2018年5月28日月曜日

獄友(ごくとも)


20180322の朝日新聞・夕刊で映画・「獄友」の記事を読んだ。
冤罪青春グラフティ!
この新聞記事を下に転載させてもらった。
ーーーーーとーーーーーの間の文章が新聞記事です。


恥ずかしながら言わせてもらえば、このジャンルの映画については、無頓着に惹(ひ)かれる。
この性癖は、約50年前、体育局の運動クラブに所属しながら、夜遅くにデモに参加していた時分からだ。
徒歩で、赤坂から高田馬場駅近くの後輩のアパートに、早朝5時ごろに辿り着いた。
ジャンパーの背中は、催涙弾の臭いがして不愉快だった。
秋田出身の後輩は、嫌な顔をすることなく、気前よく寝かせてくれた。
デモ? 勝ったわけでもなく負けたわけでもなく、何故か涙が流れた。
わけもなく哀しかったのだ。

私だって、環境がちょっと変則的だったり、何かで間違いが発生したら、充分に獄友さん風になる可能性だってあったかもしれない。
幸せなことに、不幸にはならなかったが、獄友さんに励ましのエールを送りたい。
繰り返すが、この私だって、加害者にも被害者にもなることだって、あったはずだ。
石を投げる側なのか、投げられる側なのか。
法廷において、原告になるのか被告になるのか、そんなことよく解らない。

石川一雄さんの「狭山事件」については、高校時代に物理の岡田先生と数学の女の先生が、機会あるごとに、この狭山事件で逮捕された人がどうして刑務所に拘禁されているの? どうしても可笑しいと主張していた。
京都府は共産系の蜷川知事が頑張っていて、メーデーなどは結構派手な運動日だった。
私には、先生たちや文部省の言い分について、その良否については解らなかった。
でも、先生たちの明るい表情だけは、今でも思い出せる。

石川さんが被差別部落の出身であることから、部落差別との関係を問われ、市民権運動の時代に大きな争点となった。
よって、此の事件の裁判を狭山差別裁判と呼ばれようになった。
「狭山事件」だけ部落解放同盟が大いに意見を熱くしたわけではない。
どの事件に関しても日本全国津々浦々、各地にある部落開放同盟が参加していた。
大学時代、西武新宿線の東伏見駅を生活の根拠にしていたからなのか、狭山のことは何故か頭から離れなかった。
野間 宏の「狭山裁判 上・下」を読んで、尚一層深みに嵌(は)まってしまった。


どうしても、この映画を観たいと思ったが、私のスケジュールと上映している映画館の相性が悪く、上手く予定が組めなかった。
そうしているうちに時間が経った。
時間に余裕ができた時は、仕事中と言えども、こそっとネットで映画の内容を調べた。
どうしても観たいが、何処で観るか? 誰と観るか?と悩んでいた。
そうしていたら、ラッキーにも時々足を運ぶジャック・アンド・ベティで上映することを知った。

私が心密かに愛している、横浜の不思議な映画館だ。
一緒に行けたらイイナァと思っていた東京都・新宿区の友を、無理やり横浜まで首に紐をぶら下げて、否、帯同のうえ強引することもなくなった。

折角だからこの映画館のことを少し紹介しよう。
横浜市中区若葉町にある、2スクリーンのミニシアター。
正確には、横浜シネマ ジャック&ベテイだ。上映の機会が少ない良質な映画を、ジャンルを問わずセレクトして上映する、ちょっと変わった映画館。
そんな映画館だからか、この映画館に時々来ている。
この映画館は、同じ場所に存在した「横浜名画座」を引き継いで、1952年12月25日に建てられた。
終戦後に接収され、米軍の飛行場として使用された跡地だった。まさか、ここはそんなに広場があったのだ、と驚いた。

今後、話題が一際(ひときわ)高まる新聞記事を、ゴミ処理するわけには如何と思った。
幾ら資源回収だと言って、このまま、古新聞コーナーに捨て置くわけにはいかないだろう。

これは、映画「獄友(ごくとも)」のことだ。
いただいた映画のチラシの表面には、

やっていないのに、殺人犯。
人生のほとんどを
獄中で過ごした男たち。
彼らは言う
「不運だったけど、不幸ではない」。

必ず観てやると決心したものの、今回も、恥ずかしげもなくたった一人きりだ。
が、ラッキーなことに横浜みなとみらいに用事がある次女の婿が送ってくれた。
申し訳なく、次女の婿とその子どもに(私の7番目の孫)昼飯をご馳走した。
彼にはお好み焼き、孫にはオムライス。私はちっちゃな食事とビールをたのんだ。




2018 5 27(日)
13:45~






主題歌「真実・事実・現実 あることないこと」の歌詞はこの稿の一番下にある。

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★以下は新聞記事です。


3人で会話する(右から)菅谷利和さん、桜井昌司さん
石川一雄さん=昨年8月18日、埼玉県狭山市



冤罪叫ぶ「獄友」

元受刑者らの交流 映画に

「親の死に目に会えなかった」 無罪ーーーでも心に傷

冤罪を訴え、闘ってきた元受刑者らの交流を描いたドキュメンタリー映画「獄友(ごくとも)(115分)が完成した。
獄中生活、合わせて155年ーーー。
奪われた時間を取り戻すかのように生きる5人の男性の姿を、映画監督の金聖雄さん(54)がカメラに収めた。

映画に登場するのは1967年の「布川事件」で無期懲役が確定し、29年の獄中生活を経て2011年に再審で無罪となった桜井昌司さん(71)。
90年の「足利事件」で無期懲役が確定し、10年に無罪となった菅谷俊和さん(71)。
63年の「狭山事件」で無期懲役となり、仮釈放後の今も再審請求を続ける石川一雄さん(79)ら。
いずれも髪やひげが白くなり、笑うと目尻にしわが目立つ年齢だ。
映画の最初の編では、彼らが刑務所から出所した際の光景が黒白で映された。そこから、この映画が始まった。

釈放後、支援者の集会などを機に互いの家を訪ねるようになった獄友たち。
一緒にカラオケを熱唱し、結婚生活の良さを語り、ときに長かった獄中暮らしを懐かしむ。

約7年前から撮影のために石川さんのもとに通っていた金監督は、そんな男性たちの不思議な関係に興味を持ち、カメラを向けるようになった。

「どんなに無実を叫んでも、その声は届かない。困難を乗り越えて生きてきた彼らだからこそ、価値観を共有できるのだと思う」と金監督は言う。

作品中には、取り返せない時間の重みを感じさせるやり取りもたびたび登場する。
時間の経過を映し出すように、背の高い向日葵(ひまわり)が大きな花が咲き、そして枯れ果てた。
真っ暗闇の中で、小さな線香花火に火が点いた。
石川さん、桜井さん、菅谷さんが集まって会話をする場面。
「獄中生活で一番つらかったこと」を問われ、石川さんは「親の死に目に会えなかった」ことを挙げた。
3人とも、服役中に両親が他界。
桜井さんが「今でも両親が生きているような気がする。中(獄中)いると死んだってことがよくわからないから。不思議な感じなんだけどーーーーー」としみじみと語る姿は、冤罪の理不尽さを強く訴えかけてくる。

