2009年5月30日土曜日

「卯の花」はウツギのこと。 それじゃ、おからは?

卯の花

4月の早朝の犬を連れての散歩は楽しかった。各家々の庭先に咲き誇る春の花を、大いに観賞させてもらったからです。そして、5月に入ってからは、4月の花は旬を過ぎて色あせ、散りかけている。今日(5月28日)は、もう既に梅雨の趣がある。我が社の玄関先の庭には、紫陽花が淡い紫色に染め出した。

でも5月に、際立ってその盛りを見せている花が、卯の花(ウノハナ)だ。偉そうに、この卯の花の名前を恰(あたか)も以前から知り尽くしているように述べてはいるが、この花と名前を確実に知ったのは、つい1週間前のことでした。

我が家の前にお住まいのYさんの庭から、アルミのフェンス越しに白い花をいっぱいにつけているのを見つけて、Yさんにその花の名前を教えてもらったのです。なんと!!この花が卯の花だと知らされたのです。子供の頃に、学校で習ったあの「卯の花の匂い垣根に~」の歌の冒頭にでてくる花です。Y姉さんは、竹箒を片手に年少の私にこの歌をフルに歌ってくださいました。早朝5時半の、歌い手1人お客さん1人の路上ライブでした。Y姉さんの恥ずかしそうな表情のなかに、子供の頃の可愛らしい名残を、私は見逃さなかった。彼女は、私と違ってよくできた子供だったのでしょう。小学生の頃、先生が授業でその花のことを教えてくれたのかどうか分からないけれど、歌っていたときは、歌詞にでてくる花がどんな花なのか、何のイメージもなく、ただ歌詞のうえだけの花に過ぎなく、ぼやっと歌っていたようです。

子供の頃から手のつけられない程ヒネクレ者だった私は、歌だけではなくて何でもかんでも、他人から教わることについては、興味が沸かないフリをした。花の名前など知ろうとも思わなかった。目先にもっと興味深いものがあったのだろう。

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折角だから、「卯の花」を学術的? にまとめておきたいと思いつき、ネット上の尾曽清博氏の「野草かんさつ事典」より引用させてもらった。

正式には、ウツギ。ウツギは垣根としてよく使われたのは、萌芽力に優れ、刈り込みに強いことだった。材が硬く木釘(くぎ)として使われ、それが現金収入になった。木釘にしてみると楊枝くらいの太さでも、細い部分でもなかなか折ることができません。

歌の「夏は来ぬ」の匂うですが、ウツギの花に香はありません。花が盛りに咲いているさまを「匂う」と表現したのでしょう。カッコウーと同じように託卵することで有名なホトトギスは南方より5月中頃に渡ってくる。ホトギスは高原の鳥で人家には近づかない。ホトギスが託卵する相手はウグイスですから、ウグイスは人家の周辺から高原にかけて分布しており、ホトトギスもそれに合わせて生育していると考えられます。

ウツギは「卯木」と書く。名前の由来は「空木」です。茎を折ってみると中が中空になっている。

旧暦の卯月に開花するので「卯の花」か。

このウズキは、万葉集には24首に登場するのですが、そのほとんどがホトトギスとセットだそうです。(よくよく縁の深い花と鳥なのだ。)

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ところで、「おから」の方の「卯の花」はどうなんだ?

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またまた、ネットのWikipediaにお世話になりました。おからは、豆腐を製造する過程で大豆から豆乳を絞った後に残ったもの。「おから」は絞りかすの意で、茶殻の「から」などと同源の「から」に丁寧語の「御」をつけたもので、女房語のひとつ。「から」が空に通じているとして、また縁起を担いで白いことから「卯の花」と言い換えることが、日常的になったのでしょう。

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なんだか、説明を受けてがっかりした。「おから」じゃ、名前を呼ばれる方も可哀想だから、せめて美しい花の名前を代用したとのことだ。「おから~はいりませんか」じゃ?つまんない、と思った豆腐屋さんの、親思いの娘さんが考えた営業用のコピーだったのかもしれませんね。

一件落着。

2009年5月25日月曜日

裁判員スタート

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090520

朝日新聞  社説

新しい司法を国民の手で

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裁判員制度が、あす始まる。

国民の裁判参加は大日本帝国憲法下の20世紀前半に試みられたことがあるが、国民主権に立つ現憲法ができてから62年を経て、大変革が現実のものになる。

司法の世界が開かれることに期待する人。自らが人を裁く立場に置かれることにたじろぐ人。さまざまに複雑な思いをのせて、この夏には、裁判官の隣に座る市民たちの姿が見られることになる。

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閉鎖性からの脱却を

この制度は、国民にとってどんな意味を持つことになるのだろうか。

国家の権力を形作る立法、行政、司法の3権のうち、立法権と行政権は、国政選挙と、その結果に基づく議院内閣制もとで、国民の意思が反映される仕組みを培ってきた。

なのにひとり司法だけが、人々の手の届かない存在となってきた。法廷での判決は一貫して、裁判官というプロの法律家が担ってきたのである。

欧米諸国には、市民革命などを経て、国民が陪審員や参審員として直接、裁判に参加する歴史がある。いまや国民の司法参加は先進国の標準となり、韓国も昨年から国民参与制の試行を始めた。

プロが行う裁判は安定性や一貫性を強みとする。だが、とくに90年代以降の経済社会の変化、犯罪の多様化が逆にそうした裁判の閉鎖性、後進性を浮き彫りにした。そこで法曹人口の増員をはじめとする司法制度改革が始まった。重い犯罪を対象にする裁判員制度の導入は、その太い柱である。

刑罰は国家権力の行使そのものだ。その決定に普通の人々が加わる。

犯罪を繰り返さない、責任に応じた罰とは。同じ社会を構成する個人として被告に公平無私に対するとは。そうしたことをありふれた生活の視点から考えて、法廷で判断する。

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民主主義の成熟にも

国会に先週、段ボール箱29個に詰め込まれた約112万人分の署名が運び込まれた。日本弁護士連合会が、取調べの全過程録画を求めるために集めたものだ。自白の強要を防ぐと共に、裁判員制度が始まっても冤罪を招かないようするためだ。

捜査当局は容疑者の自白にこだわり、それを記録した書面を重視する裁判は「調書裁判」と批判されてきた。

これを、法廷での被告や証人の供述をめぐるやり取りを中心とした本来の形に改革する必要がある。国民の代表が裁判に直接参加し、プロをチェックする。これも裁判員制度の大きな意義である。

民主的な社会を一層成熟させていくうえでも意味は小さくない。

韓国では、経験者のほとんどが陪審員を務めたことに満足している。との調査結果が出ている。日本でも、検察の不起訴処分を再検討する検察審査会を経験した市民にアンケート調査をしたところ、大半が「やってよかった」と答えた。公的な意思決定にかかわる体験が積み重なれば、「お上頼み」からの変化を促し、みんなでこの社会をつくろうという意識を高める一助になろう。だが、そう単純ではない側面もある。

「感情に流されやすい素人に裁判官と同等の権限を与えていいのか」「裁判員の負担を軽くするために審理が拙速になる」「人を裁きたくないのに、呼び出しを拒んで制裁されるとしたらおかしい」

制度の開始が近づくにつれて、反対論や懸念も強まっているように見える。中でも、死刑を選ぶ判断について裁判員の心理的負担は大きい。

法務省は「重大犯罪ほど、主権者である国民に社会正義を回復してもらう意義がある」と説明するが、この考え方が根付くには時間がかかるだろう。

5年前、国会は全党の賛成で裁判員法を可決した。だが最近になって制度の見直しを求める超党派の議員連盟もできた。刑事裁判の枠組みを根本的に変える改革なのだから、懸念がでることはむしろ当然のことだ。

