2012年5月31日木曜日

日経の文化欄が楽しい

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2月から、自宅で朝日新聞に加えて日経新聞もとるようにした。但し、購読料金の支払いは、朝日は私で、日経分は会社負担にしてもらった。

当然、朝日を読む時と日経を読む時は、心構えが違う。日経を読む時は、ビジネスモードに切り替えて、特に経済面には神経を研ぎ澄まし、会社の業務のヒントになる記事を見逃すまいと真剣だ。

朝日との付き合いは、小学校の高学年になって、スポーツ面で同郷の野村克也の活躍を追うことから始まった。中学1年生からは、天声人語を国語担当の小野先生の影響を受けて、辞書を片手に読む努力をした。お陰で、すっかり朝日新聞の癖まで解ってしまった。不思議なことに、朝日を手に取ると何だか安心するんだ。間違った方に感化されていなければいいのだが。朝日の宣伝マンでも、手先でもない、腐れ縁が出来てしまったようなのだ。

日経の経済記事はさすがに高度で、私のような非力な経済人の端くれには理解できないことも多い。専門的な記事も多いが、それでも、一般紙とは違った方法で表現されていて、解りやすく配慮されている。経済系大学を目指す学生にはいい教科書になると思う。

そんな経済紙の日経なのに、私にとって、最終ページの「文化」欄が、最高に楽しいのだ。購読料金を会社に払わせておきながら、この文化欄に力が入る。

新聞の購読者は、層が厚いので、誰もが読んで理解できるように書かれている。文化欄で扱う内容が多種多彩、多岐にわたっているのが、又、気に入っている理由でもある。

一つの題材を文化的に評論しているのだ。極めて日常的な事や、極めて芸術性や専門性の高い内容でも、我々(私)に解りやすく評論にまとめている。インタービューした内容を文章にしていることも多い。この編者らはなかなか心憎いお仁(ひと)たちだと推察、エールを送りたい。

今まで、日経は読んだことはあっても、文化欄を注意して読んだことはなかった。日経の長年の歴史がこの欄を、これほど興味をそそるものに磨かれてきたのだ。この欄を、日経のお宝ですぞ、と偉そうに言わしてもらいたい。朝日の天声人語と趣は異なるが、私には欠かせない「文化」欄だ。でも、夕刊の「文化夕刊」は、ちょっとサロン風だ。

上記の内容の文章を、日経さんのためにも書き留めたいと思いながら、なかなか書く機会がなかった。が、本日20120531、映画評論家の佐藤忠男さんが、先日亡くなった新藤兼人さんを悼む文章を「地道な労働への愛と誇り」と題して書かれていたのを読んで、この稿を起こすことにした。

濃い内容を、平易な筆致で書かれていて実に解りやすい。民衆的だ。

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「一枚のハガキ」の撮影現場で指示する新藤監督(2010年、東京・日活撮影所)

2012年5月30日水曜日

扶養義務と生活保護費

風邪をひいて気分がすぐれなかった数日前、近所の松原商店街に買い物に行った帰り、帷子川に面した小さな公園のベンチで一休みしていた。

私以外にも何人かは、風はなく暖かい日差しを楽しんでいた。公園の樹木はナラやブナの大木、緑の葉が多くなって一段と濃い緑になった。帷子川の向こう岸に弊社の社屋がある。少し熱があったのだろう、目を瞑(つぶ)っていたら、たった数分のことだろう、不覚にもまどろんでしまった。

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帷子川。帷子川をはさんで、社屋と公園がある。

 

そして静寂は破れた。

人影が、近づいてきたことに気づいた。オジサンが親しげに「仕事は、ないね、、、、もらってきた?、、、、 保土ヶ谷だろう?」、問いかけられた直後、何のことだか解らなかった。が、今日が受給日と言ったか、支給日と言ったか、あっ、これは、生活保護費のことを言っているんだと直感した。あのオジサンたちは、極めてプライベートなことでも、誰彼となく話しかけるんだ、と妙に感心した。

生活保護費と聞いた時は違和感はあったが、よ~く考えてみると、成る程、この私の風貌、風体(ふうてい)から、その資格十分ありと思われたようで、嬉しくもあり悲しくもありだ。苦笑してしまった。

年収5千万円の息子を持つ母親が、生活保護費を受給。これは、週刊誌の記事の見出しだ。

週刊誌「女性セブン」で、人気お笑いコンビ「次長課長」の河本準一の母親が生活保護を受けていると報道した。当初は匿名だったが、ネットサイトで河本であると報じた。私は、この人気お笑いコンビのことは知らなかった。

河本がどれだけの収入があるかは知らないが、それなりの売れっ子芸人らしい。推定年収は5千万円。河本が無名時代の12年前に、仕送り分を差し引いた額が支給されていた。彼の事務所は「収入が年によって増減し、将来も安定的に援助できるか見通しが難しかった事情もあるが、認識が甘かった」と朝日新聞の取材に対して述べている。最近になって、母は受給しなくなったらしい。

この河本は人気者だから話題にはなったが、彼ほどの収入はなくても、面倒(扶養)みなければならない立場に居ながら、何の援助もしていないケースは私の身近に見ている。

これまでは、親に生活保護を受けさせるのは恥、との意識があったが、貰わないと損の感覚が広まれば、法改正の必要がある、と思う。

民法では扶養義務とは、独立して生活できない人に対して、経済的に支援してあげなければならない義務のことをいう、とある。

現行の民法第877条では

1、直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養する義務がある。

2、家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定するほか、3親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることはできる。

3、前項の規定による審判がった後事情に変更を生じたときは、家庭裁判所は、その審判を取り消すことができる。

このような民法の決まりをどれだけ守られているのか? 

