2018年6月23日土曜日

蛍(ほたる)の光!! 田舎が懐かしい

6月21日の朝日新聞・天声人語で、幾星霜(いくせいそう)、長い年月(としつき)は悲喜こもごもに過ぎ去ったものの、幼年期の好い気分を再び味わうことができた。
その天声人語の一つ一つの文節・文言が、私の貴重な歴史でもあった。

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天声人語
遠く高くゆったり光るゲンジボタル、水辺でせわしなく明滅するヘイケボタルーーー。
先週、金沢市郊外の田上町にある群舞を楽しんだ。

見学の人たちに順路を教え、手作りの説明資料を配っていたのは地元の農業、亀田輝之さん(74)。
十数年前、金沢大から頼まれ大学の敷地内にあった休耕田を復活させたところ、数年後ホタルが戻った。
石を運び、あぜを築き、小さな田を20面まで増やした。

ホタルの世話の担い手は亀田さんも属する「大学門前町ホタルの会」。
水路を引き、えさのカワニナを増やした。
幼虫を放流し、小学校では毎年、ホタルの育て方を教える。

「サナギが光るのは何のためか。なぜ毎夜同じ時刻に光り出すのか。昆虫学者じゃないので謎だらけですが、愛情を注げば増える。育てがいがあります」と亀田さん。
口コミで見学者は増え、昨年は1200人に達したそうだ。

近年、あちこちで「ホタルの里」復活の報を聞く。
一時期はどこも宅地開発や農薬・洗剤の普及で川や用水が汚れ、ホタルの姿が減った。
しかしその後、住民や農家の努力で水辺の環境が整うと、ホタルが再び生息するようになった。
観察できる期間は短いものの、「ホタル」を核に街おこしを図る自治体も少なくない。

〈蛍飛ぶこのたまゆらの刻惜しむ〉高島静。
今日は夏至、一年で最も夜の時間が短い。亀田さんの棚田ではまさに今週来週が光の乱舞の最盛期だ。
闇を縫って夜ごとホタルと人が行き交う。
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「田植えの仕方」の画像検索結果
ネットで拝借した。

先週の火曜日の昼過ぎ、伊勢原の桜台にある我が社の商品=中古住宅のハウス・ステージングを終えて、電車で自宅に戻った。
伊勢原駅から海老名駅までの、車窓からみえる田植え上がりの水田が、私の幼年期に積み重ねたアルバムとがっちり重なった。
水面から5センチほどの苗は、規則正しく植えられている。
その水田が青空に映えている。
梅雨の真っ最中、その日は意外に明るい日だった。

生家の田植えはゴールデンウイークに行った。
学校が休みの日に私たち子供も応援した。
流石に苗を植えることはできなかったが、苗が足りなくなった人が大きな声で呼びかけてくる。
その人に向かって、畦道から苗の束を投げた。それが私の仕事だ。菜
昼ご飯は、水田用の疏水で集めてきた蜆(しじみ)入りの味噌汁付きに、菜(おかず)は、鰹(かつお)の煮つけとお漬物。
ご飯は当たり前のことだが、この水田から収穫したものだ。
田植えのお手伝いができるようになるまでは、どうしょうもない、我がままな子どもだった。

当時、深さ5センチほどの疎水で泳いでいたメダカ、蜆、泥鰌(どじょう)、ハヤ(うぐい、おいかわ)、ゲンゴロウ、トンボのヤゴ、オタマジャクシを手づかみした。
小さな鮒(ふな)が、ぴち♯ぴち♭ ラ~ンランラン、藻(も)掻(が)き苦しみながら泳いでいた。
今の若者たちに話しても、まさか?と言われるだろうが、それほど私は豊かな子どもワールドを満喫した。
この畦道にしても疎水にしても、私にとっては楽園だった。
畦だって、田植えの前には綺麗に雑草は刈り取られ、疎水は何故か?田植え時に百姓に鋭くチェックされる。
疎水を利用する人たちが水利組合を作って管理者を決め、利用者みんなが公平に使えるように、利用方法に間違いがないかをチェックする。
水が不足している時には、悪い奴、小ずるい奴が現れて、深夜に自分の田圃(たんぼ)だけには水の入りを大きくする。
他の人たちの田圃なんかには目もくれない。
この畦道には、色んな昆虫以外に蛇が時々現れる。
この動物だけはどうしても好きになれなくて、見つけた日の夜は、なかなか眠れなかった。
初夏には、蕗(ふき)、蕨(わらび)、秋には、タマムシ、カマキリムシ、バッタ。




