2020年12月4日金曜日

石牟礼道子 苦海浄土

 石牟礼道子いま道しるべに

「苦海浄土」題材に曲・「自然への畏怖」シンポで共有
残した言葉 コロナ禍で問い直す試み

コロナ禍のいま、生の尊厳を求める水俣病患者たちの姿を描いた小説『苦海浄土』で知られる作家(1927~2018)に触発された表現が続けて世に出ている。
石牟礼の思想を道しるべに、「分断」や「生産性」といった言葉で語られる現代社会を問い直そうとする試みだ。
脳出血による右半身まひから復帰し「左手のピアニスト」として知られる舘野泉さん(84)は11月、東京で開いたリサイタルでピアノソナタ「苦海浄土によせる」を初演した。
穏やかな海のような曲調は突然、不協和音に包まれ、やがてつかの間の凪(なぎ)を思わせる静けさのうちに終わる。
舘野さんは演奏後、「響くほどに、のめり込んでしまう。いまどき珍しい力を持った曲です」。

「のさり」に希望

熊本市の作曲家、光永浩一郎さん(54)が熊本県水俣市を訪ね、取材を重ねて書き上げた。
きっかけは、水俣病にかかって差別を受けた漁師の故杉本栄子さんが語り、石牟礼が書き伝えた「のさり」という言葉を知ったこと。
病と差別に苦しみ抜いた末に、「天からの授かりもの」ととらえ直した方言だ。

石牟礼は、杉本さんの語りをこう書き残している。
<(水俣病の原因企業)チッソも許す。病気になった私たちを迫害した人たちも全部許す。許すと思って、祈るごつなりました>
『花びら供養』

苦しみのなか「のさり」だと思えば、決して通じ合えないと思われた相手にも手を差し伸べられる。
光永さんは「『分断』という言葉がついて回る世の中ですが、分かり合えるという希望は持ち続けたい」。
京都市では9月、コロナ下で文化や芸術が果たす役割についてのシンポジウムが開催された。
参加した上智大学大学院特任教授(宗教学)の鎌田東二さんは「どれだけ科学が発達しても、人間は形を超えた何かに生かされているという感覚を持つ」と指摘。
「『苦海浄土』などの小説で豊穣に切実に描いた(自然への)畏怖、畏敬の念」を思い起こすことの大切さを訴えた。
石牟礼の残した言葉を考える試みが続く状況について、「法政大学総長の田中優子さん(近世文学)は「3・11の後に似ている」と指摘する。「新型コロナでもやはり、世の中の仕組みがひっくり返った。近代以降の人間社会の根底から問い直した石牟礼さんの思想に、これからの時代の手がかりを求めているのでは」
12年に対談した際、石牟礼は「共同体というのは、万物が呼吸し合っている世界」と語ったという。
貝や魚などの「命のざわめきに満ちた」水俣の渚で育ち、人間はあくまで「生類の一員」であり、「つながり合う命そのものに価値がある」と考えた石牟礼の思想が表れた言葉だ。

試される共感力

田中さんが10月に出した「苦海・浄土・日本』(集英社新書)で、石牟礼が人の苦しみに共感し、我が苦しみのようにもだえた「もだえ神の精神」を論じた。
石牟礼が水俣病患者を支援したのも、この気持ちにかられたからだった。
田中さんはこれまで研究してきた江戸期の社会と比較して、資本主義の論理が行き渡った近代以降の社会では、利益や経済成長といった「数値のピラミッド」を上へ上へと登ることが求められ、どれだけ稼いだかという「生産性」のものさしで人の価値が測られるようになったとみる。
「『生産性』を上げるよう個人間の競争を強いられるうち、本来備わっていた共感力を削り落とさなければ生きづらくなってしまった」。
コロナ禍は、立場の異なる相手への共感力が試される機会でもある。
「人の苦しみにもだえた石牟礼さんと同じ場所に立って、社会のあり方を見つめ直す時だと思います」。
(上原佳久)
20201202の朝日新聞文化・文芸より転載。








2020年11月23日月曜日

枯葉

 今日(20201123)も、自宅から会社まで上り坂下り坂のある道をぐねぐね、そして県立保土ヶ谷公園を縦断して上星川から天王町の我が社に着いた。
大体、1時間5キロほどの楽しみだ。
徒歩数は7500歩
その保土ヶ谷公園の常緑樹以外の樹木はすっかり紅葉に入ってきた。
紅葉の色柄は赤黄橙色、私のような能天気でもその爽やかさには清々しく感じるものがある。
1週間前の11月16日の夕刻5時から、近所の立派な宴会場で盛大と言えばいいのか、過分と言えばいいのか、坂西秀男さんと私の送別会を行ってくれた。
送別会と言うのは会社を辞めていく人や転勤その他で会社から遠く離れていく際に、所属会社や仲間等が行ってくれるものだが、今回の送別会は私にとって40年以上勤めたこともあって、唯、やたらに淋しさだけが異常に込み上げてくるのだ。
持病で苦しむ家人も無理に出席させた。
家人は当初、断ったがこの送別会だけには出て欲しいと、私が強くお願いした。
呼吸器系に支障が出て咳が止まらない、股関節の手術後のこともあったが、今回の会は私だけではなく妻も共にみんなに感謝を述べて欲しかった。
家庭のことを一切合切妻に任せっきりで、私は会社一辺倒だった。
そんな私どもなので、ありがとうございました、だけではどうしても済まされない。
そして、今朝の公園での紅葉で、それが何が原因だったのかよく解らないまま、(感?観?勘?)が異常な感情になってしまった。
きっと私の心に隙間ができてしまったのだろうか、1週間前の送別会で心が乱れてしまったのか、感銘する何かを身に染みた。
それ程までに複雑な心境の折、落葉が何枚もふらり!ふらりと風に舞っていた。
よくも知らないのに「落葉」なんて歌を、ほんの少し口ずさんでみた。
ちゃんと歌えなかったが、歌う人の気分が何故か理解できた、歌っている私だって気分は好かった。
フランス語歌曲の「枯葉」は、どんな人がどんな人に何を訴えて歌った曲なのかは良く分からないが、ある男とある女の愛の交換だったのでは?
人のことを好きになって、その恋が結ばれなかったり、終わってしまうと、絶望感や生きていくことがつらくなったりする。
人の恋ってそういうことなんだ。
情が深い人ほど、愛が終わった時の悲しさ、辛さというのに落差は大きいのだろう。
そんなお互いの気持ちが終わった時に、この枯葉のような気持になるのだろう。
会社とだって、悲痛なさようならがある。
紅葉で落ちる枯葉と先日の送別会が一つの渦になって、私の頭の中で巡る。
さようなら、と、ありがとうの二つの文節が行ったり来たり、私の頭はそれほど弱小なのか、不思議な一日だった。
樹木と落ち葉、会社と私、、、、





2020年11月4日水曜日

嗚呼(ああ)惜別なり!!  有難う御座いました。

 ご挨拶

本日(20201116)は坂西秀男さんと私・山岡 保の送別会を行っていただいて、中村社長はじめ社員の皆さん、協力会社の皆さん有難うございます。
こんな状態で皆さんの前に立つと、送別会は何だか寂しいようで悲しいような、、、、現在の私は不思議な感慨無量に耽(ふけ)っている。
送別会なので皆さんに向かって有難う御座いましたと言えば済むものの、私の頭に浮かんでくる言葉は、只管(ひたすら)に株式会社パラディスハウスを励ますものばかり。
だからと言って、そんな言葉ばかりならば皆さんを飽きさせてしまうだろう。そんなことも考慮して、今までの在籍中での出来事を文字にしてみたのです。
上手くいかなかったビジネスホテル、2棟まるまる良しではなかったマンション分譲の件は避けた。
このことを考えると、心が砕けるのです。

坂西さんは坂西さんらしく、口述にしてお話しされると思う。

私はパラディスハウスの前の会社からは40年以上勤めたことになって、社長をやらせていただいたことがあり、皆さんに有難うだけではなく、私のこと、私の家族をも合わせて何分も頭を下げつつ感謝したい。
私と坂西さんの送別会だから、この両人が出席するのは当たり前なのだが、私には私の女房をどうしてもこの場に居たせたかった。
この何年間喘息気味で、医者からは他人に害を与えないので、その旨を話しなさいと言われている。
おまけに腰その他の関節にも不具合が生じている。
そんな彼女のことだから、今回の送別会への出席を遠慮がちだった。
私は、この送別会は又別の意味もあるんだと説得した。
お世話になった人々に有難う、有難うでは済まされない、もっと違う意味で何らかの言葉を吐かなくてはならない。
それほど、お世話になったのだ。
ゴルフで例えれば、OBしてロストボールになったようだと言えば、ちょっと誇りが無さ過ぎるなあ。
これからは我が家の事情だけれど、私はものの見事に子育ての一つ一つまでサボった。
全ては女房に任せっぷりで、父親としての評価はゼロだ。
子供4人が立派に育ち、長男を除きそれぞれが住宅を得た。
9人の孫は立派に育っている。
オーストラリア、韓国と出張で廻り回っている長男の子供2人のことについては連絡はないが、自立心豊かな長男のこと、間違いないだろう。
そして、この私の退職後はどう?なっていくんだろう、55年前の脳無しの素浪人に戻るのだろうか。

