2008年2月26日火曜日

ハンドボール。五輪予選やり直し

世にも珍しいことが起こった。北京五輪のハンドボールのアジア予選が、不自然な審判が原因でやり直しをすることになって、現実にやり直しが行われた。こんな前代未聞の出来事が起こったのです。そうしたことがあって、私が尊敬するセルジオ越後さんが新聞紙上にコメントを出した。さすがにセルジオさんらしいコメントだったけれども、競技をやってきた者には、理解できただろうが、なかなか難しい内容でもあった。そして数日後、朝日新聞の社説でもこの問題に触れた。二つの記事を読んで、全体の問題点、反省点、競技の理想の姿、競技の本質が明らかにされた。

本題に入る前に、私が知っているセルジオ越後さんの素顔の一部を紹介したい。

20年程以前、私が今住んでいる保土ヶ谷・権太坂の地元自治会の要請で、子供のサッカーチームの指導をしていた時期がありました。対象は自治会内に住んでいる小学生でした。当初、自治会役員が予定していたコーチが、朝寝坊したり、突然キャンセルしたりするものだから、代わりの人間を探していたところに、私に白羽の矢がたったのです。日本サッカー協会の催事としてセルジオ越後さんのサッカー教室が相模原で行われ、子供たちを率いて参加したことがあったのです。そのときに、セルジオ越後さんは、私でさえ見たことのない足技を披露して、受講生の誰をも目を点にさせた。そして楽しい、ウイットに富んだお話をしてくれた。

これからは、セルジオ越後さんのお話です。「私が小さかった頃には、塾は勿論、テレビゲームもゲームボーイもなかったので、私には有り余る時間がありました。暇人(ヒマジン)でした。その時間をサッカーというよりは、ボールを蹴ること、フェント、ボールの止め方に工夫をこらしたのです。誰もがやったことのないやり方を思いついて、それをいつでも、どんな状態のなかでも出来るように、なんかいも何回も繰り返し練習をしました。そして、私のヒマジンは、もう天才的ヒマジンになっていたのです。天才的ヒマジンを自負していました。学校の行き帰り、お買い物の行き帰り、家の中、道路で、野原で。ボールを頭で、肩で、胸で、背中で、足の甲、裏、内と外そのどちらでもない部分で、ボールを地面に落とさないようにリフティング。そうして、大人からも先生からも、私は天才的ヒマジンと公言されるようになったのです」。

私より1年先輩の脇 裕二さんは日本サッカーリーグで藤和不動産に所属していた。藤和不動産が天皇杯で優勝したときのキャップテンを務めた。その試合をテレビで観戦していたのですが、彼の奮闘振りは凄まじいものがあった。前線に最後尾に、重要な戦機に必ず出没していた。その彼が、セルジオ越後さんのボールのキープ力を、褒めていた。アイツからは絶対ボールを奪えない。ひとたびアイツがボールをもつと、二人がかりでないとボールをとれないんじゃ。そのサッカー教室では、10人ほどの子供からも狭いミニサッカーコート内を逃げ切ってみせた。

①朝日朝刊 セルジオ越後 サッカー解説者(元プロサッカー選手)

セルジオ越後

ハンドボール 勝つために何をしてきたのか

「中東の笛」で五輪アジア予選がやり直しになり、、日本で無名なスポーツだったハンドボールが思わぬ形で脚光を浴びた。クウェートの王族がアジアハンドボール連盟を牛耳っていると言われるが、もともとスポーツは、「権力」と切り離せない関係にある。バレーボールの五輪出場権をかけた大会が、日本という固定された国で開催されるのも、興行的な力がそうさせており、これも、一種の「権力」と言えるのかもしれない。

今回は、ジャッジ(審判)の問題なので大ごとになったが、ジャッジミスはスポーツの世界ではよくあることだ。サッカーの日韓ワールドカップで、ベシト4に進んだ韓国に有利な笛があったのは有名な話だ。

