2013年11月26日火曜日

猪瀬都知事さん、あなたまで?

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20131123 朝日新聞・朝刊

定例会見で徳州会からの5千万円受け取りについて説明する猪瀬直樹都知事=22日午後、東京都庁、飯塚晋一撮影

猪瀬さん、やっぱりあなたも、黒い闇に巣食う政治屋に堕(お)ちましたか。

東京都の猪瀬直樹知事(67)が昨年12月の知事選前に医療グループ「徳洲会」側から現金5000万円を受け取った問題で、東京地検特捜部が、現金提供の経緯について複数の同会関係者から任意で事情聴取していることが、関係者への取材で分かった。

この件は、徳洲会グループ創業者の徳田虎雄・元衆院議員(75)の次男・徳田毅(たけし)衆院議員の、前回の衆院選挙における公職選挙法(運動員買収)違反容疑の取り調べのなかで、発覚したというか、露見されてしまったのだろう。その後、徳田議員の捜査はどうなっているのか、と気になっていたら、特捜部は既に小者(こもの)の徳田議員の容疑は固まって、主たるネライは猪瀬都知事に向ったようだ。この方が捕物としては力が入る。

猪瀬都知事は、私よりも2歳先輩の昭和21年(1946年)生まれの67歳、私は2年浪人後の入学なので、大学4年間は同じ期間を過ごしたことになる。私はサッカー部に所属しながら、クラスの友人に誘われて、大学の構内外でのデモ、国際反戦デーと佐藤首相訪米阻止闘争に過激なデモの一員として狩り出され機動隊と衝突した。1969年、2年生のときだ。2つのデモでは、同じように最榴弾を背中に受け、濡れネズミになって、高田馬場の後輩のアパートに寒さに震えながら逃げ帰った。

一方、猪瀬都知事は信州大学の全共闘議長として、同じ時期に同じ場所で、私と同じようにデモっていたことを知った。それに彼の著作だ、私が就職した西武グループと堤家(当時の社長は堤義明で、創業者は父・堤康次郎)らを皇族と絡めて著した「ミカドの肖像」を楽しく読んだ。その著作で、私が気にかけている第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したものだから、尚更、私は勝手に親近感をもっていた。

先の東京都知事選においては、都の財政が破格に豊かだからこそ、耄碌ジジイの石原慎太郎が大いにサボっても無駄遣いをしても、批判はさほどに起こることもなかった、が、さすがに批判の波が押し寄せてきたと察知した狡(ずる)いジジイは、自ら演出して映画「ロッキー」のテーマ曲をバックに、都庁から追い払われるように去った。悲しい男だ。そして猪瀬副知事が都知事に当選した。

そこで、やっと、行政の実務家としての猪瀬直樹氏の登場を、私は好ましいものと喜んでいたのだ。ところが、どっこい、ここにきて、やっぱり、お前までもか、やっぱり、そうだったのかとガッカリさせられている。この元全共闘も腐ってしまったようだ。

徳洲会グループ創業者の徳田虎雄氏に知事選への支援を要請した後、今や豚小屋(ブタバコ)行き寸前の徳田議員から議員会館で5000万円を現金で受け取った。今どき、5000万円を現金で手渡すなんて、そんな前近代的なことは一般社会ではしない、非常識、異常だ。「選挙資金ではなく、個人的な借り入れだ」と言うが、無利子無担保、返済期限が決められていない借り入れなんてこの世の中にあり得ない、異常だ。もらったのでは、ないの? 借用書が本当に存在するのか。

その金は、手をつけずに、妻名義の貸し金庫に保管しておいたところ、徳田議員への強制捜査が入った直後、返済したという。こりゃ、マズイと泡を食ったのだろう。

選挙のための借り入れだったのか、個人的な借り入れだったのか、それとも、選挙のための寄付金だったのか?

徳州会側からのあらぬ目的のため?に、、、そして徳州会の事業に配慮する。いつまでも返済しなくてもいいですよ、と甘言され、、そして、時を経て自分のものにする、そのような双方の語らず、書き残さずの了解があったのだろう。 

学生運動を共に闘った同志と、勝手に思い込んでいたのです、、が、、、、。

 

 

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日経・春秋

闇に埋もれた事実を暴くノンフィクション作家・猪瀬直樹がこの席にいたら、果たしてどんな質問をぶつけたのか。そんな想像をしつつ、きのうの猪瀬直樹東京都知事の記者会見を見ていた。知事選前に猪瀬さんに徳州会側から5千万円わたっていたことの釈明である。

行きつ戻りつした説明はこうだ。選挙に出ることを決めた昨年11月、徳田虎雄氏に挨拶に行った。初対面である。しばらくすると徳田氏側から5千万円貸そうという申し出があった。「厚意で貸してくれるなら」と借用書を書いて個人名で受け取った。そのまま妻の貸し金庫に保管した。すぐにもう不要だとわかったーーー。

初めて会って5千万円? などなど、筋の通らぬところはいくらもあるのだが、わけても不思議なのは、「選挙のことを知らなかったし、これから何があるか解らないので借りたが、選挙とまったく関係のない金だった」という部分である。投票日の1ヶ月ほど前の大金だ。よもや本人もこれで世が納得するとは思うまい。

猪瀬さんは駆け出しライターだった30代のころ、仲間と飲んでどんなに座が盛り上がっても午後10時には店を出て仕事場に戻った。自分と向き合うためだという。「酒の席を適当に切り上げる習慣は今も変わっていない」と最近も書いている。二人の猪瀬直樹が向き合って、知事は作家を丸めこむことができるのだろうか。

2013年11月23日土曜日

ケネディ銃殺された日の私は?

