2007年9月30日日曜日

おめでとう、山ちゃん。

今日は、山ちゃんの結婚式だね。毎日、よく働いている。私は感謝している。花嫁さんには、必ず近いうちにお会いしたいものです。 私には、私の考えがあって欠席させてもらった。でも、山ちゃんの結婚を誰にも負けないほど、嬉しく思っている。これをバネに、もっと仕事にも頑張って欲しい。お祝いの気持ちを、賢い詩人がエエことを言ってくれているので、この詩を私の祝いの言葉に代えさせてもらう。



祝婚歌        作者・吉野 弘 

   

二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい 立派すぎないほうがいい立派すぎることは長持ちしないことだと気付いているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだとうそぶいているほうがいい 

二人のうちどちらかがふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい           

互いに非難することがあっても                    

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい

立派でありたいとか正しくありたいとかいう無理な緊張には

色目を使わずゆったり ゆたかに光を浴びているほうがいい

健康で 風に吹かれながら生きていることのなつかしさに

ふと胸が熱くなるそんな日があってもいい

そしてなぜ胸が熱くなるのか

黙っていても二人にはわかるのであってほしい

2007年9月29日土曜日

今後は、budget hotelじゃ。

我が社では、ホテル事業を各地で展開してる。といっても、1発目は年内に相模原でオープン、2発目は那覇で11月に着工して来秋にオープン予定のたった2棟だけなのです。でも、この2件のお陰で随分勉強をさせていただいた。今、3棟目を九州は福岡の某駅前で計画中です。現実に事業化を進めていくと、情報も多くなるものなのですね。アッチコッチからホテル用地と思われる土地情報が持ち込まれている。有難いことだと、感謝している。栃木の某駅前では、ホテル経営を考えているオーナーから、運営の依頼を受けている。運営にも関わらないと、いい企画ができないのは至極当たり前のことだ。我が社が、一人前のホテル事業会社になるには、ライバルを圧倒するるぐらいのオリジナルな企画が自ら立てられるかどうかだ。何とか、1年に2棟づつ建てられたらいいなあ、と考えている。

そんな折、私たちが手がけている、宿泊特化型の宿泊施設を今までは深く考えもしないで、「ビジネスホテル」と言ってきた。利便性のいい場所にあって、部屋は少し狭いが料金は格安というのが従来のビジネスホテルで、大いに利用されてきた。当然、ビジネスマンが仕事のために利用することが多かったので、このように呼ばれてきたのでしょうが、ビジネス以外にも家族旅行の宿泊などに利用されている現実をみると、単にビジネスホテルと言って居てはいけないのではないか、と思いついた。それから、従来のビジネスホテルに満足しないお客さんが現れてきた。その不満は何か、何を要求されているのか、これがこれからの課題だ。我が社の真骨頂が発揮できるのではないかと、ほくそ笑んでいるのです。

そう思いついて、いろいろ調べてみると、「バジェットホテル」と呼称している会社があった。そこで、我が社も今後、社用する正式名称として「バジェットホテル」と呼ぶことにした。

そこでじゃ、バジェットとは何じゃいなあ。

budget とは、動詞としては「予算を立てる」。名詞としては「予算」、「予算案」を意味する。語源はフランス語のbougette(小さな皮袋)からきている。初めは皮袋または財布をさし、後にその中味の金の細目について用いられるようになった。

2007年9月26日水曜日

俺には解らん、闇サイト。自殺サイトまで?

俺には解らん。闇サイトが、犯罪誘う?

私のような田舎者で、インターネットに疎い人間にとっては信じられないことが、ネット上で起こっていることを初めて新聞記事で知った。その記事とは、名古屋で起こった女性拉致殺害事件のことです。2007 9月6日の朝日の朝刊の記事を材料に文章を綴った。ワルは、何処かで鳩首、ワルだくみを図るものだと思っていたら、想像もしないインターネット上の掲示板?とかを利用して、犯罪が行われているらしい。掲示板で、情報を交換しているそうです。☆暴力団組員と共謀して、覚せい剤を闇サイトを通じて密売をした。☆闇サイトで強盗仲間を募り、集まった3人で宅配業者を装ってお年寄り宅に押し入り420万円を奪った。☆闇サイトに求人情報を載せて口座開設役を募った。☆実在するオークションサイトそっくりの偽サイトを作り、利用者が誤って入力したIDなど個人情報を騙し取った。その際、共犯者を闇サイトで募集した。☆信販会社のクレジットカード会員の個人情報が入っていたMOディスクを盗んだ男が、闇サイトを通じて情報を売り渡した。☆学校の公式サイトとは別に、在校生が立ち上げ、ネットいじめなどの温床になっているとも指摘される掲示板「学校裏サイト」を管理していた会社役員が、女子中学生への中傷を放置した。

こんなことが、この世の中で起こっていたなんて、私は新聞記事になるまで知らなかった。共犯者探しの募集した者、募集に応じて共犯者になった者、互いにどこの、誰とも知らない者同士。その知らない者同士で犯罪を共謀して行う。犯罪行為中も、偽名を名乗り合っていることもあるそうだ。うひゃ~困ったもんだ。

インターネット上に犯罪、を誘発するような情報があふれている。名古屋市の女性が拉致殺害された事件で、逮捕された男3人も、有名サイト「闇の職業安定所」に書き込まれた、仲間の募集を通じて知り合った即席のグループとされる。犯罪の温床になりかねない「闇サイト」だが、書き込みそのものの規制や摘発は難しい。警察庁は来年度から、ネット上の「監視の目」を増やす方針だ。                              名古屋の女性拉致殺害事件とは= 名古屋市内の路上で帰宅途中の女性会社員(31)が拉致・殺害されたうえ、岐阜県内の山林に遺棄された。愛知県警が死体遺棄容疑で逮捕した男3人は、数々の事件で悪用されたサイト「闇の職業安定所」で知り合っていたという。3人は強盗目的で偶然通りかかった女性を襲い、キャシュカードと現金7万円を奪ったとされる。このような犯罪仲間を募るような書き込みについては、刑事罰を問うのは難しいそうだ。検閲になる恐れがあったり、表現の自由や通信の自由といった権利との兼ね合いも生じる恐れがある。何の関わりもない連中に、そこに出くわしたからといって、突然襲われ命を奪われた。彼女には、何の落ち度もなかった。娘さんは母との二人暮らしだったそうだ。記者のインタービューに応えて、母親は怒りをあらわにした。テレビの映像に、胸がつまった。慎ましやかに、一生懸命、頑張っていた娘さんになんちゅうことをサラスンダ。馬鹿タレ。

