2011年10月31日月曜日

九電「やらせメール」問題

今年の3月11日の東日本大震災、その地震で発生した津波が、東京電力福島第一原子力発電所事故を引き起こした。当初、地震とそれに伴う津波の規模が想定以上だったと言われ、ならば、しょうがないのかと納得しようとした、が、これは、どうも想定以上のことではないということが、ここにきて解ってきた。天災に人災が加わった。因果応報。歴史を省みれば、そんなに未曾有の出来事ではないようなのだ。過去幾度となく、同程度の地震と津波が発生していたのだ。原発は必要と思われる対応を、思いつきはしてもきちんとなされていなかった。万全ではなかった。

28日、原子力安全委員会は解体して廃炉にするまでの工程表を示した。そしたら、燃料プール内の燃料は2014年ごろから、原子炉内の溶けた燃料は21年ごろから、原子炉と建屋まで解体して廃炉が完了するのには、30年以上かかるとの見解を示した。その間、臭わなく、目に見えない放射性物質は、密やかに我々の日常生活に迫っている。

さすが、原子力だ、後遺症も後片付けも途方もなく甚大だ。

今に至って、こんな発表を聞かされて、私の浮かぬ顔に暗雲の濃さが一段と増す。この30年間の廃炉に至るまでの作業にかかる費用は、まさか、我々がこれから払う電気代に含まれる? 税金?かと思うと、また、嫌な気分になる。

そんな暗い気分で、新聞の切抜きを整理していたら、見つけたのが九州電力の「やらせメール」だった。これは何も九電に限ったことではない。よく似た事件が、他の電力会社でも行われていた。その切抜きで保存していたものを、下の方に転載させてもらった。

九電の「やらせメール」の実態を著した朝日新聞の記事だ。

読めばなるほどと、納得する。中央や地方の政治家、経済産業省、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、電力会社の役員らのそれぞれの役割というか、¥マーク柄の衣服を纏った¥漬けの走狗たちの、互助的機能がよく理解できる。このやらせメール事件は、この仕組みの象徴的な事件だ。私のブログの歴史に刻み込まなくてはイカンと思った。

この恐ろしい原発に与(くみ)した奴らは、¥マーク酒を飲み、¥マーク旅行や¥マークゴルフ場にも行った。当然、¥マークタクシーに乗ってだろう。この¥は、元はと言えば税金であったり我々が支払った電気料金だ。国民の安全で幸せな生活なんて、そっち退(の)け、ただ¥マークに踊った餓鬼どもたちだ。

マスコミ各社も、原発の開発過程の闇の部分を、原発のもたらすであろう恐怖を炙(あぶ)り出せなかった。これは、マスコミの力不足だ。

 

20111022

朝日・朝刊

読者有論:西部報道センター/多田敏男

九電やらせ問題 電力改革に国民の視点を

 

「やらせメール」問題をめぐって九州電力が迷走している。問題発言から3ヶ月余り。取材していて強く感じるのは、国と佐賀県の顔色ばかりをうかがい消費者に背を向ける経営体質が改まりそうにないことだ。

そもそもの発端は、佐賀県にある玄海原子力発電所の再稼動に向けた6月のテレビ番組で、九電社員らが賛成意見をメールなどで投稿していたこと。これをきっかけに他の電力会社もやらせが見つかり、国や自治体の担当者が関与していたことがわかった。

九電から調査を委託された第三委員会は、やらせに古川康知事や県幹部らが関与していたことを認め、こうした県との「不透明な関係」を解消するよう求めた。お手盛りの社内調査では信頼回復につながらないから第三者に委託するわけで、不祥事企業は調査結果を踏まえて、どう出直すのかが問われる。

ところが、九電は14日にまとめた最終報告書で佐賀県の関与を否定。真部利応社長は記者会見で「(県の関与を否定した)社内調査の方が信用できる」と開き直った。これに対し、枝野幸男経済産業相は「第三者に依頼した意味がない」と厳しく批判した。

九電は知事を守るために、調査結果を曲げたとみられても仕方がない。普通の企業ならば売り上げが激減し、会社の存立自体が危うくなるが、電力会社は違う。電力の安定供給の名目で地域独占が許され、一定の利益も保証されている。消費者は電気の購入先を選べず、体質改善を促す手段が限られている。怖いのは幅広い監督権限がある国や、原発の運転再開のカギを握る立地自治体ぐらい。東京電力の原発事故で消費者の視線が厳しくなったのに、会社の体質が変わらない理由だ。

電力会社にとって、やらせは真部社長が「『白か黒か』でいったら白とグレーの間」と述べたように罪の意識は低い。報告書を県の関与を認めるものにあわてて見直すのも、監督官庁のトップに怒られたからだ。消費者や住民の信頼をどう回復させるかの意識が、経営陣には欠けている。

枝野氏は「国民の視点に対する感覚が理解不能」と批判するが、やらせには国も関与しており、早く幕引きして原発の再稼動につなげたい思惑も見え隠れする。九電だけの「けじめ」で終わらせず、独善的な体質の原点である地域独占を見直すなど、消費者目線の電力改革のきっかけにならなければ意味がない。

2011年10月30日日曜日

こんな悪の、新手口が

水曜日は我々業界では、休みの会社が多い。

でも、仕事熱心な弊社の経営責任者の中さんは、出勤して資金繰りやら、平素できない仕事を、休みの日こそ気兼ねなく出来るので、会社に出勤していた。私は、物件の下調べで会社にはいなかった。

コンピューターを立ち上げて、さあこれから仕事をするぞ、と勢い込んだ丁度その時、電話の呼び鈴が鳴った。朝一発目の電話だ、何かいいことでもあるのでは、と受話器を握って、モシモシと元気よく応えた。

電話を掛けてきた主は次のようなことをよどみなく喋り続けた。

その電話の内容は以下の通りだった。

私は、〇〇信託銀行と、かって消費者金融だった△△が合併してできた、ビジネスローンを専門に扱う会社の者です。今、合併を記念してのキャンペーン期間中で、各社さんに、とってもお得な融資をご紹介しているのです。月末が近づいていますが、資金の手当は大丈夫ですか?よろしければ、申込書をファックスしますので、書き込んでファックスで返してください。

こんな売込みだったのだ。

詐欺師

申込書には、多様なニーズにお応えするとタイトルにあって、来店不要、保証人担保不要、資金使途自由、融資額、審査は決算内容だけではない、と書かれてある。また、金利が年率1.3%~8.0%、保証料無料、40.000名様以上の実績があって、安心なローンだと強調している。

金利の低さに興味をもった中さんは、それじゃ申込みます、でも、私は今日は休みなので直ぐ退社するが、携帯の電話番号を教えておきますので、携帯に電話くださいと電話を切った。

それでも、申込書に記入してファックスした。30分も経っていないのに、早速その会社から携帯電話にかかってきて、前向きに取り組みますからということだった、がその日はそれだけで終わった。

翌日、中さんは仕入れ物件の融資を受けるために、東京の金融機関に自宅から直接出かけたので、昨日の件を、管理の藤さんに、昨日の内容をかいつまんで話し、その融資の手続きを自分に代わって担当者とよく打ち合わせて欲しいと伝えた。