66年に静岡県清水市(当時)で一家4人が殺害された事件で死刑が確定し、静岡地裁の再審開始決定で48年ぶりに釈放された袴田巌さん(82)も登場する。
自宅を訪ねてきた桜井さんと将棋に興じることもある袴田さんだが、長年の獄中生活から精神は不安定で、映画の中では桜井さんを「帰ってくれ」と突き放す。
何かと袴田さんの世話をしていた姉の言葉も耳から離れない。
帰ってきてからのことですが、何を言っているのか、文章を綴っているのだが、何を書いているのか、私にはさっぱり解らなかった。
自宅に着いた後は、部屋の中を一日中あっちこっち歩き続けた。何を考えているのか、不安でした。
でも、そのうちに自ら家の外へ歩き出した。
そして吃驚することに、少し少しだけれど走りだした。昔のボクサー時代でも思い出したのだろうか。表情は堅くても、真面目な顔つきだった。

取材に「元ボクサーで僕よりずっと強い袴田さんだが、今も苦しみの中にいることは理解できる」と語る桜井さん。
そんな桜井さん自身にも心の傷は残る。
手錠を思い出すため、いまだに腕時計はつけられない。
それでも「たった1回の人生だから明るく楽しくやろう」と笑いながら、今も様々な場面で獄友たちを励まし続けている。
自ら作詞、作曲した歌を歌った。CDも作って、何かと獄友たちを救う会になればと思っていると言っていた。

昨年12月20日に都内であった試写会では、桜井さんが石川さんら今も再審の道が開かれない人たちに触れ「同じ苦しみを背負う仲間の肩の荷を下ろすまで闘う」とあいさつ。金監督は「『やっていない』と叫び続けた彼らの生き方に思いを寄せてもらいたい」と話した。

金監督は前作「袴田巌 夢の間の世の中」や「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」で、袴田さんや石川さんを主人公にしたドキュメンタリー映画を撮影してきた。
映画「獄友」は今月24日から、東京・ポレポレ東中野などで順次上映される。

(華野優気)


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映画「獄友」のパンフレットより。


自分たちのことを「獄友」と呼び、獄中での野球や毎日の食事や仕事のことを懐かしそうに語り、笑い飛ばす。
そこには同じ殺人犯という濡れ衣を着せられた「冤罪被害者」という立場だからこそ分り合える時間があった。
そして何故「自白」したのか、獄中で何があったのか、娑婆に出てからのそれぞれの人生と友情を追う。
いま、”ごくとも”たちは、”青春”のまっただ中にいる。
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上映後、桜井昌司さん(出演・布川事件冤罪被害者)、金聖雄監督によるトークがあった。






主題歌・「真実・事実・現実 あることないこと」
  作詞:谷川俊太郎  作曲:小室等

ほんとをうそにするのはコトバ
うそをほんとにするのもコトバ
コトバはヒトのつごうでかわる
うそがほんとのかめんをかぶり
うそのすがおはやみのなか

一つしかない『真実』
言葉で二つの「事実」に分裂
ほんとの事実と代わりの事実
二つの事実が言葉のおかげで<現実>
それがじりじり侵し始める真実

黒なのか白なのか
天は知っているはず
地だっておそらく知っている
でもおのれはどうか
他人の言葉の綱に絡め取られて
自分の言葉がもがいている

なかったか あったのか
なかったことがあったとされて
おぼえていることわすれさられ
あることないことこんぐらかって
ほんとのほんとはどこにある
ほんとのほんとはどこにある

生まれたばかりの真っ白な雪が 夜
人間たちの足跡で汚れていきます 朝

どれが自分の足跡なのかも分からないほどに 
そんな現実からいくつもの事実へと
いくつもの事実へとさかのぼり

遂にただ一つの真実に至る道は
信じて夢見ることから始めるしかない
信じて夢見ることから始めるしかない
信じて夢見ることから始めるしかない
信じて夢見ることから始めるしかない


ほんとをうそにするのはコトバ
うそをほんとにするのもコトバ
コトバはヒトのつごうでかわる
うそがほんとのかめんをかぶり 

うそのすがおはやみのなか
うそのすがおはやみのなか
うそのすがおはやみのなか
うそのすがおはやみのなか


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ネットで得た記事です。
     
布川事件

茨城県利根町布川で1967年8月、大工の男性(当時62歳)が自宅で殺された。茨城県警は80人体制で検査を進め4名を別件で逮捕したが、事件に関与した証拠は得られなかった。事件に関与した証拠は得られなかった。
捜査が手詰まりになる中、県警は桜井昌司さんと杉山卓男さんを別件逮捕。

警察の留置場での長時間に及ぶ取り調べの末、虚偽の「自白」をさせ、検察は物証がないまま起訴した。公判で桜井さんらは無実を訴えたが、1970年、一審で無期懲役判決を受け、1978年、最高裁で確定した。
2001年、第2次再審請求を申し立て、2005年、水戸地裁土浦支部が再審開始を決定。
2009年12月15日の最高裁決定で再審開始が決まった。
有罪から無罪へ司法判断が変わった決め手は、有罪確定後に検察が開示した証拠だった。
近所の女性の目撃証言、残された毛髪が2人のものではないという鑑定書。
取り調べの録音テープだった。
検察は無罪を示唆する証拠を隠したまま、起訴していたことになる。
録音テープにも編集の跡があることが分かり、
高裁決定は「自白は取調官の誘導をうかがわせる」と指摘。
当初は容疑を否認していた2人を、拘置所から、警察署内の留置場に逆送して、
「自白」を得た経緯も、高裁は「虚偽の自白を誘発しやすい環境に置いた」と批判した。
2011年5月24日、水戸地方裁判所土浦支部にて無罪判決が下された。

狭山事件

1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、
脅迫状がとどけられるという事件がおきました。
警察は、身代金を取りにあらわれた犯人を40人もの警官が張り込みながら、
取り逃がしてしまった。
女子高校生は遺体となって発見され、警察の大失敗に世論の非難が集中しました。
捜査にいきづまった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を集中し、
なんら証拠もないまま石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、
1カ月にわたり警察の留置場(代用監獄)で取り調べ、ウソの自白をさせて、
犯人にでっちあげたのです。
地域の住民の「あんなことをするのは部落民にちがいない」という差別意識や、
マスコミの差別報道のなかでエン罪が生み出されてしまったのです。
一審は死刑判決、二審では無期懲役判決が確定。
石川さんはただちに再審請求を申し立てましたが、
第一次再審請求はまったく事実調べもなく棄却。
再び1986年8月に第二次再審請求を東京高裁に申し立てました。
石川さんは再審を求める中、1994年12月仮出獄、
31年7ヶ月ぶりに狭山に帰りさらに闘い続けます。
世論も高まり、国際人権規約委員会が「弁護側がすべての証拠にアクセスできるよう法律、
および実務を改めること」を日本政府に勧告しますが、
1999年7月またも事実調べを行うことなく、再審請求を棄却しました。
そして2006年5月みたび、第3次再審請求。なかなか再審の扉は開きません。
しかし2009年9月から三者協議が開かれ、狭山の闘いに光りが差し込みました。
2回目の協議で門野裁判長が証拠開示勧告。
2010年5月の三者協議で東京高検が開示勧告を受けた8項目の内5項目36点の証拠が、
開示され再審へ向け確実に一歩前進しました。石川さんをはじめ狭山の闘いは、
事件の公正な裁判―再審開始を求めるとともに、 あらゆる差別や冤罪、
人権侵害をなくし、
取調べ可視化・司 法民主化を求める運動としてはばひろくすすめています。

