2018年8月22日水曜日

夏休みに懲りなく!?励む

8月11日から17日まで、夏休みだ

来月の24日で、晴れて古希70歳になる。
そして、4年前の樹木からの転落事故で、高次脳機能障害に多少やられながら、なんとかここまで回復できた。
何ヶ月かの入院生活を終えて帰宅したが、一時期には、悲観的なことしから思い浮かばない、悲しく辛い日々を過ごしてきた。

バランス感覚の疾傷で、一人で歩く階段の怖かったこと、命がけだった。
明かりの少ない階段を、多い目に歩かなくてはならない時には、腹をくくった。
方向感覚が呆けてしまって、電車やバスを乗り換える際、行き先とやって来た方向の勘違いが苦しかった。
ハッ、ハッとさせられてばかり。
夕方、遠くの絵看板を見て、誰もが想像できないような、不思議な奴の不思議な動作に思えて、立ち止まって電信柱などに隠れた。
暗闇で歩いていると、向(む)こうから不思議な格好をした人が、怪しげな動作をしながら歩いて来ることに恐怖を覚えた。
ところが、その妖しげに風体したモノが、人間ではなく、ただの物陰だったりするのだ。

そんなだらしなく役立たずの私が、この6ヶ月ほどで、以前の人間に返ってこれた。
但し、考察力・思考力、体のバランス感覚、頭痛に関しては、何も向上していない。
4年間、ズッキズキしていた足腰が、人並みに歩けるようになった。
足腰の痛みがなくなっただけではなく、その後、体の中の痛みがしこりになって、翌日にも残らない。
夢見たいな話だ。


★夏休み1日目、11日。

初日から手に入れるモノが貧困ではいかんと思い立って、母校のグラウンドに出かけた。
苦しみだけを、誰よりも多く味わったグラウンドだ。
今年から総監督になった小柴君は、私の大好きな後輩だ。
Jリーグができる前、日本サッカーリーグ・日立サッカー部に入った。
大学時代に日本代表選手でもあった。
それから、神奈川県の高校の先生になり、幾たびも彼の率いる高校の試合を見に行った。何人もの立派な選手を育てた。

少し手首にハンデイはあるが、サッカーに関しては猛烈に凄い腕をみせてくれた生徒が、私の息子が勤めている会社に入社したこと、こんなブログに描くことも無いのではと言えば、当然無いんだが、奇なること! 嬉しいことだった。
今はどのようなクラブ活動をしているか、そのさまは知らないが、彼の健康を祈っている。

私とは年齢的に5,6歳の違いはあっても、大学時代に彼の人柄を気に入ってしまった。
こいつ、いい部友たちに恵まれやがって、私もそのグループの中に気がつかないうちに、入ってしまった。
それから、幸せな45年か50年は経ってしまった。

転勤で、通勤する学校は幾つも変わったけれど、どの学校にも顔を出した。
最後の平塚、大和の学校には行けなかった。

小柴との昼飯は、蕎夢(きょむ)・三晃庵(さんこうあん)。
ここの店との付き合いも、50年以上になる。
近所に住んでいる同輩の工藤の幼友達で、我がサッカー部とも仲良くした。
だって、ここの主(あるじ)のイッチャンだって、進学希望は我が大学で、我がグラウンでサッカーをやりたがっていた。

前回に、グラウンドに来たときに散歩した武蔵関公園を歩いた。
何故か、池の水が緑色していたのが気になった。悪化していると怖い。
待ち合わせ時間よりも早く店に着いたものだから、待ち時間を有効にするため、ビールを1本飲んだ。
腹が空いていたので、アルコールの回りは早い。

思い出話、今のチームの事情、総監督としての役割、次から次へと火が点いた。
店主のイッチャンは元気で、ヤマオカお前は大変だったらしいねと来る。
いや、本当に死にそうだったんだよ、と応えると、アオシマが何とも大げさに言っていたよ、だった。
小柴の自宅は湘南地区の辻堂だが、今は、このイッチャンの持っているマンションに住んでいる。
イッチャンも嬉しそうだっけれど、そのことに何の関係も無い俺も嬉しかったのは、何故だ。
イッチャン、小柴が部屋代を払うのが遅かったり、払わなかったりしたら言ってくれ、悩みは解決しますからね。
イッチャンは蕎麦を水で洗いながら、笑っていた。


試合までには時間があるので東伏見稲荷神社にお祈りに行った。
私が学生だった頃には、伏見稲荷の鳥居は西武新宿線・東伏見駅の直ぐ隣にあったが、その鳥居は駅から随分離れた所に移設されていた。
駅周りの改革事業の影響を受けたのだろう。

鳥居から神社までの間はお店が幾つかあったが、ほとんど住宅になっていた。
私がこの道を歩いていたのは、今から45,50年前の毎日。

そこに、何とか鰹節本店という古い看板を張りめぐらしたお店があったので、覗いてみた。
鰹節ではなく削り取ったビニール袋入りの花鰹、乾燥した昆布、それに何かが少々店に並べてあっただけだった。
店の隅っこには、子供に喜ばれそうな駄菓子が数個。
この道路だって、昔はよく人様が通ったので、割とよく売れたのです。
でも、今は人通りが悪く売れません、でも、折角のお店ですから、壊すこともできずに、何の工面もなく遣っているんです。
私だって、あのグラウンドで50年前、ボールを蹴っていたんですよ、オバサンはそうですか、今日はどうしたんですか?と尋ねられた。
昔、何かがあった時に、あのお稲荷さんにお参りに行ったものなんです。
私が在学中は、ラグビー部の新年の挨拶に使っていた。

少しだけの時間だったけれど、私の胸は幸せに溢れていた。
こんな会話を楽しませてくれたお返しに、煎餅(煎餅)もどきのものを300円で買った。
こんなことに、それほどまでしなくちゃ、貴方は満足しないの?と、誰かに言われそうだ。

この日は14:00からアルティスタ浅間、15:45から宇都宮短期大学付属高校の2試合があった。
アルティスタ浅間は立派なチームだったけれど、我がチームだって桁外れのゲームを展開していた。
我がチームの10番は、途中で替えられたが、彼の思う作戦の稀有さは並々ならぬものを持っていた。総監督さん、よ~く考えてやってくれ。

アルティスタ浅間は、長野県東御市を中心とする東信地域を本拠地とするサッカークラブチームです。ホームスタジアムは、佐久総合運動公園陸上競技場。運営はNPO法人アルティスタドリームプロジェクト、Jリーグ参入を目指し、北信越リーグで戦っています.

でも、14時ごろから空に黒い雲が張りめぐらし、一気に大雨になった。
コーモリ傘を持っていたが、そんなものでは、どうにもこうにも、役に立たなかった。
学校からは、我々に対して色々気を配ってくれたが、その雨と風の勢いに負けて、1試合目の前半だけで、帰途。
試合のゴールは3-3の同点だった。

小柴は、どうしますか?なんて言ったけれど、俺はこれ以上我慢できないから帰るわと言ったら、小柴は笑っていた。

読書。
井伏鱒二さんの「黒い雨」を読んでいる。
8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾をアメリカが落とした。
そして、15日が終戦記念日。
小畠村の閑間重松と妻のシゲ子、姪の矢須子の家族と、その関係者たちの広島の被爆物語だ。
矢須子の原爆症と「被爆日記」、岩竹さんの手記。
この本の内容については、軽易に書くことはできないほど、念には念が入り乱れ、丁寧な小説だ。
どうか、皆さん、読んでください、それしか言えない。
8月こそ、こんな本を再読しない訳にはいかない。

井伏鱒二を、太宰治が本格的な作家になる当初の頃、太宰氏は井伏氏に今後の指導をよろしくお願いしますと言い、その後の両名の親密な付き合いと、お叱りを受けたことを、私は楽しく読んだ。
太宰氏が自殺して、副葬儀委員長を務めた。

「山椒魚」は確かに面白かった。
当時、青森中学一年生だった太宰治がこれを読んで、「坐っておられなかったくらいに興奮した。、、、、、私は埋もれたる無名不遇の天才を発見したと思って興奮した」と彼は書いている。
私は、この「黒い雨」は突出した傑作だと思う。

太宰氏の「富獄百景」には、井伏さん風の人が現れて、太宰氏の前で放屁をなされたという、なんとも言えない、滑稽で面白い小説だった。
太宰氏が何ゆえに、この井伏氏に今後の物書き屋としての心得を得たいと思ったのか、よく解った。

大学時代に読んで、肝心要(かんじんかなめ)の部分は、何となく覚えているが、大体の部分は忘れていた。
この「黒い雨」は、よくぞここまで詳しく、描いてくれたものだと感服している。

夏休み3日目、この本の影響で、身延線の列車窓からの光景が、何故か虚(うつ)ろに思えた。
頭の芯が、とぼとぼしく、しゃきっとしない。

昭和49年2月に、井伏鱒二のことを新潮社・「井伏鱒二 人と文学」に、河盛好蔵氏が書いている文書を此処に引用させてもらう。
氏の作品を抽象的もしくは概念的な言葉で解説することはほとんど不可能なのである。
そのような試みを氏の作品は一切拒否している。

私たちのなしうることは、氏の個々の作品を取り上げて、それを隅々まで丁寧に味わい、その苦心の跡を辿り、その面白さを自分自身で会得する以外にない。
この作品の面白さはここにあるのだとか教えて貰っても、一向に興が乗ってこないのが井伏文学である。

また文学は結局文章に尽きることを教えてくれるのも井伏文学である。
文章を味わい、楽しむことを知らない人には井伏文学は全く無縁であるといってよい。
永井龍男氏もいろいろ、井伏文学について述べられていることを知ってはいるが、この辺で終わりにする。


