2012年12月31日月曜日

餅つき大会だぞ

20121229 私の年末年始の休日の3日目だ。

朝から晩までの一日の生活を記録した。朝、9時に次女の長男、私が目に入れても痛くない孫・晴を保土ヶ谷・権太坂に迎えに行って、時には真面目に時にはいい加減に世話するイーハトーブ果樹園で芋掘りをした。

残念、2ヶ月前に試し掘りしたときは新鮮で凄くいい物を収穫できたが、孫の冬休みを待っている間に、悪くなってしまった。私なりに手入れを怠りなかった心算だった。薩摩芋は元々、南の国の植物だ。凍てついたようだ。

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なかなか地面にスコップがささらない。いつかは、手伝ってくれることだろう。

 

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  収穫した薩摩芋。

11:00頃から近所の公園でサッカーをした。 近所の保育園児が遊びにきていて、何故か晴はその子どもたちが遊ぶドッヂボールを釘付けで見ていたので、どうしたんだと聞くと、自分たちも近いうちにドッヂボールの大会があるんだ、と言っていた。何か、勝つためのヒントでも得ようとしていたのだろうか。

ボールを蹴る能力は相当なものだ。左右のどちらの足でも、強く遠くへ蹴れる。まだ2年生だが、3年生の試合に出してもらうときはキーパーをさせられるので、キーパーの練習もしておかなくてはとコーチに教わったことを繰り返す。どこまでもサッカー好きの孫だ。キャッチングの基本を教えたが、それらは既に教えてもらっていた。

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保土ヶ谷・権太坂の次女の家で餅つきをした。 この杵と臼は、晴の友人のショーマの父が茅ヶ崎の実家から借りてきてくれた。参加者は、晴の保育園に通っていたときの同窓の仲間とその母親たちだ。参加者は30人はいただろうが、数えることはしなかった。

1人、2人、3人と少しケダネの違う人種もいたが、仲間の仲間が集まって、みんな仲間になるのだろう。植木屋のオジサンに本牧から来たという巨漢の若者。

 

ジジイ、暇なら大根でも擂(す)ってくれと頼まれた。手をきれいに洗ってよ。ゴマは擂り慣れているんだがと独り言、まあいいか!と引き受けた。何故、擂るが手偏に雷なんだろう? 変換機能はまめに教えてくれる。

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私が子どものころは、よく実家の餅つきを手伝った。田舎ではどこのうちでも、結婚したとか、家を増改築したとか、子どもが生まれたとか、一年じゅう餅をついていた。特に年末につく餅の量は多く、年末年始用だけではなく、その後の食べるものも含めてついた。

夕方、遊びまわって自宅に帰っても、野良仕事から帰った母が晩飯を仕上げるまでには時間がかかった。それに、外が暗くなっても父はなかなか帰ってこない。晩飯までの子どもらの空腹をまぎらわすために、祖母が火鉢で餅を焼いてくれた。餅のない時はお握りだった。

13歳の1月1日、お雑煮に入れた餅を13個食ったことがあった。丸餅で、今お店で売っている3倍ほどの大きさだったから、相当の量を食ったことになる。そして中学校のバスケットの初練習に出かけた。食えば食うほど家族は喜んでくれた。

 

この杵の使い方、腰の使い方、手馴れたものでしょう。ただ、持続力がないので、適度にお助けをお願いをした。久しぶりの餅つきに昔を思い出していた。

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餅を搗(つ)きだしたのは午後の2時頃から、搗き終わったのは6時ごろだった。もち米20キロを搗いた。周囲は真っ黒になっていた。「餅をつく」というときの「つく」はこの「搗く」を使うことを、またもや変換操作で知った。これも、何故、搗くが手偏に島なんだ。

搗き人とコネ役は交代交代でやった。みんながそれなりの癖を発揮して搗いてくれた。でも、安定度に関しては私が一日の長がある、自画自賛。

コネ役にも慣れたベテランがいて、他の人がやっているときには細々したチェックが飛ぶ。このコネ役指南の趣味は惜しみなく肌をさらして踊るベリーダンスだ。今回の稿に貼り付けた写真の中からその人を特定できますか。

参加者はめいめいに、家の中では台所や居間で外では臼を囲んで、子どもたちの面倒を見ながら、ビールやワイン、焼酎を飲み続けた。

「コネる」もこの際、変換機能で調べてみたら、「捏ねる」だった。捏造(ねつぞう)の捏だ。矢張り、手偏に日に土だ。

作業は自然の流れのように、母親たちがそれぞれに役をこなして進む。アウンの呼吸、一連の作業はスムーズだ。日常のコミュニケーションの成果なのだろう。男は、全て指示待ち。

今回の手偏の漢字の「擂、搗、捏」の成り立ちを知りたい。

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2012年12月30日日曜日

2012年(平成24年)の重大ニュース

2012年もあとわずか、古紙回収に出すために新聞を片付けていて、今年の重大ニュースを記事にしたものを見つけた。朝日新聞の20121222のものだ。私にとっては、静かに無難に過ごせた珍しい1年だった。このように過ごせたことに感謝している。

この新聞記事を勝手にダイジェストして、私が加筆した。

 

1位 山中伸弥教授にノーベル医学生理学賞。

iPS細胞の作製に成功、再生医療実現へ道を開いた。知らせを受けたとき「洗濯機を直していた」と話すなど、人柄やユーモアにも注目が集まった。手術が下手で「ジャマナカ」と呼ばれたり、研究費用を集めるため、マラソンに挑戦したり、親しみを覚えた。iPS細胞は人工多能性幹細胞のこと。名前は出てこないが、実験を支えてきた助手さんの教授に慕う言葉が忘れられない。これからこそ多くの患者さんを救えるように頑張りたいなんて、嬉しいことを言ってくれる受賞者だ。

 

2位 東京スカイツリー開業。

世界一高い634メートルの自立式電波塔。私はこの高さを6(む)3(さ)4(し)と憶えている。義母が来浜の際、孫とアスファルトに仰向けに寝っ転がって、真っ下から見上げた。迫力に吃驚した。施工は大阪の通天閣にも携わった大林組、施主は東武鉄道。ドレスの裾を広げたような華麗で優美な女性的東京タワーに、空を突き刺すような、大地から飛び出しそうな(男)性的東京スカイツリーーだ。近未来のイメージですね、とは弊社の経営責任者の中さんの弁。

 

3位 金環日食、国内で25年ぶりに観測。

5月21日、天体ショーに日本じゅうが沸いた。横浜は未明に雨が上がって、何とか見えたようだ。私は早朝、鶴見へ仕事に行って会社に戻る途中で時々、車を停めて空を見上げたが、残念なことに見ることができなかった。日食グラスや遮光フィルターを使って観測しないと日食網膜症になることを知った。ダイヤモンドリングも確かめられたらしい。

 

4位 尖閣諸島を国有化。 5位 中国で反日デモ激化。

9月11日の国会で3島を20億5千万円で国が地主から購入することを決定した。島の歴史を知るきっかけになった。中国と台湾が領有を主張している。日本は1895年に閣議で沖縄県に編入することを決めた。その後日本人が入植し、鰹節の製造が現地で行われ、最盛期には99戸248人が暮らしたが、1946年に無人島になった。

日本国が購入したことで中国が反発、中国国内で反日デモが激化、日本製の商品を扱っている店や、日本のデパート、スーパーマーケット、コンビニが襲われた。日中国交正常化40周年の年に対立を生み、双方に政治的、経済的にダメージを受けたことは皮肉なことだった。中国国内の貧富の格差が進んでいることが、デモを増長させたのではないかともいわれている。

 

6位 群馬・関越道でバス事故、7人死亡。

4月29日、居眠り運転の高速バスが防音壁に激突、バスが縦から二つにぶった切られた。事故に遭ったバスツアーは金沢・富山ー関東間の片道旅行代金は3000円台だった。

私も、この1、2年廉いからといって、京都へ行くのに再三利用した。缶ビールを飲んでウトウトしているうちに到着、時間も有効につかえて、廉い、便利だが、危険が潜んでいた。クワバラくわばら。

この運転手は自己の所有するバス4台の営業用ナンバープレートを今回の長距離バスの催行会社の陸援隊名義で取得し、独自の屋号で営業し、中国観光客向けのバスツアーを主催していた。これは、当然違反行為だ。

 

7位 ロンドン五輪・パラリンピックでメダル多数獲得。

メダルは過去最多だったが、金メダルが少なかったようだ。女性、特に女性の団体競技が記憶に残った。女子アーチェリー、女子バドミントン、女子バレーボール、サッカー女子なでしこジャパン、男女の水泳陣、女子卓球、女子レスリングだ。

内村航平らの男子体操陣。

「(北島)康介さんを、手ぶらで帰すわけにはいかない」。

個人では、レスリング男子フリースタイル66キロ級で米満達弘金メダル。男子レスリングの金メダルは24年ぶり。ボクシング男子ミドル級で村田諒太金メダル。男子ボクシングの金メダルは、東京五輪で桜井孝雄が獲得してから48年ぶり。女子重量挙げ48キロ挙げ48キロ級三宅宏実が銀メダル、重量挙げでは女子で初めてのメダリスト。

 

8位 京都・祇園で車暴走、7人死亡。

京都東山区の祇園には、義妹夫婦が京都料理をを出すお店を経営している。この事件?この事故現場のすぐ傍だ。京都市東山区の四条通大和大路の交差点を入ったところ。4月12日、京都の呉服店に勤める容疑者が起こしたひき逃げ事故だ。さぞかし、当時は大変だっただろうと思う。7人死亡と聞くが当の車の運転手も死亡したと聞いたが、全員の死亡者数はどうなんだろう。

加害者は10年前に起こしたバイク事故が起因するてんかんの持病があったとあるが、そのような症状を持つ人を採用する側が前もって聞いていればこの会社の社長は入社を認めたのだろうか。隠した、言えなかったからこそ、こんな事故に連なったのではないか。事故を起こしても自らの責任と負担において解決するなら入社を認めるなんてことも考えられるが、、、、、私はどう判断しただろうか?自らかかえる障害や持病を、気楽に話せて、それを理解し合える社会になって欲しいと思う。

 

9位 大津いじめ事件で中学を捜索。

20111011(昨年)、大津市内の中学2年の男子生徒が、いじめを苦にマンションから飛び降り自殺をした。滋賀県警は、当初、遺族側が出そうとした被害届を受理しなかった。校長や教育委員会はいじめが直接の原因とは思えないなどと記者会見していたが、連日報道されるうちに社会問題としてクローズアップされた。学校が生徒に行ったアンケートでは、記名をしてもしなくてもいいと言われていたのに、記名をしていじめがあったと答えたのが100件もあった。それにもかかわらず、校長、教育委員会はいじめが直接の原因だったとは考えられないと言い張っていた。教育委員会を見直すべきだ。

そして、今月27日、県警は遺族が刑事告訴した同級生3人のうち、当時14歳の2人を暴行と器物損壊、窃盗の3容疑で書類送検した。刑事罰に問われない当時13歳の1人を児童相談所に送検した。

この種の事件を聞かせられる度に得る感慨は、教師や校長、教育委員会や地方の公共団体の教育に携わる担当課の、何とも言えない考慮に欠けた言動の空しさだ。実に腹立たしい。

 

10位 オウム真理教元信徒3人を逮捕、起訴。

特別手配されていた平田信、菊地直子、高橋克也の3被告がそれぞれ逮捕、起訴され17年に及ぶオウム捜査は終了した。オウム真理教とは1980年代後期から1990年代中期に、麻原彰晃が救済の名の下に日本を支配をすることを目論み、外国での軍事訓練、軍事ヘリーの購入、自動小銃の密造、化学兵器の生産して教団と敵対する人物の殺害や地下鉄サリン事件など無差別テロを実行した。一連の事件で29人が死亡している。

かって、1970年か71年、河出書房発刊の高橋和己作品集の「邪宗門」を読んだ。その時、まさかこんなアホなと思っていたことが、よく似た状況で具現したのが不思議だった。高橋和己氏はこんな事件が起こることを予見していたのだ。三島由紀夫氏だって、角度は違えども同じようなことを考えていたのではないのか。

 

11位 消費増税法が成立。

今年8月10日、消費増税を柱とする社会保障と税の一体改革関連法が参院本会議で、民主、自民、公明の3党などの賛成多数で可決。現行5%の消費税を2014年4月に8%、2015年10月に10%に引き上げる。

施行の付帯条件に経済の動向はついているが、弊社のような業種には影響が大きいと心配している。前倒しの需要に対応するための準備を整えたい。今月の30日の日経新聞には、住宅購入者には負担を減らすために給付措置を来年度の税制改正に盛り込むとあったが、どんなことを検討してくれているのやら。前倒しの需要が終った後の冷え込みが怖い。しっかりとした経営を心がけたい。

 

12位 国内の原発、42年ぶり稼働ゼロ。

日本国内にある55基の原発は全て稼働がストップした。東日本大震災で被害を受けた東京電力福島第一原発は廃止工事中だが、使用済み核燃料の除去はまだ見通しが立っていない。だが、関西地区の夏の電力需要に応えるために、安全と判断された関西電力大飯原発は7月再稼働した。ところが唯一稼働を始めたこの原発の施設の地下に断層があることが判明して、それを活断層かそうでないか、学者、専門家が現地調査を繰り返しても、いつまで経っても原子力規制委員会の結論が出ない。来春になるという。

政府の下した再稼働の必要性とは、暮らしの安心・安全を守る必要という観点と経済的な必要という観点、この両面から判断したとのことだ。世論は、先の衆院選挙でも国民の大半は原発ゼロを望んでいるが、29日安倍晋首相は就任後は初の視察先に福島第一原発を選び、民主党が掲げた1930年代の原発ゼロの目標について、「希望の段階では直ちに政策になっていかない。責任ある原子力政策を進める」と見直す考えを明らかにした。脱原発は遠のいたようだ。

12月30日には、安倍晋三首相はテレビのインタービューで原発の新増設を認める可能性を示唆する発言を繰り出した。

 

13位 オバマ大統領再選。

11月6日投票の大統領選は即日開票され、民主党のオバマ大統領が(51)が、共和党のロムニー候補(65)を破り、再選を果たした。選挙戦でオバマ大統領は経済成長に中間所得層の底上げが不可欠と主張。自動車産業の救済や医療保険改革など1期目の成果を訴えた。さらに、富裕層には増税などによる「相応の負担」を求め、中間所得層には手厚い減税を実施すると訴えた。そして、中間所得層に支持を広げた。