「中東の笛」は、たまたまではなく、長年の常識と言われているが、負けた側がジャッジを問題にしても、説得力がない。この間、韓国は何度も五輪に出場している。問題の本質は、「日本はなぜ勝てなかったのか」ということである。ジャッジミスがあっても負けないほどの実力をつけるべきで、そのために何をしてきたのか、ということが本来問われるべきである。

ハンドボールが無名スポーツに甘んじてきたのは、企業スポーツというアマチュアのままだったからではないだろうか。プロとアマの違いは「けじめ」にある。負ければ関係者が責任をとるのがプロの世界だ。プロ化すれば発言力もついてくる。

今回の騒ぎは、日本のハンドボールを変えていく大きなチャンスである。このエネルギーを利用し、協会が先頭に立って新たな運動を始めるべきなのに、ハンドボールをどう育てたいのか、という理念が伝わってこないのは残念だ。メディアにも責任がある。やり直しの日韓決戦をあれだけ盛り上げておこながら、その後の国内リーグの扱いはわずかだけ。ワイドショー的にハンドボールを利用した、と批判されても仕方ないだろう。

今回の事態は、日本のスポーツ文化の問題点も映しだした。私は06年夏から、アイスホッケー・アジアリーグの日光アイスバックスのシニアディレクターをしている。資金難で撤退した企業チームを受け継ぎ、プロチームとして存続させるために、スポンサー獲得などを無償で手伝っている。スポーツ記者からは「なんでアイスホッケー?」とびっくりされたが、そんなに不思議なことなのだろうか。

日本には「種目文化」の後遺症があると思う。学校での部活動は、「自由にスポーツを楽しむ」ことが許されず、一種目しかできない「貧しさ」がある。学校以外でスポーツを楽しむ機会もまだ少ない。だから、やったことのあるスポーツしか興味を持てなくなり、違う種目は敵とさえ思ってしまう。ハンドボールもアイスホッケーも、スポーツはみんな面白い。そうした当たり前のことを気づかせてくれるようなスポーツ文化を育てないといけない。

「日本は縦割り社会」と言われているが、シポーツこそ横割りにつながるべきだと思う。大企業に頼る企業スポーツでは、横へのつながりは生まれない。その役割を果たす組織として、地域でクラブを育てていくべきだ。地域がスポーツでつながり、みんなで助け合って苦労していけば、すそ野は自然と広がるだろう。

「宿題」がいっぱいあることがわかったことが、今回の一番の収穫ではないか。中東の王族の力の大きさを嘆くよりも、自分たちの努力不足をまず問い直すべきである。

②朝日朝刊 社説 ハンドボール

対話のパスで対立ほぐせ

こんな泥沼の争いはスポーツに似つかわしくない。そろそろ打開の道へとかじを切るべき時だろう。

ハンドボール界の国際連盟とアジア連盟の対立のことである。

騒ぎの発端は、「中東の笛」と呼ばれる不自然な審判だった。国際連盟は北京五輪のアジア予選をやり直した。その結果、男女とも韓国が五輪の出場権を得て、敗れた日本は世界最終予選に回ることになった。中東の国々などはやり直し予選への参加を拒んだ。

アジア選手権が17日からイランで始まる。これに対し、国際連盟は来年の世界選手権のアジア代表選考会とは認めないことを決めた。アジア連盟が大会の運営権を手放さず、審判の選定も自分たちでおこなうと譲らなかったからだ。

一連の動きで、アジア連盟のかたくなな態度は異常という他ない。だが、ここにきて微妙な変化も出ている。

やり直し予選に出場した日本と韓国に対し、アジア連盟が決めた処分は罰金千ドル(約10万8千円)と警告だけだった。資格停止などの厳罰を科す構えを見せていただけに、予想外の軽さである。追加処分もにおわせてはいるが、本気かどうかはわからない。

