2020年9月25日金曜日

宇治茶を餞別に

 餞別とは、転職や退職、あるいは旅行などに際して会社や友人から贈ることが、一般的に常識。今回は私の感謝感謝の退職だ。此の12月15日に私は(株)パラディスハウスを退職する。並ある品々のなかから宇治茶を選んだ。私の方から今までに何かとお世話になった方々にお礼を込めてお贈りしたいと思った。それで何でお茶なのかと思われる方もいらっしゃると思い、この一葉を書いてみた。先日、生家の跡取りの甥っ子(兄の子供)と、お茶のことを話す機会があった。

私の生家は京都府綴喜郡宇治田原町南。郷里は宇治茶の産地だ。

2003年(平成15年)、宇治茶ブレンドの定義を(公社)京都府茶業会議所 京都府茶業組合で決めた。何故なら、子供の頃、私の生家の100メートルそばの茶問屋に静岡や三重から大きなトラックにお茶を載せてやってきた。その茶を茶問屋の倉庫に降ろしていた。その茶問屋と私の生家とは遠い遠い縁戚関係にあった。その他県から運び込まれた茶を多分80%宇治茶を多分20%と和合させて、ここからが一芝居、それを何食わぬ顔をして宇治茶として堂々と販売していた。子供の頃、そりゃあペテン師やと思っていた。そんな悪例のまま、今後も継続していくわけにはいかないと判断した。

宇治茶を名乗れる生産エリアを決めた。その京都府内の宇治茶産地とは、宇治市、城陽市、八幡市、京田辺市、木津川市、久世郡久御山町、綴喜郡の井手町・宇治田原町、相楽郡の笠置町・和束町・精華町・南山城村である。宇治茶レベルの定義を、京都府内茶葉を50%以上その他の茶葉を奈良、滋賀、三重産に限ってブレンドをすることとした。

甥っ子の従兄弟が小さな茶問屋をしている。茶の生産農家がどのように販売して収入にしているのか、色んな方法があることを知った。この従兄弟は規模は小さいながらも「茶師」としていい仕事をしている。大きな茶問屋に買ってもらって、その茶はスーパーや百貨店で売ることもある。が、そんな大雑把な遣り方ではなく、限られた顧客に限られた期間、お任せのように売ったり買ったりしてもらう。この仕組みこそ狙いたい手法だ。この仕組みを平滑に行うためには、茶師の腕が物をいう。父や兄貴がかってやったことのない手法を、甥っ子と従兄弟は粋に感じているようにみえた。

茶畑と言っても、大きな山や谷を大きな規模で開発しているものだから、北、南、西、東面のものがあり、この各面に育った茶を微妙に配合して、茶の精度を高めた。その不思議な混ぜ合わせが偉大なのだ。この采配をするのが従兄弟の茶師さまだ。我が家の茶がどの品評会においても、特茶まではいかなくてもレベルの高い商品を作り上げている。

私の郷里は、江戸時代の1738年に「永谷宗円」が製茶方法を丁寧な方法に改めて「青製煎茶青製法」を創出したその村だ。

この製法で優良な煎茶の方法を編み出し煎茶の祖と呼ばれた。これまでにない緑色の香りは、江戸市民を驚嘆させた。宗円が生み出した製法は、18世紀後半以降、全国の茶園に広がり、日本茶の主流となった。1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、1859年、長崎、横浜、函館の開港を機に生糸と並ぶ重要な輸出品となった。

子供の頃、我が郷には幼稚園がなく、それでも農家がお茶造りで大忙しの状態なので家族の誰にも手を懸けられない。そこで役所や学校が考えてくれたのが託児所の運営だった。お茶摘みの時期、小中学校の授業は4月半ばから6月の半ばまで午前中だけ。託児所の先生は学校の先生であったり、茶に携わらないお家のお母さんだった。みんなで楽しく遊ぶことよりもおやつが楽しみだった。少し残ったおやつを祖母のために持って帰った。私は託児所のことが気に入ったけれど、兄たちは行かなかった。