生活保護費の受給者に扶養可能な親族がいるのに、生活費の負担額が折り合わない場合には、上記、民法第877条の2項で、自治体が家庭裁判所への申し立てができる。読売新聞の全国主要74区市に取材したところ、この申し立ては昨年はゼロだった、とのネット報道があった。区市の窓口では、何も、粘り強く対応してなかった証左だ。

扶養の義務の範囲を狭(せば)めて、厳格化したらどうだろう、、う~ん、、、それにしても、難しい問題だ。

扶養義務は、本来、法の強制には馴染まない性格のものだが、理想的なことばっかり言っているわけにはいかない。人は個々に、様々な事情を抱えて生きている。疾病や怪我を負っている人、高齢者を救うのは、この民法の扶養義務と、制度としての社会保障によるセーフティーネットなのだろうが。

私の個人的な考えは、親の面倒をみても、子どもには面倒をみてもらいたくない。いくら人間関係が良好でも、面倒をみさせない。援助を求めない心算だが、果たしてどんな終幕になることやら。

こら!! や、ま、お、か、神様からのお告げだ、よく聞け。偉そうなこと言っていても、この先、何が起こるかわからへんサカイな!!!

この問題をもっと社会化して欲しいもんだ。

それにしても今回の河本さん、これはまずいぞ。人格まで疑われてますよ。

2012年5月29日火曜日

東日本大震災の被災地を巡る

20120510、11、12の3日間。

東日本大震災による被災地を巡ってきた。ちょっとでも、寄り添って生きたい、そんな気持ちからだ。

1ヶ月ほど前のこと、何気なく、学生時代の友人の金ちゃんに、東北の地震と津波、それに東電福島原発の被災地が気になってしょうがないんだ、できたら、この目で見届けたい、と話すと彼の反応は素早かった。そうなんや、俺も、前からそう思ってたんや、ときたモンダ。

そして、二人の珍道中は始まった。

20120510 08:08 金ちゃんを新幹線の新横浜駅に迎えた。彼は、その朝、大阪の寝屋川の自宅を早朝5時過ぎに出た。そして、この時間に着いた。

京都から横浜まで2時間ちょいやった。リニアモーターとかで走る奴、「リニア中央エキスプレス」? そんなものホンマに必要か? 地下深く掘ってまで必要ないと思うけどなあ。これ以上早くなくても構ひんで。

彼とは大学時代、4年間寝食を共にしたサッカー部の同輩だ。彼は、入部と同時にレギュラーとして試合に使われた。私は、4年生になって、やっと、半分はレギュラーで使ってもらった。

首都高速、東北自動車道を北に向かってまっしぐら、距離を稼ぐことにした。東北自動車道の安代JCから三戸自動車道に入って、八戸ICを16:30に下りた。走行距離は、新横浜駅から732キロ。走行距離100キロごとに、運転を交代した。

地図を見て、どうしても「戸」の文字が目立って、これって、何じゃろう? 戻って調べた。私の仕事柄、戸という字を見ると、まず扉としての戸が頭に浮かび、日常的には戸建住宅などとして、戸を使っている。

諸説が幾つもあるようだ。数字と戸をくっ付けた地名なので、八戸とか九戸からは、自動的に八軒とか九軒を連想するのだが、どうもここでは、戸と軒とは違って、戸は数戸の集まりで行政上の一単位のようだ。

また、戸は牧場の意味があって、昔の牧場制度の名残りという説がある。この場合は、八とか九は数ではなく在所の位置を表して、留(とど)める、泊める、などの意味合いで使用されていた。遠野だって、「十(とう)のへ」と言われていたそうな。

楽天ホテル予約センターに電話を入れて、JR八戸駅近くのビジネスホテルに泊まるこにした。雨が降りだした。予約だけ済ませて、近くの居酒屋に電撃突入した。営業は17:30からだが、私たちの顔色を見て、その真剣さに気負わされたのか。どうぞ、と歓迎してくれた。開店営業時間の30分前だった。

イの一番に、前々から食いたかったホヤをオーダーした。形が異様で興味を持っていた。古くから食用にされていたというが、最初に口にした奴は勇気がいっただろう。現在では、宮城産が4分の3を占めている。ビール一口、口にしてから箸で抓んだが、舌の上には、美味いなあという感覚は残らなかった。魚を材料にしたメニューを看板にしているのに、焼き鳥もあって、そんなに目新しいメニューはなかった。

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ホヤ

 

沢山飲んで、チェックイン。部屋に入って風呂に入って、私は即、熟睡だった。金ちゃんは、私の鼾が強烈だったとか、なんとか言っていたが、君だって、早朝、それはそれは大層な鼾だったんだぞ

翌、早朝、八戸駅に目覚めて直ぐに行ってみた。JR東日本の東北新幹線と八戸線、青い森鉄道の接続駅だ。前日、雨の中の駅舎が新しく、余りに近代的だったので気になっていた。まだ昨夜の酒が頭の隅っこに残っていて、火照る体を、街中の冷風にさらしたかった。

なるほど、駅舎全体とその周辺は、少し前に建てられたのだろう、ピカピカだった。まだ朝が早過ぎる、乗降者はいない。新聞配送の人が、売店前に包みをごそっと置いて廻っていた。

イカの水揚げが日本一、の看板があった。

宿泊に朝食付、1名 3300円。飯を食って、直ぐにホテルを後にした。海岸沿いをどれだけ走れるか解らない。気は急く。国道45線を走れば、海岸沿いの被害状況が見えるだろうと予想したが、地図では海岸近くでも、実際には、海岸線から2~3キロ離れて走ることになった。田園の中、田、畑、野山の中を走り続けた。民家や小さな店舗がある。久慈まで1時間半はかかった。

この程度のスピードで南下していては、大変なことになりそうだ、との判断から国道45号線を外れて、内陸部の信号の少ない道を進むことにした。久慈から宮古まで、海岸線では被害をうけた三陸鉄道が走っている筈だ、と会話しながら、被害の様子を想像した。

宮古から国道340号線で遠野、それから仙人峠道路から釜石街道で釜石。この道路沿いに釜石線(花巻と釜石を結ぶ)が走っていた。軽便鉄道か? 花巻と聞いて、ゾキッとした。私が心酔しきっている宮沢賢治がどうしても、ガツ~ンとくるんだ。

できたら、花巻農学校があった辺りで、数日間、そこの空気を吸って過ごしたい。イギリス海岸? 生家跡、やぶ屋、しん橋辺りを彷徨(さまよ)ってみたい。再び訪ねる機会があったら、その時こそ、宮沢賢治に触れたい

