2019年1月26日土曜日

WMWスポーツ強化基金に寄付をする

      

大隈重信立像

私が大学を卒業して、この春で45年以上経つことになる。
詳しく言えば、23歳で卒業していたら、48年になる。
私は、現在70歳。
正直な話、こんな1年、2年はどうでもいいと感じている。
振り返ってみて、在学中、卒業してからの幾つかの経済危機下、何とか逃げ遂(おお)せた。
頑張ったねと言われれば、ちょっとは恥かしい気もする。

私は決して上等で優秀な経済人ではなかったが、後継者が優秀で、私だって、余り会社に利益を生み出せないにも拘わらず、後何年かは勤めてくださいと言われている。
今の社長さんは、私が社長だった時に、ずっと専務をやっていてくれた。
有難いことと言えば、こんな有難いことはないよ、と妻や娘や息子から言われている。

そして、家庭人として否(いな)父としてやれることは、よ~くやったと自慢できる。
だが、それには妻の過大な踏ん張りがあったからこそ、と感謝している。
子どもは、娘が3人息子が1人。
どいつもこいつも、伴侶を得、息子は豪州に転勤中だが、女性はそれぞれ住宅を手に入れ、何とも豊かにやっている。
各家族の詳しい内容については知らないから、イーディーな表現は勘弁させてもらうが、孫を立派に育てていることを思うと、ま~ま~なんだろう。

そんな環境にあって、この俺様の生活の今までのこと、これからのこと? と不思議に自信がなく感じられるときがあって、夜中、なんだか奇怪(きっかい)極まりなく眠れない夜が偶々(たまたま)ある。
今までの生活の反省、これからの生活をどうすればいいのか、反省や不安にさいなまれる。

そんな時、いっつも想い込みながら心の平和を見いだせるのは、大学時代4年間のサッカー部の一切合財のなかに、現在の自分の位置を置き換えて、あれこれ思い出すことだ。
すると、心は安穏なものに包まれる。
それと、経済人として付き合ってきた人々、なかでも今、会社の責任者をやってくれている社長を思うと、なんとも幸せな気分になる。
注意深くいろいろ考え巡らすこと、これこそが、私の生きていくためのエネルギーになっている。

そして、先ほどの、私を45年以上も前のサッカー部に自分の身を置き換えて、あの時代の些少なことまでを思い出すこと。
思い出した結果、私は恥ずかしながら、誇りを持ちながら、ちょっと少額だけれど部に寄付することにした。

少し前に樹木から落下した結果、高次脳機能障害を受け、心身ともに多少なりの障害を受けている。
今でも3カ月毎の定期検査を受けている。
担当医師は私に、どうですか? 良くなってきましたか? と聞くので、ええ、もう大丈夫だと思っているんですよ、と応える。
妻にも聞くと、妻は、記憶が悪いとか、勘違いのことを話す、いろんな可笑しなことがあるので、夫のことを本当に心配している、と返答内容は悪いことばかり。

それで昨日、給料の一部を経理の者が手渡ししてくれたので、そのお金を持って銀行に行った。
そして気付いたことなんだが、送金額が極めて少額なのに、税込手数料が髙く、月毎に送金すると当然その額は大きく増えることになる。
それで、来月にはこの1年分を纏めて送金することにした。
これは、「WMWスポーツ強化基金」だ。
私のような者、ちょっと変則的な人間には関係のない口座なのに。
サッカー部に異常に感謝して、ちょっとでも貢献したがっている人間が使う口座だ。
何故お前、仁徳者でもなく、そんなにまでするんだ?と先輩は思われるかもしれない。

それほど、早稲田のサッカー部には感謝しているだけの話だ。

この口座に寄付として入金を受ける事務局長は、私とサッカー部同期の者。
同期の父は、ベルリンオリンピックに日本代表のサッカー選手として出場した。
この者が、寄付金として学校当局と打ち合わせをして、厳格にサッカー部の費用のみに使用する。
繰り返す、何も大学が嫌になった訳ではない、サッカー部の費用に使って欲しいだけなのだ。
在学中、あんなに貧乏だったのだから、ヤマオカのやらかすことなら、何とか皆は理解してくれそうだ。