先日、三浦みどり税理士事務所の三浦みどり先生と昼食時に、先生が話されたことなんだが、熊本、鹿児島県辺りでは他県との競争が上手くいかなかったのか、茶畑を水田に変えている人も大勢いるんですよ、だった。
ちょっと待ってください、私の故郷・京都府綴喜郡宇治田原町の生家では水田を茶畑に変えているんですよ。
あらゆる角度の茶畑があって、その角度の違う茶畑の茶を茶師が巧いこと練り合わせて絶妙な茶、宇治茶を作り出すんです。
かって、私が幼少の頃静岡・三重辺りから大量の茶が我が故郷に持ち込まれた。
そして本物の宇治茶と混ぜ合わせて宇治茶として売り出していた。
そんな理不尽なことが、平気の平左衛門でまかり通っていたのが、不思議だった。
が、そんなまかりならぬことなどいつまでも通用しない、京都府茶業協同組合は何年か前に宇治茶としての原理原則を作り上げた。
宇治茶として売り出すには、本物の宇治茶が半数以上含まれていないと失格だそうだ。
甥(私の兄貴の子供)は、自分の気の合う従兄弟(茶師)とコンビを組んで、貧しいが少しのお客さんとビューティフルでエレガントな仕事に夢中だ。
愕(おどろ)くことなかれ、この甥は今、丁寧に育てた玉露の茶葉を香り高く、まろやかな口当たりの紅茶を仕上げた。
品種の一つである「ごこう」を使用することで紅茶好きの茶師も納得のいく出来ばえだ。
茶師の大物は、茶聖と呼ばれた千利休だ。
これと同じことが我々の業界でも行われている。
同じ仕様、構法で同じエリアで大量に作り上げ、なりふり構わずに売りに出す量販系の住宅販売。
売れなくなったら、採算を度外視して割引きして売り逃げる。
そんな住宅販売は必ず止血されるだろう。

ところが、最近会う人から、退職後、山岡さんは空いた時間に何をするんですか?とよく聞かれる。
今年はコロナ禍に煩わされ、そんな中でも皆さんは無性の努力をしてくれたことに、これまた感謝したい。
そんな環境にありながら私は、社内に新型コロナウイルスを持ち込まないように、毎週通っていた水泳、図書館、月に1度の映画鑑賞を一切避けた。
こんな私がそんなウイルスを持ち込むようなことをしたならば、中村社長からこっ酷(ぴど)く叱られるのではと、腹を括(くく)っていた。
それで、退職後には水泳、図書館、映画、友人との飲酒を元々の調子に戻そうと思っている。
コロナ禍が薄れた状態になれば、声をお掛けしますので、ご一緒くださいな。
足腰が弱まっているので、小さな山々の山巡りは2か月に1山(ひとやま)ぐらい確保したい。
なにを隠そう、樹木からの落下事故の高次脳機能障害による精神的な悩みから、どうしても脱却できそうにないのが一番の苦労だ。
この苦しみは誰にも解ってもらえない。
日本の各地に早稲田大学のサッカー部の先輩、同輩、後輩が暇を持て余して待っている。
ところで、私はシブトク生きて見せます、見苦しいほどシブトク生きます、と言ったって身も心もボロボロに剥げ落ちてしまった。


★後記において弊社の社員の人名については敬称を省かせていただきました、申し訳ありません。
今回の送別会のご挨拶を昔書いたブログも利用しながら仕上げた。
私は相変わらずの能天気、美辞麗句を負(お)った髷(たまげ)の乱文乱筆をお許しください。

皆さんの今後を大いに期待して、括弧つければ「後顧の憂いなく去ります」。

思い出アラカルト

★社名がどうしてパラディスハウスなの。

「パラダイム シフト ハウス」

Paradigm shift House」

英語表示は、Paradi.s House とした。
読み方は「パラディス ハウス」。
新しくアーバンビルドの継続会社を作るのだが、その社名をどうすればいいか?と中村社長から相談があった。

割とその手のことには強いんです、私に考えさせてくださいと、時間をいただいた。
それからの数日が大変だった。
パラダイムシフトという言葉に込められた思想こそが、弊社が新しい時代へと進化を究め続ける拠りどころだと思っている。
中村社長が、「昨日の延長線上に今日があるのではなく、もっと十年、百年、三百年の未来を見据えての摸索を心がけて進もう」と常日頃言っていることは、名付けた創業者としての誓いでもある。
現在の中村丸は、まさしくこのシフト直航のような気がする。

パラダイムは「認識の仕方」「考え方」「常識」「支配的な解釈」「旧態依然とした考え方」などの意味合いで使われている。
パラダイムシフトはこの過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられている。
厳密な定義はなく「発想の転換」や「見方を変える」、「固定観念を捨てろ」「常識を疑え」などから始まり「斬新なアイデイアにより時代が大きく動くこと」まで、さまざまな意味で使われている。
狭義には、その時代や分野において主流だった(問題を抱えている)古い考えや考え方に代わり(その問題を解決できる)新しい考え方が主流となることを指す。
私が住宅産業に携わってからの45年の間にも、小さく、大きく、世相の変化が目まぐるしい。
価値観の変化もすさまじい。
その変化に当然対応していかなければならない。
又、歴史の大きな変化に見間違うことなく、真に科学的でありたい。

何を隠そう、このパラダイムという言葉はガリレオ・ガリレイの少年の頃のことから始まったと思っている。
ガリレオ少年は父親に連れられてある晩餐会に出かけた。
周りは大人ばかりでつまらない。
何か面白いものはないかと思って見回すと、天井でシャンデリアが揺れていた。
彼は最初のうちはそれをぼんやり眺めていたが、そのうちににその揺れに一つの特徴があることを発見する。
揺れ幅がどんなに小さくなっても、シャンデリアが往復する時間は変わらないというものだった。
いわゆる振り子の法則である。
彼はそれを自分の脈拍を使って確認するのだ。
宗教裁判では「人を惑わす不届き者め」と言われたが、ガリレオは「それでも地球は回っている」という有名な台詞で反撃した。
コペルニクスの地動説を支持したのだ。

★本社ビル購入
本社にしているこの土地建物を約15年前に取得させてもらった。
場所は横浜市保土ヶ谷区天王町2-45-32
近所には野村不動産が所有するビジネスセンターがある。
オフィスビル群にレストラン、スポーツセンター、公園を備えている。
大小10棟の建物が中央公園「ベリーニ公園」を囲んだ構成になっている。
オフィス勤務者のほか、近所の住民らが公園内を散策するなど、労働者の場と憩(いこ)いの場を合わせた施設だ。
昔、この地にはビール工場があり、ビール瓶を作る日本硝子(現・日本山村硝子株式会社)の横浜工場があった。
よって、この地に向かって「ビール坂」と呼ばれる坂もある。
この日本山村硝子は硝子瓶、プラスチック容器、ニューガラスを製造販売する会社だ。
この土地建物の売買契約のために、日本山村硝子の本社・兵庫県尼崎に出かけた記憶がある。
これからが、この項目の核になることです。
そのビール瓶をつくる工場の、製品を作るための成分を検品、チェックする施設が我が本社の以前の姿だった。
流石に上場会社の検品場だけあって、地下付き地上3階建て、床面積が広く、小さな間取りがちょこちょこあるわけではないので、仕事するのになんとも都合よかった。
車の駐車台数だって、詰めれば15台は可能だろう。
社員が多くなった何年か前でも、その収容能力は余裕綽綽(しゃくしゃく)だった。
何かと銀行のお世話になるのだが、この本社の存在は大きかった。
同業の不動産屋さんからも,羨ましがられたものです。
中村丸の一層の飛躍に繋がることでしょう。

★入社してくれた人々
私が入社・面接において直接対応しなかった人々が多いにいるが、今回は私が直接お会いした人々について、その思いを書いた。
和泉、桜庭、古舘、坂西、向坪、浅見、細川、佐藤。