金が、山岡、昔、鉄鉱石や石炭を積んで運んでいたんやろうな、と話しかけてくる。岩手の産物と言えば、金と馬、それに釜石は日本最大の鉄鉱石の産地だ。港からも荷揚げされたのだろう。それよりも、私は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に想いを馳せていた。私は、毎年クリスマスが近づくと、ケンタウルスの夜に、ジョバンニとカンパネルラらと一緒に銀河鉄道に乗るのだ。東京演劇アンサンブルの俳優さんたちと、賢治の「愛の愛」を見つける旅に出る。そんなことを、ハンドルを握りながら考えていた。今年も、ブレヒトの芝居小屋に足を運ぶことになるだろう。

釜石に着いた。私には、新日鉄釜石のラグビーチームで馴染みだ。1858年、わが国最初の洋式高炉が稼働。安定した銑鉄生産に成功した盛岡藩士大島高任(おおしまたかとう)を、日本近代製鉄の父と呼ばれる。敷地内にある火力発電所は昨年7月に稼働を再開、地元の産業や暮らしを支えている。

港に着いて、ここで初めて、今回の津波による被害を目(ま)のあたりに見た。海岸の防波堤から100メートル傍にある釜石警察署と自動車免許センターの2つの建物が、悲惨な状態で残っていた。二つの建物は築後10年ぐらいの新しい建物だった。5階ぐらいまでが、建物の中がすっかり抜けている。

普通の場合ならば、危険な建物として、人間が近づかないように柵をしたり、シートを張るものだが、何の手立てもしていない。周囲は瓦礫やゴミだけは除いただけで、残ったのはただの広場だけ。手立てをするだけの人手と物資が足りないのだろう。

初めて、被害を前に呆然(ボケット)としてしまった。なんじゃなんじゃ、やっぱりテレビの画面で見たのが、本当だったのだ。白昼夢ではなかった。やっと実感したというのが、本音だ。

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大船渡に寄らず、山越えをして陸前高田に入った。

その陸前高田に入る前に、空腹に追われて食堂を探したがなかなか見つからなかった。仮設住宅があっちこっちにあって、人の姿が見えた。流石に、カメラを向けることができなかった。

やっとのことで、峠の辺りの仮店舗のラーメン屋さんに入った。四国?という屋号の中華料理屋さんだった。ただのラーメン屋ではない、本格的な中華料理店だった。金ちゃんが、厨房を覗いたら、主人と思われる70歳代のオヤジさんが取り仕切っていたそうだ。

聞いてみたら、ずうっと陸前高田の海の傍でお店をやってきたが、今回の津波で店はなくなりました。それで、ここで、やっているんですよ、奥さんらしきご婦人は屈託なく笑って答えてくれた。ここまで、これまで大変だったのだろうなあ、と思う。幾ら思いを巡らしても、その心労を理解できない。

爪に火を灯して暮らしている私なのに、勇気を奮って、ちょっと高額のメニューをオーダーした。いつも食わないものを頼んで美味しくいただいた。けれど、食い終わって何を食ったか記憶にない。よくあることだが、今回もそうだった。

ところで、リアス式海岸の呼称は、スペイン北西部のガルシア地方には多くの入江があって、スペイン語で入江を意味するリアからきているようだ。谷が沈降してできた入江のことを溺れ谷(おぼれだに)と言われているそうだ。不吉な呼び名だ。

 

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陸前高田の被災地に入った。

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言葉少なくなってしまった、金ちゃん

 

驚くなかれ、広大な土地に建物は何もない。

たった2、3棟の藻抜けの空の建物だけが、卒塔婆(そとば)のように建っていた。あっちこっちから線香のにおいがした。花束が添えられている。亡くなった人を偲んでのことだろう。しばらく、この場に佇んでいると、心臓がきゅうっと締め付けられ、息苦しくなって、寒気がして気分が重い。亡くなった人たちの無念の思いが淀んでいるのだろう。空気もどんよりと重い。どちらかともなく、早く、ここを移動しよう、と目で合図し合った。

おい、山岡、せめて手を合わせておこうや。二人は、花束を置いてあるところで、手を合わせた。どうぞ、黄泉(よみ)の国では、安らかにしてください

横浜の人には、この被害のイメージし易い例がある。現在の横浜のみなと・みらい地区がかって、三菱重工業の工場の敷地だった。その工場の建屋が解体され、人の目にさらけだされたとき、広大な空き地を見てみんなは驚いた。陸前高田のこのエリアも、工場や店舗、住宅がひしめき合って大きな市街を形成、その街で幾万人が働いて生活をしていた、その成熟していた市街地が、三菱重工業の跡地のように、すっかり空き地になってしまったのだ。やはり、これは現実だった

海岸線から500メートル内陸に入った所で、体育館が骨組みだけになっていた。引き水で、車が流されてきたのだろう、体育館の観客席にボコボコニなった車が横たわっていた。

1棟の家を解体したら、どれだけの量の廃材がでるかぐらいは、日常の仕事の経験から、大体は理解できる。だが、これだけの市街地から出る廃材がどれだけの量になるかは、到底、推量はできない。

車の破損が凄まじかった。石が上流から下流に流される過程で、角がとれて真ん丸い石ころになる。鉄屑として集められていた車はどれも、角がとれて、不揃いな団子のようになっていた。

そして、角がとれた車から発想は人間の体に及んだところで、暗澹とした気分になった。未だに、行方不明者は4、5千人居る。震災当時、この人たちの体はきっと、千切れ千切れになってしまったのだろう。まともな個体でなければ、見つけようがない。波にさらわれてしまった人たちも多かった。海に運ばれても、体の態をなしていないものだから、浮かびようがなかった。

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シートに包まれた瓦礫の山が幾つも連なっていた

 

早速に、残った建物を修理して操業をはじめている水産会社があった。修理中の工場もあった。だが、住宅は当分、この地に建てることはないだろう。

何もない原っぱの真ん中で、ぽつんと1軒、寿司屋さんが新築してお店を営業していた。

国道45号線を走った。海岸に面した小さな入江も、ことごとく被害に遭っていた。そんな被害地を眺めながら、気仙沼に入った。

津波は市街地を越え、山に迫った。その津波の迫ったところまでは、松などの樹木が全て枯れていた。塩害だ。畑も、田も、塩を除去するには、土壌改良とか、何をどの様にするのだろうか。元の耕作地に戻るのはいつの日か。塩害に強い作物の栽培や、塩を吸収する植物を植えるとか、万策を講じているようだ。