そして再選後。年明けにかけて減税失効と歳出削減が重なる「財政の崖」の回避に向かって民主・共和両党と会談し、法案の年内成立をめざしている。年内と言ったって、今日は大晦日だ。

 

14位 パソコン遠隔操作で4人誤認逮捕。

私のようなアナログ人間には理解できない事件だ。犯人がネットを介して他者(5人の男性)のパソコンを、本人が知らないうちに、遠隔操作型コンピューターウイルスに感染させて不正な指令を出す。この遠隔操作で襲撃や殺人などの犯罪予告を行ったサイバーー犯罪。そんな馬鹿なことが、現実にあり得る不思議さを噛みしめている。私の頭脳はまだ現実に追いついてない。知らないうちに私だって、逮捕されかねない。

 

15位 石原慎太郎前都知事が辞職、新党結成。

石原慎太郎はいい加減な奴だ。居丈高で、木で鼻をくくるものの言い方。東京都は財政的に稀に豊かだからこそ、何もしないでも、失政を犯しても居られたのだ。でも、そろそろ逃げ時と考えていたのだろう。横浜前市長の中田宏氏と同じケースだ。やばくなったから、辞める。東京都知事職をそうやすやすと投げられても困るんだ。失政に対する十分な説明がないことに都民は怒りをもっと露わにすべきだ。

昨年4月、一時は3期目で東京都知事の退任を表意しながら、結局は立候補して当選、4期目だ。選挙をするには莫大な公費が要ると聞く。翌年の今年10月知事を辞職して新党を結成すると表明、たちあがれ日本を改称するかたちで太陽の党を結成。国政参加を目指す。

この間、自分のことを気楽に暴走老人とか言っているが、貴方の給料を支払っていたのは真面目な納税者の都民なんだよ、と匕首(あいくち)を突きつけたい。平沼郁夫氏と共同代表に就任。失政に対する十分な説明もない。そして翌月の今月、日本維新の会に合流、代表に就任、代表代行は橋下徹(大阪市長)。衆院選にて国政復帰。主義主張の異なるボス同士が、狡猾な下心を秘め握手、その場しのぎ、賢明な市民は全て御見通しだった。かくして、衆院選においても、この会は伸びなかった。

 

16位 衆院が解散、12月に総選挙実施。

前回(25回)の衆院選では、現憲法下では保守本流直系以外の民主党が単独過半数を占めたが、12月16日に投開票が行われた26回衆院選では、野党第1党の自民党が294議席(改選前は119議席)を獲得し、絶対安定多数を確保した。与党の民主党は改選前の230議席から4分の1の59議席しか獲得できなかった。前回の当選時の議席の309議席からは実に5分の1になった。公明党31、日本維新の会54、みんなの党18が躍進、日本未来の党9、国民新党、新党大地、日本共産党、社会民主党は議席を落とした。

私はどの党、どの人に投票していいのか悩んだ。

 

17位 韓国の李明博大統領が竹島上陸。

大阪市平野区出身の、200802に就任した韓国の現17代の大統領だ。8月12日に上陸した。日韓間において進められていた軍事情報包括保護協定や経済連係協定の協議は滞りそうだ。歴史問題で日本に対する不信感、大統領の求心力の喪失、大統領の周辺の金銭的疑惑、韓国にとって8月15日は植民地解放日、このような状況を背景に上陸を決意したようだ。

竹島の住所は、島根県隠岐郡隠岐の島町竹島官有無番地。韓国では独島(トクト)と呼ばれる。

話は少しずれるが、退任後に逮捕されるのではないかと注目されている。土地取得にからむ不正な疑惑がとり立たされている。歴代の大統領のように。

 

18位 スーチー氏、ミャンマー国会議員に。

5月2日、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー氏が議会で宣誓を行い、下院議員に正式就任した。ビルマの独立を主導し、その達成目前で暗殺された「ビルマ建国の父」アウン・サン将軍の娘だ。民主化が進んで、日本はじめ各国が経済進出を狙っている。経済は、人件費が高騰した中国から今度はミャンマーに移るらしい。

テイン・セイン大統領が民主化を徐々に進めているが、果たしてどこまでが本気なのか推移を見極めたい。鍵を握るビルマ国軍がどのように考えて行動に出るのか、それが解らないとスーチー氏も述べている。旧ビルマ時代から続く国軍の存在は、我々の考える軍隊とは根本的に意味が違うようだ。

 

19位 光市母子殺害で元少年の死刑確定。

1999年(平成11年)4月に山口県光市で起こった凶悪犯罪。当時18歳1ヶ月の少年が母親を殺害後凌辱、生後11ヶ月の長女も殺害した事件。残虐な事件内容と元少年を死刑にするべきでなとする弁護内容がマスコミを賑わした。全国犯罪被害者の会が設立、被害者の夫が幹事になり、犯罪被害者等基本法が成立した。

私は、この事件の裁判の進行に興味を持っていた。死刑囚永山則夫が残していった、我らに突きつけた問題が私の頭から抜けない。

 

20位 女優の森光子さん死去。

2017回の「放浪記」の公演は有名だけれども、劇場に足を運んだことのない私には、テレビドラマの「時間ですよ」の方が記憶に残っている。20年前か30年前か、東京駅でスタッフに囲まれていた森光子さんを見かけたが、そのときの彼女は着物姿で、顔や首筋や手が余りにも白かったことが、異常に感じたのを憶えている。彼女にスポットライトが当てられていたようだった。スターはこうでなくっちゃ。

 

最後の20位の森光子さんのとこまできて、森さんのことは以前にこのブログでも書いたことがあるから、まあいいかあ!! なんて考えていたら、28日早朝、松井秀喜現役引退のニュースがラジオで伝わり、これには参った。

これこそ、私にとっての今年の10大ニュースの1つだ。が、20大ニュースの稿はほぼ終了にきてしまった。

 

「欄外1位 松井秀喜現役引退」、ということにしますか。この件については、私の文章などは恥ずかしいばかりで、20121229の朝日新聞・天声人語を活用させてもらう。

 

松井秀喜選手は日本で332本の本塁打を打った。渡米して初のアーチは本拠地ヤンキーススタジアムでの顔見世の初戦。しかも満塁弾だった。試合後の言葉がよかった。「333本目ではなく、1本目です」。ニューヨークに住む日本人が大いに沸いたのが記憶に新しい。

その年、大リーグの開幕を前にイラク戦争が始まった。兵士の無事帰還を願う黄色いリボンが全米にあふれ、日本人社会も空気は重かった。「マツイ、すごいね」。ニューヨーカーの賛辞を、我がことのように聞いたものだ。

あれから10シーズン、松井選手の引退会見をテレビで見た。口を一文字に結ぶ表情で、言葉をさぐるように話す。「結果が出なくなった。命がけのプレーも終わりを迎えた」。38歳、万感を押し殺すような、男の顔だった。

大リーグではホームランを175本放った。その記録以上に、存在感は記憶に残る。3年前のワールドシリーズ制覇のときは、日本人初の最優秀選手(MVP)に輝いた。

日本球界に戻る選択肢もあっただろう。だが「10年前の姿に戻る自信が強く持てなかった」と語った。「巨人の4番」の伝統に、自らの誇りを重ねた胸のうちにうずく。たとえばの話、6番を打つ松井秀喜は、もうゴジラではない。

大リーグのある監督が言ったそうだ。「野球には五つしかない。走る、投げる、捕る、打つ、そして力いっぱい打つことだ」。ただ打つのではない。巨漢に伍(ご)して力いっぱい打ち続けた「挑戦の人」に、拍手を送りたい。

2012年12月26日水曜日

大掃除だ!!

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20121225 会社にある不用品を全部、会社の前の駐車場に出して、協力会社のアースさんに廃棄をお願いした。出たゴミの量は2t車に5台分だ。年の暮れの大掃除。片付けのゴミ出しにしては最重量級だろう。

弊社のゆく年くる年。来年はいい年にしてみせるぞ。

弊社が今本社として使っているビルを、金融機関と打ち合わせをして、このまま使い続けることになった。それならば、ここらで腹をくくって完璧に不用品を撤去して、気分一新を図ろうということにしたのだ。

嫌な思いがからむ品、疫病神的品、何故?こんな物までとってあったのかと思う品も数々あった。捨てるものは容赦なく捨てたので、後の整理は気分よく進められた。節分の豆まきのときの掛け声と同じように、福は内鬼は外だあ、この力で邪気を払えと精を出した。

私は作業をしながら、この1年、2年を振り返っていた。苦しい、苦しいと言いながらもスタッフ全員よく頑張ってくれた。経済ショックを受けた私を気遣ってくれることに感謝しなくちゃイカン。社員と弊社を取り巻く関係会社の人たちと、共に仕事をできる喜びを噛みしめたこの1年、2年だった。

有難いことに、会社は徐々にいい方向に進んでいる。来年こそ復活、横浜一元気な会社の再スタートだ。

気合の入った大掃除で今年の仕事納めにした。

2012年12月21日金曜日

創作四字熟語

この一年2012に賑(にぎ)わした出来事などの世情を振り返って表す創作「四字述語」を、年末恒例で住友生命が公募した。その作品を恒例で天声人語が取り上げる。私はそれを恒例でマイファイルする。年末の楽しい行事だ。

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朝日・天声人語

投票用紙を前にしても迷った「紙前党多」(しぜんとうた)の衆院選。結果が「自公治得」(じこうじとく) 「維新前進」(いしんぜんしん)だけに「翁政復古」(おうせいふっこ)が気にかかる。年末恒例、創作四字熟語の締め切りが11月と知り、続きを小欄で補ってみた。以下、住友生命が募った本物で一年を振り返る。

辺境の孤島をめぐり隣国と続く「島々発止」(とうとうはっし)。尖閣には中国の公船がわが物顔で出没し、防人たちは「船船境航」(せんせんきょうこう)の中で体を張る。内憂は消費増税に頼る財政。復興予算の流用がバレて「税途多難」(ぜいとたなん)だ。

レバ刺し好きを励ます言葉もない「肝臓断念」(レバーギブアップ)。ウナギは稚魚がとれずに高騰し、かば焼きを飽食する夢も「無理鰻代」(むりまんだい)に。上がる味あれば下がる足あり、「安価航路」(あんかこうろ)の格安航空が相次ぎ離陸した。

メダルに沸いたロンドン五輪。「(北島)康介さんを手ぶらで帰せない」とチームが結束した「共存競泳」(きょうぞんきょうえい)、アーチェリー女子団体はほんわかと「三矢一体」(さんしいったい)の銅。レスリングの吉田沙保子選手は「史嬢最強」(しじょうさいきょう)を証明し、国民栄誉賞に輝く。

ノーベル賞の山中教授を世界が称えて「伸弥万称」(しんやばんしょう)。上方落語では「三枝襲名」(さんししゅうめい)で六代桂文枝が誕生し、芸人スギちゃんはワイルドな「野生自慢」(やせいじまん)で流行語大賞だぜ。

観測グッズが売り切れた「衆金環視」(しゅうきんかんし)の金環日食、「威風堂塔」(いふうどうとう)の東京スカイツリーは空二題。読書ならぬ「独唱三昧」(どくしょうざんまい)の一人カラオケが若者に人気を呼び、NHKの連続テレビ小説{梅ちゃん先生」も「観梅御礼」(かんばいおんれい)の好評だった。続く桜の季節に、一陽来復の望みを託したい。

2012年12月19日水曜日

投票率最低、無効票最高

衆院選が公示されてから16日の投票日まで、私は悩みに悩んだ。意中の候補者や信頼する党を持たない私にとって、今回、投票したい人物や政党がいつまで経っても具体化せず、投票日の早朝になっても決められなかった。

議員になって欲しい人物を選ぶよりも、辞めて欲しい議員なら幾らでも挙げられるのに、と皮肉なことを考えていた。

投票所の小学校までの数百メートルがはるかに遠く感じた。腰が重たくて重たくて、気分が乗らない。配られてきた新聞を読んで、テレビを観てから出かけたが、最終的に投票する人物と党を決めたのは、投票所に向かう道すがらだった。

それでも投票所に向かったのは、私にはこの3年3ヶ月の民主党政権の失政に鉄槌を下さなければと感じていたからだ。鳩山、菅の民主党代表、総理に小沢氏、彼らに与(くみ)した連中たちに辛酸をなめてもらわないと気がすまなかった。国民を欺いたのだ。情勢から、民主党が惨敗するのはとっくに判っていたけれど、自らの1票でも白黒をつけておきたかった。

開票の結果は自民が単独過半数超えの294、公明31で健闘、民主57、未来9でともに惨敗、みんなは倍増の18、維新は54、私が想像していたように終った。

そして20121217、今回の投票率が小選挙区で59、32%、比例代表で59、31%でいずれも現憲法下で最低だった。理由は、冬の寒い時期で、年末で多忙、政党が多くて争点が増え過ぎたために有権者は、誰に、どの党に投票していいのかよく判らなかったようだ、と朝日新聞記事にあった。その通りだった。

そしてまた翌日20121218の朝日新聞に、小選挙区で、白票や候補者以外の名前が書かれた無効票が204万票で過去最高だったとある。この204万票は投票者数の3、31%で、これまでの最高だった2000年の2、99%を上回った。

私の心境が、全国の投票者の縮図でもあったようだ。

2012年12月17日月曜日

やっぱり、選挙に行こう

今日20121216は、第46回衆院選の日だ。

昨日から降っていた雨は、未明の3時半には止んだ。政権交代なのか維持なのか、政党の乱立、にわか作りの第三極が政権に加わる程票を伸ばせるのか。それにしても、第三極?ってよく判らん。自民、民主、みんな、公明、社民、共産、他の政党も、それぞれ公約を掲げて選挙戦を繰り広げてきた。そして、明日17日の未明には、大勢が判明する。

私はしらけていた。4日前、自宅近くの駅頭で候補者から握手を求められ、その相手の顔を見てギョットした。大臣になって間もない記者会見で、たった10分間に「はっきり申しまして、はっきり申しまして」と10回以上も繰り返し、肝腎のことについて、いつまでも自らの意見が言えない、私見を持っていなかったのだろう、そして過去の暴力団との交際が発覚して、急遽病気入院、退院後は党の幹部によって口封じされたのか、何のコメントもなしに解任か?辞任した当の元大臣だった。在任期間はたったの3週間。私は手を引っ込めた。鉄面皮、恥知らずのこの元大臣は、よくも立候補したもんだ。神経を疑ってしまった。

