2018年4月21日土曜日

農山漁村電気導入促進法の制定

3月に高橋和巳氏の「散華」の再読を終えて、先回のブログ(4月17日)を書き上げている最中に、4月4日の朝日新聞の夕刊で下の記事にでくわした。
余りにも、「散華」と関係の深い内容に縁を感じた。

「散華」は、大型の電気会社が自社で作った電気を各地に伝導するために、土地の購入や賃借をして、鉄塔やその他の施設を作るための行動を起こしていた。
その電気会社の地上げ担当者と、電気会社が用地として狙う孤島に一人で生きる老人との戦時中における思想や行動について、激しい戦いが生まれた。

電力会社の社員は、戦時中は「回転特攻隊」、老人は武士道の伝統をひく「ファシスト」。
この二人の交渉ごとから、国を想う気風・気概や精神内容についての戦い。
それらの経緯がメインテーマだ。
その内容に遮二無二になってしまった。
学校を卒業してから10年後、「高橋和巳」教に嵌(は)まってしまった私には、貴重な本の一つだった。

この電力会社の社名は本の中では記されていない。でも、可笑しな私は、今回の新聞記事と同じで、中国電力ではないか、と勝手に考えてしまった。
そうすると、私が読んだ「散華」とこの新聞記事がつながって、余計面白いのではないかと妄想した。
ヤマオカのそういうところが面白インや、と友人からいつも言われてきた。

「散華」の粗筋や読後感想を描いて、その余韻に慕っていた。
そんな時に、この新聞記事が私の目の前に現れたものだから、古新聞として捨てるわけにはいかない。
自宅の我が物コーナーに置いてあったのを改めて読んで、その内容に関心させられた。

そして現在は2018年。
2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災から1時間後に、高さ14~15メートルの津波に襲われ、福島第一原子力発電所が大きな災害を受けた。
1万人近くの人が亡くなったり行方不明の人たちが生まれた。
災害の種類は多く、被害は膨大だ。
そこで、今、人々の関心は日本全国にある原子力発電所の安全問題に駆られている。
現在の与党である自民党や公明党でも批判者が増えていて、野党ははっきり原発0(ゼロ)を目指している。
私は勿論、ゼロ派の一員だ。

そんな時期での、「散華」であり「小水力発電」、そして「原発の是非」だ。



 1952年(昭和27年)
農山漁村電気導入促進法の制定

小水力発電 自治の原動力に

銀行の大卒の初任給が1万5千円だった1950年代半ば、年100万円の利益をあげる事業が中国地方の農山村約50か所で成り立っていた。

小水力発電である。
農協などに限って政府の融資による発電所建設と電力会社への売電を認めた。
52年制定の農山漁村電気導入促進法のお陰だった。
その実現に奔走したのが中国電力の前身、中国配電の元取締役・織田史郎さん、日本初の五輪金メダリスト・織田幹夫さんの兄である。

「農村を豊かにして食糧増産を」。
戦後の食糧難打開のため織田さんは、のちに参院議長に9年在住、「天皇」と呼ばれた重宗雄三議員を頼る。
発電機などを製造する明電舎の社長を戦前から務める懇意の人物だ。
その後ろ盾を得て議員立法による売電の仕組みができたが、当時の通産官僚は「電気事業者に不当な負担を課さない」との一項を紛れ込ませていた。
これを盾に織田さんの古巣の中国電力以外は買おうとせず、小水力発電は中国地方が中心になる。

織田さんは全国の地形図から発電の敵地を探し、現地を歩いた。
水資源の活用を説いたが、原油価額が1バレル=2ドル弱の時代だ。
霞ヶ関の官僚は冷淡だった。
「石油だと1キロワット時あたり2円で発電できる。4~5円かかる小水力は不要です」。
織田さんは怒った。
「石油はいま安い。しかし、小水力なら高くても金は地元に落ちるじゃないか」

                  ★

戦前、電力会社は採算の合わない農山村に送電せず、各地の町村は小水力発電所を建てて地域に電気を供給した。

宮崎県南部の南那珂郡十六ヶ町村組合は発電事業の利益を財源に大正末期から高等女学校を経営した。
住民の払う電気料金が教育に生かされた格好だ。
銀行の初任給が70円だった36~40年には毎年8千円を電灯・電柱の数に応じて加盟町村に分配している。