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車で、三陸海岸沿いの山間部を走って、ときどき、海の見渡せる場所にくると、この海岸線が見事に漁業にふさわしい地形だということに気付かされる。魚や貝などの養殖には、もってこいだ。それに静かな漁港。

三陸沖は世界三大漁場の一つと言われている。世界的にも優良な漁場なんだ。その漁場での沿岸漁業と沖合い漁業、それに遠くに漁を求める遠洋漁業、この地域が重要な役割を果たしていることは、残された周辺の各種水産業の工場を見ても想像がつく。関連して、造船業も盛んなようだ。

私のような生半可な男に安易に言われたら堪ったもんではないだろうが、漁業の町だと思った。この感慨を、この気仙沼に入ってより強くした。

港から300メートルほど陸に入った所で、船長50~60メートルの漁船が、置いてきぼりにされていた。陸に打ち上げられた船は間抜け面(づら)、海に戻りたいのに身動きとれず、情けなくしょんぼり。目があれば涙を流したい。口があれば悲鳴をあげたい。船体は、塩を振りかけられたナメクジのように、萎えていた。

私たちには、移動する距離に比べて時間が少ない。

大きく南下するために気仙沼から気仙沼街道を使って東北自動車道の一関ICに入って、富谷JCから仙台北部道路で仙台中央ICで下りた。松島が近いことを知って、松島に向かった。

白砂青松。日本三景の一つが松島だ。

もう二つは天(の)橋立と安芸の宮島だ。修学旅行なのか、高校生が目に付いた。私と金ちゃんは、女高生に写真のシャッターを押してあげるサカイに、オイラも撮ってよ、と若者口調でお願いした。

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写真を撮った場所は、岸壁なのに被害らしきものが見当たらない。

聞いてみたら、松島名物の島々が津波の勢いを吸収、陸地ではさほど被害を受けなかったのです、とホテルの受付のお嬢さん。金ちゃんとこのように記念写真を撮るのは、今年の正月の信貴山詣以来だ。

暗くなってきたので、仙台に向かって加速。国道45号線を走っていたら、かって私が保有していた宮城野区のアパート周辺の馴染みの風景に出くわした。そんなこともあったなあ、と、アパートを失ってからさほど日は経っていないのに、遠い昔のように感じるのは何故か。

東北第一の都会だけあって、夕方の道路は混んでいた。

宿泊を考えていた仙台に着いた。

八戸から550キロだった。今夜の泊まりは、悪名高い東横インだ。仙台駅近くにこの東横インが3棟あって、ビジネスや観光などの宿泊客は多いようだ。料金は手ごろだった。

今夜は、どこにでもある居酒屋で、一杯。ここでひと悶着。金さんがビール用のガラスのコップの汚れに抗議した。いちゃもんでは、決して御座いません。替わりに持ってきたコップが、これまた汚れていて、金ちゃんの不機嫌沸騰、鶏冠(とさか)にきた。

福島の南相馬にも行きたいと思っていたが、時間に追われていたこともあるが、さすがにここまで、被災地の現状を目の当たりにすると、これ以上、被災地に足を入れることができなくなってしまった。体は何でもないが、頭が疲れたのだ。ここに至って、二人とも意気消沈してしまった。

東北に行ってアパートを留守にしていた間に、訪問を断念した南相馬のある一家の写真が20120512の朝日新聞に載っていた。

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20120512 朝日新聞より。

やっとここへ

東日本大震災から1年2ヶ月の11日、被災した各地で花を手向ける人々がいた。福島県南相馬市小高区は先月16日に警戒区域が解除されたため、被災地を訪れることができる初めての月命日となった。市内在住の中島健二さん(48)は母・久子さんを津波で亡くした。遺体が見つかったとおもわれる場所で、「ようやく来ることができました」と、夫婦で手を合わせていた。(金子淳撮影)

 

12日の要件は、金ちゃんと私の共通の友人、西に会うことだった。西の住まいは福島・いわき市だ。

仙台から東北自動車道に入って、郡山JCから磐越自動車道でいわき中央ICで下りた。11:00だ。市役所や音楽ホール、ハローワークなどのある所に車を止めて、私は芝生で寝っ転がった。金ちゃんは、金策に出かけた。何かの主催による縁日で、出店が並んでいた。喧騒にお構いなく、芝生に寝っ転がって目を瞑った。

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11:30、金ちゃんに起こされ、引っぱり出された西は、眠たそうな顔をしてやってきた。夜勤上がりだ。さっそく、行きつけの寿司屋に行った。この寿司屋の主人は、西のゴルフの師匠さん。昼飯には、ここで、いつも変わらずに、何とか丼を食っているらしい。西がかってスイミングクラブで働いていたときからの付き合いのようだ。

金ちゃんと私は、寿司屋の主人と奥さんに、日頃、西がえらくお世話になっていることに深謝していること、そして、これからもよろしくお願いします、と恭(うやうや)しく丁重に挨拶した。西は挨拶する二人を怪訝な顔で見ていた。が、そりゃそうだろうよ、こんな面白くもない奴を、よくぞ相手になってくれている、それゃ、大事(おおごと)なんだよ、西君。

西は、東電福島原発の事故が起きた初期の頃、私のアパートに2週間ほど避難していた。我がアパートにいる間は、食事のメニューが豊かだった。パチンコで勝った金を食材に回してくれたのだ。西は40余年前の大学生の時は、水球の元全日本代表選手だった。陸(おか)に上がれば何ってことないが、いざ水の中に入ると、強烈に激しいプレーヤーに変身した。優秀な選手だったが、今は見る影もない。

二人に、にぎり「上」を食わせてくれた。にぎり上を口にしたのは、私にとって四半世紀ぶりのことだ。

三人は、津波のことも原発事故のことにも触れなかった。金と私は、被害地や被害者の人々に思いを巡らせることに、もう限界にきていた。西のこの地での生活ぶりを聞いたり、店の主人が昔、奈良で生活していたことなどで、会話に華が咲いた。