イーハトーブで野菜の収穫。
イーハトーブとは、吾輩の貴重で大事な、野菜と果樹の耕作地だ。
サラダ菜と小松菜を収穫した。
畑と南側の家との間には、私の土地で法地になっている。
その部分の雑草は大きくなると、隣の人にも何かと迷惑が掛かるので、鎌で適当に刈った。
コトンと小さな石が、我が法地から落ちて隣の家の壁にぶつかった。
その程度の石ならいいやと考えて作業をしていると、隣のお婆さんが出てきて、貴方が落ちたのかと心配しちゃいましたよ、と不安な顔。

いつも迷惑を掛けてすみませんと謝った。
そしたら、お婆ちゃんが言うには、貴方が今立っている場所から、野良猫が私の家の屋根に上がって、オシッコをしたり、ウンコをしたりするので、そこから飛んで入れないように、猫が嫌がる台を置かせてもらっていいですか。

お婆ちゃんが置きたがっている台には、ヤスリまがいの歯が立っていた。
この歯を、猫が嫌がって、きっと屋根までは登らないだろうとの考えだ。
いいですよ、何してもいいですよ。

実は私も猫には困っているのです。
同じようにオシッコしたりウンコをしたり、最悪のことを言わしてもらえば、芋の種やネギなんかも、捻ったり、掘り起こしたりされているんです。
そこのオバアサンが猫好きな人なので、文句を言いたくても言えずにいるんです。
オバサンの家を指差した。

同感ですから、ご自由に。


★夏休み2日目、12日。
今日は企画の無い日。
だからと言って何もしない訳にはいかない。

僕には歩くことがあるではないか、、、、。
歩いて歩いて、くたばるまで歩くことだ。
歩けば、体のどこかに?幸せの泉が湧いて来るではないか。
新鮮で心ときめく思いつき、新しいコースが思いつかない。
だから、いつものA、Bよりも、もっと心閃(こころひらめ)く新しいコースを瞬時にその場で決めることは難しい。

ならば、いつもの戸塚駅へ行くことにしよう。
自宅から東戸塚西口、横浜新道に沿って戸塚駅西口まで。
そこで10分間、一休み。
戸塚駅東口から旧東海道、舞岡駅入口から不動坂、平戸から又旧東海道そして自宅。
1万9、800歩、2時間50分。
不思議なんだ、これを、唯やるだけで、身も心もフレッシュになる。

イーハトーブで、昨日と同じようにサラダ菜と小松菜の収穫をした。
成長した野菜を、滞(とどこお)りなく収穫しないと、次の野菜の種が蒔けない。
雑草も採った。
4日前に埋めたニンニクの種が果たして立派な芽を出してくれるのか、心配だ。
友人にニンニクの種をあげようかと言ったら、まだ早いよ、もう少ししてから貰いたいと、オヌカシされるので、ちょい待ちを了承した。

明日の準備を整える。
山梨の友人にも電話で、こちらの状況はバッチリですよ、あんまり変な酒を飲んで、コンデションを壊さないでくださいと、厳しい告知をした。
志君だ。
彼とは不思議な人間関係をもつことになった縁に感謝したい。


★夏休み3日目、13日。
今日は盆の入り。
迎え火というのは先祖の霊が迷わないように、目印として夕刻、火を焚(た)くお盆の風習。
その火、その煙に乗って、遙か遠いあの世から先祖がやってくる。
私の田舎では、厳格に玄関先もしくは道路に面した敷地の前の部分でおこなった。
お台に、線香花火、野菜類、団子を載せた。
旅で来られるまでに、お腹も空いたであろう、とこの世の人間は考えた。
霊が快く空から家に入れるように、お台には芋などで馬を作ったり、茄子で創ったお迎えの兵士を添えた。
そして、仏壇の前に供物を多く供え、仏像の前のローソクに火を付けた。
お茶も供えた。

ところが、現在の我が家には仏壇はない。

東戸塚駅から横須賀線で戸塚駅。戸塚駅から東海道線で国府津駅。国府津駅から沼津駅まで御殿場線。
★国府津とは。
神奈川県小田原市東部の一地区。相模湾に臨み,地名は古代,相模国府の外港であったことに由来。明治〜昭和初期東海道本線(現御殿場線)と熱海線(現東海道本線)が分岐する熱海・伊豆方面への関門として発展した。沿岸漁業,ミカン栽培が行われ,住宅地化,工業地化も進む。

沼津駅から東海道線で5~6番目の駅、富士駅。
富士駅から甲府駅まで身延線。

富士駅から確か7番目の駅「西富士宮駅」では全ての乗客が降りて、一人っきりになった私はどうすればいいのか?悩んだ。
一つ手前の6番目の「富士宮駅」で5,6人を残して殆どの人が降りた。
降りた人たちは、全て富士山への登山を目指しているのだろうか。

甲府へ行くんですが、ホームで待っていればいいんですよね、と駅員さんに尋ねた。
ええ、それは結構なんですが、次の列車が来るのは、2時間ぐらい後ですよ、と言う。
何、糞、こんな処で2時間も待てるか!
駅の構内には、時間を過ごすことができそうにない。

ならば、駅から出かけて、飯でも食おうと決心したが、歩いても歩いても食堂らしきものがない。
彼方(あっち)へ行き、此方(こっち)へ向かい、やっとのことで、豚カツ屋を見つけた。
フラット入ったのはいいが、この店の女将さんのような人が間抜けた顔をして迎えてくれた。
この女将さんが作ってくれたカツ重は美味かった。
精算時、遅れて出てきた旦那が、1、080円を、貴方は今日始めてのお客さんなんで、1、000円にしておきましょう。

ところで、何処から来られたのですか?と聞くので、一触即発、横浜からですと応えた。
時間がいっぱいあるので、ゆったりしているんですよ。
本気じゃないのに、充分貫録ぶった!
たった80円のオマケでさえ、こんなに喜ぶ私の頭はやはり高次脳機能障害なのか。

カツ重を食っても、まだ1時間ある、駅でノサリクサリ、バッタリボタボタしているしかなかった。
ホームで待っていたのは、私と恋人同士と思われる二人の三人だけだった。

甲府駅に着いたのは、約15時。
東戸塚駅からは各停で所要時間は約8時間になる。
私には急ぐことはない、ゆっくりでエエネンという独自な観念がある。
私には特大の、誰にも邪魔されない、時間たっぷりの夏休みだ~。
時々、「黒い雨」を読んだ。

ホテルの予約をしないで、甲府まで来てしまったのだが、果たして宿泊はどうなるのやら、心配もしていた。
心配性の割には、好い加減さは横綱級だ。

が、どっこい、コラッショ。
見晴らしの好い駅の窓から眺められる光景の中に、ホテルを探ってみた。
あるわ、あるわ、何とかなるやろうと、瞬間は安堵した。
一番駅に近いホテルから当たってみることだ。
ホテル ニューステーション。
ホテルに入って、フロントで聞くと、煙草は吸うんですか?吸わないんですかと聞かれたので、何でも好いですと応えた。
それでしたら、たった1室、煙草吸う人用の部屋が一つ空いています、それにしましょう。
412号室。
こんなことを、当たり前の様に考えたらアカンよ、ラッキーだったのかもしれない。
正真正銘、こんなに巧く行くとは思いもよらなかった。

フロントの傍にはサービス用のワインが置いてあって、2杯までなら無料でいただける。
なり振り構わず、フロントの目を盗んで4杯いただきました。
嫌(いや)らしい性格は、70歳を前にして、変わらず堅持しているワイ。
入室のためにエレベーターに乗ったが、舌の根の良さを再び味わった。

それから眠るまでまだ時間があったので、藤村記念館と武田信玄像を眺めた。
先ずは武田神社に向かった。
武田神社
Takeda-jinja-1.jpg
武田神社
(2014年5月8日撮影)
所在地山梨県甲府市古府中町2611
位置北緯35度41分12.8秒
東経138度34分38.9秒
主祭神武田信玄
社格県社・別表神社
創建1919年大正8年)
例祭4月12日
地図
武田神社の位置(山梨県内)
武田神社
武田神社
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武田神社(たけだじんじゃ)は、山梨県甲府市古府中町にある神社躑躅ヶ崎館の跡地(武田氏館跡)に建てられており、武田信玄祭神とする。旧社格は県社

























躑躅ヶ崎館と武田城下町[編集]

所在する甲府市古府中町は甲府盆地北縁に所在する。戦国時代の永正16年(1519年)に甲斐守護・武田信虎により居館(躑躅ヶ崎館、武田氏館)が築かれ、家臣団が集住して武田城下町が形成された。以来信虎・晴信(信玄)・勝頼三代にわたって武田領国の中心地として機能し天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後もしばらくは政治的中心地であった。豊臣大名時代には南方の甲府市丸の内に新たに甲府城が築城され、江戸時代にかけても甲斐統治の政治的中心地となったため、武田氏館は破却された。館の破却時期は不明であるが、『甲斐国志』によれば要害城が慶長5年(1600年)に破却されていることおから、同時期であると考えられている。
これにより城下町も南方に移動し、武田城下町は甲府城下町の一部として吸収される。江戸時代に武田氏館跡は「古城」「御屋形跡」と呼称され、武田氏時代を偲ぶ名所のひとつとして旅行者が訪れる程度であったが、明治期には史跡保存運動が起こる。

武田通りを歩いて、片道40分。
路面には商売上の看板が少なく、石畳、両側には桜並木が規則正しく植えられていた。
山の手通り。
その武田神社に関しては上記の通り。


舞鶴城公園内を散策した。
小雨が降ってきたが、ちょっとぐらいの雨なんか、屁っちゃらだ。
行くまでは、武田信玄のお城かなと思ったが、そうではなかった。
明治天皇が所有していた土地を山梨県に寄付した。


舞鶴城公園とは。
武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。関東の徳川家康に対抗するための重要な戦略拠点として築かれたといわれ、徳川体制になってからは西側への備えとしての重要性を保ち続けたといわれています。かつては20haほどの広大な城郭でした。
現在は、城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として開放されています。

甲府市
藤村記念館(旧睦沢学校校舎・国指定重要文化財)


