2007年6月30日土曜日

立ち止らない天才2人

立ち止らない天才2人

朝日・朝刊  2007 6 26   スポーツ面 EYE 

編集委員=西村欣也

二人の人生の軌跡が交錯した瞬間を、もう一度振り返っておきたいと思う。21日、パイレーツの桑田真澄がマリナーズのイチローをカーブで空振り三振に仕留めた。

39歳の桑田はこんな言葉を残した。「進化をし続けているイチロー君との対戦を楽しみにしていました。力みがないというか、さらっと水のようにしなやか。求めているものはおなじかもしれませんね」

33歳のイチローは、「桑田さんは昔の自分じゃないことを受け入れられている感じがしますよね。なかなかできるものではない。引きずるものですから」と応じた。お互いがお互いをリスペクト(尊敬)しあっている。

二人の言葉に、重なり合う人生観が見えてくる。立ち止まって、過去を振り返ることを、しない。アスリートである間、究極を求めて旅を続ける。道は自分の後ろにできていく。桑田がランニングすることでジャイアンツ球場の外野にできた「桑田道」は、その象徴だろう。

イチローとバッティングについて話したことがある。彼は日本にいるころから、ひとつのフォームにとどまることはなかった。

「だって、バッティングは生き物ですからね。その時の体の状態によっても変わってくる。例えば、筋肉のつき方によって、当然、スイングは変わってきます」。そして言葉を続けた。「つまり、1箇所に止まっていることはできないんですよ」

桑田もベテランと呼ばれるようになってから、トレーニングに古武術などを取り入れてきた。

歩みを止めない二人の天才の一瞬の出会い。シアトルでの芳醇な時だった。

2007年6月26日火曜日

23日は「沖縄慰霊の日」

アーバンビルドが、沖縄で、ホテルを建築することになった関係で、沖縄を訪れる回数が多くなった。その度に、うれしく感動する沖縄の自然のすばらしさ、とりわけ、海と空の青さと、そら恐ろしく感じる基地の大きさだ。

詳しい数値は毎度のごとく忘れてしまったけれども、概略数値は諳(そら)んじている。沖縄県の広さは日本国土全体の確か1%?、その沖縄にある基地の面積は、日本にある全体の基地面積の75%?も占めるらしい。詳細な数値は、ご自分でご確認ください。

沖縄に友人ができ、仕事仲間ができ、泡盛をいただき、ユタさんにお世話になり、もうすっかり、沖縄が好きになりました。だからこそ、沖縄の出来事に、沖縄の事情に気になることには、積極的にかかわりたい。できたら徹底的に納得したいのです。でも、納得できないことは、納得できません。

かっての私には、「慰霊の日」とか「本土復帰35周年」、「集団自決」なんて、関心の外のできごとだった。

今年の5月15日。沖縄本土復帰35周年。日本国憲法が施行されて、まだ35年しか経っていない。憲法ができて25年間の空白がある沖縄では、まだまだ憲法の理念が生かされていない。基地を沖縄に押し付けておいて、沖縄の人々の気持ちを逆撫でするようなことばかり。今回の「集団自決」問題もそうだ。集団自衛権の行使まで、正当化できる手立てを模索し続ける、政府・与党。先ずは、沖縄県民にこそ、憲法、防衛、人権について、政府・与党は話合いを持つべきではないのだろうか。

沖縄県民に納得させられないものは、私も、絶対、納得しないことを宣言する。

23日は「慰霊の日」。

62年前の沖縄戦で、日本軍の組織的抵抗が終わった日だ。

日本軍や住民が追い詰められた本島南部の糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では、県が「沖縄全戦没者追悼式」を開いた。この戦争の最中に起きた住民の「集団自決」を巡り、日本軍の強制を示す記述が、教科書検定で削られたことに、沖縄が強く反発するなかで迎えた。

県平和祈念資料館では、「集団自決」ではなく、「強制による集団死」という言葉を使って展示している。資料館の設立理念の文言も一部変更された。資料館は、「集団死」の経緯と背景について、こう説明している。日本軍は、住民と同居し、陣地づくりなどに動員した。住民の口から機密が漏れるのを防ぐため、米軍に投降することを許さなかった。迫りくる米軍を前に「軍民共生共死」の指導方針をとったため、戦場では命令や強制、誘導により親子、親類、知人同士が殺しあう集団死が各地で発生した。その背景には、「天皇のために死ぬ」という国をあげての軍国主義の教育があった。

沖縄県議会では、22日、全会一致で可決した意見書は、「集団自決は、日本軍による関与なしに起こりえなかった」ことで、文部科学省の検定意見「軍が命令したかどうかは明らかと言えない」の撤回と、削除された記述の回復を求めている。すでに沖縄の9割の市町村議会も同様の意見書を可決した。

2007 6 23  朝日の社説を転載させていただく。

沖縄慰霊の日  集団自決に見る軍の非情

沖縄は23日、「慰霊の日」を迎えた。太平洋戦争末期の沖縄戦で、日本軍の組織的な抵抗が終わった日である。今年の慰霊の日は、昨年までとは趣が異なる。沖縄戦で犠牲になった人たちをとむらうことにとどまらない。沖縄戦とは何だったのかを改めて考えようという動きが広がっているのだ。

きっかけは、「集団自決」についての教科書検定である。文部科学省が「日本軍に強いられた」という趣旨の記述を削られた。軍の強制を否定する資料が出てきたというのだ。

沖縄では一斉に反発が起きた。各地の市町村議会に続き、県議会でも検定の撤回を求める意見書が全会一致で可決された。意見書は「日本軍の関与なしに起こり得なかった」と主張する。

保守、革新を問わず、憤ったのはなぜか。集団自決が日本軍に強いられたものであることは、沖縄では疑いようのない事実とされてきたからだろう。

集団自決が主に起きたのは、米軍が最初に上陸した慶良間(けらま)諸島だ。慶良間諸島だけで犠牲者は700人にのぼる。

多くの悲惨な証言がある。例えば、元沖縄キリスト教短大学長の金城重明さん(78)は集団自決の現場で、手投げ弾は自分にまで回ってこず、母と弟妹を自ら手にかけて殺した。『手投げ弾は自決命令を現実化したものだ」と語る。

集団自決に直接かかわった人たちだけではない。沖縄の人たちが「集団自決は日本軍に強いられたものだ」と口をそろえるには理由がある。

沖縄の日本軍は1944年11月、「軍官民共生共死の一体化」の方針を出した。足腰さえ立てば住民を一人残らず動員し、生死を共にさせようというのだ。

子供から老人まで駆り出された住民は、食料や弾薬の運搬などだけではなく、戦闘員として敵に突入を命じられた。

陣地の構築にも動員されたため、住民は軍事機密である日本軍の配置まで知ることになった。そこで日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告していった。

一方で、「鬼畜米英」軍に捕らえられたら、女性は辱めを受け、男性は残忍な方法で殺される。日本軍はそう住民に信じ込ませた。

迫りくる「鬼畜」の敵軍。背後には投降を許さない日本軍。そうした異常な状態が集団自決をもたらしたのだ。

沖縄戦の3ヶ月の犠牲者は20万人を超える。本土から来た兵士より住民の犠牲の方が多かった。日本軍の任務は本土決戦の時間をかせぐため、米軍をできるだけ長く沖縄に足止めすることだった。

沖縄の人たちは「捨て石」にされ、根こそぎ動員されて日本軍と一緒に戦い、そこで集団自決が起きた。いまさら「日本軍は無関係」というなら、それは沖縄をもう一度裏切ることになる

東京だよ、オッカサン

東京だよ、おっかさん



この文章は、大学の卒業を控えた4年生の秋に、入学当時を振り返って書き留めたものです。今、読み返してみて、入学する前の高ぶっている心模様が、新鮮に甦ってくるのが、驚きでした。加筆したり、一部変更したりして、公開することにしました。一部、脱線をしたり、尻切れトンボに終わった文章ではあるのですが、大学に入学した当時の様子と、ゴクラクトンボの実態の一部が書かれています。

法政、明治、中央大学を受験しました。当時、三校とも、サッカーが強かったのです。志望学部は、グラウンドに近い学部学科を選びました。この三校には合格しましたが、不合格になった国立大学もあります。その大学のことは、この際悔しいから、もう忘れたことにする。

慶応、立教、青学は受けなかった。ブルジョアっぽくて、女っけが濃い気がしたので避けたのです。今では、大いなる誤解だったのだとは、解っています。WKの定期戦でみせる、Kの根性は、Wの「百姓」の比じゃありません。立教の戦法も、泥臭い戦いぶりでした。なにが、センターポールだ、と嫌悪感があったのです。山間谷間の村で育った一高校生には、東京の大学の状況など何も知りませんでした。少ない情報のなかで、偏見だけは、立派に育てていたようです。

W大学で、サッカーをやることに、腹は決めた。覚悟した。


と、言ったって本当にできるの? きっと、大学のサッカーは、大変なのだろうなあ。


何ひとつ確信めいたものを実感できないまま、東京に向かう日は迫ってきていた。浪人仲間の、ババト 芦原 戸根等には、サッカーをやるんだと言っていた。


勉強をしたい課題も目標もない。さりとて立身出世や、大金持ちへの夢もない。


「ただ、W大学でサッカーをやるのみだ」、と。


急に、サッカーをやるのだ、と聞かされた彼たちは、俺のことを、なんと思っていたのだろうか。山岡は、頭に血が昇っている、ぐらいに思っていたのだろう。


山岡の奴、サッカーがメッチャクチャ上手いわけでもないのに~と思っていたかもしれない。俺はサッカーの魅力に、どうしょうもなくハマっていたのだ。名選手になりたいとは、そりゃあ、想像はしてみたが、無理なことは解り切っている。


そんなことよりも、本当に大学でサッカーをやり通せることが、可能なのだろうか。不安は、付きまとった。


やって、みたい。必ずやり通してみせるぞ。


そうしたら、何らかの、結果が出るのだから。


不安と恍惚、我にありってとこか。


できるなら、チャンピオンのチームに所属してみたかった。


俺だって、可能性のちょっとぐらいは、自ら感じたい。俺の中に、1ミクロンの可能性でも、潜んで居て欲しい。でも、現実には、ちょっとした能力のかけらも、自分では実感できなかった。


妄想も一役、俺の無防備な野心を駆り立てる。


幸せな錯覚か?



