2013年9月8日日曜日

べらんめえ土橋、逝く

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野球評論家の豊田泰光氏の日経新聞”チェンジアップ”が面白い。今回の記事は、「べらんめえ 記憶に鮮やか」のタイトルだ。

もう3年前になるだろうか、ある生命保険会社の講演会に招かれた時の講師が豊田氏で、西鉄ライオンズの現役時代の、意気盛んだった頃の話をしてくれた。内容は、黄金期の西鉄ライオンズの選手がいかに野武士的だったか、稲尾和久や中西太らのことだ、その数々のエピソードが抱腹絶倒だった。

講演後、同じテーブルでドリンクを飲んでの懇話会も楽しかった。

それからの日経新聞のチェンジアップは、豊田氏が担当した時の記事は特に楽しみだ。保存したい記事は、マイポケットに転載させてもらっている。今回の話題は、先日亡くなった土橋正幸氏のことだ。

以前に、私と同郷の野村克也氏が、あんなに、タイミングの合わないピッチャーはいなかった、苦手だった、と話していたのが記憶にある。京都府の北部の山の中からやってきた私には、しゃきしゃきの江戸っ子が、どんどん投げてくるので、困って、何度もタイムをかけさせてもらった、と。小学生から中学生になっても、南海ホークスの野村捕手の記事ばかりを追っていたが、その時代に東映フライヤーズの土橋投手は野村選手とも勝負していたのだ。

下の記事にある下町の娯楽の殿堂・フランス座(現代は浅草東洋館と改称)は、ストリップ劇場だったらしい。土橋氏は生家の稼業の魚屋の仕事のかたわら、この劇場が保有していた軟式野球のチームに所属、プレーしていた。作家の故井上ひさしさんとバッテリーを組んでいたなんて、、、そんなことってありか?、、、嘘みたいな本当の話のようだ。井上さんを尊敬しているんだ。俄然、興味が盛り上がる。友人が東映の入団テストを受けるのに、一緒についていって、友人は不合格で土橋氏は合格した。

評論家としては、江戸っ子口調でのテレビ解説で人気を博した。

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以下は、日経新聞の記事のままだ。

24日に亡くなった東映(現日本ハム)の元エース、土橋正幸氏は私にとって、球界の数少ない友人の一人だった。

1958年7月、西鉄ライオンズの西村貞朗が、東映相手に完全試合を演じた。これに土橋が一丁かんでいた。土橋は5月31日の西鉄戦で、今もプロ野球タイ記録として残る9連続三振をマークしていた。1試合16奪三振も当時の新記録だった。

「この汚名を着せられたままでは生きていかれぬ」となった西鉄勢は、西村の完全試合で仇(あだ)討ちしたのだった。東映の岩本義行監督が「土橋の16奪三振のお返しをされた」とコメントしている。侍ぞろいのパ・リーグ黄金期の一幕であり、土橋もその主役の一人だった。

軟式出身で、下町の娯楽の殿堂、浅草フランス座の草野球チームでも投げたというバリバリの江戸っ子。投球そのものが「べらんめえ調」だった。テークバックであまり腕を引かず、耳の後ろにすぐ手をもっていく。野手のような投げ方でいて、めっぽう球が速い。しかも、ちぎっては投げ、ちぎっては投げと、ポンポン投げ込んでくる。

私に球の握りを見せ、「まっすぐだから、ちゃんと打ちなよ」と言いながら、本当に直球を投げてきた。直球とわかっていても、こっちはおちょくられて逆上しているものだから、バットに当たらない。しかし不思議に三振をしても気持ちがよかった。それが土橋という男だった。

16三振を奪ったとき、「この前から投げ始めたドロップが効果的だった」と話している。ドロップとは縦に割れる大きなカーブ。直球だけでも威力十分なところに変化をつけられたら、とても打てるものではなかった。

いつもあんなふうに曲げたりひねったりすれば、もっと勝てたはずだが「宵越しの銭は持たねえ」といった風情の”町人投手”はぐずぐずした投球を好まなかった。

投手人生の盛りは21勝を挙げた58年から64年までの7年ばかりで、通算162勝。それでも下手な200勝投手より、人の記憶に残った。パッと咲いてパッと散った潔さのゆえだろう。