2018年5月28日月曜日

獄友(ごくとも)


20180322の朝日新聞・夕刊で映画・「獄友」の記事を読んだ。
冤罪青春グラフティ!
この新聞記事を下に転載させてもらった。
ーーーーーとーーーーーの間の文章が新聞記事です。


恥ずかしながら言わせてもらえば、このジャンルの映画については、無頓着に惹(ひ)かれる。
この性癖は、約50年前、体育局の運動クラブに所属しながら、夜遅くにデモに参加していた時分からだ。
徒歩で、赤坂から高田馬場駅近くの後輩のアパートに、早朝5時ごろに辿り着いた。
ジャンパーの背中は、催涙弾の臭いがして不愉快だった。
秋田出身の後輩は、嫌な顔をすることなく、気前よく寝かせてくれた。
デモ? 勝ったわけでもなく負けたわけでもなく、何故か涙が流れた。
わけもなく哀しかったのだ。

私だって、環境がちょっと変則的だったり、何かで間違いが発生したら、充分に獄友さん風になる可能性だってあったかもしれない。
幸せなことに、不幸にはならなかったが、獄友さんに励ましのエールを送りたい。
繰り返すが、この私だって、加害者にも被害者にもなることだって、あったはずだ。
石を投げる側なのか、投げられる側なのか。
法廷において、原告になるのか被告になるのか、そんなことよく解らない。

石川一雄さんの「狭山事件」については、高校時代に物理の岡田先生と数学の女の先生が、機会あるごとに、この狭山事件で逮捕された人がどうして刑務所に拘禁されているの? どうしても可笑しいと主張していた。
京都府は共産系の蜷川知事が頑張っていて、メーデーなどは結構派手な運動日だった。
私には、先生たちや文部省の言い分について、その良否については解らなかった。
でも、先生たちの明るい表情だけは、今でも思い出せる。

石川さんが被差別部落の出身であることから、部落差別との関係を問われ、市民権運動の時代に大きな争点となった。
よって、此の事件の裁判を狭山差別裁判と呼ばれようになった。
「狭山事件」だけ部落解放同盟が大いに意見を熱くしたわけではない。
どの事件に関しても日本全国津々浦々、各地にある部落開放同盟が参加していた。
大学時代、西武新宿線の東伏見駅を生活の根拠にしていたからなのか、狭山のことは何故か頭から離れなかった。
野間 宏の「狭山裁判 上・下」を読んで、尚一層深みに嵌(は)まってしまった。


どうしても、この映画を観たいと思ったが、私のスケジュールと上映している映画館の相性が悪く、上手く予定が組めなかった。
そうしているうちに時間が経った。
時間に余裕ができた時は、仕事中と言えども、こそっとネットで映画の内容を調べた。
どうしても観たいが、何処で観るか? 誰と観るか?と悩んでいた。
そうしていたら、ラッキーにも時々足を運ぶジャック・アンド・ベティで上映することを知った。

私が心密かに愛している、横浜の不思議な映画館だ。
一緒に行けたらイイナァと思っていた東京都・新宿区の友を、無理やり横浜まで首に紐をぶら下げて、否、帯同のうえ強引することもなくなった。

折角だからこの映画館のことを少し紹介しよう。
横浜市中区若葉町にある、2スクリーンのミニシアター。
正確には、横浜シネマ ジャック&ベテイだ。上映の機会が少ない良質な映画を、ジャンルを問わずセレクトして上映する、ちょっと変わった映画館。
そんな映画館だからか、この映画館に時々来ている。
この映画館は、同じ場所に存在した「横浜名画座」を引き継いで、1952年12月25日に建てられた。
終戦後に接収され、米軍の飛行場として使用された跡地だった。まさか、ここはそんなに広場があったのだ、と驚いた。

今後、話題が一際(ひときわ)高まる新聞記事を、ゴミ処理するわけには如何と思った。
幾ら資源回収だと言って、このまま、古新聞コーナーに捨て置くわけにはいかないだろう。

これは、映画「獄友(ごくとも)」のことだ。
いただいた映画のチラシの表面には、

やっていないのに、殺人犯。
人生のほとんどを
獄中で過ごした男たち。
彼らは言う
「不運だったけど、不幸ではない」。

必ず観てやると決心したものの、今回も、恥ずかしげもなくたった一人きりだ。
が、ラッキーなことに横浜みなとみらいに用事がある次女の婿が送ってくれた。
申し訳なく、次女の婿とその子どもに(私の7番目の孫)昼飯をご馳走した。
彼にはお好み焼き、孫にはオムライス。私はちっちゃな食事とビールをたのんだ。