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                      朝日新聞 遠藤啓生撮影

アメリカの新しい駐日大使になったキャロライン・ケネディ氏(55)が、20131115、着任したとの新聞記事を読んだ。にこやかに報道陣に囲まれ、軽やかに堂々としていられるのは、やはり血筋の為せる技か。1963年に暗殺されたジョン・F・ケネディ元大統領の長女で、女性初の駐日米大使だ。成田空港に到着後、声明文を読み上げた。そこには、父は米国大統領として初めて訪日することを望んでいたこと、日米両国の緊密な関係の強化に取り組めることは、私にとって特に名誉なことだ、と。

彼女の外交官としての力量は解らないが、オバマ大統領に近しい人だ。19日、着任挨拶を兼ねて天皇陛下にオバマ大統領の信任状を奉呈するために皇居に向かった。沿道には、今までには例のない大勢の人出があった。彼女は沿道の人々に笑顔を、カメラの放列に手を振って応えた。

父親のジョン・F・ケネデイ元大統領が暗殺されたのは、1963年11月22日のこと、そして今日は50年後の11月22日だ。葬儀の日、父の棺を見送る幼いキャロラインのスカート姿が痛々しかった。

今回は、キャロラインさんのことでもなく、元大統領の死でもない。光陰、矢の如し。ケネデイ元大統領が銃殺されたその日、私は何をしていたかをよく憶えている。ボヤ~ンと生きてきた私だけれど、この日のことは本当によく憶えている。

当時、私は15歳、京都府の宇治田原町立維孝館中学校の3年生だった。

従兄弟のなかで一番年上の清市さんが、私も良く知っている農協のマドンナのサッちゃんと結婚した。50年前のことだ。私たちの田舎では、新郎側から、結婚したカップルが新婚旅行から帰ってきた数日以内に、結婚に際してお世話になった人や、お祝いをくれた人たちに、お礼返しをする習慣があって、私はそのお礼返しの品を配達していた、その日に、事件が起こった。お返しの品は紅白の餡入りのお饅頭で、100軒ほどに届けた。このような仕事をあてがわれるのは、昔から大体子どもで、配達先で寸志を包んでくれるのをいただけたのだ。いただいた寸志の総計は2万円にもなった。大金を稼いだことになる。

このような役をそつなくこなせるのは、新郎の周辺では、私だったのだ。品物を3回に分けて配ったのだが、2回目に清市さんの家に戻ってきたときに、テレビのニュースがただ事ではない取り扱いをしていることに、気になった。サッちゃんは、アメリカの偉い人が殺されたそうなんや、と冷静だった。その時代には衛星放送などなかった筈だから、どのようにその映像はアメリカから日本のテレビ局まで届いたのだろうか。

2013年11月17日日曜日

大岡越前通りとは?

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私と経営責任者の中さんとは、スタッフが検討している物件の全ての現場を確認をしているので、多い日には車で300キロメートルを移動することもある。見る現場が多い日には、15件ぐらい見て回ることだってある。中さんが運転、私は後部座席でウトウトしながら、身を沈めて乗っている。中さんには悪いなあと思うのだが、今、我々が移動に使っている車を私は運転できない。

道すがら、名所、旧跡、珍しい建物や有名なお店、好奇心をそそる地域や地点に至った時には、必ず2人は何だかんだと話題にする。物知りの量では圧倒的に中さんの方が多く、私はいつも聞き側に立っている。感心事が初物(はつもの)ならば共同で知恵を出し合う。

今回は、中さんも私も知らないことに出くわした。

茅ヶ崎市のみずきの物件に向かうために地図を見ていて、茅ヶ崎の北のはずれ、寒川寄りの道路が、なんと、大岡越前さんの名を冠にした「大岡越前通り」と銘記されているのに気づいた。中さんは知らないらしい。中さんが、神奈川県内で、地名の知らない在所なんて、有り得ないと思っていたので、彼が知らないフリをした時には、私の方が吃驚した。でも、加藤剛主演のテレビドラマでお馴染みの大岡越前さんについては、お互いによく知っていた。大岡家の菩提寺が浄見寺で、その前の大きな通りが大岡越前通り。

大岡越前さんの勤務先は江戸南町奉行所で、中央の高級幕臣(官僚)だと思っていたが、どうして、こんな田舎においでだったのだろう?と思ったが、なんてことはない、彼の生まれが此処だったのだ。言わば本籍地だ。

大岡越前守と呼ばれた大岡忠相(おおおか ただすけ)(1677~1751)は、八代将軍徳川吉宗が進めた亨保の改革で、江戸町奉行では判官(はんがん)としてその仕事ぶりは”大岡裁き”と呼ばれた。司法以外にも市中行政にも携わった。

 

茅ヶ崎観光協会のホームページで、大岡越前祭のことを知った。以下の写真と文章はそのホームページのものをお借りした。

忠相公は1751年(宝暦元年)、75才で亡くなりましたが、数々の功績に対して1912年(大正元年)、従四位が贈られ、翌2年に忠相公の墓前で贈位祭が行われました。これが大岡越前祭の始まりとなりました。
大岡越前祭は関東大震災や戦争などで中断していましたが、昭和31年に復活し、茅ヶ崎の春祭りとして、墓前祭、越前行列など様々な催しが行われ、市の内外を問わず親しまれています。

 

浄見寺

浄見寺は堤村を本領とした大岡家の二代当主忠正が、父忠勝の追善のために慶長16年(1611年)に建立しました。
山号は窓月山、寺号は浄見寺といい、浄土宗の寺だ。
浄見寺は大岡家代々の菩提寺で、元和元年(1615年)にこの寺に改葬された初代忠勝の墓石をはじめとして、13代まで一族累代の墓碑58基が整然と並んでいます。

2013年11月13日水曜日

ア式蹴球部思い出アラカルト4

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そんなこともあったか!!