袴田事件

1966年6月30日未明、静岡県清水市(現静岡市清水区)で、
味噌会社専務一家4人が殺され、放火された事件。
味噌会社の従業員だった袴田巌さんは「元プロボクサーならやりかねない」という偏見
により逮捕され、拷問を伴う長時間の取り調べにより、「自白」を強要させられました。
袴田巌さんは、裁判では一貫して無実を訴えましたが、1968年静岡地裁で死刑判決、
1980年最高裁で死刑が確定。
1981年以来、再審を求め続け、遂に2014年3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は、
再審開始を決定しました。
その内容は「証拠はねつ造」「これ以上の拘留は正義に反する」とする画期的なものでした。この日、袴田巌さん獄中48年目にして東京拘置所から解放されました。
しかし、3月31日、静岡地方検察庁が東京高裁に即時抗告したため、
再審開始は先延ばしとなり、いまも、死刑囚のレッテルは貼られたままです。

足利事件

1990年5月12日、栃木県足利市のパチンコ店で行方不明となった女児(当時4歳)が、
翌日、パチンコ店近くの渡良瀬川の河川敷で死体で発見された事件。
犯人のものと推定される体液が付いた女児の半そで下着も付近の川の中で見つかり、
わいせつ目的の誘拐・殺人事件とされた。
足利市ではこの事件の前、2件の女児殺人事件が起きていたこともあり、
栃木県警は180人態勢で徹底した捜査を進めた。
幼稚園の送迎バスの運転手で、事件現場のパチンコ店の常連でもあった菅家利和さん
(当時43歳)を疑った県警は、菅家さんを事件半年後から1年間尾行したが、
怪しい点はなかった。
1991年6月、県警は菅家さんが捨てたゴミ袋から体液の付いたティッシュペーパーを発見。
警察庁科学警察研究所(科警研)にDNA鑑定を依頼し、科警研は同年11月、
菅家さんと犯人のDNAの型が一致したとする鑑定書をまとめた。
これを受けて県警は、12月1日、菅家さんを任意同行し、深夜に及ぶ尋問の末、
犯行を認める「自白」を引き出し、21日、わいせつ目的誘拐と殺人、
死体遺棄の容疑で逮捕した。
検察は、先に起こっていた2件の殺人の「自白」は「嫌疑不十分」として起訴しなかった、
が、パチンコ店から行方不明になった女児殺害についての「自白」は疑うことなく、
菅家さんを起訴。
菅家さんは第1審の途中から否認に転じたが、1993年7月7日、
宇都宮地裁は無期懲役の判決を言い渡し、東京高裁も控訴を棄却。
2000年7月17日の最高裁判決で有罪が確定した。
菅家さんは2002年12月25日、宇都宮地裁に再審を請求。
地裁は請求を棄却したが、即時抗告による東京高裁での審理でDNA再鑑定が認められ、
その結果、女児の下着に付着していた体液と、菅家さんのDNAは一致しないと分かった。1991年の科警研鑑定は、当時としても間違いだった可能性が高い。
再鑑定結果を受け、東京高検は菅家さんを刑務所から釈放(再審前に釈放するのは異例)。
2009年6月23日、東京高裁は再審開始を決定した。2010年3月26日に無罪確定。





2018年5月26日土曜日

弊社の庭にも花が

2月末に玄関前の駐車場横の空き地に、チュ-リップの球根を植えた。
その空き地、柿の木だけのさみしいものだった。
ゴールデンウィーク前にものの見事に咲いて、ゴールデンウィーク終了と同時に花弁は散った。
今までその空地に花類を植えたことがなかったので、花満開のときにはスタッフの誰からも大いに喜んでもらった。
花弁を集めて、球根を掘り起こして、今は風通しのいい3階に干している。
上手くいくかどうかそれは疑問だけれど、来年にもう一度チャレンジをしようと思っている。

今度はチューリップの後に、草花の種を蒔いておいたのが、1週間前、ちぃらちぃらと芽が吹きだした。その小さなを芽を見ていて、私の胸が騒ぎ出した。
この小さな芽が大きくなって、どんな花が咲くのか? 考えれば考えるほど嬉しくなる。花の種を蒔いて、そして咲くだろう花のことを考えることは、こんなに幸せな気持ちになるのか!

どんな花の種を蒔いたらいいのか、暫らく悩んだ。
そんなに多くの花を知っているわけではない私には、種を決めるのが一苦労だった。
兎に角、花などには無頓着過ぎる私だから。

金蓮花(きんれんか)にしてもマリーゴールドにしても、どこかで何回か観たことはあるのだろうが、果たしてその花をきちんと話せないほどの能天気!
そんな人間が、こんなことを遣りはじめている愚かさ(オロカサ)を笑ってやってください。




★百日草(ヒャクニチソウ)


先ずは百日草。
何の躊躇いもなく、難なく決めた。
実家の近くの畑には、祖母が必ず植えていた。
この花は、名前通り、開花している期間が長いことを祖母は気に入っていたのだろう。
花径約8センチの中輪で、多くの花弁が重なり盛り上がる半球状の花形。
草丈は約40センチで、草姿はみだれにくく、真夏でも咲き続ける丈夫な品種。
鮮やかな色彩の混合種。

原産地はアメリカ、メキシコ。
生産地・台湾
キク科ジニア属



★金蓮花(きんれんか)
ナスタチューム)


濃緑の丸い葉に浮ぶカラフルな花々。
赤・橙・濃桃。黄色などの花色混合。
コンテナやつり鉢に向くコンパクトな草姿で、ハスに似た小さな葉は花と共に楽しめる。

桜の便りが聞かれる頃が種蒔きの適期。1センチほどの深さに直接蒔く。
発芽まで乾かさないように管理し、発芽してからは間引きはしない。
苗は弱く伸びすぎないように日当たり、風通しのよい場所で乾き気味に管理する。
本葉5~6枚を残して摘芯すると多く分芯し花を多く咲かせる。
過湿を嫌うので水は控えめにする。

原産地は中央・南アメリカ
生産地・タンザニア



★マリーゴールド 

(和名・クジャクソウ)
 












晩秋まで花壇を彩る花つきのよい八重咲き。
花径約5センチのフレンチ系八重咲き品種で、豊富な色彩の混合。
種蒔き後、約50日間草丈15センチほどで開花しはじめる。暑さに強く開花期間が長い。

葉桜のころから初夏までが蒔きどき。種は大きく、水をたっぷりあげる。
日当たりと風通しの良いところで、苗が伸びすぎないように管理する。
花期が長いので月に一度は追肥を与え、花柄を小まめにとり除く。

原産地・メキシコ、グァテマラ
生産地・台湾、チリ
キク科タゲテス属

2018年5月24日木曜日

関学大ー日大 (アメリカンフットボール)

関学大と日大とのアメリカンフットボール 51回大会でのこと。

競技中に行われた悪質な反則行為について、加害者側の日大が何のアクションを見せないことに私は何日不快だったか!
加害者が退場させられた時に、監督やコーチは退場者に向かって何でそこまでやるんだとお叱りをするか、ゲームが終わった段階で、相手チームに露骨な反則について謝るか、何かができた筈だ。