田原を出発する日の朝、小林喜代司が我が家に来た。


田原は、私の故郷です。住所は、京都府綴喜郡宇治田原町南切林。


小林は、中学校を卒業して京阪宇治交通に就職していた。その時分、彼は車掌さんだった。お客として、たまにでくわすこともあった。そんなとき、小林は会社の制服姿で帽子をちょっと斜めにかぶり、一人前のプロの車掌さん風。


高校生の頃、車掌さんの彼にでくわした時は、いつも、乗車料を払わなかった。払ったためしがない。目と目で、確認し合った。その日の朝、喋り下手な彼は、無動作に俺の目の前で包装紙を解き、万年筆を出して、「保ちゃん 頑張りや」、と励ましてくれた。


中学生の時、席が隣同士だったので、ちょっとばかり、小林が勉強で困っているのを助けたことがあって、小林は俺の応援団でもあったのです。小林は中卒で、バスの車掌さんになった。道端で俺とバッタリ会ったときなど、必ずといっていいほど「保っチャンは、大学へ行って、頑張ってよ」、と励ましてくれた。


俺はその時まで、友達からプレゼントらしき物を貰ったためしがなかった。「一所懸命 勉強しいやと」、と またまた念を押された。


ええ、奴や。


私は図らずも、泣いてしまいました。俺が他人の前で憚らずに号泣した、人生最初の出来事でした。


俺の生家もけっして豊かではなかったが、小林の生家は、俺のうちよりも、もっともっと貧乏だった。小柄な母親の細腕一本で、小林と姉を育て上げた。


よくやったねえと褒められる人間になりたい。絶対、立派な人間にならないと、この小林に目も合わせられないと思った。


母も、旅立つ俺に忠告した。


「保 東京と言う所は、怖いところでなあ、おなかが空いたときは、店の前には暖簾というものがあって、その暖簾に、(めし)とか(うどん)とか書いてあるから、そういう店に行くんだよ」。


「レストランとか料理店とかの店には、入るんじゃないよ、そういう店は高いから」。


母が、俺の東京行きに際しての唯一の忠言だった。


でも、東京の何処を探してもそんな店はなかった。そうだ、もう一つ、どうしても俺に守って欲しいという、母からのお願い事があった。


それは、「田原では、勝彦がえらく頑張っているのだから、勝彦に迷惑がかかるようなことだけはしないでくれ」。勝彦とは、俺の兄貴のことです。家業である百姓を継いでくれていた。百姓が大好きな兄貴だ。米とお茶の生産専業農家の若き跡取りだ。


迷惑をかけないということは、どういうことや、と聞き質すと、母ははっきりと答えた。「警察のお世話にならないことだ」 と、言った。


母は、「偉くなってくれなくてもいい、金持ちにならなくてもいい。警察のお世話になるのだけは、死んでも嫌だ」、と言った。聞かされたときは、なんじゃ、そんなことか、と気楽に考えていた。



警察に捕まりかけた、その1。


3年生の時。


10.28国際反戦デーのデモ行進の際、隊列からはずれ、機動隊に赤坂の清水橋に追い込まれた時は、母の顔がちらちらした。


どんなことがあっても、警察に捕まるわけにはいかない。命がけで、他人の家の庭に逃げ込んだ。主人に気づかれたけれども、突風のごとく、庭から、通りへ逃げ切ることができた。


デモ隊からはぐれて、一人になると、そこは急に、平和な静かな町並みである。普通の市民? が平和に暮らす、普通の世界。


普通の市民って誰のことだ。自分だけが、世の中から突出しているのだろうか。普通の市民こそ、可笑しいのではないのか。


とりあえず警察に捕まらなくて、よかった。お母さん、お母さんには迷惑をかけない範囲内で、俺は、最大に過激に戦ってみせるぞ。


赤坂から、高田馬場を目指して歩いた。高田馬場には、一年後輩の福田恵一(秋田市役所に就職した)が、お姉さんとアパートを借りて住んでいるのを知っていた。そこまでたどり着ければ、そこで寝られる。ジャンパーは、催涙弾を浴びているので、丸めてヘルメットに押し込んだ。ひたすら歩いた。小雨が降っていたように思う。お金がないので、歩くしかなかったのです。いくらでも、歩けました。


福田のアパートに着くや、すぐに寝かしてくれた。お姉さんは生憎居なかったので、お姉さん用の、ふぁふぁのきれいな布団に寝かしてもらった。


何時間か寝た頃、福田のお母さんが、秋田からやってきて、部屋に入るやいなや、俺に怒っているようなのだ。そんな気配がする。俺の枕元に置いてある革マルのヘルメットを見つけて、福田のお母さんは、福田にこの人を早く起こせと言っていた。


起こされた俺は、寝不足で頭がボヤーとしていたのだが、福田のお母さんに正座をさせられた。コンコンと、雨霰の、お説教を受けた。「あなたを生んでくれたお母さんのことを、よく考えなさい。こんなことをしていないで、勉強しなさい」と。内容はこんなことの繰り返しだった。同じことを何度も、聞かされた。


福田のお母さんは、自分の息子にも、自分の気持ちを併せて、伝えたかったのだろう。一段と、気合が入っていたような気がしました。


いいおばさん、だと思った。朝飯を作ってくれました。催涙弾を浴びたジャンパーを洗ってくれたが、匂いは落ちなかった。おばさんは、しかめっ面をしていて、秋田訛りで、お説教のしっぱなしだった。



警察ではなかったが、公安に捕まりかけた。その2。


4年生の夏だ。


就職は決まっていた。コマツさんと結婚しようと決めていた。確かコマツさんの両親に、俺との結婚の了解を得るために、京都のコマツ家を訪ねた。東京への戻りの列車内でのことだったと思う。


京都駅で、俺は全席指定の深夜の東京行きの夜行列車に飛び乗った。乗車券は買っていたが、指定席券は、買っていなかった。


デッキで立ち続けるか、疲れたらどこかに座って行くしかないと覚悟していた。指定席券がなくても、乗り込むだけなら、自由だと思っていた。その時までは、車掌さんに、指定席券がなくても、怒られたことはなかった。


その1週間前、菅平合宿からの帰りに寄り道して、軽井沢から東京へ、全席指定の列車を同じようにして帰った実績があった。


大津を過ぎたあたりで、車掌が乗車券と指定席券の検札に来た。乗車券と急行券しかもっていない俺を、車掌は不正乗車だと言った。そして、お前は常習犯か、とも言った。


車掌は米原鉄道公安室に連絡をとっていたのだ。米原駅に着いた時には、公安員が待ち受けていた。公安員に、前後にはさまれて、連行された。


一晩中、公安員の作成する調書に付き合わされた。誰もが自分の役割に一生懸命なのだ。公安の(仕事)も、つくづく大変だと思った。微罪と判断されたのか、取り調べられている側の俺の態度が殊勝に感じてくれたのか、朝になって解放された。


俺は米原市内を、一日中あてもなくうろついた後、夕方、乗車券と急行券だけで乗れる東京行きの急行列車に飛び乗った。


新幹線には乗らなかった。お金がもったいなかった。



俺には貯金があった。東京での生活を支える軍資金だ。農業協同組合の俺名義の貯金 280万円だ。俺が汗水流して、貯めて、貯めて、貯めた俺の金だ。


二浪した2年間の半分、ドカタで稼いだ金だ。浪人1年目も2年目も、3月から8月はドカタ、9月からは勉強の生活でした。都会は怖い所だと聞かされているから、母に預けておいた。そのお金を、少しづつ俺の指示通りに、西武柳沢にある農協の支所に振り込んでもらっていた。


夜行列車のなか、乗客はちらほら。これからの生活のことが不安で、どうしても眠りにつけない。車窓から見える都会の灯りを見ても、何も感じないのに、山裾の集落に、どうしても今まで過ごしてきた田原の里が、重なってくる。


列車は暗闇の中を走る。


遠くに見える山裾の農家から、ほのかな灯りが漏れる。


静かな、ほのぼのとした生活の灯りだ。


涙がぼろぼろぼろ流れて、止まらない。うっうっう 声に出さずに静かに静かにいつまでも泣いた。


楽しいことばっかりだった、田原の里での生活。俺を育てた田原の里から、どんどん遠いところへ向かっている。は・な・れ・て、行く。


さようなら。ありがとう田原、と何度も何度も目をこすった。


素浪人

浪人時代、俺は俺自身を、テレビ番組の素浪人月影兵庫を気取っていた。酒を飲んでは、「わしゃ、素浪人の月影、兵庫じゃ」なんて、訳もなく、わめいたものです。


将来の大学での生活に備えて、その生活費を土木作業員をやって貯めていた。いわゆる ドカタ、です。房やんと犬ヨシさん、俺と親方、いつも4人組だった。


房やんの弁当は、俺の4倍はあった。弁当箱から、ご飯が零れんばかりに盛ってあった。毎回、最高に美味そうに食った。無我夢中に食う様は、異様だった。犬ヨシさんのおじいさんは、犬と得に言われぬ交流ができた人だったらしい。交流?って俺の口からは言えない。うわさだ。房やんは、汗をよくかいた。弁当の飯の量は4倍で、汗の量は5倍で、仕事の量は、俺の7割程度だった。日当は、同じだった。彼の人柄とキャリアが評価されていたのだろう。


仕事は関西電力の鉄塔の基礎作りがメインだ。作業現場は山の尾根なので、現場に向かうとき、下の物置小屋から、荷物を背負って登るのです。俺は、たいていセメント1袋を担いで登った。確か20~25キロの重さだ。ゆっくり、ゆっくり、一歩、一歩息が乱れない程度のスピードで歩くのが、極意です。俺は、人並み以上にタフだった。