財団法人インターネット協会が運営する相談窓口「インターネット・ホットラインセンター」には連日、ネット利用者から数百件の「110番」メールが届く。警察庁の委託で06年6月から書き込みや画像を分析している。不審な書き込みは、国内有数の掲示板サイトにもある。例えば、恨み・むかつき・憎しみなどを解決します、殺人依頼、報復依頼など。殺人請負などでも、書き込みだけでは犯罪にならないため、摘発や削除の強制は難しい。「違法情報」と違法ではないが公序良俗に反する「有害情報」に分類して、サイト提供業者には削除を依頼するとともに、「違法情報」は警察庁に通報してきた。

2007 10 14   朝日朝刊 社説

自殺サイト もはや見過ごせない

ひとりの若い女性の命が断ち切られたきっかけは、だれでも簡単に接続できる携帯電話の自殺サイトだった。サイトを開いた電気工の男は、自殺願望の人を募るような書き込みを重ねていたらしい。死にたいと望んで連絡してきた川崎市の女性に「薬を使えば楽に死ねますよ」などと持ちかけた。

報酬として20万円を受け取ると、約束どおり女性の自宅へ出向いた。睡眠導入剤を飲ませたうえで、顔にポリ袋をかぶせて窒息死させたという。

見ず知らずの2人を結びつけ、最悪の結末を招いた。ネット社会の危うい側面に、背筋が寒くなる思いがする。今回特に見逃せないのは、男が金を目当てにしていたらしい点だ。

自殺サイトに集まってきたほかの人たちに対しても、「死ねる薬」などとうたって睡眠導入剤を違法に販売していた。売り上げは100万円になるとみられていた。男は消費者金融などから数百万円の借金があったという。それにしても、ネットを入り口にした事件が広がっており、見過ごせないところまできている。

殺人や強盗などを企てる人間が、ネット上の「闇サイト」で仲間を誘う。そんな悪質きわまりない例も相次いでいる。8月にも、ネットで知り合った3人が、通りかかった名古屋市の女性を拉致して殺害する事件が起きたばかりだ。

自殺サイトもなくならない。自殺志願者がいっしょに死ぬ相手を募る。「楽に死ねる方法」を教えあう。そうしたサイトが数百あるともいわれ、たびたび集団自殺の引き金になってきた。

こうした危ういサイトが野放図に広がっていくことは、なんとしても食い止めなくてはならない。それには、ネット上の書き込みを点検するサイバーパトロールが欠かせない。法に触れる内容が書かれていたら、警察がすぐに摘発する。ただちに違法といえなくても、有害な書き込みがあればプロバイダーに削除を要請する。

警察だけではなく、連携して活動する民間団体がもっと増えてほしいものだ。新たな書き込みは、毎日、次々と現れる。削除の要請をしても「モグラたたき」のようではあるが、ねばり強く続ける以外になさそうだ。

問題のあるサイトや書き込みを事前に取り締まることは技術的に難しいし、もし規制が行き過ぎれば「表現の自由」を侵す恐れがあるからだ。

もう一つ、今回の事件で残念でならないことがある。亡くなった女性が自殺を考えたとき、最後に相談した先が男のサイトだったことだ。ネット上には、死にたいと思う人の悩みに耳を傾け、生きる気持ちを取り戻す方向へと導いているサイトもある。

死ぬことを思いとどまらせる窓口を増やし広げることも、危ういサイトの罠から防ぐ手だてになる。

                                      

2007年9月25日火曜日

ポジとネガ 安倍首相の因縁



「戦後」めぐって村山政権と皮肉な対称 

2007 9 21(金) 朝日 朝刊            論説主幹 若宮啓文

国会で所信表明演説をした安倍晋三首相が突然辞任を表明した時、ふと11年前の光景を思い出した。時の村山富一首相が伊勢神宮に参拝して新年の抱負を述べた翌日、にわかに退陣表明したときのことだ。

辞め方まで似ていようとは~ 私は改めて村山政権と安倍政権の深い因縁に思いを致さざるをえなかった。因縁とは、村山政権が戦後50年に当たって過去の植民地支配や侵略を謝罪する国会決議を模索した95年にさかのぼる。このころ「あれはアジア解放、自存自衛の戦争だった」と謝罪に反対する議員グループが自民党内にできた。新人議員の安倍氏もこれに参加して事務局長代理となる。政界のサラブレッドによる右派活動の開始だった。

村山首相は自らも終戦記念日に「戦後50年の談話」を発表した。これが謝罪の決定版として、その後の政権でもアジア外交の基礎となるのだが、安倍氏らがこれに反発したことは言うまでもない。

社会党(現社民党)委員長の村山氏を自民党が支えるという連立政権の構造自体が耐えられなかったのだろう。矛先は時の外相で自民党総裁だった河野洋平氏(現衆院議長)にも向けられた。

河野氏は宮沢政権の官房長官だった93年、従軍慰安婦問題で旧日本軍の関与を認め、謝罪した当事者でもある。安倍氏はその後、、中川昭一氏らとともに「自虐史観」に反発する若手議員の会の中核となり、右派メディアや言論人と気脈を通じつつ、村山、河野両談話をやり玉に挙げてきた。

天皇訪中の実現、細川政権や村山政権による一連の謝罪など、アジアとの和解が次々に進んだ90年代に、時流に抗しながら安倍氏のエネルギーは蓄えられたのだろう。やがて小泉政権でのナショナリズムの高ぶりに乗って、一気に権力の頂点にのぼろうとは~。