アジア連盟は、クウェートの王族アーマド会長が率いている。アーマド氏はこの騒ぎで、「日本は信頼できない」といい、2016年の東京への五輪招致は支持できないと発言していた。だが、これも事実上、撤回した。

国際オリンピック委員会(IOC)は国際連盟を支持している。孤立するアジア連盟は、強気の態度とは裏腹に手詰まりというのが現実の姿だろう。

ここで日本はどうすべきなのか。

処分に従う必要がないのは言うまでもない。国際連盟も早くからアジア連盟の処分は無効だとの判断を示している。

大事なのは、日本ハンドボール協会がきちんと意見を主張し、仲間を増やしながら、アジア連盟の体質を変えていくことだ。今回、韓国と手を携えてアジア予選のやり直しを実現させた経験も役に立つだろう。アジア選手権が世界選手権の予選でなくなっても進んで参加し、多くの国々と対話を重ねたい。

不思議なのは、静観している日本オリンピック委員会(JOC)の態度だ。アーマド氏はアジア・オリンピック評議会の会長を兼ねているので、ことはハンドボール界だけの話では済まない。

東京への五輪招致に真剣に取り組むというのなら、言うべきことは言ったうえで、アーマド氏を取り込むぐらいの指導力を発揮したらどうか。

日本ではあまり注目を浴びることのなかったハンドボールが、今回の騒ぎで大きな関心を集めた。テレビ中継もされたやり直し予選で、選手の俊敏な動きに引き込まれた人も多かったろう。

今こそ対立をほぐして再出発することがハンドボール界に求められている。

2008年2月23日土曜日

今の不動産事情をまとめてみた

昨年 8月。今まで聞いたことのない「サブプライム」問題が、突然天から降ってきた。なんじゃ、サブプライムちゅうのは? アメリカの、信用力の低い低所得者向きの住宅ローンのことだ、と聞かされた。信用力が低い?とか低所得者向け?って、それ差別用語じゃないのか。それが、どうした? その内容が分からないままに、あれよあれよという間に我が日本の地価が下落し始めた。神奈川県でも、9,10,11,12月と地価は5%~15%下がった。8月以前に企画した商品が、商品化されたときには、もうそのときには住宅購入層には受け入れられない価額になってしまった。我社は日常業務において、そんなことはとっくに認識していたが、不動産仲介会社のスタッフはもちろん、その会社の管理職でさえ理解していなかった。我社は新しい市場で新しい商品を作り出そうと懸命に努力したけれども、地価が下がり続けている環境下では、なかなかいい成果は出せなかった。でも、この頃は我社が活躍の場にしている地域でのことですが、地価は落ち着いたように思う。

今回の地価の変動で、社員の教育にはいい材料になったのではないかと思っている。我社の管理職以外の社員は、社歴も浅く、こんなに変動するのを初めて経験したのです。2006 12 23発売の週刊ダイヤモンドでは「地価狂乱」を特集、まだまだ地価は上がります、東京はまだまだ買える、そんな記事が満載。そして、2007 12 15発売の週刊現代では「不動産バブル崩壊で平成大恐慌」を特集した。同時期に週刊ダイヤモンドでは「ゼネコン断末魔」を特集した。たかだか、1年間にこの激変ぶりだ。

この短期間にこれ程の激変なので、建売やマンションのように企画から商品化までに時間がかかる事業 はどの会社も苦戦を強いられた。事実、マンション専業のグレイス住販、アジャックスが最近倒産した。

この4~5年、地価は二極化して、東京の全域、横浜の主要な駅に歩ける地域、とくに山手地区、湘南地区、鎌倉、葉山が上がった。その他の地域では顕著な動きはなかった。例えば、湘南地域の藤沢市鵠沼松ヶ丘は去年の春には坪単価140万円ほどしていたのが、今では110万円まで下がった。この価額なら流通する。東戸塚駅から歩いて10分以内なら、やはり坪単価140万円はしていた。が、最近では115万円位だろう。このように地価は、下げ止まりをした、と私は考えている。

