2015年7月30日木曜日

サッカーが好きだった!!

早稲田大学大隈講堂

                     都の西北大学

 

45,6年前、都の西北大学? に在学中は、唯、只管(ひたすら)サッカーをするためだけだった。勉強をするためにその大学を選んだわけではない。何とか、入試という障害を乗り越えられたのは、千中八九のマグレだった。私の高校サッカーは、平等院では名高いが、サッカーでは鄙(ひな)びた地域だったので、大学に入って思いっきり優秀な戦果を得られるなんて、想像もできなかった。思いつきでさえ、できなかった。勉強だって、それぁ難しい勉強に手は出せなかったけれど、私にやれるだけのことは、やった。専門的な部分は× 端折った分野について手当り次第に本は読んだ。

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入部当初、技巧は貧しく、技量も素人にチョビット髭(ひげ)が生えた程度で、大学時代の成果なんて露ほども想像できなかった。だが、、、でも、、、希望はあった!、、、全日本に幾つかある大学のなかで、チャンピオンになることだった。当然、そのチームの一員として出場することは、絶対条件だった。ところが、どっこい、不(あん)に図(はから)ず、4年生になって、昭和48年の全日本大学サッカー選手権と関東大学サッカー選手権の2冠を得たのだ。試合には、出場させてもらったこともあるが、観覧だけのことが大半だった。優勝した夜は寮の電話を無料で使わせてくれた。郷里の父や母にことの重大さを輪にかけて熱っぽく話したけれど、う~ん、ヘ~ と生返事が返ってくるだけだった。

入部できたのは京都の山城高校出身の山本和尚?さんのお蔭だ。同じ京都の出身だということで、親密感?なのか、先輩に対する面影が気に入ってくれたのか、明日にでも荷物を持ってきなさい、1年生は強制的に入寮してもらうからね、ときた。実は、強制入寮なんて決まりを知らないものだから、10日ほど前に学校の傍にあるアパートの入室契約をしたところだった。アパートに帰って、サッカー部に入ったこと、強制的に入寮しなければならないこと、を大家さんに話した。自力で大家さんと契約していたのだ。10日間は、現実に過ごさせてもらった。気兼ねしながら話した私に、入室料も礼金も敷金も、ええわよ、あなたにはお金が要りそうに見える!! 気にしなくてもいいから貰ったお金は全額返しましょう!! 愉快なおばあちゃんだった。

 

宇治橋上流

          宇治川

私の郷里は京都府でも極南の京都府綴喜郡宇治田原町。

日本緑茶の発祥の地。茶摘みの頃には、小学校と中学校のカリキュラムは特別版に急変わり、授業は午前中で終わった。午後は生家の茶摘みの手伝いをした。午後3時頃には、町役場の大拡声器で当時の流行歌を流してくれた。老若男女(ろうにゃくなんにょ)、周辺のことなどお構いなしに、その歌を大きな声で歌った。摘み人としては、近所の縁戚関係者は当然だけれど、東北地方から来てくれた人も多かった。小さな村だけれど、お茶の季節には人は増えた。

製茶工場の窓から流れ出る新茶の香りは、子供にもいい気分にしてくれた。生産者がその効率を重んじる一括製茶工場では、いろんな家族が集まるので、私にしてみれば余所のオジサンの顔を見ることが楽しかった。

 

永谷宗円肖像画

浅蒸し煎茶=名前の通り「煎じる茶」の意味を持ち、煮出すことによって成分を抽出させていたとされているその昔、まだ赤黒い色をした煎茶をなんとか美しい緑色のお茶にできないかと、江戸時代の中頃。宇治の永谷宗円と言う人が現在の煎茶の元となる青製煎茶を15年という歳月をかけて開発したと言われている。甘みと渋みのバランスが良く、後味がさっぱりしているーーーーさくらんの森発行 「さくらもち」より。

琵琶湖からの湖水は、瀬田川を通じて宇治川になり、淀川になる。宇治川の湖岸には大きな桜が多く立ち並んでいた。高校時代、桜の花の咲 く頃、桜電車(サクラデンシャ)がお酒を呑んだオジサンやオバサン、綺麗な着物の娘さんが、我らを楽しませた。古都の趣に花を添えた。しかし、高校に通いだした頃に、天ケ瀬ダムを創ることになって廃線になった。私の目の前で工事は進んだ。大林組のこの工事を嘆いた。