西とお店の主人夫婦に挨拶して、店を後にした。14:00頃だった。別れ際にも、主人たちに暮れ暮れも、西のことをよろしくお願いします、と頭を下げた。西は横で、ニャッと笑っていた。

磐越自動車道で東京へ向かった。首都高速に入って、しばらく走っていたら、金ちゃんが、山岡、これっかっあ! 東京スカイツリーというのは、うとうとしていた私は目覚めた。こんな高い物を作って大丈夫かなあと自問自答。そう言えば、あの大震災でも、悲しく、嫌なことは何も聞かなかった。

土曜日の首都高速は空(す)いていた。被災地で見たり聞いたりしたこと、感じたことについては、二人のどちら側からも話しかけなかった。触れたくなかった。疲れていた。新横浜に着いたのは、17:00ごろだった。今日の走行距離は、570キロ。

金ちゃんに、俺の現在の生態でも確認してから帰れば、と進めたが、新妻のなおみちゃんに早く会いたいとか言って、いそいそと新幹線の乗り口に消えた。

こんな、東北の旅だった。

 

下の写真は、クラクラしながら撮ったものだ。撮った場所が何処なのか、整理できてない。が、写真はどれも同じように見えてしまう。

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私の、イーハトーブ

私は、横浜・今井町にささやかな果樹園を持っている。その名をイーハトーブと名付けた。種々の果樹が十数本植えてある。樹木はまだ低木なので、その空き地を利用して、野菜を育てている。毎週水曜日に、30分から1時間、土と戯れ、虫を追いかけ、野菜を撫ぜ、樹木の花や葉、枝、幹を眺める。作業らしい作業はしなくても、そこにいるだけで、楽しいのだ。ゴロ~ンと寝っ転がれる草のベッドを作りたと思っている。

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教壇に立つ宮沢賢治。20120523の朝日新聞より拝借。

 

できるものならば、宮沢賢治氏本人から名付けて頂きたかったが、彼が亡くなったのは昭和8年、私が生まれたのは昭和23年、本を介しての師に無断に我が果樹園を「イーハトーブの果樹園」と決めた。10年ほど前のことだ。名前だけ使わせてもらう失礼は、十分に理解している。

それから、私は自分の果樹園のことを、事あるごとに、イーハトーブと呼ぶもんだから、他人(ひと)はその名前の由来を聞きたがる弊社の社員は、イーハトーブの名前だけなら、誰でも知っている。

理想郷だよ、理想郷。

そこでは、動物と人間が、植物とだって言葉を交わすことができるんだ、時には、星たちだって加わってくる。時空を超えた旅をすることもできるんだ、と話してきた。会社のスタッフには、みんなで観劇した東京アンサンブルの「銀河鉄道の夜」の「見つけるんだ、お母さんの愛の愛を」を、これ、これ、これなんだよ。

20120523の朝日新聞に、広告特集のなかで、今回公開される宮沢賢治原作の映画『希望の宿る場所イーハトーブ 「グスコーブドリの伝記」』の欄が目に入った。

そこの広告の中の文章をマイファイルさせてもらう。これは広告の文章だが、映画製作の意図は、東日本大震災で大きな被害を受けた東北の地に住む人々への想いが込められているのだろう。

宮沢賢治の世界を理解するにはいい文章だと思った。

 

以下は映画広告のコピーだ。

宮沢賢治が「イーハトーブ」と呼んだ理想郷

故郷・岩手の自然をモデルにしたといわれるが、

それは、必ずしも、「場所」を指すだけではないだろう。

一人ひとりが大切にしている夢や憧れ、立ち返る場所、目指したい生き方など、

さまざまな形をとりながらそれぞれの胸に秘められているのではないだろうか。

どんな状況でも支えがあればきっと人は前を向いていける。

だから今、あらためて思いをはせたい。それぞれの心に宿る希望という光に。

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「グスコーブドリの伝記」も、イーハトーブが舞台の作品だ。物語は、村が冷害に見舞われるところから始まる。食料がなくなり家族と生き別れた少年ブドリは学問を修め、やがて火山局の技師として自然災害からもイーハトーブを守る方法を見出していく。

亡くなる前年に発表されたこの作品には、賢治の理想の生き方が描かれている。農民に近い存在であり続けようとした彼の生き方は、不作に苦しむ農民のために自分に何ができるかを模索し続けたブドリと重なるところが多い。 

おそらく賢治にとってイーハトーブは、幻想の産物ではなかったのだろう。賢治はイーハトーブを、心象(しんしょう)中に”実在した”ドリームランドと記した。それは、幼い頃から親しんだ原風景であり、無限の広がりをもつ創作の原点だった。

人は何のために生きているのか。賢治は幼い頃からそう自問していたという。

2012年5月27日日曜日

東京スカイツリー

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先日、金ちゃんと東北へ行った帰りに、首都高速を走行しながら撮影した。運転手さんは金ちゃん、カメラマンは山岡のオジサン。

 

20120522、自立式電波塔としては世界一の高さになる東京スカイツリー(東京・墨田区、高さ634メートル)が開業した。

開業した日の私の一日を記しておこう。私のスカイツリー記念日だ。

朝は4時に起きて、新聞を読み終え飯を食い終わり、さて出かけるまでに何をするかと思ったが、さりとて思いつくことがない。ならば、早朝出勤するしかない、会社に着いたのは6時だった。霧のような雨が降り出した。会社で、読み残しの日経新聞数日分を読み、コーヒーとお茶を飲んで、窓越しに外を見た。老人たちが公園でラジオ体操をしていた。7時半ころ、雨の量が少し増えてきた。

今までのブログの読み直しをした。誤字脱字はないか、て・に・を・は、に間違いはないかチェックした。拙文は止むを得ないが、イージーミスや基本的な誤りは少ない方がいい。

雨が止んだり、降ったりしていた。8時半ころには社員が全員出社してきた。今日は朝一番で、担当の佐と、鎌倉・十二所の中古住宅の周囲の木を切る作業の予定になっていた。隣地の木が、弊社の物件内に覆いかぶさってきているのを切り取る作業だ。

