2011年10月31日月曜日

九電「やらせメール」問題

今年の3月11日の東日本大震災、その地震で発生した津波が、東京電力福島第一原子力発電所事故を引き起こした。当初、地震とそれに伴う津波の規模が想定以上だったと言われ、ならば、しょうがないのかと納得しようとした、が、これは、どうも想定以上のことではないということが、ここにきて解ってきた。天災に人災が加わった。因果応報。歴史を省みれば、そんなに未曾有の出来事ではないようなのだ。過去幾度となく、同程度の地震と津波が発生していたのだ。原発は必要と思われる対応を、思いつきはしてもきちんとなされていなかった。万全ではなかった。

28日、原子力安全委員会は解体して廃炉にするまでの工程表を示した。そしたら、燃料プール内の燃料は2014年ごろから、原子炉内の溶けた燃料は21年ごろから、原子炉と建屋まで解体して廃炉が完了するのには、30年以上かかるとの見解を示した。その間、臭わなく、目に見えない放射性物質は、密やかに我々の日常生活に迫っている。

さすが、原子力だ、後遺症も後片付けも途方もなく甚大だ。

今に至って、こんな発表を聞かされて、私の浮かぬ顔に暗雲の濃さが一段と増す。この30年間の廃炉に至るまでの作業にかかる費用は、まさか、我々がこれから払う電気代に含まれる? 税金?かと思うと、また、嫌な気分になる。

そんな暗い気分で、新聞の切抜きを整理していたら、見つけたのが九州電力の「やらせメール」だった。これは何も九電に限ったことではない。よく似た事件が、他の電力会社でも行われていた。その切抜きで保存していたものを、下の方に転載させてもらった。

九電の「やらせメール」の実態を著した朝日新聞の記事だ。

読めばなるほどと、納得する。中央や地方の政治家、経済産業省、原子力安全委員会、原子力安全・保安院、電力会社の役員らのそれぞれの役割というか、¥マーク柄の衣服を纏った¥漬けの走狗たちの、互助的機能がよく理解できる。このやらせメール事件は、この仕組みの象徴的な事件だ。私のブログの歴史に刻み込まなくてはイカンと思った。

この恐ろしい原発に与(くみ)した奴らは、¥マーク酒を飲み、¥マーク旅行や¥マークゴルフ場にも行った。当然、¥マークタクシーに乗ってだろう。この¥は、元はと言えば税金であったり我々が支払った電気料金だ。国民の安全で幸せな生活なんて、そっち退(の)け、ただ¥マークに踊った餓鬼どもたちだ。

マスコミ各社も、原発の開発過程の闇の部分を、原発のもたらすであろう恐怖を炙(あぶ)り出せなかった。これは、マスコミの力不足だ。

 

20111022

朝日・朝刊

読者有論:西部報道センター/多田敏男

九電やらせ問題 電力改革に国民の視点を

 

「やらせメール」問題をめぐって九州電力が迷走している。問題発言から3ヶ月余り。取材していて強く感じるのは、国と佐賀県の顔色ばかりをうかがい消費者に背を向ける経営体質が改まりそうにないことだ。

そもそもの発端は、佐賀県にある玄海原子力発電所の再稼動に向けた6月のテレビ番組で、九電社員らが賛成意見をメールなどで投稿していたこと。これをきっかけに他の電力会社もやらせが見つかり、国や自治体の担当者が関与していたことがわかった。

九電から調査を委託された第三委員会は、やらせに古川康知事や県幹部らが関与していたことを認め、こうした県との「不透明な関係」を解消するよう求めた。お手盛りの社内調査では信頼回復につながらないから第三者に委託するわけで、不祥事企業は調査結果を踏まえて、どう出直すのかが問われる。

ところが、九電は14日にまとめた最終報告書で佐賀県の関与を否定。真部利応社長は記者会見で「(県の関与を否定した)社内調査の方が信用できる」と開き直った。これに対し、枝野幸男経済産業相は「第三者に依頼した意味がない」と厳しく批判した。

九電は知事を守るために、調査結果を曲げたとみられても仕方がない。普通の企業ならば売り上げが激減し、会社の存立自体が危うくなるが、電力会社は違う。電力の安定供給の名目で地域独占が許され、一定の利益も保証されている。消費者は電気の購入先を選べず、体質改善を促す手段が限られている。怖いのは幅広い監督権限がある国や、原発の運転再開のカギを握る立地自治体ぐらい。東京電力の原発事故で消費者の視線が厳しくなったのに、会社の体質が変わらない理由だ。

電力会社にとって、やらせは真部社長が「『白か黒か』でいったら白とグレーの間」と述べたように罪の意識は低い。報告書を県の関与を認めるものにあわてて見直すのも、監督官庁のトップに怒られたからだ。消費者や住民の信頼をどう回復させるかの意識が、経営陣には欠けている。

枝野氏は「国民の視点に対する感覚が理解不能」と批判するが、やらせには国も関与しており、早く幕引きして原発の再稼動につなげたい思惑も見え隠れする。九電だけの「けじめ」で終わらせず、独善的な体質の原点である地域独占を見直すなど、消費者目線の電力改革のきっかけにならなければ意味がない。