ところが、藤さんが、その金融機関に電話をしても、電話に出た人には、昨日の中さんと担当者との話したことががチンプンカンプンで、話が通じなかった。藤さんは、その旨を中さんに伝えて、今度は中さんが担当者の携帯に電話を入れたら、弊社の社名を忘れているような気配はあったが、何とか昨日話した内容がお互いに通じ合い始めた。取りあえず、社内で、融資を突っ込んで検討してください、と再び念を押した。

そうしたら、中さんの携帯電話に直ぐにかかってきて、1000万円なら大丈夫ですよ、だった。すかさず、中さんは1000万円では足りないので、2000万円ならどうでしょう、と返したら、即、電話がかかってきて、2000万でもオッケーですと言って、2000万円の融資決定通知書がファックスされてきた。

ここへきて、弊社では可笑しいと考え始めていた。

通常の金融機関とのやりとりとは随分異なるからだ。まして、初めての取引先に融資を行う場合、金融機関は決算書や、在庫表、資金繰り表や、その他の書類を用意させ、面談して、会社の取扱商品や仕事の内容、代表者の資質や考え方を聴取されるのが、今までの通例だ。これはどうしても、臭い、クサイぞと察知した藤さんは、ホームページを調べて、その金融機関に電話で確認したら、実は、此の頃頻繁に自分たちの金融機関の名を名乗って、融資の勧誘を装う詐欺が行われているとの説明があった。その金融機関のホームページには、このような詐欺行為の実態を知らせるコーナーが出来ていた。

彼ら詐欺師らは、このような仕掛けをして、この先何をするのかということだが、彼らは、あなたの会社に融資することが決まりましたので、その前に、保証料や預託金を前もって振り込んでください、そのようなシステムになっていますから、と言ってくるのだろう。振込み詐欺の、新たな手法だ。

送られてきた申込書や融資決定通知書は、詐欺師らが材料に使った金融機関のものと全く同じもので、電話番号だけは違えていた。事務所の住所を知らせる案内はなかった。

そして、数日後、今度は日本を代表するリース会社系の信託銀行を名乗って、同じことを仕掛けてきた。

懲りない奴らだ。

2011年10月26日水曜日

子規さん、今、柿を食ってます

 

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柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

今日10月26日は、「柿の日」だそうだ。この句が生まれたのが、明治28年10月26日。

この句が誰の作品で、法隆寺がどこにあってどのような寺なのか、そんなことを何もしらないうちから、この句のことはよく知っていた。学校にも行かないうちから、諳(そら)んじていた。

兄が、この句を学校で覚えてきて、何気なく何度も楽しそうに詠むのを、知らない間に憶えてしまったのだ。私の田舎には柿の木がそこらじゅうにあって、柿が好きだったので、兄の口からでるこの句を我が物にしてしまったようだ。

兄に、その法隆寺(ホウリュウジ)というのは、報国寺(ホウコクジ)の間違いではないのか、としつこく聞き質して叱られた。我々の先祖の墓は生家の近くの報国寺にあったので、単に兄が間違っているのだと思っていたのだろう。

大学受験を控えての秋の追い込みの深夜、腹が減っては柿を食った。チンポ柿と言われる小さな甘柿を一晩で30個は食った。上京しての学生時代、毎年この時期になると、親元にせがんだのは、金ではなく「柿送ってくれ」だった。

そして、今、63歳の初老のジジイは、自前のイーハトーブ果樹園に3本、会社の敷地の前の方に2本、計5本の柿の木を持っている。そのうち1本は渋柿だ。柿だけは、正真正銘の自給自足を確立したかった。他にも、色々果物の生る木はあるが、此処は柿の木の紹介にとどめたい。

秋になって、食いたくなったときにはいつも傍にある、そのように万全な状況を作っておきたかったのだ。ところが、どっこい、むいた柿を大きな皿にのせて、スタッフに進めても、嫌いです、余り食わないんです、後でいただきますから、とそっけない反応の多さに拍子抜けした。ちょっと意外だった。柿が嫌いな奴が、この世に、それもこんなに私の身近にいるなんて、想像もしなかった。今の若者には、それほど好まれていないようだ。

私にとって、果物の中では一番柿が好きなんだけど。

どの柿の木も苗木を植えて約10年は経つだろう、今年は実りが豊かだ。そして、この柿を食うたびに正岡子規の句を思い出し、望郷の思いに誘われる。

私の郷里は五里五里と言われていて、京都から5里、奈良からも5里のところにある。今の時季、白秋の候とでも言うのだろうか。真っ青な秋空。柿を食うと、すっかり秋めいた山野や田畑に囲まれた我が家や草の枯れた原っぱ、ススキの穂、赤い実を2つ3つ残した柿の木が黒い陰を伸ばして、寂しそうに、ぽつうんと立っている、そんな郷里の風景を思い出す。

正岡子規の句で、明治28年10月子規が松山から、確か漱石の家を発って上京するときに奈良の法隆寺に立ち寄って、境内を散策、茶店で柿を食ったときに詠んだのだろうか。この時子規が食った柿の種類は、御所柿だそうだ。

それにしても、大した句を作ってくれたもんだ。この季節になると、私は、柿の実を枝からもぎ取るたびに、柿の木に向かって挨拶代わりに自然に出てくる、柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺。もうこの作用は日常的というか、条件反射になっている。

私の郷里は干し柿の産地でもある。古老柿(ころがき)と名付けて、宇治茶と並んで名産品になっている。晩秋、渋柿を母が、夜なべに一個づつ包丁で皮をむくのを手伝った。おかげで私は果物の皮をむくのが上手だ。イーハトーブの果樹園には渋柿も植えたが、まだまだ収穫には時間がかかりそうだ。

 

ネットで知ったことを書き添えておこう。

正岡子規は写生を唱えて近代俳句の祖と言われている。柿の句が他にもあったのでここに紹介しよう。

 

柿に思ふ奈良の旅籠の下女の顔

柿食うも今年ばかりと思いけり

 

余談だが、正岡子規は野球が好きだった、と何かで読んだことがある。意外だったので記憶に残っているのですが、これは、各自ご確認してくださいな。

2011年10月20日木曜日

2011、ノーべル平和賞、女性3氏

ノーベル賞にも色々あるが、平和賞に関心が深い。

ノルウエーのノーベル賞委員会は7日、2011年のノーベル平和賞を、リベリアのエレン・サーリーフ大統領(72)、同国の平和活動家リーマ・ボウイーさん(39)、イエメンの人権活動家タワックル・カルマンさん(32)の3人に授与すると発表した。紛争解決や民主化に女性が大きな力を発揮した、その功績を評価した。

現職大統領が受賞したことにも意義があるように思う。かって、核軍縮を率先すると高らかに宣言しただけで受賞したオバマ・アメリカ大統領の、その後の実績の乏しさにがっかりさせられたのは、私一人だけではないだろう。受賞時、私は世界最強国のアメリカの大統領の行動に夢を膨らませた。このような音頭とりだけの、腰抜けに授賞したことを、さぞかしノーベル平和賞委員会は失望、後悔、無念だろう。

