元小学校教諭、約80年前の教え子に手紙
宛先不明 局員が探し出す
下に綴るのは、2015年(平成27年)5月9日の朝日新聞・夕刊の『元小学校教諭、約80年前教え子に手紙。宛先不明 局員が探し出す」をダイジェストしたものだ。その後の5月17日のブログは、約40年前に卒えた学校から送られてくる「~~学報」のなかの一遍だ。
台湾中部・台中の現存しない住所あてに日本から一通の手紙が舞い込んだ。差出人は日本統治時代の台湾で小学校教師だった106歳の日本人女性。若い台湾の郵便局員が宛先の教え子を探し出し、女性と90歳前後の教え子たちとの交流が再び広がっている。手紙を出したのは、熊本県玉名市の高木波恵さん。小学生だった大正時代に警察官として赴任した父親とともに台湾に移り、約30年間暮らした。1929~38年の10年間、主に台湾人の子女が通う台中の烏日公学校(現・烏日小学校)で低学年を教えた。
手紙のきっかけは、31年に台湾から夏の甲子園に出場し、準優勝した嘉義農林学校を題材にした映画「KANO」の日本公開だ。高木さんは当時熱心に嘉義農林を応援。中京商との決勝戦は役場でラジオ中継を聞いて声援を送った。この体験について朝日新聞熊本版の取材を受け、教え子たちを懐かしく思い出した。
近況を知りたいとの思いが募り、20年ほど前まで手紙のやりとりがあったという楊漢宋さん(87)にあてた手紙を娘の恵子さん(76)が代筆。手紙は2月末に地元の郵便局まで届いたが、住所表記がその後何度も変わっていて、どこに当たるのか分からなくなっていた。
本来なら宛先不明で返送されるところだが、郵便配達を始めて2年半弱という郭柏村さん(27)は日本からの分厚い手紙に「大事な手紙に違いない」と直感。宛先人を探し始めた。先輩から「大体この辺りのはず」という助言をもらい、配達のかたわら「この人を知らないか」とたずね回った。
12日かけ配達
ただ、烏日地区には台湾高速鉄道(新幹線)の駅が出来たことで新住民が急増し、昔のことを知っている人を見つけるのに手間取った。楊さんが前町内会長の楊本容さん(67)の父親だと知る人に出会い、12日かけてようやく手紙を届けることができたという。
楊さん自身は高齢で寝たきりになっていたが、手紙に感動した本容さんらが高木さんの教え子たちを探し、約20人を突きつ止めた。その一人の楊塗生さん(68)は「106歳でお元気だというのを知ってびっくりした。高木先生は優しかった」と懐かしむ。
教え子らは高木さんあてに手紙を書き、師弟の交流が復活。高木さんも「とてもうれしい」と喜ぶ。ただ、足が不住で、台湾再訪かないそうにない。教え子もすでに高齢で日本に行くのは難しい。このため台湾側関係者はインターネットを使ったテレビ対面が出来ないか模索。行政当局などに支援を求めている。
映画ほうふつ
「KANO」を制作した魏徳聖さんは、大ヒットした映画「海角七号」(2008年)の監督として知られる。敗戦で日本に引き揚げた日本人男性教師が離れ離れになった台湾人女性へ思いをつづった手紙が、今はない日本統治時代の住所あてに届き、郵便局員が女性を探すというあらすじ。高木さんの手紙は映画を地で行くような話として台湾メデイアでも取り上げられた。
魏さんは朝日新聞の取材に、「台湾で暮らしたことがある人は、どこの人であっても私にとってはみんな身内のような存在。台湾のかっての美しい様子を忘れないでいて欲しい」と高木さんあてのメッセージを寄せた。(台中=鵜飼啓)
日本の台湾統治
台湾は日清戦争を受けた下関条約で1895年に清朝から日本に割譲され、第2次大戦終戦の1945年まで日本の植民地とされた。多くの日本人が移り住み、インフラや教育制度の整備が進められた。台湾人の子の多くは日本人が通う小学校ではなく、日本人らしさや日本語の習得を掲げた公学校に通った。