宇治田原の南地区から宇治川の上流にさす田原川にも思い出がいっぱいだ。冬以外には魚や虫を採って、騒いで、泳いだ。私は、泳ぎに関しても優秀だった。ウグイ、鯉、鮒や亀が群れをなしていた。宇治川に流れる少し前に深い谷風の水域があって、自殺者も度々生まれる危険な地域だった。こんなこともあった、私の次兄が岸に辿り着こうとすると、仲間たちに苛められた。岸に捕まろうとする手を遮ったり、頭に手をかけて水中に潜らされた。そんな時、私は泣きながら必至でそんな邪魔者に刃向った、苦言で暴力、馬鹿にした。

保、エエか?お前は故郷に錦を飾ることはない。東京で好きなように働けばいいのだ。保、もう一つお節介だ、乞食の子でも三年もやりとげれば、三年生になるんだよ、心配するな。

小学校、中学校は狭い田舎のこと、勉強のことは一切苦にならず、通学することが楽しくてしょうがなかった。山井(やまあい)の田舎は狭かった。勉強が出来ようが不出来な成績を貰おうが、平気の平左エ門だった。そんな暢気なことを、何時までも続くものではなかった。高校進学が迫ってきたのだ。いつもは50人クラスのなかで15番くらいで暢気(のんき)だったのだが、公立高校の受験資格はクラスで5番くらいまででないと、先生は受けさせてくれなかった。それからの私は違った。負けん気をだして、ちょっと真面目に勉強すれば、2番や3番に入れた。これを、父や母に話すと驚天動地、異常に喜んでくれた。やっと、ここで、他の人はそれほど勉強していなかったことが、、、判ったのだ。

それからの学園生活については、言うことなし、万事うまくいった。それからの受験勉強についも、欲をかいて言うことなし。大学に入ってからのサッカー生活が好いのか悪いのか、グチャグチャのブッチャぶっちゃ、頭を巡らすことなど一歩も一著も不出来だった。サッカーのサッカーができていなかった。少しスピードをあげてのランニングさえできなかったのだ。サッカーの能吏や豊かな知識を持っている人にとって、私のことなど「ヘ」みたいな、あばずれだったことだろう!!


2015年7月26日日曜日

冥王星

20150720 朝日新聞の天声人語から

太陽系の8人きょうだいは普通「水金地火木土天海」と順に並べられる。「木土天海地金火水」と並べることもできる。前者は太陽に近い順で、後者は大きさの順だ。どちらの末尾にも9年前までは「冥」の文字がついていた。

一番遠くて一番小さい惑星だった冥王星である。月より小粒な「末っ子」が格下げされて準惑星になったのは記憶に新しい。そのときの本紙社説の見出しは趣があった。「冥王星 地球は君を忘れない」。折りしも米国の探査機が冥王星への旅に出たばかりだった。

その「ニューホライズンズ」が、9年半、48億キロの旅をへて冥王星をかすめる最接近に成功した。送ってきた画像には、漆黒の空間を背に、氷でできた3千メートル級の山の連なりが写る。人類が初めて目にする荒々しい素顔だ。

探査機は、冥王星を発見した米国の天文学者クライド・トンボーの遺灰も載せている。米国人が見つけた唯一の惑星とあって、米の学者は国際会議で格下げに反対した。三つの小ぶりな星を加えて12人きょうだいに増やす案も登場するなど白熱した。

降格という処遇ゆえに話題性は増し、「君を忘れない」の長途の旅がロマンと感傷をかきたてる。探査機はそのまま飛行を続け、太陽系のいわば「村はずれ」である外縁の天体を観測するという。

任務を終えた後は、人類のメッセージを携えて太陽系から遠ざかっていく。故郷の青い惑星に高度な文明がある。その証しである。地球をむさぼり、痛める文明でありたくはない。

2015年7月16日木曜日

オジサンが野戦に戻ってきた!!