でも、今回のリベリアの大統領の受賞は、その実績を評価され、尚、現在奮闘中だということに意義がある。女性の地位向上や民主化を進めながらの経済・社会の再建に邁進して欲しいという願いが込められているように思う。もっともっと、と期待は大きい。私の手元には、新聞記事しか判断する材料はないが、頼もしい実務派の大統領のようだ。

そしてイエメンの人権活動家のカルマンさんは、「アラブの春」が吹く前から、女性の権利や民主、平和のための闘いを、危険な状況にも屈することなく続けてきたことを高く評価された。

極東の小さな島の凡人も、喜びの人たちの輪の中に入れてもらいたい。僭越ながら、受賞者に声を大にしてエールを送りたい。

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20221008の朝日新聞・朝刊の記事を下のほうに、そのまま抜粋、転載させていただいた。

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ノーベル平和賞 その1、サーリーフさん、ボウイーさん

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闘う女性世界照らす

内戦後の失敗国家再建

サーリーフさん、ボウイーさん

 

内戦や汚職、貧困が蔓延し、国が国民の生活の安全を守れない「失敗国家」がアフリカには数多い。リベリアのサーリーフ大統領は受賞決定後、朝日新聞の取材に応じ「この賞はアフリカ諸国の人々が、政治腐敗と戦い、困難を乗り越える力を強くする」と語った。

米国のシンクタンクによると「失敗国家ランキング」で、20011年ワースト20カ国のうちアフリカ諸国が14カ国を占める。1989年から14年間、内戦が続いたリベリアも典型的な失敗国家だった。約27万人が死亡し、80万人近い難民を生んだ。汚職も横行し、テーラー政権時代には、国の収入は役人の懐に入った。国は西隣のシエラレオネの反政府組織に武器を供給し、見返りとして「紛争ダイヤモンド」を受け取っていた。

サーリーフさんは弾圧を受けながらも独裁政権を批判し続け、「鉄の女」と呼ばれた。2006年に大統領に就任すると、改革を断行し、はびこる汚職の排除に努めた。ダイヤモンドなど資源の管理も徹底し、疲弊した経済を上向かせた。

内戦で抑圧された女性の社会進出も助け、政府の重要ポストに多くの女性を登用。女子教育にも力を注いだ。サーリーフさんは「潜在能力があるのにずっと女性は無視されてきた。この賞はすべてのリベリア女性に贈られたものだ。世界中すべての女性が不正義に立ち向かう力になる」と語った。

一方、リーマ・ボウイーさんは仲間と白いシャツを着て、内戦を続ける独裁体制に立ち向かった。「この国の母親たちによって現状を変える必要があった」とボウイーさん。白いTシャツはリベリアで平和のシンボルになった。

ボウイーさんは7日、朝日新聞の取材に答え「男たちが殺し合い、子どもがひどい状態に置かれた。黙ってみていられなかった」と話した。(ナイロビ=杉山正)

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うわついた、政治成果をひけらかす政治指導者が目立つアフリカ大陸には少ない、実務家という印象を受けた。

「ゼロからのスタートの我々にとって、すべてが優先事項。でも現実的な目標を定め、政策にも優先順位を決める。優秀な人材を公平な制度のもとで活用し、着実に仕事をこなしていくことです」。そう語る口調も、淡々としていた。

一見、小柄なおばあちゃん。市民は「ママ・サーリーフ」と親しみを込めて呼ぶ。だが、本当のニックネームは「鉄の女」だ。長年、独裁政権への抵抗を続け、大統領に選ばれてからも国を立て直すために妥協はしなかった。

鉄鉱石やダイヤモンドなどの豊かな資源は国民を潤さず、逆に政治腐敗の温床になり、権力争いが内戦に発展した。

「資源の呪い」と称されるこの現象。スーダンやコンゴ(旧ザイール)など、似たような境遇の国はアフリカには多く、「失敗国家」と呼ばれる。リベリアも以前はその一つだった。

決め手は、サーリーフ氏が推進する「良い統治」の実現に向けた数々の改革だ。内戦時に外国へ逃れて高い教育を受けた国民を、高待遇で雇い入れる代わりに、成果がでなければ契約を打ち切る制度の導入など、行政を効率化させている。

こうした取り組みは、他のアフリカの国々に手本となっている。リベリアを取材で訪れた理由も、7月に独立した南スーダンが、リベリアの事例から学ぼうとしているからだった。「良い統治とは、人々に説明できるような具体例を示して、人々を導くこと。法の支配に基づき、透明性のある政治です。悪い統治とは、権力欲を持つ政治家が原因の一つになる。リベリアはそうさせない」

まだまだ課題の山積するリベリアの復興に向けてサーリーフ氏は今後も淡々と改革を実行していくと期待したい。(前ナイロビ支局長・古谷祐伸)

ロイター通信によると、リベリアの選挙管理委員会は、大統領選を11日に実施するという。

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「女性たちの励みに」関係者

アフリカや中東で女性の地位向上や民主化に尽力してきた女性3人へのノーベル平和賞授賞が決まり、関係者らからは喜びのコメントが相次いだ。

国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」のシェティ事務局長は「今年のノーベル賞委員会の選択は、世界中で権利のための闘いを続ける女性たちへの励みになる」と授賞を高く評価。「今日の賞は表彰された3人の女性リーダーだけのものではなく、人権と公平な社会のために闘ってきたすべての人々のものだ」と語った。

ドイツ初の女性首相であるメルケル氏は報道官を通じ、「世界に対して非常にいいメッセージとなった」と評価。欧州連合(EU)のファンロンパアイ首脳会議常任議長とバローゾ欧州委員長は連名で「女性が紛争の平和解決と民主的変革に極めて重要な役割を担っていることの証しだ」との声明を出した。

「彼女たちが達成したことは、すべてのリベリア人女性とともに成し遂げられた」。リベリアのゲイフロー女性地位向上・開発相はロイター通信に語り、授賞を歓迎。同国のサーリーフ大統領とともに授賞が決まった平和活動家リーマ・ボウイーさんの家族は「(ボウイーさんは)すべての女性や子どもたちの発展のために熱心に活動してきた」と振り返った。

今年は、エジプトでムバラク前大統領を退陣に追い込むなど、中東で市民が民主化を求める声を上げた「アラブの春」が有力候補と見られていた。国外からネットで反政府デモを呼びかけ、エジプト帰国時に拘束されたネット検索大手社員のワエル・ゴネイムさんは「我々にとっての平和賞とは、より民主的で人権が尊重される国になることだ」と簡易ブログのツイッターにつづった。

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ノーベル平和賞その2、 人権活動家・カルマンさん

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民主化へデモ呼びかけ

「この賞を、『アラブの春』のすべての活動家に捧げたい」。イエメンの人権活動家タワックル・カルマンさん(32)は受賞の知らせを、首都サヌアの抗議デモ会場で受け、そう語った。