大量に荷揚げするときは、ヘリコプターが出動する。仕事はきつかったけれども、誰も何も不平不満は言わなかった。仕事には、不思議な緊張感がありました。


朝一番 朝礼がある。朝礼と言っても、整列するわけでも、本日の作業心得の唱和なんて事もやらない。小便しながら、タバコ吸いながら、冬なら焚き火しながら。俺にとって、一番大事なことは、今日一日でやりきらなければならない仕事の量の確認でした。どれだけやれば終わりにするかの指示が、親方の口から酒臭い息と共に発せられる。


それを確認し合って、じゃ、やろかあ、の一声で仕事が開始されます。


我がグループは、開始から終了まで、休まない、喋らない。ひたすら作業に熱中。通常、朝8時から夕方5時頃までかかると思われる仕事量を、一気呵成、昼飯も食わずに、昼過ぎの1時頃には終わらせてしまうのです。仕事は、関電の孫会社から、各グループの親方に「請負」で、おのおのに発注しているので、各親方は、それぞれのやり方で作業を進めていた。このやり方は、その後、社会人になってからも、随分参考になったと思う。


それからゆっくり昼飯を食って山を降りる。親方の家に3時頃着く。それから一杯飲む。ビール飲んで酒飲んで。一杯ではない、いっぱい飲むのです。


それから、房やんと犬ヨシさんと自転車で、女を悦ばすにはどうすればいいのかとか、俺のかかあは、あれが好きで、堪らんわとか、くだらない事をを話題にしながら、帰途を急ぐ。日当は学生アルバイト扱いではなく、立派な一人前の大人並みにもらっていた。だから、仕事の量もスピードも大人並みにこなした。


彦根に2週間程、飯場に寝泊りしての仕事もあった。仕事の内容は変わらないので、なんちゅうことはなかったが、飯場に居る時間だけは、なかなか耐え難いものがあった。そこで交わされる会話といえば、女のこと、競輪、競馬、オートレースのことだけなのです。臭い息を辺りかまわず撒き散らし、酒をこぼしても意に介さず、他人のことも省みず深夜遅くまで喚きちらす。夏の暑さにもかかわらず、布団を頭までかけて、何もかも忘れて、寝よう、寝ようと努力した。


若い俺にとって、こんな所で、こんなことしていてええのかな、辛い自問自答だった。


家に着いた俺はそれから勉強しようとする。


便所の隣にある俺の勉強部屋、いつも糞臭い。ドカタ仕事から勉強への切り替え作業。この作業は、なかなかの至難。日中の労働とアルコールに荒れ狂う肉体と精神を、平静な状態にもっていく作業は辛いものがありました。


俺はこの作業のために、歌を歌うことを習慣で身につけていた。大利根月夜だ、『俺は河原の枯れススキ、同じお前も枯れススキ』。このとき、(すすき=薄)を辞典で調べて、これはなかなか、意味深長な表意文字だ、と知った。この歌を、俺は意味もなく気楽に、何気なく自然に口ずさんでしまう。この歌は、当時の自分のおかれている状態にぴったりだったのです。


俺がこの歌を歌う度毎に、母はよく俺に言ったものです。俺の勉強部屋の傍にやって来て、保 頼むからその歌を歌わないでくれ、その歌を聴くとなんだか、私まで悲しくなるんだ、と。


苦悩する息子に何もしてやれない母の複雑な気持ちと、何とか結果が最悪なものでないように、枯れススキのようにはならないように願う母の気持ちが痛いように解った。できたら、この末、母には余計な心配をさせないようにしなくてはと、強く決心した。


おっかさん 東京だ

俺を乗せた夜行列車は、胸騒ぎとは関係なく、どんどん進む。思い出だけはいくらでも湧いてくるが、これからのことについては、何にも思い当らない。不安だけ、不安ばかりの自分だった。


孤独だった。


一体全体 俺は何者だ、俺はどうなるのだろう。


とうとう東京に着いてしもうた、わ。


東京駅のこともそれから、山手線に乗って高田馬場駅に着くまでのことも何も憶えていない。駅の構内の案内板だけは、しっかりチェックしていた。風景が目の前を通り過ぎ去っていくだけのこと。ただ、なぜ東京駅に、東京温泉があるのだろう、と思ったことは記憶にある。


高田馬場駅に着いてからのことはよく憶えている。駅の様子、特に学生がえらく多いことには吃驚した。学生と思われる人々の自由な風体、闊達奔放な振る舞い、底抜けに明るい表情には安心した。


俺は、今ここにいるんだ。此処で、彼らと同じ様に俺もやっていくんだ。不安はあるものの、好奇な光景の中で生活する興味が湧いてきたような気がしてきた。


昨夜、夜行列車のなかで、あんなに不安のトリコになっていた青二才は、なんだか今日は夢いっぱいの青雲の土に大変身していた。頑張らにゃ、アカン。とにかく、俺は、やるだけのことはやるのだ、と腹に覚悟の焼き棒を挿した。


命、がけや、で。


駅を出たところにスクールバスの発着所、その横には立飲み屋。まさかその時は、この立飲み屋にその後大変お世話になるとは、思いもしなかった。


受験に来た時にもスクールバスには乗らなかった。貧乏人の俺にも最少限のお金はもっている。が、使いたくない。使わない。スクールバスには乗らないで、とりあえずW大学に向かって歩きだした。


映画館、麻雀屋、パチンコ、喫茶店、古本屋。今まで見たことのない程、古本屋の多いこと。受験に来た時は、既に今までもずうっとそこに、あったはずなのに、こんなにお店が多いことに全然気がつかなかった。どの古本屋の前にも、文庫本が山の様に積まれていて、1冊10円から、10冊束ねて60円のものから、種々雑多な文庫本が溢れていた。比較的多く積まれていたのは、源氏鶏太のサラリーマンシリーズだった。面白くも、なんとも無い小説だ。


俺は直感でこれだと思った。安価で、時間つぶしも兼ねて、都合よく『教養』?を身につける秘訣が、此処にある。古本屋のなかで、大事に取り扱って貰っていない、安文庫本を大いに利用させてもらおう。



W学生会という。学生に下宿を斡旋する不動産屋さんへ行った。


西武鉄道高田馬場駅の、駅舎の一部の階下を利用した店舗に、下宿を探しに行った。その店の店員として、異常に気持ち悪く太った男が居た。その男が、後に俺が西武柳沢のアパートに住んだ時、同じアパートのの住人だったとは、これは吃驚ものだった。


色々情報をいただいたけれども、結果的に、日当たりの極めて悪いアパートに決めた。トイレと台所を兼ねた洗い場は共同使用、風呂はなし。家賃は確か7000円前後だったと思う。安いだけで決めた。


大家さんに、これから4年間よろしくお願いしますと挨拶した。とても上品な初老のおばあさんだった。礼金、敷金を払い、田原からの布団も着き、さああやるぞう、と言いながら2~3日は過ぎた。


その時から、古本屋めぐりが始まり、一番安い本から読みあさった。そして俺は、俺の全身全霊に大学生活のスタートボタンを押した。


数日後、東伏見のW大学のサッカーグラウンドに、入部のお願いに行った。

2007年6月19日火曜日

「慰安婦強制の文書ない」、だから?

従軍慰安婦問題をめぐり、日本の国会議員有志や言論人らが、14日付けのワシントン・ポストに「旧日本軍によって、強制的に従軍慰安婦にされたことを示す文書は見つかっていない」と訴える全面広告を出した。

島村宜伸元農水省、河村たかし氏ら、自民、民主両党の国会議員ら44人のほか、ジャーナリストの桜井よしこ氏、岡崎久彦・元駐タイ大使らが名を連ねている。

広告では、旧日本軍の強制を示す文書がないと主張し、逆に「強制しないよう民間業者に警告する文書が多く見つかっている」と訴えた。インドネシアで一部の部隊が強制的にオランダ人女性を集めるなど「規律が崩れていたケースがある」ことは認めたが、責任者の将校は厳しく処罰されたと説明している。

「事実無根の中傷に謝罪すれば、人々に間違った印象を残し、日米の友好にも悪影響を与えかねない」としている。

それが、どうした? というのだ。

強制の文書がなかったから、従軍慰安婦は強制的におこなわれなかった、何でどうして、そんな論理の展開が可能なのだろうか?そして、強制的に行われなかったから、軍は、国家は何も責任はないのだ、とでも主張したいのだろうか。

東京裁判(極東軍事国際裁判)には、提出された各国の視察団の証拠資料のなかから、占領支配したアジアの女性が日本軍に強制的に慰安婦にされた尋問調書が確認されている。

もう既に、国家的な結論が下されているのではないのか。

国家的結論とは、ポツダム宣言を受け、極東軍事国際裁判を受け、サンフランシスコ平和条約を締結したことです。

そんなことお構いなしに、もう一度、東京裁判の見直しをしたいのだろうか。この際、東京裁判の是非まで、試みたいのだろうか。

今じゃ、もう抜き差しならぬ同盟関係になってしまったアメリカ相手に、抗議する覚悟がおありなのですか。あなた達のボス、安部首相に、頼めばいいじゃないですか? 「従軍慰安婦を強制する文書がなかったのです」と、ブッシュさんに言ってもらったら、どうですか。そりゃ、文書がなかったということは、そんなことが存在しなかった、ということなのですか? と問いただされると、あなた方は、どう答えるのですか。国として、悪いことしていない証明です。当然、国は責任をとる必要はありません、と答えるんでしょうね。東京裁判は、間違っていて、改めて調査の見直しを求めます。だって、あの裁判なんて、戦勝国が自分たちの都合のいいように、勝ってやったのでしょ、とこんな具合だ。

兎にも角にも、強制的な文書がなかったから、責任はないのだと、言い切るあなたたちの、思うところは何?