学校側からは、私に対しては領収書を発行し、私が確定申告に寄付金として使用できる。




★早稲田大学ア式蹴球部のホームページより

チーム・選手

1924(大正13)年の創部以来、早稲田大学ア式蹴球部は常にサッカー界をリードし、数々の日本代表選手を輩出してきました。関東大学リーグ1部優勝26回、全日本大学選手権優勝12回、総理大臣杯優勝2回、天皇杯優勝4回は、他大学の追随を許さない成績です。
皆様、熱いご声援をよろしくお願い致します。
外池 大亮 監督からのご挨拶
この度、歴史と伝統あるア式蹴球部の監督を拝命いたしました外池大亮です。監督というポジションは自分の人生にとって新しく、かつ壮大な挑戦となりますが、プロ選手11年、企業人10年で培った経験を糧に、学生と熱いビジョンを共有し、共に成長していく所存です。「早稲田ここに有り」と発信するため、目標である「タイトル奪還」に向けて情熱を注ぎます。皆様どうぞ宜しくお願い致します。

日本で初めてサッカーの国際的競技会が開催されたのは、1917年の第3回極東大会。この大会に日本を代表するチームとして臨んだのは「東京高等師範学校」、これが日本チーム初の国際試合でした。結果は中華民国に0-5、フィリピンに2-15と大敗でしたが、この大会を契機にサッカーの普及が進み、翌年には国内で多くの大会が開催されることになりました。
それから100年の時を経て、日本は6大会連続でFIFAワールドカップに出場するアジアの雄へと成長を遂げます。
100年の間に日本代表を率いたのは現監督森保一まで数えて31人(代行を含む)、その中でア式OBはザッケローニ着任前に代行を務めた原博実(昭和56年卒)を含めて9人。挑んでも、挑んでも跳ね返される世界の壁、長いトンネルを抜け出た先には、さらにそそり立つ世界の壁……しかし、その中でわずかながら光明がさした瞬間が3度ありました。自国(共同)開催だった2002年の日韓大会、2010年南アフリカ大会、そして2018年ロシア大会でグループリーグを突破し、ベスト16に駒を進めたのです。とりわけ、開幕2ヶ月前の電撃交代から、死闘の果てに力尽きたベルギー戦まで、西野ジャパンの闘いは多くの人たちの心に深く刻まれました。
今回は、西野朗(昭和53年卒)の駆け抜けた44日間を振り返りながら、岡田武史(昭和55年卒)をはじめWASEDA魂を胸に日本を率いた名将たちの闘いを紹介します。




2019年1月24日木曜日

消費増税対策

20190122(火)の朝日新聞・波間風問(はもんふうもん)を転載させてもらう。
編集員・原 真人(はらまこと)

ーーーーーーーーー
消費増税対策
バラマキ もはやポピュリズム

政府がまとめた消費増税対策は「手厚い」というレベルを超え、もはやポピュリズムと言ってもいいレベルだ。

10月に消費税率は8%から10%に上る。
国民の負担増は5・2兆円。
これに伴って政府がふやす歳出は5・5兆円。
つまり、安倍政権は増税の増収額より3千億円も多くバラまくことになる。

これではいったい何のための消費増税か。
そもそもの目的は先進国で最悪の借金財政を立て直すことにあった。
赤字たれ流しに終止符を打ち、現役世代も将来世代も支えられる社会保障の基礎を築くはずだった。
それなのに増税でかえって赤字がひどくなってしまってどうするのか。

ポイント還元制度や国土強靭化のための公共事業は時限措置で、プレミアム商品券は1回限りである。
「それが終われば税収増の効果が出てくる」というのが財務省の説明だ。

これも当てにはなるまい。
ポイント還元や商品券をやめるとき、消費者感覚からすれば実質増税となる。
国土強靭化予算を打ち切れば、公共事業は前年度から実質削減になってしまう。
どちらも続行論が出てくるだろう。