しかし皮肉なものである。こうして同志とともに「民族の誇り」の復権に情熱を見せた安倍氏も、首相になるや両談話を「継承する」と転換せざるをえなかった。君子豹変である。小泉時代に暗礁に乗り上げた中国や韓国との関係修復を狙っただけではない。政権を担う身として、対外宣言といえる外交の基本路線をくつがえせなかったからにほかならない。

この変化を村山氏が評価した。「大事なのは過去ではなく首相になってからの発言だ」(07年4月5日の朝日新聞)というのだが、ご本人にも覚えがあったのだろう。首相になった直後に自衛隊を「合憲」、日米安保条約を「堅持」と言い切ったのである。左の村山政権と、右の安倍政権と。私には両者が左右対称をなしているように見える。

だからこそ、それぞれには独自のこだわりがあった。積み残された「戦後」の課題にとりくんだ村山首相がアジアとの和解に熱心だったのに対し、安倍氏は「戦後レジームからの脱却」を掲げて改憲路線を急いだのだ。

中国を意識してだろう、安倍氏は日米豪印の連携など「価値観外交」も打ち出したが、この若い首相が米国との「共通の価値観」を語るとき、視野から抜けていることがあった。自由も民主主義も人権も、共産主義に対してだけではなく、米国にとっては、かってのドイツや日本に対する勝利の歴史をもった価値観だということだ。

従軍慰安婦問題で煮えきれなさを見せた安倍首相に対し、米国の下院が厳しい決議をつきつけた。イラク戦争を正当化するブッシュ大統領は先日の演説で、かっての「日本の軍国主義者」との戦いを長々と引き合いに出した。いずれも安倍氏には思いがけないことだったろう。

ここでも村山氏のエピソードを思い出す。

クリントン大統領との初対面となった会談で、社会党首相への警戒心を解いてもらおうと、自分がこの党に入った動機を語ったことだ。

それは戦後、米国の占領政策を通じた解放感のなかで、自由や平和、民主主義の重要さを感じたからにほかならない。という趣旨だった。村山流の「共通の価値観」アピールであり、これで打ち解けたという。そういえば戦後初期、日本の民主化を求める占領政策のもと、社会党を中心にした片山首相の政権が成立していた。

安倍氏が尊敬する祖父の岸 信介氏は、そのころ戦争責任を問われて捕らわれた。岸氏が釈放され、反共のパートナーとして米国の信頼を得たのは、その後に進んだ東西冷戦のゆえである。占領期を民主化の夜明けと見る村山氏と、克服すべき負の遺産と見る安倍氏。ふたりの政権はいわば「ポジとネガ」であった。

1年で命脈尽きた安倍政権ではあるが、靖国神社への参拝を見合わせ、日中関係を打開した功績は、右派政権ならではの大きなものがある。そして、村山談話への非難の声が政界で影をひそめたことも、安倍氏の皮肉な功績かもしれない。

2007年9月23日日曜日

そんなに急いで、どうしたの?

どうして俺たちは、こんなにせっかちなんだろう?

先日の日曜、月曜で九州に行ってきた。取引していただいている銀行の紹介で知り合った人が、九州のホテル用地を紹介してくれたので、現地調査のため急遽九州行きが決まった。一度は火曜と定休日の水曜で行こう、と決めたのですが、いや火曜は早朝会議をしなくちゃいかんじゃないの、水曜だって打ち合わせが詰まっているんだ、母の体の具合が余りよくないんだと、ならば、ぐじゃぐジャ言わずに明後日に行こう、と航空券の予約をした。行こうと決めたら、一刻も早く行きたがる面々なのです。3棟目のホテルを手がけることを、誰もが望んでいるのだろう。

初日(日曜日)は、10:30羽田発。北九州空港に昼到着。レンターカーを借りる。福岡県京都郡苅田町の物件を見る。苅田食堂で焼き魚に、飯、味噌汁を15分程で食って、本格的調査のため車で移動を始める。北九州市八幡西区陣原で2物件、黒崎駅前、大分市高松。18:30博多のホテルにチェックイン。地元の不動産屋とミーティング。近所の居酒屋で焼酎ともつ鍋。就寝。

二日目(月曜日)は、5時に起床して、ブラブラと博多の市街地を探索。博多のあふれる活力に驚嘆。横浜もパワーでは負けました、脱帽です。ホテルを7時にチェックアウト。鳥栖市本鳥栖、熊本市呉服町と南熊本、長崎市網場、佐世保市戸尾町。長崎港に浮かぶいくつもの軍用船が異様だった。昼はラーメン。途中、強烈なにわか雨におそわれた。九州の雨はさすがに気が荒く、フロントガラスを殴りつけるように、雨粒がぶち当たる。まるで、小倉(おぐら)太鼓の乱れ打ちってとこか。団塊の世代の伊藤オジサンは品のいい元ホテルマン。ところがじゃ、今はダンプの運転手さながら、豪雨をもろともせず、アクセルいっぱいに踏んで走る。オジサンはいつも頑張るのです。午後3時に長崎空港に到着。予定よりも早く着いたので、私だけキャンセル待ちで席を確保、二人を残して一路羽田空港へ。

初日は7時間走り放し、二日目は8時間走り放し。走行距離は述べ800キロ。ハウステンボスの一部を覗き見、湯布院の遠景を見、熊本城を下から眺め、平戸、別府温泉、水前寺公園は道路標識にて確認。島原も遠くに見えた。

