2012年5月13日日曜日

小沢、ア・ラ・カ・ル・ト

20120427の朝日新聞から、小沢氏無罪判決に関する記事を抜き取って転載させてもらった。全て新聞記事のままです。

ところが、20120510、1審東京地裁で、無罪となった小沢氏について、検察官役の指定弁護士は東京高裁に控訴した。1審判決は元秘書らによる虚偽記載を認定し、元代表との間に「報告・了承」があったことも認めた。2審では、元秘書との共謀、故意の有無が焦点になる。

●3面 

「共謀」認定 高い壁

元秘書らの政治資金収支報告書への虚偽記載について、小沢一郎・民主党元代表との共謀が認められるかが最大の焦点だった26日の東京地裁判決は、元秘書らが土地取引や4億円の処理について小沢氏に報告したことや、小沢氏の説明の不自然さを指摘しながら、共謀までは認められなかった。

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虚偽記載の認識 証明不十分

判決は、小沢氏の資金管理団体「陸山会」の土地取引をめぐり、元事務担当秘書の石川知裕衆院議員(38)と後任の池田光智元秘書(34)が、2004年分の政治資金収支報告書に小沢氏の4億円を記載せず、土地代金の支出の計上も05年分に先送りする虚偽の記載をしたーーーと明確に認めた。

仮に小沢氏と元秘書らの間に共謀が認められていれば、「共謀共同正犯」として小沢氏は有罪となった。

判決はまず、小沢氏が提供した4億円を04年分に記載せず、代金支出を05年分に先送りしたことについて「秘書が無断で行うはずがない」と述べ、「報告・了承」があったと認めた。

問題は、元秘書が小沢氏にどこまで具体的に説明していたかだった。石川議員は当初、土地の売買自体を05年に先送りするつもりだったが、実際は登記を遅らせただけで、代金は04年に支払っていた。判決は、具体的な手続きは「秘書の裁量範囲内」と考えた石川議員が、小沢氏に説明していなかった可能性を指摘した。

このため、代金支出の先送りや小沢氏が提供した4億円の不記載について、小沢氏が「適法に実現される前提で了承していた」などと考える余地が残った。元秘書らの行為が犯罪にあたるという認識が小沢氏にあったという証明が不十分なため、「共謀」は成立しないと結論づけた。

指定弁護士は、暴力団組長の警護役の拳銃所持について、組長の責任も認めるかが争われた最高裁決定(03年)を適用すれば、有罪を導けると主張した。明確な指示がなくても、上下関係がはっきりしていれば「暗黙の了解」だけで共謀共同正犯は認められるとした判例だ。

小沢氏の弁護側は「暴力団の拳銃所持事件とは全く違う」と猛反発したが、判決は「石川議員や池田元秘書が小沢氏の意向に反する事務処理 はできず、被告は元秘書らの行為を止める立場にあった」と指摘し、指定弁護士らの主張に「相応の根拠がある」と述べた。

南山大学法科大学院の丸山雅夫教授(刑法)は「小沢氏と秘書について、最高裁決定で示された支配従属関係は認めている。小沢氏に犯罪の認識があったと認定していれば、有罪にした可能性はあった」とみる。

一方で「背後に政治家の関与が疑われるような犯罪で、裁判所に共謀を認めさせるのは、相当ハードルが高い。自白がない限り、余程の客観証拠がなければ犯罪を証明するのが難しいだろう」と指摘した (久木良太 延与光貞)

 

小沢氏供述 不自然さ指摘

この事件で注目されていたのは、土地購入に充てられた小沢氏の4億円の原資だった。小沢氏側は2007年以降、「政治献金→銀行融資→個人資産」と説明を変えてきた。一方、東京地検特捜部は、公共工事受注をめぐって業者から小沢氏側に渡った裏金が含まれているとみて捜査した。

小沢氏は被告人質問で「事務所の金庫で保管していた親からの相続などの個人資産だ」と説明。この日の判決は「説明の変遷やあいまいな点を指摘しつつも、「大筋ではこの供述の信用性を否定するに足りる証拠はない」と判断した。

また、指定弁護士が「虚偽工作」と主張した4億円の銀行融資の書類に自ら署名した理由について小沢氏は公判で「石川から『サインしてくれ』と言われて署名しただけだ」と答えた。この点について判決では「4億円もの債務を負う書類に署名する者としては不自然な供述だ」と指摘。「収支報告書は一度も見ていない」「元秘書らから収支報告書の作成提出の報告を受けたことはない」などの発言も「信用できない」とした (其山史晃)

 

朝日新聞の天声人語より

政治を動かした判決といえばやはりロッキード事件だろう。1983年秋、東京地裁は田中角栄元首相に有罪を言い渡し、闇将軍が表舞台に戻る日は遠のいた。約1年後、田中派の重鎮竹下登らは、分派活動ともいえる創政会の旗揚げへと動く。

だれの時事漫画だったか、元首相が「ああせいこうせいとは言ったが、そうせいとは言っとらん」と嘆く傑作があった。田中は心痛と深酒で脳梗塞で倒れ、失意のうちに影響力をなくしていく。