佐よ、雨のことを考えていたら、身動きがとれないので、雨天決行、ばあ~とやってこようよ、ということにした。雨合羽を用意した。作業そのものは慣れたもので、鋸(のこぎり)や、鎌などを手にすると、俄然、元気がでるのだ。佐は、都会育ちのオッサン、一所懸命働いているがまだまだ不慣れだ。それでも、二人、協力しあって11時には予定の作業を修了できた。物件は、すっかり整頓され、別嬪(べっぴん)さんになった。売れ頃だ。

午後は、経営責任者の中さんと、横浜、平塚、津久井の物件を見て回った。弊社は中古住宅を仕入れて、構造補強、間取り変更、設備の交換、表装の模様替えをして、市場に商品として提供するのが生業(なりわい)にしている。仕入れ情報が日々、弊社に持ち込まれ、担当者が事前に調査して、商品化ができそうな物件を、二人で最終のチェックのために見て回るのだ。

此の日、見る物件の最後は津久井で、弊社からは随分遠い。神奈川県のファーノースだ。貰った地図ではどうしても見つからず、その地図を無視して、不動産屋として長年培ってきた習性と勘で、見つけることができた。頂いた地図からは2~3キロも離れた場所に目的物件はあった。情報元の不動産屋はどうしてこんな地図をくれたのだろう。

話は東京スカイツリーに戻る。

併設の商業施設「東京ソラマチ」と合わせて、東武鉄道の子会社が運営する。20110311に起こった東日本大震災から、建物が揺れる、壊れるには、異常に敏感になってしまった。その惨状を金ちゃんと見て回ってきた帰り、12日のことだ。フロントガラス越しに、東京スカイツリーの完成した全貌が見えた。

その時、こんな物を作って大丈夫なのかなあ、と地震やその他の天災、人災のことを思うと不安になった。でも、昨年の大震災の際には建築中だったけれど、何も聞くことはなかった。このタワーを施工したのは大林組だ。21世紀ニッポンの匠の技がうんと詰まっているらしい。狭い敷地に頑丈な基礎を埋めた構造、高硬度の鋼管、秒速120メートルの風に耐えるガラス張りに展望台、照明はすべて発光ダイオードによる省エネ仕様、、、〈20120522、日経新聞、1面、春秋より〉

金ちゃんの大阪にある通天閣も、大林組の施工だ。坂田三吉が、吹けば飛ぶような将棋の駒に命を懸(か)けて、東京に出かける決心をしたとき、愚痴を言わなかった女房の小春。空に燈がつく通天閣に三吉の闘志がまた燃えた。その通天閣だ。

東京タワーは昭和34年の完工だ。戦後日本の高度成長のシンボルだ。その姿は、安定的で優美だ。大地には長いドレスの裾のように接していて、実に女性的だ。私の兄(長兄)が中学の修学旅行で土産に買ってきてくれた、東京タワーの高さ10センチほどのプラスチィックの模型は、長く私の机の上にあった。美しいと思った。長兄は15歳で中学3年生、次兄が13歳、私が11歳のときだとすると1960年、昭和35年のことになる。

今度の東京スカイツリーは近未来を思わせる風貌だ。東京タワーが女性的ならば、方(かた)やスカイツリーは攻撃的で男性的だ。基礎は、地中の何処までも深く刺さっているようで、高さは何処までも宇宙に向かって背伸びしている。デザインを監修した彫刻家の澄川喜一さんは、スカイツリーのイメージを「貴婦人の立ち姿」と仰っているが、私はどうしても、男性の精と種のイメージを受ける。

 

 

20120523

朝日朝刊

天声人語

幸田露伴の「五重塔」は、名人気質の頑固な大工が五重塔を独力で建てる物語。心魂を傾けた塔は落成式を前に大暴風雨に見舞われるが、嵐が去ると「一寸一分(いちぶ)歪みもせず」に見事に立っていた。工事中に東日本大震災に耐えた東京スカイツリーと、どこか重なり合う。

地震の1週間後には高さが634メートルに届いた。日本中が騒然、暗然となるなかで、、ともしびのような話題だった。聞けば耐震性を高める設計は、伝統建築の五重塔の知恵を生かしているのだという。

「心柱(しんばしら)」と呼ばれる柱が、五重塔の中心を貫いている。似た構造をツリーも持つ。地震だけでなく、瞬間風速が毎秒110メートルという超暴風も想定しているそうだ。ツリーの地元で長く暮らした露伴翁は天上でご満悦なことだろう。

着工から完成へ、淡々かつ黙々と空へ伸びていった。爪の垢を煎じて政治家に飲ませたくなるようなプロの仕事師ぶりだ。基礎工事をはじめ照明や塗装、アンテナなどまで、総身が日本の最新技術の結晶という、ものづくりの底力を思うと、じんとくる。

設計に際しては「威圧感を持たせないようにした」そうだ。巨大建築は往々に国威や権勢を誇り、象徴する。それをすらりと脱ぎ捨てた「雅(みやび)」と「粋(いき)」は江戸の下町によく似合う。

きのうの開業初日。前の日の天体ショーに晴れ間を譲ったのか、東京は雨になった。だが樹下から仰ぐと、、上半分を雲が流れてなかなか幻想的だった。雨のち晴れの日本の明日を、ツリーとともに歩みたい。

2012年5月15日火曜日

金権球団、読売ジャイアンツ

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巨人軍は常に紳士たれ。これは、巨人軍の創設者の故・正力松太郎の遺訓だ。

「報道」は、社会的に大きな力を持っており、「立法」、「行政」、「司法」の3つの権力に加えて、第四の権力と呼ばれる。

今回の話題は、読売ジャイアンツ(以下、巨人軍と表記する)のことを朝日新聞が報じたことから始まる。今回ばかりは看過するわけにはいかない。何故なら、巨人軍の親会社が、報道に携わる読売新聞社だからだ。朝日新聞社だって、力が入る。

今回の件で、読売新聞社の第四の権力=報道の有態(ありてい)も問われている。

読売新聞社は逃げたり、避けたり、誤魔化さないで、堂々と報道機関として、白黒をつけて欲しい。日本を代表する報道機関2社のやりとりを見極めたいと楽しみにしていたら、読売新聞社は朝日新聞社宛に、こちょこちょ質問状を送るだけで、報道機関としての「論説」がない。