貧農だった生家は、私の祖父が本家・山岡家から分家した。父と兄はその貧しさから何とか脱却したいと思い、10人ほどで組合を作り区有林を茶畑に開墾した。この茶畑は立派に成長した。そして、甥っ子も、米作りよりも茶畑に傾倒、兄と同じように組合を作って区有林を茶畑に開墾した。開墾したのは20年ほど前のことだったが、今は立派な茶畑になっている。甥っ子の年齢はまだまだ若い奴と思っていたのだが、その仕事ぶりは立派なモノだ。小さな村だけれど11人ほどの仲間は、同志をもついい奴ら。仲間の仕事を、自分の仕事の様子を図りながら、互いに助け合う。手伝ってもらっても、お金の遣り取りはなく、肉体労働のお返しは肉体労働で返すのだ。暇を見つけては誰かの家に集まって、お菓子を食べ、酒を飲んで、それぞれの畑の肥料の塩梅(あんばい)を察し合った。

生家が茶の農作面積を増やしたのには、もう一つ理由がある。茶の生産から離れる人が増えたこと、農業から身を引いて都会に引っ越す人が増えた。茶畑から身を引いたからと言って、茶畑の管理まではできなく、周囲の茶業に励む人の気をもんだ。結果、よろしければ私の茶畑も一緒に面倒みてくれませんか?とお願いに来られる。茶畑を自由に放縦されておくと、周りの誰もが困った。そんなことが彼方此方(あっちこっち)であり、耕作面積はものすごく広がった。前のような状態ではなく、大きな畑をすっかりそのまま預けられることもしばしば。甥っ子の人間としての品格がよろしいのだろう。

千利休が豊臣秀吉から切腹を命じられた。15年ほど前に作家・野上弥生子の「秀吉と利休」を読んで、利休の茶を振る舞う行為や草木草花への美の追求の激しさに驚いたが、それよりも秀吉が利休に切腹を命じたことは解らずじまいだった。秀吉の嫉妬のために切腹を命じられた千利休だが、公的には「天下人の嫉妬」という名目で切腹を命じることはできない。そこで、秀吉の部下の石田三成は以下の二つの罪を挙げることで秀吉の千利休の切腹の命令を執行しようと試みた。1、大徳寺山門(三門)の金毛閣に安置された千利休の木像が不敬であること 2、茶道具を法外な高値で売り、売僧(まいす)と成り果てていたこと ※売僧(まいす)とは、①僧でありながら物品の販売などをする堕落僧、または僧をののしっていう語  ②人をだます者

お茶の歴史をネット情報を借りて綴ってみているが、大学の入試で日本史を選択したので割と記憶に明細である。

Ⓐ お茶は日本が中国の進んだ制度や文化を学び、取り入れようとしていた。平安時代に遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定される。

Ⓑ鎌倉時代。日本の臨済宗(禅宗の一派)の開祖である栄西は、二度、宋に渡って禅宗を学び、禅院で飲茶が盛んに行われていることを見聞きした。帰国後、栄西は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著し、お茶の効能を説いた。栄西は深酒の癖のある将軍・源実朝に、良薬としての茶に添えて、本書を献上したと「吾妻鏡」に記されている。

Ⓒ室町・安土桃山時代。足利義満は宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉にも受け継がれ、宇治茶のブランドが形成された。安土桃山時代には、宇治で覆下栽培も始まり、高級な碾茶に加工された。15世紀後半に村田珠光は「侘茶(わびちゃ)」を創出し、これを受け継いだ武野紹鴎(じょうおう)、千利休らによって「茶の湯」が完成し、豪商や武士たちに浸透していきました。千利休は「茶聖」と呼ばれた。

Ⓓ江戸時代。茶の湯は江戸幕府の儀礼に正式に取り入れられ、武家社会に欠かせないものとなった。庶民に飲まれていたお茶は抹茶ではなく、簡単な製法で加工した茶葉を煎じた(煮だしもの)ものだったようだ。