2007年6月16日土曜日

田中、江夏をめざせ、奪三振王。

今春、春の高校野球選手権で、話題になった、駒大苫小牧の田中将大投手と早稲田実業の斉藤祐樹投手は、それぞれ、プロ球団の楽天、六大学の早稲田大学で、共に1年生だったり、プロ・ルーキーだったり、よく頑張っている。

ハンカチ王子ともてはやされた斉藤は、声援にこたえて春のリーグ戦の早稲田優勝に大貢献した。かたや、田中投手は、初戦はプロの手痛い洗礼を受けたが、その後、頑張って、頑張って、奪三振率9,51は,只今リーグ1位だ。

9,51というのは、、1イニングスで1個以上の三振をとる計算になる。

13日には、交流戦にて中日を相手にプロ初完封投手になっている。ますます、実力を身につけてきた。

今年の新人の完封は西武・岸 孝之(22)と同日で、高卒ルーキーでは一番乗りだ。何かと小言の多い野村監督が「孝行息子の誕生だなあ」と絶賛した。

14日には、斉藤投手は全国大学野球選手権トーナメント2回戦、対九州国際大学戦で、9回2-1、ツウアウト、一塁三塁に走者ありのところで、リリーフで登板、ヒットは打たれたものの、抑えた。

早稲田大学は15日には、3回戦、対関西国際大学戦にも勝ち、栄冠に向かっている。大詰めのところで、斉藤の活躍の場がきっとあるのだろう。

そこで、偉大な投手とは、どのような人のことを言うのだろう。

三振にこだわらない投手は、真の投手ではない」。

そこで、江夏大明神さまのお話だ。

68年9月17日、阪神の江夏豊はシーズン最多奪三振の日本記録をつくる。タイ記録をライバルの王貞治から奪い、新記録も王貞治から奪うために、8人のバッターをわざと三振させなかった。「投手の高橋一三さんに打たせるのが難しかった」。そして、王から空振り三振を奪って、新記録を達成させた。それほど、三振へのこだわりがあった。江夏の、71年の球宴での9連続はもう伝説の世界の話になった。「あの年は球宴まで6勝しかしてないのに、ファン投票で選ばれたから、ファンに三振で恩返ししたかったんや」

江夏さんは、過去の人。これからの田中将大、斉藤祐樹の活躍に、我々は期待しよう。

2007年6月13日水曜日

未熟の晩鐘

私は、元々サボり癖があり、精神的に滅入り易い性格なのです。

その私を、絶え間なく叱咤激励してくれて、モノの考え方に対しても、いつも前向きに、啓発、啓蒙していただく大先輩(m)が、私の背後に控えていただいている。私は、サボリ癖があったり、滅入り易い性格なのに、勝負ごとに関しては、拘る性質(たち)なのです。大学時代の体育会の影響が、ますます激しくしたようです。勝つとか、負けるとかを考えると、体全体がシャキットするのです。誰よりも、負けん気が強いようなのです。

その大先輩(m)は、負けん気を煽るような言い方で、私を刺激するのです。私は、大先輩(m)が仰るひとつ一つに、本能的に敏感に全身全霊が反応してしまうのです。酒を飲み交わしての帰り道、私は、「糞、ナンデあのオッサン(m)は、よくもあれだけ冷静に事業の先を分析できるのだろう? 悔しい!! どうして、あのように組織を動かせるのだろうか?やるな!!」と、毎度毎度、考えさせられるのです。俺も、あのオッサン(m)のように、頑張れる男になりたい、と思うのです。

その大先輩(m)が、3ヶ月程以前に、『や・ま・お・か さん、いいCDが出たんだすよ。小椋 佳の「未熟の晩鐘」というやつなんだ、すごくいいから、あなたも買って、聞いてごらん』と、電話をいただいた。

三女のSNにCDを買って来て貰って、早速聞いてみた。しょうがなく聞かされた同乗の社員は、「これ、なんですか? 眠たいですね」と、気兼ねのない感想を言ってくれるではないか!!

そこでだ。

あの大先輩(m)はいったい、どの曲にそれほど感銘をうけたのだろうか。これが私の、大命題だった。車にしかデッキはないものだから、車に乗った際は、必ず聞いた。お客さんにも、社員にも、どの曲がよかった?と聞いた。大先輩(m)のことを考えながらの、この作業は楽しいお遊戯だった。音楽というものは、若い者には歌詞よりもメロディーのほうに頭脳が作用するようで、大先輩(m)が期待するような、答えは返ってこなかった。

大先輩で、オッサン=(m)は立派な会社の代表取締役専務だ。代表取締役 社長じゃないのが、ちょっと物足りない。一部上場会社の、株式会社 東京Tだ。

その後、大先輩(m)は「船旅」のことだと教えてくれました。

船旅

 ・船旅に 擬えるなら 兎に角に 私の船は

甘やかな 港を後に 帆を立てて 錨を上げて

海へ出た 荒ぶる海へ

 ・煌きの 宝探しか 安住の 島求めてか

行く先の まだ定まらず 自らの 力も知らず

入り混じる 期待と不安

 ・志同じくして 並び行く友に 出逢えるだろうか

心を熱く重ねて 連れ添える愛に 出逢えるだろうか

 ・人の身は ままならぬもの 何故かしら 時に無気力

情けない 怠け心が 忍び込み 漂流船と

成り果てる 恐れが襲う

 ・海図無く 羅針盤無く 蒼臭い 未熟な知恵と

競い立つ 欲望たちと 我知らず 湧く情熱を

せめてもの 追い風にして

 ・振り返って悔いの無い 充実の海を渡れるだろうか

嬉し泣きできるほどの 悦びの場所を抱けるだろうか

 ・船旅に 擬えるなら 兎に角に 私の船は

甘やかな 港を後に 帆を立てて 錨を上げて

海へ出た 荒ぶる海へ

2007年6月12日火曜日

サッカーの報道写真、もっと腕を上げて

キリンカップの各試合内容がとてもよかった。オシムには物足りないのかもしれないが、私には十分楽しかった。

そこで、翌日、試合を振り返りながら、私が、またもや、頭に来たことを、どうしても書き著したくなった。どうしても、ここらで、声を張り上げないと誰も、何も言わないものだから。

『しっかりせい、写真カメラマン、と』。

6月5日、埼玉スタジアムで、日本対コロンビア戦があり、0ー0で引き分けた。ともに、1勝1分けの勝ち点4、日本が得失点差でコロンビアを上回り3年ぶりに優勝した。キリンカップサッカーのことです。

その前に、日本はモンテネグロには勝っている。モンテネグロは北欧では歴史のある強豪チームだが、今回は主力の4人程が合流できなくて、不不本意な成績だったことを悔しがっていることだろう。

コロンビアは南米の名門チームらしく質の高さを見せ付けた。ヨーロッパでプレーしている選手が日本の倍だ。とにかく守りが徹底して堅い。

高原を激しくタックル、激しく当たってくるのには、私は目を伏せざるをえなかった場面も度々あった。でも、じゃ。高原は、凄いぞ。ヘッドで競っては、身を掬われ、地面に叩きつけられる。こりゃ、重症だ、と思いきや、頭を水で冷やして、腰に手を当て痛みをかばいながら、頑張って立ち上がる、そしてボール目がけて走りまくる。こまかい足技(わだ)もこなす、相手のボールを執拗に追い回す。

ここで、オシムのおっさんの戦略

最前線に核弾頭の高原をおいて、2列目には中村俊、遠藤、稲本等。どちらかというと、いずれもスペースに飛び込む選手にパスを送るタイプ。自ら相手DFの裏に走りこむタイプではない。

オシムのおっさんは、ここでも皆に試練を負わせていたのだ。この布陣で、どう、敵の陣地を崩せるのか、やって見せてちょうだいな? 海外組さん、この俺様の考えていることが理解できるかどうか、やってみてよ、ということだったのでは。理解している者は今後もチームに呼ぶし、理解していない者は、もう要らないということだ。

私には日本の代表Aチームはいい試合をしてくれた、と思っている。ゲームを観終えたまでは、幸せな気分でいたのです。キリンカップを振り返って、日本サッカーの進化度を、このゲーム内容とオシムの考えをまとめて、文章にしようと考えている、もう一方で、ムカムカが盛り上がってきた。

ここまでは、ゲームの感想だ。

だが、しかし、だ。

ムカムカなんじゃ。気に食わんことがあるのじゃ

翌日、新聞各紙を読んだのですが、今まで、ネに持っていたことなのだが、どうしても声を上げて文句を言いたい衝動にかられた。

写真カメラマンに対してだ。

『写真のレベルが、一向にあがらない。いつまでも下手糞だ』

新聞やサッカー雑誌に使われる写真が、実際に観た感動と、ほど遠いものに対する失望の繰り返しに、私はやるせないのです。

ヨーロッパや南米のサッカーの試合の報道雑誌等には、凄いなあと思うのが満載されていて、十分写真を観るだけで臨場感をもって楽しめる。

なのに、日本のカメラマンの腕はあがっていない。日本のサッカーがよくぞ、ここまでレベルアップしたのに、カメラマンの努力が足りないのではないの?

