2018年4月17日火曜日

散華(さんげ)  

先月、高橋和巳作品集6《河出書房新社》の「散華」を読んだ。
散華の読み方は「さんげ」。

先ずは散華とは何ぞやと思った。
いつものようにネットで調べてみる。
散華とは、ネット・ウィキペディアで花を散布すること。
仏教では仏を供養するために華を散布する。
また華を散らす意味から転じて、死亡すること、特に若くして戦死することの婉曲表現として使われている。
仏や菩薩が来迎した際に、讃嘆するために大衆や天部の神により華を降ろしたという故事にちなんで行われる、とあった。

昨年4月に「堕落」を読んでからの高橋和巳シリーズだ。
大学を終えて10年ほどした頃、シッチャ気(き)?になって読んだ。
シッチャ気って、俺の田舎の方便かな?と字引で調べたが、出てこなかった。
このシッチャ気は、標準語では「遮二無二(しゃにむに)」なのだろうか。
大学中は戯作文学類に酔っていたので、高橋和巳モノまで手を出すことはできなかった。
サラリーマンになって10年、高橋和巳作品集全9巻のうち6巻までを中古品で買うことができた。
7,8,9巻は私には難しかった。

「悲の器」「邪宗門」「我が心は石にあらず」「我が解体」「堕落」「白く塗りたる墓」を読んで、それから底知れずどっぷり嵌(はま)り込んでしまった。

友人と酒を飲んで読書の話をするときに、私は恥ずることなく、高橋和巳のことを話した。
私の傾向は、戯作文学から高橋和巳に移ったのだ。
純真、清純、清澄 反権力的な高橋和巳の信奉者になってしまった。
熱狂的なデカダン派だった私は、いつの間にか高橋和巳教に変わってしまったのだ。


★あらすじ
注=本書「散華」の文章から、多くそのまま使わせてもらった。それらをダイジェストして仕上げた。

電力会社の社員である大家次郎の仕事は、送電線設置に向けた地上げ交渉だった。
正確に言えば、用地の提供を渋る地権者に保証金を積んで翻意させることだ。
電力会社では、補償課長の西尾、補佐・大家および課員・水野の3名には、電線を将来架橋される自動車鉄橋に埋め込む可能性を考慮して、鳴門海峡ならびに明石海峡に張るべき電線の基点となる大鉄塔建設のための土地買収を命じられた。
大家次郎のことを、以後大家と称する。

この3人でまず造船会社をめぐって、将来建造されるべき最豪華客船の高さをはじめ、汽船会社で海峡の就航可能の幅を確かめ、本社に連絡して、予定鉄塔の高度・位置・底辺面積を再確認する。

仕事は土地買収のためのあわただしい出張だ。
頑迷な淡路島の*村の村会議員を相手に、鳴門海峡に面する丘陵の一画を買収する折衝は長引いた。
村役場のわきにある真言宗の寺院の一室に陣取り、一人ずつ交替に、3日間、村会議員と対面し続けた。

土地を提供することがこの僻地の発展にいかに貢献するか、日本最高の大鉄塔が観光資源としてどんなに膨大な利益を将来に約束するか、また国家的見地からも、この計画は早急に実現されねばならない、と訴えた。

夜、海浜の料亭に移され、芸者入りの宴会を行った。
そして課長が「どうやら大家君に2、3日、ロビンソン・クルーソーになってもらわにゃならんな」と言う。
それは、この孤島への出張のことだった。

どして、電力会社の大家は、孤島に上陸した。
老人が戦後にたったひとりで住みついた孤島は、大桑島の燐島を基点として、淡路島の東南端に架線する位置にある。

岩礁に腹ばいになって嘔吐せねばならなかった。烈しい船酔いだ。
胃液ばかりの嘔き物は、恐ろしく透明な海水が泡をたててさらっていった。
この孤島は、淡路島と四国の間をうずまく鳴門海峡のはずれ。
この島は目算で周囲ほぼ3キロ、激しく潮の流れる海峡に位置して3面はけわしい崖の断崖。

老人がいた。
彼の名前は中津清人だ。
これから、中津のことを老人と称させてもらう。
大家は老人に「こうして島の真ん中に立ってみると、わりあいに広いんですな」と言った。
瀬戸内の島の多くがそうであるように、島には男松が生え、中央部の平地が貧しく開墾されていた。
芋と南瓜、わずかな野菜。島の南端にある高みに2,3株の蜜柑。
縮れたいも蔓のあい間を野鼠が走った。
しかし、老人の肩の上の三毛猫は眠ったように動かない。

