2013年9月27日金曜日

ジャッキー・ロビンソン

昨日、私のこのブログで『「差別やめよう」大行進』を綴った。

そして今日、20130927の日経新聞の「春秋」は、ジャッキー・ロビンソンが人種差別と闘ったことを取り上げた、この文章もマイポケットに蔵(しま)いたくて転記させてもらった。春秋氏も天声人語氏には負けてはいない。蔵うを「しま」うと当て字にしてみたが、私のセンスは如何なもんですか?

 

ジャッキー・ロビンソン

20130927 日経・朝刊

春秋

黒人初の大リーガーといえば、第2次大戦が終わって間もない頃にドジャースで活躍したジャッキー・ロビンソンの名前が思い浮かぶ。実際には、19世紀に黒人大リーガーが誕生していたらしいのだが、人種差別の壁を打ち破ったのは何といってもロビンソンの功績だ。

その背番号42は大リーグの全球団に共通の永久欠番となっている。彼が大リーグにデビューして50周年にあたる1997年4月15日からのことだ。ただ当時すでに42番をつけていた選手は継続使用を認められた。それから16年。この番号を背負った最後の現役選手となったヤンキースのリベラ投手が、今季限りで引退する。

つまり来年から、42番をつけた選手がプレーすることはなくなる。もちろん4月15日の「ジャッキー・ロビンソン・デー」は例外だ。この日は逆に、すべてのプレーヤーがこの番号を背負う。大リーグの歴史にあって、ロビンソンの存在はそれほどに重い。すばらしいプレーの記憶に劣らず、卓越した人柄の記憶によって。

内外の反発を押し切ってロビンソンをドジャースに招いたリッキー会長が、初めて会ったときに口にしたと伝えられる言葉は、「やり返さないだけのガッツを持って欲しい」。人種差別に敏感という評判のあったロビンソンに、自制する根性こそ本物だと指摘したのだ。そして大リーグの宝が生まれた。

 

毎年4月15日の、ジャッキー・ロビンソン・デーには、かって球団に所属していたアフリカ系アメリカ人のOBたちが招待される。それは、ジャッキー・ロビンソンがアフリカ系アメリカ人の代表と認められているからだろう。そして、この日の試合は42番を背負った多くの選手たちで行われると聞く。

とりわけ、1997年4月15日はジャッキー・ロビンソンがデビューして50周年のこの日、ドジャースvsメッツのゲームで5回終了後、当時のアメリカの大統領だったクリントンが記念式典に参加し次の言葉を残した。「すべてのアメリカ人は、ジャッキーに感謝しよう。彼のおかげで、アメリカはより強く豊かな国になれた。次の世代の明るい未来のために、彼の遺産を大切にしていこう」と。時のアメリカ大統領に、ここまで言わしめたジャッキー・ロビンソンのプレーする雄姿をこの目で見たかった。

偉大な選手に尊敬の念を抱くのはどこの国でも同じだろうが、それにしてもこれほどに尊敬されるスポーツ選手は他に例がないのでは。人種差別に対して、静かに怒りをもって闘っていた。マーテイン・ルーサー・キング牧師やマルコムXと同じように語り継がれている。

上の春秋の中にもあるが、ドジャースのリッキー会長が、オーナー会議において15-1で否決され、それに、実力だけならもっといい選手がいたにもかかわらず、ジャッキー・ロビンソンの入団を決意したと、野球記者=ナガオ勝司の文章で知った。実力だけで評価したのではなく、「アフリカ系アメリカ人を代表できる、優れた人格者」だと判断したのだろう。

 

ジャッキー・ロビンソンの言葉より

 

「不可能」の反対は、
「可能」ではない。
「挑戦」だ!!

 

一流になれ、
そうすればものが言える。

 

もし、他人に何かの
インパクトを与えるような、
生き方が出来なかったとしたら、

人生などそれほど
重要なものではないと思う。

20130924 私65歳になりました

その日、私の生家では父と祖母が落ち着きなくそわそわしていた。65年前の今日、とりわけ祖母は、母が女の子を生むのを期待していた。ところが、期待を見事に欺(あざむ)くかのように、私の産声は、男で何か文句あるのか、と言わんばかりに大きかった。昭和23年9月24日の昼前のことだ。

長男、次男に次いで、三番目には女の子を強く望んだ祖母は、あからさまに落胆したそうだ。母は困ったが、母には罪はない。それでも、大学に入るまでの田舎暮らしでは、祖母は私を滅茶苦茶可愛がってくれた。生誕の地は、京都と滋賀の国境(くにざかい)、京都府綴喜郡宇治田原町南亥子(いね)78番地。父・勝治、母・ハナの三番目の子ども、三男坊だ。

気がついてみたら65歳! というのが正直な気持ちだ。何で、どうして、いつの間に?と考えても、光陰矢のごとし、毎年誕生日ごとに、年齢を確認していたのに、ここまできてしまった。朝一番、目に入れても痛くないほど可愛い孫・晴からは、お祝いのメールをくれた。

冷感症の行政省庁、厚労省は、65歳からは前期高齢者、75歳以上は後期高齢者、85歳以上を末期高齢者と呼ぶ。いかにも、死期が近付いてきたことの露骨な告知、そろそろお迎えがきますネ、そんな響きをもつ。この末期という用語は、世界保健機構(WHO)でも公式に使っているというが、英文ではどのように表現されているのだろうか。末期高齢者という言語が日常に使われていることに、ぎょっとしたのは私だけではないだろう。

総務省の発表では、今月16日の敬老の日の人口推計で、65歳以上の高齢者が3186万人、総人口に占める割合が25%に達した。4人に1人が高齢者だそうだ。医療保険では、前期高齢者医療制度に65歳以上75歳未満の人が適用される。当然、私も今日から対象者だ。

少し前までは、このブログでも何かにつけて、私のことを初老ですと紹介してきた。或る小文を読んでいて「初老」が気になって調べた。講談社の日本語大辞典で、初老のことを「もと、40歳の別称」「老年期に入る年ごろ」と教えられ、それまでの無知さに赤面したものだ。この40歳というのは、人生50年とか言われていた時代の名残りで、今はそうでもないが、それにしても65歳は立派な老人であることは間違いない。