それにしても、私の腰は重い。早朝、目が覚めても投票に行こうとする意欲、気力がどうしても沸いてこない。投票日当日20121216の03:00に至っても、このような心境だ。

そんな私の背中を押して、投票に向かうように奮い起こさせたのは、今朝配られてきた新聞記事のおかげだ。記事を読んでキーボードを叩いて、転載させてもらう。

その気にさせた記事は、お馴染みの朝日新聞の天声人語と同紙15面の読書の欄からだ。読書の欄は、フリーライターの速水健朗氏が池上彰さんの著作本に書評を寄せたもので、その一文の後半部分だ。

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20121216

朝日・天声人語

大波のような毀誉褒貶(きよほうへん)の落差が、田中角栄元首相ほど激しい政治家もまれだ。金権政治の元凶(がんきょう)のように見られながら、本紙別刷り「be」による戦後首相の人気投票では吉田茂を抑えて1位になった。その人の、きょうは命日だという。

先輩記者の著書によれば、あのだみ声で、よくこういう演説をしたそうだ。「政治はね、生活なんです。昨日よりも今日、今日よりも明日の生活が良くならなくちゃね。月給が倍増、3倍増、10倍増になったでしょ」。いい時代だった。

それから幾年月、この国はどんより雲に覆われ、政治の仕事は「富の分配」から「我慢の分配」に変わった。内外の難しい舵取りを、どの政党、どの人物にゆだねるか。決めあぐねたまま投票日、という人も多いようだ。

思えば、東西冷戦や高度経済成長の時代は分かりやすかった。無関心でも政治はそこそこやってくれた。そうした「お任せ民主主義」からの覚醒を迫られる中で、迷いは募る。一票の意味はかってなく複雑、かつ多様。

一昨日の紙面に、大学生が選んだ今年の漢字は「乱」という記事があった。政治は混乱し、政党は乱立。そして、次の政権に期待する漢字の1位には「信」がきた。乱から信へ。たとえ消去法でも腐らずに権利を行使したい。

あきらめと冷笑は何も生まない。「悪い政治家をワシントンへ送るのは、投票しない善良な市民たちだ」とある米国人言った。永田町もおなじこと。明日をもっと悪くしないためにも、鉛筆に力をこめて。

 

20121216

朝日・15面読書

売れている本/池上彰(著)の「池上彰の政治の学校」の書評

フリーライターの速水健朗

(記事の一部)

日本人のこれまでの政治選択は「新しいものに期待して」「飛びつく」ということの繰り返しだったという。

「とにかく変えたい」が選挙のテーマになっているうちは、同じことを繰り返してしまう。なぜなら、政策の違いに基づかない選択では、政権は変わっても中身は変わらないからだ。

耳に心地よい提案ばかりを主張して選挙に通ることと、それを現実の政治の場で実行していくことは別のこと。背景となる政治信念や政治の場での鍛錬を重視しなくては成熟はない。

今日は総選挙。「とにかく変えたい」だけに捕らわれてないか。最後に自分に問いかけた上で投票に出かけたい。

2012年12月14日金曜日

豊穣、先ずは土づくりから

我がイーハトーブの果樹園は、開墾を始めて10年経つので、立派に育っているものもあれば、何らかの理由(わけ)があってスクスクとはいかず、苦労している果樹もある。苦労して悩んでいるような果樹を見ると、頭が重い。

果樹と果樹の隙間を耕した場所に、この1年間野菜を育ててきた。にわかに野菜作りを始めた。毎週水曜日に野良仕事のお手伝いをしている山田農園の農園主におだてられ、余った苗をどんどんくれるものだから、当初は植えれば何とかなるだろうと、そんな安易な気構えだった。安易過ぎた。でも作柄によって、無世話、無農薬、無肥料でも成長する親孝行モンもいるが、大概、細々過ぎる収穫量に失望した。私だって百姓の小倅(こせがれ)、多少の知恵はある、唯の粋狂として済まされない。

3週間前、タマネギの苗を植えたが育ちが悪過ぎる、その理由を当然のように土にあると判断した。将来のことを考えて、ここは一念発起、土壌改良をやるしかない。

この土地は元々は住宅の敷地だった。庭先だったところは狭いがそれなりの土壌なので作物には耐えられる。それ以外の表層には草は生えているが、20センチも掘れば粘土で、その粘土は岩のように固い。

この粘板岩に近い土は、耕しても耕しても細かくサラサラにならない。ネバネバして水はけが悪い。そこで思いついたのが、落ち葉を集めてきて、米ぬかと牛糞を混ぜて、ビニールシートで覆(おお)って発酵させる、その発酵が終わったものを、深く掘り起こした粘土質の土をなるだけ細かく砕いて混ぜることで改良できるのではないかと。その知恵の出どころは山田農園主だ。歴史的な大事業だ。

会社の近くの公園の落ち葉を掃き集めたものが、ゴミの収集場所に置いてあるのを見つけてこっそり頂いてきた。又、近所の街路に落ちたイチョウの葉も集めてきた。精々と作業をこなしている。

無人の精米所を見つけては、米ぬかを収集しよう、来週は牛の糞を牧場に貰いに行こう。

2012年12月12日水曜日

五島うどんを土産にもらった

20121118

長男の嫁が子ども二人を連れて里帰りした。土産に海藻ふりかけと五島うどんをくれた。

嫁は、長崎県の五島列島の宇久島出身で、長男の海外出張中に宇久ジジと宇久ババの許でしばしの骨休めだ。ジジやババにさどかし歓待されたことだろう、想像に難(かた)くない。実家は長崎県佐世保市宇久町だ。

もらった五島うどんは、実は1週間前から私の机の上に置いたままだ。昨日20121211の帰途、天王町駅で貰った「相鉄瓦版第208号」(毎月、相鉄ホールディングス株発行)が「そばとうどん、からまる思い」を特集していた。その特集の中で私がよく行く讃岐うどん屋のH店の店主が、会社を辞めて讃岐うどん店を開くまでの苦労話、讃岐うどんに対する熱情やテレビ番組のコメンテーターとして活躍している勝谷誠彦(かつや・まさひこ)氏の讃岐うどんへの思いを文章にしていたのを、読んだ。

帰宅して机の上の五島うどんをまじまじと見つめ、讃岐うどんのことはよく判ったが、五島うどんはどうなんだ?そして、キーボードを叩きだしたのだ。

五島うどんを包装したビニール袋に印刷されている文章を読んで、俄然、このうどんに拘(こだわ)った。美味しくいただく前のインナートリップだ。

まず「手延べうどん」の手延べという奴だ。そうめんの手延べは、子どもの頃から見聞きしていたので良く知っているが、うどんでの手延べは知らなかった。二本の棒を使って延ばしていくのも、細いそうめんだからできるのであって、太いうどんでは想像できなかった。五島うどんでは、小麦粉と塩水を合わせた生地に椿油を塗りながら二本の棒に綾がけして延ばす手法だそうだ。そして天日干し。

実際に、私は以前に配合したうどん粉を買ってきて、うどんを作ったことがあるが、団子のように丸めてしばらく寝かせ、踏みつけて目覚めさせ、板状に延ばして細く切った。

それに五島うどんが誇りにしているのは、その昔五島列島は遣唐使の寄港地であり、また元寇で捕虜になった中国人が住みついたことによって、中国人から最初に教わった、麺ロードの拠点であったということだ。

それから驚いたことに、うどんの世界にも毎度お馴染みの日本三大?ウンヌンカンヌンの「日本三大うどん」というのがあるらしい。何が三大なのかよく判らないが、そのことは横に置いて、ネットで調べてみたら、秋田の稲庭、香川の讃岐が当確で、三番目には長崎の五島か群馬の水沢か、富山の氷見か名古屋のきしめん、、、、、どうも三番目は早く名乗った方が勝ちのようで、この場は五島うどんがその地位を確保したことになるようだ。

そろそろ明日20121213、土産の五島うどんをキッチリ食うぞ。それにしても、どうして食おうか? 味はどうなんだろう?

近くのスーパーで売っている生めんの歯ごたえのない奴、味も素っ気もない奴、小麦粉の塊のような、そんな奴らでも美味く感じる私が、どうして味についてのコメントをできよう。至難だ。

今まで長崎の麺といえば、なんとかハットという名前の全国展開しているお店で食う、皿うどんに長崎ちゃんぽんばかりと思っていた。

日本にも、予算管理法

「財政の崖」とは聞き慣れぬ言葉だが、使われている崖という文字が衝撃的で否応なしに関心を持った。この言葉は、アメリカの大統領選とともに露出度が増えた。ここらで、私も少しは知っておかねばと、新聞記事などを注意して読むようにして、やっと少しは理解できるようになった。

生半可な理解でも、勉強することに越したことはない。

調べていて、アメリカには予算管理法という法律があって、連邦政府の債務残高上限額を法律で規定していることを知った。肝腎な内容は、債務残高が法定上限を超えると、国債の新規発行を行うことができなくて、歳出や国債の元利払い等に支障が生じることとなる。

EUにおける各国の政府債務の超過問題が騒がられていたときに、ドイツには国債発行できる限度を、GDPの何%かに抑えなければならないと、憲法?か何とか法で決められていると聞いたことがある。

ファイル:National Debt of Japan.svg

そこで、日本のことを考えた。上のグラフは日本の国債残高の推移を表したものだ。国の借金は、国民一人当たりに換算すると約730万円以上。

毎年毎年、国家予算を編成される際に、当たり前のように国債が上積みされていく。国債の債権者が国内資産(95%が国内、5%が海外の債権者)であるためか、話題になるのを政策的に避けているのか、余り問題にされない。でも、やっぱり政府債務が増加するのを止めなければならないのは当然で、先にも述べたEUのドイツを除いた各国がいい見本だ。

ブッシュ前大統領の時代に、あの大国がデフォルトを起こしかねない状態に陥った。各国には各国のお家の事情があろう、その国の事情を日本にそのまま当てはめられないのは当然至極だが、それにしても、いち早く健全な財政を確立する必要があるだろう。

そこで、素人の私が思ったのは、日本も米国らに真似て、予算管理法なるものを制定したらどうなんだろう? そんなことを思いついて、この稿を綴った。

会社を経営していくには、先を見通す力と、商品の開発、それに財務を盤石にすることが肝要だ。

 

★財政の崖とは=ブッシュ前大統領が始めた所得税などの大型減税の失効と、予算管理法による強制的な歳出削減の開始が今年末から年明けに重なり、あたかも崖のような急角度で米連邦政府の歳出が減り、歳入が増えること。最大で5600億ドル(約46兆円)の財政引き締めになるとされ、米議会予算局(CB0)は最悪の場合、来年前半の米経済は3%近いマイナス成長に陥ると警告している。(日経新聞の記事より)

2012年12月7日金曜日

衆院選 最多1504人立候補

第46回衆院選が4日に公示され、各党首は16日の投開票に向けて一斉に舌戦の口火を切った。

野田佳彦首相(民主党代表)は政権継続のために比較第1党の確保を訴え、自民党の安倍晋三総裁は政権復帰に向けて公明党と合わせた過半数獲得に意欲を示した。勢力拡大をうかがう第三極は、日本未来の党の嘉田由紀子代表や日本維新の会の石原慎太郎代表らが独自政策をアピールし、政権を懸けた戦いが始まった。

争点は、経済再生や原発・エネルギー政策、消費増税や環太平洋経済連携協定(TPP)などだ。

ーーーということなんだが、大言壮語、威勢のいい演説は大いに結構だけれども、威勢がよければよいほど、私の周りにシラケ鳥が飛び交う。手をつけて欲しい政策に、1番2番と順番はつけずらいが、税と社会保障の一体改革はどうするんだ?財源が縮小している状況の中で給付の抑制策はどのように立案するのか。派手な争点になってはいないが重要な問題だ。

離合集散、合従連衡、にわか作りの党、党の代表と代表代行がチグハウな発言を繰り返す。

党首は、立候補者は張り切り勇み足、有権者は投票日を前に浮かぬ顔。誰かが当選して、どこかの党がどこかの党と政治の枠組みを構成、どのように政治が動き出すのだろうか、不安だ。今度こそ、信頼される政治を期待したい。

みんなみんな冷静になってよく考えてみてくれよ、という内容の記事を、20121205の日経新聞に見つけた。

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20121205 日経新聞・朝刊

「明日の日本」判断を

論説委員・芹川洋一

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なにかがすっぽり抜け落ちているような気がしてならない。政党がしのぎをけずる選挙だから、原発をはじめ、おたがいに異なる点を、ことさら強調して、ぶつかり合うのはしかたがない。だが、今、本当に問われているのは、ちょっと違うのではないか。

「豊かさを保つには」

経済力がどんどん落ちて、もはや二流国家になりさがろうとしている日本。ぎりぎりのところで立ち直すにはどうしたらいいのか。政党に求められているのは、国の力をみなぎらせるための政策のきそいあいだろう。

「反」 「脱」 「卒」ーーいろいろなものを否定ばかりしていて、その先をどうするつもりなのか。たしかに脱近代で、つつましやかに生きていくのもひとつの考え方かもしれない。しかし、子や孫の代まで豊かで自由な生活を営むためには、一流国家で踏みとどまろうとする頑張りがいるにちがいない。

将来の経済社会のすがたを全体として示す必要があるはずだ。政党には、明日の日本をたしかなものにするための大きな物語を語ってもらわないと困る。

そうしないと有権者は判断をまちがえる。ひとつの争点だけで選挙をやった結果、何がもたらされたかは過去2回が教える通りだ。

有権者の側にも、チェックポイントが少なくとも3つはいる。

第1は、過去の業績評価である。3年3ヶ月にわたって政権をになった民主党は、マニフェスト(政権公約)をどこまで達成できたか当然問われる。

辛い点がついて進級がむずかしいとなっても、それがマニフェスト選挙というものだ。

第2は、将来への期待である。各党の選挙公約に盛り込まれた各論の点検だが、その時大事なのは、政策を個別にみて比較するだけでなく全体としてとらえることだ。

それは前回の民主党マニフェストの教訓でもある。子ども手当てなどそれぞれは評価できても、それらをトータルに実施しようとして、しくじった。部分最適ではあっても、財源が限られている以上、全体最適ではなあかったからだ。