アメリカがくしゃみをすれば日本は風邪をひく。

2006年まで続いたアメリカの住宅ブームは低金利に支えられていた。家計が抱える住宅ローン残高は積みあがっていたが、毎月の利払い負担はそれほど増加しなかったために住宅ブームは長期化した。しかし、2004年から2006年にかけて行われた利上げ政策の影響を受けて2007年以降一転して住宅価額の下落基調になり、住宅価額の上昇を前提にしていた借り手のローン返済が滞りだした。デトロイトでは住宅の差し押さえ率が4,9%だそうです。全米の平均は4%。デトロイトでは、ほぼ20軒に1軒は差し押さえられていることになる。超異常です。そしてこの住宅不況はアメリカ経済の全体に必ず大きな影響を及ぼすことになって、我が日本にもこれから何年も影響を与えることになるのだろう。

先日、三井関係の不動産会社の代表取締役会長の講演を聞いた。その講演者に不良債権化している住宅の債権を、アメリカなら力があるのでみんな買っちゃえばいいじゃないですか、日本がかってバブルがはじけたときに破綻した銀行を国営化したようにすればいいじゃないですか、と尋ねた。講演者は、君はいいことを聞くね、が事態はそんな簡単じゃないんだよ、と前置きしてその深刻さを説明してくれた。優良な債権は配当が低いので金融商品としては魅力がもの足りない。その配当を少しでも良くするために、サブプライムの貸付債権を証券化したものをサンドウィッチにして売り出したことにあるのですよ、と。

悪貨は良貨を駆逐するってやつですか? まあ、そういうことかな。

信用度の低い家計向き不動産担保貸付が、厳正な審査もしないでドンドン貸せば、結果どうなるかぐらい想像できた筈なのだ。そしてその貸付債権を証券化して、世界を駆け巡った。東京の某信用組合が50億とか、60億とか買っていたというではないか。でも、欧米の金融機関に比べて、日本の金融機関の不良債権はたかが知れている。それにもかかわらず、なぜ日本の金融機関が不動産融資に慎重なのか。理由は、バブル再来を恐れた金融庁が、日本の金融機関に不動産融資の自主規制を暗に要請したからである。

過去には、1990年初頭、不動産バブルを冷やすため、大蔵省は不動産業界への融資を絞る「総量規制」を実施した。これで一気にバブル崩壊の坂を転げ落ちた。

そして今、各金融機関が融資の出し渋りが始まった。どの金融機関も、不動産の評価を厳しくしたり、社有在庫の量をみながらの融資だ。

神奈川県内においては、もう既に地価の下落機運は沈静化しているように思っている。この2~3年の最高値から10%から15%を引いた金額なら、物件は売れているのです。我社は今、懸命に新しい市場での新しい商品作りを行っていることは先に書いた。売れているのです。先月も、今月も売れている。新価額でなら。そこで、我社のスタッフには今所有する物件を、できるだけ早く損をしてでも処分することだと言い続けている。そして新しい商品を早く作ることだと発奮を促している。

昨年6月の建築基準法の改正で、建築確認がなかなか取得できなくて、工務店、不動産屋は、大変だった。このことについては、後日書き足します。

「天龍の改革」から学べ

こんな記事を提供してくれるから、新聞を読み続ける習慣は絶えないのだと思う。読み終えて、どうして古紙回収にまわすことができようか。ファイルするしかないと思って転載した。この天龍さんの行動が、当時の色々な問題を惹起したのだろう。

稽古をつけてやるといって、殴る蹴るのリンチで若い力士が亡くなった。この部屋の前親方・時津風親方が先月逮捕された。亡くなってからの親方の嘘八百の言辞と振る舞い、相撲協会特に理事長の情けないほどの不適切な行動、結果、警察や司直のお世話になるような最悪の結末だ。横綱・朝青龍の相撲協会や親方、ファンを馬鹿にした行動。それを監督できない親方(元・朝潮)と理事長(元・北の潮)。

その以前、覚せい剤使用、八百長事件については未だに、協会はうやむやに葬ろうとしている。それに、何で相撲が国技なのだろう?