★小さな男の子の子育てと年老いたご両親との生活、大変な時期だった和泉。
彼女の入社したのはほぼ22年前。
彼女の仕事に対する熱意は我々にとっても反響があり、熱風そのものだった。
社内一番の元気印(げんきじるし)、今や大物の風格まである。
こんな言い方をすれば和泉にお叱りを受けるかもしれないが、私の個人的な考えでは、頑張っている人が好きで、いつまでも長く一緒に仕事をしたくなる。
苦しいことがあっても、実に冷静なのが立派だ。
息子も大きくなって、20歳を随分早くに通り過ぎた。
息子さんは立派な会社に入社した、和泉以上に吾輩も嬉しい、後のことは息子に任せましょう。
その会社は日産自動車だ、私が中学校の頃は日本の自動車産業を担っていた。
私の言動が浅はかに思われたくないのだが、年老いた人や障害のある人と一緒に暮らすことは、並み大抵のことではない、和泉は難なくこなしいる。

★北海道の某住宅メーカーの設計士だった桜庭。
最初は北海道の某住宅メーカーの営業マンとして来社したが、そのときに桜庭は弊社のことを気の向く会社と思ったのだろうか、その後何か月後か何年後かに求職でやってきてくれた。
設計者としては、弊社にはかって仲間だったデザインを重んじる関口さんがいた。
関口さんが独立した後、
社内に設計士がいてくれることは何かにつけて有難かった。
彼の鶴見での自宅建設の際には、拙宅の前の住宅に住んだこともあった。
出身の北海道の冬季のことを話してくれるのだが、北海道のことを何も知らない私にとって興味深いことばかり。
話を聞くだけで、身震いすることもあった。
桜庭に与えられている仕事の量は、日に日に増えてきたが、尚一層の踏ん張りに期待したい。
愛嬌ありで興趣ある奥さんのことは、社員全てが魅力的に感じている。

★ある施設のレストランで調理部にいた古舘。
かって私が大学を卒業して入社した会社に、箱根地区の経理係としていたのが不思議な縁だ。
私の方が、多少先輩なのだろう。
その事業所は全て、私も仕事で足を運んだ所ばかり、ホテル、旅館、ゴルフ場、支店事務所だ。
レストランの調理部にいた前が、恐れるなかれ、私が担当していた湘南地区江の島のホテルだった、そのホテルの名前をここは内緒にさせてください。
そのホテルの敷地の測量、建物解体見積り、それからのホテル建設の図面作成に関口さんとオーナーと打ち合わせをこまかくやった。
そして何年後かの開業時には、裏方の事務屋さんとして頑張っていたなんて、ち~とも知らなかった。
私だって、表立ってお祝いの表舞台には居させてもらった。
彼の故郷は岩手県の雫石で、元居た会社はそこにスキー場を営業していた、雫石スキー場だ。
そんな彼だが、今は弊社の金庫番。
彼の許可なしでは会社の資金を1円たりとも出してくれない。
いつも静か、温厚で仕事に夢中だ。
昼飯にうどんを食いに行った時、医者の指示を受けて禁煙したときの苦しさを話してくれた。
人間ドッグで体が弱っていることが指摘されて、已むに已まれず病院へ行った。
そこで、受けた医師の指示は余りにも激しいものだったこと、薬の影響でゲロゲロ吐いたそうなのだ。
最近の私の昼飯の最たる友人だ。

★弊社が協業していた会社から坂西。
坂西が以前に経営していた工務店に、弊社は建売住宅を一括発注させてもらっていた。
弊社からの発注はそれほど多くはなかったが、坂西は懸命に働いていた。
坂西の会社は、私の住宅の近くだったので、頻繁に顔を出した。
彼の愛用の自動車は日産自動車のスカイラインだった。
それから数年後、坂西の自宅を見ることがあって、坂西の奥さんに近いうちにお邪魔しますので、連絡くださいとお伝えした。
この証(あかし)は誰にもわからないし、話したくない。
それから、坂西との不思議な付き合いが再開され、継続した。
坂西の能力は十分分かり切っていたから、ガミガミゴロゴロ口を出すことはなく、予定通りに進んでいった。
先ず入社したのは協業会社、それから弊社に移動した。
が、今、二人揃って退職するとは、これもまた不思議なことだ、縁だ。
クレームが発生しても、坂西は慎重な言葉遣い、身振り手振りで折衝してくれた。
頼りになる友人だと言えば、怒られるか。

★弊社が協業していた会社から向坪。
弊社が事業資金から仕事の仕組みを共同で行う協業会社は、弊社にとって重要な相手だ。
その会社を向坪が自己の都合で辞めると聞かされた私は、先ず、向坪がお世話になっていた上司、協業会社の社長さん、その人に了解を得ようと電話した。
そしてその人にお会いして了解を得た。
仕事は滅法丁寧で、抜かりなくやってくれる人で、当社では大事なスタッフだったんですよ、大(おお)褒(ほ)めの言葉だった。
人間は何処で働こうがそれは本人の自由ですよ、私がなんじゃかんじゃと言えないものですと返答された。
それから、向坪の入社の準備に入った。
仕事っぷりは、協業さんから聞かされたように、「ものの見事」な人物だ。
協業会社に入る前は、立派にリフォーム会社を自営していた人だったので、前記の「ものの見事」な意味がよくわかった。
今は、スタッフの仕事の管理その他、実に忙しく仕事をこなしてくれている。
現在、向坪は株式会社コーワーカー横浜の社長さんだ。

★浅見、細川
アーバンビルド問題が一悶着(ひともんちゃく)が付き、これからパラディスハウスを中心に頑張っていこうと、再出発のスタートに着いた。
そんな環境のもと、私は中村社長と相談してから、浅見、細川に対して、「今一度我が社に戻ってきてくれないか」と声を掛けた。
両君とは、辻堂だったか茅ケ崎だったか、駅の近くの居酒屋で話し合った。
両君はその場で結論が出ないのは「当たり前だのクラッカー」だった、そうりゃそうだろう、今後のことを考えるには奥さんなんかに相談することこそ大事な筈だ。
そして何週間後、両君と何処かのファミレスで会った。
その時も、最終的な答えはもらえなかったが、二人は何かを考えているようには思えた。
それから、どんな連絡だったのか記憶はないが、やりましょうとと答えてくれた。
それからの両君の頑張りには目を見張るものがあった。
頑張ってくれた。
パラディスハウスの興隆は間違いない、近いうちに復活することを確信した。

★佐藤
浅見、細川が再び弊社に戻ってくれてから3か月か6か月経った頃、私は佐藤のカンバックを考えた。
仕事を真剣に取り組んでくれるその姿勢が気に入っていた。
中村社長にもその旨の了解を取った。
それに、この業界での長年のキャリアは、弊社にとっても捨て難く懸命にカンバックを依頼した。
佐藤も前記の浅見、細川同様、そんなに簡単には私の申し出に応じてくれなかった。
弊社を辞めてから、随分時間をかけた後、仕事をやらせてくださいと返答を受けた。
それからの佐藤の仕事は、生き返った様にピッカピカ、実力を大いに発揮してくれている。

★協力会社の皆さん。
ベストペインター株式会社の濱本 亮社長、有限会社日翔の井上 靖社長、株式会社アースの土田淳一郎社長、三浦みどり税理士事務所の三浦みどり社長。
日々の仕事ではいつも大いにお世話になっています,有難う御座います。

★浜本さんとの付き合いはもう何年になるのだろうか。
浜本さんが独立前に勤めていた会社に私の息子がアルバイトをさせてもらった。
そこで息子に聞いたのですーーー、
草太(私の長男)、一体全体、あの会社で一番仕事をやっている人はどの人や? その返答は、あの体のでかい人が一番頑張っているんやときた。
その手の問答では、さほどのことがない限り驚かない私なのに、余りにも思っていたことと事実が違うことに吃驚仰天、驚倒した。
浜本さんは弊社に来社した際、必ず私の机に向かってきてくれた。
あ~、お~い,ただそれだけのご挨拶なのだけれど面と向かって話すことは、なんてことのない話ばかりだけれど、私は嬉しかった。
各種の仕事(クレームも含めて)に精をだしていてくれている、このことについても感謝仕切り。
10年ほど前なのか、奥さんの運転する車で会社に来られたことがある。その美しい人に吃驚こいた!
別嬪さんだった、未だに脳裏に残っている。 
浜本さんは弊社の仕事に関しては、すごく早く見積もりを出してくれるのに、「我が家の外壁塗装の見積もりはいつになるんですか、いつやってくれるのですか」と聞いてみた。
気長な私ですからいつまでもお待ちします。
工事日はいつになってもいいのです。

★弊社でひと時リフォーム専門の業者さんを探していた時に、紹介されたのが井上さんだった。
性格が紳士的で仕事は無性に丁寧な人だよ、と言われていた。
会ってみてホンの数分間だったのに、井上さんの人格に惚れてしまった。
私が二宮の物件の庭の草掃除に行った時、奥さんも現場に来てくれた。

ただ、それっきりのお付き合いなのだが、印象深い人だった。
井上さんのお兄さんのことも思い出に残っている。
コロナ禍、井上さんの住居は平塚、弊社では今、日翔さん用の仕事を見つけるのにスタッフは必死だ。