第3は、政党のあり方である。にわか仕立てをふくめて政党が乱立した今回、ここでも、民主党の教訓が生きる。理念や価値観がちがったメンバーが、選挙を目的にあつまったら、必ずどこかでつまずく。

利益の分配がもっぱらだった時代は理念を横においても、まとまっていけたかもしれない。不利益をどう分配するかの説得が政治の仕事となっている今日、もはや無理だ。

そのうえで、「決められる政治」に向けた政権の枠組みができるかどうかが焦点となる。

「政治の立て直し」

ところが、民主党政権が続いても、自公政権か、自公+第三極の政権になっても、参院の構成は同じだから、いずれも過半数には届かない。衆参のねじれ状況が続く。衆院選をやっても政治の局面は転換しない。

それが変わるのは民主党と自民党が組んだときだけだ。日本が二流国家なろうかという瀬戸際で、政治リスクを解消するには来年夏の参院選までは民・自公の協力政権のかたちを探るほかない。

おかしな話だが、今回の衆院選は準決勝でしかない。決勝は参院選だ。新しい連立や政党再編で、政治のかたちをととのえるのは、おそらくそのあとになる。

そうしたとしても、機能不全におちいった日本の政党政治を立て直すための選択は、この選挙からはじまる。

2012年12月5日水曜日

ゴン、感動をありがとう

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笑顔で記者の質問に答える中山雅史=松本康弘撮影

20121205 朝日新聞・スポーツ

元サッカー日本代表の中山雅史(札幌)が、現役を引退すると表明した。

「中山ゴン、箪笥にゴン、権太坂のゴン」、中山ゴンは中山雅史のことだ。これって?、私のオリジナルのフレーズ。

権太坂のゴンとは我が家の亡き賢犬ゴンのことだ。このフレーズを、テレビ画面の前で、ビールの勢いに駆(か)られて何度も繰り返し、日本代表の中山雅史を応援した。家族は呆れていたが、ゴンだけは私と目を見合い唱和に応じた。

サッカーボールを高校のサッカー部員として蹴り始めてから夢中に過ごした10年、それから40年も経っているのに、この熱だけは冷め切らない。Jリーグの発足が日本のサッカー界に大きな活力を生み、アジア、世界にもその影響を及ぼしつつある。目を瞠(みは)るばかりだ。サッカーファンにとって、この上なく嬉しい。現役の賞味真っ最中の選手や将来有望な選手たちの素晴らしいプレーに固唾を飲んで楽しんでいる。だが、私の飛躍を求める欲望はこんなもので留まらない。

名選手が引退宣言する度に、懐古、サッカーの歴史に名を残した素晴らしい選手を回顧するようになった。何故?年のせい?か。ベルリンオリンピックの日本代表が、優勝候補のスウェーデンに勝ったときの日本の代表選手の一人が、恩師、私の大学時代の監督、故・堀江忠男教授だ。私のサッカーの歴史はここから始まる

以後の名選手は大体理解している。今回現役引退を表明した中山雅史も燦然と、数々の記録もさることながら、プレーヤー・ゴンの人となりの強い印象をサッカーファンの心に刻んだ。Jリーグを発足初期の頃から大いに盛り上げ、ステップアップさせた功績は偉大だ。日本サッカー史における名選手として記憶されるだろう。指導者を目指すと聞いて、嬉しい。

「中山引退」の知らせを受けた日本代表FWとしてともにプレーした45歳で同じ年のカズこと三浦知良(横浜FC)は、「本当は、暗いヤツなんですよ」と記者を笑わせ、目に涙を浮かべたとネットで知った。この涙の意味は、はて、さて、、、私にも解るような気がした。

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以下は20121205朝日新聞・スポーツからダイジェストさせてもらった。ゴンの筑波大学・サッカー部の先輩、朝日新聞の潮編集委員が後輩のことに熱筆を揮(ふる)っている。

 

45歳中山 笑顔で幕

現役引退表明  指導者へ意欲

サッカーの元日本代表FWで、Jリーグで157得点の歴代最多記録を持つ札幌の中山雅史(45)が4日、現役引退を表明した。札幌市で記者会見し、「勝負するステージに立てないと感じた」と語った。今後は未定だが、「コーチライセンスはとりたい」と、指導者への意欲を見せた。

「ドーハの悲劇」で知られる1993年のワールドカップ(W杯)米国大会アジア最終予選で活躍し、「ゴン」の愛称でファンに親しまれた。日本代表として国際Aマッチ53試合で21得点。94年にJリーグに昇格した磐田の主力として、J1のリーグ戦354試合に出場。157得点に「色んなゴールを決めさせてもらった。その一つ一つが、僕の財産」と胸を張った。

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大胆にして繊細な点取り屋

編集委員・潮智史

「うまい選手、才能のある選手はたくさんいたと思う。彼らに打ち勝ってきた武器、支えは何だったのですか?」。記者会見で質問して、名指しで答えが返ってきたのは初めてのことだ。

「負けず嫌いという気持ちだけ。うまい人、強い人を目標にいて、ライバル関係であっても尊敬の念を持ってしっかり見る。対抗するにはどう自分を構築したらいいかを考えてやってきた。一番最初に壁にぶち当たったのは大学1年生の時。4年生のDFに大きな存在がいた。それが潮さん!」

最後の会見でもサービス精神は全開だった。大胆にして繊細。そして、有言実行。筑波大で3年後輩だったゴンのそんな生き様はずっと変わらなかった。

天性の明るさよりも、悩み、静かに思いを巡らす姿が残っている。

1993年のW杯米国大会最終予選に負けて帰国すると「感動をありがとう」という大合唱が待っていた。傷心をいやす間もなく、正当な評価をされる機会もなく、「この大騒ぎは何ですかーー」と戸惑いを口にした。

「勝ったわけでも、勝ち点を取ったわけでもない。W杯まで来たら欲張りになりました」。そう話したのは98年のW杯フランス大会で初得点を決めたジャマイカ戦のあとだった。骨折した右足にギブスを巻いた車いすで悔しさを押し殺して未来を語った。

最も痛々しかったのは磐田を離れる時だった。11位に終った09年のリーグ最終戦を終えて、「僕の力でチームは立て直せない」とぽつりと言った。世代交代が待たれる中、挑発しても向かってこない若手を見て、さみしげに話した。

いつも共通していたのはチームや仲間への温かいまなざしだ。器用な技術はなかったが、最後まであきらめずにボールを追い、体でゴールに押し込み続けた。「ボールを渡せば、必ず決めてくれる」と誰からも信頼された。技術や戦術とはまったく違った次元で、ストライカーとして何が大切なのかを語りかける選手だった。

 

山岡

記者会見においても、偶然居合わせた先輩の質問にサービス精神大盛りの言辞を駆使できるゴンはさすがだと感心した。

2012年12月2日日曜日

久しぶりに蜂に刺された

セイヨウミツバチの大量死が世界的に話題になっているなか、日本在来の野生種であるニホンミツバチが注目を集めている。病気やダニに強く、湿度が高くても低温でも活動する。スズメバチに襲われても集団で立ち向かい、逆に殺してしまう技ももつ。日本で養蜂といえばこれまではセイヨウミツバチだったが、ニホンミツバチで産業化を目指す動きがある、という半年か1年前の朝日新聞の記事(編集委員・大久保真紀)を読んでいて、この夏、痛い目に合わされたスズメバチのことを思いだした。

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スズメバチ

今年の夏は例年以上に蜂が多かった。

弊社の生業は、中古住宅を仕入れて、間取りの変更や耐震の強化、設備の変更、内外装を新しく仕上げて、希望する購入者に買っていただくことだ。仕入れた物件のなかには、暫くの間空家だったものや、老人だけの住まいだったために、蜂が軒裏や庭の樹木の中に巣を作っていることが多い。今年は特に多かった。

弊社のスタッフで、私以外にも刺された者がいる。彼が刺されたのは頭部だった。工事担当の協力会社のスタッフも刺された。これらの蜂はどれもスズメバチだ。工事会社の人が言うには、今年は何処の現場でも蜂の巣を見かけるんです、とのことだ。

私が刺されたのは201209の中頃、横浜市泉区の中古住宅で、隣家の庭に飛び出している樹木を根元から、チェーンソーで切っている時だった。刺された場所は、耳の後ろの首の部分、頭髪の生え際だった。蜂は黒色の部分を襲う傾向があるらしい。その時、私は白い作業衣を着ていたが、黒い服を着ていると襲われる可能性が高いと聞く。化粧の匂いがするとか香水などをつけていると、襲われやすい原因になる。留意しておこう。

幸い針が深く刺さらないうちに身を引いたため、ダメージは軽かった。瞬間的に5、6メートルは後(あと)ずさった。大きく手を振って自分を防御したり、蜂を脅かすようなことはしなかった。地面に跪(ひざまず)いて上体を折り曲げた。威嚇しないことが、自分の身を守ることだと知っていたからだ。

子供の頃から蜂に刺されたらオシッコを塗りつけるように教えられていた。アンモニアが効くんだと。でも、この初老の私が、立派な家並みが続く高級住宅街の庭先で、そんな破廉恥なことは、さすがにできなかった。後で知ったことだが、この処方は全く効果がないらしい。

刺された部分に口を当て、毒を吸い出せなかったので、手の指で搾り出せるだけ搾ってみたが、結果、どれだけ搾り出せたかは不明だ。10分も経つと、指で触っても分かるぐらい膨らんできた。

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蜂の巣

今此処で、蜂に刺されて困ったような文章を綴ってはいるが、子供の頃の私は逞しかった。真夏でも衣服を全身にくるんで素肌を隠した。月光仮面のように覆面をして手袋をして、蜂を巣から追い払い、巣を棒で地面に叩き落とした。そして巣の中に居る幼虫(ハチノコ)を引っ張りだして食った。このときの蜂の巣はアシナガバチのものだった。大きい幼虫は、噛むと牛乳のような白い液体が、口の中にこぼれ出た。嫌な味や匂いはしなかった。長野の友人は、子供の頃炒めて甘辛くしたものを食っていたと言う。

大人から滋養になると聞かされていた。小さな幼虫は、魚を釣るときの餌にした。

2012年11月26日月曜日

サッカー、ゴール判定機導入

シュートを放ったボールがゴールに入ったかどうか、ボールがゴールラインを完全に過ぎたかどうかは、両チームのプレーヤーや関係者だけの問題ではなく、直接間接的に、いや、三次元的四次元的?に、膨大な人々にに影響を与えることになる。試合は常に真剣勝負。勝負に賭けた結果の勝ち負けは厳然だ。

学生時代にはしょっちゅう、それから親父になってからは子供のサッカー大会において、主審や線審を何度もやってきた。どんな試合にも審判をやるときには、真剣に取り組んだ。線審の際にはタッチラインの上がり下がりの移動を最良に心がけた。主審の目の届かないところでのプレー、タッチライン際でのプレーのチェックなど。

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ここからが本日の課題のゴール判定に関してだ。

主審よりも線審の方にこそ、微妙なオフサイドの判定や、とりわけ、試合を決定づけるボールがゴールラインを割ったかどうかを見極める重要な役がある。ボールがゴールのバーやポストに当って地面に叩きつけられ、そのときにボールが着地したポイントが、ゴールラインの外か内か、ラインを踏みつけたのか、また、ゴールラインを前にしてゴールキーパーと数人のプレーヤーが倒れて絡み合い、ボールが見えない状況になっても、最後にはきちんとボールの行末を見届けなければならない。線審の立ち位置次第では正確を期せない。審判の任は過酷だ。

プレーヤーだったとき、誤った判定をくだされるのが絶対嫌だった。間違った判断をされた時には、許せないと怒った。選手の動きに邪魔され止むを得ない状況での判断ならしょうがない、と諦めることはできても、動きの下手な審判に間違った判定をされるほど悔しいことない。

ゴール判定機を備えることには大いに歓迎するところだが、鍛錬された審判の生身の目も信じたい。

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20121031

朝日・朝刊

スポーツ

編集委員・忠鉢信一

 

ゴール判定機12月初導入

クラブW杯 2会場の割り振り決定

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微妙なゴール判定を機械によって行う「ゴールラインテクノロジー」(GLT)が、12月に日本であるサッカーのクラブワールドカップ(W杯)で正式に導入される。このGLTについて、磁気センサーを埋め込んだボールを使う「ゴールレフ」が日産スタジアムで、6台のカメラで集めた光学的な情報でボールの位置を判断する「ホークアイ」が豊田スタジアムで採用されることが30日、分かった。

サッカーの得点は、ボール全体が完全にゴールラインを越え、ゴールの中に入ると認められる。「ゴールレフ」はゴール内に機器を取り付けて磁場を作り、センサーの入ったボールの位置を確認する。テニスの4大大会でも用いられている「ホークアイ」はゴールラインなどに沿った位置にカメラを設置し、ボールの位置を把握する。いずれも機械が「得点」と判定した時に電波を使って主審の時計に合図を送る。最終的な判定は主審が下す。

GLTは、2010年W杯南ア大会で誤審が問題となったことから、導入に向けた動きが進んだ。①1秒以内に判定を審判に知らせる、②審判以外に判定を知らせない③正確さ、といった基準を満たした「ゴールレフ」と「ホークアイ」が今年7月、サッカーのルールを決める国際サッカー評議会(IFAB)に承認された。FIFA主催大会で使われるのは今回のクラブW杯が初めて、イングランドなど欧州の主要リーグも導入の方向だ。

それぞれ2千万円近いとされる設置費を今回はFIFAが負担。サッカーの質を保証する仕組みとFIFAは導入の意義を説明する。一方、欧州サッカー連盟(UEFA)は人が判定することのこだわり、ゴール近くに追加副審を配置する審判5人制を欧州チャンピオンズリーグなどで採っている。

2012年11月24日土曜日

怖い、党首たち

自民党の新総裁に選ばれてからの安倍晋三の言動は、いささかハシャギ過ぎの感ありだ。衆院選を前にその危険度は増している。危ないと心配し、怖いと感じるのは私だけではない筈だ。

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日銀法を改正して、政府が日銀の機能に深く関与(連携)できる仕組みを作って、物価の上昇が目標数値に達するまでは、無制限に大胆な金融緩和を誘導すると発言した。どこの国においても中央銀行の独立性は重視され、政府が深く関わるのは主要国では中国だけだ。