スタジアムやテレビで観る機会をなくした人に、新聞や雑誌にすばらしい写真を提供してくださいな。

奮起して欲しい。

思いつきに、書き足したものだから、文の構成はバラバラになってしもうた、わ。

2007年6月11日月曜日

おいらの田舎は、緑茶発祥の地だ。


宇治田原茶業青年会:編集 発行


和み茶房 緑茶の故郷宇治田原 お茶の情報誌より。


一部、私が加筆しています。



宇治田原は日本緑茶発祥の地  栄西禅師によって日本にもたらされたお茶は鎌倉時代には、(光賢)の手によって宇治田原でも栽培され、足利時代には庶民の間にも喫茶の習慣が広まっていた。


徳川八代将軍吉宗の時代に宇治田原町に茶農 永谷宗円という人物がいました。宗円は、現在の湯屋谷という場所で一生懸命お茶づくりに励んでおりましたが、四十三歳の頃,彼はもっと美味しいお茶は作れないものかと、いろいろな方法を試み始めました。

最初は失敗の連続で,周囲の人々に「あいつはいったい何を考えているんだ、気が狂っている」とまで言われながらも、ついに一七三八年 五十八歳の時に研究の成果が実り、「宇治製法」と言われる青製煎茶製法を発明しました。


それまでのお茶と言えば、文字通り茶色をしていましたが、彼は、当時宇治で取り扱われていた抹茶の製法にヒントを得て、独創的に蒸製法の煎茶を編み出しました。


それは、蒸した茶の芽をいったん急激に冷却し、次に高温の焙乾炉で揉捻しながら乾燥、整形する方法で今までになかった鮮やかな緑色で味も香りもたいへん素晴らしい緑茶を作り上げたのです。


彼は、この発明を機に喜び勇んでお茶をもって江戸へ行き、茶商を通じて販売したところ爆発的な人気を呼び、あっという間に売れてしまったそうです。そして瞬くまに宗円の発明したお茶が日本中で人気を博しました。


また彼は同時にこの製造法を自分一人のものとせず、周囲の人々に快く伝授したので日本全国に宇治製法が広まり、皆がこの製法でお茶を生産するようになりました。


現在、全国各地で行われているお茶の製造は機械化が進んでいますが、その原理はこの(宇治製法)と同じなのです。この町が(日本緑茶発祥の地)と言われる由縁が、皆様にもお分かりいただけたのではないでしょうか。



利休の茶室が宇治田原にあった!?


その名を『独楽庵』という


千利休の茶室の一つ(独楽庵)は桃山時代利休が豊臣秀吉に請い入手した長柄の橋杭三本を用い、宇治田原に造られたと伝えられる二畳敷の茶室です。後にこの茶室は京都に移され、また大阪の阿波屋へ、そして一八〇四年に出雲へ移されたと記されています。


室町時代に村田珠光から始まる茶の湯は、当時、八畳半敷を造りそこへ炉を切ったことで名をのこしました。


彼は、心の修行をめざし、茶の湯を仲立ちとして(わびの心)の基礎を築き上げ、そして千利休により(侘茶=わびちゃ)として茶道文化は大成されました。


利休が晩年各地で広めたのは、宇治田原にあったとされる(独楽庵)の茶室形態と同じ二畳敷や一畳半敷茶室で、それは、利休がいう(脱欲の精神)と(清閑の境)と『自然と人間の畏敬の心』、つまり、茶の湯の(わびの心)のゆきつくところであったのではないでしょうか。



茶香服(ちゃかぶき) 


利き茶遊び


(茶香服)という言葉を聞かれたことがあるでしょうか?茶香服というのは、簡単に言ってしまえば、『茶を飲みその茶の産地を当てる』ワインでいうソムリエの競技と考えて頂ければ理解して頂けると思います。しかい、その世界はひとことで言い表せるほど簡単ではなく、何十年と茶香服をやっている人でも、なかなか満点をとることができないくらい奥の深い面白い競技なのです。


歴史的に見るとこの競技が始まったのは、鎌倉時代末期から室町時代にかけて流行した『闘茶=とうちゃ』が始まりとされています。その後、少しずつ形をかえながら現在までその姿を残している、実に伝統のある競技なのです。



緑茶の効用


細胞の変質を抑制するカテキンやテアニンなどのさまざまな成分が含まれて居ますが、最も注目されるのがカテキンという成分。緑茶独特の渋みの素となる物質です。細胞の酸化を防ぎ、生き生きと保つこのカテキンという成分は、細胞の中にある脂質の酸化を抑制する働きもあり、細胞を常に元気に保ってくれるという優れた成分なのです。緑茶に含まれるビタミンは(ACE)と呼ばれ文字通りの栄養のエース。他にもビタミンC E カロチンが豊富です。



古老柿伝説「美女石」 


(孤娘柿)とも。 


つるのこ柿とも。



宇治田原町のもうひとつの特産物は古老柿。秋になると、澄み切った秋空のもと、あちこちで(ぽきん、ぽきん。)と枝を折る乾いた音が青空にこだまします。稲刈りも既にすみ、秋祭りも終わってほっとした頃。お正月にそなえて宇治田原の町では、古老柿作りが始まります。そんな古老柿にまつわる伝説をご紹介しましょう。宇治田原の柿は枝もたわわに実るとても美しい眺めでしたが、どうしたことか甘い柿が少なかったのでした。村人たちはいろいろ工夫しましたが甘くはならず悩んでいました。ある日、一人の少女が道端にたおれていました。話を聞くと空腹と疲労で持病が出たらしく、かわいそうに思った村人は一所懸命に看病し、そのおかげで少女はすっかり元気になりました。そして柿が渋くて悩んでいることを話すと、少女は、村人に渋柿を甘くておいしい柿にする方法を教えてくれました。それは、一面に白い粉がふいたまるいコロコロした柿で、口に入れると、とても甘くおいしいものでした。

村人がどうしてこんなに甘い干柿ができるのかと感心している間に、少女はにっこり笑って名前も告げずにお礼だけを言って立ち去っていきました。村人は不思議に思い、そのあとをしのび足でつけていくと、少女はお寺への坂を上がって姿を消してしまいました。


どうしたのだろうと村人が不思議に思っていると、目の前の大石の上に紫の雲がたなびき、その中に観音様の姿が浮かんだのでした。村人が合掌してよく見ると、それは禅定寺の十一面観音様でした。村人は、この村を救うために少女に姿をかえて自分たちに甘い柿を授けてくれた観音様にみんなで感謝したのでした。


古老柿は一人の娘が教えてくれたことから孤娘柿と書かれることもあります。また少女が消え、観音様が現れたその大石は美女石といわれ、現在も禅定寺の寺領に存在し、禅定寺の十一面観音は国の重要文化財に指定されています。



縁起物としてよく、お正月には鏡餅に古老柿、みかん、昆布を添えて祝います



古老柿はビタミンCが大量に含まれた自然食品です。高血圧、動脈硬化、ガン予防に役立つといわれている。又、柿のタンニンは、酒の酔い覚ましによいともいわれている。



宇治田原の名所 旧跡 行事



猿丸神社


奥山に 紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき と詠んだ三十六歌仙の一人、猿丸太夫が晩年を過ごしたと言う伝説が残っています。こぶ取りの神様として信仰も厚く、毎月13日に行われる例祭及び地元特産品の市「猿丸市」には、臨時バスも運行される程の人出でにぎわいます。



禅定寺



滋賀県大津市へ行く街道沿いに建つ禅定寺は、平安時代に東大寺の僧、平崇が開いた古刹。高さ3メートルの本尊木造十一面観音立像及び、その左右に配された木造日光・月光両菩薩立像は、ともに国の重要文化財に指定されている。三門から望む鷲峰山や茶畑の眺めも美しく訪れる人を魅了します。私の初めての子供の長女につけた名前が変だと言う母を連れて、この寺に行ったことがある。住職は実子(みこ)という名前は最高にいい名前だと言ってくれて、私は大いに安堵したものでした。その後母は何も言わなくなった。当時の住職は姓名判断もするお坊さんだった。


永谷宗円 生家 


江戸時代中期、赤黒く粗末な茶しかなかった時代、当時高級品だった抹茶の製法を煎じ茶に取り入れ「青製煎茶」を作り出した宗円。その生家が町内の湯屋谷に保存されています。藁葺き屋根で内部には焙炉跡も残り、約15年もかかって研究を重ねられた様子がうかがえます。



大滝


湯屋谷の中谷の最奥にあり、背後の鷲峰山山系より溢れる清流は、数十メートルの滝となり町内では最大級の滝となっています。滝の上の不動明王像は明治時代の作品で、大滝不動尊は水難除けと無病息災とともに雨乞いの不動尊として信仰されています。不動尊の使者は(うなぎ)で、うなぎにお酒を飲ませて滝壺にながすと、雨が降るという伝説があります。



弘法大師の井戸


高尾(こうの)の(弘法大師の井戸)はあまりにも有名で、その昔、巡錫中の弘法大師がこの里を訪ね教示したと言われています。老婆と大師のうるわしい伝説の井戸で古今枯れることなく村人の生活を支えている「霊泉」として信仰されています。冬あたたかく夏冷たい清水は環境悪化の今日でも「名水」として益々有名です。



田原祭り「三社祭り


「せいのう舞」「王の舞」「上げ馬奉納」「鉾廻り」などがとりおこなわれ沿道での「駆け馬が終わると祭りのクライマックス(みこし巡行)が始まります。例年10月10日頃。その日、我が家では新米で作ったさば寿司をいただき、一年の農作物の収穫を神に感謝、家族の慰安のひと時を過ごすならわしです。



ねりこみ囃子


豊作 厄払いを祈願して村人が鐘や太鼓を打ち鳴らして踊る江戸時代からの風習。今は保存会と小学生が鳴らし物を打ちながら奥山田天神社まで練り歩く。



縁たたき


高尾地区にある阿弥陀堂の本堂の入り口に厚い木の板を置き、男たちがその板に青竹を打ちつける風変わりな行事です。



鷲峰山金胎寺「じゅうぶさんこんたいじ」


(じゅうぶさん)(じゅうぶせん)とも呼ばれるこの山は、大和 大峰山と並ぶ修験者の場。山の頂上には多宝塔 弥勒菩薩像 不動明王像 毘沙門天堂などの寺宝を安置しています

2007年6月10日日曜日

若者よ、狭き門より入れ

 若者よ、狭き門より入れ


このごろ「、山岡さん、昔、サッカーをやっていたんですって、もっと、お話を聞かせてくださいな」、という機会が時々ある。新しく入社した者も、話を聞きたがっている者がいるようなので、20年程前に、入学してから夏の合宿までの様子をまとめたものがあるので、公表した。今回、一部加筆しました。大学サッカー選手権(通称・インカレ)に優勝、関東大学選手権優勝したんだデエ、なんて言うだけでは、凄く格好良く聞こえるのだが、その実態は、そんなもんじゃございませんでした。でも、私の人生の核になるものを育ててくれたことは、間違いない。


