2015年6月23日火曜日

父の日に、母を想う

今月の13日(20150613)、妻の(義)母が横浜にやってきた。

一行は多人数だった。妻の弟とそのお嫁さん、その夫婦の間に生まれた大型の息子とそのお嫁さん。この夫婦は、3か月前に結婚したホカホカの新婚さんだ。子供二人を京都に残しても平気なぐらい、大きな子女がいる。そのウルトラ謎はいつか話すことにしよう。私と母とのお付き合いは、40年近くになる。24歳で卒業して、その2,3年後に結婚した。少し小(こ)五月蠅(うるさ)かった父に対して、母は心の穏やかな人だ。でも、足腰が弱って身動きするのがヤット。父とはお酒を飲んで、社会の鈍間(のろま)な出来事について、面白可笑しく喋ったものだ。約30年後に癌で亡くなった。

母親にとって、京都での生活は老いだけではおさまらないほど、痛みは激しいようだ。心の優しい母は、沢山の家族たちとのコムュニケーションにも気をもんだ。家庭内でのささやかな揉め事にも、簡単には気が引けない。でも、母の足腰の痛みが避けられないのは止むを得ず、一致団結、美しい未来に向かって頑張っていた。私は仕事の繁忙に気を許して、田舎の父母について気配りできなかったことをすまないと思っている。

6月の第3日曜日は21日、『父の日』だ。縁のある日の近場に母がやってきた。この際とばかりに、今までのこと、これからのことを楽しく話すことにしよう。母上が卒業した京都の学校は名門で、畏れ多い名士が今でも各方面で活躍中だ。私と結婚して神奈川で住むことになった妻は、子どものうちでは一番の高齢者。自分の父母のささやかなことにもお手伝いできなかったことを申し訳ないと想っていたのだろう。私だって、訳の解らぬ親不孝な息子では済まされない、、、、やれるだけ頑張ってみよう。お母さん、死ぬまで、生きられるだけ、私の家で過ごしてもらうぞ。妻よ、私の仕事上の能力は落ちに落ちたが、私事に関しては万事君のお世話になる。感謝している。

 

 

そして、私の実父母は

私の父母は16,7年前に亡くなった。二人とも癌で、母は1月に父は11月だった。それは、同じ年だった。両人とも同じところから癌が発生して、廻り回って同じように亡くなった。若いときから仲が良くて、俺も大人になったらあのような老人になるんだと、思っていた。父からも母からも、私たちのことは気にしなくてもいいヨ。私たちのことは長男の勝が見てくれるから、お前は、俺たちのことを気にしないで、強く逞しく一人で頑張ってくれ。何をやろうが、それはお前の希望でいい。父母の恩は山よりも高く海よりも深し。そうして、東京の大学に入ってサッカー部に入(い)り浸(びた)った。昭和48年度のことだ。全日本大学サッカー選手権で優勝、関東大学サッカー選手権でも優勝して、電話で話しかけた私にはおめでとうの一言もなかった。う~ん、う~んの根も葉もない返事ばかりだった。

卒業して10年ほどたった頃、父母と友人を連れてニュージーランドに行った。友人の会社が保有しているものだ。山の中、畑の中、海岸沿いの粋なホテルだった。当時、テレビでお馴染みの俳優さんが家族を連れて来ていた。母にニュージーランドに行くよと言ったとき、母は、足腰が弱っているのにあんなに広い所を歩いてなんか回れないよ、ときた。違うヨ、お母さん、それはディズニーラーンドで今私が考えているのはニュージーランドだよ。当地では、父は面白がって彼方此方に、俺を連れて行こうとしたが、母はロビーでぐったりしていた。どうもこの頃から母は癌が発病していたのかしら。

それから10年後に、これまたオーストラリアにでかけた。この旅は、父と私にとって運命的だった。息子がオーストラリアの大学院で環境を学んでいた。我々の滞在中の1週間、息子は宿泊場所を決めて、見物先や食事に付き合ってくれた。このときに、息子の利発さが気にいった。

この男は、必ず、立派な奴になる、と!!