お陰様で、全身丸々、隈なく異常なし、至って健康体。それでだ、これから、当面の5年をどのように過ごせばいいのか、と考える。5年は今までと変わらず活動できるとして、だが。会社勤めと、個人的な生活を如何に過ごすかってことだ。

会社においては、取締役会長の肩書をもらっているが、為すことは、経営者の一人として社長を支えること。細かくは、私が犯したミスを二度と社長が犯さないための番人役、スタッフが働きやすいように環境を整備する、中長期の経営計画策定、社内における円滑なコミュニケーションを確保することだ。

そして、仕事以外の生活においては、本を読み、拙い文章を綴り、果樹を育て、野菜を作ることにおいては、ますます進化したい。友人らとの交流を深めたい、4人の子どもの頑張りぶりと孫の成長を見届けるのも楽しい作業だ。

加えて、大学時代に、強い社会人になるための心棒になる部分を育ててくれたクラブに何らかのお返しをしたいことだ。特別にお世話になったア式蹴球部。恩返しなんて、気恥ずかしいが、何かで喜ばれることをしたいと考えている。来月4日、同窓で同期の高と淀と酒を飲んでの打ち合わせで妙案が浮かべばと楽しみにしている。淀は、かってJリーグのチームの社長さん、高は東証上場の某情報通信ソフト会社の幹部だった。

2013年9月26日木曜日

「差別やめよう」大行進

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20130923 朝日・朝刊

横断幕やプラカードを掲げ撤廃を訴え行進する参加者=午後、東京都新宿区、仙波理撮影

 

ヘイトスピーチに強い関心を持つ。

20130922 「ヘイトスピーチ」(憎悪表現)など差別的な動きへの反対を訴える「差別撤廃 東京大行進」が東京・新宿で行われた。ツイッターなどの呼びかけで、約1200人が参加したと20130923の朝日新聞・朝刊の記事で知った。昨今のむき出しの民族蔑視に反対する行進だ。

記事によると、デモ隊の先頭は、黒のスーツ姿で「一緒に生きよう」などと書かれたプラカードを掲げた。1963年に米国でキング牧師が人種差別撤廃を訴えた「ワシントン大行進」がモデルだ。

この機会に、ネットでヘイトスピーチのことを調べて、その実態の醜さに肌寒くなった。私の一番嫌う話題だったからだ。

ヘイトスピーチって奴の言葉の意味は、hate(ヘイト=憎む、憎悪する、嫌う)+speech(スピーチ=演説、発言)からなるらしい。また、ヘイトスピーチとは、人種、民族、国籍、宗教、思想、性別、性的指向、障害、職業、社会的地位、経済状態、外見など、自分ではどうしょうもない事柄を抱えている人たちに対する憎悪や差別を正当化もしくは助長する発言のことをいう。

皆殺しとか、国外退去といった過激な言葉で在日韓国・朝鮮人を批判するデモが、東京・新大久保などのコリアタウンで繰り返されている。このように街頭をのし歩く連中がいるってことが不思議だ。不毛だ、そこから生まれるのは憎しみだけ。何で、そこまで敵意を表すのか、どうして、そこまで自分に気に入らない連中を排外しようとするのか。一人ひとりに聞き質してみたい。郎党を組んで行動するのではなく、一人では自分の主張ができないのだろうか。弱虫、馬鹿者だ。

私の悩ましい感慨を友人に話したら、ヤマオカさん、中国や韓国のネットでは凄まじい表現で日本人が虐(いじ)められているんですよ、その表現は、二度と聞きたくないほど非道(ひど)いものですよ、それに対する反抗とも思われます、右翼や国粋主義者らとは違います、と応えた。

韓国のマッカリ酒場でのこと。日本人のグループが、混雑している客席に分け入り、韓国の若者たちを睨み付け、「チャンコロ、日本軍のお通りだ」と言って座についた。日本語の解らない異国の人たちはポカーンとしていたが、隣の席の日本人には、何もかもが解っていた。

おかしいぞ、何とヘイトな表現?なこと!! 私は今まで何があっても日常、このような言語を使用すべきでないと心がけるが、このようにヘイトする奴とそれらの行動に反対する人たちが同じテーブルについて、互いに主張し合えないものか。

思考の浅薄な私の解決策は、ヘイトする奴らを強権を使ってでもやらせないようにするしかないと考えるが、この方法は、横暴だと批判されるのだろうが。いくら表現の自由を認めているといえども、絶対許すわけにはいかない、言語?同断だ。

 

憲法学者の桧垣伸次さんのネットにあった記事をここにダイジェストさせてもらう。日本ではヘイトスピーチを規制する法律はない。名誉毀損罪(刑法230条)、侮辱罪(刑法231条)が適用できる場合があるが、表現の対象が、人種民族などの不特定多数の場合は適用できない。

あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約)4条が人種に基づく差別の煽動を禁止し、処罰することを義務づけているが、日本は条約加入に際し、4条について、言論の自由に抵触しない限度で履行する旨の留保を付している。

2002年、国会で人権擁護法案が審議されたが、翌年廃案、2005年には、人権侵害救済法案が提案されたが、審議が進んでいない。桧垣伸次さんもまた、表現の自由という極めて重要な権利を規制することにつながりかねないと、懸念されている。

2013年9月23日月曜日

ジイジイ恰好いいよ!!