日大の加害者は、記者会見で監督やコーチの激しい指示に従ってやってしまったことに深く申し訳ないと面前の報道陣に対してあやまった。
この記者会見は、日大の方からはこの反則タックルについて、何らの意見も言わないままでいることに堪らず、勇気を持って自らの発意によって行ったものだ。
両親はよく息子の気持ちを理解し、弁護士に頼み、出席することを躊躇った。
加害者の勇気の張った行為だ。
あやまった先は、相手チームに被害者に、被害者のご家族に対してであった。
長時間、20秒、深々と頭を下げた。
この加害者のやったことに対する反省の弁と、事実を話す真摯な態度に私は心が打たれた。

監督やコーチから烈しいプレーの指示はあったが、いかなる指示が出ても、自分でよ~く考えて、何故反則をしないようにできなかったのか、と約2週間苦しんだ。
その後、日大の内田監督は、責任は私がとりますが、決して私が退場者に対して事細かく指示はだしていません、と強調した。

関学側は、記者会見で日大の考えが解らないことに苦悩・憤りを強調していた。
日大側は、その返答として、24日までに、書面にて応えさせてもらうの一枚舌。
そんなに時間をかけて、何をどのように考えているのか? 不思議だった。
私なら、その日、試合が終わったときに、相手チームに対して何らかの態度を見せたと思う。
監督、コーチだけではなく、部長やクラブ活動を総括している人がいるだろう。管理部的、総務部的に働いている人だっているだろう。
広報の人もいたが、自校での事とは思いも寄らない言動だけなら未だしも、余計なことのように、報道陣を跳ね除けた。

この事件についての詳細を、このブログで言いたいのではない。

スポーツをスポーツらしく、大学を教育の場と考えていない日大。
監督、コーチは、学生たちのことを、このようにすべきだったのだ、との発言はなかった。
学校側がやらなくてはならない一番肝心なことは、それは学生を守ること、そっぽに忘れてしまっていた。それどころか、学生を苦しめていた。
学生が、夢や希望に羽ばたき、心を驀進させる言葉がない。大学から、学生をこの世に勇躍させる言葉がない。
日大の監督、コーチには、貴方たちにはこの仕事をやる資格なんかありませんよ、と叱言したい。
私には大学入試を求める子どもがいないので、諦めざるを得ないが、こんな学校なんかにはどんなことがあっても行かせない。

スポーツをスポーツとして、学生を教育することを真剣に考える関学大。
この双方の言い分については、誰もが大いにお分かりだろうから、私のような風情(ふぜい)のない人間が、どうのこうのと言う筋合いではない。
試合が行われた後、関学大はこの違法な悪質タックルについて、日大は如何にお考えなのか、どのように思われているのか、教えて欲しいと申し出た。
だが、日大は無(な)しの礫(つぶて)。
何の返答もなく、監督やコーチから出る言葉には、関学大が求めているものは無いどころか、自分たちに都合のいいことばかり。
こんな奴らの話なんて聞きたくないわ。


サッカーを十二分にやってきた私には、このプレーは一発で退場処分を受けることは当たり前だと思う。
レッドカードだ。

この後に、事件の内容を新聞記事を使わせてもらって書いた。

私が京都府の田舎暮らしをしていたころから、関西学院大学の関西をどうして「かんせい」と読むのか?それが解らなかった。
つまらない、知恵なしの私のことだ。
ここへきて、50年以上経ったのに。
ならば、それも調べようとしたら、ネットで簡単に解った。
その原稿をここに転載させてもらった。



日大アメフト
右側が反則しているシーン


朝日新聞の記事をダイジェストして転載させてもらった。

日本大と関学大 アメリカンフットボール定期戦
悪質で違法なタックル問題で、日大の考え方に違和感を持つ。


今月の6日、東京・アミノバイタルフィールドで行われた、アメリカンフットボールの日本大―関西学院大の定期戦で日大の選手が悪質なタックルなど反則を繰り返して退場となった。
このタックルをやってしまった苦しみに日大の選手は悩みに悩んだ。
22日、この選手自身が記者会見を開くことになった。
彼は20才、大学3年生。
記者会見には、学校側の人物は一人も参加なし。弁護士2名が付き添った。
冒頭、記者クラブにおいて、素顔のまま、記者会見を行ったことは、学生と両親の強い意志であることを、弁護士が話した。

辞任した内田正人前監督による反則行為の指示があったのかどうかについて、選手本人が何を語るのか注目されていた。

関学オフェンスの最初のプレー。テレビなどで繰り返し流れているシーンだ。ボールは、はるかに移動した段階で、体から力の抜けた無防備の関学の選手に、後ろから強いタックルをかけた。
関学の選手は大きく体を捻って、結果的に3週間の怪我を負った。
その後、二つ目三つ目と反則を続け、彼はここで資格没収(退場)の処分を受けた。
U-19日本代表チームにも選抜されるような優秀な選手だ。

フィールドから出てきた彼はスタッフに促され、ベンチ奥にあった負傷者用のテントに入った。私はそこに近づいた。彼は泣いていた。声を上げて泣いていた。

同じポジションの選手が肩に手を置いて、言葉をかけていた。



関西(かんせい)学院大学と読みます。
どうして、このような読み方になっったのだろうか。

関学が設立されたのは1889年。
明治22年の日本では、東京を「とうけい」というように漢音読みにすることが多かったようです。
ですから当時は「関西」も「かんせい」と読んでおり、関学の校名もそのままの読み方でつけられました。
東京を「とうけい」、関西を「かんせい」と言われたり書いたりしていたのは、いつ頃のことなのか。
明治時代は、それが普通のことだったのだろうか。

校名からも118年をかぞえる関学の長い歴史が感じられます。
ちなみに発音は「くわんせい」となり、関学の英文表記も「KWANSEI GAKUIN」となります。


2018年5月18日金曜日

文人囲碁会 坂口安吾

今日(20180519)の朝日新聞の天声人語は、私が学生の時に、よくよく読んだデカダン派の一人坂口安吾の作品から始まっている。
このデカダン派のことを、新戯作派とか無頼派とも呼ばれていた。
坂口安吾はじめ、太宰治、織田作之助、田中英光、井伏鱒二、壇一雄、山岸外史の本を気を失ったように読んだ。
夢中になると、私は必ず気を失ってしまう。
ヤマオカ、お前、どうかしたのか?と疑われた。

その坂口安吾の本というのは、下の「文人囲碁会」のことだ。
その後、関心を持つ作家は徐々に変わったが、卒業してほぼ50年経つと言うのに、彼らの名前を聞いたり見たりするだけで、頭の中の大半が狂ったように狂乱するのだから、不思議なものだ。

坂口安吾の作品には、彼自身の独特の不思議な魅力があり、狂気じみた爆発的な性格と風格がある、稀有な作家だった。
作品には、「桜の森の満開の下」「青鬼の褌を洗う女」「吹雪物語」「堕落論」「白痴」「道鏡」など。

東京演劇アンサンブルで劇化した「桜の森の満開の下」は、ストーリーの奇抜さは一際冴えていたが、当劇団の演出、舞台、音響、照明、何もかも技法・手法がよかった。
本に描かれている登場人物たちの台詞が、実にイイのだ。
主人公を演じた公家義徳さんの演技に惹かれた。

芝居に、気の利いた賞賛の言葉の吐けないことが悔しい。
この劇団の劇場名は「ブレヒトの芝居小屋」という。お付き合いさせてもらって、30年!
ブレヒトのことが、解からないまま、よくここまで付き合えてこれたものだ。 