この老人、地上げのために向かった瀬戸内海の小島では、戦時中死の美学を唱(とな)え、戦地に向かう若者たちに影響を与えた国家主義の思想家。
特攻を煽動した思想家であった。
そのための罪悪感のために、世を捨て自給自足の隠遁生活を送っている。

大家はこの老人と話すことによって、長いこと忘れていた戦争中の記憶が蘇(よみがえ)る。
戦争中、家族を守ることになると信じて回転特攻隊に志願した。
小型潜水艇による自爆攻撃の訓練を受けていた。
偶然によって生き延び、戦後は火力発電の黎明期に電力普及によって社会の発展に貢献しようと生きてきた。電気会社の出世コースにも乗っていた。
結婚し子どももでき、家族旅行を楽しむ余裕も生まれた。

老人は人の顔を見ると涙の出るほどなつかしい。
君がどういう青年なのか、多少の予想がつく。
しかし、わしは一切の政治、一切の権力にまつわることどもから、はっきり自己流諦した人間だ。
老人は、17年前の、この国の亡国とともに亡(ほろ)びた男だ。

もうすぐ船頭がくるだろう。
三木と言う漁師だ。君のことは彼から聞いておこう。
第1回の訪島は完全な失敗だった。

ある新聞に、徳島と兵庫の県境になっている無名島に老人が住んでいるという記事があった。
大家は、沈み込むような老人の悲哀の表情を思い出した。
新聞社に勤める友人=野呂和義は、「戦争中、『八紘会』というのを奈良の方で組織していてね。その会は解散させられた」。
大家、「それは老人の著述の題名だ」。
野呂、『東洋の復活』『人間維新論』など、そして走り書きされた書名があった。
「それに、サンケの精神とあったが、そのサンケの精神って何だ」。
『懺悔(ざんげ)かな?』
『いや、散華だろう」』
『サンゲの精神?』って何だ?
そのような右翼関係の図書は、敗戦直後、直ぐに焚書された。
日本は戦後、歴史的な恥部の大抑圧をやった。
解明したんじゃなくて抑圧したんだ。


敗戦直後には、なぜ天皇の詔勅ひとつで、全戦闘員が一斉に闘いを静止したのかと、憤っていたこともあった。
いままでの犠牲はすべて無意味だったというつもりかと。
生き延びて帰還し、大学に入って左傾してからも、天皇制の崩壊は、8月15日の詔勅を聞いたときの、日本人の態度いかんにかかっていたのだと考え続けていた。

大家は一種の倦怠感のなかに沈み込んだ。
土地買収の交渉には、調査しておくことが有利なことは分かっていた。
だが、その老人の前歴をあかす端緒が見いだせた今、限りなくそれが億劫になったのだ。
ただ何となく、かかわりたくない、という気がしたのだ。

大家は戦時中の記憶をただ単に忘れていたのではない。
単に戦時中のことを忘れたのではなく記憶を抑圧してきたのだ。
終戦以前のことを忘れてしまわなければ、戦後という時代を生きてこれなかったのだろう。
勿論これは大家だけのことではない、日本人全体がそうしてきた。

高橋和巳は大家を特攻隊の生き残りとすることによって、彼を戦後日本人の象徴的存在とした。

しかし、そうした怒りも風化してしまっていた。
およそイデオロギー性を帯びる問題の一切から身をしりぞけ、自分を一介の技術屋として訓練しはじめてから、すでに10年余りの歳月がたつ。
一人の右派の思想家がなにかを悲しみつづけて、孤島にひとり隠遁している。
その男がそうしたいなら、そうさせておけ。
いま、おれ自身が一介の技術屋として会社のなかに『巷隠(こういん)』しているのと、それは同じことなのだ。

おれの前歴を表したくないように、あの老人も、その前歴は調べられたくないのだろうから。

そして、2度目の孤島を訪問した。
海には一面に細かい雨が降りそそいでいた。
大家は日常、元国家主義者との交流を求めつつも、自分の存在を耐え難いものに感じ始めた。
感覚的に感情的に不安なのだ。
もし彼が今の会社での、家庭での生活を続けようとするならば、自分の過去は封印したままにしておかねばならない。
頭の中がそんな状態では、日常生活が無理なのざ。

それとも、自分を過去へと連れ戻す老人の存在を消してしまわねばならない。
そんなことをやり切らないと、大家は生きていけないと考えた。
大家はこの男と対決して、自らの態勢を整え、そうして生きなければならない。