★土田さんの奥さんと私の二女が小学生時代にひどく仲がよくて、その旦那が社長を務めるアースとこんなに仲良く仕事ができるようになったことは、驚天動地、嬉しくてならない。
土田さんちと我が拙宅とは300メートルほどのビタビタ接近、この縁も不思議な気がする、この距離は遠からず近からずの好立地。
身長はさほど高くないのに、やる仕事はキン肉マンだって逃げ隠れするほどの強烈千万。
力の神様が居たとしても、押(お)っ魂(たま)消(げ)るだろう、それほどの鬼コブラ社長なのだ。
その証拠に土田さんの裸体を見せてもらえば、何もかも一目瞭然だ。
丈夫な肩の筋肉、胸の筋肉の高まり。
顔の筋肉は流石(さすが)にしんどそうだが、重たい荷物だってエ・イ・ヤ・コ・ラ・サと持ち上げる。
アースには小柄なスタッフもいるが、今じゃ社長さんにだって十分負けない力強さを感じる。

★三浦みどり税理士事務所の三浦みどり先生。
弊社の経理、財務関連のお世話になってから何年経つのだろう。
私は綺麗な女性との付き合いが少ないからかもしれないが、三浦さんとお会いすると私の秘められた何かが嬉しく騒ぎ出す。
淑女とか綺麗な人、貴婦人だと言えば怒られるかもしれないが、麗しい人であることは間違いない。
この2か月は、三浦さんとお食事をする機会に恵まれ、公私に亘っての食事雑談を楽しんでいる、誰も二人の関係を疑っている奴はいないのかなあ。
私の脳構造も変質してきたようで、今まで手を付けなかった作家の作品も読み出しました、抗論してくださいな。
私の知らなかったみどりさんが、それなりに肖像されたようだ。
私が会社を辞めても、それなりに嫌われないように出社?させてもらう心算なので、どうか三浦先生お付き合い願いたい。
経理・財務以外にも先生からのアドバイスを今後ともお願いします。

高次脳機能障害
今から7年前、私は樹木の上で枝を切る作業をしていて頭から落ちて重症を受けてしまった。
前面の道路に落ちたのだが、頭のどこが道路に直面したのか記憶がない。
2,3日の意識不明のころは、無意識に布団の何かを必死で噛み切ったり、夢中でシートを引きちぎった。
4か月の入院生活でなんとか人並みに喋れるようになり、車椅子を脱却して歩くことだってできるようになった。
そして、退院して自宅に戻りたかった。
それから高次脳機能障害に対するリハビリテーション専用の病院に転院した。
この障害とは、てんかん発作に各種の精神症、記憶力の低下、言葉をうまく発音できない、ものの理解が上手くできない。
治りたい意識が先行し、看護婦さんや医師に対してもいい患者になりたかった。
でも、夜中に聞こえる隣りのベッドのオジさんの話を異常なことを目論んでいるのではないかと思いこんだ。
それを看護婦さんや私の見舞いに来てくれた人びとに話して、山岡さん、あなたは狂っているよ、と「変な一言居士(いちげんこじ)」扱いにされた。
退院後、昼間だって一人で歩くコンクリート階段が怖かった。
夕刻、電信柱の陰に何か不思議なものが潜んでいるのではないか、遠くから見る商店の看板の絵柄が恐ろしいものに見えて近づくのが怖かった。
朝会社に向かって家を出るとき、200メートルのところに30段の上り階段があり、その階段を通り過ぎるまで女房は見張っていてくれた。
私のことをそれほどまでに心配していてくれたのだ。

落下事故後、二つの病院を退院した後、3か月ごとに病院へ行って退院後の調子を見てもらっていた。
そこで、大丈夫ですかと聞かれると、私は「大丈夫なんですけど? 頭が痛いような、痛くないような」と話すと、必ずⅯRI検査をした。
これは強力な磁石でできた筒の中に入り、磁気の力を利用して体の臓器や血管を撮影する検査。
何度も検査をしたが内容は変わらず前回、前々回と変わらないフイルムを見せられた。
医師には薬を飲んで療養しているんですから変わってもいいのではないか?と質問したら、戻ってきた答えは、脳の構造は今後ずうっと変わらないものです、だった。
そうすると、この状態を死ぬまで持続することですかと尋ねたら、そうですね、だった。
それから、私の脳は変則的なまま。
私にとってこの高次脳障害の一番怖いのは、感情が高ぶり冷静さを失うことだ。
女房に話し掛けるにしても、私の答えは一方的になり結論を速めてもらう。
そうこうしていると、違う問題が発生してきてその答えも早く求める。
結果、夫婦の痴話喧嘩になってしまう。

それからこの落下事故とは関係ない筈なのに、大学のサッカー部時代に痛めた腰回りの骨が再度ガタガタになった。
どんなに痛くなっても、資金の関係上お医者さんにはお世話になっていない。
最悪の腰椎椎間板ヘルニアの発生だ。
お尻や足の痛みが激しく、しびれが筋肉の隅々を走った。
腰や足が動かしにくくなり、力が入りにくくなった。
皆と一緒に歩くことが辛(つら)かった。
落下事故とこの腰痛で、気分がほぐれなくなった、辛かった。
この高次脳機能障害と腰痛に併せて寄せてくる頭痛で、弱(よわ)り目(め)に祟(たた)り目、山岡丸は破綻寸前になってしまった。

2年間の素浪人生活と大学の4年間
京都府の貧農の家で生まれて地元の小中学校、京都府立城南高校を終えて2年間の浪人生活の末、早稲田大学のサッカー部に所属した。
誇りとすれば、全国大学サッカー選手権大会と関東大学サッカー選手権大会の2冠に輝いたことだ。
恥ずかしながら、サッカーの技量技才に貧しい私だって、関東大会で2回全国大会で1回出場させてもらった。
早大のサッカー部史上、極めて稀な選手だったようだ。
生家にも電話でその快挙を告げたけれど、嬉しいの一言も言ってくれなかった。
父母も兄も、スポーツについては無関心だった。
高校三年生の秋頃。当時3年生は二人だけで、その友人に「お前、高校卒業したらどうするんや?」と尋ねると、「俺は中京大のスポーツ科学部に入って、サッカーをやるんだ」と答えた。
その返答を聞いて、俺は何も考えてなかったことに、血も骨も疼(うず)くショックを受けた。

それから、私は同じ戦いに突入することになった。
今まで、家族の誰にも大学進学の話をしたことはないのと、勉強だってどの教科にも赤点を受けないだけの貧相な勉強ぶりだった。
就職については、生家の遠い親戚が田舎では大きな茶問屋をやっていて、その会社の大阪支店開設の要員、茶師になることだった。
友人からの返答のあと、2年間かけて勉強をすることを決意した。
どうせ大学に入るなら、サッカーに関して日本一の学校は早稲田、他にも法政、明治、中央を受けた。

「ワセダ ザ ファースト」(早稲田は常にチャンピオンであらねば)
旧合宿所には、このフレーズが壁や天井、床などそこらじゅうに書き込まれていた、当然書き手の姓名も併せて。
早稲田大学にどうしても入りたいと思う気持ちは高まり、心臓までもがブルブル、ドクンドクンと鳴りはじめた。
受験した学校はどれも合格した。
主目的なのがサッカーをやることだったから、勉強だってより深くより広くやることはない、過去の入試問題集を知るだけで大いに理解できた。
受験勉強の方法は簡単に見え透いた。
ここで脳の中心の鍵となるのは、当時旺文社が纏めていた「基礎力水準法」だった。

この法則に則って英語、国語、日本史をやる。
英語は赤尾好夫の「豆単シリーズ」の基本単語集、基本熟語集、書き換え特集だけをやる、そして70点以上を確保。
国語はあれもこれもやらないで、唯、新聞を隅から隅まで読み、書き、読解することを徹底的にやって、試験では70点を確保。
そして日本史については、どんな問題が出ようがどんなことをしても90点以上、95点を確保すること。
そうすれば、希望している学校ならばパスすることは解っていた。
焦ることはない、2年間でやりきればいいのだ。