2018 5 27(日)
13:45~






主題歌「真実・事実・現実 あることないこと」の歌詞はこの稿の一番下にある。

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★以下は新聞記事です。


3人で会話する(右から)菅谷利和さん、桜井昌司さん
石川一雄さん=昨年8月18日、埼玉県狭山市



冤罪叫ぶ「獄友」

元受刑者らの交流 映画に

「親の死に目に会えなかった」 無罪ーーーでも心に傷

冤罪を訴え、闘ってきた元受刑者らの交流を描いたドキュメンタリー映画「獄友(ごくとも)(115分)が完成した。
獄中生活、合わせて155年ーーー。
奪われた時間を取り戻すかのように生きる5人の男性の姿を、映画監督の金聖雄さん(54)がカメラに収めた。

映画に登場するのは1967年の「布川事件」で無期懲役が確定し、29年の獄中生活を経て2011年に再審で無罪となった桜井昌司さん(71)。
90年の「足利事件」で無期懲役が確定し、10年に無罪となった菅谷俊和さん(71)。
63年の「狭山事件」で無期懲役となり、仮釈放後の今も再審請求を続ける石川一雄さん(79)ら。
いずれも髪やひげが白くなり、笑うと目尻にしわが目立つ年齢だ。
映画の最初の編では、彼らが刑務所から出所した際の光景が黒白で映された。そこから、この映画が始まった。

釈放後、支援者の集会などを機に互いの家を訪ねるようになった獄友たち。
一緒にカラオケを熱唱し、結婚生活の良さを語り、ときに長かった獄中暮らしを懐かしむ。

約7年前から撮影のために石川さんのもとに通っていた金監督は、そんな男性たちの不思議な関係に興味を持ち、カメラを向けるようになった。

「どんなに無実を叫んでも、その声は届かない。困難を乗り越えて生きてきた彼らだからこそ、価値観を共有できるのだと思う」と金監督は言う。

作品中には、取り返せない時間の重みを感じさせるやり取りもたびたび登場する。
時間の経過を映し出すように、背の高い向日葵(ひまわり)が大きな花が咲き、そして枯れ果てた。
真っ暗闇の中で、小さな線香花火に火が点いた。
石川さん、桜井さん、菅谷さんが集まって会話をする場面。
「獄中生活で一番つらかったこと」を問われ、石川さんは「親の死に目に会えなかった」ことを挙げた。
3人とも、服役中に両親が他界。
桜井さんが「今でも両親が生きているような気がする。中(獄中)いると死んだってことがよくわからないから。不思議な感じなんだけどーーーーー」としみじみと語る姿は、冤罪の理不尽さを強く訴えかけてくる。

66年に静岡県清水市(当時)で一家4人が殺害された事件で死刑が確定し、静岡地裁の再審開始決定で48年ぶりに釈放された袴田巌さん(82)も登場する。
自宅を訪ねてきた桜井さんと将棋に興じることもある袴田さんだが、長年の獄中生活から精神は不安定で、映画の中では桜井さんを「帰ってくれ」と突き放す。
何かと袴田さんの世話をしていた姉の言葉も耳から離れない。
帰ってきてからのことですが、何を言っているのか、文章を綴っているのだが、何を書いているのか、私にはさっぱり解らなかった。
自宅に着いた後は、部屋の中を一日中あっちこっち歩き続けた。何を考えているのか、不安でした。
でも、そのうちに自ら家の外へ歩き出した。
そして吃驚することに、少し少しだけれど走りだした。昔のボクサー時代でも思い出したのだろうか。表情は堅くても、真面目な顔つきだった。

取材に「元ボクサーで僕よりずっと強い袴田さんだが、今も苦しみの中にいることは理解できる」と語る桜井さん。
そんな桜井さん自身にも心の傷は残る。
手錠を思い出すため、いまだに腕時計はつけられない。
それでも「たった1回の人生だから明るく楽しくやろう」と笑いながら、今も様々な場面で獄友たちを励まし続けている。
自ら作詞、作曲した歌を歌った。CDも作って、何かと獄友たちを救う会になればと思っていると言っていた。

昨年12月20日に都内であった試写会では、桜井さんが石川さんら今も再審の道が開かれない人たちに触れ「同じ苦しみを背負う仲間の肩の荷を下ろすまで闘う」とあいさつ。金監督は「『やっていない』と叫び続けた彼らの生き方に思いを寄せてもらいたい」と話した。