明治前期の甲府の姿を伝え続けていきます。
明治前期の甲府市中心部には、「藤村式建築」と呼ばれる山梨県第5代県令の藤村紫朗が奨励した擬洋風建築の建物が、かってたくさん存在していました。
明治10年(1877)に甲府訪れた駐日英国公使アーネスト・サトウの日記には、「この町の西洋建築を模倣した建築物の数は、町の規模からすれば私が知る限り日本一だ。(中略)大きな学校のほか県庁や新しい銀行、裁判所、公会堂、名取式の糸織工場などもすべてこの様式で作られている。」と記述しています。
甲府市藤村記念館はもともとこの場所にあった建物ではありませんが、かって甲府の中心部にはこの様な建物が集中し、まさに明治期の甲府の特徴的な歴史景観を再生するものである。

甲府市藤村記念館は、明治8年(1875)に現在の甲斐市亀沢(旧睦沢村)に睦沢学校として建てられた学校の校舎です。
昭和32年(1957)まで学校の校舎、昭和36年まで睦沢公民館として利用され、老朽化により取り壊し寸前のところ、藤村様式旧睦沢学校校舎保存委員会の手で昭和41年武田氏館跡の武田神社境内に移築復元し、同委員会から「藤村記念館」と命名され甲府市に寄贈されました。
移築の翌年には国の重要文化財の指定を受け、昭和44年からの郷土の民俗・歴史・教育・考古資料を展示する資料館として開館し、平成2年(1990)からは教育資料を中心に展示替えを行って、市民・県民に親しまれてきた。
平成20年、甲府駅周辺区画整理の拠点形成事業に伴って、建物の解体に着手し、平成22年7月末に甲府駅北口広場で進められていた移築復元修理工事が完了し、市民や観光客の交流ガイダンス施設として新たに開館しました。

藤村紫朗(ふじむら・しろう)
肥後熊本藩主黒瀬家の二男で、同藩士萱野家の養子となる。
尊皇攘夷運動に加わり勤皇志士とともに国事に奔走、脱藩して長州に走り、王政復古の運動に参画した。
明治維新に際して藤村姓を称し、大阪府参事を経て、明治6年(1873)山梨県権令から翌7年山梨県令となった。
明治19年地方官制により山梨県知事、翌20年の愛媛県知事に転ずるまで14年間の長期にわたり山梨県政を担当した。
藤村県令は、文明開化の諸施策に積極的に取り組み、殖産興業として養蚕技術の普及や県営勧業製糸上場建設、甲州街道や青梅街道など主要な幹線道路に車馬の通行可能な改修工事を実施したほか、甲州市街の整備に着手し「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築を特に推奨した功績は大きい。

「甲府」の地名由来
甲府の街は、永世16年(1519)戦国武将武田信玄の父信虎がつつじが崎の地に館を移し、周囲に家臣や商職人を集住させて城下町を開創したことに始まります。
「甲府」の地名はこのときに創設された城下町の「甲斐府中」が短縮されて「甲府」と呼ばれるようになったのです。
その後、甲斐城を中心とした城下町が南に形成され、中世と近世の城下町が一体となった、他所にない由緒ある歴史の町です。



昼前に塩山に着いた。
予定よりも早く着いたので、お茶でも飲んで待っているサカイにゆっくり来てくれや、と電話したが、後輩の志君は、今直ぐに行きますので、タクシー待ち場で待っていてくださいとのこと。
それならば、小さな土産などがあった方がいいのではと思いつき、焼酎1升瓶を買った。
我が家のためには「ほうとう」を買った。
鍋物にするのが、主要なメニューだ。
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ほうとう鍋

この「ほうとう」について、由来をネットで調べた。
①饂飩説
中国から禅宗と共に渡来してきた『饂飩(はくたく)』の音便したものであるという説が最も有力と言われています。

②はたく・はたきもの説
江戸時代中期に、小麦粉で作った麺や穀物の粉を使用した料理を『はたきもの』と呼んでおり、製粉する作業を『はたく』と呼ぶ事などことが語源となったという説。①に続き有力な説と

③武田信玄 宝刀説
戦に行く前の陣中食として、信玄自らの刀で具材を刻んだと言われることを由来とする説。

後輩の志君は、相変わらず元気だった。
1ヶ月前、突然、そっちへ行くから付き合ってくれ、と電話した。
このヘンチョコな申し出を、彼は最初どのように思ったことだろう。

時間はいっぱいあるのですが、ドライブして泊まるペンションに向かいましょうとスタートした。

早速志君は缶ビールを出してくれた。
少しばかり市街を走り、そのうち山深い森林地帯に突入した。
峰峰の上空には、入道雲が立ち登っていた。
いつでも、大雨が降りそうな気配(けはい)。

それから、ほぼ1時間、林間道路を走っていると、大菩薩峠入口の看板が目に入り、志君にストップを命じた。
ロッジ長兵衛の隣の駐車場に車を停めた。
トイレに行って、準備完了。

大菩薩峠嶺には、そんなに時間がかからなくて、割と省エネルギーで登れますよと言った。
小学生の時に、学校の授業の一環として、この峰への山登りはやったことがあります。





ようし、志君、登ろうやとの申し出に、彼は快く承諾してくれた。
この時、志君は快かったのか不快だったのか、解からないまま、二人の歩調は軽やかだった。
志君のことは兎も角、私は嬉しくて、足腰だけではなく、心の芯まで快楽だった。

足元の大小の石ころ、曲がりくねった山道、緑爽やかな樹木、私を歓迎してくれている、と勝手に考えた。
山をとります岩石が単純な堆積岩ではない、硬くその破片部分は鋭利だった。
時には、どっちの道がいいのかと、焦らずに要られない二つの道。

ちょっとぐらい雨が降ったって、私は二人分の着替えは持っている、雨が降ろうが風が吹きつけようが、車の中に用意してあるから、そんなに心配することは無いと安心させた。
それからは、私にとっては嬉しいことだらけ、志君だって、曼荼羅苦しいことは無さそう。

幾らの高さから頂上に登りきったのか、歩いた距離だって分からない。
立派な登山ごっこになってしまった。
予定しなかったことを、有り合わせで実行する、いつものハチャメッチャな男たちだ。

一直線に、ほぼ2時間半かかって登りきった。
日本百名山・大菩薩嶺=2056,9メートル。

志君には関係ないかもしれないが、樹木から落下事故してから立ち直って4年半。
体を剥(む)きに働かして行動できること、誰彼に文句言われること無く、この山中、幾つもある石の上や横を歩けることが、これほど、嬉しいのだ。

この10年間、この快楽の吟味がなかった。
私の気持ちを、よくぞ理解してくれた志君に感謝した。
いい、男だ。

頂上では、男の人3人と話した。
その人たちは、我々の無防備振りに、如何にも感心してくれた。
服装から靴、食べ物を一切持っていなくて、尚、行きがかりで、登ってきたことに対する無神経さと、勇気雀躍さ。
3人には可愛い小さな犬も参加していた。
この犬、皆には迷惑を掛けるようなことはせず、只管(ひたすら)自らの喜びを味わっているようで、見ているだけで愛らしい。

下山は力が加速されて膝が痛かったが、弱みを口に出さない。
登りだして降りるまで、就歩数27、000歩。

志君に対するお礼だけは欠かさなかった。


3時頃にペンション・すずらんに着いた。
ペンション・すずらんには、ジュウジュウハウスというバーベキュー、すずらん昆虫館もあった。

ゴールデンウィークを過ぎると、山菜の時期を迎える。
タラノメ、センノキ、ワラビ、サンショウ、コシアブラ、ウドなどが採れる。
大菩薩は、昔から昆虫の宝庫として知られていて、蝶、くわがた、カミキリムシの採集地としても最適。
この昆虫の採集家らしい、人も何人かいた。
この類での名所のような気がした。

大菩薩の自然の懐深く入り込み、一心に茸(キノコ)探しは格別、山の幸に感謝が自然と湧いてくる。
キノコ狩りの醍醐味だ。


志君の自宅、志君の奥さんの実家のことを、ペンションの女将さんは良く知っていて、我らは、仲間付き合いになっていた。
浴場は何も確認しなかったようで、女用に入ってしまった。
迷惑かけてはいないと思ってはいるのだが、実情は解からない。


晩御飯をいっぱいいただいて、二人はこの夜の酔っ払いの準備にも入っていた。
話したことは、学生時代のこと、グラウンドでのこと、先生、先輩・後輩・同輩、東伏見の人たちのことで花が咲いた。

本気で話したかったことは、何是(なんぜ)東京の高校に入ったのだ? 何故サッカー部に入ったのだ? そして何故大学のサッカー部までやってきたんだ? こんなことだった。

私はサッカーについて技術的に余り自慢できることはないが、仲間とのことについては、コップ1杯ではない、バケツに30杯分の用意はあるよ、と笑った。
志君の年齢は、64,5歳ぐらいだろう、公私大変なことはいっぱいあっただろうが、よくぞ、頑張っているものだ。

何時ごろだったか解からないが、コトンと猫のように寝てしまった。



★夏休み4日目、14日。
いつものように早く起きてしまった。4時半だ。
頭の芯には、アルコールが残っている。

早朝、ペンションの前の広場で、ぼけっとした頭を冷やしていた。
志君とは二人が何年も過ごした東伏見での思い出話に華が咲いていた。
入学した時の住所は、東京都北多摩郡保谷町東伏見だった。

不思議だ、あんなに苦労ばかりの悲しい学生生活だったのに、今になっては、苦しかったことなどち~とも出てこず、楽しいかったことばかり。
社会人になるための、全てのことを学びとった。

そんな談論をしている最中に、オジサンと中学生ぐらいの子供が参加してくれた。
よくよく話していると、彼の母校は我々と同じで、理工学部卒業だった。
私たちは、同じ大学のサッカー部の先輩、後輩なんです、と言わざるを得なかった。
私たちの時代には、理工学部の学生は我がサッカー部には参加できなくて、自らの学部だけのサッカー部があった。

