20120510、11、12の3日間。
東日本大震災による被災地を巡ってきた。ちょっとでも、寄り添って生きたい、そんな気持ちからだ。
1ヶ月ほど前のこと、何気なく、学生時代の友人の金ちゃんに、東北の地震と津波、それに東電福島原発の被災地が気になってしょうがないんだ、できたら、この目で見届けたい、と話すと彼の反応は素早かった。そうなんや、俺も、前からそう思ってたんや、ときたモンダ。
そして、二人の珍道中は始まった。
20120510 08:08 金ちゃんを新幹線の新横浜駅に迎えた。彼は、その朝、大阪の寝屋川の自宅を早朝5時過ぎに出た。そして、この時間に着いた。
京都から横浜まで2時間ちょいやった。リニアモーターとかで走る奴、「リニア中央エキスプレス」? そんなものホンマに必要か? 地下深く掘ってまで必要ないと思うけどなあ。これ以上早くなくても構ひんで。
彼とは大学時代、4年間寝食を共にしたサッカー部の同輩だ。彼は、入部と同時にレギュラーとして試合に使われた。私は、4年生になって、やっと、半分はレギュラーで使ってもらった。
首都高速、東北自動車道を北に向かってまっしぐら、距離を稼ぐことにした。東北自動車道の安代JCから三戸自動車道に入って、八戸ICを16:30に下りた。走行距離は、新横浜駅から732キロ。走行距離100キロごとに、運転を交代した。
地図を見て、どうしても「戸」の文字が目立って、これって、何じゃろう? 戻って調べた。私の仕事柄、戸という字を見ると、まず扉としての戸が頭に浮かび、日常的には戸建住宅などとして、戸を使っている。
諸説が幾つもあるようだ。数字と戸をくっ付けた地名なので、八戸とか九戸からは、自動的に八軒とか九軒を連想するのだが、どうもここでは、戸と軒とは違って、戸は数戸の集まりで行政上の一単位のようだ。
また、戸は牧場の意味があって、昔の牧場制度の名残りという説がある。この場合は、八とか九は数ではなく在所の位置を表して、留(とど)める、泊める、などの意味合いで使用されていた。遠野だって、「十(とう)のへ」と言われていたそうな。
楽天ホテル予約センターに電話を入れて、JR八戸駅近くのビジネスホテルに泊まるこにした。雨が降りだした。予約だけ済ませて、近くの居酒屋に電撃突入した。営業は17:30からだが、私たちの顔色を見て、その真剣さに気負わされたのか。どうぞ、と歓迎してくれた。開店営業時間の30分前だった。
イの一番に、前々から食いたかったホヤをオーダーした。形が異様で興味を持っていた。古くから食用にされていたというが、最初に口にした奴は勇気がいっただろう。現在では、宮城産が4分の3を占めている。ビール一口、口にしてから箸で抓んだが、舌の上には、美味いなあという感覚は残らなかった。魚を材料にしたメニューを看板にしているのに、焼き鳥もあって、そんなに目新しいメニューはなかった。
ホヤ
沢山飲んで、チェックイン。部屋に入って風呂に入って、私は即、熟睡だった。金ちゃんは、私の鼾が強烈だったとか、なんとか言っていたが、君だって、早朝、それはそれは大層な鼾だったんだぞ。
翌、早朝、八戸駅に目覚めて直ぐに行ってみた。JR東日本の東北新幹線と八戸線、青い森鉄道の接続駅だ。前日、雨の中の駅舎が新しく、余りに近代的だったので気になっていた。まだ昨夜の酒が頭の隅っこに残っていて、火照る体を、街中の冷風にさらしたかった。
なるほど、駅舎全体とその周辺は、少し前に建てられたのだろう、ピカピカだった。まだ朝が早過ぎる、乗降者はいない。新聞配送の人が、売店前に包みをごそっと置いて廻っていた。
イカの水揚げが日本一、の看板があった。
宿泊に朝食付、1名 3300円。飯を食って、直ぐにホテルを後にした。海岸沿いをどれだけ走れるか解らない。気は急く。国道45線を走れば、海岸沿いの被害状況が見えるだろうと予想したが、地図では海岸近くでも、実際には、海岸線から2~3キロ離れて走ることになった。田園の中、田、畑、野山の中を走り続けた。民家や小さな店舗がある。久慈まで1時間半はかかった。
この程度のスピードで南下していては、大変なことになりそうだ、との判断から国道45号線を外れて、内陸部の信号の少ない道を進むことにした。久慈から宮古まで、海岸線では被害をうけた三陸鉄道が走っている筈だ、と会話しながら、被害の様子を想像した。
宮古から国道340号線で遠野、それから仙人峠道路から釜石街道で釜石。この道路沿いに釜石線(花巻と釜石を結ぶ)が走っていた。軽便鉄道か? 花巻と聞いて、ゾキッとした。私が心酔しきっている宮沢賢治がどうしても、ガツ~ンとくるんだ。
