸や血液の循環など生命維持に直結する機能をつかさどる脳幹という部分がダメージを受けていると、瞳孔は光に反応しなくなる。ほとんど対光反応は確認できなくなっていた。

人工呼吸器もこれまでの自発呼吸を助ける設定から、自発呼吸がなくても強制的に呼吸させる設定に切り替えられた。

 

ーーー昇圧剤投与

血圧を上げるために昇圧剤を4種類、限界まで投与した。家族との話し合いでこれ以上増量しないこととした。

末梢の血管の抵抗を強めることによって、血圧を上げる作用がある。逆に言えば、体の中心部に血液を集めるために、体の末端には血液が行き渡らなくなる。

血液の流れが悪くなったことで、抗生物質や抗真菌剤が全身に行き渡らなくなった。体の表面には浸み出してくる体液を栄養分にして「アスペルギス」というカビの一種が生えてきた。銀白色のアスペルギスは体から腕、そして足の付け根の部分に広がってきた。

心拍数が低下、血圧も低下。強心剤のボスミンのアンプルを3本使ったが、効果なし。

 

ーーーそして、被曝から83日目

1999年12月21日、亡くなった。

 

★解剖が行われた。

焼死体のように全身が真っ黒ではなく、放射線が当たったと思われる体の前面だけが火傷のように、皮膚の表面が全部失われ、血がにじんでいた。背面はあくまでも白く、正常な皮膚のように見えた。放射線が当たったところと、そうでないところの境界がくっきりと分かれていた。

腸はふくらんで大蛇がのたうちまわっているよう。胃には2040グラム、腸には2680ッグラムの血液がたまっていた。

体の粘膜という粘膜が失われていた。腸などの消化官粘膜のみならず、気管の粘膜もなくなっていた。

骨髄にあるはずの造血幹細胞もほとんど見当たらなかった。細胞の分裂がさかんなところは放射線にたいする感受性が高く、障害を受けやすい。粘膜や骨髄などの組織はすべて大きく障害を受けていた。

通常は放射線の影響をもっとも受けにくいとされている筋肉の細胞の繊維がほとんど失われていた。そのなかで一つだけ、筋肉細胞だけが鮮やかにきれいに残っていた臓器があった。それは心臓の筋肉だけは破壊されていなかった。

 

臨界 【りんかい】

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

核分裂の連鎖反応が安定した状態で続くこと。原子炉にとって特別重要段階で、実質的に動き出したといえる。プルトニウムなど核物質の原子核中性子がぶつかると核分裂が起きる。核分裂の際に発生する熱で電気を起こすのが原子力発電だ。もんじゅ場合、核分裂で一つの原子核から中性子が新た平均3個飛び出す。この中性子がさらに別の原子核にぶつかって核分裂を起こし……と続く。中性子を吸収する制御棒を徐々に引き抜いてその数が一定になるように調整し、核分裂の連鎖反応が安定的に保たれた状態が「臨界」。コピー機に例えれば、スイッチを入れることが制御棒を引き抜く作業にあたり、機械が温まってコピーできる状態になったのが「臨界」だ。
( 2010-05-08 朝日新聞 夕刊 1社会 )