金監督は前作「袴田巌 夢の間の世の中」や「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」で、袴田さんや石川さんを主人公にしたドキュメンタリー映画を撮影してきた。
映画「獄友」は今月24日から、東京・ポレポレ東中野などで順次上映される。

(華野優気)


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映画「獄友」のパンフレットより。


自分たちのことを「獄友」と呼び、獄中での野球や毎日の食事や仕事のことを懐かしそうに語り、笑い飛ばす。
そこには同じ殺人犯という濡れ衣を着せられた「冤罪被害者」という立場だからこそ分り合える時間があった。
そして何故「自白」したのか、獄中で何があったのか、娑婆に出てからのそれぞれの人生と友情を追う。
いま、”ごくとも”たちは、”青春”のまっただ中にいる。
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上映後、桜井昌司さん(出演・布川事件冤罪被害者)、金聖雄監督によるトークがあった。






主題歌・「真実・事実・現実 あることないこと」
  作詞:谷川俊太郎  作曲:小室等

ほんとをうそにするのはコトバ
うそをほんとにするのもコトバ
コトバはヒトのつごうでかわる
うそがほんとのかめんをかぶり
うそのすがおはやみのなか

一つしかない『真実』
言葉で二つの「事実」に分裂
ほんとの事実と代わりの事実
二つの事実が言葉のおかげで<現実>
それがじりじり侵し始める真実

黒なのか白なのか
天は知っているはず
地だっておそらく知っている
でもおのれはどうか
他人の言葉の綱に絡め取られて
自分の言葉がもがいている

なかったか あったのか
なかったことがあったとされて
おぼえていることわすれさられ
あることないことこんぐらかって
ほんとのほんとはどこにある
ほんとのほんとはどこにある

生まれたばかりの真っ白な雪が 夜
人間たちの足跡で汚れていきます 朝

どれが自分の足跡なのかも分からないほどに 
そんな現実からいくつもの事実へと
いくつもの事実へとさかのぼり

遂にただ一つの真実に至る道は
信じて夢見ることから始めるしかない
信じて夢見ることから始めるしかない
信じて夢見ることから始めるしかない
信じて夢見ることから始めるしかない


ほんとをうそにするのはコトバ
うそをほんとにするのもコトバ
コトバはヒトのつごうでかわる
うそがほんとのかめんをかぶり 

うそのすがおはやみのなか
うそのすがおはやみのなか
うそのすがおはやみのなか
うそのすがおはやみのなか


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ネットで得た記事です。
     
布川事件

茨城県利根町布川で1967年8月、大工の男性(当時62歳)が自宅で殺された。茨城県警は80人体制で検査を進め4名を別件で逮捕したが、事件に関与した証拠は得られなかった。事件に関与した証拠は得られなかった。
捜査が手詰まりになる中、県警は桜井昌司さんと杉山卓男さんを別件逮捕。

警察の留置場での長時間に及ぶ取り調べの末、虚偽の「自白」をさせ、検察は物証がないまま起訴した。公判で桜井さんらは無実を訴えたが、1970年、一審で無期懲役判決を受け、1978年、最高裁で確定した。
2001年、第2次再審請求を申し立て、2005年、水戸地裁土浦支部が再審開始を決定。
2009年12月15日の最高裁決定で再審開始が決まった。
有罪から無罪へ司法判断が変わった決め手は、有罪確定後に検察が開示した証拠だった。
近所の女性の目撃証言、残された毛髪が2人のものではないという鑑定書。
取り調べの録音テープだった。
検察は無罪を示唆する証拠を隠したまま、起訴していたことになる。
録音テープにも編集の跡があることが分かり、
高裁決定は「自白は取調官の誘導をうかがわせる」と指摘。
当初は容疑を否認していた2人を、拘置所から、警察署内の留置場に逆送して、
「自白」を得た経緯も、高裁は「虚偽の自白を誘発しやすい環境に置いた」と批判した。
2011年5月24日、水戸地方裁判所土浦支部にて無罪判決が下された。