泣けてく~る わ。

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文人囲碁会

坂口安吾


先日中央公論の座談会で豊島与志雄さんに会ったら、いきなり、近頃碁を打ってる?
これが挨拶であった。
四五年前まで、つまり戦争で碁が打てなくなるまで、文人囲碁会というのがあって、豊島さんはその餓鬼大将のようなものだった。

僕は物にタンデキする性分だが碁のタンデキは女以上に深刻で、碁と手を切るのに甚大な苦労をしたものだ。
文人囲碁会で僕ほどのタンデキ家はなかったのだが、その次が豊島さんで、豊島さんはフランス知性派型などゝ思うと大間違い、僕は文士に稀れなタンデキ派と考えている。

豊島さんの碁は乱暴だ。腕力派で、凡そ行儀のよくない碁だ。
これ又、豊島さんの文学から受ける感じと全く逆だ。

川端康成さんの碁が同じように腕力派で、全くお行儀が悪い。
これ又、万人の意外とするところで、碁は性格を現すというが、僕もこれは真理だと思うので、つまり、豊島さんも川端さんも、定石型の紳士ではない腕力型の独断家なのでお二人の文学も実際はそういう風に読むのが本当だと思うのである。
更に万人が意外とするのは小林秀雄で、この独断のかたまりみたいな先生が、実は凡そ定石其ものの素性の正しい碁を打つ。
本当は僕に九ツ置く必要があるのだが、五ツ以上置くのは厭だと云って、五ツ置いて、碁のお手本にあるような行儀のいゝ石を打って、キレイに負ける習慣になっている。

要するに小林秀雄も、碁に於て偽ることが出来ない通りに、彼は実は独断家ではないのである。
定石型、公理型の性格なので、彼の文学はそういう風に見るのが矢張り正しいと私は思っている。

このあべこべが三木清で、この人の碁は、乱暴そのものゝ組み打ちみたいな喧嘩碁で、凡そアカデミズムと縁がない。

ところで村松梢風、徳川夢声の御両名が、これ又、非常にオトナシイ定石派で、凡そ喧嘩ということをやらぬ。
この御両名も文章から受ける感じは逆で、大いに喧嘩派のようだけれども、やっぱり碁の性格が正しいので、本当は、定石型と見る方が正しいのだと私は思っている。

喧嘩好きの第一人者は三好達治で、この先生は何でも構わずムリヤリ人の石を殺しにくる。
尤も大概自分の方が殺されてしまう結果になるのだが、これ又、詩から受ける感じは逆で、何か詩の正統派のような感じであるが、これも碁の性格が正しいのだと私は思う。

倉田百三なる先生がこれ又喧嘩碁で、これは然し、万人が大いに意外とはしないようで、彼は新橋の碁会所の常連であった。
豊島、川端、村松三初段は全然腕に自信がなくて至って、鼻息が弱いのだが、倉田百三初段の鼻ッ柱は凄いもので、この自信は文士の中では異例だ。
つまり、この鼻ッ柱は宗教家のものだろう。
政治家なども大いに自信満々のようだが、文士というものは凡そ自信をもたない。

僕と好敵手は尾崎一雄で、これは奇妙、ある時は処女の如く、あるときは脱兎の如く、時に雲助の如く喧嘩腰になるかと思うと、時に居候の如くにハニカむ。
この男の碁の性格は一番複雑だ。
これ又大いにその文章を裏切っているがやっぱり碁の性格が正しいのだと私は思っている。

文人囲碁会で最も賞品を貰うのは尾崎一雄で、彼は試合となると必らず実力以上のネバリを発揮する。
このネバリは尾崎が頭ぬけており、文士の中では異例だ。わずかに、僕がそれにやゝ匹敵するのみで、他の諸先生はすぐ投げだしてしまう。
豊島、川端先生など、碁そのものは喧嘩主義だが勝負自体に就ては喧嘩精神は旺盛ではないようで、文人的であり、尾崎と僕の二人だけが素性が悪いという感じである。

文人囲碁会は、帝大の医者のクラブ、将棋差しのチーム、木谷の碁会所クラブなどゝ試合をしたが、勝ったことは一度もない。
豊島大将を始め至って弱気ですぐ投げたり諦めたりしてしまうから、他流試合には全然ダメで、勝つのは尾崎と僕だけだ。尾崎と僕は必ず勝つ。
相手は僕らより数等強いのだが、断々乎として、僕らは勝ってしまうのである。

尾崎は僕より弱くて、僕と尾崎が文人囲碁会チーム選抜軍のドン尻だが、他流試合ともなると、敵手のドン尻は大概二三級で、本来なら文句なしに負ける筈だが、全く、僕はよくガンバる。
こういう闘志は僕の方が、やゝ尾崎にまさっている。

僕が今迄他流試合をして、その図々しさに呆れたのは将棋さしのチームであった。
将棋さしのチームは木村名人が初段で最も強く、あとは大概、三四級というところだが、彼らは碁と将棋は違っても盤面に向う商売なのだから、第一に場馴れており、勝負のコツは、先ず相手を呑んでかゝることだという勝負の大原則を心得ている。

相手をじらしたり、イヤがらせたり、皮肉ったり、つまり宮本武蔵の剣法のコツをみんな心得ていて、ずいぶんエゲツないことをやる。
こういう素性のよからぬ不敵の連中にかゝっては文士はとてもダメで、実際の力はさしたる相手でないのに、みんなやられて、ともかく、闘志で匹敵したのは尾崎と僕だけであり、さすがに僕も、この連中にはやゝつけこまれた形であった。

僕が碁に負けて口惜しいと思ったのは、この将棋の連中で、いつか復讐戦をやりたいと思っているのも、この連中だけだ。
僕のような素性の悪い負けきらいは、勝負そのものでなしに、相手の人柄に闘志をもやすので、つまり僕と尾崎が、好敵手なのもそのせいだ。
豊島さんや川端さんが相手ではとても闘志はもえない。

尾崎は本当は僕に二目おく筈なのだが、先で打つ、彼は僕をのんでかゝるばかりでなく、全く将棋さしと同様に、じらしたり、いやがらせたり、皮肉ったり、悪道無道のことをやり、七転八倒、トコトンまでガンバって、投げるということを知らない。
そのうえ、僕を酔わせて勝つという戦法を用いる、つまり、正当では必ず僕に負ける証拠なのである。

彼は昔日本棋院の女の子の初段の先生に就て修業しており、僕も当時は本郷の富岡という女の二段の先生に習っており、断々乎として男の先生に習わぬところなどもよく似ていた。

戦争以来、彼は郷里に病臥して手合せができなくなったが、日本棋院も焼けてしまって、文人囲碁会もなくなり、僕も碁石を握らなくなってから、三年の年月がすぎてしまった。

2018年5月13日日曜日

木からだってお酒ができる !