大学のサッカー部(ア式蹴球部)に感謝。先輩、後輩、同僚に感謝。もう、感謝、感謝なしでは、語れない、わ。師と仰ぐ人にはあまりめぐり合ってはいません。みんな、普通の人で、特別な人はいませんでした。その普通の人が、普通でないのです。その普通の人が強烈なのです。唯、堀江教授とキング・工藤さんだけは、少し変な人でした。どこが変なのかは、後日何かの機会に著せていただくことにします。


入学した(昭和44年)。



東伏見のグラウンドでは、学生たちが石灰でラインを引いたり水を撒いたり、整然と作業が進んでいた。


真っ青な空に、グラウンドの土色に白いラインが印象的だった。


作業は静かに淡々と進められていた。役割りが分担されているのだろう,無駄無く進んでいた。さすがに大学生だと思った。私の高校時代は、グラウンドの整地さえたまにしかやらなかった。


みんな、大学生なのだ。大人、なのだろう。


グリーンハウスの横にある水飲み場で、ちょっと怖そうな奴にサッカー部に入りたいのだけれどもどうしたらいいのですか?、と聞いた。その男が、その後、私の終生の友人になるとは、不思議な縁だ。東伏見で最初に声をかけた奴は、金 性勲「金城 勲・キム ソンフニィ」だ。「あの人に聞いたらええわ」、その時、こいつは関西人やな、京都じゃない、大阪の奴やと見抜いた。


あの人だと指を指された人は、新人監督の山本和夫さんだった。山本さんは、新人監督として、新人たちの面倒をみていた。陰で、新人達の作業をチェックしていたのだ。陰険な人ではなかった。無茶苦茶正直な人だった。


ちょっと来いと言われて寮へ連れて行かれた。山本さんは、開け放された腰高の窓に座り、私は、知らず知らずのうちに正座をしていた。どっから来たんや、サッカーをどの程度やってたんや、高校はどこや、色んなことを尋ねられた。今迄何してたんや、二浪もして、頭の悪い奴やな。ドカタをしていましたと言ったら、山本さんにえらくうけた。何でそんなにうけたのか、私にはさっぱり解らなかった。


もう既に、新入生は通常の大学の練習に参加していた。合格発表とほぼ同時に寮に入っていたのだ。


入部する者は受験前からマネージャと打ち合わせをしたり、指導を受けたりするのが普通で、お前のように、突然何の連絡もなく直接このように来る奴は初めてや、と言われた。


山本さんは、京都山城高校の出身、宇治にあった、私が卒業した城南高校のことはよくご存知で、親近感を持ってくれたのだろう、その場で早く寮に入れと言ってくれた。山本さん、誰かと相談しなくてもいいんですか、と聞き質したかったのですが、そんなこと、恐ろしくて私は言えなかった。


まだ、この時点でさえ、これから、大学においてサッカー部員として、本当にやっていけるかということについて、脳天気だったような気がする。二年間の過重なドカタ仕事と、勉強の二刀流暮らしで、本当に緊張するということを忘れてしまったみたい。脳のどこかが、破壊されたのか。ありがとうございますと言って、その日は寮を後にした。


アパートに戻り、大家さんに報告した。


入部の手続きの前に、アパートを借りてしまったのです。寮があるなんて知らなかった。まして、新入生は全員入寮しなければならないなんて。大家さんは、私のサッカー部への入部を、自分の息子のことの様に喜んでくれた。いい人だ、俺もこんな優しい老人になれたらいいなと思った。清々とした美しい人だった。翌日、再び大家さんに感謝を込めて、お別れの挨拶をした。一週間だけのお付き合いだったのに、こんなに心に触れるお付き合いができたのは、郷里を離れてちょっぴり心細い思いをしだし始めていたからかもしれない。礼金も敷金も、一週間分の家賃も全部返してくれました。悪いことをしてしもうた、と思ったのですが、大家さんの気持ちを丸飲みさせていただいた。


ゴングが鳴った。試合開始だ。


キックオフのホイッスルが吹かれた。


布団袋を背に担いで、西武新宿線、高田馬場駅から東伏見の寮を目指した。大きい荷物を背負ったかっこうは、まるで蟻さんみたい。節約第一です。大学の4年間でつかえる学費と生活費の最大額はきまっていましたから。二年間、ドカタで稼いだお金、農協に貯金してある原資が全てでしたから。


このまま、このままで、早稲田大学ア式蹴球部にめでたく入部、東伏見寮に入寮したのです。住所は東京都北多摩郡保谷町東伏見。


それからの、何日間、全く記憶に無い。今までとは全く異なる環境の激変に翻弄され、無我夢中の日々の連続だったのだろう。不確かな、なにがなんだか解らない、覚束ない、脳の活動はオーバーヒート。そんな夢遊病者のような日々を過ごしていたのです。


履修科目の届けを事務局に出さなければならないのですが、どうすれば、いいですか?と先輩に聞いた。先輩は私が何を考えているのか、何も聞かないうちに、社会科学概論だ、これは難波田春夫先生だ、それとフランス社会思想史は?,日本ナショナリズム研究は木村時夫先生だ、とかなんとか言って、私の履修科目を次々に指定していく。これらは、出席をとらないんだよ、というのが科目を指定した理由だった。当然政治学原論もなあ。これは堀江先生だ。サッカー部の先輩で、教授だ。面倒見てもらえるんや。このように、選択科目の全ては、伝統に従いました。



当時の早稲田大学ア式蹴球部のことを紹介しよう。


早稲田大学のサッカー部には、ワセダ ザ ファーストと言って、早稲田は常々いつもチャンピオンであらねばならない。そして日本のサッカー界をリードしていくのだという自負があった。


だから、私が入部した以前の戦績は誇り高いものだった。関東大学リーグでもインカレでも常勝、優勝か準優勝だ。天皇杯でも、実業団のチームとも互角に戦ってきた。寮の彼方此方に先輩たちが書き残した落書きにも、そういう気概が感じられる。


そんな立派なクラブなのに、他の大学では考えられないことがあった。


それは、サッカーのテクニックがある程度のレベルに達してない者でも入部が許されていたことだ。一番の原因は、下手糞な奴が入部してこなかったからかもしれないが、希望すれば誰でも入部できる。私は当然のことと思っていたのだが、早稲田ならではのルールだったようだ。そう言う訳で下手糞な私でも入部がかなえられたということなのです。これは、私にとって、思いもよらぬことだった。クラブは原則、来るものは拒まぬ、であるべきではないのか。さすが、我が大学は他校とは、違った。


でも、そんなに名誉ある過去をもちながら、私が入部した年(昭和44年)は惨憺たる結果に終わった。創部以来の悪成績だった。関東大学リーグ戦6位で最下位。この年の4年生は、ほとんどの選手が高校生の時はユース代表、高校選抜、大学でも大学選抜、全日本代表の選手もがごろごろいた。この年度の悪戦績で、誰もがいろんなことを学び取った。


私はと言えば、少しの練習でさえ、体のバランスをコントロールできないほど、直ぐに体力を消耗した。頭脳も、体力の消耗とあわせて完全にマヒするのです。



キング・工藤さんは、私を呼び止めて、「おい! 京都から来たとか言う や・ま・お・か! いかめしい名前をしとる奴! なんじゃ! お前! 尻(けつ)に糞でも挟んで走っているのか! 」とおっしゃりぬかした、のでありあります。


糞っ垂れか? ズ星です。


さすが、かって共同通信社の記者だけあって、表現は、ウマイ。



私は走れなかった。もともとタフではなかったし、2年間、練習らしきこともしなかった。ドカタ仕事で筋肉はついていたが、この筋肉がかえって、よくなかったのだ。静止しながらの肉体労働で、身についた筋肉は、走ることや微妙な動きをすることには、かえってマイナスの原因になったように思われた。相撲とかレスリングには良かったのかもしれないが。


二年間のドカタ稼業で身につけた、私の「スコップ取り扱い術」は相当なもので、グラウンドの管理人の藤間のオジサンに頼まれて、生ゴミを埋める穴をグラウンドの隅っこのあっちこっち掘った。4メートル四方で、深さが3メートルの穴です。関東ローム層の地面は、私にはたやすく、お茶のこサイサイだった。夜は藤間宅でご馳走になり、小遣いとして、一穴、3000円呉れた。二時間位で掘れたから、高効率だった。世間の一般のアルバイトの時給は、一時間450円程だったから。藤間のオヤジは心臓に持病があったのです。


キング・工藤さんは、私と同期の工藤大幸の親父(おやじ)のことです。キング・工藤さんのことについては、いつかきちんと、「私にとっての工藤さんの巻」を纏めてみたいと思っている。



笑わないで欲しい。真っ直ぐに走れないのです。


身体のバランスや運動機能をつかさどる中枢が機能しない。体の各部がばらばらなのです。コースを外したくないからタッチライン沿いに走るのですが、どうしてもラインから外れて草むらに飛び込むこともしばしば。あっあっ、と誰かが言っている声がはるか遠いところで聞こえてはいた。制御できないまま、頭から地面にぶっ倒れてしまって、我に返るのです。



そんな状態だったから、正規の練習には、種類によっては参加させてもらえない。そんな時、一人でキック板に向かってボールをひたすら蹴り続ける。三角パスの練習、これには私は往生した。私の蹴ったボールが思い通りの方向にいけばいいのですが、うまく蹴れなかった時は、流れが途端に狂い、皆に迷惑をかけることになる。必死の覚悟で、注意深く蹴るのだが、先ず一発目で駄目、(や・ま・お・か~ キック板 )と古田グラウンドマネージャから指示が出る。




