2007年9月25日火曜日

ポジとネガ 安倍首相の因縁



「戦後」めぐって村山政権と皮肉な対称 

2007 9 21(金) 朝日 朝刊            論説主幹 若宮啓文

国会で所信表明演説をした安倍晋三首相が突然辞任を表明した時、ふと11年前の光景を思い出した。時の村山富一首相が伊勢神宮に参拝して新年の抱負を述べた翌日、にわかに退陣表明したときのことだ。

辞め方まで似ていようとは~ 私は改めて村山政権と安倍政権の深い因縁に思いを致さざるをえなかった。因縁とは、村山政権が戦後50年に当たって過去の植民地支配や侵略を謝罪する国会決議を模索した95年にさかのぼる。このころ「あれはアジア解放、自存自衛の戦争だった」と謝罪に反対する議員グループが自民党内にできた。新人議員の安倍氏もこれに参加して事務局長代理となる。政界のサラブレッドによる右派活動の開始だった。

村山首相は自らも終戦記念日に「戦後50年の談話」を発表した。これが謝罪の決定版として、その後の政権でもアジア外交の基礎となるのだが、安倍氏らがこれに反発したことは言うまでもない。

社会党(現社民党)委員長の村山氏を自民党が支えるという連立政権の構造自体が耐えられなかったのだろう。矛先は時の外相で自民党総裁だった河野洋平氏(現衆院議長)にも向けられた。

河野氏は宮沢政権の官房長官だった93年、従軍慰安婦問題で旧日本軍の関与を認め、謝罪した当事者でもある。安倍氏はその後、、中川昭一氏らとともに「自虐史観」に反発する若手議員の会の中核となり、右派メディアや言論人と気脈を通じつつ、村山、河野両談話をやり玉に挙げてきた。

天皇訪中の実現、細川政権や村山政権による一連の謝罪など、アジアとの和解が次々に進んだ90年代に、時流に抗しながら安倍氏のエネルギーは蓄えられたのだろう。やがて小泉政権でのナショナリズムの高ぶりに乗って、一気に権力の頂点にのぼろうとは~。

しかし皮肉なものである。こうして同志とともに「民族の誇り」の復権に情熱を見せた安倍氏も、首相になるや両談話を「継承する」と転換せざるをえなかった。君子豹変である。小泉時代に暗礁に乗り上げた中国や韓国との関係修復を狙っただけではない。政権を担う身として、対外宣言といえる外交の基本路線をくつがえせなかったからにほかならない。

この変化を村山氏が評価した。「大事なのは過去ではなく首相になってからの発言だ」(07年4月5日の朝日新聞)というのだが、ご本人にも覚えがあったのだろう。首相になった直後に自衛隊を「合憲」、日米安保条約を「堅持」と言い切ったのである。左の村山政権と、右の安倍政権と。私には両者が左右対称をなしているように見える。

だからこそ、それぞれには独自のこだわりがあった。積み残された「戦後」の課題にとりくんだ村山首相がアジアとの和解に熱心だったのに対し、安倍氏は「戦後レジームからの脱却」を掲げて改憲路線を急いだのだ。

中国を意識してだろう、安倍氏は日米豪印の連携など「価値観外交」も打ち出したが、この若い首相が米国との「共通の価値観」を語るとき、視野から抜けていることがあった。自由も民主主義も人権も、共産主義に対してだけではなく、米国にとっては、かってのドイツや日本に対する勝利の歴史をもった価値観だということだ。

従軍慰安婦問題で煮えきれなさを見せた安倍首相に対し、米国の下院が厳しい決議をつきつけた。イラク戦争を正当化するブッシュ大統領は先日の演説で、かっての「日本の軍国主義者」との戦いを長々と引き合いに出した。いずれも安倍氏には思いがけないことだったろう。

ここでも村山氏のエピソードを思い出す。

クリントン大統領との初対面となった会談で、社会党首相への警戒心を解いてもらおうと、自分がこの党に入った動機を語ったことだ。

それは戦後、米国の占領政策を通じた解放感のなかで、自由や平和、民主主義の重要さを感じたからにほかならない。という趣旨だった。村山流の「共通の価値観」アピールであり、これで打ち解けたという。そういえば戦後初期、日本の民主化を求める占領政策のもと、社会党を中心にした片山首相の政権が成立していた。

安倍氏が尊敬する祖父の岸 信介氏は、そのころ戦争責任を問われて捕らわれた。岸氏が釈放され、反共のパートナーとして米国の信頼を得たのは、その後に進んだ東西冷戦のゆえである。占領期を民主化の夜明けと見る村山氏と、克服すべき負の遺産と見る安倍氏。ふたりの政権はいわば「ポジとネガ」であった。

1年で命脈尽きた安倍政権ではあるが、靖国神社への参拝を見合わせ、日中関係を打開した功績は、右派政権ならではの大きなものがある。そして、村山談話への非難の声が政界で影をひそめたことも、安倍氏の皮肉な功績かもしれない。