それから、不思議で不思議でどうしようもなく心がときめくのが、蛍(ほたる)だ。
19歳以降、蛍の季節に帰郷したことはないので、今、蛍たちの生活はどうなっているのだろう? 私の田舎の蛍たち。
私が高校生の時代には、農薬、殺虫剤の影響だったのか、水田の近くでは見つけることは少なかった。
水田以外の場所でも、蛍は出現したのだろうが、そちらには縁がなかった。
でも高校時代、サッカーの練習からの帰り、宇治川に落下してくる小さな滝3箇所に蛍の光が嵐のように群舞していた。
ホンダのカブで走り抜けるのだが、ウア~、オ~、夢見心地になった。
学校や自宅のみんなに見せてやりたかった。
私が見てきた蛍はゲンジボタルだったのか? ヘイケボタルだったのか。
兄たちは、私の興味とは裏腹、そんなことには何の面白味を感じなかったようだ。

蛍が発光するのは、敵を脅かすため、食べるとまずいことを警告する警戒色、交尾のため発光能力を獲得した、など諸説があることをネットで知った。

ちっちゃな子ども時代、蛍を捕まえて蚊帳の中に持ち込み、祖母は私と同じように面白がってくれた。
二人は同じ蒲団で、蚊帳の網目を這っていく蛍をいつまでもいつまでも眺めていた。そして知らないうちに、眠って仕舞った。








ホーム・ステージングとは。
リホームを掛けた住宅の各室を、よりよくアピールするために? 住宅に観覧に来てくれたお客さんに、住むことに対してもっとイメージを高めてもらうと、お膳立てをするのです。
ダイニングテーブルに食器類を並べる。ナイフやスプーン、ホーク、飲み物のグラス。
花や、ときにはローソクと燭台。
キッチンには調理器具。
室のあっちこっちに花瓶にいれた花々を備える。
和卓とお茶のセット。トイレには踏みタオルと手洗い用のタオル。
バスルームには、洗い用品の数々
お膳立てとはこんなもんだ。
衣装替えや間取り変更のことを、我が社ではリフォームと言わないで、リホームと呼んできた。

今回セットした用品は、平塚・岡崎の現場から運んできた。
軽自動車と普通自動車に載せてきた。
私は今、午前中だけの勤務になっているので、この程度の仕事なら楽なものだ。

このように、物件が売れたら、売れた物件の生活用品を、リホームが終わってこれから販売を仕掛ける物件に移動した。

仕事を終えて、私は伊勢原から自宅に向かった。
小田急線で伊勢原駅から海老名駅まで、相鉄線で海老名駅から横浜駅まで。そこからJRで東戸塚駅まで、なんてかったるい事なんてやってられない。
海老名駅から二俣川駅まで乗って、二俣川駅で降りた。
それから1時間、今井町のイーハトーブ(畑)まで歩いて、畑をウォッチング。
不思議なんだ、作物の成長を毎日、ちょこっと見るだけで、嬉しいのだ。
自宅まで歩いて、1時間半。
人並みのスピードで歩けないから、この所要時間はしょうがない。
これも、足のため、腰のための修行ざ。



2018年6月21日木曜日

袴田巌さん再審取消し!! どういうこっちゃ?


先月、映画「獄友」を観て、感じたことを映画館でもらったパンフレットなどを材にブログを発した。
石川一雄さんの「狭山事件」については、高校時代に知って、検証した本からそれなりのことは解っていた。
が、今回、話題にした「袴田事件」については、20年程前に知った。
当然、内容など知る由はなかった。そして、映画「獄友」で袴田巌さんを知り、極めて彼に興味をもった。

この映画「獄友」で、叱られそうな言い方かもしれないが、狭山事件の石川一雄さんとこの袴田事件の袴田巌さんのことが気がかりになった。



写真・図版
東京高裁の決定を前に、弁護士会館に入る袴田巌さんの姉・秀子さん(右)。
2018年6月11日、午前11時44分 東京霞ヶ席
(林 紗記撮影)



石川さんのことは幾本か読んで解っていたが、この袴田さん、御本人のことは、この映画を観るまでは余り知らなかった。
1966年 静岡県清水市(現・静岡市)で、一家4人が殺害された事件で死刑が確定した。
元プロボクサーの袴田巌(82)について、静岡地裁が2014年、DNA型鑑定などを根拠に再審開始を認めた。
袴田さんを釈放する異例の決定を出した。