俺さまの最新のオシャレ? これって、やっぱり、ちょっと変な気分だ。

これから綴りたいことを綴ろうとするには、恥を忍んで、どうしてもプライベートなちょっとした部分、ランクの高い?マル秘事項を晒(さら)さないわけにはいかない。それは、私の持ち物の中で下着類が極端に少ないことだ。

独り暮らしの私には、少ない方が管理しやすいから、、、は表向きで、本当はものぐさで補充してないだけのこと。最近、そんなことを酒の席で話題にすると、事情を察した友人が早速パンツを差し入れてくれた、肌着は未だに夏用は2枚だけ、靴下は家人が買ってくれた。それで、よかったねでは、これからの話が進まない。

パンツはゴムヒモが緩んだ時が捨てどきで、ついに3枚になってしまった。同時に靴下も底をついた。靴下は、弊社の商品である中古住宅の家の周りの除草や樹木の伐採などの作業で、傷みが酷く洗っても汚れが落ちないものを、左右の揃いを気にしないでドンドン棄てるものだから、押入れの小さなケースには片足づつがバラバラの靴下の山だ。

その結果、左右不揃いの靴下を履くのが日常的になってしまった。

ところが或る日、たまに会った娘(長女)の娘(孫・小学1年生)が、ジイジイの左右不揃いの靴下を見つけて、破顔、腹を抱えて、全身を前後左右にワナワナ揺すり、驚天動地、大いに面白がってくれた。その興奮がいつまでも終わろうとしない。

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 MX-3500FN_20130923_170515  孫からの手紙の一部

 

そんなことがあって、最初は片ちんば(※)の靴下を履いての外出を多少気にしていたのだが、この孫からの称賛?を受けてからは、面(つら)の皮が一層厚くなったようで、堂々と平気で出歩くことにした。

懐かしい片ちんばという言葉を、この際きちんと確認しておきましょ。

(※)日本語俗語辞書=片ちんばとはもともと片方の足が不自由なことや左右の足の長さが揃っていないことをいった。ここから靴や下駄、靴下など左右異なったものを履いて揃っていないこと、片一方しか履いていないことをいう。更に箸や手袋など足に関係ないものでも、本来対の物が揃っていないことを片ちんばというようになる。跛(ちんば)ともいうが、どちらも差別的表現を含む言葉である 。

数日後、今度は二番目の娘(次女)に言われた。「お父さん ナウイ、ネエ アメリカでは、今、有名人が左右柄違いの靴下を履いてコマーシャルに出て、その靴下の人気が沸騰中なんだよ。日本の店頭にも上陸したそうよ、ネットでも販売してるわ」、と、きた。

念の為に、友人Aにも聞いてみたら、「そうなんだよ、 最近、街なかで女の子が柄違いの靴下を履いているのを見たことあるぞ。あ、れ、れ、と思ったけれど、なかなか可愛いいんだよ」と言った。

そうか!! これがオシャレならば、俺はブームの最先端をいっていることになる。孫に会うときぐらいはできるだけ柄違いの靴下を履くことにしよう。

2013年9月17日火曜日

アンダーコントロールだって?

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20130910 朝日・朝刊

IOC総会で、福島第一原発についての質問に答える安倍晋三首相(前列中央)=7日、樫山晃生撮影

 

国際オリンピック委員会(IOC)の総会で、2020年の東京五輪招致の決め手の一つとなった20130907の安倍首相の発言に、国外の人は当然、国内の多くの人も唖然とした。私も聞き耳を疑ってしまった。

日本は確実に失格するだろうと言い捨てた理事もいた。三陸、特に福島沖を漁場にしている漁民のみなさんこそ、ぎょっとしたのではないだろうか。日本国中が東京開催を大喜びしているように報道されているが、その陰で福島の漁師たちの怒りの声はやまない。この首相発言の今後の波紋に危惧した。

この総会での発言録を20130910の朝日新聞でまとめていたので、それをここに転用、列挙させてもらった。よくも易易と気楽に発言してくれたもんだ。

 

・状況はコントロールされており、東京にダメージを与えない。(招致演説において)

・汚染水の影響は原発の港湾内の0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされている。

・福島の近海のモニタリング結果は、最大でも世界保健機構(WHO)の飲料水の水質ガイドラインの500分の1。

・日本の食品や水の安全基準は世界でも最も厳しく、被曝(ひばく)量は国内のどの地域でも基準の100分の1。

・健康問題は今までも、現在も、將來も、まったく問題ないと約束する。

・抜本解決に向けたプログラムを私が責任をもって決定し、直ぐに着手している。(以上は、総会での質疑で)

 

だが、現在、今尚、福島第一原発の港湾内には1日300トンの汚染水が、流れ込んでいる。港湾の入り口付近の海水からは、1リットルあたり68ベクトルのトリチウムが先月の18日に検出されている。また、東電自らが「(汚染水)の遮断は完全でない」と認めている。

高濃度の汚染水をためていたタンクから300トンが漏れた事故では、外洋に流れだした可能性がある。これは、直接排水溝から流れだしたと考えられるが、地下に浸透して、原発の施設の地下水脈に合流した可能性もある。

このような状況下、どうして安倍首相はあのような発言できたのだろうか。

五輪が東京で開催されるのは、個人的には嬉しいけれど、安倍首相発言を虚しく聞き流し、福島の海の漁で暮らしている人たちのことを考えると、草々浮かれている場合ではない。安倍首相の発言通り、抜かりのないように対策を講じてもらいたい。日本の国際公約になったのだから。

 

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20130910 朝日・朝刊

2013年9月14日土曜日

2020年東京五輪、決定

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20130910朝日・朝刊

2020年夏季五輪の東京開催が決まったのを祝い、ライトアップされた東京都庁=9日、午後、本社ヘリから、東京都新宿区、河合博司撮影

 

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20130910  朝日・朝刊

ライトアップされた東京タワー(手前)とレインボーブリッジ)(右奥)。奥に湾岸地域が広がる=9日午後、本社ヘリから、河内博司撮影

 

2013 9月9日。

いつものように早朝4時に起きて何気にテレビ(NHK)をつけると、2020年のオリンピック開催国を決める国際オリンピック委員会(IOC)の審査の模様を中継していた。総会はアルゼンチンの首都ブェノスアイレスで開かれていた。最終的には5時半頃に、ロゲ会長が「TOKYO 2020」のボードを掲げ、「と、きょ、お」と告げ、東京開催が決定した。東京は、これで2度目の開催になる。この時、テレビの瞬間視聴率が12%を超えていた。他の民放でも同じような中継をしていた。

前回の招致活動は、当時東京都知事だった石原慎太郎氏が中心になって行われた。今回ほどの一体感がなく、私だけではなく多くの人が白けていた。スポーツに相応(ふさわ)しくない男がいくら旗を振ったって、肝腎なところは全て広告代理店任せ、高慢ちきで、身内の人間にまで活動費用をばら撒くなど、副業的だった。公費の無駄遣いが目立った。そんな招致活動に賛同者は増えるまいと思っていたら、案の定国民・都民の支持が得られないまま、しぼんでしまった。