できたら、花巻農学校があった辺りで、数日間、そこの空気を吸って過ごしたい。イギリス海岸? 生家跡、やぶ屋、しん橋辺りを彷徨(さまよ)ってみたい。再び訪ねる機会があったら、その時こそ、宮沢賢治に触れたい。
金が、山岡、昔、鉄鉱石や石炭を積んで運んでいたんやろうな、と話しかけてくる。岩手の産物と言えば、金と馬、それに釜石は日本最大の鉄鉱石の産地だ。港からも荷揚げされたのだろう。それよりも、私は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」に想いを馳せていた。私は、毎年クリスマスが近づくと、ケンタウルスの夜に、ジョバンニとカンパネルラらと一緒に銀河鉄道に乗るのだ。東京演劇アンサンブルの俳優さんたちと、賢治の「愛の愛」を見つける旅に出る。そんなことを、ハンドルを握りながら考えていた。今年も、ブレヒトの芝居小屋に足を運ぶことになるだろう。
釜石に着いた。私には、新日鉄釜石のラグビーチームで馴染みだ。1858年、わが国最初の洋式高炉が稼働。安定した銑鉄生産に成功した盛岡藩士大島高任(おおしまたかとう)を、日本近代製鉄の父と呼ばれる。敷地内にある火力発電所は昨年7月に稼働を再開、地元の産業や暮らしを支えている。
港に着いて、ここで初めて、今回の津波による被害を目(ま)のあたりに見た。海岸の防波堤から100メートル傍にある釜石警察署と自動車免許センターの2つの建物が、悲惨な状態で残っていた。二つの建物は築後10年ぐらいの新しい建物だった。5階ぐらいまでが、建物の中がすっかり抜けている。
普通の場合ならば、危険な建物として、人間が近づかないように柵をしたり、シートを張るものだが、何の手立てもしていない。周囲は瓦礫やゴミだけは除いただけで、残ったのはただの広場だけ。手立てをするだけの人手と物資が足りないのだろう。
初めて、被害を前に呆然(ボケット)としてしまった。なんじゃなんじゃ、やっぱりテレビの画面で見たのが、本当だったのだ。白昼夢ではなかった。やっと実感したというのが、本音だ。
大船渡に寄らず、山越えをして陸前高田に入った。
その陸前高田に入る前に、空腹に追われて食堂を探したがなかなか見つからなかった。仮設住宅があっちこっちにあって、人の姿が見えた。流石に、カメラを向けることができなかった。
やっとのことで、峠の辺りの仮店舗のラーメン屋さんに入った。四国?という屋号の中華料理屋さんだった。ただのラーメン屋ではない、本格的な中華料理店だった。金ちゃんが、厨房を覗いたら、主人と思われる70歳代のオヤジさんが取り仕切っていたそうだ。
聞いてみたら、ずうっと陸前高田の海の傍でお店をやってきたが、今回の津波で店はなくなりました。それで、ここで、やっているんですよ、奥さんらしきご婦人は屈託なく笑って答えてくれた。ここまで、これまで大変だったのだろうなあ、と思う。幾ら思いを巡らしても、その心労を理解できない。
爪に火を灯して暮らしている私なのに、勇気を奮って、ちょっと高額のメニューをオーダーした。いつも食わないものを頼んで美味しくいただいた。けれど、食い終わって何を食ったか記憶にない。よくあることだが、今回もそうだった。
ところで、リアス式海岸の呼称は、スペイン北西部のガルシア地方には多くの入江があって、スペイン語で入江を意味するリアからきているようだ。谷が沈降してできた入江のことを溺れ谷(おぼれだに)と言われているそうだ。不吉な呼び名だ。
陸前高田の被災地に入った。
言葉少なくなってしまった、金ちゃん
驚くなかれ、広大な土地に建物は何もない。
たった2、3棟の藻抜けの空の建物だけが、卒塔婆(そとば)のように建っていた。あっちこっちから線香のにおいがした。花束が添えられている。亡くなった人を偲んでのことだろう。しばらく、この場に佇んでいると、心臓がきゅうっと締め付けられ、息苦しくなって、寒気がして気分が重い。亡くなった人たちの無念の思いが淀んでいるのだろう。空気もどんよりと重い。どちらかともなく、早く、ここを移動しよう、と目で合図し合った。
おい、山岡、せめて手を合わせておこうや。二人は、花束を置いてあるところで、手を合わせた。どうぞ、黄泉(よみ)の国では、安らかにしてください