だから、我が大学では、関係したことはなかったが、我々のア式蹴球部、稲穂キッカーズ、それに理工学部のサッカー部だった。
現在では、サッカー部に理工学部の選手もいる

そのオジサンは、どうも此の地が余りにも昆虫好きには堪らないことを知っての上の、旅だったようだ。
そこで、私は蝉(セミ)のことを話した。
私の故郷の京都では、正式な名前は知らないがニイニイゼミ(田舎では、日本蝉と言っていた)が多くて、アブラゼミ(油蝉)は少なく、この油蝉を捕ると皆から褒められた。
透明の羽根のツクツクボウシなどを捕まえた暁(あかつき)には、皆は私のことを神様のように慕(した)ってくれた。

そういうことを言うと、このオジサンは、実は、貴方が言うように、蝉にも地域差というか、群れがあるんですね。
調べれば、ここで巧く喋れないけれど、私も、それに興味を持ったのです。

昨夜、志君との酒飲みで、あんなに楽しかったのに、何故か頭がすっきりしない。
その原因はなんだったんだろう?と考えて、やっと解かった気がした。
それは、私が会社の責任者として頑張っていたが、このままこれまでの様にやって行くんではなく、ここらで、節目を作ろうとした時期があった。
詳しいことを、ここでああだ、こうだと話す心算はないが、兎に角一休みすることにした。

次期の責任者は、今社長の中さんだ。
私は身を引いて、中さんの後ろ盾に尽きる。
それから何年経つやら、中さんは立派に会社を盛り上げてくれている。
そんな節、去る者は去り、残る者は残った。
一人頑張っていた役員が、皆に何の挨拶もなしに去って行った。
彼が責任者でやっていた仕事も幾つかあって、去るにしても、その現状の内容報告があって、ミスがあったことについては、それなりの釈明があってしかるべきだった。

決裁はこちらの方でも検討の結果、出したことだから、何もかも彼にその責任を取ってもらおうとは思わない。
そんな悲痛な一時期のこと、彼の振る舞いのことを、アルコールで頭の中は混乱していたけれど、かっての現実が、蘇ってしまった。
そんな状況になれば、私の頭は、彼のことをもう一度しっかり考え直すことだ。

それから2時間からそれ以上の時間、何故だ? どうしてだ?と何回も何回も考えた。
その結果、アルコールは果てることなく、苦しみの波動や怒りの渦が頭の中でひれ伏した。
そして、早朝、知らない間に眼が覚めていた。

志君との楽しかった話題も、次から次に思いだされる。
繰り返すが、志君は64,5歳、家族でのこと、それも妻のことや子供のこと、それに孫たちの今の生活っぷりが興味深かった。

父とお兄さんで経営した海産物の仲卸し屋としての苦労話、奥さんの実家の仕事のこと、その仕事に時々参加する娘の仕事っぷり。

今から何十年前のこと、志君が海産物の数々を、田舎の小売店に納める仕事をしていて、その車に同席させてもらって、山奥まで仕事に行った。
志君はどう思っているか、聞く機会もなかったが、私にとって興味あることだった。

今は、友人がやっている仕事を手伝っているが、その仕事の面白いことなど、いっぱい話題はあったが、今は時間に余裕がなかった。

帰りの列車は何時でもええので、気にしないでくれ。
互いに嫌(いや)になったら、その辺で駅に下ろしてくれ。
お邪魔した俺も、迎えてくれた志君も、そうしましょ、好い加減な仲間だ。
でも、折角来られたのですから、ドライブをしましょう。



先ずは武田信玄を父に持つ武田勝頼が自害した所へいきましょう。
そこには、自害した時に腰の下に使った石もあるのです。
当然、墓もある。
それを写真で紹介しよう。


天目山の戦いページにて記載した武田勝頼最後の出来事は、江戸時代の軍記・甲陽軍艦や甲乱記などに記載されている事項によるもので、武田勝頼が華々しく散ったように書かれている。
しかし、ご存知のとおり甲陽軍艦の記述は疑わしい点が多くすべてを信用できない。実際には、武田を攻めた徳川勢の記録「三河後風土記」により、本当のところがわかってくる。
天目山の栖雲寺を目指していた武田勝頼一行は、徳川勢に先回りされて、日川の渓谷沿いにて「挟み撃ち」を受ける格好になってしまった。
田野に戻った武田勝頼は、最後の戦闘にも参加することなく、具足櫃の上に腰掛けていたようだ。
滝川一益の部隊が鳥居畑で武田勝頼らに追いついた際に、嫡子・武田信勝は防戦し討死。
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武田勝頼を守っていた金丸定光や土屋昌恒(土屋右衛門尉昌恒)も、滝川一益の家臣・滝川儀太夫によって簡単に討ち取られたようだ。
その直後、側面よりのちの福島正則の家臣・伊藤永光(伊藤伊右衛門永光)が武田勝頼を襲い、一刀のもとに討ち果たして首を挙げたと言う。

伊藤永光の傍にいた津田小平次は、武田勝頼の最期の模様を眼前に見ていたが、武田勝頼は太刀で防戦しようとするものの、飢えと疲労のためか動けず、伊藤永光によって簡単に討ち取られてしまったと、自記に記している。
武田勝頼の首は、伊藤永光の鞍の四緒手(しおで)にくくり付けられ、総大将・織田信忠のもとに届けられたが、首実検の際、多くの大将首が運ばれたため、武田勝頼の首がどれか分からなくなってしまった。
当初、小原継忠(小原丹後守継忠)の首が武田勝頼のものとされたが、武田勝頼の首の斬口に、伊藤永光の馬の毛がついていたので、やっと判別できたと言われている。
ようするに、甲陽軍艦などに記載されているように、武田勝頼は華々しく自刃したのではなく、逃げるにも空腹と連日の逃避行で疲労困憊状態であり、充分な抵抗もできず討ち取られたと言うのが現実だったようだ。
大阪冬の陣で戦って、討ち取られた真田幸村も長時間の戦で疲労困憊となり、動けなくなったところ、首を取られたと言う話もあり、武田勝頼も同様に敗れた武将の末路はとても悲しい最後である。
甲陽軍艦では天目山行きにて武田勝頼の一団からいち早く逃げたとされている長坂光堅も、最近の研究では武田勝頼に最後まで従って殉死したものとされており、甲陽軍艦は脚色が濃い創作物語と言える。
長坂光堅は武田信玄の時代から諏訪郡代に任命されるなど、武田重臣の1人である。

武田勝頼の首塚

武田勝頼の首級は、織田信長の命にて京都にさらされました。
その頃、京都の妙心寺にいた、甲斐・宝泉寺の快岳和尚が、ひそかに武田勝頼・武田信勝のの首をもらい受けたと言います。
そして、歯と髪を甲府に持ち帰り、宝泉寺に葬りました。
甲府・宝泉寺
甲府・宝泉寺は甲府五山のひとつで、南北朝時代の元徳年間(1329年~1332年)、甲斐守護の武田信武が開基です。
甲府・宝泉寺
本堂の左手方向に進んだ、桜の木のした付近に武田勝頼の首塚があります。
武田勝頼の首塚
武田滅亡後に甲斐を領した徳川家康は、この宝泉寺を武田勝頼の菩提寺として定めました。
武田勝頼の首塚
なお、武田勝頼の首塚の左隣には、この寺を開基した甲斐武田氏の第10代当主・武田信武の墓もあります。
武田信武の墓
甲斐・宝泉寺へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点が駐車スペースとなります。
そんなことを志君と話していたら、志君の友人が突然現れて、自分が今耕作している畑を見せてくれた。
志君とはサッカー友達で、たまたま進んだ道の脇に自宅があって、自害した場所の直ぐ裏に畑があるものだから、電話で話したようだ。
立派な会社=NECのサッカー部のキーパーだったらしいが、会社の都合でそのサッカー部は廃部になり、やることに悩んでいた彼を、志君は声を掛け、一緒のチームでプレーすることになった。

体は小さいが、精神が強靭で神経症でナイーブ、割と巧いんですよ。
畑には、作物が幾つも作成中で、楽しみがいっぱいのよう。
私には、お土産に胡瓜を6本ほど呉れた。
彼の自宅も紹介してくれた。
茅葺屋根の上にアルミニュームの屋根を被せたものだ。
この地区では、茅葺を張り替えることは費用がかかって、尚近い将来にやり直さなければならない。
そんなことは、もう懲り懲り。 

最後のコースは、フルーティラインと言ったかも知れない、甲府の街が全部見渡せる好いコースなんですから。
途中、志君は友人に電話したが、彼は仕事で留守だった。
志君、俺は朝飯にご飯を2杯食ったので、昼飯にほうとうは食えないは。

昨日の疲れもあるし、どこの駅でもええ、何時でもええ、適当に駅に向かってくれるよう頼んだ。
彼も、疲れたのかどうか知らんが、それやったら11時頃に塩山駅に行きましょう。

そこで、思いついた。
塩山市と勝沼市は無くなって、今は甲府市になっている。
塩山の名は、街の中央にある「塩の山」に由来している。
標高552メートル、標高差150メートルほどだ。
遠くから俯瞰すると平野にポコンと置いたような、小さな海に浮ぶ小島みたいに見える。

「塩」の意味は日本語の「しぼむ」「しおれる」からくるしおだ。
ここの「塩」地名は、かって山塩を採掘していたことと、相まって山峡の狭い谷間にふさわしい地名だ。
いつの頃からか、塩を採ることは止(や)められている。
採れなくなったのか、蓄えがなくなったのか、志君も解からなかった。
こんな内陸部のこんな場所でも、きっと遠い昔は海だったのか、、!!、、
歴史は不思議だ。

塩山駅から新宿駅まで特別急行列車に乗った。
新宿駅からは湘南新宿ラインで横浜駅まで、それから横須賀線で東戸塚駅まで。
所要時間、2時間半。自宅に着いたのは、3時前後だった。

