私と経営責任者の中さんとは、スタッフが検討している物件の全ての現場を確認をしているので、多い日には車で300キロメートルを移動することもある。見る現場が多い日には、15件ぐらい見て回ることだってある。中さんが運転、私は後部座席でウトウトしながら、身を沈めて乗っている。中さんには悪いなあと思うのだが、今、我々が移動に使っている車を私は運転できない。
道すがら、名所、旧跡、珍しい建物や有名なお店、好奇心をそそる地域や地点に至った時には、必ず2人は何だかんだと話題にする。物知りの量では圧倒的に中さんの方が多く、私はいつも聞き側に立っている。感心事が初物(はつもの)ならば共同で知恵を出し合う。
今回は、中さんも私も知らないことに出くわした。
茅ヶ崎市のみずきの物件に向かうために地図を見ていて、茅ヶ崎の北のはずれ、寒川寄りの道路が、なんと、大岡越前さんの名を冠にした「大岡越前通り」と銘記されているのに気づいた。中さんは知らないらしい。中さんが、神奈川県内で、地名の知らない在所なんて、有り得ないと思っていたので、彼が知らないフリをした時には、私の方が吃驚した。でも、加藤剛主演のテレビドラマでお馴染みの大岡越前さんについては、お互いによく知っていた。大岡家の菩提寺が浄見寺で、その前の大きな通りが大岡越前通り。
大岡越前さんの勤務先は江戸南町奉行所で、中央の高級幕臣(官僚)だと思っていたが、どうして、こんな田舎においでだったのだろう?と思ったが、なんてことはない、彼の生まれが此処だったのだ。言わば本籍地だ。
大岡越前守と呼ばれた大岡忠相(おおおか ただすけ)(1677~1751)は、八代将軍徳川吉宗が進めた亨保の改革で、江戸町奉行では判官(はんがん)としてその仕事ぶりは”大岡裁き”と呼ばれた。司法以外にも市中行政にも携わった。
茅ヶ崎観光協会のホームページで、大岡越前祭のことを知った。以下の写真と文章はそのホームページのものをお借りした。
忠相公は1751年(宝暦元年)、75才で亡くなりましたが、数々の功績に対して1912年(大正元年)、従四位が贈られ、翌2年に忠相公の墓前で贈位祭が行われました。これが大岡越前祭の始まりとなりました。
大岡越前祭は関東大震災や戦争などで中断していましたが、昭和31年に復活し、茅ヶ崎の春祭りとして、墓前祭、越前行列など様々な催しが行われ、市の内外を問わず親しまれています。
浄見寺
浄見寺は堤村を本領とした大岡家の二代当主忠正が、父忠勝の追善のために慶長16年(1611年)に建立しました。
山号は窓月山、寺号は浄見寺といい、浄土宗の寺だ。
浄見寺は大岡家代々の菩提寺で、元和元年(1615年)にこの寺に改葬された初代忠勝の墓石をはじめとして、13代まで一族累代の墓碑58基が整然と並んでいます。