2018年5月8日火曜日

衣笠祥雄(さちお)



私、今夏9月で70歳。
歳(とし)の所為(せい)なのか?、何故か? 偉大な人たちや賢人たちに、異常に関心を持つようになってしまった。
関心とは、感心して歓心することだ。
ハシタナイ言い方になるかもしれないが、幸せな気分になる。

「所為か」はセイカであって、ショイではない。
このヘッピリ腰の私だからなのか、この歳だからなのか、偉大な勇者や賢者の誇りに寄り添い、その人たちに袖撫ぜして欲しいと思うことがある。
衣笠祥雄は、京都府の出身で平安高校の野球部だ。
京都府と言っても、京都市東山区馬町の出身だ。
私だって、京都府綴喜郡宇治田原町の維孝館中学校の出身。同級生で、田舎一の野球マンの堀君が進学したのも、衣笠選手と同じ平安高校だった。
堀君は投手だった。
平安高校の校名はよくよく知ってはいたものの、同級生までがその学校の野球部に入るとは、思ってはいなかった。

私は今夏で70歳になる。だから、堀君と衣笠選手とは同じグランドで同時に練習をしていたのではないか。
小中の9年間、一緒に学んだ者にとって、何とか頑張って、レギュラーになってくれればと願った。
彼の高校時代の諸処については、私も自身のサッカー狂にウツツを抜かしていたものだから、詳しくは知らない。
京都市立洛東中学校の野球部。ショートの守備を志望したが、下手糞だったので捕手をやらされた。広島に入団した当時は捕手だった。それから三塁を守った。
1965年、契約金1000万円、年俸120万円。

なぜ、衣笠祥雄は広島カープの監督になれないのか、ということについてネットで知り得たことをここに書く。

その理由については諸説飛び交っている。
「本人が固く辞退している」
「球団オーナー筋との確執」
「チームでの人望がない」など。
あるいは、「ハーフという出自が災いして差別を受けている」
「国民栄誉賞受賞の経歴が足かせになっている」などといったものだ。
実際のところ、球団オーナーとの確執は、ファンの間でも信じられている話ですが、さらに、この中で理由になるとすれば、「本人が辞退」+「国民栄誉賞受賞の経歴」が考えられる。

衣笠は、在日米軍のアフリカ系アメリカ人と日本人の母の間に生まれた。
私は昭和23年生まれで、星野仙一、衣笠さんと同じ団塊の世代だ。


★2008 4月25日(水)の朝日新聞・朝刊の1面と17面=球界の反応、35面=評伝をここに転載させてもらう。1面の天声人語も転載させてもらった。
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「鉄人」衣笠さん死去
2215試合連続出場 日本記録


プロ野球広島東洋カープで1987年に当時の連続試合出場の世界記録を塗り替え「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)さんが23日、上行結腸がんのため死去した。
71歳だった。
葬儀の日程は公表していない。2017年1月まで朝日新聞社嘱託を務めた。
14年夏に体調を崩し、入院した。
当初は周囲に心配をかけまいと入院したことをふせていた。その後も闘病生活を続けながら、プロ野球や大リーグの後輩選手を温かい目で書きつづった。

京都府の出身で、地元の平安高(現龍谷大平安)の3年時に春夏の甲子園に出場し、ともに8強入りした。
65年、広島に入団。
強打の三塁手として活躍し、広島の5度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。
球団として初のリーグ優勝を果たした75年、山本浩二さん(71)らとともに「赤ヘル軍団」と呼ばれた主役の一人だった。
70年からは連続試合出場を重ね、87年6月に当時の大リーグ記録2130試合を超えた。
同年の現役引退まで2215試合に記録を伸ばし、今も日本のプロ野球記録として残る。


1987年6月13日、2131試合連続出場の世界記録を達成し、花束を手にする衣笠祥雄さん=広島市民球場

96年に大リーグ・オリオールズのカル・リプケンさん(57)に記録を抜かれる際は式典に出席し、祝福した。
同年、野球殿堂入り。
通算2543安打、504本塁打、1448打点、266盗塁。走攻守、3拍子そろった選手だった。背番号「3」は広島の永久欠番になっている。

「お手本だった」
山本浩二さんは一番の思いでは「初優勝した年(1975年)のオールスター戦で2人が2打席連続本塁打」と述懐。
「休みたいと思っても、彼がそばにいる限り休むことは許されなかった。最高のライバルであり、チームメートであり、お手本になる選手だった」

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(天声人語)