裁判員制度が始まれば、予想もしなかった問題も生じるだろう。しかし、誠実にひとつひとつ克服したい。3年後、必要に応じて制度を見直す機会が大事になる。

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司法参加を次の改革へ

忘れてならないのは、司法の改革を裁判員制度の枠にとどめてはならないということだ。

トラブルを抱える市民が気楽に相談するには敷居が高く、泣き寝入りせざるを得ないことも。たとえば裁判に持ち込んでも、判決までには膨大な費用と時間がかかる。法廷で交わされる専門語や手続きは複雑で、傍聴する市民は蚊帳の外。やっと出た判決は、行政には理解があるのに、市民感覚からかけ離れた論理が目立つ。そのうえ憲法判断となるととたんに慎重になる。

日本の民事・行政訴訟の実態は、長くこのようなものだった。国民の司法参加は、人権侵害や公害、法令や行政行為へのチェックを担う民事・行政訴訟でこそ発揮されるべきだ。司法改革第2幕へとつなげたい。

いま、全国の中学や高校の授業で、法律や裁判員制度が盛んに取り上げられるようになった。

裁判への参加を、自由で民主的な社会を支える自然な行為と考える世代を作り出すためにも、裁判員制度を失敗させるわけにはいかない。

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(これからは、私の文章です)

今日から裁判員候補者制度がスタートする。実際の裁判に直接参加するのは、早くても7月頃からだそうだが、兎に角制度はスタートした。

たしか、090511の朝日新聞の「裁判員候補者は~スタートあと11日」のタイトルの記事のなかで、山梨県に住んでいる芸術家の男性が裁判員候補者の通知を受けてからの、心模様を書かれていた。

その男性は「死刑制度がある限り、絶対に裁判員になりたくない」。それが大前提です、と仰っているそうだ。人の命を奪う「死刑」という判決を自分で下すことはできません。人を裁くという行為は、私にとって苦痛でしかありません。そして、なんとか辞退できないものかと、コールセンターに問い合わせても、どうも無理なようです、と困っている心境を述べられていた。

この裁判員候補の通知がアットランダムに配送される、ということを知ってから、私も山梨県の芸術家の方と同様、ビビッテいた。

でも、だ、自分で考えて考えて、自分の考えを導き出したいと思っている。

アウシュヴィッツを生きた少女

エバ  002

書名・エヴァの時代

著者・エヴァ・シュロッス

訳・吉田寿美

発行所・新宿書房

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先日、以前に映画化された「戦場のピアニスト」の原作(映画の題名も同じ)を読んで、ナチスやアウシュヴィッツ収容所、ユダヤ狩りに関しての私の浅薄な知識に、我ながら情けない思いをした。恥入った。ポーランド系ユダヤ人のピアニスト(シュピルマン)の家族とその友人や職場仲間の、ドイツ軍の監視(親衛隊=SS)から隠れ家を転々としたさま、狩られていくさま、いとも簡単に凶弾で殺された人間があちこちに横たわっている街の光景に、肝を冷やした。その読後感想を、内容のあまりのむごさに脳は機能不全に陥り、文章は不完全のままブログに投稿した。

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ナチスの人種絶滅収容所に関する「数」をまとめた。この数字だけは、いつでも諳(そら)んじたいと思ったからだ。ヨーロッパ被占領地17カ国で、補助収容所を含めると900余り、収容所で死んだ人は1100万人。ナチの手で虐殺されたユダヤ人の総数は、ヨーロッパで住んでいたユダヤ人の3分の2の600万人。

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ナチスとユダヤに関することを考えたり、本を読んだりすると、果てしのない闇の渦の中に引き込まれる気分になる。人の命が、虫けらよりも軽く蹂躙されていった過去の事実を知ることで、私の思念は乱れる。怒り、苦悩、また怒り。読めば読むほど、考えれば考えるほど、私は「命」に関して先鋭に、精神が尖(とが)っていく。アーリア人とユダヤ人、アイヌやチベット、犬や猫、牛や豚、そんな命と私の命と、どこがどう違うのだと考え突いて、はたと立ち止まるのです。人間を含めたどんな動物にとっても、自らの命はかけがえの無いものだ、又、本来、お互いにとってもかけがえのないものなのだ。だから私は、他人の命を尊重したいと思う。

答えは、命あるモノ(者)は種の異なるモノ(者)とも、尊重し合って、共存しなければならないということだろう。

以前に神戸で起きた少年による、少年殺害事件を思い出してみて欲しい。年下の少年を殺して、切り取った生首を校門の前に置いた事件のことです。時代が違って、社会背景も違うが、少年は、小動物に対する虐殺から、生身の人間の殺人へと進んでいった過程に留意して欲しい。小さい、弱い命を軽くみたところから、大きな悲劇が生まれたのだ。

ちょっと、話は拡大しますが、食用に必要だからと言って、牛や豚などの動物を大量に殺すことを是とすることは、近い将来きっと問題視されるでしょう。バカスカ殺すのではなく、節度をもつことを求められる世の中に必ずなる。日本人は昔、魚や動物を供養しながら食した。アイヌの人たちは、魚や川に、動物や山菜の宝庫の山に感謝の儀式を怠らなかった。その感謝の気持ちが薄れると、私たちは怨まれて、呪われますよ。

動物性たんぱく質の摂取が必要だとアピールしているのは、悪魔の穀物メジャーだけなのかもしれません

何故、ドイツでユダヤ人に対する憎悪と迫害、理解を越えるナチスの人間大量抹殺は行われたのか。この本の作家の母は、教育こそ全ての鍵であって、ドイツ国民の各世代が、子供の頃からユダヤ人に対する人種差別意識と果てしない憎悪を吹き込まれていなければ、あれほどの排斥と迫害にまで行き着くようなことはなかったはずであり、何にもまして大切で人々がしっかり心に刻みつけなければならないのは、差別意識や偏見を人の心に住みつかせないような正しい教育が小さい頃からなされることなのだ、と。

と言うことは、今のドイツのことはよく解らないのですが、かってのドイツのように、間違いなく日本の教育も崩壊しているってことだ。

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この「戦場のピアニスト」の読後感想の書き込みを読んだ友人が、オランダ系ユダヤ人のアンネ(アンネの日記)のこともあるよね、と言いながら自分が以前に読んで感動した本を、今思い出したので、図書館で見つけ出すことができれば、借りてくるから読んでみたらと言われた。その本を見つけ出した友人から後日貸してもらって、今読み終えた本が今回紹介した、「エヴァの時代」です。第二次世界大戦が終わって44年後に、エヴァが自分の実体験をもとに手記にまとめたものです。父と兄は殺されたが、母と娘は、奇跡的な幸運の連続で生き延びられたのですが、さすが本人の体験に基づいているので、内容は目から鱗(うろこ)落ちの連続です。その一つひとつを書き上げられませんので、機会を作ってこの本を読んでいただきたい。

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ストーリーは~

主人公はエヴァ、1929年5月11日の生まれ。15歳の時のことだ。母フリィッツィ、父エーリィッヒ、兄ハインツの4人のユダヤ一家の物語です。兄にドイツ国内の労働収容所に出頭せよとの令状が届いたことで、一家は身を潜めることを覚悟する。父は、青年実業家だったが、追われることになってからは、対ナチ地下抵抗組織で活躍。兄は、音楽を愛し、絵を描き、学習意欲の高い青年だった。家族は隠れ家を転々と繰り返していたが、最後は心ない密告により身柄を拘束されてしまう。刑務所に入れられ、所定の取調べ後旅客列車で、ヴェステルボルグ収容所に送られた。

ここで奇跡①。この列車から降りる時、母はエヴァに自分の持っていた丈長のコートと大人っぽいフェルトの帽子を渡して無理やり着させた。取り上げられるのを嫌って身に付かせたのだ。その結果、エヴァは収容所の入り口の選別で、15歳以上の女の子と判断され、母と同じグループになって移動することができた。15歳以下と老人、弱っている者は選別されて、ガス室直行だったのです。

収容所には、ユダヤ人、ユダヤ人を匿(かくま)ったキリスト教徒、ユダヤと同じくらい敵視していたジプシーが囚(とら)われていた。

そしてビルケナウ女子収容所へ。

「火葬場の臭いに気が付いただろうが。さっきお前たちの家族が連れて行かれたのは浴室なんかではない、ガス室だったのだ。今頃はジリジリ火あぶりの真っ最中だ。もう誰一人帰ってきやしないんだ」。