「物価上昇率を2~3%を目標」にすると言ったが、公約では2%に下げた。「建設国債をできれば日銀で全部買ってもらいたい」との気違い染みた発言には、さすがに、党内からは慎重論ならぬ安倍心配論が飛び出し、石破幹事長は火消しに躍起。

そして、憲法を改正して、集団自衛権を行使できるようにする。自衛隊を国防軍として位置づけるという右派的主張。予算の支出抑制策が図られないまま、防災の名の下に展開しようとしている公共投資、国土強靭化推進。消費増税でもまだ足りないと言われているのに、先ずは金をばら撒きたいらしい。財政の悪化が一段と厳しくなるのは必至、国民に負担の分かち合いを求めざるを得ない状況にありながら、策の一手は「生活保護の給付水準の10%引き下げ」のみだ。

こんなに威勢よくハシャギ過ぎる安倍晋三自民党総裁が怖い。

そして、他にも怖い奴が二人居る。日本維新の会の代表・石原慎太郎(前東京都知事)と代表代行・橋下徹(現大阪市長)の両氏だ。

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そんなに怖い二人のうちの一人、石原慎太郎氏のことを20121123の日経新聞・春秋氏は捉えて記事にした。もっともだと思うので、ここにマイファイルさせてもらう。石原氏は自ら自分のことを、暴走老人なんていっているが、正に暴走中だ。危ない老人だ。

橋下氏の怖いことについては、あらためて取り上げたい。この男も可笑しい。

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20121123

日経新聞・朝刊

春秋

石原慎太郎さんは「言葉の人」だ。それも自らの思想信条をほとばしる言葉にまかせて口に出すから、東京都知事をやっていたこの13年余りにも物議をかもしたこと数限りない。「三国人」発言や「ババア」発言に眉をひそめていた世間も、やがて受け流すようになった。

「まあ、シンタローだからねえ」。石原さんにだけ許される、こんな不思議な空気ができあがったわけだ。ご本人もこんど国政政党の党首になったというのに、この環境をフル活用したいらしい。「日本も核保有のシュミレーションをすればいい」とか「日本は米国の妾(めかけ)で甘んじてきた」とか、やっぱりの暴走ぶりである。

こういう発言を「歯に衣(きぬ)着せぬ物言い」などと持ち上げる風潮がある。周辺国の圧力が増すなかで、溜飲が下がると喜ぶ人もいる。しかし考えてみれば、もう「シンタローだからねえ」では済まないはずだ。衆院選の結果によっては総理に担がれる可能性さえある政治家の、かくも激越なる言葉を黙過するのはむずかしい。

言葉をほとばしらせてやまぬ人といえば、石原さんを日本維新の会の代表に迎えた橋下徹さんを忘れてはなるまい。野合批判の絶えぬ合併劇だが、石原節炸裂のさまを見れば橋下さんの狙いもわかる。今後は自らの言葉との激情二重奏を聞かせたいのだろう。耳を塞がず熱狂もせず、その響きをじっくり反芻するとしよう。

2012年11月23日金曜日

プロレス観戦

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20121118の夜。

横浜市中区長者町にある某生保会社のビルの大ホールでプロレス観戦した。

プロレスリングFREEDOMS(プロレスリング・フリーダムス)という新団体が主催する興行だった。聞けば、プロレス業界には色んな団体があって、それぞれに遠近の関係を持ちつつ人材を交えて興行しているらしい。

会場に入ると、出場予定のレスラーたちがティーシャツやプロレスグッズを売っていた。怖い受付係たちだ。招待を受けた私たちには代表者から、何でもいいから品物を買ってくれと言われていた。我ら仲間はよく理解していたが、私には不向きな品物ばかりだった。

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代表者の佐々木貢

 

次女の仕事仲間がこの団体の代表者の知り合いで、次女家族と私、孫の友達家族も招待された。観客の表情や服装はちょっと異質で慣れない雰囲気。若い人が多く、私のような60以上の齢(よわい)の人は居なかった。入場者のほとんどが男性で、女性は約4分の1。服装は色の濃い柄物、それを際立たせるようにガ体?の大きい人が多かった。それは、男女に共通して言えた。

観客の中に、お揃いのマスクを被った父親と息子と思われる二人がいた。プロレスファンのこの親子はきっとこの団体のレスラー神威のファンなのだろう。

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孫(小学2年生))の友人の妹、3歳。将来は有望な女レスラーか。

 

全体的な内容は、30年ほど前に観たプロレスと終始余り変わっていなかった。団体名が表しているように、「自由をその手に」をキーワードにして、自由奔放なハチャメチャな試合を売り物にしている、と教えられた。

場外乱闘や、パイプ椅子を使って殴りかかったり、パイプ椅子の上に投げ飛ばしたり、これらは、私がテレビでプロレスを見出した50年前から変わっていないお馴染みの手法だ。贔屓(ひいき)のレスラーの名前が黄色い声やドスの利いた声で飛び交う。

50年前の毎週金曜日の夜、10チャンネル(読売テレビ)、8時は必ずテレビの前に陣取った。スポンサーは三菱グループ。力道山や吉村道明、グレート東郷、遠藤幸吉が、外国人レスラーと勇敢に戦っていた。一癖も二癖もある外国人レスラー、悪役や巧者、だれもが魅力的だった。

大きく投げ飛ばす時のために、床は衝撃を和らげるような構造になっている。殴る時や蹴りつける時には相手を気遣い、動作は派手だが、本気ではない。当たり前だ、本気に素手で生身を殴ったり生身をシューズで蹴ったりしたら、それはプロレスではない。パイプ椅子で殴りかかる時は、自分の手を椅子と一緒に相手の体に当てて、衝撃を少なくしていた。

でも、どのレスラーの背中にも傷跡の多さには驚いた。金網でリングを囲っておこなう試合の歴戦の記録だろうか。彼らは体を張って生きている。

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オカマのレスラーが出てきて、相手を押し倒して馬乗りにキスをしようとしたり、組み合ったところでもキスするパインちゃん、パインちゃんが身に纏っているコスチューム?にはパインナップルが大きく描かれていた。笑わせてくれた。

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パインちゃん

 

戦いに少し絡むだけの70歳を超えた爺(じい)ちゃんレスラーがいた。試合後、私服に着替えて観戦していたこのレスラーは、傍目には普通のオジイサンだった。

飛び入りがあれば、リングに上がってもいいと思ったが、、、、、ちょっと無理な発想だったようだ。

その後、みんなで会食をした。

2012年11月20日火曜日

危険な離合集散。第三局?

民主党は、2009年の衆院選で圧倒的に勝利して政権交代した。そのときの選挙戦では、マニフェストにばらまき政策を並び立て、政権を取れば財源はなんとでもなる、と豪語した民主党の首脳部。経費を削り、税負担を増やし、既得権を減らすことが当面の課題だったのに。政権奪取後、掲げたマニフェストはことごとく実行できずに頓挫した。

この民主党は、野合による選挙互助会だった。その後、政策、党の方針がまとまらず、未熟なまま戦った先の参院選で敗れ、ねじれ国会になり政治は停滞した。

この選挙互助会なる民主党も、ここにきて分裂しだした。純化作業、進行中だ。

そんなことを考えていたら、先の通常国会で野田佳彦首相と安倍晋三自民党総裁との党首討論で衆院の解散宣言が飛び出し、それからが実に面白いのだが、尻に火が点いたように、雨後の筍、色んな党が次々に生まれ、新旧の党が14とか、15とかになった。そして、今度はそれらの党と党が、小異を捨てて大同につこうではないか、と第三極の形成、勢力増大を狙って、イシハラ狸やハシモト狐が郎党を組んで跋扈跳梁。カワムラ鼬鼠(いたち)は、党名が雑だとかセンスがないとか言われて仲間から追い出された。数日前には、イシハラ狸とカワムラ鼬鼠は仲良く揃って連携か合流するとかで記者会見していたのに。「疑わしきは罰せず」に無罪を勝ち取った絶滅危惧種の小沢カワウソも、仲間狩りの夜襲をかけているようだ。

小異を捨てて大同につくと言っても、掲げていた項目はどれも小異ではない。大事(おおごと)だ、原発、消費税、FTT(環太平洋経済連携協定)どれも重要な項目ばかりだ。昨日20121119、ハシモト狐が街頭演説で叫んでいるのをテレビで観た。「大事なことは政策ではない。組織を動かす行動力こそが大事なんだ」と、これって、本気かよと不思議な気がした。太陽の党と日本維新の会が合流したことで、元の日本維新の会の原理原則が破綻して、破れかぶれのシッチャカメッチャカ。新党・みどりの風の党首が、恋愛期間もおかないで、いきなり狐と狸が結婚しよう、というのには無理があるのでは、と話していた。

20121120の日経新聞の社説でも、これらの動きを警告している。政党とは、同じ価値観を持つ政治家が、権力の獲得と維持をめざして集まる結合体だ。理念や政策の旗を横に置き、もっぱら権力を求めて動いているとみられるとき当然批判はあって然り、と著した。

こんなすったもんだは、必ず禍根を残すことになる。民主党のこの3年ちょいの政権運営の醜態を繰り返すな。

話は少し変わる。マニフェストという言葉が今では普通に使われているが、日本語で長年親しんできた選挙公約でいいのではないか。漢字の方がよく意味が理解できる。強く美しい国を目指すなら、日本語で選挙公約だ。

そうしたら、やっぱり、ここにも賢者、天声人語氏が現れた。天声人語氏の文をここにマイファイルさせてもらった。

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20121119

朝日新聞・天声人語

髪形をいじるのは心機一転の表れでもある。日本維新の会の橋下徹氏が、おでこを出す正統「保守型」に変えた。この勝負髪で衆院選に挑むという。37歳上の石原慎太郎氏を新代表に迎え、しおらしく従う覚悟らしい。

合流は第三極の受け皿を広げ、既存政党や官僚支配への不満をさらう狙いとみえる。両氏の合意文書には「強くてしたたかな日本をつくる」と表題がついた。「弱くてお人よしの日本」は耐えがたいと。

片や石原氏に気を使い、「原発ゼロ」の語は消えた。政策より大同団結、小異は捨てたと言うが、コーヒーと紅茶を混ぜたようなドタバタ感が漂う。色が似ていればいいというものではない。

なるほど、コーヒー党、紅茶党の独自色より、候補者の調整が先に立つのが小選挙区制だ。野合との批判に、石原氏は「民主党や自民党が人のこと言えるのか」と反発、橋下氏も「趣味嗜好まで同じなら北朝鮮」と開き直る。

とはいえ、地方分権や行政効率に重きを置く橋下氏の現実主義と、米中なにするものぞの石原流がどう混じり合うのか。みんなの党や減税日本とも組むとなれば、昔の民主党顔負けの「選挙互助会」だ。

石原氏がほれたと公言する橋下氏は、政界でいう「じじごろし」に違いない。新代表を最強のリーダーと持ち上げ、ヘアスタイルを変えた。「何が目的か分からない年の差婚をした、したたかな女のように」。きのうの東京紙面にあった、山本貴代さんの見立てに納得した。その縁の吉凶は知らない。

森光子さんを悼む

 森光子

「放浪記」の上演を2017回記録した女優・森光子さんが、20121110に亡くなったことを新聞で知った。享年92歳。

このお芝居を観てない私には、下町の銭湯屋さんを舞台にした「時間ですよ」の利発なお母さん役の森光子さんに親しみを覚えた。

20年程前に東京駅で、仕事の関係者と思われる数人に囲まれている森光子さんを横目に通りすがったことがある。彼女の周辺だけ、まるでステージに立ってスポットライトを浴びているときと同じように、華やかな雰囲気をムンムンさせていた。着物から出ている手や顔の部分は、白蝋(はくろう)のように真っ白で、人間様のものとは思えないほどだった。

20121116の日経新聞・文化で評論家の矢野誠一さんが、「波瀾の昭和婦人像を体現」のタイトルで、森光子さんの女優としての一生を短い文でまとめられている記事を見つけた。矢野誠一さんの文章を読んで彼女の概略がつかめた。感得することは多く、早速、ここにマイフアイルさせてもらった。

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「放浪記」最終幕で寝入る林芙美子を演じた(2005年、東京・芸術座)

 

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波瀾の昭和婦人像を体現

 

森光子は、林芙美子を演じた「放浪記」によって、この国を代表する舞台女優になった。前代未聞の2,000回という上演回数を記録したこの作品は、森光子を象徴するものであり、文化勲章受章を筆頭に、彼女のあらゆる栄誉、功績、そして評価の背景になっている。宣材などに印刷され「放浪記」というこの芝居のタイトルの脇に、小さく「林芙美子作品集より」とあり、これは文字通り同名の芙美子の出世作に描かれた、その生涯によっていることの、一応の舌代みたいなものだ。

ここに描かれた林芙美子の生涯、その大半が艱難辛苦につきているのだが、作・演出にあたった菊田一夫も芙美子に扮した森光子も、同じような自分の「放浪記」を持っていた。つまりこの作品は、菊田一夫の終生抱き続けた詩人たらんとする夢と志と魂が、林芙美子の一生涯を通して森光子に仮託され、森光子は見事にそれに応えてみせた。菊田一夫作「放浪記」は、林芙美子のそれを離れ独立した作品として、ひとり歩きしてみせたのである。

「放浪記」は1981年上演20周年を期し三木のり平が演出にあたったことで、あらたな変貌をとげたのだが、この芝居の凄い、いや凄かったのは、上演を重ねるごとに、舞台そのものが確実に成長していることを見せてくれたところにあった。自分も物書きとして成長してるかどうかが問われることでもあって、「放浪記」を観る度に、私は森光子から「あんた、少しは芝居の観方、上手くなった?」と、ささやかれている気持ちになったものである。

森光子を失ったいま、林芙美子、菊田一夫、そして三木のり平を加えて、この四人によって築かれた盤石な壁を、崩せる者の誰一人としていないのを痛感するばかりだ。これまで数えきれないくらいの舞台に、それも同じ作品にも何度となくふれてきた。けっして短くはない私の観劇歴のなかでも、こんな作品はあるものじゃない。「放浪記」に出会えたのは、劇評にたずさわる身であるなしにかかわらず、ひとりの人間としては仕合せだったと言うほかにない。