ノーベル賞委員会のヤーグラン委員長は、イエメンのカルマンさんへの授賞は「人口の半数を占める女性を軽視すれば民主主義は確立できないという、『アラブの春』へのメッセージだ」と述べ、中東の民主化でも女性の参画が不可欠だと指摘した。「厳しい環境のもとで、アラブの春のずっと前から活動してきた人に平和賞を授与する」とも説明した。

2001年に新聞や雑誌に記事を書き始め、一貫して女性の権利や表現の自由を求めてきた。05年にNGO「鎖のない女性ジャーナリスト」を創設。国際的に知られるようになった。母国の民主化は遅れていた。イエメンのサレハ大統領は、南北イエメン統一前を合わせれば30年以上トップの座にある。

カルマンさんは07年に政府庁舎前で、毎週火曜に独裁政権に抗議する座り込みを始めた。しかし参加者は多くはなかった。そこに「アラブの春」が起きた。

今年1月14日にチュニジアでベンアリ政権が、エジプトでも2月にムバラク政権が倒れた。サヌアの大学構内で学生らを率いて始まった退陣要求デモの参加者は、若者を中心に日に日に膨れ上がった。

支援者からは「鉄の女」「革命の母」とも呼ばれる。今年1月、抗議デモのさなかに「許可を得なかった」として逮捕されたが、仮釈放されるとすぐに「怒りの日」と名付けたデモを呼びかけた。カルマンさんは、民主的で近代的なイエメンを実現するまで、平和的な運動を続ける構えだ(カイロ=渡辺淳基)

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リベリア

米国から解放された奴隷が居住地をつくり、1847年に独立した。1989年から断続的に続いた内戦が2003年、当時のテーラー大統領の亡命で終結。暫定政府のもとで大統領選が実施され、06年にサーリーフ氏が大統領に就任した。面積約11万平方キロ。人口約400万人。ダイヤモンド、金、鉄鉱石が豊富。

 

イエメン

貿易の中継地として古くから繁栄していたが、1839年にオスマン・トルコが支配する北側と英国が支配する南側に分断された。南北間でたびたび武力衝突が起きたが、1990年に統一。北の大統領だったサレハ氏が、統一後も約20年間、政権にとどまっている。面積約55.5万平方キロ。人口約2400万人。

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20111012

天声人語

「暮らしの手帖」を創刊した伝説の編集者、故花森安冶に「女だけの政治」と題する一文がある。戦後しばらくして書かれたが、もはや男の政治はだめだから女に任せてみよ、という論旨に古さはない。

いわく「(昔から)政治は男のやるものときまっていた。そして男たちは、ああでもない、こうでもないといろいろやってきたが、どうやってみたところで、戦争は次から次へとくりかえされるし、世の中の不合理は、少しも改まらないのである」と。そんな花森がうなずくような、今年のノーベル平和賞だった。

贈られる女性3人のうち、エレン・サーリーフ氏(73)は西アフリカのリベリアの大統領。独裁や汚職やらで「男たち」が荒廃させた国を建て直してきた。

約27万人が内戦で死に、失業率は85%、識字率4割という出発点から6年前に走り出した。汚職撲滅のために財務省の全職員300人を解雇し、同省や司法、商務などの大臣、警察トップに女性を起用した。「豪腕」とはたぶん、こうした人のことを言う。

自身、投獄された経験があり、その姿勢は「非暴力」に根ざす。「非暴力は人間に委ねられた最大の力である」とガンジーは言った。現職政治家ゆえ毀誉(きよ)も褒貶(ほうへん)もあろうが、現実を変える手段としての非暴力のパワーを信じたい。

ノーベル平和賞は栄(は)えある賞ながら、逆説的だ。不幸や不条理が大きいほど賞は注目され輝きを増す。受賞3女性の「銃なき闘い」が、平和賞不要の平和な世界につながるよう願う。

2011年10月19日水曜日

遠藤周作 沈黙

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弊社の経営責任者の中さんが、フィリッピンに家族揃っての里帰りの際、フィリッピンのどこかで? 病原菌を貰ってきたようだ。奥さんがフィリッピン出身なのだ。どんな菌って、そりゃ、中さんが一番罹(かか)り易い菌だよ、と言えば分る人は分る? なんて冗談はさておき、そんな意味深な菌ではなくて、特に子どもの体に巣食い易い、普通の溶連菌だった。症状は、喉が赤くなって、痛い。熱がでて、扁桃腺に白いぶつぶつができ、症状は重く、激しい。

成田までは、ヒイヒイの態(てい)で辿り着き、一夜自宅で過ごして、翌日、検査即入院した。中さんだけの独り帰国だった。

中さん以外の家族は、まだまだ、これから、ゆっくり、ゆったりの夏休みコースだ。会社のスタッフには見舞いに行ってくるわ、と出かけたものの、二人にとって、病状についての情報交換はさっさと終えて、やはり話すのは仕事のことばかり。これこそ、病院へ来た本当の目的だったのだ。これって、われ等に与えられた天の定めか。

今度、来てくれるときには、何か読むものを持ってきてくれませんか、中さんの申し出を快諾した。何とかオフの古本屋さんに暫らく行っていないことに気づいた。私は、この店の105円コーナーが大好きで、本立ての前に立つと、不思議な快感が湧くのだ。でも、最近の超貧乏暮らし、何とかオフにも行けなかった。

硬い本はアカン、それじゃ、軟らかいのはいいのか? う~ん、悲しいかな、私にはそのヤワラカイっという本を選ぶセンスがない。品のいい軟らかさというのを見極めるのは、難易度が高い。前提としては、低級なエロ、グロは避けなければならない。心と体に治療を施して健康体を取り戻す、真面目で清浄な所だからなあ!

取りあえず3冊買った。遠藤周作の「沈黙」と、話の内容がちょっとインモラルなイメージの本、それにもう1冊は、池田勇人元首相時代の政治の裏幕を書いた本だ。

この「沈黙」は私が学校を卒業した頃に買って読んだことがある。新刊で確か1300円で、当時、高いなあと思った。この本を、今回、何とかオフで見つけた時、あっこれだ、中さんに、これを読まそう、と即断。きっと回復を早めるだろう、か?

