柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
今日10月26日は、「柿の日」だそうだ。この句が生まれたのが、明治28年10月26日。
この句が誰の作品で、法隆寺がどこにあってどのような寺なのか、そんなことを何もしらないうちから、この句のことはよく知っていた。学校にも行かないうちから、諳(そら)んじていた。
兄が、この句を学校で覚えてきて、何気なく何度も楽しそうに詠むのを、知らない間に憶えてしまったのだ。私の田舎には柿の木がそこらじゅうにあって、柿が好きだったので、兄の口からでるこの句を我が物にしてしまったようだ。
兄に、その法隆寺(ホウリュウジ)というのは、報国寺(ホウコクジ)の間違いではないのか、としつこく聞き質して叱られた。我々の先祖の墓は生家の近くの報国寺にあったので、単に兄が間違っているのだと思っていたのだろう。
大学受験を控えての秋の追い込みの深夜、腹が減っては柿を食った。チンポ柿と言われる小さな甘柿を一晩で30個は食った。上京しての学生時代、毎年この時期になると、親元にせがんだのは、金ではなく「柿送ってくれ」だった。
そして、今、63歳の初老のジジイは、自前のイーハトーブ果樹園に3本、会社の敷地の前の方に2本、計5本の柿の木を持っている。そのうち1本は渋柿だ。柿だけは、正真正銘の自給自足を確立したかった。他にも、色々果物の生る木はあるが、此処は柿の木の紹介にとどめたい。
秋になって、食いたくなったときにはいつも傍にある、そのように万全な状況を作っておきたかったのだ。ところが、どっこい、むいた柿を大きな皿にのせて、スタッフに進めても、嫌いです、余り食わないんです、後でいただきますから、とそっけない反応の多さに拍子抜けした。ちょっと意外だった。柿が嫌いな奴が、この世に、それもこんなに私の身近にいるなんて、想像もしなかった。今の若者には、それほど好まれていないようだ。
私にとって、果物の中では一番柿が好きなんだけど。
どの柿の木も苗木を植えて約10年は経つだろう、今年は実りが豊かだ。そして、この柿を食うたびに正岡子規の句を思い出し、望郷の思いに誘われる。
私の郷里は五里五里と言われていて、京都から5里、奈良からも5里のところにある。今の時季、白秋の候とでも言うのだろうか。真っ青な秋空。柿を食うと、すっかり秋めいた山野や田畑に囲まれた我が家や草の枯れた原っぱ、ススキの穂、赤い実を2つ3つ残した柿の木が黒い陰を伸ばして、寂しそうに、ぽつうんと立っている、そんな郷里の風景を思い出す。
正岡子規の句で、明治28年10月子規が松山から、確か漱石の家を発って上京するときに奈良の法隆寺に立ち寄って、境内を散策、茶店で柿を食ったときに詠んだのだろうか。この時子規が食った柿の種類は、御所柿だそうだ。
それにしても、大した句を作ってくれたもんだ。この季節になると、私は、柿の実を枝からもぎ取るたびに、柿の木に向かって挨拶代わりに自然に出てくる、柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺。もうこの作用は日常的というか、条件反射になっている。
私の郷里は干し柿の産地でもある。古老柿(ころがき)と名付けて、宇治茶と並んで名産品になっている。晩秋、渋柿を母が、夜なべに一個づつ包丁で皮をむくのを手伝った。おかげで私は果物の皮をむくのが上手だ。イーハトーブの果樹園には渋柿も植えたが、まだまだ収穫には時間がかかりそうだ。
ネットで知ったことを書き添えておこう。
正岡子規は写生を唱えて近代俳句の祖と言われている。柿の句が他にもあったのでここに紹介しよう。
柿に思ふ奈良の旅籠の下女の顔
柿食うも今年ばかりと思いけり
余談だが、正岡子規は野球が好きだった、と何かで読んだことがある。意外だったので記憶に残っているのですが、これは、各自ご確認してくださいな。