2008年2月23日土曜日

「天龍の改革」から学べ

こんな記事を提供してくれるから、新聞を読み続ける習慣は絶えないのだと思う。読み終えて、どうして古紙回収にまわすことができようか。ファイルするしかないと思って転載した。この天龍さんの行動が、当時の色々な問題を惹起したのだろう。

稽古をつけてやるといって、殴る蹴るのリンチで若い力士が亡くなった。この部屋の前親方・時津風親方が先月逮捕された。亡くなってからの親方の嘘八百の言辞と振る舞い、相撲協会特に理事長の情けないほどの不適切な行動、結果、警察や司直のお世話になるような最悪の結末だ。横綱・朝青龍の相撲協会や親方、ファンを馬鹿にした行動。それを監督できない親方(元・朝潮)と理事長(元・北の潮)。

その以前、覚せい剤使用、八百長事件については未だに、協会はうやむやに葬ろうとしている。それに、何で相撲が国技なのだろう?

08 2 17(日)朝日朝刊

私の視点 団体役員・伊藤昭一

伊藤・€・€一

大相撲 「天龍の改革」から学べ

日本相撲界は昨年には朝青龍の帰国問題、今月には力士が急死した事件で時津風部屋の前親方が傷害致死容疑で逮捕されるなど大揺れだ。相撲界をよくするためにも過去の相撲界の歴史に学ぶ必要がある。いささか古いが、力士「天龍」が目指した相撲界の改革の経過を振り返ってみたい。

事件は1932(昭和7)年1月6日に起こった。出羽海部屋の十両以上の力士32人が、一人も欠けることなく関脇力士だった天龍の飛びかけに応じて終結し、部屋を出た。そして日本相撲協会に次のような改革案(骨子)を提示したのである。

① 会計を明瞭に ②興行時間の改正 ③一般大衆のために入場料を安くする ④相撲茶屋の廃止 ⑤年寄制度の廃止 ⑥養老金制度の改革 ⑦地方巡業制度の改革 ⑧力士の生活の安定 ⑨冗員の整理 ⑩力士の共済制度確立

14日から始まる正月場所が間近に迫っていた。返答を先延ばしにしようとする協会との話し合いは決裂し、天龍たちは「大日本相撲協会」の組織を作って別に興行を開催した。天龍、わずか29歳の時である。

その興行は従来の取り組みではなかった。当時としては珍しいトーナメント制とリーグ制を併用したり、お好み挑戦試合を行ったりするなど、実に工夫をこらしたものであったという。

この相撲界の分裂は確かに問題であったらしく、当時の新聞も「天龍事件」として報道している。天龍たちの行動を好意的に見る人ばかりでなく、反体制的な行動だとして、様々な妨害もあった。

そこで天龍たちはやむなく東京から大阪に本拠を移した。そしてここでの興行を6年間にわたって開催したが、やがて解散のやむなきに至った。

天龍についてきた力士の一人ひとりのその後の手だてをし、ある力士には相撲協会に復帰させた、そしてもう一人の指導者であった大関「大ノ里」とともに満州に渡り、その地の青少年の指導にあたった。

私は天龍こと和久田三郎が生まれた浜松市と同郷である。その生家にも極めて近かったが、500軒ほどあるその地域で天龍のことを知っている人はほとんどいなかった。

たまたま天龍のおいがその地域で健在で、私は天龍のことを聞く機会を得た。さらに天龍が戦後になって著した自叙伝も見つかった。それを読むにつけ、戦前だというのによくこのようなことを考えて実行に移したものだと感心するだけであった。そうするうちに相撲界の不祥事である。私はその業績を出来る限り明らかにしたいと思った。

天龍の示した改革案は、相撲協会の運営の不透明さと、当時の力士が「使い捨て」であったことを明らかにしている。今この改革案をみてもその新しさは失われてはいない。国技である相撲の伝統を守りばがら、日本相撲協会を発展させるための改革とは何か。

天龍が目指して果たせなかったことを協会はいま一度、かみしめてほしい。