ところで、この本って、どんなストーリーだったっけ、と思い返しても、島原の乱後、キリスト教弾圧が厳しく、ポルトガルの宣教師に棄教を迫る拷問とか、隠れキリシタンが秘かに信教を続けていた様子、キリストの言葉を宣教師の口から色々聞かされたが理解できなかった。それでも、当時、重くどっしり感動したことだけは、心に残っていた。

私は、生来イヤラシくケチな男で、この本だけは読んだら返してくれ、と病床に臥す中さんに、条件付で渡した。一時貸しの要領だ。本当のところは、病院への土産物として本探しをしていたら、私が再び読みたいと思った本に偶然出くわしてしまった。中さんの趣向をないがしろにしてしまった、スマン、気を悪くしないでくれ。

それでは、本論に入りましょう。孤里狸先生、遠藤周作氏「沈黙」の、始まり、ハジマリだ。お芝居なら、東西東西(とうざいとうざい)ってとこか。

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遠藤周作の「沈黙」の批評を著すなんて、私には無理だ。

キリスト教の信徒でありながら、宣教師を度々裏切り続けるキチジローが、この本の1本の縦糸だ。私は、本の中では決して大役でないこの男に興味をもった。

正と邪、善と悪、神の存在というテーマを、キリストとユダ、ロドリゴとキチジローを対比して、神の真なるものは、真なる神とは何かと希求する。このテーマは、真面目なキリスト教の信徒であった著者の母が、著者一流の謙遜だとは思うのだが、不真面目な遠藤周作の心に影をおとしている、とその苦い心の裡(うち)をこの本で著したかったと、何かで知った。

奉行所は、キリシタンの拷問に司祭を立ち会わせる。そして、あなたが転べば(棄教すれば)、多くの隠れキリシタンの拷問を解き、命を助けてやると迫るのだが、どうしても転ぶことはできない。神はこの場に至っても、何も仰らない、何故、黙っているのですか、と問う。そして、一人の司祭は死に、残された司祭は、もっと大きな苦しみが与えられる。

でも、残った司祭も最後には転んだ。

かって尊敬した教父、やがて棄教した教父、そして司祭が厳しく責めた教父と同じように、自分も転んだ。

ロドリゴは、主に対して、棄教したのではないことを、あなただけはご存知でしょ、と繰り返す。聖職者が教会で教える神とロドリゴが信じる主とは別なものだと悟るのだ。

こんなに、神に仕える我々なのに、主よあなたは何も仰らない、、、、、。私に、何か仰ってください。だが、、、、、、それが、この本の題名にもなった「沈黙」ってことのようだ。

遠藤周作は、この「沈黙」でノーベル文学賞の候補にも挙げられたと聞いた。構成については色々な意見もあるようだが、私が今まで読んだ本の中では、感銘を受けた本のひとつだ。遅読の私なのに、一気に読み終えた。

読後感想を文字で綴るのは、私には難しい。よって、その作業は、数多(あまた)の賢人たちにお任せすることにして、私はこの物語のあらすじだけをキープしておこう。

下の方の文章がそうだ。

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江戸時代初期、徳川幕府は島原の乱後、厳しいキリシタン禁制を強いていた。

ローマ教会に、ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたフェレイラ・ラリストヴァンス教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ棄教を誓ったという知らせがもたらされた。

☆穴吊り=信徒の耳に傷をつけて逆さづりにする。その傷つけた耳の出血で、ゆっくりゆっくり少しづつ、精神的に肉体的に苦しめる拷問のやりかた。

知らせを受けたローマ教会では、教会の不名誉を雪辱するため、また教父の地元のポルトガルからは、教父が異教徒の前で棄教に屈従したとはどうしても信じられなく、三人の宣教師は危険な日本へ潜入、真実を確かめながらの布教を決意、殉教は覚悟の上のことだった。

一人は病に臥し、ガルペとロドリゴの二人は、マカオで、日本人のキチジローと知り合い、数名の乗組員と船を仕立てて日本行きを敢行、荒れる海を何とか長崎のとある島に辿り着く。

弱気で酒飲みのキチジローは、二人にキリスト教の信徒のような振る舞いを見せるが、確かめると信徒ではないと言う。

辿り着いた島はトモギ村で、キチジローはこの島の村民だった。この島で、隠れキリシタンの村人たちに匿(かくま)われ、二人の宣教師は司祭として信徒らと信仰を交わした。住居の居間の下に穴を掘って、身を隠しての生活だった。それでも、暫らくは静かな信仰の日々だったが、キチジローが二人のことを役人に密告、裏切ったのだ。

五島の村にも赴く。

トモギ村に戻る。司祭二人は、役人に村の信徒たちと捕まる。奉行所に、三人の出頭を求められ、イチゾウとモキチは自らの意志で村人の代表者として、キチジローは村民から身代わりにと頼まれ、気の弱さから断れなかった。踏絵を踏まされた。三人とも、踏むことは踏んだのだが、踏む時の苦渋に充ちた表情を見逃さなかった役人に、それじゃ、この踏絵に唾をかけ、聖母は男たちに身を委してきた淫売だと言ってみろ、と言われ、イチゾウとモキチは耐えられずキリシタンであることを告白した。が、キチジローは、聖母を冒涜する言葉を吐き、唾をかけ、罰から逃れた。そして、二人は海岸で水礫(すいたく)に処せられた。

キチジローは、当初キリシタンたちに、司祭を連れてきてくれたことで感謝されたが、役人たちの警戒が厳しくなり、仲間が捕らわれてからは、疎(うと)まれるようになった。

水礫(すいたく)=今回は十字にして2本、波打ち際に立てた。その木に縛り付けて、満ち潮で首の辺りまで海につかるようにする。時間をかけて絶命させる。それを見せ付けるのを目的にする。

役人たちによる山狩りがあるというので、隠れ家から二人は襤褸(ぼろ)を纏(まと)い逃亡の旅に出る。二人で行動するよりも独りづつの方が、見つかり難いのではと判断して、別々の行動を取ることになった。

ロドリゴは若者の船で、身を隠すために違う島に向かった。キリシタンに会えるかどうか、焦燥、不安ながら、獏とした教区?に向かって島を彷徨した。暗闇の中を雨に打たれながら、当てのない行路に、またしてもキチジローが現われ、ここでも裏切られることになる。

キチジローは銀何枚かで、ロドリゴを役人に売った。そして役人に取り押さえられる。キチジローは怯(おび)えた顔で、ゆるしてください、と言いながら姿を消した。

長崎奉行所に向かって、馬に乗せられた。道中で、異教徒から牛の糞や石を投げられる。その道すがら、キチジローは司祭を窺(うかが)うような目を向けたが、視線が合うと顔をそむけた。この男に寛大にはなれない。去れ、去れと心の中で呟(つぶや)いた。

ガルペは、信徒の拷問に立会い、転ぶ(棄教)と言えば三人の命は助けると言われても、ガルペはどうしても転ばない。ロドリゴは、遠くから転べと叫ぶ。三人の信徒は薦俵(こもたわら)に巻かれて海に投げ込まれ、ガルペは信徒に向かって海に飛び込み、波間に消えた。

牢屋に入れられる。中庭では、信徒に拷問や処刑が続く。女の悲鳴が夜の闇を裂く。刀を振りかざす役人。そして、またもやキチジローが下帯一つで連れ出され、踏絵を踏んだ。転げるようにして姿を消した。

井上筑後守に会う。彼もかってはキリスト教の信徒だったが、今はキリシタンを取り締まる側だ。キリスト教を邪宗とは考えていない、だが、日本にはキリスト教は馴染まぬものだ、と。「一人の男に醜女の深情けは耐え難い重荷であり、不生女は嫁入る資格なしとな」

牢での生活が続く。日に三度差し入れられる食事に度々手をつけられない。

そして、フェレイラ元教父との面談の時が来た。

「この国には、お前や私たちの宗教は所詮、根をおろさない」「この国の者が信じたものは我々の神ではなく、彼らの神だったことを知らず、長い間、日本人がキリスト教徒になったと思い込んでいたのだ」