横浜の人には、この被害のイメージし易い例がある。現在の横浜のみなと・みらい地区がかって、三菱重工業の工場の敷地だった。その工場の建屋が解体され、人の目にさらけだされたとき、広大な空き地を見てみんなは驚いた。陸前高田のこのエリアも、工場や店舗、住宅がひしめき合って大きな市街を形成、その街で幾万人が働いて生活をしていた、その成熟していた市街地が、三菱重工業の跡地のように、すっかり空き地になってしまったのだ。やはり、これは現実だった。
海岸線から500メートル内陸に入った所で、体育館が骨組みだけになっていた。引き水で、車が流されてきたのだろう、体育館の観客席にボコボコニなった車が横たわっていた。
1棟の家を解体したら、どれだけの量の廃材がでるかぐらいは、日常の仕事の経験から、大体は理解できる。だが、これだけの市街地から出る廃材がどれだけの量になるかは、到底、推量はできない。
車の破損が凄まじかった。石が上流から下流に流される過程で、角がとれて真ん丸い石ころになる。鉄屑として集められていた車はどれも、角がとれて、不揃いな団子のようになっていた。
そして、角がとれた車から発想は人間の体に及んだところで、暗澹とした気分になった。未だに、行方不明者は4、5千人居る。震災当時、この人たちの体はきっと、千切れ千切れになってしまったのだろう。まともな個体でなければ、見つけようがない。波にさらわれてしまった人たちも多かった。海に運ばれても、体の態をなしていないものだから、浮かびようがなかった。
シートに包まれた瓦礫の山が幾つも連なっていた
早速に、残った建物を修理して操業をはじめている水産会社があった。修理中の工場もあった。だが、住宅は当分、この地に建てることはないだろう。
何もない原っぱの真ん中で、ぽつんと1軒、寿司屋さんが新築してお店を営業していた。
国道45号線を走った。海岸に面した小さな入江も、ことごとく被害に遭っていた。そんな被害地を眺めながら、気仙沼に入った。
津波は市街地を越え、山に迫った。その津波の迫ったところまでは、松などの樹木が全て枯れていた。塩害だ。畑も、田も、塩を除去するには、土壌改良とか、何をどの様にするのだろうか。元の耕作地に戻るのはいつの日か。塩害に強い作物の栽培や、塩を吸収する植物を植えるとか、万策を講じているようだ。
車で、三陸海岸沿いの山間部を走って、ときどき、海の見渡せる場所にくると、この海岸線が見事に漁業にふさわしい地形だということに気付かされる。魚や貝などの養殖には、もってこいだ。それに静かな漁港。
三陸沖は世界三大漁場の一つと言われている。世界的にも優良な漁場なんだ。その漁場での沿岸漁業と沖合い漁業、それに遠くに漁を求める遠洋漁業、この地域が重要な役割を果たしていることは、残された周辺の各種水産業の工場を見ても想像がつく。関連して、造船業も盛んなようだ。
私のような生半可な男に安易に言われたら堪ったもんではないだろうが、漁業の町だと思った。この感慨を、この気仙沼に入ってより強くした。
港から300メートルほど陸に入った所で、船長50~60メートルの漁船が、置いてきぼりにされていた。陸に打ち上げられた船は間抜け面(づら)、海に戻りたいのに身動きとれず、情けなくしょんぼり。目があれば涙を流したい。口があれば悲鳴をあげたい。船体は、塩を振りかけられたナメクジのように、萎えていた。
私たちには、移動する距離に比べて時間が少ない。
大きく南下するために気仙沼から気仙沼街道を使って東北自動車道の一関ICに入って、富谷JCから仙台北部道路で仙台中央ICで下りた。松島が近いことを知って、松島に向かった。
白砂青松。日本三景の一つが松島だ。
もう二つは天(の)橋立と安芸の宮島だ。修学旅行なのか、高校生が目に付いた。私と金ちゃんは、女高生に写真のシャッターを押してあげるサカイに、オイラも撮ってよ、と若者口調でお願いした。
写真を撮った場所は、岸壁なのに被害らしきものが見当たらない。
聞いてみたら、松島名物の島々が津波の勢いを吸収、陸地ではさほど被害を受けなかったのです、とホテルの受付のお嬢さん。金ちゃんとこのように記念写真を撮るのは、今年の正月の信貴山詣以来だ。
暗くなってきたので、仙台に向かって加速。国道45号線を走っていたら、かって私が保有していた宮城野区のアパート周辺の馴染みの風景に出くわした。そんなこともあったなあ、と、アパートを失ってからさほど日は経っていないのに、遠い昔のように感じるのは何故か。
東北第一の都会だけあって、夕方の道路は混んでいた。
宿泊を考えていた仙台に着いた。