財政意識に乏しい政権のもとで、財政省は難しい選択を迫られたのかもしれない。
バラマキ付き増税か、あるいは3回目の増税先送りか、と。
結局、悲願の「10%』実現が優先されたということだ。

それでも、10月に必ず増税が実施されるという保証はない。
世界経済には減速の兆しが出ており、米中貿易戦争が先行きに暗い影を落とす。
この先、株価急落や円高の急進ということもありうる。

3年前、経済が比較的落ち着くなかで「リーマン・ショック級の危機」を消費増税先送りの理由にしようとしたこの政権が、今回ばかりは先送りしないといえるだろうか。

今年は統一地方選、参院選と続く選挙イヤー。
衆院を解散しての同日選説もくすぶる。
考えたくないが、選挙対策として「増税は延期、でもバラマキは実施」という究極のポピュリズムに走る可能性も、なしとは言えない。

年始の財界パーティーで象徴的なやりとりを見た。

財界代表の小林喜光・経済同友会代表幹事が冒頭のあいさつで今年の最重要課題として「消費増税」をあげた。

そして「重要なのは経済成長と財政健全化の両立。基礎的財政収支黒字化の達成に政官民がしっかり目標を共有し努力しなければならない」と訴えた。
経済界から政権へのメッセージである。

ところが、安倍晋三首相はこれを受け流し、あいさつで「財政健全化」に一切言及しなかった。
かわって強調したのが消費増税対策だ。

「前回の消費税引き上げで消費が落ち込んだ反省をふまえ、十二分の対策を打つ。引き上げ分はぜんぶお返しし、さらにお釣りがくる」
健全化とはおよそ似つかわしくない年頭所感だった。

解からない!!三浦雄一郎さんの挑戦


20190122(火)の朝日新聞を読んでいる。

下山後に取材に応じる三浦雄一郎さん=21日午前、アルゼンチン・メンドサ

1面の中ほどに『登頂断念 86歳三浦さん「挑戦続けたい」』の記事があった。

下の方にこの新聞記事をそのまま転載させてもらう、が、この三浦雄一郎氏(この後、三浦氏と書く)が今回試みた事件(私にとっては、挑戦でも冒険でもなく、何でもないように感じられる)について、眉唾(まゆつば)を持ちながらウオッチングしていた。

皆さんが異常に興味を持たれるけれど、私にとっては、どうでもイイことだったのだ。
だって、「挑戦」だとマスコミは報じるし、三浦氏自身もこの言葉を使っているが、私には、挑戦と名を馳せるだけの条件がないではないかと思ってしまう。
この記事ほど痴(し)らけるモノはなかった。

三浦氏という有名で立派な人だからか?
今回の山登りを、よくぞここまで新聞、ラジオ、テレビなどで騒がれたモノだ。
モノ売り商売の会社だって、マスコミと同じように一緒に騒いだ。

確かに86歳の高齢者が、南米大陸最高峰アコンカグア(標高6961メートル)の登頂とスキー滑降を目指していたことについては、私には夢のようなことを気がした。
実現しようとした、そのことには感服する。
冒険家・プロスキヤーなら、当然なのだろうが!!
だが、それ以上の意味があるかなあ。

私が小学6年生だった頃から、大いに愛してきた朝日新聞だ。
字をまともに読めないにも拘らず、スポーツ面を中心に読んだ。
家に手配りされるまで、大いに待ち、手に入れたら誰にも負けないように自分の物の様に振舞った。
その後高校・大学・社会人になって、結構、この新聞を嫌う人が幾人もいたが、私はこの新聞の味方をして止(や)まなかった。

当日の新聞記事27面には、「勇気ある下山」として、その下山に至るまでの事情が書かれている。
この27面の記事にも面白く感じないことが「多(お)う多(お)う」にあった。
「本多勝一」の画像検索結果
30年ほど前に、私は、朝日新聞の編集委員だった本多勝一氏に惚(ほ)の字だった時期がある。