受かったとしても、4年間の生活費と学校に納めなくてはならない授業料はどれくらい確保しておかなくてはならないのか、ぴったりした数字は解らない。
何故、そこまで気持ちを高ぶらせているのかと言えば、この費用の全てを自分がこの2年間の浪人生活のアルバイトで稼ぎたいからだ。
親のお世話にならないで、自らお金を貯めるのだ。
その結果380万円なのか480万円なのか手に持つことができ、農業協同組合の貯金にして母に任せた。
浪人生活の2年間の、1年目2年目は半年はドカタ稼業、半年は受験勉強。
関西電力の彦根の山を越える鉄塔建設の基礎工事がメインだった。
浪人生と言えども頂く賃金は大人の90%程度、そんなとんでもないことを友人らには話せなかった。
大学へ入学後、そのお金から私が連絡する毎に、母が送金してくれた。
その送金の作業をしてくれたのは郵便局の小中学校同級生のHさんだった。
母に任せたお金には当然のように限界があるので、送ってもらうお金はギリギリの限少にしたので、私の生活は嫌になるほど貧困だった。
自作自演だ。
それでも、学生仲間はよくぞ気持ちよく付き合ってくれたものだと感謝している。
私の生活費から授業料のことを仲間に、これほど細かく話したことはなく、皆も知ってか知らずかよくぞ付き合ってくれた。
数多(あまた)の先輩、後輩と同輩、監督、コーチに感謝、感謝の大乱舞。
練習は絶対休まなかった。
学校へは行かない、そんな時間があったら何でもいいから自分一人でできる練習をやった。
レギュラータイムの練習が始まる前の1時間は近所の中華料理屋さんでアルバイト、練習が終わったころにやってくる早稲田実業の練習にも参加、その練習が終わっても私は一人グラウンドに残ってヘッディング、ランニング。
練習休みの月曜日には走りまわった、吉祥寺、三鷹、武蔵境、国立、上石神井、井の頭公園、石神井公園、善福寺公園、武蔵関公園、多摩湖までだ。
3年生の夏休み、新宿駅から数分のところで京王プラザホテル新築工事の窓側のコンクリートの枠組みを作った。
これも、何人もいた大学生のなかでトップクラスの日給をいただいた。
昭和45年11月25日、作家・三島由紀夫が盾の会を率いて、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけ、自らは割腹自殺した三島事件の報道を観ながら、ダンボール会社でアルバイトをしていた。
そうして、縁あって西武鉄道の基幹会社である国土計画(株)に入社し、同期生と違って私だけは国土計画、プリンスホテル、西武鉄道、伊豆箱根鉄道、近江観光の慣れない宣伝部の企画を担当をさせてもらった。
そんなお勤めが10年間。
その業務のなかで和田さんとも付き合うことができ、その後色んなお世話になることとなった。
33歳頃、そんな手慣れない仕事に邁進していた矢先、隙間風が吹いたのだ。
午前中に吹いた隙間風の勢いは、午後に直属の部長に退社願を提出していた。
余りの急転直下の激しさに、女房も空いた口が塞がらない状態だった。
そんなことに、私はメソメソする男ではなく、たまにはこんな自由自在奔放な時間を過ごせるのは、棚から牡丹餅の心境だと思った。
そして西武系会社からの退社、アーバンホームズの設立になった。
私が33歳の頃だと思われるので約40年前のことだろう。
その後の仕事については何も此の書にて公に話すことはない。
アーバンビルドの破産を何とか乗り越える努力は、中村社長をはじめ皆さんの努力が実を結ぼうとしている。
破産はしたけれど、どこまでもやれるだけやりたいと歯を喰いしばってくれた中村社長。
驚くことなかれ、今、立派な会社に様変わりした。
ここで学ぶことがある。
親が子供に、または友人同士で、彼奴(あいつ)は彼奴よりも頭がいいとか悪いとか、そんないい加減なことを放吟しないで欲し。
そんな余計なことを、貴方はどうして判断できるのですか、そんなことはできないし、してはいけないのです。
そんなことを素浪人の2年間、大学での4年間のサッカー部生活で学び取った。
30年ほど前に、自宅の所属する権太坂自治会の子供を集めてのサッカー教室をさせてもらった。
スポーツの世界こそ、父兄は子供たちのプレーに対して褒めることはいいが、貧しいプレーに対して批判ぽく声援することは避けるべきだ。
才能の瘤をぶっちぎるばかりか、才能の芽の吹き出しを刻みこむことだってあるんだ。
誰がどのような選手になるなんて、分かりっこないのだ。
誰もが文句の付けようがない思わぬ天才! 飛び出し鬼才! を生みたかった。

★金融会社と弊社のお付き合い
弊社は以前からたくさんの地元の金融機関から随分お世話になってきた。
都市銀行、地方銀行、信用金庫、ノンバンク合わせて15ほどの金融機関から何らかの融資をお願いしている。
金利や手数料に関して多少の違いはあるが、そのどこの金融機関も弊社に対する評価は高く、感謝感激のお付き合いができている。
この項目で書きたいことは、ある二つの金融機関とのことだ。
一つはセゾングループの1社と、もう一つは映画の製作・配給などもやっている会社のことだ。
この二つの会社は、どちらかと言うと西武百貨店の系統、私も国土計画、西武不動産に10年勤続したものだから、あっちこっちに知り合いがいて、コミュニケーションは抜群だった。
両社とも言えることだが、両社とも建売会社への融資専門だったのが、弊社のような中古住宅の転売事業会社への融資もやりだしたことだ。
新しくスタートした会社などは、担当者の人だって今までとは違う仕事を会社の都合で担おうというわけだから、そのことに対する蟠(わだかま)りは大きかったと思われる。
役員さんが矢面にたって相談の窓口になられた。
当時社長だった私と、今の中村社長と二人して、事業の流れ、仕事の流れを説明して、金融機関としての誤り易いチェック箇所と、現物の市場での評価などをゆ~ら~り、ゆ~ら~りと影日向なくお話しした。
それが陽に影響して、金融機関にも喜んでいただけるようになった。
そのように陽に影響してくると、次に互いに注目するのが、1年、半期の予算達成の重荷だ。
これも遺憾なく達成した暁には、2年後3年後4年後の予算と予算達成の目標だ。
弊社のような小さい会社なら、その予算達成は目(ま)の当たりで理解できるが、融資銀行のような大きな会社ならば、会社全体の予算があって、与えられた部分での予算達成、我々には判らないことが色々あるだろう。そのように融資してくれた会社と20年、30年と付き合うと、そこには他人には言えぬ不思議な同一(統一)感が生まれ、新しい仕事も生まれるものですね。

●早稲田大学ラグビー蹴球部 最強のプロセス
著・現監督 相良南海夫(さがら なみお)
孫の一人が早稲田実業高校ラグビー部に今春入部した。
彼は、入部間なしなので出場はできなかった。
11月8日、秩父宮ラグビー場にて、国学院久我山に30-7で倒し、2年ぶり7度目の花園出場権を得た。
そして、私には前の本が手に入った。

その本の内容は以下の通り。
本当に強い組織は個人を成長させる。
まず学生たちに答えを出させる。
私はコーチ陣に指導方針を示した。
答えを我々が出さない。
私が望む主体性を育むためには、これまで通りコーチたちが答えを出して、「これをやれ」と言うのはよくない。
自分たちで答えを導き出す。
「君たちはどうしたいの? 好きにやったら」。
そこをスタート地点にした。
うまくいかなければコーチに相談する。
コーチはヒントを与える。
そこでまた考える。
コーチが答えを提示して、やらせてしまう方が楽だが、それでは選手たちの主体性が育たない。
それがないと、ラグビーが上手にならないということだ。
もっと重要なことは、彼らの人間としての成長もない。
私は「こうしろ」と断定口調は使わない。
学生たちに考えてもらいたいからにほかならない。

このようにして、混迷した組織を立て直し、11年ぶりの日本一奪還をなしえた。







2020年10月12日月曜日

鎮魂 石川啄木の生と詩想

           著者・遊座昭吾(ゆうざ しょうご)
発行所・株式会社里文出版、
価額は110円

いつのことだったか忘れたのだが、この石川啄木と東京芸術大学の教授のことを、新聞か雑誌から仕入れて、そのことをブログに書かせてもらったことがある。
ところが今回の本は、啄木に非常に近い人が著者で、著者①と啄木②は言うまでもなくシューベルト③に東京芸術大学の音楽部オペラ科の大町陽一郎教授④のことを揚げていた。この四人の相関関係と言ってしまえば、ちょっと下種(げす)なヤマオカらしいか?