ところが東京高裁は2018年6月11日、再審請求を認めない決定をした。
弁護側は高裁決定を不服として、最高裁に特別抗告する方針。


2018 6月12日の朝日新聞を転載させてもらう。


1面
袴田さん再審取り消し
死刑停止・釈放は維持
「DNA鑑定 地裁の評価誤り」

東京高裁
1966年に静岡県清水市(現・静岡市)で一家4人が殺害された事件で、死刑が確定した元プロボクサーの袴田巌さん(82)=浜松市=について、東京高裁は11日、再審請求を認めない決定をした。
大島隆明裁判長は、4年前に再審開始を認めた静岡地裁決定の最大の根拠となったDNA型鑑定について「手法に疑問があり、結果も信用できない」と判断。
「証拠の評価を誤った」として地裁決定を取り消した。

地裁は決定で袴田さんの死刑の執行停止と釈放も認めていた。
高裁はこの点について「(袴田さんの)年齢や健康状態などに照らすと、再審請求棄却の確定前に取り消すのは相当とは言い難い」と述べ、取り消さなかった。
これにより、袴田さんの異例の釈放は当面、維持される見通し。
弁護団は高裁決定を不服として、最高裁に特別抗告する方針だ。

袴田さんは被害者らが経営に携わるみそ工場の従業員だった。
確定判決では、事件の1年2か月後に工場内のみそタンクから発見された5点の衣類が「犯行時の着衣」と認定された。
再審請求では、このうちのシャツにあった血痕から、「袴田さんと別人のDNA型が検出された」という本田克也・筑波大教授による鑑定の評価が争われた。

地裁はこの鑑定結果の信用性を認めたが、高裁は本田教授が試料を集めるために使った方法にについて、「布に付着したDNAを抽出することは困難」と疑問を示した複数の専門家の意見書などを重視。
「科学的原理・知見の信頼性が十分ではない」と指摘した。
本田教授が実験のデータやノートなどを「消去した」と説明したことも「あまりに不自然だと述べ、「鑑定結果の信用性は乏しく、地裁は評価にあたって慎重さを欠いた」と判断した。

弁護側はみそタンクに漬ける再現実験の結果から「衣類の色合いが不自然」と主張。
地裁決定はこの主張も認め、捜査機関による証拠の捏造の可能性にも言及したが、高裁は「実験で使われたみその色は、正確に再現されたものではない」などと指摘。
さらに、5点の衣類が発見されるまで検察が別の衣類を「犯行時の着衣」と主張していたことも踏まえ、「捜査機関が捏造する動機は見いだしがたい」とした。

(杉浦幹冶)

  

再審開始決定取り消しを支援者から聞かされる袴田巌さん
11日午後、浜松市、代表撮影



東京高検の曽木徹也次席検事の話
法と証拠に照らし、適正かつ妥当な判断だ。


東京高裁決定の骨子
●「犯行時の着衣」の血痕から袴田巌さんと別人のDNA型が検出されたという鑑定結果は信用できない。静岡地裁は鑑定の評価について慎重さを欠き、判断を誤った。

●捜査機関がこの衣類を捏造した証拠はなく、犯行時の着衣であり、袴田さんのものだという確定判決の認定に合理的な疑いは生じていない。

●袴田さんの年齢や健康状態を考慮し、死刑と拘置の執行停止は取り消さない。


視/点
正反対の判断
審理に不信も
死刑が確定した袴田巌さんの再審請求に対する判断は、地裁と高裁で大きく分かれた。

事件から既に半世紀以上が経過し、証拠も古くなっている。
そんななか、弁護側が推薦した鑑定人は前例のない鑑定を試みた。
地裁はその結果を高く評価したが、高裁は「確定された方法ではない」などとして信用性を否定した。

だが、高裁決定に多く登場するのは、4年にわたる審理の大半を費やした鑑定の検証や鑑定人尋問の結果よりもむしろ、審理の最終盤に検察側が追加提出した、鑑定手法に懐疑的な専門家らの意見書の内容だ。

「審理の意味がなく、結論ありきの決定だ」という弁論側の反発には、再審請求の審理ルールが明確ではなく、裁判官の裁量が通常の公判と比べても大きいことへの不信も影響している。

静岡地裁は決定で「証拠捏造の疑い」とまで言及した。
再審で公開の法廷が開かれれば、捜査全体の検証にもつながった可能性があるが、このままではその機会も失われる。
異例づくしの再審請求の経緯は、現行の司法制度のあり方にも深い疑問を投げかけている。

(高橋淳)