今から52年前に卒業した京都府宇治市の城南高校時代のサッカー部の同窓生・友人から、久しぶりに電話をもらった。3年ぶりだ。
同じ学年では、彼と私の二人だけだった。優秀な後輩たちに恵まれていたので、愉快な高校時代のクラブ活動だった。

クラブの監督は岡本先生。
体育の先生で、当時の京都代表のゴールキーパー、主将でもあった。
サッカーだけのことで視野は狭すぎるが、東京オリンピックを終えメキシコオリンピックを控えていた。
そろそろ、強いチームを創らなくっちゃ、と関係者は焦りだしていた頃だ。
そのチームは、京都の先生たちの京都紫光クラブがメインだった。
その後、私の大学の大先輩になる釜本さん(山城高校卒)もいた。

友人は、愛知県にある私大の体育学部の2年生だった。
卒業後の仕事に就いては、相性が悪くはないが、どうなったか、どうしたか、話したこともない。
久しぶりやなあ!とか、元気か? 今はどんな生活をしているねん?とか、通常の挨拶の後。
彼が言うには、「木からだって酒ができるんだって?」。
そんな新聞記事を読んだものだから、お前には話しておかないとイカンと思ったのよ。

恥ずかしながら告白するが、私、2浪時代から他人(ひと)の目を避けてと言うか? 盗っ人(ぬすっと)猛々しくビールを飲んでいた。
アルバイトに雇ってくれた親方の酒癖に嵌(は)められたようだ。
だからと言って、酒池肉林の世界を夢見ていた訳ではないし、酒は百薬の長と思っていた訳ではない。
酒は涙か溜息か! 酒に対して、そんな、気分屋でも情動的でも心情的な人間ではない。
友人の実家はうどん屋さんで、何故か私の飲酒には厳しい奴だった。
そんな奴だからか? 俺には話したかったようだ。

実は、彼が電話をくれた内容については、自宅に配られてくる朝日新聞で、十分には解ってはいた。
が、ヘ~、そんなことが可能なんだ?ぐらいにしか関心を深めなかった。

私の兄も高校時代から飲んでいた。でも、父は私が勧めればビールをコップ1杯ぐらいは何とか飲む程度、嫌酒な父だった。

2018年4月26日の毎日新聞の記事をネットで調べ、ここに転載させていただいた。
よ~く考えれば、このことは、ひょっとして、日進月歩か? 日増しに筍(たけのこ)か?
大きな話題になるかもしれんと思い直した。



森林総合研究所(茨城県つくば市)は、26日、木材を発酵させ、木の香りを残したままアルコールを製造する技術を開発したと発表した。

今後飲用のための安全性を確認し、民間企業との共同研究を経て、2020年までに世界初の「木のお酒」実現を目指す。

木から燃料用アルコールのバイオエタノールを製造する技術はあるが、硫酸を使用したり、分解しにくい木の成分「リグニン」と一緒に香り成分まで除去されたりするため、燃料以外に使うことは難しかった。

森林総研は、木を粉砕してクリーム状にし、食品用の酵素や酵母を加えることで、リグニンと香り成分を残したままアルコール発酵させる技術を開発。


スギ、シラカバ、サクラ(ソメイヨシノ)などで試験製造し、スギの場合、木材4キロからワインと同程度の度数のアルコールが約3.8リットル程度できた。
今回開発した製法によるアルコールは、スギ原料からはスギ木材と同じ香りがした一方、シラカバ原料では樽熟成したウイスキーなどと同じ成分による香りがした。
木の種類を変えることで多様な香りのアルコールをつくれるという。
沢田治雄所長は「花見をしながらサクラの木からできる『酒』を楽しめるようになるかもしれない。
地元木材原料の『酒』で地域に新たな収入をもたらすなど、林業振興につながることも期待できる」と話す。

【大場あい】




2018年5月6日の朝日新聞・夕刊の記事の一部も、ここに転載させていただいた。



サクラもスギも「木のお酒」

醸造技術を開発 商品化目指す


(森林総研)
樹木の細胞壁が硬く、微生物が分解発酵できないために、木材そのものを原料とした酒はできなかった。
薬剤で細胞壁を壊すことはできるが、食品にはできずに燃料用のアルコールにしてきた。
研究チームは樹皮を除いた木材を天然水に漬け、直径2ミリのセラミック球と一緒にミキサーにかけて、薬品を使わずに細胞壁を粉砕する技術を開発、酵母などを加え、タンク内で2~4日発酵させたところ、アルコール度数約2%の琥珀色の原液ができた。

サクラ材から作った「サクラ酒」はほのかに甘い香りで、ワインにも似た味わい。
「シラカンバ酒」はブランデーのようで、「スギ酒」は針葉樹らしいドライな感じに仕上がった。

(三嶋伸一)






2018年5月8日火曜日

衣笠祥雄(さちお)



私、今夏9月で70歳。
歳(とし)の所為(せい)なのか?、何故か? 偉大な人たちや賢人たちに、異常に関心を持つようになってしまった。
関心とは、感心して歓心することだ。
ハシタナイ言い方になるかもしれないが、幸せな気分になる。

「所為か」はセイカであって、ショイではない。
このヘッピリ腰の私だからなのか、この歳だからなのか、偉大な勇者や賢者の誇りに寄り添い、その人たちに袖撫ぜして欲しいと思うことがある。
衣笠祥雄は、京都府の出身で平安高校の野球部だ。
京都府と言っても、京都市東山区馬町の出身だ。
私だって、京都府綴喜郡宇治田原町の維孝館中学校の出身。同級生で、田舎一の野球マンの堀君が進学したのも、衣笠選手と同じ平安高校だった。
堀君は投手だった。
平安高校の校名はよくよく知ってはいたものの、同級生までがその学校の野球部に入るとは、思ってはいなかった。

私は今夏で70歳になる。だから、堀君と衣笠選手とは同じグランドで同時に練習をしていたのではないか。
小中の9年間、一緒に学んだ者にとって、何とか頑張って、レギュラーになってくれればと願った。
彼の高校時代の諸処については、私も自身のサッカー狂にウツツを抜かしていたものだから、詳しくは知らない。
京都市立洛東中学校の野球部。ショートの守備を志望したが、下手糞だったので捕手をやらされた。広島に入団した当時は捕手だった。それから三塁を守った。
1965年、契約金1000万円、年俸120万円。

なぜ、衣笠祥雄は広島カープの監督になれないのか、ということについてネットで知り得たことをここに書く。

その理由については諸説飛び交っている。
「本人が固く辞退している」
「球団オーナー筋との確執」
「チームでの人望がない」など。
あるいは、「ハーフという出自が災いして差別を受けている」
「国民栄誉賞受賞の経歴が足かせになっている」などといったものだ。
実際のところ、球団オーナーとの確執は、ファンの間でも信じられている話ですが、さらに、この中で理由になるとすれば、「本人が辞退」+「国民栄誉賞受賞の経歴」が考えられる。

衣笠は、在日米軍のアフリカ系アメリカ人と日本人の母の間に生まれた。
私は昭和23年生まれで、星野仙一、衣笠さんと同じ団塊の世代だ。


★2008 4月25日(水)の朝日新聞・朝刊の1面と17面=球界の反応、35面=評伝をここに転載させてもらう。1面の天声人語も転載させてもらった。
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「鉄人」衣笠さん死去
2215試合連続出場 日本記録


プロ野球広島東洋カープで1987年に当時の連続試合出場の世界記録を塗り替え「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)さんが23日、上行結腸がんのため死去した。
71歳だった。
葬儀の日程は公表していない。2017年1月まで朝日新聞社嘱託を務めた。
14年夏に体調を崩し、入院した。
当初は周囲に心配をかけまいと入院したことをふせていた。その後も闘病生活を続けながら、プロ野球や大リーグの後輩選手を温かい目で書きつづった。