狭山事件

1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が行方不明になり、
脅迫状がとどけられるという事件がおきました。
警察は、身代金を取りにあらわれた犯人を40人もの警官が張り込みながら、
取り逃がしてしまった。
女子高校生は遺体となって発見され、警察の大失敗に世論の非難が集中しました。
捜査にいきづまった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を集中し、
なんら証拠もないまま石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、
1カ月にわたり警察の留置場(代用監獄)で取り調べ、ウソの自白をさせて、
犯人にでっちあげたのです。
地域の住民の「あんなことをするのは部落民にちがいない」という差別意識や、
マスコミの差別報道のなかでエン罪が生み出されてしまったのです。
一審は死刑判決、二審では無期懲役判決が確定。
石川さんはただちに再審請求を申し立てましたが、
第一次再審請求はまったく事実調べもなく棄却。
再び1986年8月に第二次再審請求を東京高裁に申し立てました。
石川さんは再審を求める中、1994年12月仮出獄、
31年7ヶ月ぶりに狭山に帰りさらに闘い続けます。
世論も高まり、国際人権規約委員会が「弁護側がすべての証拠にアクセスできるよう法律、
および実務を改めること」を日本政府に勧告しますが、
1999年7月またも事実調べを行うことなく、再審請求を棄却しました。
そして2006年5月みたび、第3次再審請求。なかなか再審の扉は開きません。
しかし2009年9月から三者協議が開かれ、狭山の闘いに光りが差し込みました。
2回目の協議で門野裁判長が証拠開示勧告。
2010年5月の三者協議で東京高検が開示勧告を受けた8項目の内5項目36点の証拠が、
開示され再審へ向け確実に一歩前進しました。石川さんをはじめ狭山の闘いは、
事件の公正な裁判―再審開始を求めるとともに、 あらゆる差別や冤罪、
人権侵害をなくし、
取調べ可視化・司 法民主化を求める運動としてはばひろくすすめています。

袴田事件

1966年6月30日未明、静岡県清水市(現静岡市清水区)で、
味噌会社専務一家4人が殺され、放火された事件。
味噌会社の従業員だった袴田巌さんは「元プロボクサーならやりかねない」という偏見
により逮捕され、拷問を伴う長時間の取り調べにより、「自白」を強要させられました。
袴田巌さんは、裁判では一貫して無実を訴えましたが、1968年静岡地裁で死刑判決、
1980年最高裁で死刑が確定。
1981年以来、再審を求め続け、遂に2014年3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は、
再審開始を決定しました。
その内容は「証拠はねつ造」「これ以上の拘留は正義に反する」とする画期的なものでした。この日、袴田巌さん獄中48年目にして東京拘置所から解放されました。
しかし、3月31日、静岡地方検察庁が東京高裁に即時抗告したため、
再審開始は先延ばしとなり、いまも、死刑囚のレッテルは貼られたままです。

足利事件

1990年5月12日、栃木県足利市のパチンコ店で行方不明となった女児(当時4歳)が、
翌日、パチンコ店近くの渡良瀬川の河川敷で死体で発見された事件。
犯人のものと推定される体液が付いた女児の半そで下着も付近の川の中で見つかり、
わいせつ目的の誘拐・殺人事件とされた。
足利市ではこの事件の前、2件の女児殺人事件が起きていたこともあり、
栃木県警は180人態勢で徹底した捜査を進めた。
幼稚園の送迎バスの運転手で、事件現場のパチンコ店の常連でもあった菅家利和さん
(当時43歳)を疑った県警は、菅家さんを事件半年後から1年間尾行したが、
怪しい点はなかった。
1991年6月、県警は菅家さんが捨てたゴミ袋から体液の付いたティッシュペーパーを発見。
警察庁科学警察研究所(科警研)にDNA鑑定を依頼し、科警研は同年11月、
菅家さんと犯人のDNAの型が一致したとする鑑定書をまとめた。
これを受けて県警は、12月1日、菅家さんを任意同行し、深夜に及ぶ尋問の末、
犯行を認める「自白」を引き出し、21日、わいせつ目的誘拐と殺人、
死体遺棄の容疑で逮捕した。
検察は、先に起こっていた2件の殺人の「自白」は「嫌疑不十分」として起訴しなかった、
が、パチンコ店から行方不明になった女児殺害についての「自白」は疑うことなく、
菅家さんを起訴。
菅家さんは第1審の途中から否認に転じたが、1993年7月7日、
宇都宮地裁は無期懲役の判決を言い渡し、東京高裁も控訴を棄却。
2000年7月17日の最高裁判決で有罪が確定した。
菅家さんは2002年12月25日、宇都宮地裁に再審を請求。
地裁は請求を棄却したが、即時抗告による東京高裁での審理でDNA再鑑定が認められ、
その結果、女児の下着に付着していた体液と、菅家さんのDNAは一致しないと分かった。1991年の科警研鑑定は、当時としても間違いだった可能性が高い。
再鑑定結果を受け、東京高検は菅家さんを刑務所から釈放(再審前に釈放するのは異例)。
2009年6月23日、東京高裁は再審開始を決定した。2010年3月26日に無罪確定。