八戸から550キロだった。今夜の泊まりは、悪名高い東横インだ。仙台駅近くにこの東横インが3棟あって、ビジネスや観光などの宿泊客は多いようだ。料金は手ごろだった。
今夜は、どこにでもある居酒屋で、一杯。ここでひと悶着。金さんがビール用のガラスのコップの汚れに抗議した。いちゃもんでは、決して御座いません。替わりに持ってきたコップが、これまた汚れていて、金ちゃんの不機嫌沸騰、鶏冠(とさか)にきた。
福島の南相馬にも行きたいと思っていたが、時間に追われていたこともあるが、さすがにここまで、被災地の現状を目の当たりにすると、これ以上、被災地に足を入れることができなくなってしまった。体は何でもないが、頭が疲れたのだ。ここに至って、二人とも意気消沈してしまった。
東北に行ってアパートを留守にしていた間に、訪問を断念した南相馬のある一家の写真が20120512の朝日新聞に載っていた。
20120512 朝日新聞より。
やっとここへ
東日本大震災から1年2ヶ月の11日、被災した各地で花を手向ける人々がいた。福島県南相馬市小高区は先月16日に警戒区域が解除されたため、被災地を訪れることができる初めての月命日となった。市内在住の中島健二さん(48)は母・久子さんを津波で亡くした。遺体が見つかったとおもわれる場所で、「ようやく来ることができました」と、夫婦で手を合わせていた。(金子淳撮影)
12日の要件は、金ちゃんと私の共通の友人、西に会うことだった。西の住まいは福島・いわき市だ。
仙台から東北自動車道に入って、郡山JCから磐越自動車道でいわき中央ICで下りた。11:00だ。市役所や音楽ホール、ハローワークなどのある所に車を止めて、私は芝生で寝っ転がった。金ちゃんは、金策に出かけた。何かの主催による縁日で、出店が並んでいた。喧騒にお構いなく、芝生に寝っ転がって目を瞑った。
11:30、金ちゃんに起こされ、引っぱり出された西は、眠たそうな顔をしてやってきた。夜勤上がりだ。さっそく、行きつけの寿司屋に行った。この寿司屋の主人は、西のゴルフの師匠さん。昼飯には、ここで、いつも変わらずに、何とか丼を食っているらしい。西がかってスイミングクラブで働いていたときからの付き合いのようだ。
金ちゃんと私は、寿司屋の主人と奥さんに、日頃、西がえらくお世話になっていることに深謝していること、そして、これからもよろしくお願いします、と恭(うやうや)しく丁重に挨拶した。西は挨拶する二人を怪訝な顔で見ていた。が、そりゃそうだろうよ、こんな面白くもない奴を、よくぞ相手になってくれている、それゃ、大事(おおごと)なんだよ、西君。
西は、東電福島原発の事故が起きた初期の頃、私のアパートに2週間ほど避難していた。我がアパートにいる間は、食事のメニューが豊かだった。パチンコで勝った金を食材に回してくれたのだ。西は40余年前の大学生の時は、水球の元全日本代表選手だった。陸(おか)に上がれば何ってことないが、いざ水の中に入ると、強烈に激しいプレーヤーに変身した。優秀な選手だったが、今は見る影もない。
二人に、にぎり「上」を食わせてくれた。にぎり上を口にしたのは、私にとって四半世紀ぶりのことだ。
三人は、津波のことも原発事故のことにも触れなかった。金と私は、被害地や被害者の人々に思いを巡らせることに、もう限界にきていた。西のこの地での生活ぶりを聞いたり、店の主人が昔、奈良で生活していたことなどで、会話に華が咲いた。
西とお店の主人夫婦に挨拶して、店を後にした。14:00頃だった。別れ際にも、主人たちに暮れ暮れも、西のことをよろしくお願いします、と頭を下げた。西は横で、ニャッと笑っていた。
磐越自動車道で東京へ向かった。首都高速に入って、しばらく走っていたら、金ちゃんが、山岡、これっかっあ! 東京スカイツリーというのは、うとうとしていた私は目覚めた。こんな高い物を作って大丈夫かなあと自問自答。そう言えば、あの大震災でも、悲しく、嫌なことは何も聞かなかった。
土曜日の首都高速は空(す)いていた。被災地で見たり聞いたりしたこと、感じたことについては、二人のどちら側からも話しかけなかった。触れたくなかった。疲れていた。新横浜に着いたのは、17:00ごろだった。今日の走行距離は、570キロ。
金ちゃんに、俺の現在の生態でも確認してから帰れば、と進めたが、新妻のなおみちゃんに早く会いたいとか言って、いそいそと新幹線の乗り口に消えた。
こんな、東北の旅だった。
下の写真は、クラクラしながら撮ったものだ。撮った場所が何処なのか、整理できてない。が、写真はどれも同じように見えてしまう。