2011年10月19日水曜日

遠藤周作 沈黙

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弊社の経営責任者の中さんが、フィリッピンに家族揃っての里帰りの際、フィリッピンのどこかで? 病原菌を貰ってきたようだ。奥さんがフィリッピン出身なのだ。どんな菌って、そりゃ、中さんが一番罹(かか)り易い菌だよ、と言えば分る人は分る? なんて冗談はさておき、そんな意味深な菌ではなくて、特に子どもの体に巣食い易い、普通の溶連菌だった。症状は、喉が赤くなって、痛い。熱がでて、扁桃腺に白いぶつぶつができ、症状は重く、激しい。

成田までは、ヒイヒイの態(てい)で辿り着き、一夜自宅で過ごして、翌日、検査即入院した。中さんだけの独り帰国だった。

中さん以外の家族は、まだまだ、これから、ゆっくり、ゆったりの夏休みコースだ。会社のスタッフには見舞いに行ってくるわ、と出かけたものの、二人にとって、病状についての情報交換はさっさと終えて、やはり話すのは仕事のことばかり。これこそ、病院へ来た本当の目的だったのだ。これって、われ等に与えられた天の定めか。

今度、来てくれるときには、何か読むものを持ってきてくれませんか、中さんの申し出を快諾した。何とかオフの古本屋さんに暫らく行っていないことに気づいた。私は、この店の105円コーナーが大好きで、本立ての前に立つと、不思議な快感が湧くのだ。でも、最近の超貧乏暮らし、何とかオフにも行けなかった。

硬い本はアカン、それじゃ、軟らかいのはいいのか? う~ん、悲しいかな、私にはそのヤワラカイっという本を選ぶセンスがない。品のいい軟らかさというのを見極めるのは、難易度が高い。前提としては、低級なエロ、グロは避けなければならない。心と体に治療を施して健康体を取り戻す、真面目で清浄な所だからなあ!

取りあえず3冊買った。遠藤周作の「沈黙」と、話の内容がちょっとインモラルなイメージの本、それにもう1冊は、池田勇人元首相時代の政治の裏幕を書いた本だ。

この「沈黙」は私が学校を卒業した頃に買って読んだことがある。新刊で確か1300円で、当時、高いなあと思った。この本を、今回、何とかオフで見つけた時、あっこれだ、中さんに、これを読まそう、と即断。きっと回復を早めるだろう、か?

ところで、この本って、どんなストーリーだったっけ、と思い返しても、島原の乱後、キリスト教弾圧が厳しく、ポルトガルの宣教師に棄教を迫る拷問とか、隠れキリシタンが秘かに信教を続けていた様子、キリストの言葉を宣教師の口から色々聞かされたが理解できなかった。それでも、当時、重くどっしり感動したことだけは、心に残っていた。

私は、生来イヤラシくケチな男で、この本だけは読んだら返してくれ、と病床に臥す中さんに、条件付で渡した。一時貸しの要領だ。本当のところは、病院への土産物として本探しをしていたら、私が再び読みたいと思った本に偶然出くわしてしまった。中さんの趣向をないがしろにしてしまった、スマン、気を悪くしないでくれ。

それでは、本論に入りましょう。孤里狸先生、遠藤周作氏「沈黙」の、始まり、ハジマリだ。お芝居なら、東西東西(とうざいとうざい)ってとこか。

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遠藤周作の「沈黙」の批評を著すなんて、私には無理だ。

キリスト教の信徒でありながら、宣教師を度々裏切り続けるキチジローが、この本の1本の縦糸だ。私は、本の中では決して大役でないこの男に興味をもった。

正と邪、善と悪、神の存在というテーマを、キリストとユダ、ロドリゴとキチジローを対比して、神の真なるものは、真なる神とは何かと希求する。このテーマは、真面目なキリスト教の信徒であった著者の母が、著者一流の謙遜だとは思うのだが、不真面目な遠藤周作の心に影をおとしている、とその苦い心の裡(うち)をこの本で著したかったと、何かで知った。

奉行所は、キリシタンの拷問に司祭を立ち会わせる。そして、あなたが転べば(棄教すれば)、多くの隠れキリシタンの拷問を解き、命を助けてやると迫るのだが、どうしても転ぶことはできない。神はこの場に至っても、何も仰らない、何故、黙っているのですか、と問う。そして、一人の司祭は死に、残された司祭は、もっと大きな苦しみが与えられる。

