2012年5月29日火曜日

私の、イーハトーブ

私は、横浜・今井町にささやかな果樹園を持っている。その名をイーハトーブと名付けた。種々の果樹が十数本植えてある。樹木はまだ低木なので、その空き地を利用して、野菜を育てている。毎週水曜日に、30分から1時間、土と戯れ、虫を追いかけ、野菜を撫ぜ、樹木の花や葉、枝、幹を眺める。作業らしい作業はしなくても、そこにいるだけで、楽しいのだ。ゴロ~ンと寝っ転がれる草のベッドを作りたと思っている。

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教壇に立つ宮沢賢治。20120523の朝日新聞より拝借。

 

できるものならば、宮沢賢治氏本人から名付けて頂きたかったが、彼が亡くなったのは昭和8年、私が生まれたのは昭和23年、本を介しての師に無断に我が果樹園を「イーハトーブの果樹園」と決めた。10年ほど前のことだ。名前だけ使わせてもらう失礼は、十分に理解している。

それから、私は自分の果樹園のことを、事あるごとに、イーハトーブと呼ぶもんだから、他人(ひと)はその名前の由来を聞きたがる弊社の社員は、イーハトーブの名前だけなら、誰でも知っている。

理想郷だよ、理想郷。

そこでは、動物と人間が、植物とだって言葉を交わすことができるんだ、時には、星たちだって加わってくる。時空を超えた旅をすることもできるんだ、と話してきた。会社のスタッフには、みんなで観劇した東京アンサンブルの「銀河鉄道の夜」の「見つけるんだ、お母さんの愛の愛を」を、これ、これ、これなんだよ。

20120523の朝日新聞に、広告特集のなかで、今回公開される宮沢賢治原作の映画『希望の宿る場所イーハトーブ 「グスコーブドリの伝記」』の欄が目に入った。

そこの広告の中の文章をマイファイルさせてもらう。これは広告の文章だが、映画製作の意図は、東日本大震災で大きな被害を受けた東北の地に住む人々への想いが込められているのだろう。

宮沢賢治の世界を理解するにはいい文章だと思った。

 

以下は映画広告のコピーだ。

宮沢賢治が「イーハトーブ」と呼んだ理想郷

故郷・岩手の自然をモデルにしたといわれるが、

それは、必ずしも、「場所」を指すだけではないだろう。

一人ひとりが大切にしている夢や憧れ、立ち返る場所、目指したい生き方など、

さまざまな形をとりながらそれぞれの胸に秘められているのではないだろうか。

どんな状況でも支えがあればきっと人は前を向いていける。

だから今、あらためて思いをはせたい。それぞれの心に宿る希望という光に。

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「グスコーブドリの伝記」も、イーハトーブが舞台の作品だ。物語は、村が冷害に見舞われるところから始まる。食料がなくなり家族と生き別れた少年ブドリは学問を修め、やがて火山局の技師として自然災害からもイーハトーブを守る方法を見出していく。

亡くなる前年に発表されたこの作品には、賢治の理想の生き方が描かれている。農民に近い存在であり続けようとした彼の生き方は、不作に苦しむ農民のために自分に何ができるかを模索し続けたブドリと重なるところが多い。 

おそらく賢治にとってイーハトーブは、幻想の産物ではなかったのだろう。賢治はイーハトーブを、心象(しんしょう)中に”実在した”ドリームランドと記した。それは、幼い頃から親しんだ原風景であり、無限の広がりをもつ創作の原点だった。

人は何のために生きているのか。賢治は幼い頃からそう自問していたという。