ザビエルが教えたデウスを日本人は大日と混同した。その時から、日本人はキリスト教の神を日本流に屈折、変化させ別のものに仕上げてしまったのだ、とフェレイラは言う。

☆デウス=キリスト教では、唯一の神をあらわす言葉。日本では、戦国時代末期、キリシタンの時代に「神」を指す言葉として用いられた。(Wikipedia)

☆大日(如来)=密教において宇宙そのものと一体と考えられる如来の一尊。その光明が遍く照らすところから遍照、または大日という。(Wikipedia)

牢に聞こえてくる音が、「穴吊り」の拷問に苦しむ、呻(うめ)き声だった。誰かを罵っているようで、哀願しているようで、迫ってきては去る。去ると、絶望的な静寂に包まれる。またしても、牢の外にキチジローが現われ、許してくれ、弱くて殉教さえできぬ、どうすれば、よか?と司祭に訴える。

司祭が転べば、拷問は止められ、可哀相な百姓たちの命は助かるのだ。

そして、ロドリゴ司祭は転んだ。銅版に刻まれた主の顔は、踏まれて磨耗して、窪んだその顔は辛そうに司祭を見上げた。ロドリゴは踏んだ。

(踏むがいい、お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ)

転んだ後のフェレイラの心境を原作から引用する=私は転んだ。しかし、主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけがご存知です。なぜ転んだと聖職者たちは自分を訊問するだろう。穴吊りが恐ろしかったからか。そうです。あの穴吊りをうけている百姓たちの呻き声を聞くに耐えなかったからか。そうです。そしてフェレイラの誘惑したように、自分が転べば、あの可哀相な百姓たちが助かると考えたからか。そうです。でもひょっとすると、その愛の行為を口実にして、自分の弱さを正当化したのかもしれません。それらすべてを私は認めます。もう自分のすべての弱さをかくしはせぬ。あのキチジローと私とにどれだけの違いがあるというのでしょう。だがそれよりも私は殉職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている。

幕府から住宅をあてがわれ、日本名をもらい、妻をも娶(めと)ることになる。南蛮渡来の品の中に、キリスト教関係のものがあるかどうかを調べたり、その他の幕府の公務に就いた。

2011年10月10日月曜日

アップル ジョブズ氏死去

 

世界最大の企業を一代にして作り上げた、偉大な経営者だったジョブズ氏の業績をダイジェストに纏めた記事に出くわしたので転載させてもらった。記憶に留めておきたいと思ったからだ。コンピュータ門外漢の私でさえ、氏の業績はかくも創造的で革新的だったのか、と今更ながら驚いている。

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20111007の朝日新聞・朝刊の記事をそのまま、転載させていただいた。

 

創造と変革 カリスマ喪失

ジョブズ氏死去

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5日に死去した米アップルのスティーブ・ジョブズ前最高経営責任者(CEO)は、それまで市場になかった製品やサービスを創造し、既存の産業と社会に変革をもたらし続けてきた。強烈なカリスマの喪失は、絶好調を続けてきたアップルの今後に影響を与える可能性もある。

ジョブズ氏が追求したのは高度な技術を誰もが使えるようにすることだった。昨年発売したタブレット端末iPad(アイパッド)は集大成と言える。キーボードをなくし、タッチパネルを触って感覚的に使え、パソコン並みの作業をこなせる。

iPadが客を奪い始めているパソコン。実はそれもジョブzズ氏が創造したものだった。

コンピューターといえば米IBMなどのビジネス機だった1970年代、共同創業者のスティーブ・ウォズニアック氏とアップルⅡを開発・発売。専門家でなくても使える初の量産機は爆発的にヒットした。

iPadの源流にはスマートフォン(多機能携帯電話)の先駈けとなったiPhone(アイフォーン)があった。2007年に「電話を再利用する」と宣言。パソコンのようなサイト閲覧や電子メール、ゲームなどができ、音声通話が主軸だった携帯電話を一変させつつある。

街からCD店が姿を消すきっかけもジョブズ氏が作った。違法配信を恐れる音楽業界と交渉し、音楽配信サービスiTunes(アイチューンズ)を開始。ソニーのウォークマンに挑んだ携帯デジタルプレーヤーiPod(アイポッド)と併せ、音楽の買い方や楽しみ方を変えた。

高度な技術を素早く市場に浸透させることに成功したのは、ジョブズ氏が神経質なまでに注力した製品デザインも大きい。不必要なボタンなどは極力排除し、手触りにこだわった。

完全主義者のジョブズ氏は、自分の理想が技術面やデザイン面で難しくても、何度も作り替えを命じて完成させた。ジョブズ氏の理想が製品に強く反映されたのは、社内で「専制」が貫徹されていた側面が大きい。

ジョブズ氏なき後のアップルをCEOとして引っ張るのは、実務家として評価されるティム・クック氏だ。今月4日の新製品発表会では、目玉のiPhone4sび発表をマーケティング担当幹部が行なった。「集団指導体制」への移行が印象づけられた。

ジョブズ氏は05年、米スタンフオード大で卒業生に送ったスピーチを「ハングリーであれ、馬鹿であれ」と締めくくった。天才的な先見性と、専制体制を失ったアップルが、既存の枠組みにとらわれない製品を出し続けられるか、注目はなお集まる。(ニューヨーク=山川一基)

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20111008

朝日朝刊

天声人語

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かって、これほど世界中の人々から、死を惜しまれた企業経営者がいただろうか。

アップルの共同創業者で、前最高経営責任者(CEO)のスティーブ・ジョブズ氏が、56歳で死去した。

「 Think different 」 (発想を変えろ)

ジョブズ氏がアップルに復帰し、97年から展開したキャンペーンのコピーである。アインシュタインやガンジーらの映像を使ったCMのナレーションは、こう締めくくられる。「自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから」

それは、まさにジョブズ氏の歩みでもあった。

ジョブズ氏は創業翌年の77年にアップルⅡを、84年にマッキントッシュを発売し、世界的にヒットを飛ばす。そこには、大企業のものだったコンピューターの世界を個人の手にもたらすというカウンターカルチャーの気風が色濃く投影されていた。

85年に会社を追放された。

10年余りを経て復帰した後は、iMac、iPod、iPhone、iPadと、新たなコンセプトを持つ製品を送り出し、アップルを復活させただけではなく、人々の暮らしに多大な変化をもたらした。ジョブズ氏は少なくとも世界を2度変えた。

特筆すべきは、そのビジネスモデルだ。「ものづくりではもうからない」と言われる時代にアップルは一貫してソフトとハードを統合した事業を続けた。ジョブズ氏はあらゆる製品で、デザインや使いやすさに徹底的にこだわった。

そのうえで、自社では工場を持たない。少品種の製品に絞り込みつつ、日本を含む世界中の企業から最適な部材を調達することで、メーカーとして極めて高い収益率を維持した。

ものづくりを得意としながら収益悪化に苦しむ日本企業は、改めて商品コンセプトの革新性とデザインへの審美眼を学ぶしかあるまい。

アップルはアップストアのようにソフトを配信する独自のサイトを設け、自社の端末で楽しんでもらう囲い込み型ビジネスで商品の価値を高めてきた。

今後、テレビをはじめとした家電や自動車、オフイス用品など様様な機器がオープンな形でインターネットに接続する時代が到来する。そのとき、アップルは囲い込み型ビジネスモデルからどう発展していくのか。