招致委員会の国際広報担当の高谷正哲(たかやまさのり)氏の発言が印象的だった。「前回はコンサルタントの言う通りにやっただけ。今回は自分の思いを伝えられた」。

そしてようやく、この日、東京開催が決定したのだ。第32回の東京開催は2020年だから、今から7年後のこと、開会は7月なので私は71歳だ。1回目は1964年、私が16歳高校1年生の時だった。

以下、20130910の朝日新聞・朝刊の1面と2面、社説を、そのまま転載させてもらった。マイポケットに記録として残しておきたいのだ。

 

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20130910 朝日・朝刊

6日、ブエノスアイレスのIOC総会開会式に出席し、スペインのレテイシア皇太子妃(左)とあいさつする高円宮紀久子さま=AP

 

1面

結実 チームジャパン

2020年東京五輪

人脈・笑顔 入念な戦略

2020年夏季五輪開催都市を射止めた東京。舞台裏には、政権を筆頭に総力戦で臨んだ「チームジャパン」の戦略があった。

投票2日前の5日。国際スポーツ界に顔が広い高円宮紀久子さまは、朝からホテルの一室にこもり、国際オリンピック委員会(IOC)委員と面会した。15分から30分おきに、入れ代わり立ち代りで約40人。午後11時になるとロビーに下り、歓談を続けた。

安倍晋三首相は、昨年末の就任直後から東京五輪招致を目指してきた。皇族の積極関与を渋る宮内庁を押し切ったのも政権側だった。前回招致では1回目の投票で22票、2回目は20票で落選。票読み以下に終わった反省から「1回目の投票で30~40票を固める戦略だった」という。

政権幹部は総会直前、「東京が30票台後半で、マドリードは20票台後半。浮動票は20票くらいだ」との感触を得ていた。政権は人脈豊富な紀久子さまを、スペイン皇太子らが「王室外交」を展開するマドリードに対し、浮動票獲得の切り札と位置づけていた。

7日、ブエノスアイレス。IOC総会の招致演説で「チームジャパン」の口火を切った紀久子さまは、東日本大震災への支援の謝意を伝えた。被災地の宮城県気仙沼市出身のパラリンピアン、佐藤真海(まみ)選手、フエンシングの太田雄貴選手やタレントの滝川クリステルさんが続いた。プレゼンターはみな、少し大げさなジェスチャーと笑顔で演説をした。「日本人がこれほどまで感情を出すとは」とIOC委員には驚きをもって受け入れれた。投票の結果は、日本の圧勝だった。

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開催期間 東京五輪 20年7月24日~8月9日

       東京五輪パラリンピック 20年8月25日~9月6日

 

2面

細心の集票 五輪つかむ

官邸・競技団体、教訓生かす

首相、首脳外交・外遊先で攻勢

「私たちのような皇族がこのように話をすることは初めてかもしれません」。2020年夏季五輪開催都市を決める7日の国際オリンピック委員会(IOC)総会での招致演説の冒頭、国際スポーツ界に親交が深い高円宮紀久子さまが語りかけた。「チームジャパン」のプレゼンテーションはIOC委員の心をつかんだ。

オズワルド委員(スイス)は言った。「特にプリンセスが素晴らしかった。首相のフクシマについての演説は説得力があった。不安? 7年後だから、心配してないよ」

ぎりぎりで間に合わせた。最高の出来だった。水野正人専務理事は、IOCの公用語の仏語を使うことにこだわった。プレデンテーションの45分間を超過しそうになったが、最後を締めた竹田恒和理事長が少し早口に、しかし確実にメッセージを届けた。

五輪招致に意欲を燃やす安倍首相が舞台に選んだのは首脳外交だった。

政権の発足後、間もない今年1月、初の海外訪問の直前、首相は東南アジアの国々を指さしながら外務省幹部にこう尋ねた。「この中でIOC委員がいる国はどれだ」。幹部が答えに窮すると、「せっかく会うのに何をやっているんだ」と叱った。

首相は6月に横浜で開いた第5回アフリカ開発会議(TICAD5)では、参加国すべての首脳に東京招致のピンバッジを贈った。8月の中東アフリカ訪問前には「最後の追い込みをかける。燃えるよ」と周囲に語った。

IOC内で影響力があるアジアオリンピック評議会(OCA)のアハマド会長(クウエート)がマドリード支持に流れたかもしれないとの情報を受け、支持を再確認した。9月のロシア訪問では、2020年万博開催に協力を表明ししてIOC委員3人の支持を取り付けた。

安倍首相は総会会場に入ってからも、振る舞いに気をつかった。警護官を身辺から距離をとらせ、委員と親しくあいさつできるようにした。「シカゴの16年招致で、オバマ大統領の警護官がIOC委員を排除しようとして反感を買った」(首相周辺)ことを教訓にした。

競技団体も集票を割りあてられた。当初から期待したサッカー関係者の票は投票3日前にマドリードの働きかけになびき、一時は関係者の携帯電話がつながらなくなったが、投票当日に奪い返した感触を得た。

不祥事続きで全日本柔道連盟の会長を退いた上村春樹氏は、招致委員の再三の要請を受けて、急きょ世界選手権が行われていたリオデジャネイロに飛び、親交が深い国際柔道連盟のビゼール会長に支援を頼んだ。

東京は開催理念に乏しく、3都市で唯一開催経験があるなど、IOC委員の心を動かすには弱みもあった。しかし、汚染水事故に関心が集中した結果、ほかの論点は覆い隠された。

汚染水問題についてもIOC内には「スポーツと関係ない話」と距離を置く委員もいて、安倍首相の招致演説で落着ムードが広がった。

(ブエノスアイレス=阿久津篤史 田伏潤)

 

IOC、無難な選択

ソチとリオの混乱に嫌気

汚染水とは別の深刻な問題をIOCは抱えていた。

東京が2020年の開催都市に選ばれた直後、デフランツ委員(米国)は、「ここ最近の招致に勝った都市が示した計画は『偉大な作り話だった』と皮肉る委員もいた。東京は全ての計画を着実に実現して欲しい」と話した。