衣類を全部脱がされ、丸裸のまま窓も仕切りもない大きなコンクリートの浴室に入れられた。密室だった。ガスではなく水が天井から降りかかった。濡れた体のまま外へ出され、タオルなしの天日干し。一列に並ばされ、髪の毛はおろか体中の体毛を全部剃られた。恥毛もだ。そしてサイズの合わないブルーマが1枚と上着が1枚、左右不揃いで大きさがちぐはぐな靴が1個というより1本ずつ無造作に投げられた。腕に入れ墨でA/5232と書き込まれた。食べ物として、一日分として10センチ厚さの黒パンひと塊と砂糖なしの代用コーヒー。共同トイレはコンクリート台の上にそれぞれ30センチぐらいの丸い穴が両端に二列にくりぬいてあるだけで、他に何もない。水洗設備はおろかチリ紙すらなく、プライバシーなど論外だった。

極度の心的外傷によるストレスのためか、全ての女性には生理がなかった。スープの中に生理を止める臭化カリが入っているという噂もあったが、スープを飲んだ後きまって体が宙に浮くような妙な気分になったので、噂は当っていたのかも知れない。

三週間の間、雨が降ろうが風が吹こうが来る日も来る日も一日中外の空き地に放り出された。衰弱していく。餓死する者、病死する者が毎日のように出る。理解できない懲罰。エヴァは燃えるような高熱に襲われ、意識が朦朧となる。だが、病気に罹ったものの、衰弱した者は選別されガス室に送られることを知っているエヴァは、病院行きを拒む。だが、ついにチフスの疑いがあるとのことで、診察に同意せざるを得なかった。母を付き添い人に指定した。

そこで奇跡②。母に抱きかかえられるようにして入った診察室にいた看護婦が、母方の親戚で、母が小さい頃しょっちゅう姉妹のように仲良く休暇を過ごしたことのあるミニだった。

ミニの出現で心強くなった。ミニは食べ物を差し入れしてくれた。この頃から選別された者がある日突然居なくなることが多くなった。ガス室に送られたのだ。逃亡者が絶えなかった。逃亡者で生きて捕まった者は、見せしめにみんなの前で絞首刑にされた。凝視することを強制された。

隔離棟での収容も終わりにさしかかる頃には、労働作業を割り当てされた。エヴァと母は、鋏で何千着と積まれた毛皮のコートの裏地を一枚一枚はいでいく。隠されている貴重品を探すのです。宝石、金貨、紙幣がたくさんでてきた。

そこで奇跡③。プラハの裕福な家庭で育ったミニはアウシュヴィッツでは何よりも上等な錆付いたスプーンが嫌だったのだろう、いいスプーンが欲しいと頼まれた。そしたら数日後の作業中一本の銀のスプーンを探し当てたのです。監視を逃れてプレゼントすることができた。

そして奇跡④。エヴァは作業中に、父が野外作業のために通りかかったところを見つけた。兄も元気でいることを知らされ、母に告げると母は大層喜んだ。

厭(いや)らしい兵隊に付き纏われた。2,3週間ごとに刃の欠けた大きな鋏で頭を丸坊主にされた。

野外作業の内容がかわった。巨大な石の塊を敷地の片側から反対側に移し、重いハンマーで叩き割るのです。無意味な過酷な作業に体は弱っていく一方だ。衰弱する体には、与えられる食事は少な過ぎて、母とエヴァは炊事場のゴミ捨て場で野菜の残片をあさった。人参の頭、カボチャの皮などを見つけることができた。貪(むさぼ)った。

十月に入ったすぐの週1回目のシャワーのとき、いつもと雰囲気が違っていた。監視兵はイライラしていて、怒鳴り散らしていた。裸になって恐る恐るシャワー室に入った。天井から降りてきたのは、恐れていたガスではなかった、お湯だった。ひとまず安心した。入り口とは反対側の扉が開いた。収容者すべての生殺与奪を握り「死の博士」と怖れられていたメンゲル博士のチェックを受けることになった。選別されるのだ。裸のまま、メンゲル博士の前に進まされ、その前で立ち止まりゆっくり一回転させられた。一人ひとりの運命を定めるべくその臨床学的な精密な目で体を調べられた。

怖れていたことが起こった、母が選別されたのだ。その時母はエヴァに向かって「ミニに伝えて」と耳打ちした。母は、連れ去られた。エヴァは選別されなかったものの、ミニや母からははるか遠くの隔離棟に移された。

奇跡その⑤。母が選別されたことをミニに告げなくては、と夜半、監視塔の警戒やサーチライトを避けて病棟ブロックを目指した。仲間は危険千万な行為に反対した。が、なんとかミニに母のことを知らせることに成功した。不思議なことに、戻りは何等危険を感じなかった。

作業は、ロープをなうことに変わった。誰彼となく呼び出され、懲罰されたり、処刑されていった。死んだようにこちこちになって作業をしていた。

奇跡その⑥。父に再度会った。ドイツ人の上役の信用を得た父は、自由に行動ができたようだ。今から炊事係りに言って、お前のために食事の残り物を少しとっておくように、頼んでおくよと言って去った。さすが、父はすごいと思った。事実、炊事係から、ゆで野菜などが差し入れされた。

いつも使用している浴室の設備が壊れたので他のブロックの浴室を使うことになったと告げられて、真っ青になった。いよいよ最後の時がきたのだと観念した。脱衣室に入っても口をきく者はなかった。誰一人体を動かそうとも服を脱ごうともしなかった。監視兵が服を脱ぐように促しても、その言葉を死ぬ用意をしろと受取った皆は、動こうとせず、公然たる反抗だった。だが、この時もガスではなくお湯だった。

選別された母たちは、ガス室に行くことに決まった者たちだけが収容される棟に隔離された。床の上で、女たちは一人静かにむせぶ者、半狂乱になって夜通し泣き叫びながら扉を拳で叩き続ける者。最後の祈祷をあげる者。水もなく、パンもなく、着る物もなく、置き去りにされた。

奇跡その⑦。その後メンゲル博士の診察を受けた際、身内は一緒か?と聞かれて、夫と、息子と娘が一緒です。最後に、従姉のミニの名をあげた。博士は、服を着て出て行きなさいと言った。ミニが間に入って、何らかの工作を博士にお願いをしてくれたのだ。

もう一人の女性と二人は、選別からはずされたのだ。最後の点呼のために整列させられていたところに、一人の監視兵が他のバラックで二人が足りないのだ、と慌てて入ってきて、母ともう一人選別から外れた二人に向かって、「この図体の大きい馬め!来るんだ。その隣のものもついて来い」、と死を脱したばかりなのに瞬く間に死の逆転宣告だ。

しかし、奇跡の女神は母を見捨てなかった。奇跡その⑧だ。連れて行かれたバラックで、女性将校による、最後の最後のリストのチェックが始まった。連れてこられた二人は、ここのブロックの者ではないことを、将校に告げるや、将校は二人を連れてきた監視兵を思い切り平手打ちをくらわせた。二人は列からはずされた。呆然と見守る二人の前で、トラックの後部ドアが閉ざされ、走り去った。その夜、火葬場の高い煙突からは赤い焔(ほのお)が夜通し立ち昇っていた。

エヴァのつま先は凍傷が進み、黄色い膿がいっぱい溜まってびっこをひかなければ歩くことはできなくなった。病院で診てもらうことは、選別されることの可能性が大きくなるので行きたくなかったが、母が病舎に居るのだと思うと友人の説得を聞き入れることにし、申し出た。順番がきて病舎に行くと、ミニが助手として働いていた。声を掛けた。「親戚の者なのです」とユダヤの医師に紹介して、母のベッドを訪ねる許可を取ってくれた。

病室は、強烈な臭いが鼻を突いた。尿と腐りかけた肉体と死の混じりあった臭い。母を見つけて声を掛けた。ベッドから降りてきて腰を下ろして、今までのことを話し合った。エヴァの凍傷も入院が必要だったが、順番を待たなければならない。「ここにいる限り、私が付いているから心配しないでいいんだから」、とミニは言った。