高度な技術が必要になる練習になると、一人二人とキック板に集まって来る。上手く練習の流れに乗っていけない者は、どんどん練習の邪魔になるからといって、みんなの練習からはずされて、キック板行きを命じられる。私は、他の誰よりも圧倒的に多くの時間をキック板前で過ごした。それから月形、高島、一言さん、中野さんの順番で、中途で退部した窪田さんも、ぶつぶつ文句を言いながらキック板にやって来る。


こんな毎日だった。まだまだ、サッカーをしているという実感がない。



雨の日はグラウンドが使えなくて、ランニング。私は皆とずうっと一緒に練習できるのが嬉しくて、にんまり。下手な私も、上手な人も皆同じ。上手な人程ランニングを嫌った。


雨の日は、大体、井の頭公園までランニング。


このランニングに早稲田伝統の行事がある。井の頭公園に着いた頃、先輩達の間で密かに謀議がなされる。新人達には全然気づかれないように、1年生の新人の誰かを指名し互いに確認し合う。そして、示し合わせた場所にさしかかると、先輩達は指名した新人を急襲。一糸纏わずの、真っ裸にして追い払う。


私達が1年の時には月形(菅平合宿で夜、寮を後にした)が選ばれた。剥ぎ取った衣服を、パンツ、ストッキング、シャツ、サッカーパンツをどんどん遠くの木の枝に次々と、引っ掛けて行く。月形はチンチンを両手で押さえながら、ひとつひとつ衣服を木の枝から取って身に纏って行く。


公園の傍のマンションの住民は、騒ぎに気づき窓から顔を突き出す。いやだと思ったのか、面白いことやっとると思ったかは、我々には解らないが、見物人は減らない。月形は被害者なんだけれど、可愛そうだとは思わなかった。私には、人を虐めて面白がる、悪魔が住み付いているのでしょうか。だが、私が最高学年になったときには、このようなことはしないようにしたい、と思った。


いや、これはお祭りなのです。


サッカー部の練習は年間を通じて、月曜日は休み。だから、月曜日は、私にとっては、絶好の練習補修日、体力補強日だ。一人で何処までも走った。武蔵関公園、井の頭公園、善福寺公園、上石神井公園、どこも私の親しんだ公園だ。走っていく行き先は、必ず公園を目指した。


金欠病には異常に抵抗力のある私だが、暇はいかん。暇だとお金のない生活に急に不安になるのでした。いやだ、いやだ。走って忘れろ。貧乏はいやだ。


技術的には追いつけなくても、走る力だけでも皆と同じレベルまでになりたい。そうしたら、何か可能性が見えて来る筈だ。東伏見から多摩湖まで全員で一年に一度走った。私は一人でも多摩湖まで走ったことが度々ある。


走って、疲れたら歩いた。小さな草花を摘んだり、神社のお祭りに出くわしたり。シャバは、魚を釣ってる人、将棋に興じている人、デイトの若いカップル、買い物帰りの人、追いかけごっこの子供たち。糞っ垂れ、みんな好きにしろう~。


猫とじゃれたり、犬に吼えられたり、道に迷ったり、本屋に寄ったり、一日がゆっくり過ぎて行く。私は、ひょっとして、この世界の中で一番幸せ者なのでは、と思ったりもした。


下手糞でもかまうものか。俺は俺らしく、やらねばならないことをきちんと、やるだけだ。


お父さん、お母さん。学校を卒業したら勉強をします。誰にも負けないほど勉強しますから、今はサッカーを人並みとは言わないが、もうちょっと、上手にプレーできるようになりたいのです。卒業したら、社会科学概論、フランス社会思想史、日本ナショナリズム研究、政治学原論もきちんと勉強をやり直します。社会人として、恥ずかしくないように、必ず勉強しますから。


そんな日の連続だったけれども、ちょっとづつだけれども体力はつきだしてはいた。


新人戦は大学のサッカー行事としては、あまり重きを置いてない大会だったが、参加している者達にとって、真剣そのものだった。



新人戦はトーナメント方式だったが、優勝したのです。


入部した人間が少なかったものだから、私みたいな者も試合に出してもらった。嬉しかった。優勝したその夜、先輩達の優しかったこと。よかった、よかったと酒を注いでくださる。今日は、君たちだけで自由にやっていいぞと言い残して、先輩達は何処かへ出かけた。宴会は新人達だけの大酒盛り。箒を振り回して大暴れ、ガラスを数枚割ってしまった。先輩達は、私達の乱痴気騒ぎを、その夜は優しく容認、なんでも許してくださった。


飲み慣れない者達の、危険な飲酒。果ては死一歩手前のゲロゲロの土佐衛門。朝、目を覚ました。顔をあげようと思っても、ゲロゲロが接着剤になって畳から顔が離れない。ばりばりと無理に離すと顔には畳の筋が深く刻まれていた。


昨夜あんなに優しかった先輩が、今日は、いつもの怖い顔で掃除をちゃんとしとけ、割ったガラスはガラス屋さんに電話して直して貰え、と。いい先輩達だ、ほんとにいい人達だと私はとても幸せな気分になった。



夏になりかける頃、5月の終わりから6月は暑くてもう大変。この頃が、一年で一番紫外線が強く、一番日焼けした。暑さに慣れていないので、この時期、一番苦しかった。


造反有理、解体。


私たちのキャンバスでも、学生運動が激しくなってきていた。一月には東大安田講堂が陥落。べ平連(ベトナムに平和を市民連合!)が新宿でフォーク集会を開いていた。警官隊と乱闘になった。このような世相を受け、クラス会が活発に開かれ、授業ボイコットがたびたび行われた。早稲田では、学生会館の自主運営、授業料反対、で大学の機能が、六月には完全にマヒ状態になっていた。


クラスの友人が革マルで活躍していた。私も、彼に共鳴して夜な夜な角棒、ヘルメットをかぶってデモに参加した。昼間はサッカーだ。


新感覚派左翼人?ってとこだ。


理論武装に関しては、不真面目だった。この頃から、私は、ものの考え方をますます左傾していった。部室の私のタンスには、「革マル」,「Z]のマーク入りのヘルメットをしまっておいた。同期の者が、昨日のデモはすごかったな、なんて話しているのを黙って聞いていた。私も、そのデモ隊の一員でもあったのだ。こんなことは、そうっとしておこう、と思った。読書の傾向も変わってきた。ドカタと勉強の兼業、素浪人時代は、太宰、織田作、安吾、田中エイコー、山岸外史、一連のデカダンの本を読み漁っていたが、ここへきて、柴田 翔、高橋和己,あとは小林多喜二、五味川純平、大岡昇平、堕落前の開高 健、井上光晴の本にかわってきていた。当時は、ベ平連なんか、女学生の文化活動のように思えて、こ馬鹿にしていた。


そのうち、学校当局がロックアウトをして、学生は構内に入ることができなくなりました。当然、講義は開かれず、レポート提出で前期は終わった。



夏の合宿は、地獄の一丁目一番地だ。


例年8月の初旬、夏休みの為地方に散らばっていた部員が決められた日時、上田の駅頭に集まる。菅平の合宿の始まりです。


上級生は余裕のよっちゃん、へらへらしている。


1年生は先輩から、お前ら、この世の楽しいことは此処で、もうおしまい。アイスクリームも、可愛い娘っ子のお尻やオッパイともお別れ、今生の見おさめじゃ。ええか、よく見とけよ。


菅平へ向かうバスに乗る。その菅平へ向かう途中毎年合宿を終えたラグビーが乗ったバスとこれから合宿をやるサッカー部のバスが行き違う。破顔一笑のラグビー部と悲壮感漂う面々のサッカー部が手を振り合う。そしてバスは、いや応なしに早稲田の菅平合宿所に近づく。


合宿所に着く。


到着するやいなや、先輩達は二段ベッドの下の方に我先に急ぐ。上段のほうが気分いいのにと、思いながら荷物の整理をする。何故先輩達が上段を選んだのか、夕方には直ぐに了解できた。合宿が始まると、誰もが強度の筋肉痛に陥るのです。後輩は、上段への上り下りで,歯をくいしばらなくてはならないのです。これが、大変なのです。足が、腰が、首が、手が、コチコチに固まってしまって、曲がらなくなるのです。


昼飯を食ってからグラウンドに集合。柔軟体操の後、ダボスに行くぞ、の掛け声一発でスタート。ダボス山はスキー場としては有名で、著名なスキーヤーがスイスにあるダボスに匹敵するいい山だということで命名されたとか。そんなことは、私には重要な問題ではない。


山では牛がのんびりと草を食っている。スキー用のリフトが頂上までかかっている。頂上まで走って登る人もいる。上りきったら今度は下りだ。ブレーキをできるだけかけないようにする。だって、自然のエネルギーがもったいない、と思うからです。今日はなんとか皆と同じ練習をやり通せそうだ。青島は、長距離には滅法強い、同期では抜群の実力者だった。俺を尻目に、ニタニタして走っていた。うらやましかった。


ボールを使わない練習が続く。筋肉トレーニングのメニューがどんどん続く。腕立て伏せ、ジャンプ、ボールタッチ、必殺8種目、ダッシュ、インターバル(100~105メートルを16秒で走り、1分間で戻る)、練習の種目は幾らでもある、、、、, 


 風呂は先輩から。 夕食はボリュウムたっぷり、初日だけは、がっちり食えた。高原野菜の本場だ、レタス、トマト、胡瓜凄く新鮮、飯は大盛りだ。よし、今日一日はなんとか終わった。明日はどうなるやら,気分良く床に就く。


朝は7時の起床(きっしょう)、の号令で始まる。ラジオ体操して朝飯。一息ついたら柔軟体操してダボス山へランニング。今日は決められた時間までに帰って来れなかった者は午後もう一回走らせるぞ。時間の調整できる者はいいが、俺には無我夢中で走るしかない、セーブすることなんてはできない。制限時間内に走り終えることができた。だが、走り終わって次の種目に練習が移っても、疲労が溜まっていて皆と同じ状態ではスタートできない。一次合宿は体力作り。ボールを使わない、体力養成の練習が続く。