さて、この判決は政治をどう動かすか。資金問題で強制起訴された小沢一郎氏の、無罪である。大まかな経理処理の方針は承知していたが、うその記載を巡る秘書との共謀までは認められないと。

小沢氏は折にふれ、「今後は一兵卒で」と殊勝な言を重ねてきた。

くびきを解かれた兵卒が見すえるのは、秋の代表選か、集団離党か新党か。消費増税の前途多難といい野田首相は頭が痛かろう。

民主党は、各自の当選を目的とした非自民の選挙互助会でもある。にわか作りの公約が破れ、政策や手法が敵方に似てくるほど、小沢流の原点回帰は説得力を増す。首相の使い捨てが続く中、「なれたのになれない」政治家の凄みも無視できまい。だが顧みるに、この人が回す政治に実りは乏しかった。

若き小沢氏は心ならずもオヤジに弓を引き、創政会に名を連ねた。以来、創っては壊しの「ミスター政局」も近々70歳。「最後のご奉公」で何をしたいのか、その本心を。蓄財術とともに聞いてみたい。

 

勝者なき無罪判決   社会部長・山本季広

小沢一郎氏に対する無罪判決は、そのまま検察に対する有罪宣告と読むべきである。検察官数十人を投入した小沢一郎氏との「全面戦争」に敗れたうえ、強引で危うい取調べの実態まで暴かれた。ロッキード事件以来の疑獄操作で培われた検察の威信は地に落ちた。

今後は検察が、事実と反する捜査報告を書いたと認めた検事の責任を追及し、取調べのありようを全庁で改めない限り、不信の声はやみそうもない。

この事件で検察が骨を断たれたとしたら小沢氏は肉を切られたと言うべきだあろう。判決は、小沢氏の政治資金の操作ぶりを最後の最後まで不審視している。政治資金規正法を軽視する小沢氏本人の姿勢に憤り、限りなく有罪に近い無罪判決を突きつけた。この裁判に勝者などいないのだ。

検察審査会に対しては、「特定の人物を狙い撃ちする暗黒裁判だ」という批判が渦巻いている。この批判は的を射ていない。審査会は、無作為に選ばれた有権者11人が証拠に即して起訴すべきかどうか話し合う場だ。誰かを狙い撃ちする私刑場にはなりようがない。

むしろ強制起訴によって明らかになった事実の重さに目を向けるべきだろう。小沢氏が国会喚問や政治倫理審査会への出席を避けたことを思い出してほしい。強制起訴がなければ、小沢氏自身が法廷で屈辱をこらえつつ、億単位の現金を自ら出し入れする日常を説明する機会はなかった。検察のきわどい取り調べも露見しなかったはずである。

日本の刑事司法はあまりに長い間、検察官と裁判官という「官」に独占されてきた。20年ほど前、検察頼みの取材に明け暮れた私の偽らざる実感である。だが官の支配する司法は深刻な制度疲労を起こした。だからこそ「民」の声が起訴に反映される仕組みが導入されたのだ。審査の場に容疑者本人か弁護士が参加できる道を開くなど、むしろ制度を強化していきたい。

この事件で一線の記者たちは、検察内部に全面戦争派と慎重派があることをつかみ、悩みつつも慎重な報道に徹した。それでも政界内外から「検察寄り」「有罪視だ」などと批判を浴びて、また悩んだ。

批判を正面から受け止めたうえで、政界や捜査当局を含むあらゆる権力機構に監視の目をいっそう光らせる。それこそが、私たちに託された課題である。

 

市民感覚に根ざした政治を  政治部長・曽我豪

20年以上、政局原稿を書いてきた。正直、「反小沢」といおう言葉も何度も使った。表の役職がなくても隠然たる力をもつ「実力者」が政局に多大な影響を与える現実を書いてきた。

だがもうそんな時代ではない。そもそも、一裁判で司法が下す無罪か有罪かの判断で、国家運営の基盤をなすべき重要法案の行方が変わったり、時の政権の力が浮き沈みしたり、つまりは立法と行政がふりまわされてしまう現実の方がおかしい。ふつうの感覚ならそうなるだろう。

だから政治の側がめざすべきは、司法と同様、「市民感覚」に根ざした「合理性」である。

新たな潮流は生まれている。国会に原発事故調ができ、事業仕分けの仕組みもできた。独自の検証が政治の信頼回復につながるとの思いからだ。

そこで大事なのは合理の行動である。判決後の与野党の政治家たちのふりまわされぶりをみる限り、不安でならない。野党が小沢氏の証人喚問を材料に消費増税審議を引き延ばしをもくろむとしたならば、そんな非合理はまさに市民感覚を逆なでするものだ。他方、野田政権が反主流派の反抗をおそれて法案審議の先送りへと流れるのならば、それもまた、非合理の極みである。

小沢氏もいままでの「実力者」でいていいはずがない。

消費増税や原発再稼動に反対して政権を追い詰めた先に何があるのか。政権交代後4人目となる民主党代表・首相をつくりたいのか、政界再編か。判決後も記者会見さえしない小沢氏である。合理的説明のつかない政局優先の行動だと思われれば、人心は離れ、それこそ政局の主導権確保など望むべくもない。