2面
袴田さん 重い再審の壁
鑑定の信用性 覆った評価

いったん開いた「再審の扉」が、再び閉じられた。
52年前に静岡県で起きた一家4人殺害事件をめぐり、静岡地裁と東京高裁の判断を分けたのは、DNA型鑑定の信用性への評価だった。
一方、死刑確定後も再審請求を続けてきた袴田巌さん(82)の釈放は引き続き認められた。
異例の経過をたどってきた審理の舞台は、最高裁に移る。








再審 4年経て一転 
袴田さん姉「50年戦った。頑張る」



事件をめぐる主な経緯
1966年6月 
静岡県清水市(当時)のみそ会社専務家から、殺害された一家4人が 見つかる。
11月
袴田さんが初公判で起訴内容を全面否定。

1967年8月
工場のみそタンクから血の付いた「5点の衣類」が見つかる。

1968年9月
静岡地裁が死刑判決。

1980年11月
最高裁が上告を棄却。

2008年4月
静岡地裁に第2次再審請求。

2014年3月
静岡地裁が再審開始と袴田さんの釈放を決定。
検察側は東京高裁に即時抗告。

2018年6月
東京高裁が検察側の即時抗告を認め、再審開始決定を取り消す。




再審開始と釈放を決めた4年前の静岡地裁の決定から一転、東京高裁は袴田巌さん(82)の再審開始決定を取り消した。
死刑囚としての再収監は免れたものの、袴田さんを支持する人たちからは、怒りや戸惑いの声が上がった。


憤る弁護団「偏見で判断」
「大変残念な結果です」。
弁護団と記者会見に臨んだ巌さんの姉の秀子さん(85)は、「身柄の拘束はしないと書いてあるので、ひと安心しています」と、言葉を続けた。

巌さんは2014年3月に静岡地裁の再審開始決定で48年ぶりに釈放されたが、長い拘禁生活で精神を痛み、会話もままならない。
秀子さんは弟を故郷・浜松市の自宅に迎えて身の回りを支えながら、4年間暮らしてきた。

この日の決定で、巌さんを釈放し続けるかどうかの判断は最高裁に委ねられた。
今後の生活を問われた秀子さんは「再審開始になって、皆さんに『おめでとう』と言ってもらえると信じて、余分なことは言わないで暮らしていく」。
「今までも50年戦ってきた。これからも頑張っていきます」と会見の発言を締めくくった。

一方、弁護団からは怒りの声が漏れた。

決定では、地裁が再審開始決定の主な根拠とした筑波大学の本田克也教授(法医学)の鑑定を「信用性は乏しい」と全面的に退けた。
本田氏の鑑定は「犯行時の着衣」とされる衣類に残る血痕と袴田さんのDNA型は「一致しない」としたもので、この鑑定をめぐって審理は長期化。
弁護団は本田鑑定の再現実験を行ったが、本田氏の指導と監督により行われたことなどを理由に、高裁は信用性を否定した。

弁護団事務局長の小川秀世弁護士は、弁護側の主張のほとんどを退けた高裁決定を「非常に薄っぺら。
強い偏見によって判断している」と批判。
西嶋勝彦弁護団長は、最高裁に特別抗告する意向を示し、「なるべく迅速に最高裁の結論を得て、一日も早く巌さんの無事を明らかにしたい」と語った。

(増山祐史、矢吹孝文)
 




高裁決定を聞いたのち、神社で手を合わせる袴田巌さン=浜松市浜北区、代表撮影





高裁決定に沈黙「そんなのウソ」

巌さんは11日、浜松市内の自宅で過ごした。
支援者によると、巌さんはいつも通り午前6時ごろ起床。
午前9時ごろに、支援者が上京の意思を尋ねると「行かない」と答えたという。

巌さんは、市内を数時間歩くことを日課にしている。
この日の午後は、支援者の車で近くの岩水寺へ。
午後2時前、本堂に向かう途中で支援者から「決定が出た」と聞くと、「あ、そう」と答えた。
支援者が「不当決定を許すことはできない」と伝えると「どうもどうも」と応じたという。

代表取材の記者が、再審を認めない決定が出たことについて尋ねると、しばらく沈黙した後、巌さんは「そんなのウソなんだよ。ウソ言っているだけだよ」と言い、せき込んだ。

静岡市清水区の事故現場近くに住み、被害者と親交があったという60代の男性は「亡くなった人や遺族の気持ちを思うと、喜ぶことも悲しむこともできない」と複雑な胸中を明かした。



「幸せ」釈放後初めて記す 袴田さん
袴田さんは現在、故郷の浜松市で姉の袴田秀子さん(85)と暮す。
JR浜松駅周辺を歩くのが日課で、「応援しとるで」と声をかけられることもある。

