2016年3月5日土曜日

子供の心親知らず


我が家も老人と一緒に暮らすようになった。



これは金箔

金箔。細字の内容は全てネットでいただいた。
金箔は金を微量の銀や銅とともに金槌で叩いてごく薄く伸ばし、箔状態にしたもの。紀元前1200年頃にエジプトで製造が始まったと考えられる。現在は真鍮からなる「洋金箔」も普及しており、本来の意味での金箔は「純金箔」として区別される。

金箔はおよそ1万分の1~2mmの薄さ。それは2g(10円玉の約半分)の金を、畳1枚分の極限にまで延ばした薄さです。金に微量の銀や銅を溶かし合わせます。99,99%の金は柔らかすぎ、箔になりにくいため、また色合いを調整するために加えます。
金と銀、銅を1300度に熱したるつぼに入れ、溶解させたあと、型に流して成形する。

それから、内容については解らないまま、ネットで知った言語を書き続ける。金合わせ、延金、澄打ち、引き入れ、打ち前、抜き仕事、箔移し。



神輿(みこし)

神輿は、通常、神道の祭りの際に、普段には神社にいる神霊が氏子町内、御遊所などへ、渡御擦るに当たって、一時的に鎮まるとされる輿である。御輿の巡行に、山車、鉾、だんじりなどの屋台が随行することもある。
ネットで以上の記事を見つけた。


今回の題名は、「子の心親知らず」だ。

子供の気持ちが親にわかってもらえないこと。年とった母の面倒をみなくちゃいけないことと、面倒をみる側の気持ちが、なかなか不調和では困る? そんな気持ちが、私の頭の一部に残っているようだ。

神輿の頃、60年前の私の田舎は百姓まっしぐらだった。
動力に頼ることなんて考えず、神輿は人の手と肩で支えた。
田舎のこと、1台の神輿を100人ほどの百姓等で担いだ。
真っ白な神着やタオルは汗で、ずぶずぶ。

私も中学生の頃、二人の兄と合わせて参加した。山岡家の黄金時代だ。
家族にとって、こんなに目出度いことはない。
作業を終えて自宅に帰ると、全身がガツ~ンガツ~ンに腫れ上がって、朦朧然とした死体、同然。自由に体が動かなかった。



これからが、義母のことだ。

昨年6月から、女房の母、私にとっては義母が、長年、京都の息子(長兄)の家に住んでいたが、我が家で住むことになった。

年齢は88歳、もうすぐに89歳。
足腰が不便でこれが、唯一の悩み。
何年か前に脳梗塞で、運動神経が傷められた。
それ以外にも、手足の一部が自由に動きづらくなったが、この件については、何とかやりきれそうだ。

今回の、義母の横浜移住には、深い理由、、、、、、、悲しい理由なんてない。
どんな家族にも家族なりの都合がある。
義母については、個人的にも家族的にも、いくら探しても、悲しく涙を流すようなことはない。

女房は母と18歳までは一緒に暮らし、東京の大学に入り、その後は私って奴の出現とアイナリ、東京での仕事が見つかり、随分久しぶりの同居になる。
当たり前のことだが、私にとっては、一緒に暮らすなんて初めてのことだ。

義母の実家は京都にあって、かっては指折りの金箔貼り付けの専門業者だった。
貼り付けるものとは、仏事や神事に使われる用具や品物。
流石に京都!仕事の量はこらえきれないほど豊だった。義母はお姫暮らし?だったのだろう?

例えば仏壇やお寺の装飾。家庭内では神棚や神さんに関する品々。
神社内の装飾に傷が発生して、遙か遠くに修理にでかけたことだって、少なくなかった。

横浜に住んでいる私だって、1年に1度か2度、工房を兼ねた義母の実家にお邪魔した。
その節、おおジィジィは一番偉い人の座るところで、只管、仕事をしていたのを憶えている。

義母の実家の一代目は、和歌山のとある村から、この仕事でやっつけてやろうと京都上がりをした。
夢に溢れた、創業者だ。
こういうのを寺侍(てらざむらい)と言ったそうだ。

そして二代目、その二代目には子供が生まれなくて、私の郷里の傍の田辺町から婿養子に入った。
この婿養子が三代目、遊ぶことなんていざ知らず、働くこと一辺倒!! そして、金箔の仕事にはまってしまった。
この婿養子が、義母の父だ。
亡くなる1年前まで、大将の座布団に座ったままだった。
その家庭にも子供が生まれ、おおジィジィと職人さん、職人さんを支えるおおババとの円満な家庭が営まれていた。

義母の実家は、貼り付けだけではなく金箔そのものも作っていた。
この稿の最初に書き上げたように、金箔の作り方には工夫があって、義母によく聞いても、その詳細を教えてもらえなかった。