ロシアで初となる冬季五輪開幕が来年2月に迫るソチ。開幕1年前式典があった2月、現地視察したプーチン大統領は準備の遅れと建設費の想定外の膨らみに怒って担当大臣を更迭した。2016年に南米初の夏季五輪を控えるブラジルのリオデジャネイロ。主要紙エスタード・デ・サンパウロは8月31日、「深刻で危機的状況」と報じた。スタジアムや地下鉄建設などのインフラ整備「は「すべて遅れている」と指摘している。

レスリングの元五輪選手で東京招致を引っ張った馳浩衆院議員は、ブエスアイレス入りする直前に立ち寄ったリオで、五輪組織委の幹部から「お金の問題じゃない。国民が五輪施設の建設をしてくれない」との嘆きを聞いたという。

サッカー・コンフエデレーションズ杯が開催されたブラジルでは6月、来年開催するワールドカップへの巨額出費などを批判するデモ隊と、治安部隊が激しく衝突した。東京と今回争ったイスタンブールでも、春先から反政権デモの嵐が吹き荒れた。

IOC委員が泊まるホテルのロビーで祝杯をあげながら馳衆院議員は「日本にはお金も平和もある。IOCは無難に開催できる消極的な選択をした。競技以外で煩わされたくないという空気があった」と言った。

10日のIOC会長選で本命視され、20年五輪を会長として迎える公算の大きいドイツ出身のバッハ副会長。会長と開催都市を同時に決める場合、IOCは両方同じ大陸から選ぶことには抵抗があることから、東京支持と見られてきた。そのバッハ氏は言う。「東京は伝統的な安定性を主張した。IOC委員たちは今回はチャレンジを恐れたということだ」

(ブエノスアイレス=平井隆介、岩田誠司)

 

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社説

 

東京五輪

成熟時代の夢を紡ごう 

 

7年後の夏、東京に再び聖火がともる。

第2次大戦以降で、夏季五輪を2度開く都市は、ロンドンと東京しかない。

前回の1964年大会は戦後の復興を象徴した。人も仕事も増え続け、新幹線や高速道路が開通した。先進国入りをめざして突っ走る時代を告げた。

今の日本は、様相が違う。少子高齢化に財政難の時代である。高度成長期と同じ夢を追いかけることはできない。

都市も社会も成熟期を迎えた今、インフラではなく、人に資産を残す五輪を提唱したい。

豪華な施設はもう要らない。長い目で活用できる最小限で十分だ。投資を注ぐ対象は、若者たちの心にこそある。

昨夏のロンドン五輪は204カ国・地域が集まった。日本にいながらにして世界がやってくる。人も文化も混じり合う世界の息吹を体験し、記憶に刻み、思考を広げる機会となろう。

参加者は選手だけではない。語学を磨いてボランティアになってもいい。観客としてでもいい。話題の選手を育んだ異文化に思いをはせる場を、家庭で、学校で、地域で、広げたい。

五輪は「平和の祭典」でもある。外交関係が揺れる中国や韓国ともわだかまりなく交流できる雰囲気作りは欠かせない。一緒に夢を紡ぐ若者らの輪に国境の壁があってはならない。

直前の2018年には韓国・平昌で冬季五輪がある。世界の目が韓国と日本に続けて注がれる好機を逃がさず、官民挙げて未来志向の友好をめざしたい。

国内に目を向けば、東京の一極集中ではいけない。国際オリンピック委員会(IOC)では、大震災からの復興という理念に共感し、票を投じた委員も多かった。東北地方の再興はもちろん、日本全土で五輪の恩恵を分け合う工夫が必要だ。

前回の東京五輪のころ、都内の15歳未満の年少人口は65歳以上の5倍もいた。今は老年人口の約半分しかいない。

多くの国もいずれ同じ道をたどる。高齢化時代のスポーツの意義を先取りする社会像をめざすのも、これからの五輪ホストの使命と考えるべきだろう。

お年寄りや障害者も幅広く息長くスポーツと親しめる環境作りが求められる。パラリンピックにふさわしい街のバリアフリー化も急務だ。そして、人種も国籍も関係なく気楽に街で助けあえる心の余裕を育てたい。

21世紀の新しい五輪の姿を示す成熟国家の力量やいかに。世界へ発信する真のプレゼンテーションはこれからも始まる。

 

原発への重い国際公約

福島第一原発事故の収束は、そもそも五輪とは関係なく取り組むべき問題だ。

ただ、東京開催の決定にいたる過程で、世界が日本の姿勢に厳しい目を注いでいることがあらためて示された。

安倍首相は招致演説で、汚染水問題に「責任をもつ」と表明した。記者会見では、原発比率を下げていき、今後3年間で再生可能エネルギーの普及と省エネを最大限加速させることも明言した。

世界に向けた公約だ。内外に「五輪誘致のための方便」ととられないよう、実行力が問われる。政権の最優先課題として取り組んでほしい。

「状況はコントロールされている」 「汚染水の影響は原発の港湾内で完全にブロックされている」--国際オリンピック委員会(IOC)総会での安倍首相のプレデンテーションと質疑応答は、歯切れがよかった。

必ずしも原発事故の問題に精通しているわけではないIOC委員には好評で、得票にもつながった。

だが、この間の混迷ぶりや放射能被害の厳しさを目の当たりにしてきた人には、空々しく聞こえたのではないか。

確かに、汚染水問題で国が前面に出る体制は整えたが、うまく汚染の広がりを食い止められるかはこれからだ。

すでに技術的な課題が多く指摘されている。汚染水が地下水に到達したとみられるデータも検出された。今後も想定外の障害が出てくる可能性がある。汚染水をうまく解決できたとしても、さらに困難な廃炉作業が待ち受ける。

「安全・安心」を強調するあまり、事態の深刻化を隠そうとしたり、批判を恐れて必要な措置に手をこまぬいたりするようなことは論外だ。

現状と自らの取り組みを率直に公開し、世界の知恵を借りながら対策を講じていく謙虚な姿勢こそが、国際的な信認につながることを忘れてはならない。

エネルギー政策についても、政権の発足以降、「原発回帰」をにじませる発言が出る一方、長期的なビジョンは何も打ち出していない。

事故からすでに2年半が経とうとしている。どのような原発比率を下げていくか。再エネ、省エネの普及をどんな手立てで実現するのか。将来像を語り、具体的な道筋を示すことが首相のつとめだ。