 

私たちの大学のサッカーチームからは、日本のサッカー史上、多くの名物人を傑出してきた。

サッカーが日本に持ち込まれた当初は、師範系大学から帝国大学に、そして一般大学に広まった。その草創の頃から、我が大学は先駆的に関わり、発展の過程に特別な人たちを輩出してきた。その人が監督だったり、コーチだったり選手だったり、その面々は余りにも個性的で多彩だ。

私がこの大学のア式蹴球部に所属した4年間だけでも、私を魅惑した先輩、こんなオッサンにはかないっこない!! そんなスーパーマンを何人も見てきたが、今回は、その中でも代表して3人の傑物をここに登場してもらおう。もの凄く傑物なのに、ほんの一部しか紹介できないのが残念だ。このオッサンたちから大きな影響を受けて、私は学生時代を過ごした。

 

一番目に登場願うのは、なんと言ってもキングこと工藤孝一(1909~1971)さんのことだ。

早稲田大学のサッカー部が、Jリーグの発足(1993年)に合わせるように発展的?な運営を意識、未来のサッカーを思考し始めた。私が在学中(1968~1972)は、早稲田だけではなく、日本のサッカー界全体がまだまだ手探(さぐ)り状態だった。競技のレベルとしては、東京オリンピック(1964)を経て、メキシコオリンピック(1968)で銅メダルを獲得してから、進化の芽が吹きだしつつも、爆発的な人気が持続するまでには至らなかった、それでも日本サッカー協会は努力し、我々愛好家は一所懸命ボールを蹴った。

それより50数年前のこと、1936年(昭和11年)のベルリンの奇跡は、代表選手16人中10人を早稲田が送り出した。このときに、工藤さんは日本の代表チームのコーチとして帯同した。監督は早大OBの鈴木重義氏、もう一人のコーチは東大の竹腰重丸氏だった。手前味噌になるが、この日本代表チームの大半は早稲田の選手が占め、早稲田のメンバーが中心になってチームは強固な意志をもつ一本縄に仕上げた。この大会の少し前から、日本の代表チームや早稲田大学のチームには常々、必ずそこには工藤さんが監督として、コーチとしてそこに居た。それから、亡くなるまで早稲田の主(ぬし)であり、精神的大黒柱だった。

私が1968年に入部して、最初、工藤さんを見たときに不思議なジジイだなあ、と思った。東伏見駅の方から、毎日、杖をついて不自由な左足を引きずりながらやってきては定位置のベンチに座り、じっと練習を見つめる。1966年に病に倒れ、その後遺症で体の半身が不随になった。毎回、練習や試合を終えて工藤さんの前に集まって講評を求めた。工藤さんは、全体的なことには触れないが、ワンポイント、気づいた選手のプレーについてコメントした。その際の表現が辛らつだった。でも、工藤さん特有のユーモアを含んでいるので、その表現が酷ければ酷いほど、笑って受けとめられた。東伏見での一日の練習の全てを見終わって、ゆっくりゆっくり坂道を自宅に向かって歩いて帰る。今でもこの光景は網膜に焼き付いている。

なかなかパスを出さないで、一人でボールを保持し過ぎて、墓穴を掘ることが多かった海さんに、「お前は、いつまで片肺飛行をやっているんだ」とか「片目をもぎ取られたトンボみたいだ」と批評した。又、ラフなタックルを売り物にしている先輩に対しては、「お前のことを、?大学の監督が関東蹴球協会でも注意して欲しい、なんて言ってたけれど、俺はアイツは頭が変なので、大目に見てやってくれ、と言っておいたので、心配しないで、いつものようにやってこい」、と指示していた。

2年生になって、みんなと同じ練習になんとかついていけるようになった頃、工藤さんに「尻(けつ)に糞を挟んで走っている奴は、偉そうな名前のヤマオカか? そんなんじゃ、サッカーはできない、田舎へ荷物をまとめて帰れ」と怒鳴られた。瞬間、この糞ジジイと思ったが、この時期の私は、他の人から何と批判されようが、びくともしなかった。そんなことに、構ってなんかいられなかったのだ。

それから、ときどき交代選手として試合に出してもらえるようになった頃のことだ、紅白試合の最中に、何を思ったか工藤さんが杖をつきながらグラウンドに入ってきたのだ。どうも、工藤さんの向かっているのは私のようだったので、嫌な予感がした。そこで、試合は中断。私の前まで来て、お前は下手(へた)なんだから、ここからここまでは、と言いながら杖でグラウンドに線を引いて、この線の中だけは、絶対に、確実に相手のプレヤーにボールを自由にさせるな、この線からは出るなとも言われた。当時のフォーメーションはWM方式で、私はフルバックを任されることは多かった。オフサイドトラップをかけなくてならないときもあるし、時にはチャンスにドリブルでサイドを突っ走らなくてはならないときもある。でも、工藤さんのここからここまでのエリアでは、命がけでデェフエンスしろ、の戒(いまし)めは徹底的に厳守した。その結果、守ることには部内でも評価されるようになった。