08 2 17(日)朝日朝刊

私の視点 団体役員・伊藤昭一

伊藤・€・€一

大相撲 「天龍の改革」から学べ

日本相撲界は昨年には朝青龍の帰国問題、今月には力士が急死した事件で時津風部屋の前親方が傷害致死容疑で逮捕されるなど大揺れだ。相撲界をよくするためにも過去の相撲界の歴史に学ぶ必要がある。いささか古いが、力士「天龍」が目指した相撲界の改革の経過を振り返ってみたい。

事件は1932(昭和7)年1月6日に起こった。出羽海部屋の十両以上の力士32人が、一人も欠けることなく関脇力士だった天龍の飛びかけに応じて終結し、部屋を出た。そして日本相撲協会に次のような改革案(骨子)を提示したのである。

① 会計を明瞭に ②興行時間の改正 ③一般大衆のために入場料を安くする ④相撲茶屋の廃止 ⑤年寄制度の廃止 ⑥養老金制度の改革 ⑦地方巡業制度の改革 ⑧力士の生活の安定 ⑨冗員の整理 ⑩力士の共済制度確立

14日から始まる正月場所が間近に迫っていた。返答を先延ばしにしようとする協会との話し合いは決裂し、天龍たちは「大日本相撲協会」の組織を作って別に興行を開催した。天龍、わずか29歳の時である。

その興行は従来の取り組みではなかった。当時としては珍しいトーナメント制とリーグ制を併用したり、お好み挑戦試合を行ったりするなど、実に工夫をこらしたものであったという。

この相撲界の分裂は確かに問題であったらしく、当時の新聞も「天龍事件」として報道している。天龍たちの行動を好意的に見る人ばかりでなく、反体制的な行動だとして、様々な妨害もあった。

そこで天龍たちはやむなく東京から大阪に本拠を移した。そしてここでの興行を6年間にわたって開催したが、やがて解散のやむなきに至った。

天龍についてきた力士の一人ひとりのその後の手だてをし、ある力士には相撲協会に復帰させた、そしてもう一人の指導者であった大関「大ノ里」とともに満州に渡り、その地の青少年の指導にあたった。

私は天龍こと和久田三郎が生まれた浜松市と同郷である。その生家にも極めて近かったが、500軒ほどあるその地域で天龍のことを知っている人はほとんどいなかった。

たまたま天龍のおいがその地域で健在で、私は天龍のことを聞く機会を得た。さらに天龍が戦後になって著した自叙伝も見つかった。それを読むにつけ、戦前だというのによくこのようなことを考えて実行に移したものだと感心するだけであった。そうするうちに相撲界の不祥事である。私はその業績を出来る限り明らかにしたいと思った。

天龍の示した改革案は、相撲協会の運営の不透明さと、当時の力士が「使い捨て」であったことを明らかにしている。今この改革案をみてもその新しさは失われてはいない。国技である相撲の伝統を守りばがら、日本相撲協会を発展させるための改革とは何か。

天龍が目指して果たせなかったことを協会はいま一度、かみしめてほしい。

2008年2月4日月曜日

福も鬼も、内へ来い!!

2月3日は、節分だ。

今までは、大豆の煎り豆を「福は内、鬼は外」と言いながら、家の内外にまいたものでした。子供が小さかった頃、自宅のチャイムを鳴らして帰宅を知らせると、女房が走ってきて、私はにわか作りの鬼にさせられ、子供等から豆の集中攻撃を受けるのでした。鬼の面をかぶった私に、「鬼は外」と。それから、去年は孫に「鬼は外」と言って豆を投げられた。豆をまくことで邪を追い払う。早く冷蔵庫のビールを飲みたいのに、一通り怖い鬼を演じないと家に入れてもらえない。私は、いつも(邪)鬼だった。