この本もいつもの通り古本の安売り店で買ったもの。
最初の2,3ページまで読んで余り興味が沸いてこないので、枕の奥に置いておいた。
必ず読みたくなる日がくるだろう、その節にはゆっくり読もうと決めていた。ところが、10ページ辺りで思わぬ内容にギョットきた。

繰り返すが、四人とは著者と啄木、大町陽一郎教授とシューベルトのことだ。


岩手県盛岡市渋民にある万年山宝徳寺に啄木の父・石川一禎が入山した。
その時には幼い啄木もこの寺で過ごした。
この本の著者である遊座昭吾の父が祖母と共にこの宝徳寺に迎えられ、啄木の父一禎が住職を罷免され、石川一族は寺を去ることになった。
著者が石川一族について知り始めたのは、祖母の怨念に満ちた断片的な語りからである。
そして、やや正確に啄木のことや、石川一族と遊座家との因縁を知ったのは、父のことばからであった。
父のことばは、しかし醒めていた。
啄木の愛好者が訪れると、かって啄木の愛した部屋に通し、時を惜しまず、楽しげに語り続けていた。
祖母の怨念は、何故か父に継がれてはいなかったようである。
著者の兄の心入れで、一偵和尚の墓も、著者の父、兄、祖父とともに万年山の墓所に眠り続けている。
境内に歌碑を建立し、啄木一族の鎮魂に努めた。


この四人のこととは、、、、この本「鎮魂 石川啄木の生と詩想」より。
国際啄木学会北海道大会(1993)で、私は大きな人との出会いをもった。
世界的に活躍されている指揮者で、現在東京芸術大学の大町陽一郎教授である。

だが、そうした世界的音楽家である大町氏と国際啄木会とは、私の気持ちの中でどうも結び付かなかった。
しかも、大町氏は大会の全日程に参加されたのである。

だから、私は敬意をこめて、参加への謝意を述べたが、「それにしても、先生がどうして啄木をーーーー」と付け加えねばならなかった。

そのとき、即座に返して下さった大町氏のことばに、私は衝撃を受けた。
「私はどうしても啄木の歌を読んでいると、シューベルトの音楽が聞こえてくるのです」と前置きし、啄木とシューベルトに対するご自身のの思いを熱く語って下さったからである。

世界の音楽を胸に、心にふくみ、その音の世界に常に臨んでいる音楽家が、人と生活と自然をうたう啄木の三十一文字を、音に翻訳し、それをシューベルトの音楽に同調させている。
私の受けた衝撃は、啄木の歌が音として西洋音楽に通じていることへの驚きであった。
「トーンディヒター」、「音の詩人」と称され、チフスで三十一歳で亡くなった西洋、西洋のシューベルト。
一方、国民詩人と呼ばれ、胸の病で二十六歳で亡くなった東洋、東洋・渋民の啄木。
ともに放浪し、漂泊した。
だがそのような短い生涯の中で、一人は抒情的音楽を創造し、音楽の歴史にエポックを画した芸術家、かたや抒情的文学・歌を創造し、万葉集以来一行で記すきまりを、三行書きにする異形のスタイルを編み出して、歌の文学史に登録された芸術家である。

この二人は、ともに世間の習慣にこだわらず、自由に生き、それだけに苦悩し、自己の芸術の峰を築いた音楽家、文学者である。
たしかにその生き方は似ている。
それにしても、世界的音楽を知り尽くし、その音楽を胸の中で奏でられる大町陽一郎氏の言葉には驚いた。

2020年10月2日金曜日

抗議のマスクと一編の詩

 20200927朝日新聞・朝刊/総合3

日曜に想う 編集委員・福島申二

抗議のマスクと一編の詩


決勝までの試合数に合わせて7枚の黒いマスクを用意し、すべてを使い切って頂点に立った。マスクには警察官などの暴力で落命した黒人被害者の名前が一人ずつ、計7人記されていた。

テニス全米オープンでの大坂なおみさんの思いの丈を表現した行動に、胸に浮かんできたのは、やはりこの一編の詩だった。川崎洋さんの「存在」という作品で、詩の末尾はこう結ばれる。


「二人死亡」と言うな

太郎と花子が死んだ と言え


人は誰もその名前でいとなまれた人生がある。かけがえのない「存在」を数字の中に置き去りにするな、という含意詩句であろう。それは3週間前に当欄に書いた、シベリア抑留犠牲者の名を読み上げる追悼にも通じるものがある。

忘れることにあらがう。思い出してもらう。知ってもらう。そして考えてもらう。大坂さんにも同じような意思があったことを報道で知った。

この人の言動には、人に何かを気づかせるものがある。「あなたの身に起こっていないからといって、それが起きていないということになりません」。5月にツイッターで発信された言葉に、黒人への差別という域をこえて、他者の苦難への無知や無関心にはっとさせられたのは、わたしだけではなかったと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

大坂さんが優勝したあと、自宅の本棚から、米国の批評家で作家だったスーダン・ソンタグ(2004年没)の「他者の苦痛へのまなざし」(北条文緒訳、みすず書房)を抜き出してみた。

こんな個所に傍線が引いてある。

「彼らの苦しみが存在するその同じ地図の上にわれわれの特権が存在し、或る人々の富が他の人々の貧困を意味しているように、われわれの特権が彼らの苦しみに連関しているのかもしれない」

そう考えることが大切と著者はいう。

「特権とは富豪とか高貴とかいう意味ではない。たとえば、日本のようにまずは穏やかに統治された国に居住し、抑圧されたり、飢えたり、戦火におびえたりせず、遠くの人々の苦難をニュース映像などで視聴できる立場にいることをさす。つまり私たちのことである。

同情は無責任だとソンタグは言う。善意であっても同情は「われわれの無力と同時に、われわれの無罪を主張する」からだ。理不尽は私のせいではないし、私にはどうしようもないーーそうした意識のことだろう。言われてみれば同情にはどこか甘美な諦念が含まれている。

思い浮かべるもう一編の詩がある。石川逸子さんの「風」という作品だ。次のような一節がある。


遠くのできごとに

人はうつくしく怒る


自分からは遠い理不尽に対して人は美しい正義感を抱く。だがそうしたときの怒りや、他者の痛みへの共感は、感傷や情緒のレベルに終わりやすい。思えば人種差別について、わたし自身どれだけ主体的に考えられているだろうか。大坂さんのリアルな行為を映画のシーンのようにいっとき心地よく消費して終わらないよう、ここは自問しなければなるまい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

チャップリンの名作「独裁者」が米国で公開されて80年になるという。世界にファシズムの暗雲が広がった時代、映画の結びのヒューマニズムあふれる名高い演説は多くの観衆の心を打った。

「わたしたちは、他人の不幸によってではなく、他人の幸福によって、生きたいのです」--。時をへた今も演説の一語一句が胸に響く。言葉の輝きが失せないのは、しかし、おびただしい「理不尽な不幸」が地上から消えていない証しでもあろう。どの国に生まれたか、どんな肌の色、どの性で生を受けたかーーそうしたことによって尊厳がひび割れてしまう世界は21世紀も続いている。

大坂さんの「抗議のマスク」には批判もあると聞く。しかし勇気とともに行動に移した胸中には、こんな言葉が鳴っていたのではと想像したくなる。「君が他人の始めるのを待つ限り、誰も始めはしないだろう」。反戦の哲学者、フランスのアランが残した忘れがたい真実である。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

追記

 人種差別撤廃を訴え、黒人被害者の名前入りマスクを着けて今年の全米OPに臨んだ女子テニスの大坂なおみが、12日の決勝戦後にその意図について、「人々が議論を始めるきっかけを作りたかった」と語った。ニューヨークで8月31日から9月12日までの間に撮影(2020年 ロイター/Robert Deutsch and Danielle Parhizkaran-USA TODAY Sports/via REUTERS)

[ニューヨーク 13日 ロイター] - 人種差別撤廃を訴え、黒人被害者の名前入りマスクを着けて今年の全米オープン(OP)に臨んだ女子テニスの大坂なおみが、12日の決勝戦後にその意図について、「人々が議論を始めるきっかけを作りたかった」と語った。

大坂は12日のシングルス決勝を制し、自身3回目となる四大大会優勝を飾った。日本人の母とカリブ海の島国ハイチ出身の父を持つ同選手は、1回戦から決勝までの試合数に合わせて用意していた7枚の黒人被害者の名前入りマスクを全て着用。最後のマスクには、2014年に米オハイオ州で警官の発砲を受け、12歳で亡くなった黒人少年タミル・ライス君の名前が入っていた。

決勝戦後のインタビューで、マスクを着用した意図を聞かれた大坂は「人々が(人種差別についての)議論を始めるきっかけを作りたかった」と回答。「より多くの名前を見せたいと思ったことで、もっと勝利したいという気持ちが湧いたように思う。それが私をさらに強くした」と続けた。

2020年9月25日金曜日

宇治茶を餞別に

 餞別とは、転職や退職、あるいは旅行などに際して会社や友人から贈ることが、一般的に常識。今回は私の感謝感謝の退職だ。此の12月15日に私は(株)パラディスハウスを退職する。並ある品々のなかから宇治茶を選んだ。私の方から今までに何かとお世話になった方々にお礼を込めてお贈りしたいと思った。それで何でお茶なのかと思われる方もいらっしゃると思い、この一葉を書いてみた。先日、生家の跡取りの甥っ子(兄の子供)と、お茶のことを話す機会があった。