この後の文章では、本多勝一氏のことを本多氏とします。
ここで本多氏の「冒険と日本人」のなかの文章を思い出した。
この稿の最後に、堀江謙一氏のことは最も尊敬する海洋冒険家の一人であった。
石原慎太郎(元東京都知事)は、堀江謙一氏の単独無寄航世界一周(1974年)という偉業を完全否定した。
小型ヨットであの日数では不可能だと言い切った。
不人気だと言え、東京都知事の現役だった。
どこかの島影に隠れていて頃合をみて姿を現した、というような表現をしていた。
本多氏はこのことを捉えて石原批判を繰り返した。
この石原慎太郎という人は、俺こそ立派な冒険家で挑戦家だと、堂々と名乗っていた。
こんな事って、ありか?
誰もが直ぐに救難に参加できそうな海域で、航海することだって、立派な挑戦家だと言い張った。

冒険とか挑戦とか、誰もが思いつかないことを、やろうとする、その野心こそ世間は待っているのではないか。
ここで、冒険と挑戦の違いなどを討論する心算ではないが?
プロスキーヤーでもプロ山岳家でもいいが、そこまで名を立てたいならば、ちょっとは自分のやられていることを一、二、考えられたらどうか?

電話口コメントで、三浦氏は「自分ではまだまだ行けるつもりでいたが、大城先生の判断に従い、今回の遠征は自分としてはここで終わる。
僕自身、大丈夫だと、頂上まで行けるという自信はありましたけれど、やはり周りでみての状況、特に大城先生の判断ということで、それに従うということにしました」と。
この2日間の様子を見ていた三浦氏の次男=豪太氏も「この標高での生活がかなり肉体的、そして精神的に厳しいとみました」と語った。

こんな処で、本多氏の考えまで差し出してしまったが、今回の三浦氏の「挑戦」を報道される度に、又、上の三浦氏のコメントを聞いても、納得できない。
本多氏がイメージしていた冒険・挑戦とは随分違うと思った。

こんな本多氏だって、立派な朝日新聞の編集委員だったではないか。

私の頭は”本多・アタマ”になってしまったからか、世間さまとは多少思い違いや考え違いがあるかもしれない。
異論をお持ちの方は、今後の「挑戦」のために私も勉強したい。
思いを深めたいので、遠慮なくお便りください。

まさか? 朝日新聞がこの三浦事件に記者を同行させていることは紙面から知っているが、何ゆえに、朝日新聞がそのようなことをするの?

いつまでも朝日新聞を愛したい、たった一人の購読者に過ぎない私です。



★朝日新聞の1面記事を転載させてもらった。
ーーーーーーーーーーー
登頂断念 86歳三浦さん「挑戦続けたい」

三浦雄一郎さん(左)と次男豪太さん=15日、午前、アルゼンチン・アコンカグア、金子元希撮影


南米大陸最高峰アコンカグア(標高6961メートル)の登頂とスキー滑降を目指していたプロスキーヤー三浦雄一郎さん(86)が、登頂を断念し、下山した。
三浦さんの事務所が21日未明、発表した。
三浦さんの体調から、同行する医師がこれ以上標高の高いところに行くのは難しいと判断した。

三浦さんは現地時間の21日朝、下山後に滞在しているアルゼンチン・メンドサ市内のホテルで朝日新聞の取材に応じ、「これ以上は事故の可能性が大きいと説得されて、あきらめた。残念です。今までの応援をしみじみと感じた」と話した。

三浦さんは18日に標高約6千メートルのプラサ・コレラに入り、20日まで滞在していた。
断念後、20日夜にメンドサに到着した。
遠征隊の副隊長で次男の豪太さん(49)ら隊の4人は引き続き山頂を目指して、21日、登頂を果たした。

同行していたチームドクターの大城和恵さん(51)によると、三浦さんはプラサ・コレラに着いてから、持病の不整脈が出始めた。
これ以上高い標高での登山活動は心不全をおこす危険があると大城さんが判断したという。

ただ、三浦さんは前を向く。
「6千メートルまで登ってみて、鍛え直せば、不可能に近い夢である90歳でエベレストに登れるのでは、という感覚になった。さらにチャレンジを続けたい」と話した。