そして入院する日がきた。ミニの配慮で母のそばのベッドを用意してくれた。母子は一つのベッドでかたく身を寄せ合いながら、断続的に聞こえてくる砲撃の音と空襲のサイレンをバックに、昼となく夜となく、引き裂かれていた日々について語り合いながら過ごした。

絶えず戦闘の砲声の響きが届いていた。来る日も来る日も病人が次々に死んでいった。

ある日監視兵が突然やって来て,起き上がれる者は全員外に出ろ、と命じられた。母はよれよれになって、毛布で身をくるみ、半ば気を失いながらかろうじて外にでた。何時間も整列されたままだった。外は、シベリアの大平原のように、見渡すかぎり大雪原だった。長いこと待たされたが、何もなかった。こんなことが三昼夜、何度も繰り返された。ねらいは何だったのだろう。無駄骨だった。

ミニは病死した人の処理に追われていた。表情は暗かった。

そして、次の朝。妙にシンとして物音一つ聞こえない。周りには人っ子一人見えなかった、監視兵や看護婦、ミニの姿も消えてなくなっていた。

事態を理解し、体を動かせる者たちで対処を考えた。食料庫にはパンがいっぱい残されていた。水は氷を融かした。残された病人にそれらを配った。処理されてない死体をかたづけた。悪臭がすごかった。先日まで解放される日を夢見て語り合った友人の死体もあった。エヴァにとってこれだけの多くの死体に向き合ったのは初めてだった。衣料倉庫も物色して、洋服や羽布団を見つけた。

そして数日後の1945年の1月27日。解放者のソ連軍の兵士が前線に届ける武器や物資を馬に引かせ小部隊に分かれて終日次々と到着してきた。野営炊事場からジャガイモやキャベツのスープを煮るたまらなくいい匂いがしてきた。こっちに来いと言われて、ありがたくもらった。熱いものが体の隅々まで行き渡って体中がしびれた。

その後、ソ連兵がトラック10台余り連ねた100人ほどの前線部隊がやってきた。野営の焚き火を囲んでたどたどしい会話をやりとりしながら、温かい兵糧のお相伴にあずかった。

そんな状態だったので、病舎に残された者たちは以前ほど、緊張感がなくなっていた。そんなある日、ドイツ国防軍の兵士を満載したトラックが収容所の入り口に止まった。病舎にいた者は外に連れ出され、先頭と背後を2台のトラックにはさまれ両側に銃を突きつけられた。無残な女の一行が門を出て行った。母はその一行の中にいた。エヴァは、建物の影からその様子を見ていた。

エヴァは狂乱状態に陥った。が、奇跡⑨が起こるのです。連行されて行って間もなく、一人、二人、三人と力尽きて雪の上に倒れ始めた。ドイツ兵は動けなくなった女たちを見捨てるか、撃ち殺すかした。母はもう今しかないと悟って厚く積もった雪に足をとられるふりをして、くずれ落ちた。息を止めてそのまま動かなくなった母の傍ら1メートルと離れていないところをトラックが通り過ぎて行った。無事だった。

すっかり安全と思われるまで、雪の上に倒れていた。それから体を起こし、暗闇の中をとって返して来た。えんえんと凍りついた死体が横たわっていた。百人以上の女性がこの夜死んだのです。

その後、病舎にいた者たちは、アウシュヴィッシュ収容所に合流した。アウシュヴィッツ区域は、一時的にはドイツ軍の反抗はあったが、ソ連の駐屯司令部になっていた。合流した人たちと知人や身内の安否の情報交換をした。

それからは、モスクワを経由してオランダへの帰還の旅になる。

エヴァは旅の途中、一時的に母と逸(はぐ)れたりするのですが、ソ連領内のこと、心配するようなことではないと思うと、急に私の読書の「力(りき)」は萎えた。

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この本の内容とは関係ないのですが、「アンネの日記」のアンネのことに関して、訳者の後書きのなかで書いてあったことを、ここに記しておこう。

エヴァと母(フリィッツィ)は生き残ったが、父(エーリィッヒ・ガーリンガー)と兄(ハインツ・フェリックス)はガス室で殺された。アンネの家族はアンネと母は亡くなった。

その後、アンネの父(オットー・フランク)とエヴァの母は結婚して、母の姓はフリィッツィ・フランクになり、アンネとエヴァは義姉妹になったが、義姉妹になってからの生活はなかった。オットーはアンネの残した著作物の整理に励んだ。

2009年5月24日日曜日

(入江) 私は、私が泳ぐ

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入江君!!《競泳の入江陵介(近大) 19歳》が、今月10日、日豪対抗で男子200メートル背泳ぎで1分52秒86の世界新記録で1位になった。従来の記録を1秒08も上回った。が、そのとき着用していた水着がデサント社製のもので、国際水泳連盟(FINA)が認可してないもので、この記録は公認されず、幻の世界記録になったと報道された。

高速水着の線引きをFINAは行っているようだが、水着の審査基準(材質、構造、機能、製品化した後の検品、検査方法)を早く設定しないと、現場の選手が一番の被害者になる。日本水連では今回の入江の記録を世界記録として公認されなくても、日本記録から取り消さないと明言したそうだ。おい、おい、どうなるんじゃ。日本における水泳の総本山の日本水連が、こんなことをコメントをしているようでは、不安だ。 世界記録より早い日本記録が存在することになるではないか。一刻も早く、この問題を解決して欲しい。

でも、入江君は頼もしい。新聞によると大阪での記者会見で、「もう一度、世界記録を狙うチャンスをもらったと思っている」、とか「水着ではなく、頑張って泳いでいる姿に注目して欲しい」と、どこまでも健気(けなげ)な青年の言葉だ。

姉と兄がやっていた水泳を自然に習い始めたが、早朝練習があって、嫌で嫌でしょうがなかったと言いながら、やり続けてきたのは生来の負けず嫌いの性格のせいだった。身長は177センチ、体重62キロの頼りなげな体つき。趣味はピアノ。大阪・近大付高では水泳だけと思われたくなくて勉強でもクラス1位を守り続けた。

入江陵介選手のことを、どうしても入江君!!!と言いたくなってしまう。入江のことを思うと何故か、私は彼のクラスメイトになってしまった錯覚に陥ってしまうのです。

入江君のことを「バランス王子」と言われているんですよ、と家人から教えられた。オットセイやアザラシが、水族館などのショーで鼻の辺りにボールをのせて歩き、ボールを落とさないようにして、そのまま水のなか入って泳ぐように、入江君も額にペットボトルを立てて、倒れないようにして背泳ぎをできるそうだ。その泳ぎは「世界一美しい」と言われ、日本代表の平井コーチも「こんな泳ぎは見たことがない。間違いなく世界の一級品だ」とコメントした。

先の北京五輪出場選手の選考会で、選手達は誰もが自分が着用する水着について悩んでいた。その中にいて北島康介選手は、選考会の観衆を前に、背中に???とか書いた姿で現れた。そこに書かれた英語の文章は、思い出せないが、確か、私が泳ぐのです。水着なんか関係ありません、という内容だった。

入江君は、19歳だ。記者会見に現れた彼には、水着に関してのモロモロなんて関係ない!!と言わんばかりなのが、ウレシイ。彼の表情は、もっと先の先の目標を狙っているようだ。

(090511の朝日新聞の記事を一部利用させてもらった

2009年5月22日金曜日

社員の奥さんから激励されました

社員の皆さんには、苦しい経済環境のなか頑張っていただいていることに感謝している。頭が下がる思いです。

社員には、扶養義務がある親や子供、妻や夫がいる。住宅ローンあり、学資保険あり、教育費、生活費をなんとしても捻出しなければならない。私の方からは、会社を早く健康な元の状態に戻さなければならない。

スタッフにとっては、以前よりも仕事の量が増え、働く時間が増え、休日が減り、休憩時間も減った。定期的に行う館内外の清掃も、今までの3倍の量をこなさなくては終了できない。そうかといって働いた割りには成果が乏しい。