森光子は「放浪記」で林芙美子に扮したように、ほかにも実名実在の人物を舞台で演じている。上演順に記すなら、60年に菊田一夫の自伝小説の劇化である「がしんたれ 青春篇」で、18歳の菊田一夫に旅費を工面してやる林芙美子を演じ、61年初演の「放浪記」の伏線になっている。78年のお野田勇「おもろい女」で、一度は後継者として二代目襲名のはなしもあったようにきいている、稀代の女漫才師ミスワカサを、88年小幡欣治「夢の宴」で、家庭医薬品「わかもと」の創業女社長・長尾よね。91年小幡欣治「桜月記」で、いまや上方演芸を独占している感のある吉本興業の創設者吉本せいである。

この四人は作家、芸人、経営者として、それぞれ栄達をきわめもし、悲惨な目にもあっている。そんな世に知られた人物の、それも波瀾万丈の女の人生を、舞台に再体験してみせる女優冥利をもってなお、森光子はこの四人の婦人とほぼ同時代を共に過ごしてきたのだ。

つまりはこの四人が四人と同じように、森光子もまた昭和という時代をまるごと生きたというより生かされてきたのだ。物言わぬ、不確かきわまる時間の流れの持つ、厳しさ、残酷さ、恐ろしさと、しっかり向かい合い、したたかに生き抜いた婦人像を、自らの体験も下敷きにして演じてきた。森光子は昭和婦人像の貴重な語り部だったのだ。

森光子の描いた昭和婦人像には、見てきた四人の実在人物のように、なんらかのかたちで時代や社会に寄与したひとばかりではない。実在しない創作上の人物で、それも社会的な存在価値から言うなら、むしろマイナス要因を多分に有した女を演じて、これまた大いに魅力を発揮した。三本だけあげる。

76年藤本義一「千三家お菊」のタイトルロール。80年初演の小野田勇「雪まろげ」の温泉芸者・夢子。89年菊田一夫「花咲く港」による小野田勇「虹を渡るペテン師」の七化けお京。

千三家お菊は、あらゆる犯罪のなかで一番頭脳の求めらるのは詐欺だと嘯(うそぶ)き、詐欺師であることに誇りを持っている女だ。「雪まろげ」の夢子は気のいいお調子者で、その場を面白くさせようとのサービス精神から、ほんのはづみでついた軽い嘘が次の嘘を生み、また次の嘘と雪まろげのようにふくらんで騒動をまきおこす。七化けお京はその名のとおり七変化のペテン師。いずれにせよ世の中の役には立たないくせに、どこか愛嬌があって憎めない女ばかりだ。

昭和の終焉は、森光子の演じてきた女たちにとって居所を失わせたような気がする。そんな女たちを演じつづけて、森光子は女優の一期を終えた。

2012年11月16日金曜日

電車の座席に、苦悩する

毎朝の通勤時、電車の座席に座れた時は座れた座席のことで、空席がなく立っているときは、他人が座っている座席のことを考えてしまう。利用しているのは、相鉄・いずみ野線だ。

座席

3人席とか2人席と思われるシートならば、大柄な人たちでも想定された人数通りになんとか座れるが、6人席とも7人席とも思われる区分けのない長いシートの座席に座る時に戸惑うことが度々ある。

6人では余裕が有り過ぎる。普通の体型の人ならば、7人は十分に座れるそのシートに座るときに、私の苦悩は始まるのだ。

夕方は神経が緩んで、酒の酔いが回っていることもあるので、そんなことには無頓着なのだが、朝、精神はビンビンに高揚、周囲の環境の何もかもに注意が鋭い。

よくある場合は、高校生が大股開きに座って、携帯電話の液晶画面に夢中になっていることだ。1人でもこういう心ない者がいれば、当然想定されている人数が座ることはできない。ましてそのような人が2人もいれば、尚更だ。こういう状況に居合わせた俺は、どうすればいいのだろうと考える。尻を隣の奴にくっつけて、注意を促すぐらいしか策が思いつかないので、諸賢に知恵を求める。これから、寒くなって誰もが着膨れする。

自分がどれだけの幅をとって座っているか、その斟酌なしによくぞ座っていられるものだと感心する。相撲取りは、団体で移動する以外は立って、座っているのを見たことない。これは、自分の体の大きさを認識しているからだ。

車両によっては、6~7人席のシートでも、2、3人分ごとに天井から床までの手すりにもなる鉄棒によって、仕切られているものもある。これはいいと思う。座った座席の向かい側の列のシートはよく見えて、もうちょっと何とかならんのか、と歯軋りしたくなることが多い。

私を手こずらせる奴は他にもいる。

居眠って、こっくりこっくり揺れる人。周りに誰も座っていなくて、前後左右に揺れるのは大いに勝手だけれども、もたれかかられたり、頭が顔の傍まで揺れながら近づくのには閉口だ。妙齢の女性ならばイザ知らず、オッサンには勘弁してもらいたい。座席にバッグなどを置いての爆睡、シートの端の側壁に身を斜めにもたれて座りだらしなく寝入っている奴らだ。

昨日20121115、藤沢から湘南台まで乗った小田急の藤沢・江の島線の列車には、シートに一人一人の座席が少し凹んで作られていた。これなら、尻が大きくて少しはみ出しても、隣席まで侵害することのないように工夫されていた。一人分ごとに配色を変えているシートもあるそうだ。

2012年11月15日木曜日

銀杏、その④弾

こんなに仲良くなった銀杏のことを、思いつきのまま書き溜めておく。

銀杏は私にとって、下世話にいう艶(つや)やかな食べ物だ。銀杏を見ると、下品そのもの、イヤラシイ顔になってつい喜んでしまうのだ。銀杏を食うと、男としての精がつくと聞かされていたからだ。

今でも、串刺しなどの酒の肴として、時には茶碗蒸しに入ったものをいただく度に、そんなことを考えてしまう。

でもその根拠を求めて、何千冊も本を読んだり、何万人にも聞いた訳ではないが、どうしてもその理由を知る機会を未だに得られていない。

経営責任者の中さんが、どうも、そのことはこういうことのようですよ、と話したのは、銀杏が直接男性の性的エネルギーを生むのではなく、血行をよくすることで男性機能を高めて結果的に性欲を増すということらしいですよ、と。昔、中国の皇帝はいっぱい銀杏を食って、子宝に恵まれるように努力をなさった。毎夜、10~15粒食っているが、確かに血行がよくなることは実感している。鼻血ブーとまではいかないが。

それでは、ちょっと俗っぽい世界から普段の生活に戻ります。

イチョウの木に生った実の中の、果肉に包まれた種子のことを、我々は銀杏(ぎんなん)と美しい字を並べて呼ぶ。銀杏をイチョウと読むこともある。この銀杏を焼いて、焙って、殻を破って食する部分は、仁だ。

中高生時代に習った履修科目・「生物」の復習をしよう。植物は種子植物と胞子植物に大別する。そして種子植物には被子植物と裸子植物だ。イチョウは、裸子植物門でイチョウ鋼、この鋼でイチョウは唯一現存している種らしい。

中国原産で、落葉高木。針葉樹でも広葉樹でもない。このイチョウ、広い道路での街路樹は結構だが、狭い道路の街路樹はいただけません。イチョウには何の罪もないことだが、街路樹の選定には今さらながら気を遣って欲しいと思う。

雄株と雌株がある雌雄異株で、実は雌株にしか生らない。実が生るためには雄株の花粉が雌株の雌花に受粉しなければならないが、雄株の花粉は1キロ程度まで飛散するので、雌雄の株は直近に揃ってなくてもいいらしい。近からず、遠からずの賢明なやりかたを、どうしてイチョウまでが知っているのか。

銀杏づくりの作業に携わった者は、中さんと中さんの義弟、極くたまには奥さんも、私を含めて主要メンバーは3人だが、イチョウの実を直接触らないように常時ゴム手袋をしていたが、何かの拍子に素手で触ることもあって、3人3様に手に痒みを感じた。

銀杏かぶれ

ネットの記事から借用させてもらった。中さんのはこれ以上酷(ひど)かった。

 

この痒くなる成分は、ウルシやマンゴに含まれているのと同質のものだと、中さんが余りの痒さに皮膚科の診療所に行って、綺麗な女医さんから教わってきた。私は子どもの頃からウルシにはしょっちゅうやられていたのでさほど気にはしなかった。くれぐれも、マンゴに齧(かぶ)りつくときには慌てないで注意しましょう、と綺麗な女医さんからウインクをされながら、言われたとか。

20年ほど前のこと、初めて銀杏を作ろうとして果肉を素手でむいた。何も知らなかった。その時は、痒みは発生しなかったが、手のひらの皮が全部すっかりめくれた。

秘密を暴露しちゃおう~かな。実は今回、小用の際に大事なものを汚れた指でつまんで、先っぽが痒くなった。他人には言えぬこと、まして女医さんにはもってのほか、時間が経てば直ると信じて耐えた。

ところで、この「もってのほか」は「以っての外」と書くが、「思外」と書いたという説もあるらしい。

イチョウの木には雄の木と雌の木があるというのは、前の方で書いたが、種子としての銀杏にも雄雌があることを今回初めて知った。2面体が雄で、3面体が雌。銀杏の世界においてもメスは複雑で、オスは単純? そして生っている実の95~96%が雄で雌は3~4%の割合。雄の実からは雄の木が、雌の実からは雌の木が生える。木の外観や葉の形からは雌雄を見分けられない。

銀杏雌

雌の銀杏

 

銀杏雄

雄の銀杏

最後にどうしても触れておかなくてはならないことがある。命に関わる問題でもあるのだ。食べ過ぎに注意すること、特に小児には気をつかって欲しい。個人差はあるが、5~6個食っただけでも中毒を起こす人もいるらしいのだ、天の恵み、中さんの努力に感謝しながら慎重に食しましょう。

頑張って集めた銀杏を日頃お世話になっている人たちにお歳暮にして、差し上げようと考えていたのだが、誰かに、時間が経つと殻の中の食べる部分が萎(しな)びてきますよと教えられ、それならば、できるだけ早く食べてもらった方がいいのではと思って、予定変更。

希望者には喜んで差し上げますから、声を掛けてください。銀杏食って元気! 元気! 但し、数に限りがありますサカイにご了承ください。

2012年11月13日火曜日

多摩川駅伝で、痛恨の肉離れ

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会場に向かう次女と孫、武蔵小杉駅で南武線に乗り換えるために移動中。二人の背後にはエネルギーがムンムン!!

20121110、ランネットという会社が開催した「ランネット駅伝多摩川大会」で走ってきた。

南武線の鹿島田駅で下りて多摩川に向かった。突き当たりの多摩川の河川敷には2~3000人ほどが集まっていた。ところでこの河川敷の広場はただの広場ではなくれっきとした名前の「古市場陸上競技場」だった。

色んなパターンの組み合わせの駅伝が次から次にスタートする、そんな大会だった。我らが出場した種目は午後のショートの部で、4人組の混成チームが、1区・5キロ~2区・3キロ~3区・1キロ~4区・3キロのトータル12キロを走破するコースだった。私はこの1区を走った。2区は孫のハル、次女が伴走した。

エントリーされるための条件とか参加資格がなくても、誰でもが参加できる。参加費用は幾分かは支払わなくてはならないようだ。幾らって? 私の分は、次女が払ってくれたので、知~ら~ない。

1週間前に、突然 次女から電話がかかってきて、竹ちゃん(次女の夫)が仕事の都合で参加できなくなったので、代わりに出てくれないか、といつもの有無を言わせぬ迫力だ。

決して走るのが嫌いでない私のことだ。娘や孫の前で、ジジイの偉大さを目(ま)の当たりに見せつけるにはいい機会だと思った。まだまだ廃(すたれ)れてはいないことの実証だ。昨秋、竹ちゃんと箱根の温泉プールで、娘や孫の前で、25メートルをクロールで競って負けなかった。

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わが混成チーム。

 

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走り出すまでは、ジジイは世界記録を目指していた!! 孫は疑いなくジジイを信じていた。

 

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力走する、我がチーム。

 

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世界記録への挑戦は叶わなかった。

 

大会側から渡されたタスキにはチップが仕掛けられていて、個人の成績は正確に記録された。

100~200人が一斉にスタートするために、スタート地点の狭いエリアにギュウギュウ詰めで並んだ。私はこの場所の居心地の悪さを感じた。違和感だ。この雰囲気は昔どこかで感じて、長く忘れていた感覚だ。真剣勝負を前に身を切り裂くほどの緊張感が漂っていて、私には息苦しかった。

私が並んだ位置は全体の前の方で、そこに居並ぶ人たちは、自らの記録を意識した猛者連中だった。順位か記録か。私のように間抜けた服装で緩んだ気構えの連中は居なかった。

スタートした時は、皆には遠く及ばない実力なので、無理をせずに完走さえすれば、それなりの順番でゴールできるのでは、と高をくくっていた。ところが、そんな簡単なものではなく、男も女も、ガンガン走るではないか。抜かれても抜かれても、それでも、自分のペースだけはしっかり守って、孫にタスキをきっちり渡す、計算高いランナーだった、はずが?