私の代わりに犬のゴンが鬼役を引き受けてくれたこともあった。鬼の面を紐で結びつけられ豆を投げつけられた。その豆を拾い食いしてお腹をこわし、ゴンは引退した。ゴンにとっては、人間こそ鬼だったのではないのか。優秀な犬だったから、馬鹿な人間どもにも、嫌々ながらもよく付き合ってくれた。

でも良く考えてみると、「鬼は外」ばかり言われ放しでは、余りにも鬼は可哀想ではないか、と思うようになった。鬼さんだって、たまには皆と楽しく過ごしたいと思っているのではないのか。歳のせいかな。私は、今年で60歳だ。

今夜は「福も鬼も、内へ来い」と掛け声をかけようと思っている。

私の田舎、京都府綴喜郡宇治田原町の節分には、住宅や農機具小屋、牛舎、蔵、便所(かって、水洗ではなかったので別棟になっていた)の入り口と出口に、ヒイラギの枝の先に生の鰯(いわし)の頭を刺して、掲げるのです。鰯の本体は焼き魚として夕餉のおかずとしていただいた。ヒイラギの葉には棘のようなものがあって、鬼を嫌がらせるのです。鰯の頭は臭くて、鬼が近寄りたがらない。このようにして、鬼から、我々の生活を守ろうとしたのです。

2008年2月3日日曜日

福士さんに、リンゴの花冠を

1月27日(日)に行われた大阪国際女子マラソンは、北京五輪代表選考会を兼ねていた。長居競技場を発着の42.195キロ。中学時代、保健体育の授業で42.195をシ(死)ニイ(行)クゴーと憶えた。それ程マラソンは過酷なレースなのだ。5000メートル、ハーフマラソンなどの日本記録保持者である福士加代子(ワコール)は序盤から飛び出したが、30キロ以降に失速した。練習不足からの失速。19位だった。1位はイギリスのマーラー・ヤマウチで2時間25分10秒。

何もかも無茶だった。初マラソンに向けての調整期間が1ヶ月と通常の3分の1で、練習での最長距離も約30キロだと新聞報道で知る。余りにも無謀だった。無茶苦茶だった。「もっと綿密な計画が必要だった」と、レース後永山監督が言っている。なんだ、この監督は。余りにも無責任ではないか。万が一、選手に重大な取り返しがつかない支障が発生でもしたらどうする心算だったのだろうか。監督は、選手の体の調子をベストの状態でレースに臨めるようにコーチするものではないのか。多少不足があったとしても、福士ならそんなハンディを乗り越えてくれると判断したのだろうか。指導者に重大なミスがあったことはゆがめない事実だ。私は怒っています。

そんな状況のなかで、福士は福士らしさを見せてくれた。私は、涙を拭うことも忘れて夜のスポーツニュースに釘付けになった。レース中は仕事だったので、ラジオからの端々のニュースで、トップを走っていたこと、足が止まりだしたこと、順位をドンドン下げていることを知った。気が気でならなかった。足がもつれて何度も転んだ。またゴールを目の前にしても転んだ。なかなか、ゴールに届かない。転んでも転んでも、満面に笑みを絶やさなかった。笑顔が清々しい。童女のようなあどけない笑みに心が打たれた。足はフラフラ、意識は朦朧、視線は宙を舞っていた。でも前に進む。人形浄瑠璃のようにも見えた。アスリートとしての気魄のみだ。津軽の厳しい気候と風土が彼女を作り出したのではと思い巡らせていたら、かって旅した津軽のあっちこっちを思い出した。

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(ゴール直前で転倒する福士加代子選手)