愚直に、迷うことなく、信じることを着実に行動するしかない、とお願いしている。スタッフの誰もがよく理解を示してくれている。

そんな日々に、スタッフの奥さんから、私たちを励ます手紙とともに、思わぬ贈り物を頂いたのです。

頂いた品物は「両手上げ招き猫」の置物です。メーカーさんの説明書が面白かったと言えば失礼に当たるのですが、今の時世には説明書を読んだだけでも、なんだか、微笑ましくて、有り難味が感じられて、マイノート書き留めておこうと思いついた。又、この会社の商品に対する思い入れもよめて、なんだか温かいものを感じた。

どういう訳か、この頃こういう物に痛く心が動くのです。

有難い物だと思い込めば、ひょっとして幸運をもたらしてくれるかもしれない。このアリガタキ代物(しろもの)を、パソコンのモニターに鎮座してもらって、眺めた人に、どうか幸運をもたらしてもらえないものか、と。

招き猫の歴史は古く、いろいろな説がありますが、最も有名なのは平安時代空海(弘法大師)の時代にまで遡ります。空海が朝廷の命を受けて灌漑工事に赴いた折、お金も人手も足りなくなりそのうえ病人まで出て困りぬいているとき、どこからともなく一匹の猫が現われ、両手を上げて何かを招くようなしぐさを繰り返しました。それからほどなく朝廷から多額の資金が加算され、人手も足り、病も完治し、難工事は完了したといいます。このときに奇跡を生んだ猫こそが、福を呼び、人を招く究極の縁起物純金箔「両手上げ招き猫」のルーツなのです。一般的な招き猫は片手を上げていますが、空海ゆかりの招き猫は両手を上げてより絶大なパワーを発揮します。

この商品には、製作者の工夫がいっぱい込められている。これこそ製造販売する側の熱意のあらわれなのでしょう。

民主鳩山代表、衆院選で自民党とガッチンコ

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毎日新聞の号外(090516)を、新幹線の北九州は小倉駅の南口でもらった。仕事で小倉に来ていたのです。鳩山氏が勝ったのは予想通りなのだろう。この状況下では、岡田さんが意外に頑張ったのだろうが、もう少し選挙活動の時間に余裕があれば、もっと肉迫、いや逆転だってあったのでは、と思うのは私の岡田贔屓のせいか。毎日新聞の号外の記事をそのまま転載させていただいた。裏面には「鳩山氏の横顔」というタイトルで、彼が今までたどって来た政治家としての経歴がまとめられ、いい資料だと思ったのです。

 

毎日新聞 号外

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民主党代表選開票結果は

鳩山由紀夫 124

岡田 克也  95

(投票総数220 無効1)

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民主代表に鳩山氏

29票差岡田氏破る

 

民主党は16日午後、東京都内のホテルで開いた両院議員総会で代表選を行った。党所属国会議員による投票の結果、鳩山由紀夫幹事長(62)が124票を獲得して95票の岡田克也(55)を29票差で破り、新代表に選出された。政権交代を焦点に今年9月までに実施される次期衆院選で、民主党は鳩山氏を首相候補として麻生太郎首相と対決する態勢となった。

今回の代表選は西松建設の違法献金事件による小沢一郎代表(66)の辞任に伴うもの。事前に小沢氏から辞意を伝えられた鳩山氏は、自らのグループと小沢氏の支持グループを中心に早々に支持を固めた。小沢代表のもとで行われた07年参院選で当選した議員を中心に参院での支持が厚く、猛迫する岡田氏を振り切った。世論調査などで高い支持を受けた岡田氏は、選挙を間近に控えた若手衆院議員を中心に支持を広げたが及ばなかった。

選挙中のインタービューなどで鳩山氏は、小沢氏、菅直人代表代行と3人による従来の「トロイカ体制」に岡田氏を加えた「トロイカプラス1」の新体制を打ち出し、党内が一致結束して次期衆院選に臨む態勢を目指す。だが事実上、小沢氏の支持を受けて当選したため、小沢氏辞任の原因となった「政治と金」の問題に民主党が明確なけじめをつけたことになるかどうか、衆院選で改めて問われることになる。

鳩山氏は菅氏らと民主党を結成した創設メンバーで、代表就任は3度目。郵政選挙後の05年9月に前原誠司前代表のもとで幹事長に就任。06年4月に小沢代表就任後も引き続き務めた。衆院北海道9区、当選7回、祖父は鳩山一郎元首相で、吉田茂元首相が祖父の麻生首相と似通う。

 

裏面

衆院選へ新体制

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鳩山氏の横顔

小沢一郎前代表を支えてきた鳩山由紀夫新代表は、小沢氏と同じく自民党旧田中派で政治家人生を始めたが、その後の歩みは必ずしも小沢氏と近いわけではなかった。

93年6月、政治改革路線の違いから武村正義氏らと自民党を離党し、新党さきがけの結成に参加。非自民連立政権の細川内閣で官房副長官を務め、若手のホープとして注目された。96年9月に旧民主党を菅直人氏らとつくり、共同代表に。さきがけの全員参加を目指した武村氏に対し、鳩山氏は「負のイメージをしょい込んだ」と参加を拒否。穏やかな性格だが頑固な面もあり、かたくなな姿勢は、「排除の論理」と呼ばれ流行語にもなった。

97年当時、野党第一党の新進党党首だった小沢氏は、自民党との連立で政権復帰に意欲を示したが、鳩山氏は保・保連合を「改革からほど遠い。時計の針を逆戻りさせる」と厳しく批判し、新進党を離党した羽田孜元首相らと連携を強めた。

98年4月には、旧民主党や民政党などと現在の民主党を結成。国民的な人気があった菅氏に代表を譲り、自身は幹事長代理に就任。だが菅氏の女性問題に加えて党内の保守勢力が、「菅氏では国民の支持の広がりに限界がある」、と鳩山氏の代表就任を画策し、99年9月に選出された。代表としての鳩山氏の評価は必ずしも芳しくなかった。状況にそぐわないとっぴな発言から「宇宙人」と呼ばれたことも。02年9月、決選投票の末に3選されたが、論功行賞と派閥均衡から幹事長に旧民社党出身の中野寛成氏を充てたことに批判が噴出。小沢氏率いる自由党との合併にも賛同が広がらず、12月に代表を辞任した。その後も小沢、鳩山両氏は会合を重ね、両党は03年9月に合併した。

鳩山氏は「保守合同」を実現した鳩山一郎元首相の孫で、父はたもとを分かつ弟の鳩山邦夫総務相の周辺から「いずれ兄弟で新党を結成する」との声もある。

若いって、素晴らしい!!

私の次女は、元気者だ。小学生の時はチャキチャキで、中学生の時は強烈で、中学から高校にかけては極度に私をキリキリ舞いをさせてくれた。学校から、何度呼び出されたことだろう。お陰で、教育を受ける側、教育をする側の悩み事を理解できるようになった。高校を卒業してからは、独り立ちするといって、我が家を出て行ったのはいいけれど、彼方此方から聞こえる風の噂には神経をビリビリさせられた。勝手に入籍、出産、そして離婚。実家に戻ってきたと思いきや、即、アパート暮らし、新たなパートナーとの同棲。私たち夫婦にとって、気が緩められない日々の連続だった。でも、仕事はいつも真剣だった。老人の訪問介護の仕事に精を出して頑張っている。この仕事に、働く意味を見つけたようだ。同居人は電気工事の会社に10年近く勤めている。主に私鉄の関係の工事が多いらしい。

それから数年が経った。

私共の会社で中古の一戸建を、私の自宅の道路を隔てた向かい側に保有していた。できるものならば、売却して少しでも流動資金を得たいと思っていた。でも、この時点では、老夫婦が賃借人として住んでいた。売却するにしても、購入してくれる人は、賃貸収入を当て込む投資家か、賃借人に出て行ってもらって、自己使用を考える人ぐらいしか考えられない。弊社の売主希望価額で購入しても投資利回りが悪すぎる。又、賃借人に出て行ってもらう交渉は骨が折れる。そんなこんなで、購入してくれる人は著しく限定される。