京都府の出身で、地元の平安高(現龍谷大平安)の3年時に春夏の甲子園に出場し、ともに8強入りした。
65年、広島に入団。
強打の三塁手として活躍し、広島の5度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。
球団として初のリーグ優勝を果たした75年、山本浩二さん(71)らとともに「赤ヘル軍団」と呼ばれた主役の一人だった。
70年からは連続試合出場を重ね、87年6月に当時の大リーグ記録2130試合を超えた。
同年の現役引退まで2215試合に記録を伸ばし、今も日本のプロ野球記録として残る。


1987年6月13日、2131試合連続出場の世界記録を達成し、花束を手にする衣笠祥雄さん=広島市民球場

96年に大リーグ・オリオールズのカル・リプケンさん(57)に記録を抜かれる際は式典に出席し、祝福した。
同年、野球殿堂入り。
通算2543安打、504本塁打、1448打点、266盗塁。走攻守、3拍子そろった選手だった。背番号「3」は広島の永久欠番になっている。

「お手本だった」
山本浩二さんは一番の思いでは「初優勝した年(1975年)のオールスター戦で2人が2打席連続本塁打」と述懐。
「休みたいと思っても、彼がそばにいる限り休むことは許されなかった。最高のライバルであり、チームメートであり、お手本になる選手だった」

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(天声人語)

ヤマ場で主軸打者が三振すればファンはむろん怒る。ため息もつく。
だがカープの衣笠祥雄選手の三振は違った。むしろ球場が沸く。
「衣笠なら仕方がない」。
赤いヘルメットを宙に飛ばしながらのフルスイング。
生涯に1587もの三振を記録した。

独特の三振哲学を持つ。
巧打より長打にこだわり、勝負に出たときの空振りを自ら「攻撃的三振」と呼んだ。
見逃しの三振は「情けない」と嫌った。

死球を受け骨折した翌日も痛みをこらえて出場した。
スランプに陥れば、「連続出場記録のためだけに出ているのか」とヤジを浴びた。
それでも「カラリと晴れ上がる青空は必ず来る」と自分に言い聞かせ、2215試合連続出場の偉業を打ち立てた。

引退後、本紙嘱託としてコラム「鉄人の目」を担当した。
左右の人さし指だけでキーをたたく独特の打法。
ひらがなが多い。
句読点は少ない。
ただその原稿は、後輩を勇気づける言葉であふれていた。

「来たらクビだ」。
二十数年前、衣笠さんの険しい表情を大写しにしたポスターが朝日新聞社内に貼り出された。
休日消化を促す呼びかけだった。
骨折しても出場を選んだ当人に「休め」と言われると、素直に「休まなきゃいけないな」と思うから不思議である。

球界でも、連続出場記録よりむしろ、休むことの大切さが言われるようになって久しい。「選手に無理をさせるな」「故障に泣く人を減らせ」。
オンとオフの重要さを球界に訴え続けた鉄人は、そんな言葉を残して旅立った。

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野球愛 フルスイング

衣笠祥雄さん死去

「2215」。
現在でも衣笠祥雄さんが持つ連続試合出場記録はプロ野球最多として輝く。
体に近い内角球を恐れず、フルスイングでファンを魅了した選手だった。
死球は歴代3位の161個で、三振は当時最多(現在9位)の1587個を数えた。
野球界は星野仙一さんに続き、また一人、1970~80年代を彩ったスターを失った。

入団2年目まで1軍と2軍を行ったり来たりで、スカウトから「このままだとクビだ」と脅かされた。
しかし、3年目からコーチに就任した根本陸夫さんの助言で長所は長打力だと再認識し、6年目にはコーチの関根潤三さんと深夜にまで及ぶ猛練習でスイングを磨いた。

選手として23年間のうち、打率が3割を超えたのは1度。それは入団20年目のことだった。
現役を引退した後も、晩年は闘病生活をしながら最後まで「鉄人」らしく、野球界に携わった。


1980年、近鉄との日本シリーズ第7戦の7回に左越え2点本塁打を放ち、一塁を回る衣笠祥雄さん




1980年、巨人ー広島の14回戦で、1247試合連続出場の日本記録を達成し、王貞治さんから花束を受け取る衣笠祥雄さん

1975年から監督として広島の黄金期を築いた古葉竹識さんは「涙が出ました。サチが私より先に逝くとはーーーーー」とショックを隠しきれない様子。
2月ごろに会った時、体調を心配して声をかけたら衣笠さんは「大丈夫」と答えたという。
「骨折した時も『絶対出たい』と言ってきて。
だから、『大事なところで使う』と代打で使ったんです』と当時を振り返った。

広島のOB会長を務める安仁屋宗八さんは「まさかと耳を疑った。入団時はバッテリーを組んだこともあった。
三塁転向後はエラーでよく足を引っ張られたが、『必ず打って取り返すから』と言われた。いつまでも元気でいて欲しかった」と語った。
大下剛史さんは「寂しい。二遊間を組んで敏之(三村)が逝って、今度はサチ。
これで初優勝メンバーの内野手は私とホプキンスだけになってしまった」。

広島の後輩たちは「本当に優しい人だった」と口をそろえた。
大野豊さんは「マウンドによく声をかけに来ていただいた。怒られたことは一度もない。いつも元気づけられた」という。
北別府学さんは「ピンチの時にも頑張れと背中を押してもらった。あの笑顔は忘れられない」と思い出を語った。
達川光男・現ソフトバンクコーチは「キヌさんは『痛いとかかゆいとか言うからけがになる。黙っていたら分からん』と言っていた」と語った。
小早川毅彦さんは「プロとしての厳しさ、責任感を教わり感謝しきれない。若手のお手本だった」。

広島の緒方孝市監督は2016年に25年ぶりのリーグ優勝を決めた際、「ここから常勝の強いカープを築いてくれ」と言われたという。「優勝、日本一の報告をするためにも全員で戦っていきたい」と語った。

歴代3位の1766試合連続出場記録を持つ阪神の金本知憲監督は「カープの先輩であるキヌさんから、休まないということに関していちばん影響を受けた。中心選手は常にグラウンドに立っていないといけないことを、無言で示した人だった」と振り返った。

かってのライバルたちも、衣笠さんの死を悼んだ。
元巨人監督の長嶋茂雄さんは「巨人戦で死球を受けた時には、カープのベンチを自らなだめながら笑顔で一塁へ向かう姿が忘れれられません。芯が強く、優しい心を持っているいい男、ナイスガイでした」とコメントを発表した。

王貞治・現ソフトバンク会長は「闘争心をもって戦う中では珍しいタイプの選手だった。敵ではあるが、それを超えた形で話ができる人。もっともっと話がしたかった」と惜しんだ。

楽天の梨田昌孝監督は「79,80年の日本シリーズで対戦した」と近鉄時代の対戦をなつかしみ、「衣笠さんの辛抱強い姿を見て、今の広島の礎が築かれたのだと思う」。

日本代表の稲葉篤紀監督は「会うたびに『頑張れよ』と笑顔で声をかけていただいた。まさか、という思い」と話した。
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情熱を言葉に
  こだわりぬいた

衣笠祥雄さんは現役を引退した1987年オフに朝日新聞社嘱託となり、29年間にわたって名物コラム「鉄人の目」などを執筆した。

親しい記者の手ほどきを受け、自ら文章をつづることにこだわった。手書きからワープロになると、ゴルフに行く際も持参し、宿泊先でキーボードを打つ練習をしていたという。

文章を書く作業が長年の習慣になっていたようで、70歳になった2017年1月で契約を終えた後も、頻繁に自身の考えをまとめて野球担当記者にメールで送ってくださっていた。