スタートして10分後、私の右足のふくらはぎに異常が発生した。10分後というのは折り返し点のずうっと手前だ。おかしいぞと感じてから、急に度を越して痛くなった。肉離れを起こしたようだ。

折り返し点が遠かった。折り返し点を折り返した時には、ふくらはぎの痛さは固まってしまった。膝が曲がらない、足が棒だ。周りを見ず、ひたすら地面だけを見て、何とか歩を進めている状態だ。こんな筈はない。何と、この5キロは長いんじゃ、この距離を呪(のろ)った。

ようやく我がチームの応援団の前を通過した時には、顔面蒼白、否青ざめていたかもしれない。声援に応えるだけの余裕はない。

私の到着を待つ次女と孫組は、ジジイはどうしたんだろう? 逝っちゃったか?と心配していた。まさか、あのジジイのことだから、棄権することは絶対ない、とは思っていてくれたようだ。絶対諦めないのが、このジジイの真骨頂。もう少しです、頑張ってください、と観衆のなかから美しいお婆さんが声援してくれた。

タスキを外して渡そうとしても、次女たちがいる所までのただの10メートル、5メートル、3メートルが異常に遠い。観衆が居なければ、間違いなく泣いていた。

やっとの思いでタスキを渡し終えて、地面にひれ伏した。ふくらはぎに手を当てても感覚がない。30分後、立ち上がったが右足は地面を踏みつけられない。

64歳と50日のジジイの記録は、412名中、405番。タイムは32分21秒という惨憺(さんたん)たる成績だった。20121110、我が人生、痛恨の日になった。

帰途。牛歩ならぬ亀のようなノロノロ歩きでは我がチームに迷惑になるので、一人、早い目に鹿島田駅に向かった。競技場を、このような格好で去るのは実に惨(みじ)めだった。でも敗者ではない、痛恨の挑戦者だった。

来年は、今日の屈辱を必ずはらす、再起を期す。

2012年11月12日月曜日

オバマ米大統領再選

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20121107 米大統領選で、民主党のオバマ大統領(51)が共和党のロムニー前マサチューセッツ州知事(65)を藪って再選を決めた。同日未明(日本時間同日午後)、オバマ氏は地元シカゴで勝利演説を行い、共和党との党派対立を乗り越えて経済の再生に取り組む姿勢を示した。この稿は全て20121108の朝日新聞の記事そのままを転載した。

 

天声人語

洋の東西を問わず、有言実行の政治は難しい。ケネディ大統領のスピーチライターだったソレンセン氏が、歴代米大統領の就任演説をすべて調べて、こう皮肉っている。「史上最低の大統領たちが最高に雄弁であることが判(わか)った」。負けていたらオバマ氏も、その仲間入りだったかもしれない。

むろんオバマ氏は最低の大統領ではないが、雄弁が独り歩きしてきた印象は否めない。米大統領は2期目を任されてようやく一人前ともされる。次の4年でアメリカをどう舵(かじ)取りするか、真価を問われることになる。

人種も文化も多彩な3億人が暮らす国に、大統領選挙は4年に1度の求心力をもたらす。人々は候補者に言葉を求め、胸に響く言葉によって連帯を含め合う。「民主主義の祭り」と呼ばれるゆえんだ。

しかし、今回は史上最悪中傷合戦と言われた。民主と共和、二者択一を迫る悪口のシャワーを浴びて米社会の分裂は深い。勝利宣言で「激しい戦いは国を深く愛すればこそ」と語ったオバマ氏だが、祭りのあと、傷をふさぐのは容易ではない。

オバマ氏の雄弁に戻れば、日本人の胸をゆさぶったのは「核兵器なき世界」だった。もう次の選挙の心配がない2期目には、思った行動がしやすいという。ぜひ広島と長崎を訪れてもらえないか。

就任前から「情けない大統領ならいくらでもいる。真に偉大な大統領になりたい」と語っていた。その願望も昨日の勝利で首がつながった。雄弁という木にみのる果実を、見せてほしい。

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社説

オバマ米大統領再選

理念を開花させる4年に

米大統領選で民主党のバラク・オバマ氏が再選された。

グローバル経済の荒波か、退場を迫られる現職の指導者は少なくない。オバマ氏に与えられた、さらに4年の任期は貴重だ。大胆に指導力を発揮してほしい。

現職有利とされる2期目の選挙だが、、共和党のミット・ロムニー前マサチューセッツ州知事に激しく追い上げられた。

社会保障を手厚くし、政府主導で景気回復を図る「大きな政府」のオバマ氏か、自由な経済競争を重視する「小さな政府」のロムニー氏か、という理念のぶつかり合いだった。

米国の閉塞状況を打破するのはどちらか。米国民は迷いつつも、社会の連帯に重きを置くオバマ氏の路線の継続を支持したということだろう。

この接戦が象徴する「分断」された米国社会を修復することこそが、オバマ氏にとって急務である。

 

「分断」修復急げ

 

選挙には両陣営がこれまでにない巨額の資金をつぎ込み、大量のテレビ広告で中傷合戦を繰り広げた。社会に残した傷跡は深いが、歩み寄るときだ。

米国では来年初め、政府の支出が大きく減らされ、ほぼ同時に増税される「財政の崖」が待ち受ける。

こうした事態に至れば、国内総生産(GDP)を5%近く押し下げるとされる。世界経済に与える影響も大きい。

まずは共和党との間で回避策を探り、協調の足がかりを得る必要がある。

オバマ氏は1期目、大型の景気対策や、国民皆保険に近い医療保険改革を導入して、財政負担の増加を嫌う保守派の猛反発を招いた。

厳しい財政削減を求める保守運動「ティーパーティー(茶会)」が勢いづき、2年前の中間選挙で共和党が下院で大勝した。同党は徹底して政権に非妥協的な姿勢を貫き、政治が動かなくなっていた。

大統領選と同時に行われた連邦議会選では、上院では民主党が過半数を確実にしたが、下院は共和党が多数を占めた。「ねじれ」は続くことになり、超党派での協力が不可欠だ。

共和党も大統領選で示された民意を受けとめるべきだ。「茶会」のような急進的な主張は、国民的な支持を得ていないことがはっきりした。協調すべきは協調しなければならない。

ロムニー氏は、オバマ氏の医療保険改革の撤廃を訴えた。だが、しっかりしたセーフテイーネットの存在は、経済にも好影響をもたらす。共和党も改革を受け入れるべきだ。

 

カギ握る中間層

 

選挙選終盤、オバマ、ロムニー両氏がともに強調したのは中間層への配慮だった。中間層が活気を取り戻してこそ、米国の再生につながる。

また、それが分断修復のカギとなるのではないか。

オバマ氏が苦戦した最大の原因は、経済の低迷だった。

失業率は8%を超える高い水準で推移し、就任時に約10兆ドル(800兆円)だった財政赤字の累積は、約16兆ドルに増えた。

希望の兆しもある。

選挙の直前になって、失業率は2ヶ月続けて7%台に下がり、9月の住宅着工件数も4年2ヶ月ぶりの高い水準だった。回復の軌道に乗りつつある、との見方が強い。

この流れが続けば、政権基盤が安定し、社会のぎすぎすした空気も和らぐだろう。

 

対中関係をどう築く

 

財政的な制約もあり、世界に軍事力を振り向ける余力が少なくなるなか、米国が外交・安全保障でどういう役割を果たすのかも問われている。

4年前、アフガニスタンとイラクの二つの戦争で米国の威信は大きく傷ついていた。

そこに、オバマ氏は全く違う米国の姿を示した。

「核なき世界」を唱え、米国とイスラム世界の新たな関係を求める力強い言葉に、世界は喝采を送った。

だが、いずれも道半ばだ。

中東は「アラブの春」後の秩序作りで揺れている。内戦状態のシリアでは多数の死者が出て、暴力がやむ気配はない。イラン核問題も緊迫している。

紛争の拡大を防ぎつつ、どう解決に導くのか。国際社会をまとめる指導力も試されている。

アジア太平洋重視を打ち出しているオバマ政権にとって、習近平(シーチンピン)・新体制の中国とどう向き合うかは最大の2国間問題だ。

経済面の相互依存が増すなか、実利的な関係を進めると見られるが、大国化した中国が周辺国と摩擦を起こす場面が増え、米国は警戒を強めている。

尖閣諸島をめぐって中国との緊張が続く日本としても、オバマ政権の対中政策を見極め、連係を深める必要がある。

外交、内政両面で、理念を開花させることができるか。オバマ政権の真価が問われる4年間になる。

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変革、これからが本番

アメリカ総局長=立野純二

 

7日未明、シカゴ。再選を果たしたバラク・オバマ大統領は、1万人の聴衆に、かれ声で語りかけた。「経済は回復している。10年の戦争は終ろうとしている。そして、長い選挙戦は終った」

未曾有の経済危機や、イラク、アフガニスタンでの戦争終結にも並ぶ苦難。それほど激烈をきわめた選挙だったと吐露した。「一つのアメリカ」を唱えて歴史に名を刻んだ黒人大統領の再選演説として、実に皮肉な言葉だった。

争点は最後まで経済復興だった。

ミット・ロムニー氏の武器はビジネス経験。最後は逆にその過去が災いした。特にオハイオなど自動車産業の拠点州では、市場に破れた企業や工場を切り売りした投資家よりも、逆に産業を救った現職大統領への信任が上回った。

自由競争にゆだねる社会か、それとも格差の是正を重んじるべきか。低成長と財政赤字に悩む先進国共通の問いに、米国民は後者の「大きな政府」路線を選んだ。リーマン・ショックを招いた市場の暴走の記憶が生きていたともいえるだろう。だが、それは決して論争の決着ではない。

むしろ、社会の対立がこじれているのは、経済格差だけではなく、人種間の分断も深まったからだ。台頭する新移民層と、旧権益層の保守層とのあつれきを背景に、白人の「オバマ離れ」が鮮明になった。議会下院の共和党支配は変わらず、オバマ政権は2期目も内政に悩まされるだろう。

今回ほど米国が世界を論じず、内向きに終始した選挙は珍しい。つい10年前、民主化の旗を掲げてイラクの独裁を力ずくで倒した米国が、隣のシリアで3万人が殺されてなお傍観するのはなぜか。両候補はその答えで一致した。「再建すべきは我々自身だ」

米国はもはや一極支配の覇権国ではない。核なき世界。グリーン・エネルギー革命、イスラムとの対話。オバマ氏が掲げた崇高な目標の大半が道半ばながら、多くの国々は再選を歓迎した。欧州経済が揺れ、中東が混迷し、アジアの秩序が変わる動乱の時代、むしろ4年前より今こそ世界は変革の旗手を渇望している。

「世界は困難にあふれているが、私たちは運命の囚人ではない。我々の行動で歴史を正しい方向に向けられる」(3年前のノーベル平和賞受賞演説)。あれから理想の語りが消えた姿に夢がしぼむ思いがしたのは米国民だけではない。世界が信じた「オバマ伝説」の本番は、初当選の酔いが覚めた今から始まる第2幕にこそあると考えたい。

2012年11月9日金曜日

「W・ローズ」公演

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開演=19:00 

 

作=マーティン・シャーマン

訳=堀 真理子

演出=高瀬久男

出演=志賀澤子

会場=ブレヒトの芝居小屋

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久しぶりのブレヒトの芝居小屋だ。今年2度も招待を受けながら、観劇に行けなかったことが気になっていた。そこで、今回はどんなことがあっても行くぞと決め込んでいた。さて、誰と行くかが問題だった。

今回は、毎週水曜日の午後に農作業の手伝いをしている山田農園の農園主と行く事になった。農園主はご婦人だ。農園に向かう或る日の車中、ひょんなことでお芝居のことを思い出し、唐突に誘ってみた。農園主は、じっくり私とこの劇団とのお付き合いのことを聞いて、同行を決意してくれた。

演出は、紀伊国屋演劇賞などの多くの賞に輝く高瀬久男氏が担当。東京演劇アンサンブル代表の志賀澤子氏がプライベートユニットで制作した。いただいたパンフレットには、志賀氏本人が、俳優人生の総決算として挑むなんて大袈裟なことを言っておられる。まだまだ、先輩には頑張ってもらわないとイカンのですゾ。

今回、芝居小屋に行くまでに、何らの理論武装もせず、予備知識を持たないままの観劇だったので、その場では、話の進んでいく具合を多少理解できても、肝心な部分が解っていなかったので、浮かぬ顔をしながら帰ることになった。

志賀さんの独り芝居だ。

舞台の中央に設置された木のベンチに座って、80歳になるローズが、波乱に満ちた自らの人生を語る作品だ。胸が苦しくて、水を飲み飲み、自分の生い立ちから今に至るまでの人生行路を、語る口調は、時には涙し、笑を浮かべて静かに語られていく。

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話の筋はーーー

ローズはウクライナのユダヤ人たちが住む集落で生まれた。兄を頼ってポーランドに出かけた。ちょうどその時、ワルシャワにナチス・ドイツ軍が目の前を侵攻してきた。それからゲットーでの生活を余儀なくされる。

第二次世界大戦後、ローズは「エクソダス号」に乗ってパレスチナを目指した。しかし、運命のいたずらからアメリカのアトランティックに渡ることになる。そこで、知り合ったアメリカ人と結婚し、子供をもうけ、ホテル経営を軌道に乗せた。

保有していたホテル・ローズは繁忙から衰退、そして老人ホーム・ローズになる。そして年老いた今はマイアミにいる。

このお芝居を観ている時に、気になってしょうがない言葉があった。時々志澤さんの口から発せらる台詞(せりふ)の「シヴァ」、だ。

自宅に戻ってネットで調べてみたら、シヴァとはユダヤ教の信徒たちの葬式にかかわる習わしのようだ。葬式が終わると、遺族はシヴァと呼ばれる7日間の喪に服する。この期間、遺族は亡くなった人の友人や親戚の弔問を受ける。心身を鎮める。亡き人を語り遺族を心からいたわる。そのようにして、ユダヤ教の信徒は絆を深めていく。

シヴァの7日間が終わると、遺族はこれからの1年間の喪に服することになる。両親や兄弟姉妹が亡くなった場合は、1年間はお祝いごとや、お祭りに参加しないし、パーティーやコンサートにさえ行かない。楽しむことや浮かれることは厳しく戒める。

回顧話の中にシヴァが度々訪れ、話は進行する

ストーリーを完全に理解できていないので、後日、本を読んでみたいと思っている。頂いた資料を添付した。

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2012年11月7日水曜日

フ~ラフ~ラ、帰途の楽しみ

仕事を終えて、会社を出て、駅前のコンビニでお酒を買って、チビリチビリ飲んで帰るのが楽しみの一つになった。

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1ヶ月程前のこと、帰途の電車の中で、掌(てのひら)に隠すようにして缶ビールを飲んでいたら、かって20年ほど前に私の会社に融資してくれていたノンバンクの担当者だったケイさんに会った。私が乗客のなかに見つけた。

缶ビールをコンビニを出て直ぐに飲みだし、電車がホームに着くまでに飲み終え、空き缶を自動販売機の傍にある缶入れに入れ、そして電車に乗るようにしていたが、この日は携帯電話がかかってきて、飲み終えるまでに電車が来てしまった。

久しぶりに会った彼に、ご無沙汰していることを詫びた。彼は転職先の名刺を差し出し、互いの仕事の現状を話して、頑張りましょうとエールを交換した後、私の手元の缶ビールを見てニンマリと、ヤマオカさんは相変わらず飲んでるんですね、と冷やかした。

そんなことはないんですよ、家に帰ってがっちり飲むのは以前と変わっていませんが、今日は、ちょっと暑くて、外で木を切る作業をしたもんですから、特別なんです、それに直ぐに電車が来たもんだからと嘘をついた。私は、この何十年、毎日、会社か居酒屋で飲むか、コンビニで買った酒を飲んで家に帰っている。