志君からいただいた土産は、本格焼酎・酔神の心、鹿児島のさつまゑびす堂だった。
ヤマオカさん、酒は焼酎がいいですか?お酒がいいですか?
焼酎なら、さつま芋がいいですか?麦がいいですか?と聞かれたが、なんでもいいよ、と生返事したことが悔やまれる。

晩御飯を食って、妻に志君のことを話して、布団に入ったら、直ぐに寝てしまった。




★夏休み5日目、15日。
今日は一日、ゆっくり休むぞ。
山梨行きが、それほど体を苛めたわけではないし、でも、夏休み明けのことを考えるとゆっくりしていたいと思った。

一日ゆっくり休むぞと言ったって、家の中をあっち行ったりこっち行ったりしていてもしょうがない。
イーハトーブに野菜を見に行った。

私が山梨で心身共のお休みをしていても、野菜はそれなりに頑張っている。
たった2日だけのお休みだったけれど、作物たちは私のことを、よくよく考えていてくれた、と思い巡らすと、なかなか好い物だ。
サラダ菜とミズナを採って帰った。

歩かないわけにはいかない。
今日は、ちょっとは疲れ気味だけれど、自宅から大船駅まで歩いて、電車で帰ってきた。
21,000歩、約2時間。
この程度の距離で、これぐらいの時間ならば、苦にはならない。
汗びっしょりになること、東戸塚駅で立ち食いうどん、それからボチボチ歩いて帰ること、それらは十分に慣れてしまった。

それでも時間があったので、夏休み前に見た下の写真を思い出し、この内容を確認に現場に歩いて出かけた。
自宅から、5,000歩、往復で1万歩。
場所は横浜市戸塚区柏尾

旧東海道の不動坂の横に碑があって、殺された護良親王の首を洗い清めた井戸があった、と言う。
正確に碑は井上歯科の真横、現場はそこから2丁とか3丁とか記してあった。
この辺りを散歩に使っている私にとって、どうしてもその実情を知っておかないとイカン。
何故、此処で護良親王の首狩り井戸があって、それを史跡のように遺跡しているのか、隣村に住む私だって知る権利があり、義務がある。

詳しいことは、ネットの記事を貸してもらったので、それを引用した。
護良親王首洗いの井戸
横浜市戸塚区柏尾には建武2年(1335年)に暗殺された後醍醐天皇の第一皇子護良(もりなが、もりよし)親王の首を洗い清めたとされる井戸がある。
 護良親王は建武中興のときに征夷大将軍として父の新政権を支えた。しかし、南北朝動乱のさなか捕らえられ、幽閉先の鎌倉二階堂で足利尊氏の弟である直義の家臣によって暗殺された。現在の鎌倉宮の地である。
 親王の首を奪い取った側近は、山の道なき道を伝い、皇子救出のため柏尾で待つ仲間のもとへ逃れる途中、この井戸で首を洗い清め、近くの王子神社の地に葬ったとされている。
 この付近の字名は「よつぐひ」という。側近が鎌倉から山を四つ越えて逃走したルート「よつごえ」からきたという説と、親王の首を清める際、井戸に四本の杭を打ち祭壇としたためという説があったが、首洗い井戸の傍には最近建てられた「四つ杭跡」の石碑があり、後者の説になったようだ。
 井戸枠、「護良親王 首洗井戸」石碑、「四つ杭跡」石碑、「歴史の小径」石碑と全てが新しく、おかしな気がする。王子神社管理御料地となっているが、「遺跡」という雰囲気は全く感じられないものだ。明治の初めではなく、昭和後期から平成にかけてこうした整備がなされたことは異常とさえ思われる。100年以上も遅れた理由は何であったのであろうか。
(表紙写真は首洗い井戸)



★夏休み6日目、16日。
今日は盆の明け。
送り火とはお盆の期間に一緒に過ごした先祖の霊を送り出す行為。
夕刻、迎え火と同じ場所で行う。
お台にあったお供物のようなものを取り下げる。
人々は、この迎え火と送り火をきちんと行い、手を合わせ、先祖に対するやるべきことをやらなくてはならんと考えている。

今日はどこまで歩こうかと考えた。
やっぱり、歩いて歩いて歩き周らないと、この俺さまの足腰は完全に直らないと自覚している。
自宅から環状2号線を只管(ひたすら)磯子方面に歩いて、今日は何とか小学校前の交差点を南高校に向かう、そして上大岡駅。
上大岡駅から地下鉄の弘明寺駅、弘明寺商店街を通って、京浜急行の弘明寺駅。
平戸桜木町線を平戸に向かって、横浜横須賀道路の下を児童公園に向かう。
1号線に出て、自宅。
所要時間は3時間半、27、000歩。

流石に疲れたが、その原因が、2,3日前の山梨への旅の影響でないのが、嬉しい。
確かに、疲れた。
でも、この疲れの大きな原因は、大菩薩峠嶺への山行疲れではない。
だって、足腰のギクシャクした疲れではなく、何か不思議な、精神的な疲れのようだ。
この精神的な疲れこそ、人間生きていくのに、一番気に留めなくてはならないことなのだろう。

相変わらず、交差点では腰を回し、仰向けにして、両手を右左に開閉、上下に振り、やらなくてはならないことは、なりふり構わず行った。

弘明寺の商店街で、野菜主体のサンドイッチを150円で買った。
今朝の朝飯はパン、腹具合が快調なのだろう、腹が減って減ってしょうがなかった。
よって、今後は散歩に行く前の朝飯は、パンではなくご飯にしてくれるように頼んだ。

それにしても、27、000歩を3時間半で歩く行為は、貴重だ。
自宅に戻って、シャワーを浴び一呼吸するだけで、何故ゆえにこれほど幸せなのか、不思議だ。
昼飯が待ち遠(どお)強(し)い。
余り口(くち)恐(おそ)ろしく、嫌らしく、腹が減ったことを口述するのは、避けたい。

そして、イーハトーブだ。
何故、毎日、毎日イーハトーブなんだよ、と疑問を持たれる人もいるようだが、決して変なことを言っているわけではない。
野菜を育てている人間には、極めて不思議なことでもなく、通常の観念なのだ。

雨が降らなければ、必ず、水を撒いてやらなければならない。
貧すれば鈍する、人間だけではない野菜だって常識だ。
だって、野菜を育てているのならば、誰だって、当たり前のことだ。



★夏休み7日目、17日。
明日から仕事が通常に始まる。
そんな重要なこと、それほど冷静には考えられない、夏休み最後の日だ。

ヤマオカさん今日から仕事なんだけど、今日は休みなの?なんて電話が入ってこないか、昼頃までは心配だった。
そんなに、規則的な人間ではないんだ。

夏休みだろうが、夏休みでなくても、人にはそれぞれの発想もあり、思い掛(が)けもあり、やる人はやっていて、休みの人は俄然休みだ。
ところで、私は、少なくても休み明けには、会社に出た時には出社したらしく、きちんと整えなくてはならん。

それなら、今、この俺には何ができるというのだ。
先ずは、心身ともに健康でありたい。

今年のゴールデンウイーク頃から、私の足腰が何とか人様らしく動けるようになったこと、さらに言わしてもらえれば、大菩薩峠嶺にも自力で登れてきた。
それも、足腰にダメージを受けていないこと、シコリを残していないことが、どれだけ嬉しいことか。

こんな状態になったことに感謝する、自前のこと。
会社に出た時には、心配を掛けないことの状態を守りきることだと思う。

それで、何をするかと言えば、やはり歩くことだ。
今日は、横須賀線・北鎌倉駅まで歩いて行って、帰りは電車に乗って帰ること。
歩数は21、000歩、所要時間は2時間半。

シャツは汗でびっしょりだけれども、車内は乾燥していて、東戸塚駅までにはよく乾いてしまった。
東戸塚駅で10時半、腹が減って減ってどうしょうも無く、駅改札口右側の立ち食いウドンを食った。320円。
自宅を出る前に朝飯を食うのだが、パンではどうにも腹が減り過ぎる。
腹具合がどうにかなったので、ゆっくり駅から歩いて帰った。3、200歩。

それからは、昼休みを十分取ってから、イーハトーブに直行。

17:00頃から、今日明日の調整のための一杯を飲む。
沢山飲むわけにはいかない。



2018年8月20日月曜日

その走り、見苦しい!!

8月13日、ほぼ12時から。

どっから歩いて大菩薩峠嶺に登れたのか、同行の志君も解からないし、当然私も解かっていない。
大菩薩峠嶺は2056,9メートルの高山だ。
日本百名山に撰ばれている。
その山を、割と平易に登りきったが、自信なんかなく、昔の強靭な体ブリブリ時代の私を思い出せたことで、それは、それは有難い山行だった。
それほど、私は弱り切っていた。

同行者の志君に感謝の念をあからさまに表現した。

それから、19日の日曜日。
此の頃毎日、会社に50分かけて往復しているし、休日には3時間かけて2万歩前後を歩いている。足腰のギクギクが完治してきているようだ。
そんなところに、蟻の目ん玉なのか?蛇の皮なのか、それとも地獄のタカリか? 
不思議なトッカカカリを、自らに降り掛けてしまった。

自宅から東戸塚駅、かって我が家の愛犬だった3頭と次女の子供の墓に頭を下げ、戸塚カントリークラブの横を通って、左近山団地を貫通した。
今井町のイーハトーブによって様子見、自宅に帰った。
そこで、戸塚カントリークラブの横を歩いている際、下り坂を、ちょっと様子見で、ゆっくりゆっくり走ってみた。
走ると言ったって、誰もが感じる走りではなく、下り坂を、下り坂の傾斜のままスピードを上げて、走る真似をしただけのことだ。
そしたら、愕くことなかれ、体に割と負担が軽いではないか。
こんな感覚を、自覚できたのは10年ぶりのようだ。

5メートル走ってしばらく歩き、200メートルほど歩いて10メートル走って、また歩いた。
こんなことを何度も何度も繰り返した。
走ることの久しぶりな喜びと、その歓念が体に喰いこんでくる、こんな幸せを味わえることが、どんなに嬉しいのか、誰にも解かりっこない。