日本での五輪開催の決定は、そうした取り組みを促す契機になってはじめて、心から喜ぶことができる。

2013年9月8日日曜日

べらんめえ土橋、逝く

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野球評論家の豊田泰光氏の日経新聞”チェンジアップ”が面白い。今回の記事は、「べらんめえ 記憶に鮮やか」のタイトルだ。

もう3年前になるだろうか、ある生命保険会社の講演会に招かれた時の講師が豊田氏で、西鉄ライオンズの現役時代の、意気盛んだった頃の話をしてくれた。内容は、黄金期の西鉄ライオンズの選手がいかに野武士的だったか、稲尾和久や中西太らのことだ、その数々のエピソードが抱腹絶倒だった。

講演後、同じテーブルでドリンクを飲んでの懇話会も楽しかった。

それからの日経新聞のチェンジアップは、豊田氏が担当した時の記事は特に楽しみだ。保存したい記事は、マイポケットに転載させてもらっている。今回の話題は、先日亡くなった土橋正幸氏のことだ。

以前に、私と同郷の野村克也氏が、あんなに、タイミングの合わないピッチャーはいなかった、苦手だった、と話していたのが記憶にある。京都府の北部の山の中からやってきた私には、しゃきしゃきの江戸っ子が、どんどん投げてくるので、困って、何度もタイムをかけさせてもらった、と。小学生から中学生になっても、南海ホークスの野村捕手の記事ばかりを追っていたが、その時代に東映フライヤーズの土橋投手は野村選手とも勝負していたのだ。

下の記事にある下町の娯楽の殿堂・フランス座(現代は浅草東洋館と改称)は、ストリップ劇場だったらしい。土橋氏は生家の稼業の魚屋の仕事のかたわら、この劇場が保有していた軟式野球のチームに所属、プレーしていた。作家の故井上ひさしさんとバッテリーを組んでいたなんて、、、そんなことってありか?、、、嘘みたいな本当の話のようだ。井上さんを尊敬しているんだ。俄然、興味が盛り上がる。友人が東映の入団テストを受けるのに、一緒についていって、友人は不合格で土橋氏は合格した。

評論家としては、江戸っ子口調でのテレビ解説で人気を博した。

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以下は、日経新聞の記事のままだ。

24日に亡くなった東映(現日本ハム)の元エース、土橋正幸氏は私にとって、球界の数少ない友人の一人だった。

1958年7月、西鉄ライオンズの西村貞朗が、東映相手に完全試合を演じた。これに土橋が一丁かんでいた。土橋は5月31日の西鉄戦で、今もプロ野球タイ記録として残る9連続三振をマークしていた。1試合16奪三振も当時の新記録だった。

「この汚名を着せられたままでは生きていかれぬ」となった西鉄勢は、西村の完全試合で仇(あだ)討ちしたのだった。東映の岩本義行監督が「土橋の16奪三振のお返しをされた」とコメントしている。侍ぞろいのパ・リーグ黄金期の一幕であり、土橋もその主役の一人だった。

軟式出身で、下町の娯楽の殿堂、浅草フランス座の草野球チームでも投げたというバリバリの江戸っ子。投球そのものが「べらんめえ調」だった。テークバックであまり腕を引かず、耳の後ろにすぐ手をもっていく。野手のような投げ方でいて、めっぽう球が速い。しかも、ちぎっては投げ、ちぎっては投げと、ポンポン投げ込んでくる。

私に球の握りを見せ、「まっすぐだから、ちゃんと打ちなよ」と言いながら、本当に直球を投げてきた。直球とわかっていても、こっちはおちょくられて逆上しているものだから、バットに当たらない。しかし不思議に三振をしても気持ちがよかった。それが土橋という男だった。

16三振を奪ったとき、「この前から投げ始めたドロップが効果的だった」と話している。ドロップとは縦に割れる大きなカーブ。直球だけでも威力十分なところに変化をつけられたら、とても打てるものではなかった。

いつもあんなふうに曲げたりひねったりすれば、もっと勝てたはずだが「宵越しの銭は持たねえ」といった風情の”町人投手”はぐずぐずした投球を好まなかった。

投手人生の盛りは21勝を挙げた58年から64年までの7年ばかりで、通算162勝。それでも下手な200勝投手より、人の記憶に残った。パッと咲いてパッと散った潔さのゆえだろう。

2013年9月5日木曜日

又もや、腰痛!

3ヶ月程前のことだ、慣れ親しんだいつもの突発的なギックリ腰ではなく、2、3日前から静かに静かに痛みがやってきて、そのうち、腰の辺りの鈍痛が、どか~ん、と激痛に変わった。いつもとは違う誘(いざな)いだ。これで、何度目の腰痛になるのだろうか、この30年で7、8回、結果はいつものように、痛たった、あぁあ~痛い~と、痛苦の悲鳴をあげる私と、一方では、辛抱、我慢と耐え忍ぶ私がいる。

今回は整骨院に20回程通ってみたが、一向に鈍痛が引かないことに私の心配性がおさまらない。元々、体のケアについては慎重な方だ。辛抱の限界。腰骨やその周辺の実態を知るためには、整骨院ではなく最寄の整形外科医に相談することにした。

20130823の朝、診療開始は08:30からだけれど、早く行って、早く診てもらって、早く会社に戻りたかったので、08:00に整形外科医院に飛び込んだ。医院には、受付窓口は閉ざされたままだが、診察券をボックスに入れた大勢の老人たちが、待合室で雑談をしながら待っていた。この待っている人の多さに暗然、「俺、今、仕事中だ」と独り言、目がくらくらした。ここなら空(す)いているのではと目星をつけておいたのだが。

初診の私は、順番をキープすることもできずに、無為に待つしかなかっただが、診療が開始されると、ほとんどの人はリハビリに向かい、初診者の私は、待ち時間なく2番目に呼ばれ、医師による診断が受けられた。

レントゲンの画像には、堂々とした椎間板(ついかんばん)ヘルニアが確認できた。画像を見せられ、15年前に某大病院に入院した時の学習の成果か、医師の説明をいとも容易に理解できた。

ウィキペディアより、、、、椎体と椎体との間には椎間板がある。椎間板には中央にゼラチン状の髄核、周囲にはコラーゲンを豊富に含む線維輪から成る。この髄核や線維輪の一部が突出した状態が椎間板ヘルニアである。