一行は、私・山岡と取締役の小見さん、我が社のホテル事業展開のコンサルトタント・伊藤さんの3名です。3人は、学校を卒業して同じ会社に同期で入社した元同僚同士だ。私は、今月24日で59歳、小見さん、伊藤さんは58歳。輝かしい日本繁栄の功労者である団塊の世代の後半部隊だ。私が通った高校は1学年15クラスあって、全校で2500人はいた。母校の学校区には、当時母校がたった1校だったのが、今では公立、私立合わせると13校以上がある。現在は少子化が進み、我が母校はかって美人と天才が多数輩出した名(迷)門校?であったのに、3年後には廃校になると風の便り。寂しい気がします。この近辺で最初に廃校になるということは、それほど限りなく存在感の薄い高校だったのだろう。美人はいたけれど、天才なんか見たことないわ。高校を卒業して、ドカタをして、大学に入って、社会人になった。ワイワイガヤガヤ、どこにも人がいっぱい居て、喧嘩したり、励まし合ったり、競争したり、面白かった。我々の仕事仲間にも、引退とか定年退職だとか言って、一抜け、二抜けしていく。

そんな年齢にさしかかっているこの3人も、自身の立ち位置しだいでは、世間並みに歩調を合わせて、そろそろ俺たちも引退の時期か、と思い始めたかも知れない。ところがじゃ、この3人には3人の事情があって、ここにきて、この年齢になって、どうしても頑張らなくてはならないのです。体力は下り坂、根気も希薄に、でも精神の高揚は衰えない。だから、急がなくてはならないのです。事情があるのです。

私の場合は、

25年前から、経営に携わってきた。いい時代は最初の5~6年だけで、バブルがはじけて、命がいくつあっても足りないぐらい、塗炭の苦しみを味わってきた。ズルをして儲けた奴が苦しむのはいい、だけどきちんと商品を作って、きちんとお客さんにお渡しをしていた私にも、不況風は容赦なく吹いた。吹き飛ばされないように、必死で頑張ってきた。中村専務は、この激流に流されそうになっていたときに、颯爽と登場した。ローリング・ストーン、転げだした石は勢いをまして、ますます転がる。私は希望をすっかり失っていた。でも、凄いんです、我が社のスタッフの底力は。資金繰りを、聞いてはいるが意に介さず、はたまた、えい、どうにでもなれ、と腹をくくってくれていたのか。資金繰りは、常にリアルタイムで開示していた。中村専務の熱のこもった説明に理解を示してくれた者たちは、俄然踏ん張ってくれた。理解できなかった者は、去った。そして、地獄を脱出して、今、上場しよう、というところまでようやくたどり着いた。ならば、やってやろうやないか、徹底的に、とスタッフに発破をかけている最中です。時間がないのです。きちんと道筋をつけて、実力を蓄えて絶対つぶれない、将来にチャレンジし続ける会社に早くしたいのです。よって、急いでいるのです。

小見さんの場合は、

某百貨店系の会社で不動産を扱う会社の取締役だった。小見さんとその一派は、私が大好きな人たちで、その不動産会社を小さな会社から、上場を視野に入れるぐらいにまで成長させた。ヤリテ集団だった。私の会社は、小見さんの会社とは親しくさせていただいた。小見さんは、その集団のなかでも、企画に営業に才腕を振るっていた。私が地獄を彷徨っているうちに、小見さんの会社も親会社が可笑しくなって清算することになった。自ずから、子会社である小見さんの会社も連動して清算される羽目になったのです。役員だったので責任をとるかたちで、退社した。それからは、健康食品関係のテレビコマーシャルのフイルムを作ったり、放映したりする会社の代表取締役をやっていた。薬事法の関係で、その職は辞した。そして、我が社に入社してくれた。若かりし頃、私は小見さんに、「お前が社長でも、俺が社長でも、どっちでもええで」と言ったような気がするし、言ってないような気がする、そんな間柄なのです。そして、私同様、急いでいるのです。限られた期間内に、私の会社を私と共に、キチンとしたいと思ってくれているのです。小見さんの仕事は広範囲に重要な内容のものばかりです。血圧が高いのが気になるのですが、好きなタバコは頑として止めない。そんな状況の中で、いい結果を出すには、急ぐしかないのです。

伊藤さんの場合は、

私と小見さんと伊藤が揃って入社した会社で、伊藤さんはホテルを専門に担当していた。当時、その会社は日本の各地で、物凄い勢いでホテルをオープンさせていた。伊藤さんは、日光、札幌、軽井沢、箱根、伊豆の各ホテルのオープンを手がけた。私は、私の今の会社の親会社で営業部長をしていた。その業務のなかで湘南にホテルを建てる企画が発生し、開発行為を役所との折衝を経て、最終の設計図書が出来上がった頃、ホテルの完成後、誰が支配人で運営するのか、という問題がもちあがった。暢気なもんだぜオーナーは、いやオーナー代行は。私は、このオーナー代行のことをアホか、と思った。私と青島さん(彼のことは、いつかこってりと話します)、オーナー代行の3人で、伊藤さんを口説きに行った。「是非、今、私たちが企画を進めているホテルの支配人になってください」と。私は伊藤さんに、「もう大きな会社はええやろう、おもろないやろう。ちっちゃなプチホテルで楽しくやった方がええぜ」と。伊藤さんはこのとき、奇しくも小見さんからも別の転職の勧めを受けていた。「日本の大きな会社いうても、大したことないぜ。世界のビッグなホテルで働くのもええよ」と。このホテルはインターコンチなんとか、という会社でした。結果、私の方に軍パイがあがり、湘南のプチホテルの支配人に就任してくれた。が、アホなオーナー代行の経営的能力の欠如で、営業開始後15年にしてあっけなく廃業。その後の処理について、伊藤さんはいろいろと学習した。不動産の証券化までも。そんなこんなで、伊藤さんも、ここらで一発かまさないとやりきれないのではないだろうか、と私は推察し、彼を我が社のホテル事業展開のために委嘱した。燃えている。ますます燃えている。我が社をなんとかしてやりたい、と思っていてくれる。よって、伊藤さんも、いい結果を出そうと急いでいるのです。

急いでいる奴たちの、急いだ九州での現地調査の旅でした。

2007年9月20日木曜日

菅平に合宿所を、Get!!