2015年6月21日日曜日

若鷹に目を瞠(みは)る

勤務中に大怪我をして、5月16日で丁度1年が経つ。

仕入れた住宅の伸びあがった庭木の枝の伐採作業中のことだ。4,5メートルの頂上付近から頭をヘッドに路面に直下した。1週間後、奇跡的に意識が回復した。大学時代のサッカー部の仲間や、社員の誰もが、アイツは死んだと思っていた。半年間の入院生活で何とか回復の目途がたつと言われたが、実のところは、回復の目途ではなく、これ以上悪くならないように施療しようということだった。足腰や肩などの打撲による痛みは何とかなるだろう、が、脳のことに関しては回復するか?回復しないか?それは解りません、だった。

退院後、そんな私が年末に始めたのは、徒歩による会社への出退勤だった。約10キロ=55分、往復で20キロ。そうは言っても、打撲で傷ついた肉体の各部を連動するのは、キ ービ ーシ ーイーーーかった。体のそこらじゅうの筋肉や骨格が痛かった。家族も社員も、無理は禁物ですよ、とは言っていた。

ところが、会社への出退勤の徒歩中で気が付いたことがある!!!  相手が誰であろうと、獅子がキジを前にして闇雲に突っ込むように。命がけでもあったのだ。

徒歩のコースを選ぶのには知恵が要った。おしっこが何べんもしたくなり、超早朝ではコンビニエンス以外、便器を使わしてくれる場所はない。大きい敷地や駐車場、隠れ場所があるところを優先した。ここで、神奈川県立保土ヶ谷公園を知った。年が過ぎ、枯れ木に新芽が出て、名前の知らぬ花が突然吹きだした。樹木を観て花を見て、樹種を書き込んだプレートを確かめた。

 

  紫陽花(あじさい)

花や樹木を長く観続けると、身も心も楽になった。少し安堵した。

もう一つ、おまけがついていた!このおまけというのが、歩行勤務の際に前を通る二つの県立、市立の高校のことだ。私が暫らく忘れていた摩訶不思議な光悦が蘇ってきて、体の芯の部分が刺激されたようだ。それが、今回のブログだ。

学校写真 学校

生徒の身につけている衣服にハゼさがない。全員が制服に近い恰好でいる。スカートを異常に短くしている女の子や、目立つ色の服装をしている奴がいない。靴一つとってみても、私には納得できないようなものを履いている者がいない。これが、この両校からの衣服から見いだした、感傷だ。

きっと学業面でも立派なのだろうが、私には解らない。そんなことよりも、真剣にスポーツをやっているのが、、、、、「好きなんだ!!」。果たしてどんな競技種目が市内や県内で、全国的なレベルなのか、それも解らないのだが、、、、朝、出社の緊張時に、生徒にとっては正規の授業が始まる前に、バッシー、バッシーと聞こえてくるのが、嬉しいのだ。この感性が私の血を騒がせる。県立の方は道路からグラウンドが見えるので何をやっているかは解るが、市立の方は校庭の下を通るので種目が解らない。

唯、ラケットに当たる庭球ボールの音や、靴の音、バットに当たるボールの音、グラブにボールが突き当たるときの打撃音、プレーヤーの掛け声が激高、それらが、夢中に私の耳に挟(は)まりこむ。ボールを蹴る音、投げる音、打つ音、受ける音。時間に間に合わないのか、学校に必死で走っている者もいる。これが朝の刺激だ。ハイカラに言えば、インフルエンザ?。

そして、夕刻も彼らの活動で、胸が痺(しび)れる。退校しなければいけない時刻があるのだろう、大勢の生徒が群れをなしているサマは、他では見られない異様で、威容だ。

 

20150718の朝もこの道をつかった。そして、肝心なことを思い出した。15,6年前には私の長男もこの県立の高校の生徒で、サッカー部の部員だった。蛮勇だったが、戦績は涙を流すまでもない。私は、全ての部員と仲良く付き合った。所要で自宅に寄ってみて、仲間たちで、冷蔵庫にある飲料から飲み物を、猪や鯨のように食い飲み、リビングに丸太のように転がっていた、、それも毎日!、、懐かしい!!。

2015年6月11日木曜日

3果樹園がそろった!!ゾ

 

初夏の野原を行けば イギリス/グラスゴー特派員ブログ | 地球の歩き方

1番最初の果樹園の工事着手は、何年前だっただろうか。15、6年前だったのか、その前だったか ? 自宅から歩いて30分もかからないので、その場を選んだのは気楽だった。田舎出身なので、このような土地で働けるのが、夢の夢だった。俺は、誰が何と言おうと、半端者でない田舎育ちだ。学校を卒業したからと言って、都会の、それも東京のド真ん中で働くなんて、どうしても?どうしても?否(いや)だった。

都会の真ん中では、私の体か?血か?何もかもがぴったりこない。都の西北・早稲田の村で、汚(きたな)く汚(よごれ)ちまって!!!!!!その素性は映えるばかり。 唯、体に鞭(むち)をいれて頑張ることは嬉しかった。

荒地に鍬(くわ)を入れて、太くなった雑木を切って、他人との境界帯をダラシナクないように気を遣った。今やっと、果樹付農園になった。そうこうしているうちに2番目をやり、3番目の荒地に着手することになった。これらの作業をブログにしたかった。