ヤマ場で主軸打者が三振すればファンはむろん怒る。ため息もつく。
だがカープの衣笠祥雄選手の三振は違った。むしろ球場が沸く。
「衣笠なら仕方がない」。
赤いヘルメットを宙に飛ばしながらのフルスイング。
生涯に1587もの三振を記録した。

独特の三振哲学を持つ。
巧打より長打にこだわり、勝負に出たときの空振りを自ら「攻撃的三振」と呼んだ。
見逃しの三振は「情けない」と嫌った。

死球を受け骨折した翌日も痛みをこらえて出場した。
スランプに陥れば、「連続出場記録のためだけに出ているのか」とヤジを浴びた。
それでも「カラリと晴れ上がる青空は必ず来る」と自分に言い聞かせ、2215試合連続出場の偉業を打ち立てた。

引退後、本紙嘱託としてコラム「鉄人の目」を担当した。
左右の人さし指だけでキーをたたく独特の打法。
ひらがなが多い。
句読点は少ない。
ただその原稿は、後輩を勇気づける言葉であふれていた。

「来たらクビだ」。
二十数年前、衣笠さんの険しい表情を大写しにしたポスターが朝日新聞社内に貼り出された。
休日消化を促す呼びかけだった。
骨折しても出場を選んだ当人に「休め」と言われると、素直に「休まなきゃいけないな」と思うから不思議である。

球界でも、連続出場記録よりむしろ、休むことの大切さが言われるようになって久しい。「選手に無理をさせるな」「故障に泣く人を減らせ」。
オンとオフの重要さを球界に訴え続けた鉄人は、そんな言葉を残して旅立った。

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野球愛 フルスイング

衣笠祥雄さん死去

「2215」。
現在でも衣笠祥雄さんが持つ連続試合出場記録はプロ野球最多として輝く。
体に近い内角球を恐れず、フルスイングでファンを魅了した選手だった。
死球は歴代3位の161個で、三振は当時最多(現在9位)の1587個を数えた。
野球界は星野仙一さんに続き、また一人、1970~80年代を彩ったスターを失った。

入団2年目まで1軍と2軍を行ったり来たりで、スカウトから「このままだとクビだ」と脅かされた。
しかし、3年目からコーチに就任した根本陸夫さんの助言で長所は長打力だと再認識し、6年目にはコーチの関根潤三さんと深夜にまで及ぶ猛練習でスイングを磨いた。

選手として23年間のうち、打率が3割を超えたのは1度。それは入団20年目のことだった。
現役を引退した後も、晩年は闘病生活をしながら最後まで「鉄人」らしく、野球界に携わった。


1980年、近鉄との日本シリーズ第7戦の7回に左越え2点本塁打を放ち、一塁を回る衣笠祥雄さん




1980年、巨人ー広島の14回戦で、1247試合連続出場の日本記録を達成し、王貞治さんから花束を受け取る衣笠祥雄さん

1975年から監督として広島の黄金期を築いた古葉竹識さんは「涙が出ました。サチが私より先に逝くとはーーーーー」とショックを隠しきれない様子。
2月ごろに会った時、体調を心配して声をかけたら衣笠さんは「大丈夫」と答えたという。
「骨折した時も『絶対出たい』と言ってきて。
だから、『大事なところで使う』と代打で使ったんです』と当時を振り返った。

広島のOB会長を務める安仁屋宗八さんは「まさかと耳を疑った。入団時はバッテリーを組んだこともあった。
三塁転向後はエラーでよく足を引っ張られたが、『必ず打って取り返すから』と言われた。いつまでも元気でいて欲しかった」と語った。
大下剛史さんは「寂しい。二遊間を組んで敏之(三村)が逝って、今度はサチ。
これで初優勝メンバーの内野手は私とホプキンスだけになってしまった」。

広島の後輩たちは「本当に優しい人だった」と口をそろえた。
大野豊さんは「マウンドによく声をかけに来ていただいた。怒られたことは一度もない。いつも元気づけられた」という。
北別府学さんは「ピンチの時にも頑張れと背中を押してもらった。あの笑顔は忘れられない」と思い出を語った。
達川光男・現ソフトバンクコーチは「キヌさんは『痛いとかかゆいとか言うからけがになる。黙っていたら分からん』と言っていた」と語った。
小早川毅彦さんは「プロとしての厳しさ、責任感を教わり感謝しきれない。若手のお手本だった」。

広島の緒方孝市監督は2016年に25年ぶりのリーグ優勝を決めた際、「ここから常勝の強いカープを築いてくれ」と言われたという。「優勝、日本一の報告をするためにも全員で戦っていきたい」と語った。