3年生の9月、工藤さんは亡くなられた。葬儀は23日、早稲田大学ア式蹴球部葬として、同期の井出多米夫さんが葬儀委員長を務められた。棺を自宅からグラウンドまで、ベルリンオリンピックの代表者たち、次いで卒業年度順に、棺をグラウンドまで運んだ。グラウンドの中央のセンターサークルに棺を置き、ベルリンオリンピックの代表監督だった鈴木重義、現役、早大OB、慶応のサッカー部関係者で円陣を組み、「都の西北」と「紺碧の空」を歌った。

4年生のときには、工藤薬局の2階に下宿させてもらった。行儀の悪い学生だったけれど、工藤さんの奥さんは文句一つ言わずに置かしてくれた。奥さんの笑顔は最高だった。その工藤さんの息子が同期の工藤大幸だ。次女の京子さんは同じ学部の先輩だ。

工藤さんは1909年(明治42年)、岩手県岩手郡(現・岩手町)に生まれた。地元の小学校、中学校から早稲田大学第一高等学院に入った。それから、工藤さんの早稲田とサッカーとの関わりが始まった。私は、このジジイは、どうも岩手県の岩か石から生まれたのではないかと思うようになった。風貌は凡庸でよくよく見かける路傍の石、口数少なく、だが、意志は強過ぎて固過ぎる、コチンコチンの細工のきかない石のような岩のような男だった。人生のほとんどの時間をサッカーにかけた。見事なサッカー狂人、サッカー馬鹿だった?このような人生を過ごした人を、他に見たことないし、聞いたこともない。 

工藤さんは私にとって、雲上の人だった。

 

二番目は堀江忠男教授(1913~2003)だ。

入部した時の4年生のメンバーは他の大学を圧倒するような優秀な選手が揃っていたにもかかわらず、残した成績は戦後最悪だった。そして翌年、監督には堀江教授、キャップテンは松永章でスタートした。そこで、監督の堀江教授を初めて知った。以前にも監督をしたことはあったが、チ-ム再建のために、教授の再度の出番をOBたちが求めたようだ。

さすが教授だけあって、黒板に戦況を描き、それぞれの選手の動きを多少は理論的?に話されたが、基本は、局地において1対1で勝つこと、ボールをゴール前に集めて、それをなんとかゴールに持っていくこと、単純に表現すればこれだけのことだった。伝統的な早稲田の百姓一揆の復活か?を目指していたと言ったら、天上の堀江監督に叱られそうだ。 ところが、その単純明快な教えを、監督は自ら実践を織り交ぜて説明した。

堀江監督は日本代表(ベルリンの奇跡)でもフルバックだったので、守りにおける心構えや、対処の仕方は実にユニークで、堀江流だった。ボールを挟んで二人が相撲のように、レスリングのように肩と肩をガツンガツン、突っつき合ってのボールの争奪戦を実践して見せた。最初は、滑稽に思えて失笑してしまったが、そのうち、監督の迫力に誰も何も言えなくなってしまった。

タックルの仕方だって、多分当時55歳位だった監督が、両足を前後に大きく股を開いて猛然とボールにタックルして見せるのだった。筋肉の落ちた白い足が、にゅうと器用に伸びた。相手の懐深いところに入り込むことの見本を見せたかったのだろう。その程度のことぐらい、言われただけでも理解できたが、身を挺して模範を見せて説明しないと、監督は満足しなかったのだ。そして、監督が独り言を漏らしたのを聞き逃さなかった、「俺は、やったぜ」と。

学校は、入学して間もなく2年間はロックアウトされ、学校での授業は開かれず、単位はレポート提出で取得していた。2年生の終わり頃のことか? うちの大学のグラウンドではなかったが、監督が私を呼びつけて、「ヤマオカ、お前のあのレポートでは単位はやれないよ。でも、可をつけといたから悪(あ)しからず、、、」と言われた。勉強不足の私には、堀江教授が提示した命題の意味が解らなかった。だから、レポートらしいレポートなど書けやしなかったのだ。私のレポートは、きっと、教授が求めていたこととは、大外れで、チンプンカンプン、デタラメだったのだろう。

3年生の時、学校から高田馬場駅までの帰途、いつものように古本屋の店頭に並べてある文庫本を物色していたら、前の道を早足で歩く堀江教授に見つけられ、一緒に東伏見に帰ろうと言われた。ハイと答えて、持っていた文庫本の束を棚に投げ入れて、並んで歩くことになった。私からは何も話す内容を持ち合わせていない。早足だった。教授も、私などに話すことなど何もなかったのだろう。一緒に帰ろうと言われても、こんなに息苦しいことはない。そして、高田馬場駅の改札口を過ぎた瞬間、黒い鞄を手下げたまま、初老の教授は階段を2段飛びでダッシュした、その表情は真剣、猛進するさまは異状だった。私は、ニヤニヤして後ろを追っかけた。そして、私は教授から逃げることを考えた。これ以上、二人っきりになるのが怖くて、先生、やっぱり、僕、古本屋さんに戻ります、と言って、実際に本屋さんに逃げた。彼と、私とはモノが違うと実感した。