この物件の売却情報を公開する前に、私にはしなくてはならないことがあった、腹案があったのです。先ずは次女に購入する意志があるかどうかを確かめようと思った。

次女には4歳の息子がいて、共稼ぎのため保育園に通わせている。私にとっては、可愛い孫です。同棲している男性は、次女の息子に対しては、自分のことをお父さんと呼ばせて、一丁前の父親を自認している。実際、よく子供の面倒をみてくれている。この問題は、我が家でも早くはっきりさせなくちゃいかん問題だった。以前に彼に会った際、きちんと今の三人の生活をしていれば、我が家のみんなも、きっと君の理解者になる筈だから、時間をかけて頑張ってくれ、と言ってあった。

次女は、この住宅の話を聞いて、そりゃお父さん、私にはもってのほか、いい話です。即、購入したいと結論を出した。

住宅のことを云々(ウンヌン)する前に、解決しなければならない問題があるではないか。同居人との、いい加減な関係の整理だよ。そこで、私の長男が、次女の同居人に会って話を聞きたいと言い出した。歳も同じ30歳同士や、彼がどんな人物で、今後のことをどのように考えているのか、よく聞いてみるよ。アイツ(次女のこと)の息子のことが一番心配なんだ。長男は次女の息子を、非常に可愛がっているのです。俺は、割といい奴だよ、とは言っておいた。それから二人は、横浜の居酒屋で痛飲のうえ意気投合してしまった。数日後、あの人はエエ人やから大丈夫や、と言ったまま、その後この件に関しては、もうどうでもいいような言い草だった。

購入したいと言ったって、彼女に銀行が果たして資金を貸してくれるものなのだろうか。そんなことを心配していてもしょうがないよ、と友人は住宅ローンの申し込みを早速試みてくれた。敷地が狭小であること、建物が違反建築であることで、スンナリとはいかなかった。銀行をあっちこっち変えて、何度もやり直しを繰り返したが、ついにオッケーを出してくれた銀行が見つかったのです。老人介護の仕事を約5年程続けながら、子育てしていることが、高く評価されたようだ。

私以外二人いる取締役に声を掛けて緊急動議、審議に諮(はか)った。売却の可否、売却額について審議した。売却できるものならば、売却したいというのが三人の共通した意見だった。提案した価額が、時価というか、現在の相場ならばいいのではないか、と取締役会で議決した。議事録も作成した。

そして昨年の年末に、私と次女は賃借人である伊さん夫婦に今回、借りていただいているこの家の所有者が変わったことを知らせに伺った。伊さんは高齢だし、伊さんにとっては急な話なので、急がなくても結構ですのでゆっくり考えてください、でも、できたら2年後には、この次女の子供が小学生になるので、その時ぐらいには明け渡して頂けると、とっても有り難いのですが、とお願いした。

そして年が明けて早速、伊さんから「あなたの娘さんの事情も分かったし、私どもも今の家賃では家計のやり繰りが大変なので、近いうちにもっと安い家賃の所に引越しすることに決めますのでーーー」、と話は次女にとってハッピーな方向に進むことになった。

同居人の人柄は、長男からの報告を聞いて、家族のみんなは安心した。我が家のみんなからも祝福を受け、次女と同居人は念願の夫婦(めおと)の契りを結ぶことになり、入籍を終えて、同居人は堂々の夫になった。

それから伊さんは、知人を頼ったり、役所の老人用の住宅相談に出かけては、懸命に家探しに取り組んでくれた。

私と伊さんとは性格が非常に違うこと、考え方にも大きな違いがあることで私は、過去に何度も嫌な思いをしているので、今後の伊さんとの交渉は我が家の家人と次女に任せることにして、私はこの件からは距離を置いた。

2月に、伊さんから引越し先が見つかりました、と報告があった。それは有り難いことだと喜んだ。賃借人に明け渡しを求めることの難しさを次女らに説明して、伊さんたちには感謝の気持ちを込めて、できる範囲内で協力することを次女等に約束させた。

そして、伊さんの引越しの日がきた。運送屋さんは、作業員3人と2トントラックで来た。こんなトラックでどのように荷物を運ぶのか、と思いながら次女たちが手伝っていたら、伊さんは持って行く物と捨てる物を区別しだした。そしてそのなかから、幾らかをトラックに載せて、トラックは行ってしまった。運送屋さんはそれで終わりだと、伊さんは仰る。

大量に荷物が残った。その積み残された荷物は、伊さんの奥さんが小さな乗用車で運びますわと言う。伊さん夫婦は乗用車で移動する際、夫婦同席が原則にしているようなので、小さな車の後部座席とハッチバックにしか載せられなくて、一回で運べる量は大した量ではない。そんなことを知らされた次女たちは、焦った。前から引越し日を聞かされていたので、自分たちが住んでいるアパートの明け渡し日を大家さんに約束していたのだ。その日までには、自分たちの引越しができないことに気付いた、次女と晴れて夫になった元同居人とその弟たちは、次の行動にでた。その弟の職場の仲間も手伝ってくれた。

伊さんが、持って行きたいと思っている荷物を、自分らで運んでやろう、と思い立ち、即、実行した。運送屋が持って行った荷物の2倍もの荷物をだ。夫は権太坂から港北ニュータウン間を往復3回。そんな好意に対しても伊さんの口から出る言葉は、感謝の言葉ではなく、恰(あたか)も自分たちのペースを乱す邪魔者に向かっての言辞と仕草だった。高齢であること、有難く家を明け渡してくれたことに、謝意と敬意を表して、この場では何も言うまい。

前の方で書いたことなのですが、私も以前に伊さんとはモメた。お金を融通したこと、節税対策を税理士さんにお願いしたこと、今回の住宅を貸したこと、何もかも年老いた伊さんの為になればいいなあ、と思ってやったことがアダになって、喜ばれるどころか、誤解が誤解を生み、恨みに思われてしまって、伊さんに対する不信感が募り、がっかりしたことがあった。

夕方、暗くなり始めた頃、やっとのことで伊さんの荷物は全部運び出された。ゴミや廃棄物も次女の知り合いにお願いして、格安で捨ててもらった。支払い者は何故か、次女側だった。そして翌日自分たちの荷物を入れるために掃除をした。先住民にとっては、退去後の掃除なんて全然考えにはなかったようだ。

夫の弟は、庭師です。この弟は、伸び放題になって日差しを遮(さえぎ)っている樹木を伐り、自分で用意した庭木を、植え揃えてくれた。沈丁花、紫陽花、・・・など。まだまだ新米ですがと謙遜するものの、もう十分立派な職人さんだ。庭用の黒土も用意してくれた。

そして翌日、次女夫婦等は引っ越してきた。作業員は次女夫婦に、夫の弟、夫の職場仲間、その仲間の女友達だ、そして我が家の家人は補助員。家具の搬入、その家具を所定の場所にセット、玄関キーの交換、電気の配線、もうそれはテープの早回しのようだった、と当家の家人から報告を聞いた。一通りの作業の目途がたって、今日の仕事を終わろうとしていた、その時、伊さんから電話がかかってきた。大事にしていた鍋が見つからないのですが、知りませんか、という内容だった。あの鍋は高価な鍋で、手伝いに来ていた少年がクサイと思っている、と言うではないか。なに? クサイと言うことは、あの子が盗んだとでも言うのですか。ちょっと待ってくださいよ(糞ジジイ!!とは、言わなかった)、あの少年と私たちは10年も親戚付き合いの仲なのです、何を言うんですか。老人は警察に届けようと思っています、と言う。年齢を重ねるだけでは、思慮深くなることではないらしい。夫は、まだダンボール箱をみんな開けたわけではないでしょ、よく調べてくださいとご忠告。

こんなアホな会話が、何故、この状況下で交わされるのか、非常に残念だった。よっぽど、次女たちの協力が、追い立てられているように思えて、伊さんは立腹、感情を害されたのだろう。