弊社は、昨年菅平で別荘を購入した

去年の冬、この夏休みには、社員の家族たちがよく利用してくれた。購入する際には、私たちにとっては、ちょっと贅沢かもよと心配する社員もいた。現在、会社には、新しく入社してくれた社員が、慣れない仕事に精を出している。一刻も早く、我が社の社員のスタッフに相応しい人物になろうと、勉強しながら頑張っている。私は、そんな彼たちのための慰労と施設見学、掃除を兼ねて菅平に行こうぜ、と声をかけた。総勢、10人。キャップテンは1年半前に入社した先輩のA君とB君。

「菅平に行こうぜ」は、私にとっては、それは「合宿に行くぞ!!」という意味なのです。

菅平の麓のほうでは、レタスなぞの高原野菜の収穫中だった。この光景は、私が学生だった約40年前と同じだ。中腹から上の方ではラグビー、サッカー、テニス。そのもっと上はスキー場やゴルフ場になっている。大学生と思われる集団が、各種競技の練習に余念がない。ロードワークの集団もいる。食堂には、若い男女で賑わっていた。

この別荘は、ある電鉄系のレジャー施設運営会社が保有していたのですが、遊休施設の処分として売却を検討していた。そこに現れたのが不動産屋の友人で、うまいこと買わしてもらうことができたのです。最終決裁者である私は、社員の保養所として大いに使えそうだと判断したのは言うまでもないのだが、他人には解らない、私だけの理由もあったのです。それは、今から約40年前に、私と菅平の間に生まれた特殊な関係があったからこそなのです。

菅平は私にとっては特別の地だ。懐かしい土地だ。菅平を一瞬でも思い出すと、自然に目蓋の裏に、熱い涙が滲んでくる。嗚咽が、沸き出す。体がブルブル振るえだす。大学のサッカー部に所属していた時、部員は夏休みを自由に3週間程楽しんだ後、指定された日時に、国鉄上田駅に集合するのです。合宿のために。私にとって、今生の別れの感。あの世に近いところに行く覚悟。メンバーが確認されたところでバスに乗って菅平に向かうのです。バスは人里を離れて行く。緊張が高まってくる。両サイドには山が迫ってくる。毎年、ダムが見えてくるあたりで、合宿を終えたラグビー部が乗ったバスとすれちがう。向こうは、合宿を終えてニコニコ、こちら側は恐怖の合宿を前にコチコチ。手を振り合う。ああ、それでも、やっぱり バスは進む、菅平に近づく。そして数日後、合宿は得に言われぬ時間の経過とともに、終わりを迎えるのです。頭の中はスッキリ、でも体はガタガタ、骨は削られ、どの筋肉も極度の疲労。こんな地獄の時間を過ごした菅平は、私の青春そのものだった、ようだ。

それから私は極度に貧乏だったのです。浪人時代に貯めた資金で、できるだけ長く食い繋ぎたかったのです。母に預けてある軍資金を切り崩して送って貰っていたのですが、どうしても3年間はもたしたかったのです。だから、送って貰う額は皆の半額か3分の1程度でした。月額28、000円だった。この額では飯代だけで精一杯だった。よって、寮費、部費は当然払えません。マネージャーのしつこい集金にも隠れたり、逃げたり、ごまかしてばかりでした。昨年、40年間未納になっていた諸費用と利息少々を払わせていただいた。肩の荷がおりた。当時、友人たちは私の懐事情を察知してくれていたものだから、酒を飲みに郎党を組んで出かけても、精算の段に至って、誰も私を割り勘の一人には数えなかった。私以外の人数で処理をしていてくれたのです。感謝しています。親友の金さんは、私にどれだけ酒を飲ましてくれたことか。後輩の昌克は、肉屋の店先に並んでいた手羽先を何本食わしてくれたことか。

そこで、今回、菅平で別荘を買うぞと張り切ったのは、学生時代に迷惑をかけた諸先輩や後輩に、この施設を気兼ねなく使ってもらって、私の罪滅ぼしの一環にしたい、と思いついたからなのです。私を見守り励ましてくれた、菅平。肉体の心棒部分と精神力を鍛えてくれた、菅平。疲れた体にダボスから吹き降ろす風が気持ちよかった。腹一杯飲んだ水は美味かった。レタスをザルに山盛り喰った。朝夕の空気は肺胞の隅の隅まで、吸い込まれていく。牛乳は甘かった。合宿の打ち上げでは、感激の余り、喉が詰まって、校歌が歌えなかった。スピードはのろかったけれど、距離においては誰よりも誰よりも長く走った自負がある。

私が迷惑をかけた人、私に迷惑をかけられた人、私に貸しがある人、昔のことを思い出しに菅平にきませんか。女房、子供、お父さん、お母さん、友人を連れて是非菅平にやって来てくださいな。使用料については、私の個人の所有ではないので、ロハという訳にはいきませんが、電気代、灯油代で結構です。こんなことも考えて取得したのが、正直なところなのです。

ラグビーマガジン8月号別冊付から抜粋して転載させていただきました。菅平の豆知識にどうかな。

上田温泉電軌が縁結び

昭和の初期、上田温泉電気軌道株式会社専務取締役の柳澤健太郎が、農村の山際の傾斜した地形を利用してスキー場と近代ホテルをつくった。話題づくりも抜かりなし。「雪の王者」と呼ばれる世界的スキーヤーをヨーロッパから呼び、全国にその地名「菅平」を知らしめた。冬用に施設を作ったからとはいえ、夏にも利用できれば、と思いついた矢先に、ラグビータウン・菅平の誕生である。彼が相談を持ちかけたのは、大学の同級生。法政大学(以下、法大)ラグビー部部長(当時)の高橋一太郎だった。法大は当時、まだ創部8年目の若いクラブで、思い切り練習を積める合宿地を求めて、年毎に各地をめぐっていたところ。菅平は気候も土質もいい。グラウンドは、温泉軌道がこしらえるからと。このときできた菅平最初のグラウンドは、現在の菅平ホテル第一グラウンドにあたる。こうして、菅平ラグビー合宿、第一のチームはやってきた。昭和6年(1931年)のことだ。翌年には早稲田大学(以下、早大)から連絡が入る。2校目のお客様のために、もう一つグラウンドを作った。早大は1963年に自前の宿舎とグラウンドを設置した。1942年に集団旅行が禁止されるまで、法大、早大は菅平を格好の山ごもりの場として利用した。

