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090520
朝日新聞 社説
新しい司法を国民の手で
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裁判員制度が、あす始まる。
国民の裁判参加は大日本帝国憲法下の20世紀前半に試みられたことがあるが、国民主権に立つ現憲法ができてから62年を経て、大変革が現実のものになる。
司法の世界が開かれることに期待する人。自らが人を裁く立場に置かれることにたじろぐ人。さまざまに複雑な思いをのせて、この夏には、裁判官の隣に座る市民たちの姿が見られることになる。
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閉鎖性からの脱却を
この制度は、国民にとってどんな意味を持つことになるのだろうか。
国家の権力を形作る立法、行政、司法の3権のうち、立法権と行政権は、国政選挙と、その結果に基づく議院内閣制もとで、国民の意思が反映される仕組みを培ってきた。
なのにひとり司法だけが、人々の手の届かない存在となってきた。法廷での判決は一貫して、裁判官というプロの法律家が担ってきたのである。
欧米諸国には、市民革命などを経て、国民が陪審員や参審員として直接、裁判に参加する歴史がある。いまや国民の司法参加は先進国の標準となり、韓国も昨年から国民参与制の試行を始めた。
プロが行う裁判は安定性や一貫性を強みとする。だが、とくに90年代以降の経済社会の変化、犯罪の多様化が逆にそうした裁判の閉鎖性、後進性を浮き彫りにした。そこで法曹人口の増員をはじめとする司法制度改革が始まった。重い犯罪を対象にする裁判員制度の導入は、その太い柱である。
刑罰は国家権力の行使そのものだ。その決定に普通の人々が加わる。
犯罪を繰り返さない、責任に応じた罰とは。同じ社会を構成する個人として被告に公平無私に対するとは。そうしたことをありふれた生活の視点から考えて、法廷で判断する。
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民主主義の成熟にも
国会に先週、段ボール箱29個に詰め込まれた約112万人分の署名が運び込まれた。日本弁護士連合会が、取調べの全過程録画を求めるために集めたものだ。自白の強要を防ぐと共に、裁判員制度が始まっても冤罪を招かないようするためだ。
捜査当局は容疑者の自白にこだわり、それを記録した書面を重視する裁判は「調書裁判」と批判されてきた。
これを、法廷での被告や証人の供述をめぐるやり取りを中心とした本来の形に改革する必要がある。国民の代表が裁判に直接参加し、プロをチェックする。これも裁判員制度の大きな意義である。
民主的な社会を一層成熟させていくうえでも意味は小さくない。
韓国では、経験者のほとんどが陪審員を務めたことに満足している。との調査結果が出ている。日本でも、検察の不起訴処分を再検討する検察審査会を経験した市民にアンケート調査をしたところ、大半が「やってよかった」と答えた。公的な意思決定にかかわる体験が積み重なれば、「お上頼み」からの変化を促し、みんなでこの社会をつくろうという意識を高める一助になろう。だが、そう単純ではない側面もある。
「感情に流されやすい素人に裁判官と同等の権限を与えていいのか」「裁判員の負担を軽くするために審理が拙速になる」「人を裁きたくないのに、呼び出しを拒んで制裁されるとしたらおかしい」
制度の開始が近づくにつれて、反対論や懸念も強まっているように見える。中でも、死刑を選ぶ判断について裁判員の心理的負担は大きい。
法務省は「重大犯罪ほど、主権者である国民に社会正義を回復してもらう意義がある」と説明するが、この考え方が根付くには時間がかかるだろう。
5年前、国会は全党の賛成で裁判員法を可決した。だが最近になって制度の見直しを求める超党派の議員連盟もできた。刑事裁判の枠組みを根本的に変える改革なのだから、懸念がでることはむしろ当然のことだ。
裁判員制度が始まれば、予想もしなかった問題も生じるだろう。しかし、誠実にひとつひとつ克服したい。3年後、必要に応じて制度を見直す機会が大事になる。
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司法参加を次の改革へ
忘れてならないのは、司法の改革を裁判員制度の枠にとどめてはならないということだ。
トラブルを抱える市民が気楽に相談するには敷居が高く、泣き寝入りせざるを得ないことも。たとえば裁判に持ち込んでも、判決までには膨大な費用と時間がかかる。法廷で交わされる専門語や手続きは複雑で、傍聴する市民は蚊帳の外。やっと出た判決は、行政には理解があるのに、市民感覚からかけ離れた論理が目立つ。そのうえ憲法判断となるととたんに慎重になる。
日本の民事・行政訴訟の実態は、長くこのようなものだった。国民の司法参加は、人権侵害や公害、法令や行政行為へのチェックを担う民事・行政訴訟でこそ発揮されるべきだ。司法改革第2幕へとつなげたい。
いま、全国の中学や高校の授業で、法律や裁判員制度が盛んに取り上げられるようになった。
裁判への参加を、自由で民主的な社会を支える自然な行為と考える世代を作り出すためにも、裁判員制度を失敗させるわけにはいかない。
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(これからは、私の文章です)
今日から裁判員候補者制度がスタートする。実際の裁判に直接参加するのは、早くても7月頃からだそうだが、兎に角制度はスタートした。
たしか、090511の朝日新聞の「裁判員候補者は~スタートあと11日」のタイトルの記事のなかで、山梨県に住んでいる芸術家の男性が裁判員候補者の通知を受けてからの、心模様を書かれていた。
その男性は「死刑制度がある限り、絶対に裁判員になりたくない」。それが大前提です、と仰っているそうだ。人の命を奪う「死刑」という判決を自分で下すことはできません。人を裁くという行為は、私にとって苦痛でしかありません。そして、なんとか辞退できないものかと、コールセンターに問い合わせても、どうも無理なようです、と困っている心境を述べられていた。
この裁判員候補の通知がアットランダムに配送される、ということを知ってから、私も山梨県の芸術家の方と同様、ビビッテいた。
でも、だ、自分で考えて考えて、自分の考えを導き出したいと思っている。