第四の権力の一翼を担う読売新聞社は、親会社として子会社・球団の実態を、内輪の取材で、どこまで深耕した記事を書けるだろうか、お手並み拝見だ。

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事の始まりは、新聞からだった。

以下は、20120315、16両日の朝日新聞の記事(細字の部分)を使って、文章を綴った。

朝日新聞は、15日の1面で「巨人、6選手に高額契約金」、「球界申し合わせ超過」、「07~04年、計27億円分」、社会面では「巨人破格の契約金」「複数年に分け支払い」「上原・二岡両選手の覚書判明」「球団に聞いて、何もありません 6選手」「逆指名で競争激化背景」の見出しだ。

巨人軍は、球界が申し合わせた契約金の最高標準額(1億円と出来高払い5千万円)を超える契約を6選手と結んでいたことが明らかになった。

契約金は此の通りだ。阿部慎之助 10億円/野間口貴彦 7億円/高橋由伸 6億5千万円/上原浩冶 5億+功労金1億2千万円/二岡智宏 6億+功労金7千万円+別の出来高3千万円/内海哲也 2億5千万円。巨人軍にとって、これらの契約金額が、「目安」だったのだろうか。この目安は余りにも、破格の金額だ。一度も、プロの世界で打席やマウンドに立ったこともないない選手をよくも、ここまで値踏みしたものだ。

かって、西武や横浜が、選手に最高標準額を超える契約金を支払っていたことが、2007年に明らかになったとき、読売新聞社は、子会社の巨人軍のことに触れることなく、他球団を「ルールを逸脱する行為」と報じていた。厚かましい限りだ。

巨人側は「標準額は2007年までは上限ではなく、超えても構わないというのがプロ野球全体の理解。ルール違反ではない、とコメントして平気の平左衛門。ところが、04年にドラフトで横浜が日大から自由獲得枠で獲得した那須野投手に5億3千万を支払ったことが発覚した。球団にはNPBから厳重注意処分が出され、球団内部の処分として、当時の社長や専務の降格が決まった。那須野は野球フアンの批判を浴び、実力を発揮できず、球界を去った。

07年前だって、この那須野投手はこのように批判を浴びたのだから、巨人軍の6選手も同じように非難されるべきだ。だが、彼らは口を閉じたまま。巨人軍も然りだ。

 

翌日の16日の1面で「巨人、入団前に現金」、「04年野間口選手へ200万円」、社会面では「巨人苦しい言い訳」「識者 隠蔽体質指摘も」「二岡選手在学時 大学監督に謝礼約束か 巨人、委託料2000万円」「巨人=金銭支出ない」の見出し。

両日とも1面の頭で、社会面では一番大きく取り上げた。余程のことだ。私の興味はますます盛り上がった。

04年には、巨人、阪神、横浜から明治大の一場靖弘投手への金銭授受が発覚して、3球団の社長は責任をとって辞任した。

07年には、それ以前に西武がアマチュア選手に金品を供与していることが発覚し、社会問題になった。球団創設以来170人に金銭を供与したと発表したが、その氏名は公表されず、うみを出し切ることはできなかった。この不正をきっかけに希望入団枠はなくなった。

04年、巨人軍は野間口選手にアマ時代から金銭を渡していたことを認めた。一昨年(10年)は沢村選手の1本釣りに成功し、昨年(11年)も菅野投手の単独指名を確信していた。巨人の囲い込みが顕著だ。巨人軍の社長が、此の件について記者から説明を求められ、小遣い感覚で渡していた、というようなことを述べていた。狂っている、この球団は、断じて狂っている。栄養費だと言っていた球団もあった。

 

●契約金最高標準額とは=新人選手の契約金についてのプロ12球団の申し合わせ事項。社会人と大学の選手が入団する球団を選べる「逆指名制度」が始まった1993年秋のドラフト会議で「1億円」とされ、翌94年からは「5千万円までの出来高払い」も加えられた。野球協約では触れられておらず、超過に対する罰則はない。

ただ、07年に西武で最高標準額を超える契約が発覚した際、当時の根来泰周コミッショナー代行は「申し合わせに反するとして制裁を科すことは適当ではないが、野球協約第194条にいう「野球を不朽の国技とし、利益ある産業する目的」に抵触する疑いがあるというべきで、厳重に注意する」との通知を出した。

逆指名制度は01年から自由獲得枠、05年から希望入団枠と名称を変え97年に廃止されたが、申し合わせは今も変わっていない。

●プロ球団による学生や社会人への金品供与=日本学生野球憲章は、高校生や大学生の野球部員がプロ側から「栄養費」などの名目で金品を受け取ることを禁止している。

社会人野球では明文化されていないが、日本野球連盟によると、これらの行為は「基本理念と活動指針」の「社会人としてのコンプライアンスを順守する」との定めに反するとして処分を出してきた。

2007年には、西武ライオンズが東京ガスの選手に金銭を供与していたことが発覚し、連盟はこの選手を1年間の謹慎処分にした。また、東京ガスが連盟への報告を怠ったのは、寄付行為の「連盟の名誉を傷つける行為」にあたるとして、約2ヶ月間の公式戦出場禁止の処分となった。

 

朝日新聞社としては、ちょっとこの手の内容にしては、当初、取り扱いが大げさ過ぎないかと思ったが、かねがね、姑息な手段を使う球団のこと、事の推移を楽しみにしていた。スポーツマンを小馬鹿に、野球ファンを何度も失望させてきた球団だ。

巨人軍のヤバイ部分を朝日新聞が取り上げたことに、我が意を得たりの感ありだ。巨人軍の闇の行為が露見したからといって、取り立てて奇異に感じなくなったのは、ちょっと悲しい。

この際、言いたいことを言わせて貰おう。

巨人軍がやったことには、コミッショナーは一向に動こうとしない。

今は、上限金額を定め、超えたらコミッショナーの制裁対象になっている。2007年の西武の裏金と横浜ベイスターズが04年に那須野選手と5億3千万円の契約をしたことが明らかになったとき、元コミッショナーは日本プロ野球協約194条に抵触すると言って、厳重に注意した。今回の件も、明らかになったら、当然厳重処分の対象になるのではないか。現コミッショナーは、この朝日新聞が報じた内容の真否を調査して、その是非をはっきりコメントすべきだ。ところが、今のところ、何の行動も起こそうとはしていない。