出身は、雪国青森、津軽の五所川原工高。所属はワコール。38年前、私が大学生だったときに、当時読み耽っていた太宰 治の生家を訪ねたことがあった。五所川原から津軽電鉄に乗って金木町で降りた。列車には、薪は焚(た)かれていなったたが、ストーブがまだとり外されていなかった。太宰の作品の中で一番気に入っていた「津軽」の文庫本をポケットに忍ばせながら。就職試験の専務さんとの最終面接で、初めて給料をもらったら、君はどうするんだ?と聞かれた。ある私鉄の親会社だった。そんな質問に私は太宰 治の全集を買いたいのですと言ったら、専務はうかぬ顔をしていた。このオッサンはアカンなあと直感した。学生時代には、太宰の弟分の田中英光の全集を古本屋で買った。嬉しかった。

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(青森県北津軽郡金木町の太宰 治の生家)


太宰の生家を見学して、裏の「バー斜陽」で安いウイスキーを飲んだ。マスターに太宰の話をふっかけても、何も戻ってこなかった。5月の頃だった。桜が散ってリンゴの花が咲いていた。見慣れぬリンゴの花を記憶に留めようと思って詳細に見たつもりだったが、今は思い出せない。梅のようであり、桃のようでもあった。雪深いと教えられたが、雪国での生活はいくら説明を受けても、想像の域を超えていて理解できなかった。北の方には竜飛岬がある。凍(い)てついた波が、そそり立つ岩壁にぶちあたる。冬の荒涼とした、まさに”冬の自然”が剥き出している、と言われている。岩木山に登った。サッカー部の現役だった私は、走って登った。ちょろいちょろい(極めて平易だった)。津軽富士といわれていて、稜線が長く穏やかな山容だ。

こんな津軽で、福士さんは育ったのですね。今回は苦渋をなめた福士さんに、リンゴの花のお冠を心を込めて捧げさせてくださいな。私のささやかな福士さんへのご褒美です。どうか、福士さん、マラソンを選ぼうがトラック一途でいこうが、よく考えていただいて、これに懲りずに頑張って欲しいのです。雪深い季節が終わり、リンゴ畑が一斉に白い花を咲かせるのです。福士さんにはリンゴの花が一番お似合いなのではと思いを馳せた。あなたの笑顔をいつまでも見ていたいのです。見せてくださいなあ。競技場を後にする時、記者に向かって、すみません、ご心配をおかけしました、なんて言っちゃって。満面はいつもの笑顔だった。「面白かった」とも言った。

1月28日(月)の朝日朝刊、天声人語より。

白日の下で行われるスポーツにも「魔物」の棲むところがある。よく知られるのは高校野球の甲子園だろう。独特の雰囲気が球児をのみ込む。魔に魅入られたようなエラーや乱調に、幾人もが涙を流してきた。マラソンでは、30キロ過ぎに棲むといわれる。「30キロの壁」という言葉もある。日曜にあった大阪国際女子マラソンで、魔物は福士加代子選手にとりついた。快調に先頭を走っていたが、別人のように失速した。足を運ぶのもままならず何度も倒れた。並外れた健脚を韋駄天と呼ぶ。仏法の守り神の名前だ。釈迦の遺骨を盗んだ鬼を追いかけて奪い返した俗説から、足の速い人の代名詞になった。福士選手はトラックでは名うての韋駄天だったが、初めて挑んだマラソンで魔物の洗礼に沈んだ。メキシコ五輪で銀メダルの君原健二さんによれば、30キロ過ぎての最終盤は「一歩一歩が血を吐く思い」だという。「だれがこんなむごいレースを考え出したのか」。憎しみながら走ったものだと、著書「マラソンの青春」で回想している。立ち止まる誘惑と格闘しながら、「この先の電柱まで、あそこの家まで」ともがく。その積み重ねで、君原さんは参加した35回すべてを完走した。「走りぬくこと」を大切にした名選手でもある。福士選手もまた、転んでも転んでも起き上がって、走りぬいた。優勝者より大きな拍手は、悔しかっただろう。だが前をめざす凄みを、見る者に教えてくれた。いつの日か魔物を敵討ちにする。その姿を見たいファンは少なくないはずだ。