新しい製品を紹介する際の決まり文句だった「それから、もうひとつ」をもはや聞けないのが、残念でならない。

2011年10月8日土曜日

仏に脱原発の気運

原発大国のフランスで、脱原発の声が高まり始めたことを、20111003の朝日新聞で知った。

フランスでは、来年の大統領選に狙いを定めて、野党の動きが活発化してきた。原発が争点になりそうなのだ。このことについて、私は、外国のことだとは言え、原発の是非、今後どのようにしていくのかを国民に問ういい機会になったと思う。

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仏 マルクールにある核廃棄物処理施設

日本では、与党も野党も政治問題として、議論するまでに至っていない。争論をしあぐねているのだ。世論もさまざまに散っている。兎に角、今までは原発を推進して、国策にまで仕上げた自由民主党政権を、個人の思いは様ざまだが、結果的に支持してきた。じゃ、これからどうするかってことだが、このまま技術を進化させて続けるのか、方針を変更して今か将来的に止めるのか、どっちかだ。

1970年代の石油危機を機に、原発の建設を加速させた結果、フランスは、原発の依存度が8割までに達した。

そして、東京電力福島第一原発の事故だ。それに加えて、9月中旬に起きた原子力施設での死亡事故が世論を刺激している。フランス南部のガール県マルクールにある低レベル核廃棄物処理施設「セントラク」で、核廃棄物を熱で溶かす溶融炉内で爆発が起こった。放射性物質の外部への漏れはなかったそうだ。亡くなった作業員は炭化していた。この事故のフランス国民に与えたインパクトは強かった。

どこの誰だって、これ程の原発事故に遭うと、そりゃ、無いほうがいいに決まっている、と思うのは当然だろう。地球のとある場所で発生した事故によって、地球がまるごと恐怖に曝(さら)されるということが、現実に起こり得るのだから。

話を日本に戻そう。

各党の党首が勝手なことを言っている場合ではない。同じ党内でも異論が飛び交う。

ならば、国民投票かと思うのだが、日本では一般的な重要法案の是非を、国民の民意に問う国民投票制度はない。あくまでも憲法改正のみに限られている。

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 中曽根康弘元首相

 

日本に原発を積極的に熱心に、そして強引に導入したのは、読売新聞の正力松太郎とバリバリの将校政治家・中曽根康弘氏だ。その中曽根康弘元首相さえ、今後電力を原発に依存しないようにするべきだ、と述べているのを新聞記事で知った。財界から、東電辺りからの見返りがなくなったのか? 老いて、普通のオジイチャン、好々爺になられた結果なのだろうか。

選挙によって、国民の審判を受けてない首相が2代も続く。野田佳彦内閣は、復興の手をできるだけ早く打って、衆院を解散して選挙をするべきだ。その際、原発の今後について各党は主張を明確にして欲しい。民意を国会に反映させたいものだ。

オーストリアでは、憲法に反原発を明記した。ドイツのアンゲラ・メルケル首相は、従来の原発政策を見直して、脱原発に舵をきりだした。先のイタリアでは、国民投票で脱原発を95%が支持した。

ヒガンバナは、彼岸花

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今、散歩をしていて、一番目につく花はヒガンバナだ。散歩の道すがら、採ってきたヒガンバナを自宅の机の硝子の花瓶に、赤白1本づつ挿した。

誰もが知っていて、馴染みの深い花だ。でも私は、このヒガンバナを見ると、父から言われたこととを、この季節になると必ず思い出すのだ。ちなみに、私の生家は京都府綴喜郡宇治田原町だ。

生家を出て、東京暮らしを始めて既に40余年も経ったというのに、どういうことなんだろう。余程、子ども心にインパクトがあったのだろう。

東京での生活を始めてから、ヒガンバナの群生を初めてみたのは、大学1年生のサッカー部の合宿で長野県の菅平に行った時のことだ。ヒガンバナの群生が、あっちこっちに見られ、先輩も同輩も綺麗だと言った。野焼きでもしているようだった。それから、合宿所のオバサンやオジサンに話しかけても、皆が綺麗だと口を揃えた。私も、ヒガンバナは綺麗なんだと、なんとか納得した。

子どもの頃、父からあの花は、忌まわしい地獄の花や、だから摘んだりしたら、アカンぞ。摘んで家に持って帰ると、その家に死人が出るんだ、と言われた。

そんなことを言われた同時期に、こういうこともあったのだ。

琵琶湖からの流れは瀬田川になって、そこに私たちの田舎を流れている田原川が合流して宇治川になる。その宇治川に木津川が合流して淀川になる。私の郷里は、宇治川と田原川が合流する地点から5キロ程上流の所にあった。

毎年、宇治川には投身自殺する人が絶えなくて、その自殺した人の身寄りの分からない遺体を、私の生家から200メートル程の所に、土葬していた。板じゃなかったと思うが、確かタンカーのようなものに、ビニールのシートに包まれて、何人かで運ばれてきた。役場の人、警察の人、保健所の人たちだったのだろう。

私たち子どもはいつものことだから、大きな車に大層な荷物を積んでその場所で大人が何やら静かにウロウロしていたら、それは宇治川で土左衛門が揚がったことなんだ、と分かっていた。

土左衛門は、ドザエモンと読み、水に浮いた水死体のこと。

Wikipediaによると、土左衛門という名の由来は、水死体はいったん水底に沈み腐敗が始まるとガスが発生し、組織が水を吸ってぶよぶよになり体が膨れ上がって、真っ白に見えることがある。この様が、享保年間に色白で典型的なあんこ型(締りのない肥満体)で有名だった大相撲力士・成瀬川土左衛門にそっくりだったから、この名がついたとさ。

集まった大人たちが、女の土左衛門は上を向いて浮かび、男はうつ伏せに浮かぶんだとか話していた。逆だったかもしれない。そんな大人の話にも興味があった。

土に遺体を埋めるところは、私たちを遠ざけたから、よく見えなかったけれど、遺体を収めた後には、いつものように大きな板状の石を上に置いた。墓石代わりだ。その石は畳1枚分ぐらいの広さで、その上でよく遊んだものだ。そのような墓が幾つかあった。

その無縁仏が埋められている一画は、秋になるとヒガンバナの群生に囲まれて、それは、後で知ったヒガンバナの別名・曼珠沙華(マンジュシャゲ)が、如何にも法華経の仏典からの名称らしいが、天国では、いかにもこのように咲くのだろう、と思わせる光景だった。赤が異状に鮮やかだった。山口百恵は「マンジュシャ」と歌っていたが、それはどういうことなんだろう。