48年に及んだ拘禁生活の影響で袴田さんは精神を病み、意味が通じない発言も多い。
自分のことを「神」や「最高権力者」と語ることもある。
秀子さんによると、自身と敵対する存在を思い浮かべてか、「ばい菌」や「ゴミ」という言葉を口にすることも多い。

5月には、支援者らがメッセージや意見を書き込める「袴田巌さんの壁」が静岡市内で除幕され、袴田さんも「幸せの花」と書き込んだ。秀子さんによると、袴田さん「幸せ」という言葉を使ったのは、釈放後初めて。「今は幸せだと、多少でも思ってくれると本当にありがたい。裁判の決定で、巌をいつまでも幸せにしてほしい」と話した。

(矢吹孝文、宮川純一)




静岡県警・地検 コメントせず
東京高裁決定を受け、静岡県警の柏木孝敏刑事企画課長は11日、報道陣に対し、「決定は確定したものでない。
審理内容にかかわるため、県警としてはコメントを差し控える」と述べた。
再審開始を認めた静岡地裁決定が「捜査機関が証拠を捏造した疑いがある」と指摘した点について、高裁決定は「抽象的な可能性に過ぎない」との判断を示した。
柏木課長はこの点も「審理の内容にかかわる」とした。
静岡地検は同日、取材に「一切コメントするものはありません」と回答した。

(宮廻潤子、佐々木凌)


日弁連も批判
日本弁護士連合会の菊地裕太郎会長は11日、高裁の決定を批判する声明を出し、「再審無罪を勝ち取るまで、引き続き全力で支援していく」と表明した。
「声明は、科学的証拠であるDNA型鑑定に対する判断を誤った。
『疑わしい時は被害人の利益に』と明言した過去の決定を骨抜きにしている」と指摘した。

 



















2018 6月12日の朝日新聞 声より。
社説

人の命がかかった審理がこのようなものでいいのか。
釈然としない思いがぬぐえない。

52年前に静岡県で4人が殺された事件で死刑が確定した袴田巌さんについて、東京高裁は裁判のやり直しを認めない判断をした。
静岡地裁の再審開始決定を取り消したが、身柄を拘置所に戻す措置はとらなかった。

地裁の段階で6年、高裁でさらに4年の歳月が費やされた。
それだけの時間をかけて納得のゆく検討がされたかといえば、決してそうではない。

結論を分けたのは、犯行の際の着衣とされたシャツなどの血痕のDNA型鑑定だ。
地裁は、弁護側が提出した新鑑定を踏まえ、「犯行時のものではない疑いがあるい」として再審を認めたが、高裁は「鑑定手法には深刻な疑問がある」と退けた。

この決定に至るまでの経緯は一般の市民感覚からすると理解しがたいことばかりだ。

まず、別の専門家に再鑑定を頼むなかで長い議論があった。
実施が決まると、その専門家は1年半の時間をかけた末に、高裁が指定した検証方法を完全には守らず、独自のやり方で弁護側鑑定の信頼性を否定する回答をした。
高裁は結局、地裁とほぼ同じ証拠関係から正反対の結論を導きだした。

身柄を長期拘束された死刑囚の再審として国際的にも注目されている事件が、こんな迷走の果てに一つの区切りを迎えるとは、司法の信頼性を傷つける以外の何ものでもない。
それぞれの立場で省みる点がないか、関係者は点検する必要がある。

こうした事態を生む背景のひとつとして、再審に関する法制度が整っていないことがあげられる。なかでも問題が大きいのは証拠の取り扱いだ。

今回の事件でも、地裁段階で検察側が「ない」と主張してきた問題の衣類の写真のネガが、高裁になって一転開示されるという場面があった。
再審に直接結びつく証拠ではなかったかもしれないが、正義に反する行いとして厳しい非難に値する。

ほかにも、審理の進め方や裁判官の権限などあいまいな点が多く、結果として再審をめざす側の障壁になっている。

11年から14年にかけて、捜査や刑事裁判のあり方を検討した法制審議会の特別会は、再審請求審での証拠開示を「今後の課題」に挙げたが、その後、議論は進んでいない。

疑わしきは被告人の利益に。
この刑事裁判の鉄則は再審にも適用される。
制度も、運用も、意識も、その観点から不断に見直されなければならない。

2018年6月4日月曜日

切磋琢磨の日々です

切磋琢磨とは、前向きさや向上心を表すポジティブな言葉。
技芸や学問に熱心に努めること。
骨は切り、象牙は磋(と)ぎ、玉は琢(う)ち、石は磨く、といった精細な加工を施すこと。
互いに探求、研鑚(けんさん)し合うこと。