大家は老人と喋りながら奇妙な気がした。
彼にとっては、この老人を《招隠(しょういん)》すること、この老人が孤島の不十分な生活に嫌気がさし、絇爛たる都市の、たとえ消費文化であろうと享楽文化であろうと、それに好奇心をおぼえ、もう一度世に出てみたいという気にさせれば充分だった。

老人の顔に一瞬、何を憤るのか、ナイフを持っていた手が震えた。だが、その怒りはやがて悲哀の翳におおわれていった。

新聞社の小林利男は、老人のことを「ファシストさ」と、こともなげに言った。
「若いころは、いわゆる支那浪人でね。社会主義的傾向を持っていた」。
大政翼賛会ができたころには、しかし、社会主義的な側面を自己制御して、汎アジア主義とでもいうべきものをとなえだした。
階級矛盾と国家矛盾、それから先進資本主義と植民地の問題、それを混沌とした正義感のようなもので糾弾していたんだが、階級矛盾への矛先をふせたわけだ。

老人は日支事変中は、もたついていたが、大東亜戦争になってからは、息を吹き返し颯爽としだした。
戦中、中野正嗣が割腹したのと前後して、極端な破滅型の論理をふりかざしはじめた。
武士道の伝統をひく、死の哲学と言うものだろう。
老人が瀬戸内海の孤島に隠遁してしまったのは、自己満足というより、戦争裁判を逃れるためだったのではないか。

三度目の孤島を訪れたときのことだ。
大家は老人に対して、老人の前歴をある程度知っていることを告げ、なぜ隠遁したのかとその動機をたずねた。
「この島に隠遁した時、たしかに私は国家主義者だった。そして、ひとたび思想を思想として、他者に、とりわけ青年たちに説いた以上は、その説いたことに対して責任があると考えるゆえに、一切の公職、一切の社会的交わりから隔絶した」。
老人、「君自身はファシズムというものをなんだと考えているんだ?」。
大家、「そりゃ、資本主義の全般的な危機をきりぬけるための、反動独裁体制だろう」。

「狭い所だけど、あなたを私の家に一度招待したいような気がする」
正確に時間通り海峡にあらわれた連絡の小船を見ながら、大家は言った。
彼の任務は全然進捗しないままだった。

自宅に戻った。
出勤への電車中、3冊の本を表紙をなぜるようにして見た。
1冊は友人から送られた「労務管理」、1冊は翻訳されたばかりの「パーキンソンの法則」、いまひとつは小林から借りた老人の「人間維新論」だった。
結局かれは「人間維新論」のページをくった。
強い反発と索引、そしていつ背中から号令をかけられるかもしれないようなやりきれなさに困惑しながら。
「人間維新論」の書き出しは、「世界史が世界精神の合理、必然的進行であるなどと誰がいうのか。それはただ視ることのみを知っていて、行為することを知らず、悲しむことは知っていても激怒することをしらぬ机上の空論家の倨倣にすぎないのだ」。

老人。
人間における最高の意志は、動物が快を求め苦痛を本能的にさける、その本能の必然からも自由であろうと欲するところから生まれる。
いや、むしろ自己の意志を証明せんがためには苦痛すらあえて求めることに、人間の人間性がある。
発展とは苦痛への意志であり、歴史とは恨みの克服なのである。
一般的な意志哲学から、やがて個人の超越の哲学が説かれ、つぎに死してのち生まれいでよという、起死回生の哲学へとそれに進展する。
結論を早く読みとろうとする大家の目に、その性急さをとがめるように、苛立たしい言葉の断片が飛び込む。

老人は言った。
「革命とは国家の存亡の問題であり、人間維新は各人の存亡の問題である。座視して死を待つか」
「社会主義は社会への奉仕を説く。ロシアのニヒリストすら、社会のためには命を賭した。いま、日本の青年たちに課せられた任務は、横の世界ではなく、縦の社会、きたるべき日本の将来のための血の献身である」。
大家は一字一字を追うのはたえがたかった。

かって、青春の初期に自らを支配した情念の亡霊と対面せねばならなかった。
彼は、自身を追求することを怠った。
その怠慢の罪に、いま問われようとしている。
狼狽しながらおそるおそるいま考えねばならない。

特攻精神を嘲笑した日本の戦後の知性には、ニヒリストの運動を媒介せねばならぬ革命というものは、ついに理解しえなかったのだ。
大家が特攻隊に志願したのは、この老人の思想の影響を受けたわけではなく、ただ家族を守りたいという思いからである。