炎に包まれた無縁墓だ。だからか、私が怖い夢を見るときの背景は、赤く炎が燃えている

ネットで、ヒガンバナの鱗茎は有毒で、土葬後、死体が動物などに掘り起こされないように植える、と知った。なるほど、人智は凄い。

毎年、この季節になってヒガンバナを見ると、こんなことを思い出すのだ。

2011年10月5日水曜日

お~いみんな、今、星が綺麗だ

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昨夜も、20110919今朝(夜半?)も、03:00前後の星が、綺麗だった。

半月になった月が、中天より少し西に寄ったところにあって、その周りに大小の星がキラキラ輝いていた。星がこんなに大きく、明るく輝いているのを観たのは久しぶりだ。今にも、星が降ってくるよう。

台風13号が紀伊半島に大きな被害をもたらしたのは、3週間前だったか。その後の1週間は、昼間、黒い雲が急に現れて、時には地域限定の驟雨に悩まされた。秋雨だ。春雨は、新撰組・近藤勇の「春雨じゃ濡れて行こう」、と生気が漲(みなぎ)っていて、いかにも春らしいが、それに比べて秋雨は、ロマンティックでもの悲しげだ。

今度は、台風15号が沖縄から本土に迫っている。

このように定まらぬ天候なのに、この2、3日の夜空は雲が少ない。

前の冬、事情があって、会社の地下での一人暮らしをした。一人っきりで、読書以外することがなく、深夜の散歩で時間を過ごした。夜長、星座の美しさに夢中になった。充分楽しく、慰めにはなった。その時、星の名前の一つや二つ、星座の一つや二つぐらいは知りたいと思った。

この時、散歩中に、坂本九の「上を向いて歩こう」と「見上げてごらん夜の星を」、平尾昌章の「星は何でも知っている」、伊東ゆかりの「星を見ないで」、加山雄三の「蒼い星屑」を何度、繰り返し歌ったことだろう。私は、無聊、手持ち無沙汰だったのだ。

20110913の休日に、次女とその長男、娘と孫の三人で磯子区洋光台にあるこども博物館のプラネタリウムを見に行っていた。先ずは、星座をプラネタリウムで勉強をしなくては、と思いついたのがきっかけだった。私には、休日といっても全休はなく、半休するのが精一杯だった。昼を済ませて、娘と孫を迎えに行った。結果、星を勉強したくて、この館に出向いたのだが、好く分からなかった。それよりも、後半に観た3D映像の宮沢賢治の銀河鉄道には感動した。映像が立体的で、ファンタスティックだった。売店で、星座の見方表を買った。

深夜、保土ヶ谷区天王町の駅前公園で、買ってきた星座の見方表と天体の星や月を見比べたが、やっぱり理解は無理だった。都会は明る過ぎるのもイカン。

天王町での地下生活を引き揚げて、半年後の今、天王町から少しは離れた泉区弥生台に住んでいる。住まいから10分も歩けば、昭和の30年代に農地の区画整理が行われた地域が広がっていて、灯りが少ない。その辺りの田園風景は、群馬県のようでも長野県のようでもある。空気が澄んでいるから、星が綺麗に見える。

そこに登場したのが、天王町では使いこなせなかった星座の見方表だ。今日0919、会社から持ち帰った。それを手元に置いたまま、焼酎を飲み過ぎてしまった。星を見るのは、明日、明日、明日にしよう。

九州に台風が近づいてきた。被害が出ないことを祈る。

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それから、数日が経った。

生憎、20110922は台風15号が四国、東海、関東を襲来、夜空に星が見られなかったが、明日は台風一過だ。早朝を楽しみにしたが駄目で、昼間しばらく晴れたが、夜は雲がかかった。

0924は私の63歳の誕生日。感慨無量だ。、会社で、今、星が綺麗だよとスタッフに話しかけたら、経営責任者の中さんが、「ハッブル宇宙望遠鏡」のことを教えてくれた。地上600k上空を周回する宇宙望遠鏡のことだ。長さ11.1k 重さ11t 。地上のように気象の影響を受けないので、正確、精緻な観測ができる、いわば宇宙の天文台だ。内側に反射望遠鏡をを備えている。主鏡は直径2、4m。この望遠鏡で写された映像が、インターネットで見られるので、興味ある方は一目の価値はある。

その後、綺麗に星が見える夜空は少なかった。毎度のことだが、星が綺麗だと気づいた夜は、酔っ払っていて、ただ阿呆のように見上げるだけ。やっぱり、天体観測は夜半か、早朝だ。

綺麗な星空を見ることができて、私がしっかり観測できたら、その報告はしっかりするので待ってくださいな。

秋深い、夜空の星になってしまった。

2011年10月4日火曜日

うわっ、銀杏だ

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銀杏の天日干し

先月の中頃に、JRの横須賀線安浦駅で友人と待ち合わせをした。ロータリーに車を停めた。待ち合わせの時間には、間があったのでホームに通じる階段の上がり口のトイレに向かった。ロータリーには、バスの発着場所やタクシーの乗降のコーナーがあって、並びにイチョウの樹木が立ち、銀杏(ぎんなん)が路面に落ちていることに気づいた。

ここで、銀杏とは言っているが、正確には銀杏が入っているイチョウの実が落ちていたってことなんだ。銀杏はイチョウの種子だ。

こういう状況に私が身を置けば、私がどのような行動をとるかは、私のことをよく知る人ならば、おおよその予想はつくだろう。そう、その通りだ、、、、私は拾い出した。客待ちのタクシーの運転手は、私の行動に少しも関心を示さなかった。拾い集めた銀杏は、50個程だった。

会社に持ち帰って、駐車場の隅っこのバケツに入れて、次の手を考えていた。

そして、4、5日は経った。電気代とガス代を支払いにコンビに行く道筋、会社を出て、相鉄線の線路を越して、帷子川にかかる古町橋を渡った所から、イチョウの大木が街路樹とし道路の両側に10本程並んでいる。やはり、此処にも、また銀杏が歩道に落ちているのに気づいた。この状況では、この男の行動はもうお決まりのパターン。残念なことに、先日の銀杏よりも、二(ふた)周り小粒だ。

安浦駅で拾った銀杏の処理のことも考えると、ここで拾うのは必須の行為だ。

会社の前にあるスペースで、バケツに水漬けにして果肉の腐るのを待つことにした。臭(にお)いが臭(くさ)いので、社屋内に持ち込むことを躊躇した。この類の行動を極端に嫌うスタッフもいるのだ。当たり前だ。嫌われるようなことは、できるだけ避けること、これ、長生きするための知恵なり。

家庭の食卓や飲み屋のテーブルに並んだ銀杏は、このように果肉に包まれた種子の中身なのだということを、知らないスタッフもいたのには驚いた。

公孫樹

そして、本日20111004、水漬けにしておいた銀杏を腐りかけた果肉を握り潰して、取り出した。その際、ゴム手袋を着用した。かって、20年程前に、素手で生の銀杏を触って、手の皮が剥(む)けたことがあったからだ。経験が否応なしに人を物知りにさせるもんだ。そして、日向に干した。

本日の作業はここまで。焼いて、食うのはしばらくお預けだ。

ところで、イチョウは、漢字で公孫樹と書く。不思議な漢字が並んだもんだ。