私の生家は京都府綴喜郡宇治田原町南。郷里は宇治茶の産地だ。

2003年(平成15年)、宇治茶ブレンドの定義を(公社)京都府茶業会議所 京都府茶業組合で決めた。何故なら、子供の頃、私の生家の100メートルそばの茶問屋に静岡や三重から大きなトラックにお茶を載せてやってきた。その茶を茶問屋の倉庫に降ろしていた。その茶問屋と私の生家とは遠い遠い縁戚関係にあった。その他県から運び込まれた茶を多分80%宇治茶を多分20%と和合させて、ここからが一芝居、それを何食わぬ顔をして宇治茶として堂々と販売していた。子供の頃、そりゃあペテン師やと思っていた。そんな悪例のまま、今後も継続していくわけにはいかないと判断した。

宇治茶を名乗れる生産エリアを決めた。その京都府内の宇治茶産地とは、宇治市、城陽市、八幡市、京田辺市、木津川市、久世郡久御山町、綴喜郡の井手町・宇治田原町、相楽郡の笠置町・和束町・精華町・南山城村である。宇治茶レベルの定義を、京都府内茶葉を50%以上その他の茶葉を奈良、滋賀、三重産に限ってブレンドをすることとした。

甥っ子の従兄弟が小さな茶問屋をしている。茶の生産農家がどのように販売して収入にしているのか、色んな方法があることを知った。この従兄弟は規模は小さいながらも「茶師」としていい仕事をしている。大きな茶問屋に買ってもらって、その茶はスーパーや百貨店で売ることもある。が、そんな大雑把な遣り方ではなく、限られた顧客に限られた期間、お任せのように売ったり買ったりしてもらう。この仕組みこそ狙いたい手法だ。この仕組みを平滑に行うためには、茶師の腕が物をいう。父や兄貴がかってやったことのない手法を、甥っ子と従兄弟は粋に感じているようにみえた。

茶畑と言っても、大きな山や谷を大きな規模で開発しているものだから、北、南、西、東面のものがあり、この各面に育った茶を微妙に配合して、茶の精度を高めた。その不思議な混ぜ合わせが偉大なのだ。この采配をするのが従兄弟の茶師さまだ。我が家の茶がどの品評会においても、特茶まではいかなくてもレベルの高い商品を作り上げている。

私の郷里は、江戸時代の1738年に「永谷宗円」が製茶方法を丁寧な方法に改めて「青製煎茶青製法」を創出したその村だ。

この製法で優良な煎茶の方法を編み出し煎茶の祖と呼ばれた。これまでにない緑色の香りは、江戸市民を驚嘆させた。宗円が生み出した製法は、18世紀後半以降、全国の茶園に広がり、日本茶の主流となった。1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、1859年、長崎、横浜、函館の開港を機に生糸と並ぶ重要な輸出品となった。

子供の頃、我が郷には幼稚園がなく、それでも農家がお茶造りで大忙しの状態なので家族の誰にも手を懸けられない。そこで役所や学校が考えてくれたのが託児所の運営だった。お茶摘みの時期、小中学校の授業は4月半ばから6月の半ばまで午前中だけ。託児所の先生は学校の先生であったり、茶に携わらないお家のお母さんだった。みんなで楽しく遊ぶことよりもおやつが楽しみだった。少し残ったおやつを祖母のために持って帰った。私は託児所のことが気に入ったけれど、兄たちは行かなかった。

貧農だった生家は、私の祖父が本家・山岡家から分家した。父と兄はその貧しさから何とか脱却したいと思い、10人ほどで組合を作り区有林を茶畑に開墾した。この茶畑は立派に成長した。そして、甥っ子も、米作りよりも茶畑に傾倒、兄と同じように組合を作って区有林を茶畑に開墾した。開墾したのは20年ほど前のことだったが、今は立派な茶畑になっている。甥っ子の年齢はまだまだ若い奴と思っていたのだが、その仕事ぶりは立派なモノだ。小さな村だけれど11人ほどの仲間は、同志をもついい奴ら。仲間の仕事を、自分の仕事の様子を図りながら、互いに助け合う。手伝ってもらっても、お金の遣り取りはなく、肉体労働のお返しは肉体労働で返すのだ。暇を見つけては誰かの家に集まって、お菓子を食べ、酒を飲んで、それぞれの畑の肥料の塩梅(あんばい)を察し合った。

生家が茶の農作面積を増やしたのには、もう一つ理由がある。茶の生産から離れる人が増えたこと、農業から身を引いて都会に引っ越す人が増えた。茶畑から身を引いたからと言って、茶畑の管理まではできなく、周囲の茶業に励む人の気をもんだ。結果、よろしければ私の茶畑も一緒に面倒みてくれませんか?とお願いに来られる。茶畑を自由に放縦されておくと、周りの誰もが困った。そんなことが彼方此方(あっちこっち)であり、耕作面積はものすごく広がった。前のような状態ではなく、大きな畑をすっかりそのまま預けられることもしばしば。甥っ子の人間としての品格がよろしいのだろう。

千利休が豊臣秀吉から切腹を命じられた。15年ほど前に作家・野上弥生子の「秀吉と利休」を読んで、利休の茶を振る舞う行為や草木草花への美の追求の激しさに驚いたが、それよりも秀吉が利休に切腹を命じたことは解らずじまいだった。秀吉の嫉妬のために切腹を命じられた千利休だが、公的には「天下人の嫉妬」という名目で切腹を命じることはできない。そこで、秀吉の部下の石田三成は以下の二つの罪を挙げることで秀吉の千利休の切腹の命令を執行しようと試みた。1、大徳寺山門(三門)の金毛閣に安置された千利休の木像が不敬であること 2、茶道具を法外な高値で売り、売僧(まいす)と成り果てていたこと ※売僧(まいす)とは、①僧でありながら物品の販売などをする堕落僧、または僧をののしっていう語  ②人をだます者

お茶の歴史をネット情報を借りて綴ってみているが、大学の入試で日本史を選択したので割と記憶に明細である。

Ⓐ お茶は日本が中国の進んだ制度や文化を学び、取り入れようとしていた。平安時代に遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定される。

Ⓑ鎌倉時代。日本の臨済宗(禅宗の一派)の開祖である栄西は、二度、宋に渡って禅宗を学び、禅院で飲茶が盛んに行われていることを見聞きした。帰国後、栄西は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著し、お茶の効能を説いた。栄西は深酒の癖のある将軍・源実朝に、良薬としての茶に添えて、本書を献上したと「吾妻鏡」に記されている。

Ⓒ室町・安土桃山時代。足利義満は宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉にも受け継がれ、宇治茶のブランドが形成された。安土桃山時代には、宇治で覆下栽培も始まり、高級な碾茶に加工された。15世紀後半に村田珠光は「侘茶(わびちゃ)」を創出し、これを受け継いだ武野紹鴎(じょうおう)、千利休らによって「茶の湯」が完成し、豪商や武士たちに浸透していきました。千利休は「茶聖」と呼ばれた。

Ⓓ江戸時代。茶の湯は江戸幕府の儀礼に正式に取り入れられ、武家社会に欠かせないものとなった。庶民に飲まれていたお茶は抹茶ではなく、簡単な製法で加工した茶葉を煎じた(煮だしもの)ものだったようだ。







2020年9月17日木曜日

感謝感謝の「惜別の辞」

 私は今日9月24日をもって72歳になる。生まれは1948年(昭和23年)。今年の12月で退職することになった。この機にこんな文章を創ってみたくなった。

よく頑張ったと思えば嬉しいのに、なんだヨそれきりっかヨと思えば悲しみが溢れてくるのはどういうことだろうか? 人生の岐(わか)れ道にいるからだろうか、此の訳(わけ)は人間・ヤマオカの変チョコリンの故か。

そんな気概はちょっと脳外に追いやりながら遣らなくてはならないことがある。それは、年末を控えての忘年会、肝心なのは送別会だ。大人数による宴会は避けなくてはならない。新型コロナウイルスの感染予防のために3密を厳しく避けなくてはならないからだ。そんな理由で、その類の宴会は避けられたら避けるべきだと思う。

でも私には私なりの都合があって、どうしてもやり尽くしたいことがある。それは、大学時代の友人や会社での皆さんに対して「有難う」と述べたいことだ。素浪人の2年間と大学の4年間、この会社の始まりから今までに約40年勤めあげたことになる。感謝の気持ちだ。

どうしても、京都府の貧農の家で生まれて地元の小中学校、京都府立城南高校を終えて2年間の浪人生活の末、早稲田大学のサッカー部に所属した。全国大学サッカー選手権大会と関東大学サッカー選手権大会の2冠に輝いたことだ。恥ずかしながら、サッカーの技量に貧しい私だって、関東で2回全国で1回出場させてもらった。早大のサッカー部史上、極めて稀な選手だったようだ。生家にも電話でその快挙を告げたけれど、嬉しいの一言も言ってくれなかった。父母も兄も、スポーツについては無関心だった。