先ずは痛みをとることです、痛み止め=ロキソニン錠とその薬によって胃が痛めつけられるので、胃薬=ムコスタ錠も入れておきましょう。塗り薬=インテバンクリームも何かと便利なので、これも入れておきましょう、しばらくはこまめにリハビリに通ってください、と医師は言った。神にもすがりたい私は、素直に従った。

リハビリ中、マッサージをしてくれた男性からも復習させられた。髄核の水分量は年齢と共に減少して粘り強さがなくなるんです。その状態で腰骨に圧力がかかると、その圧力に耐え切れずに線維輪を破って髄核が飛び出しちゃうんです。その突出したものが神経を圧迫して痛みが発生するのです。

その突出した物は、そのうちどうなるの?の質問に、体の中に発生した廃棄物はそのうちに浄化されるのですが、それまでには時間がかかるのです。飛び出して椎体と椎体の間の隙間はどうなるのですか?の質問には、そのうちに新しい髄核が作り出されます。それまでにも時間がかかります。

痛み止めの錠剤を昼夜の2回だけ、胃薬とともに服薬しただけなのに、その効果に驚いた。余りにも、この痛み止めの錠剤が効くので、これでは、自分が腰痛であることを忘れてしまうではないか。少しでも痛みを感じていないと、リハビリに取り込む熱意が薄れるのではないかと考えて、今は塗り薬を少量だけ使っている。

医院に行く度に思うのだが、女性の老人たちの何と多いことか。男性では私のような年齢〈64歳)以上の人が2、3人、若者で、交通事故かスポーツで痛めたのではと思われる人は、たまに見る程度。女性は歳を重ねるごとに、男性よりも、ホルモンなんかの影響で手足の関節が弱くなるのだろうか、それとも、女性ならではの生活習慣病なのだろうか。

友人に、整形外科に通院している患者は女性の老人ばかりだよ、と話したら、友人は、男はみんな死んでしまっているのだよ、と言い放った。それって、本当?

2013年9月3日火曜日

サダンのライブ、夏の夜宴

サザンオールスターズ

 

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20130901朝日新聞  茅ヶ崎のライブで歌う桑田佳祐さん=ビクターエンタテインメント提供。

 

茅ヶ崎公園野球場で、5年ぶりに活動を再開したサダンオールスターズの公演を、目の前で観るのではなく、桜木町駅前にある映画館・横浜ブルク13で、生中継を観た。映画館はほぼ満席だった。我が一行は、ジジイの私と、次女とその婿と、孫だ。

この企画を「ライブ・ビューイング」というらしい。

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20130901朝日新聞 会場に集った大勢のファン。海岸には歌声だけでも聞こうという人たちも=31日、午後、茅ヶ崎市、本社ヘリから、遠藤啓生撮影。

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この企画のタイトルはーーー

WOWOW presents サザンオールスターズ SUPER SUMMER LIVE 2013
「灼熱のマンピー!!G★スポット解禁!!」
supported by Volkswagen Golf ライブ・ビューイング

ーーーとあるが、年寄りにはタイトルが難しいのでごじゃる。

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次女の夫の竹ちゃんは、友の会に入っているほどの熱狂的なファンだ。茅ヶ崎でのライブには抽選で外れたが、このライブ・ビューイングには当選したので、お父さんも行きましょうと、誘われた。義父おもいのいい婿(むこ)だ。

このショーの途中、ステージ上で桑田佳祐に、服部信明茅ヶ崎市長から市民栄誉賞が贈られた。市長は「長年にわたって茅ヶ崎、湘南の魅力を国内外に発信していただいた」と盾を渡すと、ファンから大歓声が沸き起こった。茅ヶ崎市にとっても、桑田佳祐にもファンにとっても、申し分のない授受だ。桑田佳祐は、「(市民栄誉賞のことを)最初に聞いた時は、トイレでしゃがんで思わずガッツポーズをしましたね」と笑わせ、「茅ヶ崎に生まれた幸せ、誇りを胸に刻みたい。亡くなった父、母、姉にも見せたかった」と話した。

茅ヶ崎の市内のあちこちには「お帰りなさい」の看板がいくつも立った。

ステージでは、私にもよく聞き慣れた歌曲がいくつも歌われ、知っている曲はそれなりに楽しめたが、聞いたことのない曲は、ただ、スクリーンに映しだされる歌詞を、メロデイーに合わせながら追いかけるだけ。

それにしても、これだけのお客さんを呼べるエンターテーナーは、今の世、桑田佳祐ぐらいなんだろう。この映画館も、本場での熱気がムンムン伝わってきて大盛り上がり。竹ちゃんは、すっかり有頂天に上体をスウイング、スクリーンの桑田佳祐に向って声をかけていた。

ところが、この私、時間が経つにつれて、段々と、彼ら彼女らほど夢中になれなくなっていく。彼ら彼女たちは、どうして、それほどまでに夢中になれるのだろうか、と不思議な気分。私の何かが、彼らとは違う、これは何だ? 何故か?

排他的に、興奮の渦から弾き飛ばされてしまいそうな、この疎外感が疎(うと)ましい。この不思議な感覚の元素は、私の素性によるのだろう、生まれ育ちの素性って奴の悪あがきか。私の精神の未成熟、練磨不足、偏狭のせいか。それとも、歌詞に井上陽水や中島みゆき、忌野清志郎のように社会の時事性や政治性がこのグループには乏しいから、かもしれない。

それにしても、桑田佳祐のエンターテーナーとしての能力の高さには驚いた。その能力を活かす仕掛け人たちがこれまた極めて優秀なんだろう。

でも、半ズボン姿はよくない、格好良くなかった。はき方においては、桑田圭佑よりも俺の方が、竹ちゃんだって、絶対負けていないよ。半ズボンをはき慣れていないのだろう。

観終わって苛立つ。私は、生来の拗(す)ね者なのだろうか?!