その二日後、伊さん夫婦は何か忘れ物があったのか、以前に住んでいた家、既に娘夫婦の家の庭の中を何の了解もなしに入っていた。残して行った物は、全部捨ててもいい、と了解を得ていたので、きれいさっぱり捨てて、すっきりしたもんだ状態。次女夫婦に言わせれば、捨ててあげたのだ。何をしているのですか、と尋ねても、失礼しましたの一言もないことに、夫は怒っていた。双方の関係は決定的に、最悪なものになってしまったようだ。

このように、娘一家は自分たちの所有する、新しい自宅での生活が始まったのです。それにしても、若い奴らのパワーには驚嘆するばかりだった。

2009年5月2日土曜日

結婚披露宴、謝辞

今日、5月2日、私の息子が結婚します。披露宴で、私が初めての親族代表として挨拶するその謝辞の下書きです。

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当日の様子です

新郎山岡草太の父、山岡保です。

隣にいるのが私の妻で、また草太が「お母さん、お母さん」と何万回と呼びかけてきた、草太の母親です。

こちらのお二人は、元子さんが「お父さん、お母さん」と、これまた、何万回、何十万回と話しかけてきた、元子さんのお父さんとお母さんです。

私が、両家を代表して、挨拶をさせていただきます。

本日は、お忙しいなか、息子の草太と元子さんの結婚披露宴に出席していただき、ありがとうございました。遠路はるばるよくぞ来ていただき感謝しています。ゴールデンウィークの貴重な初日、自由にのんびり過ごしたい、と思っておられた方々もいらっしゃったのではないでしょうか。

先ほどから、草太や元子さんの諸先輩や、友人から温かい励ましの言葉や、披露宴を楽しい企画で和ませていただき、本人たちは、さどかし嬉しかったことでしょう。本人になり代わって、感謝申し上げます。

二人の結婚式が行われた内容については、先ほど草太から報告させていただいた通りです。厳かに、行われました。

草太は我々夫婦の4人の子供のたった一人の男の子として2番目生まれてきました。生まれてきた子供の名前を「草太」と決めたとき、その名付作業にかこつけて、私は子育ての最初の仕掛けを試みたのです。

「草(くさ)」という文字と言葉の持つ意味を理解できる子供になって欲しかったのです。私が子供の頃、身近にあったものは、オモチャでも絵本でもなく、澄んだ空気と土と水と木と草だったのです。草は、手厚い世話がなくても、勝手に逞しく生育する。田んぼのあぜ道でも、野原でも川原でも、草同士は実に仲良く相手のことを気遣って生きている。踏まれても折られても、めげずに、元のままに戻る。強く生きる草太になって欲しかったのです。

私の望む通り草太は逞しく育ってくれました。

マサカツ、マサチカ!ありがとう(注=このフレーズは、披露宴が終わって、5日後に書き入れました)

中学校の頃、サッカーの試合に行った先から、相性の合わない監督から逃げるように自宅に帰ってきた。その監督が悪かったのか、草太自身が悪かったのかは、神のみぞ知るところでありますが、未熟な草太の、自我の最初の目覚めだったのでしょう。草太の本性が、行動として表した最初の出来事でした。

オダコウヘイ!頑張ろう。

高校生の頃も、草太はサッカー仲間に恵まれました。私が仕事中、夏の暑い日、偶然自宅に立ち寄ったとき、合宿中の昼休みだったのでしょう、自宅の狭いリビングに、汚れたユニホームで、仲間がゴロゴロ、丸太のように横たわっていたことを思い出します。(その丸太は、ガッチャンであり、リョウスケであり、一星だった、他にも数人いました)。河野(かわの)先生との交流。川島家の人々とクロの御両親とも親しくなった。一星のオヤジの人となりを知った。

ヒデ、チワタ、アライ、ヒライワ!頑張ろう。

大学時代、アルバイトをしていたラーメン屋さんで、学友と酒を呑んだときも楽しかった。このように、草太はどこでも、友人に恵まれ、私の望む生き方を実行していった。

ユウジ、キンさん、タクショウ、ウッチィー、コヤノ、カズマ、カワノ!頑張ろう。

そしてオーストラリア時代だ。私と、私の父と草太の親子三代でのシドニー珍道中は、面白かった。耳が遠くなったオジイチャンに、食事時になると、「オジイチャン、何食おう」、この大声は道行く人たちをびっくりさせました。草太の言うことは、何でも嬉しそうにニコニコ聞いていました。そして、ウーロンゴン大学の卒業式、私の妻とオバアチャンである妻の母と妹の苑子が出席しました。妻とオバアチャンの二人の着物姿は珍しかったようで、地元の新聞の記事になりました。

アダム!元気か。

そして日揮だ。日揮は、世界屈指の石油の採油精製のエンジニアリングコンストラクターだ。その会社のサッカー部の連中とも酒杯を交わせる暇(いとま)をつくってくれた、サッカー部の友人に感謝する。昨年は私の母校の老トルサッカーチームと日揮のサッカーチームが、御殿場で試合をした。これも私を大いに喜ばしてくれました。当然、当方はコテンパに負けました。

マツキヨ、イヨダ、スズケン、タノウエ、ケンタ、シンタロウ、キダ、ヨシノ、フジワラさん!よろしく。

それから、重要なのはこれからだ。

会社の仕事のことについては私はよく解らないが、苦しいとき、困ったことやトラブルが起こったとき、そんなときにこそ頼りにされる男になるのだ。我ら山岡家のDNAには、スーパースターを目指す遺伝子はない。でもだ、この結婚をきっかけに、もっと強くて、柔軟性があって、情熱的で、意欲的で、誠実で優しい、そして深みのある大人になるのだ。夫として、父親として、そして立派な社会人になるのだ。

私達にとっても平田家とのお付き合いは始まったばかりです。両家を代表してのご挨拶の心算だったのに、草太のことばかり喋ってすみませんでした。子供達を介してのお付き合いから、これからは、一段と進んだ交流をしたいと思っています。

元子さんのお父さんの詳しい紹介が、最後になった失礼をお詫びします。元子さんのお父さんは、五島列島の宇久島で、神島(こうじま)神社の宮司をなされています。その神社の創建は1187年ですから、今年で822年になります。いい国作ろう鎌倉幕府の1192年は、源頼朝が鎌倉幕府を開いた年ですから、鎌倉幕府の始まる前に作られたことになります。歴史のある神社です。平田家の直系33代目の宮司さんです。34代目の息子さんは、只今、福岡県で修業中です。

夢の島、五島列島の宇久島に、大挙してお邪魔しようと企画を練っている者もいるようです。

妻になった元子さんの、役割も重大です。真面目だけれども、ちょっとおかしな草太と、笑顔の絶えない家庭を作って欲しいと切に望んでいます。

ご列席していただいた皆さん、お願いがあります。まだまだ未熟な二人です。二人を支えてやってください。相談にのってやってください。温かく見守ってください。アホなことをしたときには、厳しくお叱りください。皆さん、草太をよろしくお願いいたします。

本日は、有難う御座いました。

遠見岬神社にお参りに行ってきた

090430

早朝04;30に家を出て、社用車(フィット)で千葉県の勝浦市にある遠見岬神社(とみさきじんじゃ)にお参りしてきた。

私のことを何かと気を配ってくれる先輩が喜多方にいて、彼は秘密の虎の巻を持っていて、私の会社の商運や、今後の運勢の吉凶のことが、前もって気付いた時にはあ~しろ、こう~しろと指示をくれるのです。

山菜を送ってくれたそのお礼の電話で、私は商売で苦しんでいるんですと愚痴ったことを気に掛けて、お前は七赤金星、東南の地が吉を呼び込む方角なので、これから調べるから待ってろと言われて、返ってきた指示が、遠見岬神社に参って、水をもらって来いということだったのです。それも4月中に実行しろ、と。

首都高速に永田でのって、湾岸道路、東京湾アクアラインを利用して木更津北ICでおりて、409号線。409号線は、房総横断道路といって、横田、牛久。米沢から297号線(大多喜街道、または房総街道ともいう)に、鶴舞、平蔵、横山、船子、八声、佐野、松野、勝浦。道路が込むのが嫌だったので、思いっきり早く出た。道はすいていて、すいすいと飛ばした。