春から夏の終わりまでは第三のビール・発泡酒を、それから果汁の入った缶酎ハイに変えた。そして、2週間前から日本酒にした。日本酒にも色々あって、1合100円の紙パックに入ったものから、200ミリリットル200円前後のものが、各メーカーの社運を賭けた品が並んでいる。

1週間前に200ミリリットル130円のワンカップ酒を見つけた。その名は男山という。これが、値段の割にはなかなか美味いんだ。

そして、一昨日20121102の金曜日の電車の中、今度はケイさんの方がワンカップ酒を飲んでいる私を見つけて、やっぱり飲んでましたね、と近寄ってきた。きまりが悪かった。酒を飲んでいるオヤジがいるなあ、と思ってよく見たらヤマオカさんだったんですよ、1ヶ月前に会ったときには、確か、その日は特別の日だと言ってませんでした? 彼は、私を問い詰める。口調が堅い。私は、今日もちょっと疲れちゃって、と独り言で誤魔化した。

今夕の彼は前回とは違って乱調気味。そりゃそうですよね、疲れちゃいますよね、頭にくることが多くて、やってられませんよ、いい加減疲れました。顔はまるで鬼。面白くないことをやらされてますわ。今日会社で、彼に何があったんだろう? 事情の解らないまま、私はウンウンと頷(うなず)くばかり。私より一駅前に下りたが、彼の背中は淋しげだった。

こんなことがありましたと、日記のつもりでこのブログを綴った翌々日の今日20121104、朝日新聞・生活面に、「電車内化粧 中3が考えた」のタイトルの10月14日付け新聞記事に対して、漫画家の伊藤理佐さんが書いた「やめなよ、電車内での化粧」の記事に、色んな意見の投書があったことを報じていた。

概(おおむ)ね、伊藤さんの意見に賛意を表したものが多かったようだが、そんな記事に己(おのれ)は一体どうなんだ?と矛先を我に向けて考えてみた。車中、缶ビールに缶酎ハイやワンカップ酒を飲んでいるサマは、女子の中高生が化粧しているのと大差ないではないか、余り褒められたことではない、よ~だ。

新聞記事にあったように、「いいじゃないですか。迷惑にならないならOKです。公共の場だけど、自分の範囲だけのことなので」と、この私も言えますか? と自問して、それはどんなことがあっても、言えないことだ、と今更ながら納得した。

電車内でのお酒は遠慮しよう。

銀杏 その③弾

この1ヶ月、銀杏と大いに戯れた。

経営責任者の中さんが集めてきたイチョウの実から種子である銀杏を取り出して、作業は最終工程、乾燥中だ。

イチョウの実を中さんから受け取ってからの作業は、私の担当だ。

我らが深く付き合った銀杏のことを、朝日新聞・天声人語は取り上げた。敬愛してやまない宮沢賢治の文章も交えてくれた。ジョバンニ、カムパネルラと俺の銀河鉄道はそろそろ走りだす。歴史の歴史を、愛の愛を見つけるための旅だ。天声人語氏の珠玉のこの文をやはり、キープしたいと思った。

 

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朝日・天声人語

早起きの身に、よく晴れた晩秋の夜明けは気分がいい。きのうは藍色の天空に居待ち月が浮かぶ。明けの明星が皓々ときらめいていた。暁を覚えぬ春とは違って、眠気はすっきり心と体から抜けていく。

そんな澄み切った明け方、丘の上の一本のイチョウから、銀杏が一斉に飛び降りる童話を宮沢賢治は書いた。木をお母さん、黄金(きん)色の実をあまたの子に擬し、落下を「旅立ち」と描く筆はやさしい。

子らは靴をはき、外套をはおって旅の支度をする。冷たい北風がゴーッと吹くと、「さよなら、おっかさん」と口々に言って枝から飛び降りるーー。黄金(きん)の雨が降るような描写を読み直すうち、ふと読者から頂いた便りを思い出した。

去年の今ごろ、作家の故三浦哲郎さんの文を拝借した。郷里の寺の銀杏が、「毎年十一月のよく晴れた、冷え込みのきびしい朝に、わずか三十分ほどで一枚残らず落葉してしまう。これを文学的誇張であろうと書いたら、そういうことは他でもあると、何人かが教えてくださった。

ある人は「すさまじい光景だった」と表し、ある人は「解脱するかのように」と例えていた。裸になった木の下には厚み10センチほどの絨毯が敷かれたそうだ。風もなく、憑かれたように散る光景を思えば、樹木の神秘に粛然となる。

立冬が近く、けさは各地で一番の冷え込みになるらしい。豪壮な黄葉は今日はどの辺りか。夜はぎんなん坊やをつまみに、深まる秋に浸るもよし。おっかさんの銀杏の木に、感謝を忘れず。

銀杏、その②弾

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中さんが収穫してきたイチョウの実は、出勤時に会社に持ち込まれ、バケツとビニールプールとビニールのゴミ袋に入れて水に浸け、テラスに並べた。イーハトーブの果樹園にも埋めた。

そのような状態にして数日(7~10日間)、様子を見た。イーハトーブに埋めたのは、外からは目視できなくて、中の様子を時々掘り起こして見た。果肉がほぐれてきたのを見計らって、次の行動に移った。

今後の処理方法の知恵をネットで得た。画期的なアイデアに思われたのは、実を洗濯機に入れて、果肉を剥(はが)し取ることだった。私たちは、実を網状の袋に入れてから洗濯槽に入れた。これは、私たちのオリジナルな知恵だ。この方が後の処理が迅速にできる。

洗濯槽から網に入ったまま取り上げて、ザルに広げ、ゴミを取り除き、水をたっぷりかけてぬめりを洗い落とした時には、イチョウの実は身包(みぐる)みはがされ、白い裸身の艶(なまめ)かしい銀杏になっている。

ウンコ臭の身包みはゴミ袋に入れて封をした。やっとここで、親しみまで覚えるようになった臭いとおさらば。スタッフに嫌な思いをさせなくなることに安堵した。

裸身艶かしい銀杏を、現在、会議室の窓際に干している。保存をするためには水っ気をなくすることだ。私は、一日に一度は確認に行く。見る度に嬉しくなる。

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試作中

片や管理の和さんは、目下、小分けして人様に差し上げるための梱包を考えている。あの手この手を駆使して見栄えよく、考慮中だ。

銀杏 その①

銀杏を作りに繁忙中だ。

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収穫直後のイチョウの実

 

弊社の経営責任者の中さんが、早朝5時頃、散歩やジョギングをしているときに、コースの道々に銀杏が落ちていることに気づいた、と私に話しかけた。

そう、そんなに落ちているの、と返答しながら、私は私で、今年は銀杏をどうしようかと考えていた。去年、仕事の都合で立ち寄った横須賀のJR田浦駅のロータリーで偶然拾ったイチョウの実は大きかった。が、沢山は拾えなかった。小さい実のものは会社のすぐ近くの帷子川沿いで幾らでも拾えるが、もう少し大きな実を拾いたかった。そんな場所さえ見つかれば、直ぐにでも、出動するつもりでいた。

そして数日後、ヤマオカさん、こんな実なんですがどうでしょう、と見せられたその実がどれほど価値のあるものかは、学習済みの私には、即、理解できた。お歳暮の時期にあわせて、銀杏作りをしよう、と中さんと合意した。二人は、お世話になっている人に年末のご挨拶に差し上げたいと思った。あなたが採って来てくれたら、後は俺に任せろ、銀杏については、中さんより一日の長がある。

問題は、果肉の中の銀杏を取り出しやすくするために水に浸け置くスペースの確保と発する臭いにどれだけ耐えられるかだ。露骨にウンコ臭に渋面するスタッフもいたが、スマン、悪いな、とその度に謝った。

それから、中さんは義弟と、たまには奥さんも交(まじ)えて、収穫作業を加速させた。義弟はスー君だ。彼は、奥さんの弟で家事の手伝いにフイリッピンから来ている。

毎日それなりの量が会社に持ち込まれた。初日は水を入れたバケツに浸(つ)けたが、持ち込まれる量が多くなってきたので、我がイーハトーブの果樹園に埋めることにした。昔、私がそのようにしていた。

それでも足りないので、思いついたのが子供のビニールプールに浸けることだった。物分りの早い中さんは、早速、自宅用のプールを持ってきたが、それにも直ぐにいっぱいになった。今度はビニールのゴミ袋に入れたまま水を注いだ。

収穫する方法にも日々、漸次、イノベーションが図られた。最初は通行人を装って、イチョウの樹の下や、垣根の中に顔を突っ込んで拾っては、小さなビニール袋に入れていた。

落ちている実が多くなってきたので、チリ取りやスコップのようなもので、ごそっと掬(すく)ったらどうだろう、とアドバイスした。が、これでは、玉石混淆。

そのうち、中さんは大きい実がなっている樹と小さい実がなっている樹があることに気づいた。そして生っている実を棒や竹竿のような物で叩き落としているオジサン、スー君がエネミー(敵)と叫ぶ敵を目撃、それからオジサンの手法を素直に見習った。落ちるのを待っていられない。この方が、良質の実を集中して採集できる。

落とした実を一つひとつ拾うのではなく、ビニールシーツを広げておいて、それをまとめて一網打尽(ちょっと違う、が)?に実を集めた。

次は棒で叩き落とすのではなく、樹に登って枝を手で揺らして落とした。落ちる前の良質な実だけを選んで収穫できた。それも、大量に。樹に登るのはスー君だ。木登りが上手い。

この収穫場所のことは、口が裂けても言えません。企業秘密ですから。良質な材料の仕入れの重要さに、業務上痛感させられている。

 

このように収穫された銀杏の運命は、第2弾にご期待してください。

2012年10月31日水曜日

登山家・芳野満彦を読む

アルムクラブ創設者の1996年当時八ヶ岳ビジュ間hp

芳野満彦氏

この1ヶ月で、芳野満彦氏の著作「山靴の音」(二見書房)と「新編山靴の音」(中公文庫)、それに芳野満彦氏をモデルにした新田次郎の「栄光の岩壁上下」(新潮文庫)を読み終えた。

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20120207の朝日新聞の訃報記事で、芳野満彦氏のことを初めて知った。当時は仕事のことで頭が混乱中。日本人として初めて欧州アルプスのマッターホルン北壁登攀した登山家の彼が心筋梗塞のため死去。80歳だった、との記事を読み進めていくと、彼は五文足(約12センチ)のアルピニストと言われているとあり、これはどういうことだと興味を持った。

そして、上の本4冊を読むことにした。

低い山や安全な山を散策する程度の私には、この本に書かれている山々や峰々の名前や登山の装具のこと、使われている登山用語のほとんどを理解できない、まして近寄り難い岩壁登攀なんて、、、、なのに読書のペースはどんどん進む。

氷も雪も、風も雨もない暖かい部屋で、私の読書は岩壁登攀の取り付き点から、カーテン越しに暖かい日差し受けて、ピッケル、ハーケンやカラビナではなく、温かいコーヒーカップを手にして、1ピッチ、2ピッチと一気に進んだ。彼なら、きっと今でも冥界にある山岳を攀じ登っている。      

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「山靴の音」の冒頭の「八ヶ岳遭難」は友人との八ヶ岳登山で遭難した時の内容だ。18歳で遭難してその翌年にこれを著している。出発して、遭難、救助されるまでの詳細が、恐ろしいばかりの記憶力で振り返っている。悲惨な事故に、これだけ冷静に描写していることに恐れ入った。

この遭難事故をきっかけにますます、山にのめりこんでいくさまが、鬼気じみる。何故、そこまでして?と問いかけたくなる。その私の問いに、彼は別の本のなかで答えているのを見つけた。「そこに、希望があるからだ。だから、僕は涙して登る」だった

山にとりつかれた男が、山から山を攀(よ)じ登る。そしてどの山にも情熱を高らかに謳って止まない。

本文中には、山岳や動作する人の絵があり、マジックなのかペンなのか絵筆なのか、描かれたものは登山家の心そのものだ。自然には、強く賢く冷静に対峙している。山男らしい純情詩が幾編も盛り込まれていて、どの詩も読み人を粛然とさせる。

こんなに山を愛した登山家は他にはいないのではないか。

それに、小説「栄光の岩壁」を併せて思うに、彼は山仲間のことは当然、関わった人たちとの人間関係を大事にしていた。岳人、クライマーとしてだけでなく、立派な人格者だったのだろう。

 

小説「栄光の岩壁」は、彼をモデルにした主人公・竹井岳彦の幼少からマッターホルン北壁登攀を征服するまでの物語だ。

18歳の時に学友と八ヶ岳で遭難し、友人は凍死、彼は凍傷によって両足先の大半を失う。それでも山への憧憬は増すばかり、鴨居にロープを吊るしての歩行訓練を始めた。

北アルプス、上高地の氷壁の宿と言われる徳沢園(山小屋)の冬の管理を任される。この小屋を拠点に、未踏峰の岩壁を十以上も征服する。指のない足が痛む。靴下を重ねて履いても、歩行したり岩を蹴ると血が溢れる出る、それでも岩壁にむしゃぶ-りついていった。

1962年、大倉大八(本名)氏と組んでアイガー北壁を目指すが悪天候のために無念の撤退を強いられた。そして翌年、アイガー北壁に再挑戦したが、失敗。

この再挑戦の報を聞いたカメラマンの藤木高嶺さんと朝日新聞の本多勝一記者が、カナダ・エスキモーの取材の帰途、現地で、1800メートルの魔の北壁の1000メートル地点で悪天候のために断念したところに立ち会った、とこの本の解説の欄にあった。この本多勝一、藤木高嶺コンビでいくつもすばらしい仕事をこなしている。彼らのファンだったが、こんなところに出現してきたことに驚いた。朝日文庫の「カナダ・エスキモー」をかって夢中に読んだ。

そして、1965年、日本人として初めて.渡部恒明(本名)氏とマッターホルン北壁を完登に成功した。最初からずうっとトップを登っていた渡部氏が、登頂約20メートルを前に、疲れたから代わってくださいと彼を立てた。

二人は引き続きアイガー北壁を狙うが、彼の足先からの出血がひどく断念した。

「ツエルマットより愛を込めて、我北壁に成功せり」と奥さんに電報を打った。