高校三年生の秋頃。当時3年生は二人だけで、その友人に「お前、高校卒業したらどうするんや?」と尋ねると、「俺は中京大のスポーツ科学部に入って、サッカーをやるんだ」と答えた。その返答を聞いて、俺は何も考えてなかったことに、血も骨も疼(うず)くショックを受けた。

それから、私は私の戦いに突入することになった。今まで、家族の誰にも大学進学の話をしたことはないのと、勉強だってどの教科にも赤点を受けないだけの貧相な勉強ぶりだった。就職については、生家の遠い親戚が田舎では大きな茶問屋をやっていて、その会社の大阪支店開設の要員、茶師になることだった。

友人からの返答のあと、2年間かけて勉強をすることを決意した。どうせ大学に入るなら、サッカーに関して日本一の学校は早稲田、他にも法政、明治、中央を受けた。早稲田大学にどうしても入りたいと思う気持ちは高まり、心臓までもがブルブル、ドクンドクンと鳴りはじめた。受験した学校はどれも合格した。主目的なのがサッカーをやることだったから、勉強だってより深くより広くやることはない、過去の入試問題集を知るだけで大いに理解できた。

受験勉強の方法は簡単に見え透いた。ここで脳の中心の鍵となるのは、当時旺文社が纏めていた「基礎力水準法」だった。この法則に則って英語、国語、日本史をやる。英語は赤尾好夫の「豆単シリーズ」の基本単語集、基本熟語集、書き換え特集だけをやる、そして70点以上を確保。国語はあれもこれもやらないで、唯、新聞を隅から隅まで読み、書き、読解することを徹底的にやって、試験では70点を確保。そして日本史については、どんな問題が出ようがどんなことをしても90点以上、95点を確保すること。そうすれば、希望している学校ならばパスすることは解っていた。焦ることはない、2年間でやりきればいいのだ。

そして受かったとして、4年間の生活費と学校に納めなくてはならない授業料はどれくらい確保しておかなくてはならないのか、ぴったりした数字は解らない。何故、そこまで気持ちを高ぶらせているのかと言えば、この費用の全てを自分がこの2年間の浪人生活のアルバイトで稼ぎたいからだ。親のお世話にならないで、自らお金を貯めるのだ。その結果380万円なのか480万円なのか手に持つことができ、農業協同組合の貯金にして母に任せた。浪人生活の2年間の、1年目2年目は半年はドカタ稼業、半年は受験勉強。関西電力の山を越える鉄塔建設の基礎工事がメインだった。浪人生と言えども頂く賃金は大人の90%程度、そんなとんでもないことを友人らには話せなかった。

大学へ入学後、そのお金から私が連絡する毎に、母が送金してくれた。その送金の作業をしてくれたのは郵便局の小中学校同級生のHさんだった。母に任せたお金には当然のように限界があるので、送ってもらうお金はギリギリの限少にしたので、私の生活は嫌になるほど貧困だった。それでも、学生仲間はよくぞ気持ちよく付き合ってくれたものだと感謝している。私の生活費から授業料のことを仲間に、これほど細かく話したことはなく、皆も知ってか知らずかよくぞ付き合ってくれた。数多の先輩、後輩と同輩、監督、コーチに感謝、感謝の大乱舞。

練習は絶対休まなかった。学校へは行かない、そんな時間があったら何でもいいから自分一人でできる練習をやった。レギュラータイムの練習が始まる前の1時間は近所の中華料理屋さんでアルバイト、練習が終わったころにやってくる早稲田実業の練習にも参加、その練習が終わっても私は一人グラウンドに残ってヘッディング、ランニング。練習休みの月曜日には走りまわった、吉祥寺、三鷹、武蔵境、国立、上石神井、井の頭公園、石神井公園、善福寺公園、武蔵関公園、多摩湖までだ。3年生の夏休み、新宿駅から数分のところで京王プラザホテル新築工事の窓側のコンクリートの枠組みを作った。これも、何人もいた大学生のなかでトップクラスの日給をいただいた。昭和45年11月25日、作家・三島由紀夫が盾の会を率いて、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけ、自らは割腹自殺した三島事件の報道を観ながら、ダンボール会社でアルバイトをしていた。

そうして、縁あって西武鉄道の基幹会社である国土計画(株)に入社し、同期生と違って私だけは国土計画、プリンスホテル、西武鉄道、伊豆箱根鉄道、近江観光の慣れない宣伝部の企画を担当をさせてもらった。そんなお勤めが10年間。その業務のなかで和田さんとも付き合うことができ、その後色んなお世話になることとなった。

33歳頃、そんな手慣れない仕事に邁進していた矢先、隙間風が吹いたのだ。午前中に吹いた隙間風の勢いは、午後に直属の部長に退社願を提出していた。余りの急転直下の激しさに、女房も空いた口が塞がらない状態だった。そんなことに、私はメソメソする男ではなく、たまにはこんな自由自在奔放な時間を過ごせるのは、棚から牡丹餅の心境だと思った。

そして西武系会社からの退社。アーバンホームズの設立になった。私が33歳の頃だと思われるので約40年前のことだろう。その後の仕事については何も此の書にて公に話すことはない。アーバンビルドの破産から破産を何とか乗り越える努力は、中村社長をはじめ皆さんの努力が実を結ぼうとしている。破産はしたけれど、どこまでもやれるだけやりたいと歯を喰いしばってくれた中村社長。驚くことなかれ、今、立派な会社に様変わりした。

和泉、海老沢、桜庭、古舘、坂西、向坪さん。小さな子供育ちで大変な時期だった和泉さん。某住宅メーカー出の設計士の桜庭さん。ある施設のレストランで調理部にいた古舘さん。弊社が協業していた会社から坂西、向坪さん。入社について私が骨を折ることもなかった人々も何人もいる。今一度我が社に戻ってきてくれないかとの声に、その気になってくれた浅見、細川、佐藤さん。彼たちは仕事に夢中になってくれた。この人たちの応援、協力に感謝したい。

そして今から7年前、私は樹木の上で枝を切る作業をしていて頭から落ちて重症を受けてしまった。前面の道路に落ちたのだが、頭のどこが路面に直面したのか記憶がない。2,3日の意識不明のころは、無意識に布団の何かを必死で噛み切ったり、夢中でシートを引きちぎった。4か月の入院生活でなんとか人並みに喋れるようになり、車椅子を脱却して歩くことだってできるようになった。そして、退院して自宅に戻りたかった。

それから高次脳機能障害に対するリハビリテーション専用の病院に転院した。この障害とは、てんかん発作に各種の精神症、記憶力の低下、言葉をうまく発音できない、ものの理解が上手くできない。治りたい意識が先行し、看護婦さんや医師に対してもいい患者になりたかった。でも、夜中に聞こえる隣りのベッドのオジさんの話を異常なことを目論んでいるのではないかと思いこんだ。それを看護婦さんや私の見舞いに来てくれた人びとに話して、山岡さん、あなたは狂っているよ、と「変な一言居士」扱いにされた。退院後、昼間だって一人で歩くコンクリート階段が怖かった。夕刻、電信柱の陰に何か不思議なものが潜んでいるのではないか、遠くから見る商店の看板の絵柄が恐ろしいものに見えて近づくのが怖かった。

それからこの落下事故とは関係ない筈なのに、サッカー部時代に痛めた腰回りの骨がガタガタになった。腰椎椎間板ヘルニアの発生だ。お尻や足の痛みが激しく、しびれが筋肉の隅々を走った。腰や足が動かしにくくなり、力が入りにくくなった。皆と一緒に歩くことが辛(つら)かった。落下事故とこの腰痛で、気分がほぐれなくなった、辛かった。

この文章の題字に『感謝感謝の「惜別の辞」』としたのは、浪人時代と大学でのサッカー部、新しく創った会社でのドタバタ劇、落下事故と腰痛において、私は幸せにも沢山の友人や理解者に囲まれたことだ。こんな、幸せな時代に巡り合えたこと、私を支えてくれた人々の援助、協力に感謝したいことが、文章を綴る原因になった。

★郷里・京都府綴喜郡宇治田原町では、鎌倉時代に茶の栽培がはじまり、江戸時代に「永谷宗円」が現代の緑茶製法の礎となる青製煎茶製法を開発した。
よって、永谷宗円のことを日本緑茶の祖と言われている。
我家は祖父が本家から分家をして生家・山岡家は生まれた。
当時分家の時にいただいた田畑だけでは裕福に暮らせないと腹をくくった父は当時の金融業からお金を借りて、自分の代になって倍以上の田畑を耕作するほどまでに成長した。
父が亡くなって、兄と私で不動産の登記済み証なぞをチェックしていて、新しく取得した田畑や、銀行との間で交わした金銭消費貸借契約書を見つけて二人は吃驚した。