だが、悔しいことに走り方の無様(ぶざま)なこと。
私だって、かっては自慢のアスリートだったが、この走り方は人様の目には触れたくないほど、無様なのだ。
足腰と体全体のバランスの悪さ! そんなこと、構っていられるか!
俺は俺の人生を生きられるだけ生きていくしかないんだ。

自宅に戻っても、何度も何度も、腰や足の痛みを確認したが、心配した以上の苦しさはやって来なかった。
筋肉に痛みが残っていない。

嬉しく、嬉しくて堪らないのです!!!
次回はもう少しレベルを上げなくっちゃ、ならん。

セーヌ川 汚名をすすげるか

こんな新聞記事に気を損(そこ)ねるな。
日本だって、酷(ひど・みにく)い若(も)しくは非道い公害問題が、彼方此方(あっちこっち)で、あったではないか。
私のような何も考えていなかった人間さえ、高校時代、未来への危惧を感じた。
この危惧を感じたということについて、冷静に漢字を与えたかったが、キグを思いたった時、私の頭に覚えがなかった。
島国の日本なんか、隣接した国にとやかく言われるもんじゃないだろう?
何とか、国内での約款を無理してでもやりぬけば、こんな恥さらしのようなことは起こらない筈だ。

純真な私は素直にそう感じた。
田舎育ちの厄介なことに、純真に理解したいと思っていた若者は、そんなに難しいことではない。
やらなければならない人、やらなければならない会社は、やるべきことをちゃんとやってくれれば、それでいいではないか。
簡単にそのように思っていた。

私が多少なりとも知っている公害で名をなした事項・事件だけでも列挙してみた。
明治11年、足尾銅山鉱毒事件(栃木、田中正造)
大正11年、神通川イタイイタイ病(富山)
昭和29年、ビキニ環礁水爆実験
  30年、森永同砒素ミルク事件
  31年、水俣病(熊本)
  32年、江戸川漁業被害
  36年、四日市喘息被害
  37年、サリドマイド薬害
      ベトナム戦争の枯れ草剤散布
  43年、カネミ油症(北九州)
  45年、スモン病薬害(北九州)
      光化学スモッグ発生(東京)
  48年、六価クロム汚染問題(東京)
  60年、薬害エイズ事件
  61年、チェルノブイリ原子力発電所事故
平成11年、東海村原子力臨海事故(茨城)


20180810 朝日新聞の記事を、そう気安く気楽に見過ごすわけにはいかない。
そんなことで、転載させてもらう。
朝日さん、悪(あ)しからず。
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セーヌ川汚名すすげるか
24年五輪 競泳会場



2024年パリ五輪の競泳会場になっている、エッフエル塔のたもとのセーヌ川=7月、パリ、疋田多揚撮影

汚水流入水面にはゴミ漂う
パリのセーヌ川で水質改善計画が進行中だ。1923年に市民の遊泳が禁止されてから、ほぼ1世紀。過去にも汚名をすすごうとしたことがあるが、挫折を味わった。2024年のパリ五輪の競泳会場に決まったことで、今度ばかりは後に引けないようだ。
(パリ=疋田多揚)


数々の名画やシャンソンの舞台になり、河岸がユネスコの世界文化遺産に登録されているセーヌ川。パリ市民や外国人観光客にとっての憩いの場だ。

ところが、河岸に下りると、水は緑色に濁っている。木くずやペットボトル、見分けのつかないゴミが水面を漂い、果ては自転車まで投げ捨てられている。

7月下旬、河岸で日光浴をしていたモード・メスニーさん(40)に話を聞くと、こんな答えが返ってきた。

「いくら暑かろうと、今のセーヌ川で泳ごうとは思いませんよ。病気になるにきまっている」

国の環境連帯移行省で、水質検査を担当するジュリ・ベルスレさんによると、全長780キロのセーヌ川で一番汚れているのが、パリ付近だという。

最大の原因は、汚水の垂れ流しだ。30万ほどある配管の約1割で、下水管が雨水管につながり、汚水がそのまま川に流れ込んでしまっている。ベルスレさんは「戦後直後に建てられた家に多い工事ミス」という。

さらに一部の配管では、悪天候時に汚水が管からあふれるのを防ぐため、下水と雨水が混じった水を川に流していることも、水質の悪化につながっている。船を浮かべて暮らしている人たちもいて、ここからも汚水が垂れ流されている。

こんな具合で、セーヌ川には、標準値以上の大腸菌などのバクテリアが繁殖している。ベルスレさんの説明が分かりやすかった。

「泳いで死ぬことはありえません。でも、胃腸炎になる可能性はあります」



「泳げる川」苦難の歴史
パリ市が水質の改善に取り組むのは、実は今回が初めてではない。

パリ市はシラク市長(後の大統領)時代の1984年、「清潔なセーヌ川10ヵ年計画」を打ち上げた。当時の市の担当者は「10年後のセーヌ川は、ほぼ澄んだ上体で流れることになる」と断言。シラク氏も90年に「3年後にきれいなセーヌ川で私が泳ぐ」と公言したが、実現しなかった。

そんなセーヌ川が、2024年のパリ五輪では、トライスロンや10キロのオープンウォーター(野外の競技)の会場に決まった。パリのイダルゴ市長は、「泳げるセーヌ川」にすることを市民に約束。24年に向けた行動計画を練っている。

計画に沿って、浄水場ではオゾンや紫外線を使った殺菌効果を試している。雨水をためるスペースを地下などに創ることで、汚水が管からあふれて川に流れるのを防ぐ試みも検討中だ。

こうした努力の結果、90年代には3種類しか生息していなかった魚が、現代は33種類まで増え、水質は改善に向かっているという。

五輪と競技会場をめぐっては、20年東京五輪のトライストン会場となった東京港区も、水質改善に取り組んでいる。パリ市は今年5月、「逃げる水質」をどうすれば実現できるかヒントを得ようと、港区と協定を結んだ。


2018年8月17日金曜日

天の川 カササギさん

天の川のことを、中学生の時に先生から、七夕はA子さんとB君が一年に一度のランデブーをしたとっても幸せな夜なんだよ、私の大学生になるまでのお教(おし)えであった。
それからの天の川は、浪漫主義者としての私の、幸せの原点になった。

そして太宰治のどの本で読んだのか覚えていないが、女の人には乳房と乳房の間に汗が流れるんだよ。
涙の谷、その涙のことを、悲しみの涙だと言う。
大学時代に、太宰治が私の生き方に対する先生でもあった。

それからの私は、天の川の数知れない星星のことを、天が心して涙を流すものだ、と思うようになってしまった。
喜怒に哀楽、どのような感情にも、涙は果てしない。
幾ら、涙をタオルで拭いても、私の涙は止まらない。

天の川が、歓喜に溢れたランデブーから、哀愁の涙の川になってしまった、、、。

そんな私が、こんな天声人語を読んだだけで、あれもこれも思い出してしまう。

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カササギ



Wikipediaより「天の川」とは。
天の川あるいは天の河(あまのがわ)は、夜空を横切るように存在する雲状の光の帯のこと。
東アジアの神話では夜空の光の帯を、川(河)と見ている。一方、ギリシャ神話では、これを乳と見ている。それが継承され英語圏でもMilky Way(ミルキーウェイ)と言うようになった。
この光の帯は天球を一周しており、恒星とともに日周運動を行っている。
日本では、夏と冬に天の川が南北に頭の上を越える位置に来る。これをまたいで夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見える。他の星も天の川の周辺に多いので、夏と冬の夜空はにぎやかになる。
現在では「天の川」や「Milky Way」という言葉で、天球上の(視覚的な)帯だけでなく、地球を含む星の集団、つまり天の川銀河を指すこともある。

ーー   --  --
20180817の朝日新聞の天声人語を転載させてもらいました。

今夜、天の川にカササギの橋がかかる。旧暦7月7日、七夕である。
国立天文台が、梅雨さなかの新暦ではなく、旧暦で祝おうと呼びかけている日だ。
カササギは夜空に翼を連ね、速く離れた織姫と彦姫の間を取り持つ。

カササギを県鳥とする佐賀県の保護施設で対面した。
間近で見ると、目が丸く愛らしい。羽色は白黒の2色で、長い尾羽は太陽光を浴びて青や緑に輝く。
佐賀を含む九州北部に生息するという。

「カチカチと聞こえる鳴き方が、『勝ち』に通ずる。
縁起がいい鳥として知られています」と県文化財課の森宏章(ひろあき・45)。
地元ではカチガラスとも呼ぶ。
佐賀市内には「かさぎ通り」があり、駅名板にも両翼を広げた姿が描かれる。
地元のサッカーJ1「サガン鳥栖」の旗にも登場するほどだ。

県は20年前から保護活動に取り組んできた。
春先、幼鳥が巣から落ち、けがをしていると市民から通報が来る。
森さんは「傷ついた幼鳥を治療し、自然界に戻す。自力で飛ぶ姿を見ると、親鳥のようにうれしくなります」。

七夕を祝う風習は宮中から庶民へ広がった。
江戸時代の子どもたちは七夕の時期、たらいの中で、織姫と彦姫を引き合わせた。
水面に映した二つの星をそよ風で近づけ、逢瀬を演出したという。
天空の遠距離恋愛を実らせたいという優しさは時代を超えて息づく。

今年の新暦7月7日は西日本を豪雨が襲い、甚大な被害をもたらした。
旧暦の七夕こそは、夕涼みでもしながら心穏やかに、天の川を見上げたい。

2018年8月8日水曜日

新しいものが生まれる夏

2018・08・05朝日新聞・総合3の「日曜に想う」の題名に、私の心も同じように想った。

私の生まれは昭和23年9月24日。来月は古希70歳だ。
この題名の記事の内容そのものではなく、ただその題名に心が躍った。
そうさ! 夏になると、私だって、私の人生に関わる何かが発生して、それがその後の私の人生に大きな弾(はず)みになってきた。
弾みになったことは、幾つもある。