工藤さんに教えられた通り、ここからここまでは、絶対、相手に自由にボールを持たせるなの戒めを、私は忠実にこなした。そんな私の守備を、監督からも少しは評価されるようになって、少しづつ、試合に出してもらえるようになった。

私たちの4年の時も堀江監督だった。私たちの学年にはスーパースターがいなかったからか、どうかは、よく解らないが、キング工藤・堀江監督の考え方をチームに生かすことが最善と、誰もが思い始めていた。チームの結束は固かった。その結果、一人ひとりの実力はそんなに大したことはなかったにもかかわらず、関東大学リーグ優勝、全日本大学選手権優勝の2冠獲得につながった。

卒業して数十年後、堀江教授は後輩の結婚披露宴の主賓のスピーチで、私のことを、田舎からやってきた無芸無才の男が、努力して試合に出られるまでになったことを話したと後輩から聞いた。監督からは何も言われなかったが、私のことをそのように理解してくれていたのかと、嬉しかった。

堀江監督は人生の先生でもあった。

 

 

三番目は、胡崇人(えびす たかと))さんだ。

このオヤジも凄いんだ。日本サッカーリーグ(JSL)の日立製作所サッカー部のコーチだった。背丈は私と並んでも10センチ以上低かったので、おそらく155センチぐらいの小兵だったが、ぴりりと辛い男だった。

日立のサッカー部の監督さんは早稲田大学のOBで日本代表チームの監督も務めたこともある高橋英辰(ひでとき)=通称ロクさんだ。そのロクさんが目指したのは、走るサッカーだった。「これまでの日立は60分走るのが精いっぱいだった。90分走り続ける体力がまず必要」だと考え、その指導を徹底するには、大学の後輩の、胡崇人=通称エビスさんがコーチになるのが必須条件と考えた。

当時の日本サッカーリーグは、テクニックや個人技を重んじるヤンマー、スピードを誇る三菱重工、組織力の東洋工業(現・マツダ)や古河電工がいた。そのなかで、走るチームがなかったことに注目した。どのチームも、日本のサッカーは走り足りないとロクさんは考えた。

そこで、登場したのがエビスさんだった。

日立のサッカー部のグラウンドは吉祥寺にあって、私たちの大学のグラウンドとは近く、公式戦のない時は毎週末と言ってもいいほど、練習試合をした。日立の選手が来る1時間前に、エビスさんはグラウンドを一人で駆け巡る。グラウンドを確かめながら。前日の練習で疲労くたくたの私には、エビスさんが元気でグラウンドを走っているのがまぶしくて、言葉にならない呻(うめ)き声を上げた。 エビスさんが走っている!!ぞ。

性格が気さくな人で、我々学生の誰とでも親しく話してくれた。ちょっとインテリ風で物静かなロクさんの目の届かない部分をエビスさんが引き受けていた。日立のチームは何故かキーパーを除いて、エビスさん同様小柄な選手ばかりだった。背丈165センチの野村六彦選手を中心に、走って走って走り回るサッカーを作り上げた。その走り回って、走り回って、相手に優位に試合を進めている場面を見ると、私の目に涙が潤んでくるのだった。それほど、感動的なのだ。

当時、グラウンドは今のように芝生ではなく地面だったので、雨の日などは泥んこ状態になることもあった。そんな時こそ、日立の低い位置に備えられたエンジンは、バランスよく、俄然パワーを増すのだった。日立の底力だ。個人的なテクニックを重んじるヤンマーやスピードの三菱重工、組織力の東洋工業や古河電工を、こてんぱにやっつけた。そこには、ロクさんの発想と、現場監督のエビスさんがいたのだ。この名将の陰にこの名補佐あり。

このように元気で、溌剌とした人を今までに見たことがなかった。

エビスさんは私の理想の人だった。このような男になりたいと思った。

2013年11月6日水曜日

第2の果樹園に本格的鍬入れ

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今日20131106(水)は、横須賀市衣笠栄町にある弊社所有地を果樹園にするための準備をしてきた。この2番目の果樹園の名前は、「ケンタウルスの果樹園」だ。宮沢賢治さんが生きていたら、きっとこのように命名してくれただろう。ギリシャ神話に出てくる上半身人間で下半身が馬のあの星座のことだ。「銀河鉄道の夜」では、「ケンタウルス、露を降らせ」と星たちが群舞する。横浜市保土ヶ谷区今井町の1番目の果樹園は、「イーハトーブの果樹園」だ。豊穣の果樹園になってくれた。

本日の作業員は、経営責任者の中さん、私、中さんの義弟の3人だ。勇敢な有志だ。

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果樹を植えるために大きな穴を掘ってきたのだ。何故って? 普通の土地なら、何も気にせずに、苗木を植えればいいのだが、この土地は、以前は住宅地でも、地面の表層1メートルには大小様々な石が混入していて、かつ路盤のように固くなっていた。そんな土壌に果樹なんか直接植えられるものではない。

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今度弊社が経営に参加することになった建設会社の社長さんのアドバイスで、ハンマードリルと発電機を建設機械のレンタル会社で借りてきた。延長コードは会社から持ち出した。次女の夫の竹ちゃんには、彼が勤めている会社からツルハシを借りてきてもらった。直径1メートル深さ1メートルの穴を12個、3時間ほどで掘れた。ハンマードリルやツルハシで土を柔らかくして、スコップで土を放り出す、それの繰り返し。深いところからも、大きな石や粘板岩がゴロゴロ出てきた。我々は、この手の仕事をするのに、力の配分というか、要領、ペースが解らなくて、目先の仕事を何とか早く終えたいと思うから、仕事のペースは早くなりがち、自然に急いでしまう。急激な筋肉の緊張は、過酷だ。中さんの全身の筋肉には破滅的な衝撃を与えたようだ。腰痛持ちの私にも、結構なお仕事でした。