開幕直後の今月2日に届いた文章が「遺稿」となった。「パ・リーグは西武が走りそう」などとシーズンを占った内容を、「鉄人の目」の最終回として、読者の皆様にも紹介したい。

今年2月28日には、同学年の高嶋仁・智弁和歌山高監督、中村順司・名商大総監督と野球談義をしてもらった。今夏で100回大会を迎える高校野球の紙上企画として実現した。

体調が万全でない中、衣笠さんはどんどん話をリードして下さった。「我々は個性派世代だね」「だけど、入り口は一緒。基本です。迷ったら帰るところがあるから個性も発揮できる」「今の選手には野球をもっと楽しんで欲しい」。持論を熱く語った。

最後の最後まで、野球に対する情熱、愛情にあふれた人だった。

(編集委員・安藤嘉浩)
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鉄人の目

長い戦いも最初が大切
今月2日に届いた最後のメール

プロ野球が開幕した。2月1日のキャンプインから各監督、コーチ、選手は開幕時に最高の状態を作るために頑張ってきた。
長いシーズンの一部とはいえ、最初の一歩は大切なものだ。

オープン戦1位の巨人が開幕カードで阪神に勝ち越し。
4年目の岡本が2試合連続本塁打と、いよいよ頭角を現してきた。
打線のつながりという面では工夫が欲しい感じもあるが、この若者の成長を楽しみたい。

調子が上がらなかった広島も中日に3連勝した。
中日には自信を持って戦っている感じで、今年もこのカードで星を稼ぎそうだ。
パ・リーグは西武が日本ハムに3連勝と勢いがつきそうな勝ち方だった。

次の3連戦もファンにとっては見逃せないカードになる。
先発が6人確保されているのか。不安を抱えているのか。各チームの台所事情が見えてくるはずだ。

セ・リーグは広島が今年も走り始めるのか。どこが迫っていけるのか。
パ・リーグは西武がソフトバンクに勝ち越すようだと、一気に走りそうな勢いを感じる。まだ始まったばかりとはいえ、大切な勢いが連日続いている。

(元朝日新聞社嘱託)

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優しき鉄人
衣笠さん 心配り 仲間に敵に

1980年8月の巨人―広島14回戦。連続試合出場1247試合の当時の日本新記録を達成した衣笠祥雄さん

プロ野球の広島カープで連続試合出場記録を樹立し、引退後は野球解説者を務めた衣笠祥雄さんが逝った。
71歳だった。
記録と言う数字に追われながら、1970年、80年代のカープを支えた一人。
人なつっこい笑顔が印象的だった「鉄人」の突然の旅立ちに、悲しみが広がった。

評伝
「江夏豊の21球」の時の衣笠祥雄さんの姿が、やはりまぶたから離れない。
1979年だった。広島と近鉄の日本シリーズ第7戦。
リリーフエースの江夏は、ピンチをむかえていた。1点リードの9回裏1,3塁。広島の古葉竹識(たけし)監督は池谷公二郎と北別府学にブルペンでの投球練習を命じた。
延長戦も想定しなければならない。監督としては当然の判断だ。
が、江夏の表情が変わった。「何しとるんや。おれに、よう任さんというのか」。

そんな気持ちを衣笠さんだけが察知したのだ。無死満塁になり、マウンドへ行った。「お前がやらないのなら、おれも辞めてやる」。瞬時に言った。これで江夏は落ち着いた。
ピンチからの脱出は、この衣笠さんの一言がなければ生まれなかった。
デリケートな人だった。
極めて繊細で人の心を思いやるアスリートだった。

「鉄人」と呼ばれた。
連続試合出場の記録を持っていたからだ。
79年8月1日の巨人戦で西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折した。しかし、次の試合で代打で登場し、連続試合出場は続いた。この試合の打席は江川卓に対し、フルスイングでの三振だった。

「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のため。それにしても江川君の球は速かった」。試合後、そう話した。
次の試合はフル出場し、ファンを驚かせた。

実は連続出場記録にこだわった人ではない。逆にこの記録にしばられた人だといってもいい。

87年に大リーグのルー・ゲーリッグが持っていた記録を抜いた。
が、力が衰えながら記録を更新しなければならないことに、自分自身、納得がいっていなかった。
96年だった。カル・リプケンが衣笠さんの記録を抜いた。そのお祝いに渡米する直前、ホテルのバーでご一緒したことがあった。
「自分の判断で記録を止めることができなかったんだ。やっとリプケンにバトンを渡せたよ」。なんともいえない笑顔だった。

引退してからは、朝日新聞社嘱託として、評論活動をお願いしていた。
普通、野球評論家の原稿は聞き書きするのが当たり前なのだが、衣笠さんは必ずご自分で書いてきた。行数を守っていただけないので、削るのに苦労するのだが、野球に対する愛情と誠実さがひしひしと伝わってきた。

記者の食事会にもつきあってくださり、若い記者の質問にも、気楽に答えてくださった。偉ぶったところの全くない存在だった。

(元朝日新聞編集委員・西村欣也)




1979年の日本シリーズ第7戦で、広島は近鉄を破り初の日本一を達成

赤ヘル打線、広島に勇気
衣笠祥雄さんのプロ野球人生は、被爆地・広島とともにあった。

衣笠さんは、1965年に入団。
当時球団は50年の創設以来Aクラス入りを果たせず、低迷を続けていた。
次第に頭角を現した衣笠さんは山本浩二さんらと「赤ヘル打線」の中軸を担い、75年にはチームをセ・リーグ初優勝に導き、79,80年には2年連続日本一を果たす原動力になった。

衣笠さんにとって、原爆ドームと道を挟んで向かい合う旧広島市民球場は特別な場所だった。
「野球を思う存分できることは、戦争で志半ばで倒れた人もいることを思えば、なんと幸せなことだろう」。こう思いをはせていたと自著で打ち明けている。

4歳の時に被爆し、体験を伝えている伊藤正雄さん(77)=広島市佐伯区=は、苦しい時にも、フルスイングする姿が印象に残っている。「『なにくそ』と頑張る姿に勇気づけられた」




1996年、大リーグのリプケン選手(手前)が連続試合出場の新記録を達成した試合で始球式をつとめた衣笠さん

リプケンさん「友で誇り」
大リーグで2632試合連続出場の記録を持つカル・リプケンさん(57)は衣笠さんの悲報に対し、朝日新聞にコメントした。

「愛する野球に臨む覚悟や気持ちについて、衣笠さんと私は同じ考え方を持っていた。彼と育んだ友情は、私にとってかけがえのない価値があり、親友でいられることを誇りに思っていた。偉大な選手であり、衣笠さんから感じる器の大きさを尊敬していた。本当に悲しい」。



江夏さん「早すぎた」
1979、80年に衣笠さんと一緒に広島の日本一連覇に貢献した左腕・江夏豊さん(69)は「いずれ誰しも行く道だけれど、早すぎた。
3日ぐらい前に電話で話したところだった。その時はまあまあ元気だったよ。
19日に横浜の試合でしゃべっていて、声が出ていなかったから、『声出とらんぞ。無理するな』と。
そしたら『わかった、わかった』と言っていた。ちょっとの間、1人で寂しいけど、すぐに追いかけるから」と話した。