先ずは中学校のバスケットクラブでのこと、私はプレーにおいて反則が余りにも多くて悩んだ。
そこで、夏休みの間に、反則を少なくプレーできるように、一人っきりの基礎練習に励んだ。
そして高校3年生の夏、父に大学に行きたいこと、その大学も東京にあること、入学すると入学金、年間の授業料、生活費がかかるが、それでもいいか? と質問したら、返ってきた答えは、ウ~ンだけだった。
それで、父はそんなに喜んで呉れていないのなら、自らその費用を稼げばいいのだと確信して、2年間の浪人で380万円の貯金をした。
2年間の半年半年は勉強とアルバイト。高校を出たばかりだというのに、日給は大人並み。
2年間の受験勉強は、極めて変則的なものだったが、ここでその変則的だったことの説明は省く。
大学に入ってやったことは、ひたすらな練習、それも一人でもやれるものには欲張った。
夏休みにはアルバイトに出かけた。
大学2年生の時、京王プラザの窓枠パーツ作りの作業に雇われた。
学生なのに、私だけは大人の分を貰っていた。
必要なお金は、自分で稼いで母に預けてあるお金以外に、いつどのくらい必要になるか解からないから、稼いでおくことだ。

冬休みや春休みは期間が短い。
でも、夏休みは1ヶ月もあって、含みのある思考が重なる。
夏休みこそが私にとって記念樹的(モニュメント)なモノ? その摩訶不思議な何かが起こる。

これからの私は、何をどうして?どういう人生を築くべきなのか、どんなことをこれからできるのか? するべきなのか?
じっくり考えさせて呉れた。
卒業した後の実社会でのことは、さほぞ心配はしていなかった。
先輩たちのことを考えると、屁でもなかった。
努力と寛容、自信に漲っていた。

そんなことを詩想しながら、この記事を、心を新(あら)ためて読み出した。

こんな処で言うのも可笑しいかもしれないが、改めて想うに、今更ながらこんな処であ~だ、こ~ざと叙述したって、自らの恥ずかしさを表すことに過ぎないかもしれない。


そして、ブログに書き写すことにした。
朝日新聞さん、ご了承ください。


日曜に想う
編集委員・曽我 豪
新しいものが生まれる夏

入道雲を見ると思い出す。

33年前の夏、僕が目撃したのは、高校野球であってそれだけではない。
一つの高校が生まれ変わる物語だった。

熊本城公園にある熊本の甲子園こと、藤崎台球場。
西南戦争で焼けた藤崎八幡宮の名残である樹齢千年のクスノキが熊本大会を見守る。
そのスタンドが入社4ヶ月目の新米記者の仕事場だった。

勝てば次があるが負ければ応援も夏はそこで終わりだ。
負けそうな方を取材するのが鉄則で、開幕日のその1回戦で県立熊本西高校を選んだのは当然だった。

創立わずか10年の新設校で、試合もエースが打ち込まれ4回が終わって1-5の劣勢。スタンドも寂しかった。

聞けば翌日が模擬試験で、数えると生徒が30人ばかり。
組織だった応援は一つとてもなく、頼りは大声だけ。
それでもなぜか打線が爆発し、11-9で大逆転した。
校歌を唱和し始めて2番の途中から歌詞があやしくなったのを覚えている。

そこから古豪強豪ひしめく熊本ではまれな新設校の快進撃が始まるのだがスタンドも同じだった。
必ず何か一つ、新しいものが生まれてゆく。

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ベンチの上でナイロンの白いポンポンを振る女子応援団長が現れる。
前日クラスの女子が総出で作り、振りも考えた。
黒の学ランに白手袋、白鉢巻きの男子応援団が登場する。
ふぞろいだった足元も次は全員が黒の革靴で決めた。
保護者会が誕生し買ってもらったと胸を張る。

ブラスバンド「愛好会」も楽器を持ち寄り他校や大学からも借りて急成長を遂げる。
先頭でトランペットを吹くのは日本史の新米男性教師だ。
音は外れ同じ曲ばかり演奏していたが次第にそれも笑い話になってゆく。

あれは準々決勝だった。課外授業と重なって今日はまたスタンドも寂しかろうと思っていたら、朝一番で校長から電話が入った。
「今から皆で行きます」。

緊急の職員会議で「生徒たちが乗っている時は乗せてやろう」となり、校内放送で「課外延期、全校応援」を発表したのだという。
約600人の応援だ。

球場の外で到着を待った。
やがて、入道雲の下、お城の長い坂道を夏の制服の白い巨大な塊が笑い声を響かせつつ上がり来る光景が飛び込んで来た。

決勝も、課外授業を済ませて生徒たちは駆けつけた。
肩と背中を痛めて一度は投げられませんと監督に告げたエースが気力を振りしぼって投げ込む「緩いカーブ」に、相手の急打者のバットは空を切る。
3-2で逃げ切った。

歓喜に沸くスタンドで校長が座り込んでいた。
「甲子園って幾らくらいかかるんですか」と言った。

それでも民営化前の国鉄が熊本鉄道管理局始まって以来という1日2便、計19両の臨時列車「熊西号」を仕立て、生徒たちは甲子園に向かった。
僕は留守番だったがそれで十分だった。
テレビをつけると、3千人のアルプススタンドが映し出された。
最初の日の100倍だ。

藤崎台で生まれて「高校が初めて一つになった」と言い合った応援団やブラスバンドが指揮をとる。
他にひけをとらぬ堂々の応援を、しかも1回勝ったから2度も甲子園で見せたのだ。

酷暑のこの夏、熊本では応援の生徒たちが熱中症で搬送され、高野連は準決勝から全校応援の自粛を要請した。

高校野球とて同じ姿ではいられないのだろう。
だが変わらぬものがある。

藤崎台球場は一昨年の震災から立ち直った。
昔と変わらずクスノキが見守る決勝で、あの頃の僕と同じスタンド担当の記者が選んだのは、敗者の古豪熊本工の女子応援団長だ。
先輩らから引き継いだ学ランを着込めるのは、熱中症対策で団長によるエールの交換時だけ。
逆転負けして相手の校歌を聞き終え、35年ぶりの甲子園出場を決めた東海大星翔にベンチの上で最後のエールを送ったという。

藤崎台が僕の原点だ。どこで何を取材していても同じ思いがある。

大人は見守ればいい。
いつだって若者には、自分たちで新しいものを生み出し歴史をつくる力が備わっている。

2018年8月7日火曜日

難民たちだって、W杯をやりたい

2018FIFA ワールドカップ(W杯)ロシア大会は、20186・14~7・15でもって行われ、数々の名場面を私の目と脳に突き刺して終わった。

決勝戦は7・15(日本時間7・16)
フランスがクロアチアに4-2で勝って優勝した。

下の方に、稀少な新聞記事を見つけたので、それを転載させてもらった。
こんな記事に、何故か私の心は奮(ふる)える。
私の劣等感が、こんな記事にこそ共鳴・共泣するのか! 
ちょっと可笑しなことなんだが、ここはゆっくり付き合ってくださいな。
私ならではの,卑屈な状態での高校・大学の部生活の結果だろう。

日本代表は開幕ギリギリのところで監督が変わった。
西野 朗監督は、私がサッカーをやっていた大学の後輩だ。7歳若い。
そのテンヤモンヤの大騒動で、サッカー好きの私はヤキモキな想いだった。
成績の全てについて、ここで評価する心算ではない。


人によっては良く頑張ったと評価する人もいれば、いやいや言いたいことだらけだよと吐き捨てる人もいた。
確かに、得点をゲットしたシュートについても、冷ややかな人も多かった。
ゴールしたシュートの中でも、私は大迫勇也選手のヘッデイングのさまは、頭から離れない。
あれほど、凄まじい状況の中で、よくぞ螺子(ねじ)入れてくれたものだ。

「大迫、半端ないって〜!!」
ロシアで開催されているワールドカップの初戦・コロンビア戦で、決勝ゴールを決めたFW大迫勇也(28)の代名詞となっている「半端ない」が世界に拡散中だ。
 応援用の横断幕やTシャツも販売され、英国紙の『ガーディアン』でも「大迫は『すごい』『信じられない』という意味の『hampanai』と表現される」と紹介されている。
それ以外のシュートについて、よくぞ頑張って入れてくれたものだと感服した。

守備の難しさもよく理解できた。
それにしても、入れられた得点よりもそれ以上に得点する、そのゴールを得ることの大事さは言うまでもないが、この困難を乗り越えること。
そんな状況の中で、ゲットできる選手がどれだけ増えてくれるか、私の悲願だけではない
全国民の総意である。



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20180706の朝日新聞・国際の記事を転載させていただいた。



モスクワ中心部の赤い広場でサッカーをする難民ら=ロイタ

難民たちもシュート

サッカーのワールドカップ(W杯)が行われているロシの首都モスクワで3日、アジアやアフリカなどからの難民が特別チームを編成し、ロシアのサッカーファンらと試合を楽しんだ。

ロイター通信などによると、チームに加わったのはシリア、アフガニスタン、カメルーン、ジンバブエ、コートジボワールなどからの難民ら。サッカー界の人種差別問題に取り組む市民団体「FARE」などの企画で、クレムリン(大統領府)前の赤の広場に設けられたコートでプレーした。








2018年8月6日月曜日

ウナギ完全養殖へ一歩

     「鰻」!

ウナギ


朝日新聞のひとコーナーで、「ウナギ完全養殖へ第一歩」の記事を読んだ
この記事は、今回のブログのお尻の方に転載させてもらった。
鰻の養殖その他についての話題は、国民の誰もが関心を持っているが、この俺様だって、常々気にしていて、記事になったものは空(す)かさず読んできた。

この時季に、鰻と言う文字を読んだり聞いたりした場合、私の全身に霊波が流れる。
ウギャー、、、、鰻だ、と唸(うな)った。
口では、舌の根に消化作用のある唾液が潤(うる)み、胃袋が既に動き出したように感じるのは、私の感化力の凄さか!