戦後、郡北部の町村の合併で誕生した日南市を先頭に組合は、九州配電へ戦時中強制統合された事業を戻すよう政府与党に要求した。
日南市教委生涯学習課長を最後に3月退職した岡本武憲さん(60)は「特産の飫肥(おび)杉を輸出して盛んに外貨を稼いだ時期。
地域経済に勢いがあるから国にもモノが言えたのでしょう」。

9電力体制の成立後は九州電力と3年間交渉したが叶(かな)わず、九電が5500万円を組合に支払うことで62年に決着する。
その配分金を含む約1億円を投じて日南市は文化センター建設を決め、翌々年の東京五輪の舞台・国立代々木競技場を手がけた建築家丹下健三さんに設計を依頼した。
小水力発電の記念碑といえる建物は今も現役だ。

「小水力は半永久的な地域の資産です。織田史郎が70年前に造った発電機も手入れさえすれば回る」。
そう指摘する全国小水力利用推進協議会の代表理事沖武宏さん(76)は、冒頭の売電システムを考えた織田さんが創業者の広島・イームル工業の元専務だ。

 
「地形図を広げて小水力発電の適地を探すのが楽しみ」と語る織田史郎さん
(1979年)

                     ★

小水力利用のモデルケースとして沖さんは岡山県西粟倉村を挙げる。
人口1500足らず、森林が95%を占める。66年、農協名義で村が小水力発電を始めた。

2012年、再生可能エネルギーによる電気の買い取りを電力会社に義務づける制度(FIT)が創設される。
これに伴って設備を更新し、売電単価は約5倍、収入は年7千万円に増えた。
村の税収の半分に相当する。
売電収入を積み立てた基金から1億円を繰り出し、官製ファンドなどからの借入金も合わせて第2発電所を建設する計画だ。

村産業観光課主幹の白籏佳三さん(55)は「売電収入が増えたら地方交付税は減らされますが、ひも付きでない財源がある意味は大きい」。

補助金を活用し、村は木質バイオマスにも取り込む。
山に放置されるC級材が燃料の薪ボイラーを温泉施設3ヶ所に設けた。
運営を担うベンチャー・sonrakuの社長井筒耕平さん(42)の夢は各戸に薪ボイラー1台。「山村だから可能なことです」。

村は木質チップバイオマスボイラーを新設して地域熱供給に乗り出す。
燃料は製材の過程で出る端材だ。総延長4キロ弱の熱導管を巡らせて小中学校や子ども館の暖房・給湯に充てる。
目標は再生可能エネルギーによる100%自給である



岡山県西粟倉村の改修前の小水力発電所。建屋は開業当初のまま。水車に水を送る水圧管が背後の斜面に見える=2013年、村提供


日南市文化センターのモチーフは日南海岸の天然記念物「鬼の洗濯板」=宮崎県日南市


視察に訪れた男性に薪ボイラーについて説明する井筒耕平さん=岡山県西粟倉村

(田中啓介)



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★私ごときことではありますが、中国配電の元取締役の織田史郎さんの兄、織田幹夫さんは私がお世話になった大学の教授でもあった。
今から約50年前、織田教授の体育系理論の授業を受けて、その試験を受けた。

授業と言ったって、自分の競技者としての思い出話が60%で、残りの時間はそれなりのものだった。ユーモアに溢れた授業は楽しかった。

1,2年生の時はキャンバスの全部がロックアウトしていたので、まっとうな授業は受けていない。
だから、3,4年生のときのことだろう、試験の出来はどうだったのか、私自身でさえわからないが、何故か「優」をつけてくれた。
教授はサッカー部の理事でもあったので、答案用紙に「サッカー部です、いつも有難うございます」と記したのがよかったのだろうか!

広島県安芸郡海田町出身。
1928年、アムステルダム五輪で、アジア人としても日本人としても初めてのオリンピックで金メダル。
その後、彼のことを「陸上の神様」とか「日本陸上界の父」とか言われた。
早大時代に「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」と長すぎる競技名を「三段跳」と訳した。
彼の後、三段跳は1932年に南部忠平、1936年に田島直人が連続して金メダルを獲得した。


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