保土ヶ谷の権太坂より所要2時間、6時半に着いた。

60段の石段に、約800体の雛人形を飾ったことで有名になった神社です。市内の有志の皆さんが、緋毛氈を敷いた石の階段に、期間中毎朝雛を飾って、夜片付けるのです。雨が降ってくれば、直ぐに片付ける。この神社に習って、他の神社でも行われているところがあるそうです。

開拓の神様である天冨命(あめのとみのみこと)を祀る神社なのです。明治4年新政府の社格制度の発令で天冨命を祭神として郷社に選定された。現在の社殿は嘉永2年(1849年)に造営されたものだそうです。勝浦湾や勝浦市街が一望できた。社殿はうっそうとした樹木に囲まれ、森厳な雰囲気が漂う。

お祈りをした。呻吟、苦悩、のたうち回ることはあっても、努力や頑張ることはどんなことがあっても放棄しないので、その奮闘する我らを見守ってください、とお祈りしてきたのです。御加護と言う奴だ。社員の一人ひとりの名前を告げ、誰もが精神的にも肉体的にも健康に恵まれますようにと祈った。社員の家族のことも、同じように祈った。

 

1時間程、神社で過ごした。空気を肺いっぱいに吸った。地面に尻をついた。樹木に触れてきた。社殿や樹木、参道の脇に咲いている花を写真に撮った。市街を見下ろし、海のある風景を眺めて楽しんだ。

神社の社務所の横で水取りをした。

おみくじを引いた。紙粘土のようなもので作った鯛のお腹におみくじが入っていた。大吉なり。

おみくじの内容は、「渦を巻く谷の小川の丸木橋、渡る夕べのここちするかな」。

初めは危ない谷の小川の橋を渡るような心配事があるが驚き迷うことはありません。後には何もかも平和に収まります。凡て小さいことも用心してすればよろしい。

08;00 帰途のために神社を離れた。同じ道を帰るのは,能がないとも思ったのですが、早く戻りたかった。「うみほたる」で缶コーヒーを飲んで、読みかけ中の本を読書、1時間。

11;00には会社に着いた。

朝の散歩は花、花、花

厳しい経済環境のなかで、なんとか藻掻(もが)きながらも日々頑張っています。社業に専念しています。一日の仕事を終えて、ビールを飲んで、焼酎、ウイスキーときて、最後は日本酒の熱燗を飲んで、やっとのことで日中の興奮が収まるのです。お酒の後は、カラスの行水風の入浴をすませて、安眠に入る。そうして、なんとか一日が終わる。

翌朝、空が白んでくる、アッサーだ。私は熟睡度が高くて、目覚めは「サッパリ爽やかさん」なのです。私の得意技(わざ)かもしれません。昨日までの苦しかったことはすっかり薄れ、今日は何とか挽回してみせるぞ、と生まれ変わったようにやる気が起こってくる。朝を迎えて、体が興奮してくる。

四時前には自然に目が覚める。布団のなかで、何やら本を読む。五時に犬2匹を連れての散歩に自宅を出るのです。犬は喜びますが、私にとっても、すごく気持ちがいいものです。朝の外気は、夜の間に空気中のゴミは地面に沈み、適度な湿気を含んで、肺にも脳にも快い。

今の季節、どこの家の庭にも花が溢れているのです。百花繚乱。手入れの行き届いた庭もあれば、管理が、大雑把?野放図な庭もある。樹木主体の庭もあれば、花主体の庭もあり、夏に向けての野菜作りに専念している庭もある。家全体に蔦を絡ませ、周りには樹木を植え、自然のままの森のなかの一軒家風を気取った家もある。

一つの鉢にいろんな花を寄せ集めたものを、いくつも並べている家もある。

直(じか)植えの花壇もある。植木棚や2階のベランダに植木鉢を並べている家もある。

門扉の両側もしくは片側に、花を植えて入り口を飾っている家もある。

道路沿いのブロック塀の上にこんもり盛り上がって群れをなし、小さな花をいっぱい咲かせている花もある。生垣の隙間にも花が植えられている。

ミカンの花は、小さくて白い繭のような蕾(つぼみ)だ。柿にも小さな花の蕾ができていた。梅は、小さな実をつけている。

豪華に見栄えのする花も、清清(すがすが)しい花、可愛らしい花も、雑草の花だって、みんな同じ花の仲間だ。田舎育ちの私には、雑草の花に何故か異常に親近感をもつ。

ブロック塀のところどころに小さなポケットを作って、そこに土を入れて花を咲かせている。塀に沿って、咲き誇る花いっぱいの鉢が、ずらりと並べられている。車を使わなくなって不要になった駐車場を、鉢植えの花で溢れている家もある。

サツキが、いろんな色のいろんな柄の花で、鮮やかに、今一番存在感を露(あらわ)にしている。

開発されて随分年数を経ている住宅地なので、樹木も立派な木に成熟している庭も多い。名前の知らない樹木も、派手さはないが花を咲かせていた。庭から枝がはみ出して、それがどんどん成長して道路の大半を覆いかぶさっているのもあった。これは、ちょっと考えないといかんな。

強い妖しげな香の発する花は、今はジャスミンだろう。ミカンの花は、鼻をくっつけると微かに淡い香りがした。アスファルトの道の路傍のちっちゃな窪みや、大谷石の擁壁の隙間に咲いている名前も知らない「ド根性花」も、心を和ませてくれます。嬉しくなって、微笑んでしまいました。

住宅を解体した後、何も手をつけないで放りっぱなしにしてある土地には、雑草が一面に生えていて、小さな草にもよく見るとちっちゃな花をつけているのがある。「みんなみんな♪ 生きているんだ♪ 幸せなんだ♪」と、つい坂本九ちゃんの歌を口ずさんでいた。

そうだ、今、会社の私の机の横に置いてある名前の知らない観葉植物にも、葉に隠れて目立たないが花が咲いていたことを思い出した。

私は犬たちのオシッコの場所を考えたり、糞の処理をしながら、キョロキョロ花見を楽しんでいるのです。

朝の散歩はいつもは30分程度なのですが、この一ヶ月は気が付いたら、一時間程、ノロノロ歩きをしているのです。コブシやモクレンがが突然白い花を咲かせた頃からでしょう。散歩の距離は、1.5キロ程度なのに。

散歩は果てしないお喋りだ、こんなセリフをどこかで聞いたことがある。私は犬2匹と、色んな花との会話を楽しんでいるのです、なんて言うと気障(きざ)過ぎますか。

そこで、思いついたのです。私とポン太とツバサ(犬2匹の名前です)が今楽しんでいる花見をみんなにも味わってもらいたくて、撮ってきた写真をこの文章に添付したのです。

この添付した写真は4月27、28日の両日のものです。旬の過ぎた花もあれば、まだ蕾の状態のものもあります。

道路からブロック塀や垣根の隙間を通して、お庭を覗かせてもらったものもあります。不審者に思われないように配慮しました。

同じ花を何回も重ねて撮ったようにも思うが、撮った場所が違うならば表情も自ずからちがうのでは、と思ったので撮った写真を全て貼り付けた。写真の腕は全くの素人で、リードを引きながらの撮影ですから、技巧のことについては、どうのこうのと言わないでいただきたい。

さあ、みなさん、今日は、権太坂・境木の花見物です。

私はほとんどの花の名前は知らないが、私の息子の結婚式に出るために京都から来ていた義母の手助けによって、花の名前を挙げてみた。要注意です。ハナショウブ、ベコニヤ、ドウダンツツジ、ハナミズキ、パンジー、シクラメン、モクレン、テッセン、サクラソウ、シバザクラ、イチゴ、モッコーバラ、コデマリソウ、スミレ、エンドウ、ハボタン、マーガレット、カラー、シャクナゲ、サツキ、ツツジ、タンポポ、ミズヒキソウ、ビワ、シャクヤク、シシトウ、ツバキ、シュロ、ゼラニューム