今年からの、社内での私の労働時間から休日数までがころっと変わって、多少の嫌な想いもあったが、数年前にやってしまった落下事故以来、一番気がかりなのは気分が晴れないことだ。
この気分が晴れないというのが、頭痛の種。
この事故のことについては、今は話さないで貰いたい。痛みが、増々高じてくるのだ。
事故とは関係なく、大学時代のサッカー部での後遺症として、足腰の痛みに何年かの刻みで襲われる。
頭痛と足腰の痛み、双方の痛みで焼けっ放(ぱな)しにやられている。

休日は日曜日と水曜日、週休2日制だ。働く時間は朝8時から正午まで。
社内の台所で、勝手に昼飯を作って、仕事仲間は知らぬが仏、私流に業務は勝手に終わる。
これだけだと、楽勝!と聞いた人は思うでしょうが、そうでもないのが辛いこと、悲しいことだ。

そこで肝腎なのが、会社に居ないときの時間の過ごし方だ。
私のような気まぐれ男だけではない、ほとんどの人にとって、雨模様もあるし暦の冥利(みようり)もある。
気分がいい人もいれば悪い人もいる。幸運か不運か、気分転換中の人もいる。
まして、曜日ごとにやることを決めてかかるのは無理。
そこで私は自腹を据えかねて、やらなくてはならないこと、種目とノルマを決めた。
何を、どれだけ遣(やれ)るか?ってことだ。


保土ヶ谷プールで、1か月10キロメートルをクロールで泳ぐ。
平泳ぎ、背泳、バタフライは泳げないので、クロールだけで泳ぎきる。
恥かしいんだが、クロールしか泳げないのだ。
学校を出て就職した会社の2年目、西湘では有名な室内プールにおいて、冬の間、水泳教室をやることになって、私は現場の責任者になった。
支配人は早稲田の水泳部、支配人の義弟も早稲田の水泳部で、メルボルン・オリンピックの日本代表者だった。
スポーツと言ったって、サッカーしか充分に練習してなかったから、水泳なんて私の圏外?範疇外だった。
仕事で、水泳教室の先生をやるなんて、考えてもいなかった。
社員がプールにやって来ない間は、当然受講生もいない。
その間に、出来るだけの練習をやった。
他人様に見られても恥ずかしくないように、人知れず練習に励んだ。
此の段に至っては、どの種目よりもクロールが一番都合が良かった。初心者にとって、泳ぎやすく、子供や親たちの目にも良かった。
格好よく見えるのだ。

月曜日と水曜日は必ず行く。もう1日は気分が好くて、保土ヶ谷プールが空いていると思われる日? それは雨の日、豪雨、台風の日なんかは頗るグーだ。
入泳者が少なくて、私には都合がよかった。
年老いたご老人が、自分の力量に合った泳ぎを楽しんでいる。限られた柵の中で、その人たちを抜くわけにはいかなかった。
1回に最低750メートル、多く泳いで1キロ。
そうすると、10キロには10~13回で完泳できる。
1ヶ月に10回以上プールに行けば、充分ノルマはさばける。
1回でのプール使用時間は45分までと決めていた。
いつまでも、ザラザラと練習するのが嫌いなのだ。


それから毎日、多い時は2回、少なくても夕方に1回。保土ヶ谷・今井町のイーハトーブでの畑仕事に邁進する。
この2年間は誠に真面目な作業マンだ。
種を蒔いて、芽が出て大きくなっていくサマは、私にとって極めて充実した思いがする。
こんなことが、こんなに嬉しいものなのか!
畑を取り巻く住民の人たちから私の仕事の一つ一つを聞きにくる。
聞いた話に、住民は楽しみですねと返ってくる。

ところで、イーハトーブとは宮沢賢治による造語だ。
ネット『Wikipedia』で、「イーハトーブ」を調べていたら、次のような説明があった。

賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉である。
賢治が生前に出版した唯一の童話集である「イーハトブ」童話 注文の多い料理店』の宣伝用広告ちらしの文章には、「イーハトブ」について以下のような説明がなされている。この広告文自体は無署名だが、内容等から賢治自身によるものと推定されている。

「イーハトヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。

この作業で一番大事なことは、毎日必ず畑に足を運ぶことだった。
畑に着くと、知らず知らずにやってしまうのが、雑草を見つけては引き抜くこと。
朝見て夕方観て、それだけの時間の経過で、野菜の成長に気が付くのですから、このことは大事なこと。
夕方、帰る前に野菜に必ず水をやることだ。隣家の水道から貰うのですが、この水の有難さも大切なものだ。
隣人のオジサンに「この水には宝ものが含まれていて、よく効くんですよ」と言って、喜ばれた。
水を嫌う野菜もあるので、これには注意が必要。
住宅地に囲まれているので殺虫剤は使わない。虫が好む野菜はできるだけ避ける。
害虫と言えども、野菜から摘(つま)み出して、足裏で踏み殺す。こんなことだって、決して気持ちのいいものではない。
今年になって作った野菜は、ほうれん草、小松菜、カリフラワー、ブロッコリー。今制作中なのは、人参、葱、玉ねぎ、枝豆。
柿、数種類の蜜柑類、山椒、ブルーベリー、桃、栗、レモンなどは健在だ。
柿は2本が甘柿で1本は渋柿。この渋柿で干し柿をつくる。


それから、歩くこと。
例えば本日(2018 6 3)の場合は、16、931歩 本日の消費カロリーは688キロカロリー。
久しぶりに朝一番、自宅から戸塚駅まで、と午後自宅から東戸塚駅まで歩いた。
悲しい事故後、人並み以上に歩けなくなった。
戸塚駅までは1時間45分、東戸塚までは30分。
戸塚駅まで2時間近く歩いたのに、帰りはバスでたったの10~15分だった。
戸塚宿は、東海道の日本橋から数えて5番目。距離にして10里半=約42キロの宿場町。
権太坂から戸塚駅までは6~7キロはあったはずだ。
当初、保土ヶ谷宿(程ヶ谷)の次は藤沢宿であったが、通行する人々が増え、戸塚が宿場町になった。
保土ヶ谷との間にある権太坂や品濃坂も同じだ。
今週の日曜日は、東戸塚駅から大船駅まで電車で往って、そこから徒歩で還ってくる。少し距離は長いが、やってみよう。
来年の初詣に、鎌倉八幡宮まで歩いてみたいと思っている。10年前には平気の平左衛門だった。

出勤時は必ず徒歩出社をしている。
歩数は約6、033歩、距離にして5、5キロ。
往復すると、歩数は12、000歩。
所要時間は、事故前は50分、今は1時間。往復で2時間。
歩くスピードは余程鈍(のろ)くなっているようだ。
だから、そういうことで、1日に2万歩は確保したい。

でも、上り坂に下り坂、腰痛で痛みきっている腰には、この坂が実にイイのだ。
自宅や会社を出たときには、腰や足の痛みを感じるが、10分も歩き出せば、すっかりなくなる。
上り坂が、この腰にどのようにイイのか?
下り坂が、どのように腰に都合よく効いているのか?それは解からない。
広大な保土ヶ谷公園の端っこから端っこまで、その間にトイレが2か所あって、事故後の排尿には、随分お世話になった。


私の読書欲を活かしながら、ぼけっとすることなく、頭に残っている本を、もう一度読み返したい。
我が家での娘(三女)夫婦との部屋取りの関係で、2階にあった本箱を1階に移動した。
その際に1万冊あった本を、6千か7千冊にした。友人にあげたり捨てたりした。
大学に入ったのが20才だった。
それから学校の勉強は二の次三の次にして、心の趣くまま読書に励んできた。
大学時代は一連のデカダン・新戯作派たち。
それから、安倍公房や大江健三郎、高橋和巳、野間宏、水上勉、加賀乙彦、三島由紀夫、野坂昭如、遠藤周作、宮沢賢治、本田勝一、渡辺淳一、島尾敏雄、大西巨人。
どの作家もすこぶる私を楽しませてくれた。
そんな私なのに、現在風の作家の本には、どうしても馴染めない。
昔の昔に読んだ本は、今では余り好かれていないようだが、私の脳層は変わっていない。

それから、気を使わなくてはいけないのが、老人の介護だ。
広い世間での問題ではない、先ずは身内の老人の介護だ。
3年前、女房の実家から、母の面倒を看られないか、と女房の妹から電話があった。
私にどんな苦労が遣って来るのか、さっぱり解からないまま、OK返事をした。
それから、義母と一緒に暮らすようになって、私は唯、女房の頑張りに拍手をおくるだけで、何もしてやれないのが、歯痒い。
高齢で、体が不自由、しかし頭の方は、まァ~まぁ!
義母は、何につけても解かっているようだが、共通に分かり合えていないのが、辛い。
そのような高齢者の介護を、何とかこなしたい、と思っている。
偉そうなことをいい加減に言っているわけではない。
私だってこの夏で70歳になる。
時期は兎も角、他人さまのお世話になることは分かりきっている。