歴代3位の1766試合連続出場記録を持つ阪神の金本知憲監督は「カープの先輩であるキヌさんから、休まないということに関していちばん影響を受けた。中心選手は常にグラウンドに立っていないといけないことを、無言で示した人だった」と振り返った。

かってのライバルたちも、衣笠さんの死を悼んだ。
元巨人監督の長嶋茂雄さんは「巨人戦で死球を受けた時には、カープのベンチを自らなだめながら笑顔で一塁へ向かう姿が忘れれられません。芯が強く、優しい心を持っているいい男、ナイスガイでした」とコメントを発表した。

王貞治・現ソフトバンク会長は「闘争心をもって戦う中では珍しいタイプの選手だった。敵ではあるが、それを超えた形で話ができる人。もっともっと話がしたかった」と惜しんだ。

楽天の梨田昌孝監督は「79,80年の日本シリーズで対戦した」と近鉄時代の対戦をなつかしみ、「衣笠さんの辛抱強い姿を見て、今の広島の礎が築かれたのだと思う」。

日本代表の稲葉篤紀監督は「会うたびに『頑張れよ』と笑顔で声をかけていただいた。まさか、という思い」と話した。
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情熱を言葉に
  こだわりぬいた

衣笠祥雄さんは現役を引退した1987年オフに朝日新聞社嘱託となり、29年間にわたって名物コラム「鉄人の目」などを執筆した。

親しい記者の手ほどきを受け、自ら文章をつづることにこだわった。手書きからワープロになると、ゴルフに行く際も持参し、宿泊先でキーボードを打つ練習をしていたという。

文章を書く作業が長年の習慣になっていたようで、70歳になった2017年1月で契約を終えた後も、頻繁に自身の考えをまとめて野球担当記者にメールで送ってくださっていた。

開幕直後の今月2日に届いた文章が「遺稿」となった。「パ・リーグは西武が走りそう」などとシーズンを占った内容を、「鉄人の目」の最終回として、読者の皆様にも紹介したい。

今年2月28日には、同学年の高嶋仁・智弁和歌山高監督、中村順司・名商大総監督と野球談義をしてもらった。今夏で100回大会を迎える高校野球の紙上企画として実現した。

体調が万全でない中、衣笠さんはどんどん話をリードして下さった。「我々は個性派世代だね」「だけど、入り口は一緒。基本です。迷ったら帰るところがあるから個性も発揮できる」「今の選手には野球をもっと楽しんで欲しい」。持論を熱く語った。

最後の最後まで、野球に対する情熱、愛情にあふれた人だった。

(編集委員・安藤嘉浩)
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鉄人の目

長い戦いも最初が大切
今月2日に届いた最後のメール

プロ野球が開幕した。2月1日のキャンプインから各監督、コーチ、選手は開幕時に最高の状態を作るために頑張ってきた。
長いシーズンの一部とはいえ、最初の一歩は大切なものだ。

オープン戦1位の巨人が開幕カードで阪神に勝ち越し。
4年目の岡本が2試合連続本塁打と、いよいよ頭角を現してきた。
打線のつながりという面では工夫が欲しい感じもあるが、この若者の成長を楽しみたい。

調子が上がらなかった広島も中日に3連勝した。
中日には自信を持って戦っている感じで、今年もこのカードで星を稼ぎそうだ。
パ・リーグは西武が日本ハムに3連勝と勢いがつきそうな勝ち方だった。

次の3連戦もファンにとっては見逃せないカードになる。
先発が6人確保されているのか。不安を抱えているのか。各チームの台所事情が見えてくるはずだ。

セ・リーグは広島が今年も走り始めるのか。どこが迫っていけるのか。
パ・リーグは西武がソフトバンクに勝ち越すようだと、一気に走りそうな勢いを感じる。まだ始まったばかりとはいえ、大切な勢いが連日続いている。

(元朝日新聞社嘱託)

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優しき鉄人
衣笠さん 心配り 仲間に敵に

1980年8月の巨人―広島14回戦。連続試合出場1247試合の当時の日本新記録を達成した衣笠祥雄さん

プロ野球の広島カープで連続試合出場記録を樹立し、引退後は野球解説者を務めた衣笠祥雄さんが逝った。
71歳だった。
記録と言う数字に追われながら、1970年、80年代のカープを支えた一人。
人なつっこい笑顔が印象的だった「鉄人」の突然の旅立ちに、悲しみが広がった。