2013年9月1日日曜日

’13夏休みの久十浜海岸

九十浜海水浴場

上から見下ろした九十浜海水浴場

林間遊歩道の入り口

駐車場から海水浴場に向かう林間遊歩道。行きは下りで楽ちんだったが、戻ってくるときはキツかった。

 

先日20130818、19、我が家の夏休み最後の大企画、九十浜(くじゅうっぱま)海水浴場に1泊2日で、行って来た。伊豆下田の須崎の御用邸の裏側にあたる所、こじんまりとした海水浴場だ。駐車場と監視、売店は、地元の須崎地区が運営しているようだった。入江になっていて波がない。周辺の岩場には、幾種類もの魚が泳いでいるのが見えた。南洋でよく見かける濃い青色の魚が多くいた。公衆用のトイレの排水が、一部地表に溢れて悪臭をはなっていた以外は申し分のない海水浴場だ。

宿泊は外浦海岸の近くのクリフサイドホテル。建物は少し古いが、オーナーが実に気さくな方で、私はこのホテルが気に入ってしまった。海を眼下に見下ろせる立地は申し分ない。次女の勤めている会社の健康保険組合とこのホテルは契約していて割安に利用できた。

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クリフサイドホテル       

 

孫の晴は一度海に入るとどんなことがあってもでてこない。私も一度はちょこっと泳いでみたが、それだけではつまらない。砂浜で横になって、いつまでも、ぼんやり眺めているのには耐えられない。

こんな無聊(ぶりょう)を慰めるには、自らの行動で自らの楽しみを見つけるしかない。

20年ほど前、子どもが小さかった頃、毎年、葉山の森戸海岸に行っては、遊泳区域から少し離れた名島まで、子どもを浮き輪に入れて泳ぎながら引っ張っていった。島までは、1キロか1、5キロ離れていた。名犬・ゴンもゴムボートに乗せて連れて行った。渡し船もあるが、誇り高い私には金を払ってまでも乗れるわけがない。潮の流れが強く、行きは順調に進めたが、帰りは大きく流され、来たときよりも倍近く泳いだ。

そんな懐かしい日々を思い出しながら、一人砂浜で寝そべっていた。が、やはり、ここでも、浜から少し離れたところに島があって、むずむずと、ジッとしていられなくなって、島に向かって泳ぎたくなった。

足が立たなくなった所から、300メートルほど泳ぎ出たところで、いつものようにスムーズに進まないことに気づいた。水を掻く腕の力が弱ったのか、水を煽(あお)る足の力が弱ったのか、何かが可怪(おか)しい。体型が流体としてふさわしくなくなってきたのか。焦れば焦るだけ、頭は混乱する。クロールで進みたかったが、方向が確認できないので、顔を上げて前を見定めて泳ぐ古式泳法(小堀流)を使った。腕は抜き手で足はあおり足? あおり足は、平泳ぎのときの足の要領だ。この泳ぎ方はスピードが出ない。それでも、30分後にはやっとのおもいで島に着いた。たどり着くことができても、帰りは、流されないように近くの岩場沿いに泳ごうと決めていた。弱気になった。まだ、この時点では、私が老化による体力の減少って奴に気づいていなかった。

監視人は、泳いでいる私に向って、遊泳区域から出ていっては駄目ですよ、と拡声器で警告していたようだが、私にはその声は届かなかった。監視台の前のパラソルに陣取っていた私の家族は、ジジイのことらしいと気づいたけれど、知らんぷりを装った。

島からは陸地の様子が判然とは見えないが、監視員の望遠鏡には私の履いていた黄色いブーツがよく見えていたようで、やっと島に着いたわ、今岩によじ登っているぞとか、仲間と話していたようだ。

それにしても、疲れた。島の屹立する岩にしがみついて、この疲れが、老いというものなのか、と、はたと考えた。老いたか!! 私は本当?に確実?に老人になったようだ。普段、ひと様には、初老の域に達しました、なんて言っているが、もう既に本格的な老人になり下がっているのだ。

初老とは老年に入りかけた年頃で、辞書では「40歳の異称」とある。私はこの9月で65歳、老人福祉法では65歳からは老人と呼ぶようだ。

島の狭い平らな岩に腰かけて、上部を見上げると、今にも負いかぶさってきそうな岩に身震いした。岩が崩れてきて、こんな所で一人死(ひとりじ)にしたくない。慌てて、島を後にした。帰りは岩場沿いに泳いで帰ったが、これが楽しかった。潮に流されるのが怖かったのだ。小さい魚やたまには大きな魚が、目の前を泳いでいた。浅瀬で伊勢海老を捕まえようとして手の平を挟まれた。結婚式の料理にでてくるあの海老の4分の1ぐらいの大きさだった。

監視員は、私の戻りを確認していたようだ。浜に戻って砂の上に横たわったが、全身、疲れでクタクタ。監視員から、何らお咎(とが)めを受けなかった。監視員の寛容さに感謝。

ホテルのオーナー推薦の近所の魚料理屋で食事、刺身が美味しかった。お酒も旨かった。腹いっぱい食った。次女と晴は魚大盛りの丼(どんぶり)、竹ちゃんと家人は魚大盛りのラーメン。私は刺身でお腹がいっぱいになりました。

そして翌日、一日じゅう過ごした浜は、昨日に増していい海水浴場だった。

実は宿泊したホテルのオーナーに、翌日過ごすための相談をしたところ、この浜を教えてくれた。名もなき浜だ。ホテルの向かいの道路を横切って、細い急坂を海に向って下りてください、そこには、狭いけれど砂浜があって岩場もあります、十分楽しめますよ、と教えてくれた。

教えられた通り、そこは、秘境と言うには無理があるが、ひと目を避けるようにあった。昨日の九十浜の10分の1の縮小版。駐車場がないので、地元の人以外寄りつかない。私らの隣には、地元の漁師の娘さんが、東京でダンスをやっている恋人を連れてきていた。そんな秘境?だから、鮑(あわび)その他の密漁が絶えないのだろう、漁協の人が頻繁にパトロールしていた。

海水浴客は我ら以外、8人ばかり。次女の夫・竹ちゃんは、ホテルのオーナーから借りた釣竿で魚釣りに没頭。家人と晴は海に入ってぷ~か、ぷ~かのマンボー状態。私は波打ち際で昼寝、打ち上げられた土佐衛門だ。昨日の疲れが取れない。

老いは止まらないことを確認した、夏休みの一日だった。