2018年6月3日日曜日

ビーダーマンと放火犯たち





先月の3月27日(火) 19:00より、東京演劇アンサンブルのブレヒトの芝居小屋で「ビーダーマンと放火犯たち」を観た。
その際のことについては、4月5日に投稿した。
なかなか未熟な原稿だったが、本日、私の机の中を整理していたら、こんな文章を見つけたのでここに投稿させてもらう。
もっと、具体的にお芝居の内容を知ってもらえる。




2018・4・27 NO124
a letter the Ensemble

■fasebookより
今村修さん(演劇評論家)

一昨日の夜は、東京演劇アンサンブル「ビーダーマンと放火犯たち」(作=マックス・フリッシュ、訳・ドラマトゥルク=松鵜功記、演出=小森明子)
ブレヒトの芝居小屋。スイスの劇作家フリッシュ(1911~1991)は、不勉強にして今回が初めての出会いだが、ちょっとブレヒト、さらには安倍公房や別役実も思わせる人を食ったこの不条理な寓話劇はどうにも後を引く。機会があれば、他の作品も観てみたいものだと欲が出た。

この街ではどうやら放火が頻発しているらしい。行商人を装って家に入り込み火をつける手口は共通しており、消防隊も組織されたのだが、一向に止む気配はない。「(犯人たちを)縛り首にしてしまえ」と酒場で気炎を上げていたビーダーマン氏(公家義徳)は、ヘアトニック製造会社の社長。ついさっき共同経営者だったクネヒトリング(坂本勇樹)を首にした。

どうやらかなりオレサマな性格らしい。ある雨の日、元レスラーだと名乗るホームレス、シュミッツ(小田勇輔)が突然自宅を訪ねてきた。低姿勢の言葉とは裏腹な体から発する威圧感に押され、ついつい屋根裏部屋に泊めてしまう。翌朝追い出しにかかった妻バベッテ(洪美玉)も不幸話にほだされて腰砕け。

あろうことか、仲間のアイゼリング(松下重人)まで引き込んでしまあう。そんな夫婦を、小間使いのアナ(山埼智子)と消防隊姿コロス(原口久美子、竹口範顕、永野愛理ら)が冷ややかに見つめていた。

演出の小森は、空間を立体的に使い、コロスを巧みに動かして、ドラマをテンポ良く転がしていく。コロスは歌で状況を説明し、登場人物をたちを批評し、狂言回しのの役を務めていくのだが、その言葉が妙に哲学的、抽象的で、しかも何だか他人事。それこそ居酒屋談義の趣もあり、時に興味本位で右にも左にも触れる世間そのもののようにも見えてくる。それが祈りにも似た美しい旋律に乗せて語られるのが、何とも皮肉で意地が悪い。

シュミッツたちは、ガソリンの入った大量のドラム缶を運び込み、危機は加速度的に増大していく。だが、ビーダーマンはその場しのぎの事なかれ主義に終始し、打つ手打つ手がことごとく裏目に出てドツボにはまっていく。その善良を装う小市民的偽善に、放火犯たちは軽々につけ込む。”今そこにある危機”から目を背け、オロオロするばかりビーダーマンたちの姿は、いつしか時を超えて今の日本と重なる。時の権力が自制を失い、国が大きく道を誤ろうとしているときに、テレビの画面から流れてくるのは、賑やかなだけのバラエチィーばかり。
ドラム缶の群れを前にして危機感をいだかないビーダーマンと何も変らない。

寓話劇だから、どんな状況を投影することも自由だが、作家の活躍した国、時代に鑑みれば、放火犯たちにナチスの影を見て取ることは容易だろう。そういえば、ナチス台頭の切っ掛けとなったのが国会議事堂放火事件だったよな、と放火繋がりで思い出す。

最初は低姿勢でにこやかに近づき、気がつけば数を頼りに国を牛耳り、隅々まで支配する。誰もそれを望んだわけではないのに、飴と鞭を巧みに使う闖入者たちに抗う術もない。そんなナチスの手口に学べ、と臆面もなく口にする副総理をいただく国に私たちは生きている。黒い哄笑と共にその事を思い出させてくれるこの舞台を、極めてタイムリーに出会わせてくれた東京演劇アンサンブルに大きな拍手を贈りたい。
(敬称略)