練習が終わると、水道の蛇口を口に含み猛然と水を飲む。いくらでも入った。先輩は忠告する、真っ赤に燃えてるエンジンに冷たい水を掛けたらどうなるか想像してみろ。エンジンが壊れるんだ。キャップテンは、高校を卒業して東洋工業(現=マツダ)に4~5年勤めてから、大学に入った人でした。なあ~るほど。


そんなこと言われても、蛇口から口は離れない。シャワーを浴びて昼飯だ。新鮮な野菜と牛乳とボリュウムたっぷりな肉料理。料理を前に俺は箸が手につかない。山岡、どうしたんだ、どうしたんだと皆の声がうつろに聞こえる。腹は水で一杯。食欲が湧かない。


牛乳を飲んだだけで、じっと料理とにらめっこ。


小学生や中学生じゃあるまいし、だれも俺のことはかまってくれない。少しは野菜が食えた。なんとか昼休みにベッドへ行くと、もう皆は昼寝の真っ最中、また、また俺は遅れてしまった。少ししかうたた寝ができなかった


3時午後の練習開始。体力養成の練習ばかりが続く。午後の練習の最後はインターバルだ。100~105メートルを16秒で走りきり、1分間で戻って来ることを何本も繰り返す。ある程度の本数をこなした後で、グラウンドマネージャが指示を出す、(トップを連続5本取った奴は上がり)、5本トップを取って上がる奴はいるが、時には4本までトップを取ってその後崩れいつまでも上がれない奴もいる。


俺はどうかというと、16秒で入れるのは2 3本で皆と本数は同じだけ走ってはいるんだが遅れてゴールするもんだから、戻る間に息の調整や心臓のバクバクがおさまらない。


そういう状態ではどんどん体力の消耗が激しくなって、脳や運動の中枢神経が、働かなくなり気が遠くになってきて体のバランスが崩れてくる。(これからは、トップを取った奴は上がってもええぞ)。俺はそんなことにはおかまいなしに、ひたすら走り続ける。


気を失いそうになりかけた頃、塚原さんがゴールラインで水をかけてくれる。不思議なことに、水をかけられたその時はシャンと我に返り、今度こそはと歯を噛み絞める。次は、(一番 二番 三番までは上がってもええぞ)。


俺はただ走り続けるのだ。塚原さん、神の水ください。もう誰も居ない。グラウンドマネージャと俺と塚原さんの三人だけだ。


『山岡 5本 16秒で入ってみろ』。


最後まで残ったわけだから、一番多く走ったことになる。これから5本か、ようしと気合を入れる。なにがなんでも入ってやるぞ。ストップウォッチを手加減してくれたかどうか、俺は知らないけれども、何とかぎりぎりでやり遂げられた。塚原さんや、神の水,グラウンドマネージャー、ストップウォッチを押した神の手、全てに感謝したい。このインターバル(100~105メートルを16秒で走る)で、私は、一日で最高の116回を走りきりました。スピードはともかく、よく走りきったと思う。


与えられたことを、初めてやりきった充実感が、嬉しかった。


一人グラウンドに大の字になって寝っ転がった。


顔からTシャツの胸にかけて、汗と土とよだれと鼻水がごちゃごちゃにへばりついている。明るい夜空に星が出ている。風が私の体を撫でて、気持ちがいい。私の育った田舎の星のように感じた。一週間前まで、生まれ故郷にいたというのに、もう田舎が恋しいくなってきたのだ。


嬉しかった。


土の匂い、草の匂いも、田舎の匂いだ。京都と滋賀の国境にある、山間谷間の宇治田原の匂いだ。


皆は風呂を終え、一年生は晩飯の用意を手伝っている。


俺は、一人風呂に向かう。皆、俺の顔を見てはニタニタする。食堂に行った時には、皆は食い終わっていた。食おう、喰おうと思ってもどうしても口に入らない。ジュース 牛乳 果物は頑張って口に入れた。洗濯が残っている。洗剤も入れないで洗濯をしていた。


次は心休まる幸せなりの時間だ。


ところが、眠れない。目が冴えて、頭が冴えて、眠たくならないのです。昼間の練習のこと明日の練習のことに思いを巡らせる。


月が天上から山裾に傾くまで、ずうっと月の動きを追っているうちに、夜が明け、外の世界が白けてくるのをぼうっと眺めていた。


そして起床、体操、朝飯、練習に入っていく。合宿に入って2、3日もすれば男用の大便器に血がつきだす。誰だか痔持ちがいて、日に日に血の量が増えてくる。俺は、最初に見た時は吃驚した。なんじゃこりゃ、女性の生理については話には聞いた事はあったが。


合宿がどんどん進んでいくと、そんなことはどうでもよくなり、目の前の物全てが霞んできて頭の中は空っぽ。何を見ても何も感じない。


下痢がひどくなる。3日目位から4日間は、便は水状態。何も食えなくなる。


そのようにして、合宿は続くのです。


2007年6月6日水曜日

落語「大山詣り」

伊勢原桜台で当社がマンション分譲を開始する。

5月28日(月)、その販売会議を社内で行っていたら、小見取締役が、販売が順調に終了するように、大山阿夫利神社に祈願に行こう、と言い出した。販売用のチラシには、大山の紹介もしている。小見家の初詣の定番は、大山さんらしい。そうだな、役員三人揃って行こう、ということにして、会議は終了した。

その日、自宅に戻っていつものように、朝日新聞の夕刊を読み出した。酒が入っているので、小さい字を読む気力は失せていた。そんな時に、大きな文字で、落語の「大山詣り」が今月の一席なんて、記事が載っているではないか。

忙しさに追い立てられ、季節を感じる暇もないまま毎日をすごしていませんか?月ごとに一席噺(はなし)をセレクトして、人情溢れる人々の生き方から日本の「旬(しゅん)」を楽しんでください、という企画らしい。その記事を一部書き換えたり、割愛しながら、転載させていただくことにしました。

あらすじと、大山詣りの当時の様子を楽しもうではないですか。

あらすじ

談話・三遊亭竜楽

恒例の大山詣りの季節になったが、毎年、道中でけんかになるため、、乱暴者の熊五郎はメンバーから外されてしまう。どうしても行きたい熊五郎は先達(せんだつ・旅行のリーダー)に頼み込み、けんかしたら坊主頭になることを条件に一行に加わる。結局は、酔いつぶれ仲間を殴り、寝ている間に坊主頭にされてしまった熊五郎は、怒りにまかせ、一足先に長屋に帰り「船が事故に遭い、自分以外は死んだ」と嘘をつき、かみさん連中に「頭を丸めて亭主を弔え」と、坊主頭にしてしまう。帰ってきた連中は激怒するが、先達が一言。「お山は晴天、うちに帰りゃみんなお怪我(お毛が)なくっておめでたい」

「大山詣り」のオチに見る、おおらかな江戸人気質

「大山」は神奈川県伊勢原市と厚木市の境にある標高1252メートルの山。古くから山岳信仰の対象となり、その信仰登山の歴史は約250年前にさかのぼる。別名を「阿夫利山」といい、「雨降り」とかけて農耕民にとっての雨乞いの神様でもあった。江戸時代では、これが大いにもてはやされ、毎年、5月末から6月にかけて多くの人が参詣に訪れたという。

「大山詣り」はもともと上方落語の「百人坊主」という噺をアレンジして江戸落語にしたものだが、その違いはそれぞれの噺のオチにある。[百人坊主」ではみんな坊主になった後に、外を見ると「あれ、一人毛のあるやつがいるぞ」となり、よくよく見れば寺のお坊さんだった、というオチ。これが「大山詣り」になると、大ゲンカになりそうな険悪な雰囲気を「怪我(毛が)なくてよかった」ときれいに場の空気をまとめている。

「『大山詣り』は大らかな江戸人の心が汲み取れるオチになっています。些細なことでいさかいが起こる殺伐とした世の中、笑いを潤滑油にする心の豊かさを学ぶべきです」

当時は坊主頭になることは大変なことで、出家もしていないのに頭を丸めるのは、たいていが罪人だったという。そこをシャレで治めてしまうところが落語の面白さだ。

「現代でも仕事や勉強でミスして『坊主にします』という人がいますが、そんな江戸時代の風習が残っているのかも。シャレのわかる上司や先生には「でも、お前は三日坊主だからな」と切り返されるところですが」

江戸時代から大山参詣のルートは諸説あるが、神奈川宿に泊まったのは確かで、その帰りは神奈川・藤沢でどんちゃん騒ぎ、人によっては江ノ島や鎌倉などを見物して帰るという大レジャー旅行であったという。

「寄り道も旅の魅力のひとつ。参詣を口実に遊びに行く人もいたようです。遊興に夢中になり無一文の果てに現地解散。最大の難所は借金のヤマだった、なんて笑えない話もあったそうで~」

また富士参詣の「富士講」やお伊勢参りの「伊勢講」に代表されるように、江戸時代は、「講」という組合を地域で作り、積み立てをして旅行していた。「講」には「先達」と呼ばれる旅のナビゲート役が存在し、現代でいうツアーコンダクターのような役目を果たしていたという。

「当時の旅行は、かって知ったる仲間で出かけることが多かったといいます。また、治安などの理由により主に男性の楽しみであったようです。女性も亭主の世話から解放されリフレッシュできたでしょうが。今は奥さん同士が連れ立って旅行に行き、亭主はうちでさびしく留守番、というご時世です。立場が逆転しましたね(笑い)」

2007年GWの旅行動向(JTB調べ)を見てみると、海外に出かけた日本人は、54,8万人で、旅行者の内訳もリタイア後の夫婦や母娘での旅行が増加。日本人の旅行は時の経過とともにその範囲を大きく広げ、様変わりしている。

[江戸に住む人の多くは、箱根の山を越えることなく人生を終えたといいますから、今の環境は恵まれていますよね。お金と暇があればどこでも行ける。とはいえ、旅が人生の娯楽であるのは今も昔も変わりません。江戸人のようにおおらかな心で旅を楽しみたいものですね。