戦後の夏合宿復活

戦後は、菅平側が合宿中の米を用意すると申し出て、まず早稲田が戻ってきた(1951年)。2年後には法大の合宿も復活する。日本中が貧困から這い上がろうとしていた時代に始まり、’70年代のちのチーム激増を経て、ラグビーは菅平の発展に大きな役割を果たしてきた。ここにもう一人の仕掛け人がいる。一連の合宿復活をリードしたのは、東京育ちの青年。戦前’41年に「食料増産」のため勤労動員でこの地を訪れた渡辺才智(故人)は、拓殖大学を卒業、復員後、菅平に移住していた。まさに才智の人だった。東京、関西の各大学にかけあい、次々と合宿を誘致した。農業以外の、もう一つの柱として観光を確立させるべく生涯奔走した。法早の合宿という戦前の実績をヒントに、菅平をメッカにまで発展させたリーダーの一人。チーム数が増えると、本格的なスポーツ環境が求められるようになり、グラウンド確保とともに叫ばれていたのが医療問題だった。冬スキー然り、ケガ人が安心してかかれる診療所がどうしても要る。この難関は、才智の妻・正子の従兄に東大病院の医師がいたことから解決した。東大の医局員が交代で派遣され、季節診療所を回した。以降、’59年から40年間にわたって東大病院との関係が続き、現在は民間の診療所が常設されている。 やや時代は前後する。’67年には大西鉄之祐率いる全日本チームが初めてやってきた。

2007年9月10日月曜日

精進「相撲物理学」 一ノ矢

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今から、7年と4ヶ月前。2000年5月20日の日本経済新聞夕刊に、「一ノ矢」の特集記事が載っていた。その記事を、机の前の壁に1年間ほど張っておいた。その後張りたいものが増えたので、クリアーファイルに挟んでしまっておいた。そのファイルは、会社の引越しとともに、東戸塚から保土ヶ谷の天王町に移された。当時、凄い相撲取りもいるもんだと感心した。社員のいない夏休み、正月前後の冬休み、机の周りの整理の合間に、何回も読み返した。日経新聞は、茶色を越えてコゲ茶色に焼けた。保存用にコピーもとっておいた。私には、このような競技者に対して、異常に反応する性癖?があるようです。彼の部屋のホームページも見続けている。いつか機会があったら、部屋を訪ねてみたいと思っている。彼を招いて、社員に何かを喋ってもらえたらいいなあ、とも考えている。必ず、近い将来に実現したい。

当然のことながら、一ノ矢さんは、私のこんな心情を何もお知りになってはいらしゃらない。お会いすることができたときには、礼を尽くして自己紹介させていただきます。それまでは、勝手に思わせておいてくださいな。

そして、2007年9月5日、朝日新聞の夕刊にまた、彼のことを大きく扱った記事が載った。ううぅん、やっぱり、誰もが彼には感心をもつものなのだ。まして、新聞記者にとっては尚更だ。今回の記事と、以前の記事を読み比べて、内容はそれほど変わってはいない。が、7年間の時間の経過がある。この厳しい相撲の世界で、現役を張り続けている7年間は実に長い期間だ。何か、彼だけの秘密の作戦、奥の手があるのだろう。きっと、極意が。出身が、琉球大学理学部物理学科だけあって、相撲を物理学的に分析する。その成果が7年前よりも進化したように思われる。記事はそのあたりを前回よりも詳しい内容になっている。7年前には、分析の内容には少ししか触れていなかった。そんな彼のことを、彼の体のこと、心の深奥部をさぐってみたい、と思った者には、絶好の読み物です。よって、ここに二つの記事を紹介しました。

ハンマー投げの室伏広治も、古武術的な身体技法に注目して、練習に取り入れていると聞いた。アスリートはどこまでも研究を怠らないのだ。

先ずは直近の記事より=07 09 05 朝日夕刊

精進「相撲物理学」 (別宮潤一)

理系力士 最年長46歳の一ノ矢さん

琉球大学で物理学を学んだ異色の理系力士、一ノ矢充さん(46)が、現役最年長力士として24年間、土俵に立ち続けている。高砂部屋、序二段。目下の研究課題は、筋力だけに頼らないで勝つ古武術流の相撲理論だ。立会いをどう制するか、相手をどう押すか。自分の理論通り勝つ日もあれば、全く通用しない日もある。土俵という「研究室」でつかんだ理論をいつか本にまとめるつもりだ。