我儘を許してもらえるならば、「ウナギ」ではなく「鰻」と漢字表記してもらった方が、魔の神(かみ)率いる霊波はもっと喜びそうなんだ。

子供の頃、生家の近くの川(田原川)で、両岸に築造された石垣に竹の筒を並び替えて、鰻の入ってくるのを待った。この田原川は、天ケ瀬ダムから宇治川に注がれる。
割石で作られた石垣には、竹の筒を入れるだけの隙間がある。
水の流れが激しい所ではなく、ゆったりと溜め池状態の所で、深くなく浅くもない草むらを狙った。
竹筒の一番奥には、ミミズを付けた魚釣り用の針を仕掛けておいた。
私だって、夏休みは時間が豊富で焦ってやることもない。
鰻だって、夏の朝明けこそ食欲満々、腹が減ってきた頃だ。
前日、夕焼け時分に仕掛けた。
この仕掛けこそ、楽しかった。兄が教えてくれた手法でした。

翌日、明るくなって、周りが良く見えるようになって2,3時間後、心躍らして仕掛けた竹筒を引き上げた。
この遣り方が一番正しいものなのか、私には解らなかったが、5本ほどの竹筒の1本には鰻が入っていた。
その後、もっと長い竹筒の方がいいのではないかと考え付いた。
それは、何もミミズに口を付けなくても、長い筒の中で安らかに眠ってくれることだってあるかも知れない。
中学生になった頃は、後の方で報告するがモンドリ付きの竹筒もやってみた。
どれほど捕れたかは、忘れてしまった。

捕れた鰻を母が、焼いてくれた。それ以外の食べ方を我が家は知らなかった。
東京へ来て、友人が鰻を釣ったと言うが、それは経験がないので、解らない。

  うなぎ もんどり大65cm 竹製5本セット 備長炭500g付き
上の写真は、今、コンピューターで調べたものです。
これほど立派には仕上がらなかったが、形はこんなものだ。
大事なのは入口に仕様があって、入るには事無いのだが、一旦入り込んだ鰻は出にくいように仕上げた。
この入り易く出難いこの難所のことを、私流にモンドリと言った。
この説は正しいのか間違っているのか、60年ほど前のことだから何とも言えない。

このモンドリとは、、、、、実用日本語表現辞典では斯くの様だった。

もんどりを打つ

読み方:もんどりをうつ
別表記:翻筋斗を打つ

飛び上がって回転するさまを指す語。もっぱら動詞倒れる」に係り、「もんどり打っ倒れる」あるいは「もんどり打っ倒れる」のような表現で用いられる。


ところで、土用の丑の日と聞けが、頭と胃袋は、決まったようにウナギのことで満ち溢れる。
で、土用とは立夏・立秋・立冬・立春直前の約18日間の期間を示すようだ。
土用の丑と聞けば、夏のイメージが強いが、何回もあることを知った。
そして、毎年変わる。
いずれにしても、土用の丑の日は「季節の変わり目」。
2018年の土用の丑の日は7月20日。


20180801(水)の朝日新聞の記事を転載させていただいた。


国の研究所、商業化めざす
人工孵化の稚魚 業者に配布

養殖試験用の人工生産シラスウナギ=水産研究・教育機構提供

ウナギの稚魚である天然のシラスウナギの不漁が続く中、国立研究開発法人「水産研究・教育機構」は7月18日、人工養殖した稚魚を養殖業者に配布した。完全養殖ウナギの商業化を目指す取り組みだ。

完全養殖は、稚魚(シラスウナギ)をウナギに育てて産卵させ、人工孵化させた幼生(レプトケファルス)から稚魚に育てる。同機構の前身の水産総合研究センターが2010年、このサイクルに世界で初めて成功した。
現在、鹿児島県にある同機構の増養殖研究所・ウナギ種苗量産研究センターで人工孵化させており、孵化率が向上し、年間1500匹程度が生まれるようになった。

完全養殖は、幼生から稚魚に育てるのが難しく、この間の生存率を高めることが最大の課題。
商業化を図るにはさらに、天然の稚魚を養殖池で育てる通常の養殖と同様、人工的に育てた稚魚を養殖池で成魚に育てられるかも課題となる。

ただ、同センターには養殖池がないため、民間養殖業者2社に計300匹を配布することにしたという。
様々な環境の商業用の養殖池で出荷サイズまで飼育し、通常は1年半の養殖期間が人工孵化ではどのくらいになるか、新たな問題はないか、などを検証する。

同センターの山野恵祐センター長(54)は「商業用養殖池で飼育することで、エサや飼育環境など、どんな課題があるかを探りたい」と話している。
(浅野 真)





2018年8月3日金曜日

染織話に感謝のお手紙をいただいた

今月の24日に「私の母は染色をやっていたんですよ」をブログした。

それは、弊社の経営責任者の中さんと、グループ会社で工事を担当している責任者の向と私が、長年色んな分野でお世話になっている人を含めて4人、横浜駅東口の立派なデパートの10階・飲食店街で、食事会を行った。

長いお付き合いをいただいている人(今後、文中ではこの人と表現させてもらいます)と、我らは腸(はらわた)や脳髄の何から何までを知り合った仲間だったので、その食事会は、そりゃ! そりゃ!!賑やかで華やかなものだった。
華やかだったと言っても、別嬪さんが参加するような、そんな趣(おもむき)、そのような種類の物ではなく、メインは話した内容やら話題の滑稽さだった。

いっつも感じるのだが、中さんと向と私にこの人が加わって杯(さかずき)を交わす時は、何故にこのように、気分が好いものになるのか? 不思議だなあ?と思えば、大いに不思議なんだが、不思議なんてこと無いよと思えば、極めて常識的で普遍的なものかもしれない。

色んな事が話題になったが、その一つ一つを今は、持ち出さないことでお許しください。
宴の後半、この人に貴方のお父さんは何をやっていらしたのですか?の質問に対して、父のお話を随分された後、母の話に移った。
母のことを、この人は「私の母は染色をやっていたんですよ」と皆に話しかけた。

その話を聞かされた時、私の多能な脳は? 敏感に反応した。
私の脳の大事な部分の全ての細胞が、矢が突き刺さされた様に激しく応じた。
驚天動地だ。

私の全霊は躍り上がり、全身がブルブル震えだした。
「え~、染色ですか?」
「染色だけではないのですが、染織家の志村 ふくみさんのことを、今、朝日新聞の文化・文芸欄で連載されていて、その文章に私は狂ったように夢中なんですよ」とまで言ってしまった。
訳も無く、解かったようなことを、気楽に話すものではないことを、誰よりも誰よりも知っている癖して、と自戒した。
そこで、私がこの数日間、朝日新聞で連載していた「染色家 志村 ふくみ」の記事を思い出した。
この時点、まだ染色とか染織のことを、全然、理解できていなかった。
先輩、すみませんでした! 
連載記事の、表裏の内容を事細かに理解していないことを恥じながら、あらかじめの話をするだけだった。私は私の表現のだらしなさが悔しかった。

そして、翌々日、この人に削ぎ落とした新聞記事を郵送した。
そしたら、その翌々日、この人からお礼の手紙をいただいた。
この人からの貴重なお手紙を、了解を得ることもしないで、このブログの最後に転写させてもらった。
すみません、こんなに礼儀の知らない若輩(じゃくはい)者です。

そこで、自ら反省したことがある。
弊社は、自らの会社で作り上げた中古住宅を、住宅を求めている人たちに、どういう媒体を使って、どの様に表現したら、よく解かってもらえるか、そんなことを会議を開いて考えている。
そこで、先ずは新聞や新聞に重ねられて宅配されるチラシ広告は、既に注目度は薄くなっていることに対する所為は何か?だった。
何か良い広告方法はないかと言うことだ。
そこで話題になるのが、国民の大多数が活字、印字などは見ないで、インターネットで情報を得ているようだということ。

私のような、本なる書房、印刷物が好きな人間はいかに、情報を得ているかということだ。私にとって、新聞こそ重大な訴求媒体だ。
でも、言葉、印字(印刷された文字)にも大きな意味があると思ってきた。
不思議なんだけど、表(おもて)意味と、よくよく考えなければならない裏(うら)意味だってあるだろう。
その裏意味を考えたがるってことが、誰にもあるだろう。
例え話や比喩的な話が、本題以上に面白く興味深いことに、よく出くわう。

その爽快な面白みを、私は大きく背負っていたくて、昔よく読んだ本、今でも易く買える古本屋のお陰で、この習慣が抜けない。



★追記。
この人から頂いた手紙を了解なくここに転写させてもらう。

謹啓
猛暑の砌、お元気でお過ごしの事と思います。
先日は大変楽しい会でした。
貴殿の博識な話をお伺いして、沢山の啓発を受けることが何よりの楽しみです。
有難うございました。
また、朝日の「染織家 志村 ふくみ」の連載をお送りいただき感謝です。
母の事を思い出しながら読ませていただきました。

志村さんはやはり芸術家ですね。
宮本憲吉や大岡信のアドバイスもさすがで、それをしっかり受け止められる志村さんも凄いですね。
母は私が小学校時代から90才近くまで紅型の草木染をやっていましたが、最初は御稽古事、その内作品が売れること、その後何人もの生徒に教える事でいつの間にかライフワークになっていました。
繊維会社の技術屋であった父が退職金はそのサポート 婦唱夫随でした。
今は兄嫁がその一部を繋いでいるようです。
レベルの差があれ、一生の手仕事は貴重ですね。
そのことを思うと、自分はサラリーマンを懸命に勤め上げ、今はゴルフや旅行、読書の日々は何となく物足りず、さりとて今から何かを始める気にもならず。
時折、気になったフレーズや現役時代の反省も含め書き留めることで後輩や息子へ伝わればと思っています。
貴殿のブログには及ぶべくもありませんが。
また、ぜひ楽しい会を楽しみにしています。
まだまだ猛暑が続きます。御自愛ください。

平成30年7月27日

山岡 保様