大家は老人との会談で、潮干狩に時を忘れ、翌朝まで海峡を渡ることはできなかった。
掘建小屋の片隅に藁と莚(むしろ)をしき、コートを羽織って横になった。

老人は支那浪人時代の思い出話をかたっていた。
その時期がおそらく彼にとって、無垢な、それゆえに回想して楽しい唯一の時期なのだろう。
上海の陰謀家とか、北京の買弁団とか。
老人は中国のいわゆる辛亥革命の際に、上海から南京、南京から漢口へと、一種の義勇軍として革命派の軍事行動に参加していた。
老人は日英同盟にうたわれた〔支那保全〕と信じていたが、日本政府も黒竜会もほんとうは、支那保全のために動いていたのではなかった。

老人は、若者を死地へと促した大家の戦時中の言論活動を批判する。
だがこの批判は、老人にも裏返しで批判されたことでもある。

そして、電力会社では、大家のやっている孤島での交渉について激しい求められることはあったが、大家には何も応えるものがなかった。

そして大家は島の入江の、ゆっくり渦巻く海に体を浮かべていた。
ふいと大家の体が回転し、激しい勢いで流された。流される速さが激しく、助けてくれと思った。
そして老人は大家の背後から両腕をとり、はがいじめにしていた。活を入れられたらしかった。

老人は大家のために煮た芋粥を一緒にすすりながら、敗戦当時のことを話し始めた。
大家は老人に対して、「インター・ナショナリズムというものを、観念としては、相当に理解していた。敗戦後、学校に復帰してからのことですがね」。
老人は、「熱烈なナショナリストだったさ」。
「国家ーーーー。現実的にいって、それがすべての問題の集約点だったからね。米騒動や農民一揆が頻発し、兵士たちの父母兄弟が飢えるのをみて、私は日本の国体の変革を考えた。そのころにはマルクスの著述も読んだ。しかし、日本のプロレタリアートにはまだ力がなかった。真に組織されているのは軍隊と官僚だけだった。わたしはその軍隊に期待した」。

「しかし、そこからどうしてあなたの散華の思想がでてくるのですか」。
老人は目を見張り、表情にゆっくりと亀裂が走る。
「わたしには、何もできぬーーーー。国家主義者にとっては、その国の文化的伝統が、つまりは精神が唯一の拠りどころだ。それゆえにわたしはそれを説いた。だが、わたしは、わたしが期待をかけた兵士たちと運命をともにしなかった」。

「わたしが、あなたにここを出てもらいたいと思っていることは事実です。またそうすすめることがわたしの任務でもあります。しかし、その理由は別な理由なのです」。
「どういう理由か」。
「権力や政治にまつわる団体の要請によってですーーー」。
「わしは一切の社会と絶滅している。そんな義務はない」。

「かってあなたが死ねとすすめ、そして自らも捨石になろうとして、あるいは実際に死に、あるいは生き残った亡霊の一員として、あなたを八つ裂きにしたいほどの憎しみすらもっていた。
一皮はげば、あなたを抱きしめてしまうかもしれない奇妙な憎しみを。
ただ扇動しただけであり、見ていただけであるゆえに、苦しむことも死ぬことも、心を襤褸(ぼろ)のようにもみくちゃにされることもなかったあなたを、少なくともわたしたちは殴りつけ、たたきのめす権利がある」。

「帰れ!」と老人はしぼりだすように言って、囲炉裏の灰を蹴ちらした。

老人は、どこに隠してあったのか、いつしか日本刀を持って大家の前に立ちはだかっていた。
じりじり戸口から戸外へ後退する老人に向かって、大家は鉄瓶を投げつけた。
老人は顔の半分を熱湯でただらせ、自ら耕した畑の中をころげまわりながら号泣していた。
刀は空しく水槽につかって光っていた。
さて、元国家主義者と対決した後、大家はこの瀬戸内海の小島の地上げ案件からは手を引く。
批判され、自責の念に駆られた元国家主義者・中津は結局自殺する。


さて、元国家主義者と対決した後、大家はこの瀬戸内海の小島の地上げ案件からは手を引く。
電気会社の大家は、何事もなかったかのように元の会社員生活、家庭生活に戻る。

冬、高圧線が具体化への一歩を踏み出し、測量班が具体化への一歩をふみだし、測量班が、鳴門海峡の無名島に上陸した。
測量班が無人島だと思って上陸したその島に崩壊寸前の掘建小屋があり、しかもそこに、半ばミイラ化した老人の死体を発見したしたからだった。
野呂は、大家が一時、老人にかかわっていたことを記憶していて、彼のところに記事を取りにきた。
大家はしかし、何も知らないと言い通した。

空と溶け合う青い海。
命を産み出し、命が戻って行く海。
65年前の海。