同じことは私たちの政治報道にも問われている。既成政党が大事なことを「決められない」まま解散・総選挙へと突入するのなら、非合理的で感情的な政党否定論と救世主待望論の大波が世間で起きるかもしれない。小沢氏の動向より、もはや政党政治の行方を追うべき局面である。

 

● 社説

小沢氏無罪判決  

政治的けじめ どうつける

民主党の元代表・小沢一郎被告に無罪が言い渡された。

これを受けて、小沢氏が政治の表舞台での復権をめざすのは間違いない。民主党内には待ちかねたように歓迎論が広がる。

だが、こんな動きを認めることはできない。

刑事裁判は起訴内容について、法と証拠に基づいて判断するものだ。そこで問われる責任と、政治家として追うべき責任とはおのずと違う。政治的けじめはついていない。

きのう裁かれたのは、私たちが指摘してきた「小沢問題」のほんの一部でしかない。

 

「うそ」は認定された

 

私たちは強制起訴の前から、つまり今回の刑事責任の有無にかかわらず、小沢氏に政界引退や議員辞職を求めてきた。

「数は力」の強引な政治手法や、選挙至上主義の露骨な利益誘導などが、政権交代で期待された「新しい政治」と相いれない古い体質だったことを考えればこそだった。

3人の秘書が有罪判決を受けたのに国会での説明を拒む態度も、「古い政治」そのものだ。

そして本人への判決が出たいま、その感はいよいよ深い。

判決は、小沢氏の政治団体の政治資金収支報告書の内容はうそだったと認めた。それでも無罪なのは、秘書が細かな報告をしなかった可能性があり、記載がうそであると認識していなかった疑いが残るからだという。

秘書らの裁判と同じく、虚偽記載が認められた事実は重い。しかも判決は、問題の土地取引の原資が小沢氏の資金であることを隠す方針は、本人も了承していたと認定した。

資金の動きを明らかにして、民主政治の健全な発展をめざすという、法の趣旨を踏みにじったのは明らかだ。

小沢氏は法廷で、自分の関心は天下国家であり、収支報告書を見たことはないし、見る必要もないと言い切った。

 

説明責任を果たせ

 

これに対し私たちは、政治とカネが問題になって久しいのにそんな認識でいること自体、政治家失格だと指摘した。判決も「法の精神に照らして芳しいことではない」と述べている。

まさに小沢氏の政治責任が問われている。何と答えるのか。無罪判決が出たのだからもういいだろう、では通らない。

この裁判では争点とならなかったが、、秘書らに対する判決では、小沢事務所は公共工事の談合「天の声」を発し、多額の献金や裏金を受けてきたと認定されている。

小沢氏は一度は約束した国会の政治倫理審査会に出席し、被告としてではなく、政治家として国民への説明責任を果たすべきだ。

民主党にも注文がある。

輿石東幹事長はさっそく、小沢氏の党員資格停止処分を解除する考えを示した。だが、党として急ぐべき作業は別にある。

「秘書任せ」の言い訳を許さず、報告書の内容について政治家に責任を負わせる。資金を扱う団体を一本化して、流れを見えやすくするーー。

今回の事件で改めて、政治資金規正法の抜け穴を防ぐ必要性が明らかになったのに、対策は一向に進んでいない。マニフエストに盛った企業・団体献金の廃止もたなざらしのままだ。

こうした改革を怠り、旧態依然の政治の病巣の中から噴出したのが「小沢問題」だ。これを放置する民主党の姿勢が、政治と国民との亀裂を広げていることに気づかないのか。

小沢氏の強制起訴によって、人々の視線が司法に注がれ、刑事責任の有無ですべてが決まるかのように語られてきた。

だが、判決が出たのを機に、議論を本来の舞台に戻そう。これは根の深い政治問題であり、国会で論ずべきなのだ。

それを逃れる口実に裁判が使われるようなら、検察官役の指定弁護士は、控訴にこだわる必要はないと考える。

検察審査会が決めたのは、検察官の不起訴処分で終わらせずに、法廷で黒白をつけることだった。その要請は果たされた。さらに公判で明らかになったの小沢事務所の資金管理の実態などは、今後の政治改革論議に貴重な教訓を提供してくれた。

 

検察は猛省し謝罪を

 

この裁判は、検察が抱える深刻な問題もあぶり出した。

捜査段階の供述調書の多くが不当な取り調べを理由に採用されなかったばかりか、検事が実際にはなかったやり取りを載せた捜査報告書まで作っていた。あってはならないことだ。

法務・検察は事実関係とその原因、背景の解明をいそぎ、国民に謝罪しなければならない。

「検察改革」が本物かどうか、厳しい視線が注がれている。

気になるのは、小沢氏周辺から強制起訴制度の見直しを求める声が上がっていることだ。

ひとつの事例で全体の当否論ずるのはいかにも拙速だし、政治的意図があらわな動きに賛成することはできない。