評伝
「江夏豊の21球」の時の衣笠祥雄さんの姿が、やはりまぶたから離れない。
1979年だった。広島と近鉄の日本シリーズ第7戦。
リリーフエースの江夏は、ピンチをむかえていた。1点リードの9回裏1,3塁。広島の古葉竹識(たけし)監督は池谷公二郎と北別府学にブルペンでの投球練習を命じた。
延長戦も想定しなければならない。監督としては当然の判断だ。
が、江夏の表情が変わった。「何しとるんや。おれに、よう任さんというのか」。

そんな気持ちを衣笠さんだけが察知したのだ。無死満塁になり、マウンドへ行った。「お前がやらないのなら、おれも辞めてやる」。瞬時に言った。これで江夏は落ち着いた。
ピンチからの脱出は、この衣笠さんの一言がなければ生まれなかった。
デリケートな人だった。
極めて繊細で人の心を思いやるアスリートだった。

「鉄人」と呼ばれた。
連続試合出場の記録を持っていたからだ。
79年8月1日の巨人戦で西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折した。しかし、次の試合で代打で登場し、連続試合出場は続いた。この試合の打席は江川卓に対し、フルスイングでの三振だった。

「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のため。それにしても江川君の球は速かった」。試合後、そう話した。
次の試合はフル出場し、ファンを驚かせた。

実は連続出場記録にこだわった人ではない。逆にこの記録にしばられた人だといってもいい。

87年に大リーグのルー・ゲーリッグが持っていた記録を抜いた。
が、力が衰えながら記録を更新しなければならないことに、自分自身、納得がいっていなかった。
96年だった。カル・リプケンが衣笠さんの記録を抜いた。そのお祝いに渡米する直前、ホテルのバーでご一緒したことがあった。
「自分の判断で記録を止めることができなかったんだ。やっとリプケンにバトンを渡せたよ」。なんともいえない笑顔だった。

引退してからは、朝日新聞社嘱託として、評論活動をお願いしていた。
普通、野球評論家の原稿は聞き書きするのが当たり前なのだが、衣笠さんは必ずご自分で書いてきた。行数を守っていただけないので、削るのに苦労するのだが、野球に対する愛情と誠実さがひしひしと伝わってきた。

記者の食事会にもつきあってくださり、若い記者の質問にも、気楽に答えてくださった。偉ぶったところの全くない存在だった。

(元朝日新聞編集委員・西村欣也)




1979年の日本シリーズ第7戦で、広島は近鉄を破り初の日本一を達成

赤ヘル打線、広島に勇気
衣笠祥雄さんのプロ野球人生は、被爆地・広島とともにあった。

衣笠さんは、1965年に入団。
当時球団は50年の創設以来Aクラス入りを果たせず、低迷を続けていた。
次第に頭角を現した衣笠さんは山本浩二さんらと「赤ヘル打線」の中軸を担い、75年にはチームをセ・リーグ初優勝に導き、79,80年には2年連続日本一を果たす原動力になった。

衣笠さんにとって、原爆ドームと道を挟んで向かい合う旧広島市民球場は特別な場所だった。
「野球を思う存分できることは、戦争で志半ばで倒れた人もいることを思えば、なんと幸せなことだろう」。こう思いをはせていたと自著で打ち明けている。

4歳の時に被爆し、体験を伝えている伊藤正雄さん(77)=広島市佐伯区=は、苦しい時にも、フルスイングする姿が印象に残っている。「『なにくそ』と頑張る姿に勇気づけられた」




1996年、大リーグのリプケン選手(手前)が連続試合出場の新記録を達成した試合で始球式をつとめた衣笠さん

リプケンさん「友で誇り」
大リーグで2632試合連続出場の記録を持つカル・リプケンさん(57)は衣笠さんの悲報に対し、朝日新聞にコメントした。

「愛する野球に臨む覚悟や気持ちについて、衣笠さんと私は同じ考え方を持っていた。彼と育んだ友情は、私にとってかけがえのない価値があり、親友でいられることを誇りに思っていた。偉大な選手であり、衣笠さんから感じる器の大きさを尊敬していた。本当に悲しい」。



江夏さん「早すぎた」
1979、80年に衣笠さんと一緒に広島の日本一連覇に貢献した左腕・江夏豊さん(69)は「いずれ誰しも行く道だけれど、早すぎた。
3日ぐらい前に電話で話したところだった。その時はまあまあ元気だったよ。
19日に横浜の試合でしゃべっていて、声が出ていなかったから、『声出とらんぞ。無理するな』と。
そしたら『わかった、わかった』と言っていた。ちょっとの間、1人で寂しいけど、すぐに追いかけるから」と話した。