1週間前、一人でスコップで掘ってみたら、1時間程かかって直径50センチ深さ30センチの穴を掘るのが精一杯だった。ドカタ上がりの私でも、この手掘りの作業はきつかった。疲れた手と足と腰を掌(てのひら)で叩いて、このありさまを前に可笑しくなるほど、クラクラ、ガッカリ、気落ちしたのだ。

そのように気落ちしていた私でも、今日は朝からエンジン全開だ。朝一番で建設機械のレンタル会社に行って、予約してある内容を受付のネエさんに話すと、彼女はマイクで弊社の会社名と機械名を呼ぶ、そうすると、作業員の方が私の車に機械を乗せてくれる。ほんの数分間の出来事だ。いろんな建設会社のトラックやダンプカーがどんどんやってきて、いろんな建設や土木に使われる機械が積まれては去っていく。初めて見る緊張感のある光景、面白かった。借りた機械の作動の仕方をレンタル会社のスタッフに詳細に教えてもらった。

さて、この後はどうすればいいのだろうか? 

穴を掘ったのはいいが、果樹を植えるには穴の中に良質な土を大量に入れなくてはならない、難儀だ。もっと周囲の土壌も改良しなければならないだろう。

まだまだ、気を許せないのだ。この土地は階段約50段程の高さにあって、当然、車を横付けにはできない。これからのハードルをどのように越えればいいのだろう。 鳩首、いい知恵を出そうぜ。

2013年11月4日月曜日

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そんなことも、あったか!!

私が浪人時代にドカタ稼業で得た資金は、大学の3年間の授業料と3年間の生活費を合わせて見積もった300万円に近い額だ。郷里の農協に貯金をして、その貯金通帳と届け出印を母に預け、当面の資金だけを持って、1969年、昭和44年の2月のある朝、高田馬場駅に着いた。前の日の深夜、京都を急行列車銀河で発った。高価な新幹線などには乗らなかった。

私は、早稲田大学でサッカーをやるために、はるばる東京までやって来た。

大学に行きたいが、1浪しても2浪しても、勉強したいモノを思いつかなかった。だが、飢えていた。何でもいい、何にでも熱中、夢中になりたかった。この熱病者は、虐(いじ)めつけて引き留めておかないと、どこかに、飛んでいってしまいそうだった。熱(ほとぼ)りのはけ口をサッカーに向けた。

2年間の浪人時代はドカタ稼業と少しの受験勉強に明け暮れた。朝、目覚め、飯を腹一杯に食って、昼間、親方の指示に従って、仲間と共同して思いっ切り体を使って働いた。夕方、仕事を終えると、親方から酒を振る舞われ、帰宅、夜、酔って机に向っても、ほんの数分で居眠り、そのまま熟睡してしまうこともしばしば。働いているときは充実しているが、ドカタが雨で休みの日や、ドカタ弁当を食い終わって一息入れたとき、夜中に目が覚めたときなどに、屡々(しばしば)、急に不安になり焦燥に駆られた。夜中、ぶるぶる震えることもあった。

他にも数校の大学から合格通知はもらっていたが、決めたのは本命だった。当時の大学のチャンピオンで、日本サッカーリーグのどのチームと戦っても、十分互角に戦えるチームだった。学部は社会科学部だったが、どの学部でも構わなかった。

実家は貧しい農家だった。でも、実家の跡取りの5つ年上の長兄も父も、私が東京の大学に入ることには大賛成で、仕送りすることにも大いに賛同してくれていた、が、私にも意地があって、できるだけ貯めたお金でやり繰りしたいと考えていた。4年生の時の1年分の授業料は父と兄のお世話になるとして、生活費については、貯めた3年分の生活費を倹約に倹約を重ねれば、何とか4年間を過ごせるのではないか、と目論んでいた。

長兄は父の期待に応(こた)えるように、高校進学を諦め、2年間の高校の定時制(昼間、週に2、3日の授業)の茶業科に進みながら、お茶と米作を主とした農業に精を出した。村の人々が吃驚するほどの勤勉なお百姓さんになった。この兄は、中学生の頃でさえ、大人顔負けの仕事をこなした。

高田馬場駅の近くのホテルに1泊しただけで、翌日にはアパートを決めた。そのアパートの住所を郷里に電話で知らせ、布団や衣類、私がまとめておいた荷物を送ってもらった。大家さんは人の良さそうなおばあちゃんだった。荷物が届いて、入学の手続きを終えた。履修科目の登録も済ませた。

ようし、これからが大事な仕事に取り掛かるのだ、と気合いを込めた。サッカー部に入部するための手続きにグラウンドのある西武新宿線の東伏見に向った。当時の住所は、東京都北多摩郡保谷町東伏見だ。