根木泰周・元コミッショナーは、巨人贔屓で、巨人に物申せない仁だったけれど、現・加藤良三コミッショナーは、どうなんですか?良識あるお人なのですか、それとも最早、巨人に接待漬けされて思考能力不全になってしまった?それはそれで納得しますよ、よくあることですから。

それでは、日本プロ野球協約の第194条とは=コミッショナーは野球を不朽の国技とし、利益ある産業とする目的を阻害するすべての行為については、この協約に明文上の定めがない場合であっても、これを制裁し、あるいは適当な強制措置をとることができる。

そして後日、巨人軍が朝日新聞社に送付した質問状に対して、朝日新聞社は巨人軍に、「当該記事は、プロ野球界が新人契約金の高騰を避ける目的で最高標準額を申し合わせたにもかかわらず、貴球団と新人選手の間において、この額を大幅に上回る高額の契約が複数あったことを報じたものです」と伝えた、と朝日新聞20120320にあった。

この新聞記事のままの朝日新聞社からの返答に対して、読売新聞社と巨人軍は、きちんとコメントすべきだ。

そして、25日には、社会面で「巨人に国税が見直し指導」、「04年 出来高払いも契約金」の見出し。新人契約金の最高標準額を超えた額を、各年の出来高払いとして費用計上していたが、国税側は、新人契約金の一部として費用計上するように指導した、との記事が掲載された。

繰り返す、日本を代表する読売新聞社には「第四権力の報道」としての「論説」を、コミッショナーにも見解を求める。

竜巻が大暴れ

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20120513の日経新聞より

 

1996年にアメリカで公開された映画「ツイスター」を思い出した。

今から、15、6年前のことだ、友人に連れられて観た。あの友人は今、何処で、何をしているだろうか。確か、竜巻の予報システムを作るために、観測機のようなものを、竜巻の渦直下に忍び込ませようとする竜巻研究家夫婦らが奮闘する物語だ。映画には、男女の好きだ嫌いだ、滑った転んだは、当然配合されていたが、全体のストーリーは単純なものだった。

スクリーンの映像は、音響とともに迫力満点だった。心臓にガンガン響いた。怖かった。今でも、その時の衝撃は蘇る。さすがアメリカだ、アメリカの竜巻は凄いなあ、と感心していた。アメリカは、何でもかんでも、このように大げさに、面白、可笑しく表現して、飯のタネにしてしまう、凄い国やなあ、とその程度にしか考えていなかった。

ところで、ツイスターって、ツイストを踊る奴のこと? と友人に尋ねても答えてくれなかった。踊るツイストは、片足を軸にリズムに合わせて腰をひねる。軸でない方の片足の膝を曲げて宙に浮かした。昭和の30年代のことだ。踊る様子が、竜巻に似ていたので、勝手にこのように思い込んでいたが、それでよかったのだろうか。軸足が竜の尻尾か、長い舌のようであった。

野茂英雄投手のトルネード投法のトルネードはそのまま、竜巻か?

難儀なことに、最近、日本でも大きな竜巻に襲われることが多くなった。映画の舞台になった、アメリカの大平原で発生するものだと思いこんでいたが、こんな奴まで日本のアメリカ化だ!!

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竜巻で屋根が吹き飛ばされた住宅。近隣でも、被害の軽い家屋もある=7日8時51分、茨城県つくば市北条、山本裕之撮影  20120508 朝日朝刊

 

20120507、茨城県つくば市と栃木県真岡市で竜巻が起こった。国際的な尺度(6段階)はつくば市がF2、真岡市がF1だ。スケールはF1、F2だったが、被害は甚大だ。過去に日本で観測された最大クラスは、2006年11月に北海道佐呂間町で9人が死亡した竜巻がF3だった。F1は風速33~49メートル、F2は風速50~69メートルだ。Fはシカゴ大学名誉教授・藤田哲也のFで、藤田スケールと言われている。

被害範囲は茨城県のつくば市と常総市をまたがる幅約500メートル、長さ約15キロと、栃木県の真岡市から益子、茂木両町にかけて、幅250~300メートル、長さは約18キロ。移動速度は、車並みの時速50~60キロと早く、広範囲に短時間で被害を出したことになる。

それにしても、予想・予測が立てられ難いと聞いているが、早く、こいつも予報してもらえるように、お願いしたいもんだ。

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土台ごと吹き飛ばされてひっくり返った住宅(手前)。この下敷きになって鈴木佳介さんは亡くなった。奥の雇用促進住宅は5階部分まで壊された=7日午前7時58分、本社ヘリーから金川雄策撮影

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朝日・天声人語

雨音の変調に振り向くと、ベランダで雹(ひょう)が踊っていた。白い粒の吹きだまりをすくい、はるか上空の寒気を想像する。しかし両手に山盛りの氷は、猛威の端で起きた異変にすぎなかった。

大型連休の最終日、関東地方を異常気象が見舞った。茨城県つくば市や栃木県真岡市で竜巻が発生、1人が亡くなり、50人超が重軽傷を負った。建物の損壊は計1500棟を超す。最大級の竜巻被害である。

関東ではその時、湿気を含んだ南の暖気が低空に流れ込んでいた。上空との温度差は上昇気流を生み、巨大な積乱雲となる。その底から雹が降り、雷はとどろき、竜巻が起こる。神出鬼没の巨竜は悪意を宿したように、家財を巻き上げ、駆け抜けた。

世界的には米国の真ん中あたり、オクラホマ、カンザス、ミズーリ州などが「竜巻銀座」として知られる。逃げ込むための地下室を備えた住宅も多いそうだ。だが面積あたりの発生数では、関東平野も大して違わないらしい。

800年前に書かれた「方丈記」に春の京を襲った「辻風」に記録が残る。〈三四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大きなるも小さきも一つとして破れざるはなし〉。地震や津波と同様、竜巻は昔から人の都合にお構いなく暴れてきた。文明が巡り合わせ、被害が刻まれる。

連休中、中高年登山者の悲劇も相次いだ。季節が移ろうこの時期、天の気まぐれに山も里もない。ひとたび牙をむいた自然の前で、悔しいけれど、人は飛べず泳げずの、弱き生き物に返る。