筋力いらない古武術流理論

「まだ勝つのは偶然」

8月上旬の午前7時半、墨田区の高砂部屋。弟弟子8人を率いるように一ノ矢さんが四股を踏み始めた。上げた右足をぴたりと止め「シッ」という短い気合とともに下ろす。黙々と20分で200回。汗が噴き出す。「単純な動きに奥深さがある」(一ノ矢さん)という四股は研究課題の一つ。太ももの筋力強化だと思っていたある時、昔の映像を見て今の四股の動作との違いに気付いた。「足よりも腰や腹のバランス感覚を意識するようになった」。以来、四股は何千回やっても飽きない、という。公称では170センチ、100キロだが、本当の身長は165.5センチ。新弟子検査では頭にシリコンを入れて合格ラインに必要な身長を補った。若い頃は「大柄な相手に力負けできない」とがむしゃらに体を鍛えたが、29歳の時、稽古中に股関節脱臼の大ケガをして年齢による限界も感じ始めた。治療中、踏ん張らず、力をためないという不思議な体の使い方を記した古武術の本に出会った。「自分の相撲に生かせないか」。大学時代、アインシュタインにあこがれ、一時は物理学者を目指した一ノ矢さんの研究魂に火がついた。この世界では小兵の一ノ矢さんにとって、どう相手の懐に飛び込むかが長年の課題だった。「立会いで自分の体重を前にかけ、重力を使って落ちるように動く。早く動く瞬発力より、相手より先に動く反射力が大切」というのが今の理想だ。相手の懐に入れれば、自身の体重を使って相手を押す。自分の体重と力が相手に直線的に伝わるよう全身の骨格を固めることを意識する。逆に相手の押しは腰の力を抜き、上半身と下半身を分けて柳のような感覚で受け流すという。「理論上では200キロの相手だって倒せる」と一ノ矢さん。ただし意識するほど体が動かない悩みもあり、「理論通りに勝てるのはまだ全くの偶然」と打ち明ける。年齢による衰えは隠せず、稽古では若手にふっとばされることもある。29歳から書き続けているノートは100冊を超えた。日々の練習ノートとともに「足のかかとを土俵に着けないと力が逃げる」「(体重を相手に預けるには)ひざの力を抜いて無重力を作る」などと気付いたことを記してきた。骨の構造を書いた医学書やトレーニング雑誌、栄養学の本なども読み込んだ。鹿児島県の離島、徳之島の出身。相撲一筋で生きてきて独身だ。83年の初土俵以来、通算成績は481勝511敗6休。引退はそう遠くないとも感じられる。「序二段の立場で『相撲理論』を語るのは恥ずかしい。でも、少しでも相撲界に貢献して一生相撲とかかわっていたい」

00 05 20 日本経済新聞 夕刊より

栄光なき相撲好き

記録より「しこ」にこだわり  

現役最年長力士 一ノ矢 (序二段65枚目)

一度も幕下に上がれないまま、四十近くまで相撲を取り続けている力士がいる。若松部屋の一ノ矢(本名松田哲博)は、現在39歳5ヶ月で、もちろん現役最年長だ。序二段と三段を行ったり来たりで、最高位は1991年7月の三段目6枚目。相撲に対する純粋な探究心が、現役の土俵にこだわらせる。

寺尾や水戸泉(ともに、37)のように、長寿の人気関取が最後の一花を咲かせたくて、相撲を取り続けるケースは珍しくない。しかし、一ノ矢が位置するのは華やかさとは無縁の世界。十両はおろか幕下にも上がったことがないのに、人のまばらな午前中の館内で現役に固執してきた。

出身は鹿児島県徳之島。「大阪太郎」の愛称で親しまれた高砂親方(元横綱朝潮)や、「南海のハブ}と呼ばれた旭道山らを輩出した相撲どころで、小学校には土俵があった。「相撲は、山でクワガタを捕るのと同じ感覚でした。楽しい遊びだった」。中学、高校では相撲部がないため柔道部、琉球大で仲間を集めて自ら相撲部を作った。土俵作りから部員の勧誘まですべてやり、四年生の時には西日本選手権二部リーグの3位に導いた。角界入りを志すようになったのは大学三年生の時。高砂親方が実施した沖縄合宿に参加してプロの迫力に触れ、「どうせやるならプロで」と決意を固めたという。167センチの身長を自分で自分の作ったコブで6センチ伸ばし、新弟子検査をパスした。「一ノ矢」は明治時代の大関がつけていた由緒あるしこ名。初土俵は83年11月で、16年半での通算成績は343勝350敗(5月19日現在)で、序二段優勝が二度ある。星自体は平凡だが、故障にはめっぽう強く、休場はたったの三日だけ。「それだって親方に言われて仕方なく休んだもの。今でも悔しい」という。場所の一週間前に、股関節を脱臼していたのに、5勝2敗と勝ち越したこともある。股関節、腰、首、手首に持病があるが、今では自分である程度、治療ができるようになった。「疲れは取れにくくなっているが、体調は若いときよりいい」と強調する。

これほど現役にこだわっている理由は単純明解で、「相撲の奥深さにひかれているから」。理学部物理学科を卒業しているだけあって、相撲の動きを物理学的に分析することが多い。しかし、一瞬にして入れ替わる相撲の攻と防には「意識の持ち方が大きく作用することがある」と感じている。へその下のつぼである「丹田」に意識を集中すると、余計な力を入れなくても重い相手を押せる、というのが持論だ。「でもそれがなかなかできない。だからこそ面白い」

現在は部屋のマネジャーと食事係りのちゃんこ番、現役力士の三足のわらじをはいている。三十九歳のちゃんこ番が作るちゃんこの味の評判はきわめて高い。

一ノ矢が制作、管理する若松部屋のホームページは、多いときで二千人がアクセスする人気サイトになっている。引退後はマネージャーとして部屋に残ることが決まっている。若松親方(元大関朝潮)は「本当に相撲が好きな奴ですよ。今のように、ひたむきさがあるうちは続ければいい」と話す。本人の意思を尊重して、現役続行を見守る構えだ。どうやら引退を勧告される危険性はない。記録に残っている力士の最年長は江戸時代の岩木野と玉ノ井の六十一歳。昭和に入ってからだと、戦前の藤ノ里(出羽海部屋)の四十一歳九ヶ月。近年では牧本(時津風部屋)の四十一歳三ヶ月、大潮(時津風部屋)の四十歳、高見山(高砂部屋)の三十九歳十一ヶ月がある。

最近になってこだわっているのは、しこの踏み方。「無理やりやらされていた若いころとは違って、今はしこの意味が多少分かるようになってきた。しっくりきたと思っても『もっといい踏み方があるのでは』と次から次へと浮かんでくる。最近いいな、と思うのは明治時代のしこかな。試行錯誤の連続です」だからこそ、当分現役を退くつもりはない。