でも、残った司祭も最後には転んだ。

かって尊敬した教父、やがて棄教した教父、そして司祭が厳しく責めた教父と同じように、自分も転んだ。

ロドリゴは、主に対して、棄教したのではないことを、あなただけはご存知でしょ、と繰り返す。聖職者が教会で教える神とロドリゴが信じる主とは別なものだと悟るのだ。

こんなに、神に仕える我々なのに、主よあなたは何も仰らない、、、、、。私に、何か仰ってください。だが、、、、、、それが、この本の題名にもなった「沈黙」ってことのようだ。

遠藤周作は、この「沈黙」でノーベル文学賞の候補にも挙げられたと聞いた。構成については色々な意見もあるようだが、私が今まで読んだ本の中では、感銘を受けた本のひとつだ。遅読の私なのに、一気に読み終えた。

読後感想を文字で綴るのは、私には難しい。よって、その作業は、数多(あまた)の賢人たちにお任せすることにして、私はこの物語のあらすじだけをキープしておこう。

下の方の文章がそうだ。

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江戸時代初期、徳川幕府は島原の乱後、厳しいキリシタン禁制を強いていた。

ローマ教会に、ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していたフェレイラ・ラリストヴァンス教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ棄教を誓ったという知らせがもたらされた。

☆穴吊り=信徒の耳に傷をつけて逆さづりにする。その傷つけた耳の出血で、ゆっくりゆっくり少しづつ、精神的に肉体的に苦しめる拷問のやりかた。

知らせを受けたローマ教会では、教会の不名誉を雪辱するため、また教父の地元のポルトガルからは、教父が異教徒の前で棄教に屈従したとはどうしても信じられなく、三人の宣教師は危険な日本へ潜入、真実を確かめながらの布教を決意、殉教は覚悟の上のことだった。

一人は病に臥し、ガルペとロドリゴの二人は、マカオで、日本人のキチジローと知り合い、数名の乗組員と船を仕立てて日本行きを敢行、荒れる海を何とか長崎のとある島に辿り着く。

弱気で酒飲みのキチジローは、二人にキリスト教の信徒のような振る舞いを見せるが、確かめると信徒ではないと言う。

辿り着いた島はトモギ村で、キチジローはこの島の村民だった。この島で、隠れキリシタンの村人たちに匿(かくま)われ、二人の宣教師は司祭として信徒らと信仰を交わした。住居の居間の下に穴を掘って、身を隠しての生活だった。それでも、暫らくは静かな信仰の日々だったが、キチジローが二人のことを役人に密告、裏切ったのだ。

五島の村にも赴く。

トモギ村に戻る。司祭二人は、役人に村の信徒たちと捕まる。奉行所に、三人の出頭を求められ、イチゾウとモキチは自らの意志で村人の代表者として、キチジローは村民から身代わりにと頼まれ、気の弱さから断れなかった。踏絵を踏まされた。三人とも、踏むことは踏んだのだが、踏む時の苦渋に充ちた表情を見逃さなかった役人に、それじゃ、この踏絵に唾をかけ、聖母は男たちに身を委してきた淫売だと言ってみろ、と言われ、イチゾウとモキチは耐えられずキリシタンであることを告白した。が、キチジローは、聖母を冒涜する言葉を吐き、唾をかけ、罰から逃れた。そして、二人は海岸で水礫(すいたく)に処せられた。

キチジローは、当初キリシタンたちに、司祭を連れてきてくれたことで感謝されたが、役人たちの警戒が厳しくなり、仲間が捕らわれてからは、疎(うと)まれるようになった。

水礫(すいたく)=今回は十字にして2本、波打ち際に立てた。その木に縛り付けて、満ち潮で首の辺りまで海につかるようにする。時間をかけて絶命させる。それを見せ付けるのを目的にする。

役人たちによる山狩りがあるというので、隠れ家から二人は襤褸(ぼろ)を纏(まと)い逃亡の旅に出る。二人で行動するよりも独りづつの方が、見つかり難いのではと判断して、別々の行動を取ることになった。

