今、散歩をしていて、一番目につく花はヒガンバナだ。散歩の道すがら、採ってきたヒガンバナを自宅の机の硝子の花瓶に、赤白1本づつ挿した。
誰もが知っていて、馴染みの深い花だ。でも私は、このヒガンバナを見ると、父から言われたこととを、この季節になると必ず思い出すのだ。ちなみに、私の生家は京都府綴喜郡宇治田原町だ。
生家を出て、東京暮らしを始めて既に40余年も経ったというのに、どういうことなんだろう。余程、子ども心にインパクトがあったのだろう。
東京での生活を始めてから、ヒガンバナの群生を初めてみたのは、大学1年生のサッカー部の合宿で長野県の菅平に行った時のことだ。ヒガンバナの群生が、あっちこっちに見られ、先輩も同輩も綺麗だと言った。野焼きでもしているようだった。それから、合宿所のオバサンやオジサンに話しかけても、皆が綺麗だと口を揃えた。私も、ヒガンバナは綺麗なんだと、なんとか納得した。
子どもの頃、父からあの花は、忌まわしい地獄の花や、だから摘んだりしたら、アカンぞ。摘んで家に持って帰ると、その家に死人が出るんだ、と言われた。
そんなことを言われた同時期に、こういうこともあったのだ。
琵琶湖からの流れは瀬田川になって、そこに私たちの田舎を流れている田原川が合流して宇治川になる。その宇治川に木津川が合流して淀川になる。私の郷里は、宇治川と田原川が合流する地点から5キロ程上流の所にあった。
毎年、宇治川には投身自殺する人が絶えなくて、その自殺した人の身寄りの分からない遺体を、私の生家から200メートル程の所に、土葬していた。板じゃなかったと思うが、確かタンカーのようなものに、ビニールのシートに包まれて、何人かで運ばれてきた。役場の人、警察の人、保健所の人たちだったのだろう。
私たち子どもはいつものことだから、大きな車に大層な荷物を積んでその場所で大人が何やら静かにウロウロしていたら、それは宇治川で土左衛門が揚がったことなんだ、と分かっていた。
土左衛門は、ドザエモンと読み、水に浮いた水死体のこと。
Wikipediaによると、土左衛門という名の由来は、水死体はいったん水底に沈み腐敗が始まるとガスが発生し、組織が水を吸ってぶよぶよになり体が膨れ上がって、真っ白に見えることがある。この様が、享保年間に色白で典型的なあんこ型(締りのない肥満体)で有名だった大相撲力士・成瀬川土左衛門にそっくりだったから、この名がついたとさ。
集まった大人たちが、女の土左衛門は上を向いて浮かび、男はうつ伏せに浮かぶんだとか話していた。逆だったかもしれない。そんな大人の話にも興味があった。
土に遺体を埋めるところは、私たちを遠ざけたから、よく見えなかったけれど、遺体を収めた後には、いつものように大きな板状の石を上に置いた。墓石代わりだ。その石は畳1枚分ぐらいの広さで、その上でよく遊んだものだ。そのような墓が幾つかあった。
その無縁仏が埋められている一画は、秋になるとヒガンバナの群生に囲まれて、それは、後で知ったヒガンバナの別名・曼珠沙華(マンジュシャゲ)が、如何にも法華経の仏典からの名称らしいが、天国では、いかにもこのように咲くのだろう、と思わせる光景だった。赤が異状に鮮やかだった。山口百恵は「マンジュシャか」と歌っていたが、それはどういうことなんだろう。
炎に包まれた無縁墓だ。だからか、私が怖い夢を見るときの背景は、赤く炎が燃えている。
ネットで、ヒガンバナの鱗茎は有毒で、土葬後、死体が動物などに掘り起こされないように植える、と知った。なるほど、人智は凄い。
毎年、この季節になってヒガンバナを見ると、こんなことを思い出すのだ。