解っているようだけれども、その真なる知恵を得ていないようだ。
江戸時代、金箔の製作は石川県が99%と一番多かった。
輪島などの漆商品に大いに必要だったのだろう?と勝手に考えた。

義母は、この金箔手作業の三代目夫婦から、長女として生まれた。
義母は結婚して、婚家は京都市北区紫野に。

長女に長男、二女が生まれた。
その子供たち。
長男は教師に、二女は南座の界隈で高級京料理店を夫婦で経営している。
肌が合わない?なんて言うと叱られそうだが、それ程立派な店だ。
何人もの友人、取引会社のスタッフを連れて行った。
ちょっとでも、売り上げに協力したいと思ったからだ。
ここで言う長女は、私の妻だ。

義母の夫は金融機関で働いていた。

お酒の好きな人で、お邪魔した時は、嘘のように和やかに付き合ってもらった。
それに、つまみは魚? 趣味は魚釣り、これも楽しい思いでばかりだ。
この家、とっても、とっても楽しい良家で、私には眩(まぶ)しくなるほどだった。
ところが、夫は64歳、40年ほど前に癌で亡くなった。
何事にも興味のある私のこと、もっと、もっとお話をしたかった。
悔しい限りだ。




ところで私のことも序に描き足したい。
生家は米とお茶の専業農家だった。

住所は京都府綴喜郡宇治田原町南だ。
祖母、父母、子供は男ばかりが3人。長男には百姓の跡取りになってもらいたいと思ってか?農業の仕方を丁寧に教え、結果、兄は自分勝手に働くことを面白がった。

次男と三男坊の私には野良仕事を教えることはない、と思っていたようだ。
次男は絵が上手で、算数と理科は超一流に出来がよかった。
だから、もう少し、時間をかければ、立派な学校に入学できたはずだ。

ところで、三男坊の私は、勉強は負けず嫌い。でも、でも、、、、能才なんて何もない。頑張るしかない、と決め込んでいた。
時間が経てば、それなりの学校に入学できる、、、、、、入学できないことはない、と決めていた。
中学三年生の時、5クラス250人ほどいた生徒の中から、15番目には入っていた。
一年生の時は100番くらいだった。
高卒後、気持ちよく入れる大学はなく、2浪した。勉強をしなかったから、当たり前のことだ。

2浪したわけは何だ? 
それは、サッカーのチャンピオンの学校に入学することだった、、、、からだ。

勉強は頑張ったら、なんとなる。
それよりもなによりも、サッカーを人並にやれるだけの耐力、筋肉を培うことだった。
その学校は? そうだ、早稲田大学しかないではないか。

そうと決まれば、このコースに邁進するしかなかった。
サッカーの実績は何もないのだから、これを邁進するは、大変なことだった。

1浪後、法政、明治、中央から合格通知をもらったが、早稲田からはいつまでも落葉が散る、、、、、蛮勇、ここにあり。
もっと、浪人することを拒まなかった。

それ程、偉そうに、他人さまに言える身分ではなかったのに。
それからの浪人生活が面白かった。
この面白かったことの一々を、今、此処で話すわけにはいかない。

ーーーーーーー  この稿は、(老人と一緒に暮らしたい)だ。



この稿の一番大事なことに触れよう。

何故、老人と一緒に暮らしたくなったのか?ということだ。

私は三番目の子供で、父と母から私たちのことは気にしなくていい、面倒は一番の兄貴に任せてあるから、お前は、京都でも、大阪でも、東京でも好きなところへ行って、好きなことをしていいんだ。
勉強もいい。好きなサッカーでもいい。
そんなことを、事あるごとに言われていた。

保(私の名前)、お父さんが1年に1度ある農協の農作物の品評会で、優勝することを知っているだろう。でも、保にお節介したいのは、足腰、首や頭が立派なものでなくていい、口に、不愉快な思いをさせなければ、もう、それで、オーケーなんだよ。

エエか?焦るな、ゆっくり、確実に実にすることだよ。

感謝したい。父母とも同じ年に癌で命を失くすることになったが、癌だと知ってからの私の看病の頻度は凄まじいものだった。横浜を夜中2時に出て、郷里には朝6時までには着いた。その繰り返しだった。

そして私の妻はどうだったのだろうか。今、彼女は長女でいながら、身重になった母に対するお世話が十分だったのだろうか、こんなことを悩みだしていたのではないか。

私だって、年長者のお世話が十分だっただろうか。ちょっとばかり、お金を貯めたってしょうがないだろう?少しばかりでも、喜んでもらえる方法や、手段はあるだろう。

そんなことを、この2~3年、考え続けてきた。