東伏見駅に下りて、駅員さんにサッカーグラウンドの位置を尋ねたが、この坂を下りて行くと、色んなグラウンドがあるので、そこで聞いてご覧、と言われた。駅を出て右を見ると、東伏見稲荷神社への案内板があった。京都・伏見の稲荷神社にはよく行ったので、なあんだ、伏見稲荷の東の国の支社だ、こりゃ縁があるぞと親近感を持った。上背があって、屈強で筋肉モリモリのえんじ色のトレーニングウェアーの学生らがふざ(悪戯)けながら、坂を上(のぼ)ってきた。彼らの振る舞いは、天衣無縫、奔放だった。奴らは何部なんだろうか。大学の運動部はさすがに迫力あるなあ、と恐ろしくなった。あんな奴らに負けるもんかと力んでいた。今までに見たことのない体つきだ。

坂を下った突き当りが、サッカーのグラウンドだった。練習の終わった時刻だったのだろう、グラウンドには4、5人が銘々勝手に練習していた。グリーンハウスの前のベンチでしばらく周囲を見回したが、目ン玉がサッカーグラウンドから離れない。

急に近視眼になったように、サッカーグラウンド以外の風景は、漠然と霞がかっていた。

水飲み場で、水を飲んで顔を洗って、足を洗っている部員に近付いて行った。彼に、此処が私が入部を希望している早稲田大学のサッカーグラウンドであることを確認した。そして、入部を希望しているのですが、どうすればいいのですかね?と尋ねると、サッカー部の寮を教えてくれて、「そこで、海本さんに、聞いたら?」と関西訛りで答えてくれたので、私もつい、おおきに、と応えた。間抜けた質問だったのか。

その彼は新入部員の銀だった。球さばきが上手く、1年生でレギュラーに選ばれた。すっかり部員になりきっていて、大学生の風格のようなものを既に漂わせていた。この銀ちゃんとは、在学中も卒業してからも抜き差しならぬ関係?になってしまった。 

海本さんは新人監督で、後で知ったが、寮長さんでもあった。寮に行って海本さんに、面談を求めると集会場のような20畳ほどの部屋に連れて行かれて、お前はどっから来たんやと聞かれたので、京都の宇治にある京都府立城南高校出身であること、チームは強くなく部員も少なく、きちんとは練習していなかったことを話した。出窓に腰を下ろしてリラックスしながら、俺も京都出身で山城高校や、と海本さんは同郷のよしみ、か?親しみを込めて話しかけてくれた。私は恐縮して畳に正座していた。

さすが、強豪校の出身で4年生にもなれば、タイしたもんだなあ、と感心していたら、ええよ、分かったから、早く寮に来い、新人は強制的に入寮することになっているんだ、と言われ、数日前にアパートを決めて荷物が郷里から届いたばかりだったので、驚いた。少しは混乱した。賃貸借契約をしてたかだか1週間しか経っていないのに、家賃と礼金、敷金は戻ってこない?ものだと、と思わないといけないのか。悔しかった。

後で知ったのだが、ほとんどの新入部員は、大学の入試を受ける前からサッカー部のマネージャーと合格してからの手続きなどの打ち合わせをしていたのだ。セレクションというのがあることも知らなかった。私ら2、3人以外の新入生は、私が初めてこの寮を訪ねた日よりも、1ヶ月も2ヶ月も前から、練習に参加していたのだ。

セレクションなどに参加などしていたら、先ず、走力などに極めて劣っていた私は、バッテン印をつけられたことだろう。結果的に、直接、藪から棒に入部を申し出てよかったのだ。この海本さんが、誰にも相談なく、その場で決めてくれたことにも感謝したい。

当時の4年生は、日本代表(今でいうA代表)や大学選抜に数人が選ばれ、高校時代のユース代表が数人いて、他の大学とは比較にならないほど優秀な選手が揃っていた。そんなチームだったので、私のような者の入部は想定外だったのだ。入部にふさわしいだけの基礎的な能力を、私の自己申告だけで、判断してしまった。違う、判定などしようとしなかった、その太っ腹、鷹揚さに感謝。私は嘘をついたわけではない、私は幸運だった。

海本さんに、1週間前にアパートを決めたこと、それでも3日後にはアパートを引き揚げて入寮するので、よろしくお願いしますと、何度も頭を下げた。

問題はアパートの賃貸借契約の解約のことで、頭がいっぱいだった。どのように大家さんに話せばいいのか気を揉んだ。私の入居を大家さんは非常に喜んでくれたのだ。家賃は安いだけにそれなりに環境が悪かった。それでも、私には十分だったのだ。

大家さんは、上品でいいおばあさんだった。部屋を10日間使わせてもらったのに、家賃も礼金も敷金も全額そのまま返金してくれた。敷金は兎も角、家賃は、使った日数だけでも日払いで取ってくださいとお願いしたが、笑っているだけで、受け取ろうとはしなかった。礼金などもらえないよ、と顔を赤くした。恐縮する私に、頑張りなさいよ、しっかり練習するんですよ、と励ましてくれた。何度も何度も頭を下げて有難う御座いますと繰り返した。明日からは俺も早稲田のサッカー部だと思うと、興奮していつまでも眠れなかった。

翌日、田舎から送られてきた布団や諸々の荷物を、何もかも布団袋に押し込んで、高田馬場駅まで背負って行った。私の体の1、5倍もの荷物だ。腰を屈(かが)めているので見えるのは地面だけ、やっとのことで駅の改札口に辿り着いた。駅員さんがにこやかな笑顔で、切符に鋏を入れてくれたのを、顔を斜めにして確かめた。