大事故を起こした昨年の5月16日から、1年と2か月が経つ。

心身が悲苦や辛痛に貫かれ、そのことを今更文字にすることは避けたい。今筆はそんなことよりも、「明日に向かって撃つ」的なメッセージを書いてみたいと思った、のだ。ヤ・マ・オ・カ 的 に、根性丸出しで生きてみたい。

糞っ垂れ!! そりゃぁそう、だ! 俺の千早振(ちはやぶ)る狼煙(のろし)が、この1年間でどこかに消えてしまった、雲散霧消ってことか?。魂が痺れ骨は屑になるほど悔しい。もう一度、もう一度、ここらで魂に炎を灯したい。お髭(ひげ)の塵(ちり)を払う男になりたくない。

何故、こんなことを言いたいのか? って聞かれても、賢人に会ってお節介を受けた訳ではない。

市井は相も変わらず、桁違いのことが発生したわけでもない。66歳まで平左衛門でやってきた。大事故から、何ら変わったことはない。だが、不思議なのだーーーー、今までに普通に感じていたことがここにきて、極めて感じやすくなりだした。

スポーツを観る目が変わった。スタジアムでの競技者の競技に無性に早く強く高く感じる、その優美さに惹かれる。技巧にも目が奪われ過ぎる。これらの感性が、俺の満身を狂わせるようにバタバタと羽ばたかせる。

そして女学生に憧れる目だ。強い女や優しい女、妖しげで五月蠅(うるさ)い女にも惚れる。小学生の生徒から老人まで、見開いた瞼が何かに恐れるように、閉じることはない。麗しい感動に身を焦がし、それ以上に心は啓(ひら)かない。

強い男にも弱しげな男にも、悔しいけれど優しい男にも惚れる。

 

20150715 朝日新聞(夕)

広島県出身で、東京にある大学に通う女性は、10日に初めて国会前デモに参加した。拡声器に合わせて「戦争反対」と口にしてみた。涙があふれ、言葉を継げなかった。「おじいちゃんやパパの苦しみがあって、多くの人のむごい死があってやっと平和が訪れた。何でこの時代に、国会前で戦争反対とさけばんといけんのじゃろ」。祖父は戦後20年間中国で拘束され、「最後の帰還兵」と呼ばれた。1937年に召集され、中国で活動するスパイに。終戦後も上官の命令で中国人を装い任務を続けたが、58年に中国当局に逮捕された。迫害された家族は極貧生活を送った。長男の逮捕、妻の自殺未遂。悲劇は、78年におじいちゃんが釈放されるまで続いた。

 

 

2015年7月6日月曜日

何年?ぶりなのか、熱烈早慶サッカー定期戦

 WASEDA UNIVERSITY ASSOCIATION FOOTBALL

2015年(平成27年)7月1日(水)

19:00 キックオフ

等々力陸上競技場

 

昭和44年に早稲田大学ア式蹴球部に入部させてもらった。させてもらった?、って、そりゃそうだ、それほど私には実力がなかったのだ。当時の4年生の1,2年生を担当する新人監督が、京都の山城高校出身だったので、私の実力など何の考慮もせずに許可してくれたようだ。私の高校時代には、早稲田大学は有力な社会人チームに勝っていた。3年生の時、正月恒例の天皇杯にも、東洋工業に勝って早稲田は優勝した。そんな早稲田にどうしても入って、みんなとサッカーを味わいたかった。早稲田大学以外の学校にも、a,m,w,にも受けてみたが、最初から入学なんて考えていなかった。

昭和49年の全国大学サッカー選手権大会と関東大学サッカー選手権には優勝できた。私は、ゲームに出たり入ったりの珍しい選手だったけれど、唯一の誇りだ。

 

20140516、仕事上の大事故以来、ホンの一塊(ひとかたまり)の楽しみがこの定期戦を観戦することだった。今回は66回目だ。再び、早慶戦の雄叫びをこの体で味わいたいと思った。体は老化して弱体化しようが、それが勇士の老いぼれだとは、そう簡単には、、、ス、マ、サ、レ、メ、イ。樹木の高い所から、アスファルト道路に頭から直下、脳をやられてしまった。結果、脳を使って働くことが出来なくなった、高次脳障害って奴だ。

  第64回早慶サッカー定期戦 2013年早慶戦サッカー in東京 - パスマーケット  第60回早慶サッカー定期戦

昨年の1年じゅうは恥かしくて、人にも言えない心情に苦しめられていた。意識不明の1週間後、ほぼ1年間は入院生活。悔恨や信条・信念から抜け出ることなんて、それ程難しいことではない筈なのに、心根をグジュグジュにさせられていた。シッカリと歩くこともできなかった。私にとって、学生時代の4年間は、学ぶことではなく、サッカーをやることだった。

新しい年を迎えて、不思議な友人のマサと孫と3人で観に行こうと決めていた。孫やマサと、楽しく遊ばなくなっていたのを、此処で思い出した。ここらで、一緒に観ないと、もう終わっちゃうじゃないか?俺だけが、異常に長生きできることはない?