ロドリゴは若者の船で、身を隠すために違う島に向かった。キリシタンに会えるかどうか、焦燥、不安ながら、獏とした教区?に向かって島を彷徨した。暗闇の中を雨に打たれながら、当てのない行路に、またしてもキチジローが現われ、ここでも裏切られることになる。

キチジローは銀何枚かで、ロドリゴを役人に売った。そして役人に取り押さえられる。キチジローは怯(おび)えた顔で、ゆるしてください、と言いながら姿を消した。

長崎奉行所に向かって、馬に乗せられた。道中で、異教徒から牛の糞や石を投げられる。その道すがら、キチジローは司祭を窺(うかが)うような目を向けたが、視線が合うと顔をそむけた。この男に寛大にはなれない。去れ、去れと心の中で呟(つぶや)いた。

ガルペは、信徒の拷問に立会い、転ぶ(棄教)と言えば三人の命は助けると言われても、ガルペはどうしても転ばない。ロドリゴは、遠くから転べと叫ぶ。三人の信徒は薦俵(こもたわら)に巻かれて海に投げ込まれ、ガルペは信徒に向かって海に飛び込み、波間に消えた。

牢屋に入れられる。中庭では、信徒に拷問や処刑が続く。女の悲鳴が夜の闇を裂く。刀を振りかざす役人。そして、またもやキチジローが下帯一つで連れ出され、踏絵を踏んだ。転げるようにして姿を消した。

井上筑後守に会う。彼もかってはキリスト教の信徒だったが、今はキリシタンを取り締まる側だ。キリスト教を邪宗とは考えていない、だが、日本にはキリスト教は馴染まぬものだ、と。「一人の男に醜女の深情けは耐え難い重荷であり、不生女は嫁入る資格なしとな」

牢での生活が続く。日に三度差し入れられる食事に度々手をつけられない。

そして、フェレイラ元教父との面談の時が来た。

「この国には、お前や私たちの宗教は所詮、根をおろさない」「この国の者が信じたものは我々の神ではなく、彼らの神だったことを知らず、長い間、日本人がキリスト教徒になったと思い込んでいたのだ」

ザビエルが教えたデウスを日本人は大日と混同した。その時から、日本人はキリスト教の神を日本流に屈折、変化させ別のものに仕上げてしまったのだ、とフェレイラは言う。

☆デウス=キリスト教では、唯一の神をあらわす言葉。日本では、戦国時代末期、キリシタンの時代に「神」を指す言葉として用いられた。(Wikipedia)

☆大日(如来)=密教において宇宙そのものと一体と考えられる如来の一尊。その光明が遍く照らすところから遍照、または大日という。(Wikipedia)

牢に聞こえてくる音が、「穴吊り」の拷問に苦しむ、呻(うめ)き声だった。誰かを罵っているようで、哀願しているようで、迫ってきては去る。去ると、絶望的な静寂に包まれる。またしても、牢の外にキチジローが現われ、許してくれ、弱くて殉教さえできぬ、どうすれば、よか?と司祭に訴える。

司祭が転べば、拷問は止められ、可哀相な百姓たちの命は助かるのだ。

そして、ロドリゴ司祭は転んだ。銅版に刻まれた主の顔は、踏まれて磨耗して、窪んだその顔は辛そうに司祭を見上げた。ロドリゴは踏んだ。

(踏むがいい、お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ)

転んだ後のフェレイラの心境を原作から引用する=私は転んだ。しかし、主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけがご存知です。なぜ転んだと聖職者たちは自分を訊問するだろう。穴吊りが恐ろしかったからか。そうです。あの穴吊りをうけている百姓たちの呻き声を聞くに耐えなかったからか。そうです。そしてフェレイラの誘惑したように、自分が転べば、あの可哀相な百姓たちが助かると考えたからか。そうです。でもひょっとすると、その愛の行為を口実にして、自分の弱さを正当化したのかもしれません。それらすべてを私は認めます。もう自分のすべての弱さをかくしはせぬ。あのキチジローと私とにどれだけの違いがあるというのでしょう。だがそれよりも私は殉職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている。

幕府から住宅をあてがわれ、日本名をもらい、妻をも娶(めと)ることになる。南蛮渡来の品の中に、キリスト教関係のものがあるかどうかを調べたり、その他の幕府の公務に就いた。