かくして、高田馬場暮らしは10日間だけだった。

さつま芋の蔓を食った

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鍋に入れる前の、カットを済ませたさつま芋の蔓

 

先の大戦の終わりごろ、日本は苦戦を強いられ戦況に歩調を合わせるように酷い食料事情に陥った。終戦直後の都会は全くの飢餓状態だった。

それでも私の生家は農家だったので、都会での深刻な状態など露知らずだったようだ。私たちが住んでいた村は、交通の不便な人里離れた辺境の地だったのに、そんな村にまで、京都や大阪から農作物の買い付けに、人々がやって来たらしい。

庭先に、干し柿を作るためにむいた渋柿の皮を干しておいた。柿の皮は、糠漬けに入れると芳醇な香りを出すためのもので、漬物作りには欠かせない。そんなものでも、分けて(売って)くれませんかと頼まれたよ、と話してくれた。

大学に入って、東京育ちの学友の父から、戦中、戦後、私らはよく「すいとん(水団)」を食いましたよと聞かされた。米がなくその代用食としてすいとんを食ったのです。小麦粉が不足していたので、小麦粉を水で緩く溶いて、汁、または熱いお湯に直接落とし込んで団子状態にしたものを食いました。まあ、よく食わされました。当然、汁には充分な味付けなどはしていないので、いくらなんでも美味いとは言えなかった、よ。

そして、この夏、2013の終戦記念日、私はすいとんを作って、食った。往時を偲(しの)ぶつもりだったが、立ち寄った友人から、そんなのすいとんとは言わないよ、すいとんはもっと貧しいものだよ。これは、野菜のごった煮に小麦粉の練ったものを入れただけじゃないか、とにべもなかった。

そのような話をしたり聞いたりしていると、私は私の田舎でのことを思い出した。私の故郷のほとんどの家は田畑を多かれ少なかれ持っていた。でも数軒は家の庭先しか耕作地を持たない家もあった。そのような家庭の働き手が、現金収入を得られる仕事につけなかったら、その生活は大変だった。

遊びに行った友人の家(うち)の食事を見て、吃驚したのだ。さつま芋の葉を細かく切って鍋に入れたのを見た。芋はなかった。さつま 芋はおやつとして、ふかしたものや焼き芋を食ったことはあっても、蔓も葉も捨てていた。その光景を母に話したが、ふう~んと言っただけだった。

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できあがったさつま芋のキンピラ。

 

それから約55年後の今、イートハーブの果樹園の隅っこで芋(安納芋)を作っている。来週あたりに、孫と一緒に掘れたらいいなあ、と思っているが、孫も忙しいようで、どうなることやら。このさつま芋を植えた時から葉を食ってみると決意していた。そして、昨日、山田農園主の手伝いの最中に、さつま芋の葉を食おうと思っているんだ、と話しかけたら、農園主は「芋の葉ではなくて、蔓をキンピラにすると美味しいよ」と教えられた。

早速さつま芋の蔓を、山田農園からもらって帰った。作った、食った、美味かった。キンピラ作りはオテノモノ、美味しく頂きました。

ところで、葉っぱを食うことはどうなったんだっけ? 肝心なことが先延ばしになってしまった。

2013年11月1日金曜日

何故、日本勢はACLで勝てないの

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20131026 朝日・朝刊

準決勝で大敗した柏。過密日程をどう避けるかが、今後の課題に浮上した。

 

20131026 朝日・朝刊/スポーツ、「敗れ去る日本勢の真の敵は」「サッカーACL 5年連続外国勢で決勝」の記事に注目した。日本チームのACLでの活躍を期待するサッカーファンにとって、関心深い記事だ。この数年の日本チームの戦いの不出来に、気を揉んでいたのだ。

今月の26日から始まるACL決勝には、日本勢は5年連続で決勝の舞台に出場できなかった。そこには、何か理由(わけ)があるのではないか? 何故か、勝てない。その理由を探った内容だ。Jリーグのチームが、やっと、出場の権利を得ても、抱える難題は多いようだ。活躍を阻害しているものは何か。

今大会に於いては、日本勢は広島、仙台、浦和の3チームが1次リーグで敗退。唯一決勝トーナメントに残った柏が準決勝で広州恒大に大敗した。この負け方が余りにも、異常だ。

07年に浦和、08年にガ大阪が優勝してからは、09年4強、10年16強、11年8強、12年16強、今回は4強止まりだ。

 

以下、新聞記事のダイジェスト。

1、JリーグにとってACLは、浦和など集客力のある一部クラブを除いて、準決勝以上に進出しないと赤字が出る事業だった。そこでJリーグは日本協会(JFA)とともに、負担の重い敵地への渡航費の補助に踏み切った。1次リーグでは80%を援助した。

2、チームを支える活動資金の量が、今回、柏と準決勝戦を戦った広州恒大は圧倒的に潤沢だ。年間予算は、柏の35億円(12年度)の倍以上、J最多の浦和でも53億円だ。

3、柏のネルシーニョ監督は完敗を認めつつ、「本来の体調ではなかった」と、準決勝第2戦まで20日間で6試合を戦わざるを得なかった日程面の問題を指摘した。準決勝に残った中国、韓国、イラン勢はいずれも国内リーグの日程を大きく変更するなど対応をとっていた。

4、アジアのライバルに比べて加盟クラブが多いなど、自由が利かない事情もあるJリーグだが、今季の結果を受けて、柔軟な対応が可能な日程の検討を始める。