母校琉球大 部員は2人

1917年5月、関大出身の山錦(出羽海部屋)が学生相撲出身として初めて大相撲の土俵を踏んだ。以来、計98人の学生出身の力士が角界入りをしている。一番多いのが日大出身で34人。うち幕下付け出しデビューが31人。関取になったのは26人と圧倒的な強さを誇っている。一方で一人だけ輩出しているのが琉球大、日体大、国士舘大の3校。一ノ矢の出身校、琉球大の相撲部は、創設者の一ノ矢が卒業して3年後に消滅する憂き目にあった。[部員が集まらないのだから仕方がない。あきらめていた」と一ノ矢。しかし、98年、東京出身の庄司史彦さんが相撲部を12年ぶりに復活させた。「相撲経験はないけれど、面白そうだな、という思いつきで」

現在、部員は二名だが、一人がけがをしているため、けいこも十分できない。それでも十月には他部から人を借りて、全国学生選手権に出場する予定だという。一ノ矢も夏場所後、沖縄に行ってけいこをつける。「相撲はやればやるだけはまっていく感じ。勝ち負けにはこだわらず、自分を鍛えるために続けていきたい」と庄司さんは話している。

2007年9月5日水曜日

イチローと前田智 天才2人

前田智 2000本安打

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自然体、けが越え18年目

9月2日の朝日朝刊のスポーツ面は、上の見出しが目立った。私は、今回まで前田外野手のことを知らなかった。地味なチームの広島では、山本浩二、衣笠祥雄、小早川ぐらいしか知っている選手はいない。サッカーの記事には、一滴の水もこぼさないように、老眼を皿のようにして読むのですが、野球は元々あまり好きでないスポーツだから、感心は当然薄い。それでも、イチローや両松井、井口、松坂、田口、岩村、斉藤、らのアメリカ大リーグでの活躍については、目を離さないように注目している。一挙手一投手に喜んだり、がっかりしたりしています。後のほうの文章は新聞記事を抜粋転載したものです。野球の好きでない私でさえ、記事を読めば、この前田という選手がどんな選手なのかが見えてきて、興味が沸いてきた。会社の同僚の野球好きに、前田外野手のことを尋ねた。同僚の説明には、熱がこもっていて前田外野手をベタ褒めしたではないか。

以下、新聞の記事より。

広島の前田智徳外野手(36)が1日、中日17回戦(広島)の8回2死満塁、久本から右前適時打を放ち、プロ通算2000本安打を達成した。前田は18年目、1895試合目での到達。プロ野球史上36人目となる。初安打は90年6月6日のヤクルト8回戦で、西村から放っている。前田智が泣いた。3万人近い本拠でのヒーローインタービューで。「チームの戦いは悔しいことばかり。責任を感じています」。記録達成以上に、大黒柱としての思いが噴出した。残り1本として、4打席凡打した。同僚が必死に用意した最高の場面に、燃えた。嶋の3ランで逆転し、なおも四球や安打で迎えた8回2死満塁。5打席目だった。「ここで打たんとさすがにいかんやろう!」2球目は顔付近の悪球でのけぞった。が、気持ちはのけぞらない。次の甘い直球を力まず捕らえる。ライナー性の打球が右翼線付近で転がった。けがを重ねた肉体について、球団トレーナーは言う、「今の彼の体の状態を問われて、万全という言葉は使えません」。でも、若手同様に早出特打ちなどの猛練習を重ねてきた。体のハンディを高い技術でカバーした。三冠王3度の落合・中日監督が惚れ、イチローがあこがれた技術。タイミングを外されても、下半身で粘って、力強いスイングを繰り出す。アキレス腱のけがは、打撃での負担が原因ともいわれた。ともにプレーした小早川打撃コーチは「常に自然体でタイミングの取り方、シンで捕らえる能力が本当にすごい」。でも、前田智には確固たる打撃論はまだない。

まえだとものり熊本工から89年秋のドラフト4位で入団し、2年目からレギュラーとして活躍。92~94年に3年連続で打率3割をマークしたが、95、00年にアキレス腱を手術。02年にカムバック賞。ベストナイン、ゴールデンクラブともに4度。右投げ左打ち

実は、この稿の順序が逆なのです。9月4日の朝日の朝刊のスポーツ面の(EYE)を読んでから、2日前のこの前田の偉業達成の記事を読み返したのが、本当の話なのです。ちょっと待てよ、前田外野手って、あの記事の前田のことか?という具合に。

EYE 西村欣也(編集委員) 9月4日朝日朝刊スポーツ面より

マリナーズのイチローが7年連続200本安打にあと2本と迫っている。(注、今日の朝刊では、イチローは200本目をホームランで記録を達成したと報じていた)ルーキーイヤーの01年に当時のジェラルド・ベリー打撃コーチに、イチローの打撃を分析してもらったことがある。 「彼は5種類のスイングができるんだ。①スポイル。難しいストライクをファウルにする②スラップ。軽くたたいて左に流す③ストローク。ボールの下をたたいて中前に落とす④スラム。野手のいない所へ力を入れてシュートする⑤テニスのクリス・エバートのバックハンド。腕だけでコントロールしてボールをどこへでも運べる」「だけどね」とペリー・コーチは笑った。「何でそんなことができるのか、僕にはわからない」。その技術をさらに研ぎ澄まして、イチローはここまで来た。彼の打撃の原点はどこにあったのか。94年の日本のオールスターで、イチローが1人の男と本当にうれしそうに握手を交わしているのを見た。1日に2千本安打を達成した広島の前田智徳である。「僕のことを天才だという人がいますが、本当の天才は前田さんですよ」。はっきりイチローは言った。

前田の野球人生が暗転したのは95年5月23日のヤクルト戦だった。右アキレス腱を断裂した。その後、激烈なリハビリを経て復帰したが、00年には左アキレス腱も手術した。

彼がケガに取り付かれなければ、どんな成績を残したか、という想像には意味はない。あれだけの故障を抱えながら、前田はここまで上ってきたのだ。「ケガをしてチームの足を引っ張って。こんな選手を応援していただいてありがとうございます」。声に涙がまじった。

イチローと前田智徳。2人の天才は歩みを止めない。

山岡=天才アスリートには、他のアスリートの能力をよく理解できるものなのですね。つくづく感心させられました。