 

この3果樹園というのは以下だ。どの果樹園も農園も、イメージは石川啄木さんにお世話になった。

 

1番目・今井町のイーハトーブ(横浜市戸塚区今井町)

2番目・衣笠栄町のクラムボンたち(横須賀市衣笠栄町)

3番目・山間(やまあい)武山のヤマナシ(三浦市武山)

2015年6月4日木曜日

106歳~拝啓 台湾の君へ

 

元小学校教諭、約80年前の教え子に手紙

宛先不明 局員が探し出す

 

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下に綴るのは、2015年(平成27年)5月9日の朝日新聞・夕刊の『元小学校教諭、約80年前教え子に手紙。宛先不明 局員が探し出す」をダイジェストしたものだ。その後の5月17日のブログは、約40年前に卒えた学校から送られてくる「~~学報」のなかの一遍だ。

 

台湾中部・台中の現存しない住所あてに日本から一通の手紙が舞い込んだ。差出人は日本統治時代の台湾で小学校教師だった106歳の日本人女性。若い台湾の郵便局員が宛先の教え子を探し出し、女性と90歳前後の教え子たちとの交流が再び広がっている。手紙を出したのは、熊本県玉名市の高木波恵さん。小学生だった大正時代に警察官として赴任した父親とともに台湾に移り、約30年間暮らした。1929~38年の10年間、主に台湾人の子女が通う台中の烏日公学校(現・烏日小学校)で低学年を教えた。

手紙のきっかけは、31年に台湾から夏の甲子園に出場し、準優勝した嘉義農林学校を題材にした映画「KANO」の日本公開だ。高木さんは当時熱心に嘉義農林を応援。中京商との決勝戦は役場でラジオ中継を聞いて声援を送った。この体験について朝日新聞熊本版の取材を受け、教え子たちを懐かしく思い出した。

近況を知りたいとの思いが募り、20年ほど前まで手紙のやりとりがあったという楊漢宋さん(87)にあてた手紙を娘の恵子さん(76)が代筆。手紙は2月末に地元の郵便局まで届いたが、住所表記がその後何度も変わっていて、どこに当たるのか分からなくなっていた。

本来なら宛先不明で返送されるところだが、郵便配達を始めて2年半弱という郭柏村さん(27)は日本からの分厚い手紙に「大事な手紙に違いない」と直感。宛先人を探し始めた。先輩から「大体この辺りのはず」という助言をもらい、配達のかたわら「この人を知らないか」とたずね回った。

 

12日かけ配達

ただ、烏日地区には台湾高速鉄道(新幹線)の駅が出来たことで新住民が急増し、昔のことを知っている人を見つけるのに手間取った。楊さんが前町内会長の楊本容さん(67)の父親だと知る人に出会い、12日かけてようやく手紙を届けることができたという。

楊さん自身は高齢で寝たきりになっていたが、手紙に感動した本容さんらが高木さんの教え子たちを探し、約20人を突きつ止めた。その一人の楊塗生さん(68)は「106歳でお元気だというのを知ってびっくりした。高木先生は優しかった」と懐かしむ。

教え子らは高木さんあてに手紙を書き、師弟の交流が復活。高木さんも「とてもうれしい」と喜ぶ。ただ、足が不住で、台湾再訪かないそうにない。教え子もすでに高齢で日本に行くのは難しい。このため台湾側関係者はインターネットを使ったテレビ対面が出来ないか模索。行政当局などに支援を求めている。

 

映画ほうふつ

「KANO」を制作した魏徳聖さんは、大ヒットした映画「海角七号」(2008年)の監督として知られる。敗戦で日本に引き揚げた日本人男性教師が離れ離れになった台湾人女性へ思いをつづった手紙が、今はない日本統治時代の住所あてに届き、郵便局員が女性を探すというあらすじ。高木さんの手紙は映画を地で行くような話として台湾メデイアでも取り上げられた。

魏さんは朝日新聞の取材に、「台湾で暮らしたことがある人は、どこの人であっても私にとってはみんな身内のような存在。台湾のかっての美しい様子を忘れないでいて欲しい」と高木さんあてのメッセージを寄せた。(台中=鵜飼啓)

 

日本の台湾統治

台湾は日清戦争を受けた下関条約で1895年に清朝から日本に割譲され、第2次大戦終戦の1945年まで日本の植民地とされた。多くの日本人が移り住み、インフラや教育制度の整備が進められた。台湾人の子の多くは日本人が通う小学校ではなく、日本人らしさや日本語の習得を掲げた公学校に通った。