(金子元希)







2019年1月21日月曜日

やっぱり稀勢の里、天声人語


「稀世の里」の画像検索結果
前々回のブログには「稀勢の里」の現役引退についての新聞記事や、ネットで得た情報をそのまま載せてもらった。

下の天声人語の内容にあるように、「久しぶりの日本出身横綱」だったこと、それに横綱昇進になっての、咄嗟の怪我による傷痍が深刻で、早まった横綱引退になった。
この引退については、どれだけの人が哀しんだことだろう。

2017年3月の日馬富士戦で左大胸を負傷した時の影響が原因で、その後の取り組みになってしまった。
と報じられてきたが、稀勢の里自身が今回の引退会見では、休場の理由を「左大胸筋」ではなく、「右膝」を傷めたことが原因だと述べた。

稀勢の里の横綱昇進に、日本じゅうで並々ならぬ期待をもっていた。
横綱になってからの成績は、
26勝22敗 57休場で勝率は542
休場率は54%

優勝力士インタビューで稀勢の里は、「いやもう、自分の力以上に最後は…。本当に諦めないで、最後まで力を出して良かった」と話すと、はばかることなく涙を流した。

下の天声人語で話題になっている、国技とは。
世界各国で国民的競技の名称でいわれているスポーツは各種ある。
アメリカのアメリカン・フットボールと野球、トルコのレスリング、イギリスのサッカー、クリケット、
モンゴル(蒙古(もうこ))のモンゴル相撲、スウェーデンの体操と徒歩競技(これについては良く解からない)、ブラジルやスペインのサッカーなどがあげられよう。

話しは大きく違いますが、「相撲」と「角力」は「すもう」と読んで大きな間違いはないが、それぞれに独特の読み方はあるようだ。
ネットでその詳しい事情を知ったが、その説明は難しくて、簡単に話してくれる人はいませんか?

★20190118の朝日・天声人語を転載させてもらった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
相撲はどうして「国技」なのか。
誰かが決めたわけでも、法律で定めているわけではない。
どうも「国技館」で催されるから国技となったようだ。
ノンフィクション作家の高橋秀実(ひでみね)さんが『おすもうさん』で書いている。

明治期に常設の相撲場を建てるにあたって名称が検討され、「尚武館」の案も出た。
しかし、開館の挨拶文にたまたま「角力(すもう)は日本の国技」のくだりがあり、それが名前に使われたという。
以来、国技の語が一般的になった。

もしも尚武館だったら、今の日本に国技というこだわりはなかったかも、と思うと興味深い。国技なのに横綱が外国勢ばかりではないか。
そんなフラストレーションも生まれなかったかもしれない。

「久しぶりの日本出身横綱」という重圧が、その人の背中にどれほどのしかかっていたことか。
このところ休場が重なり、表情も硬くなっていた「稀勢の里」である。
かっての輝きを取り戻せぬまま現役引退を発表した。

せんないことと知りつつ、横綱昇進の2年前に戻って考えてみたくなる。
もしも日本出身横綱の誕生を誰も焦ることなく、大関のままだったら。
けがをおして出場を続けることがなかったら。
左から攻める力強い相撲をもっと見られたかもしれない。

「相撲ってやっぱり楽しいですよね。やめられないですよ」。
場所前、出稽古に来た力士に稀勢の里が語ったという。
引退会見の「悔いなし」との言葉に、逆に無念さを感じる。
それもこれものみ込んで、いい親方になってほしい。

2019年1月19日土曜日

日米が迫る”双子”小惑星

20190117(木)の朝日新聞・朝刊より。
新聞記事をそのまま転載させていただく。

日米が迫る”双子”小惑星
探査が本格化 互いの試料、交換へ

「米国版はやぶさ」とも言われる米国の探査機「オシリス・レックス」が昨年12月、地球から約1億キロ離れた小惑星「ベンヌ」に到着した。
日本の探査機「はやぶさ2」も来月後半、「リュウグウ」に着陸して砂や石の採取に挑む。
日米の探査機による小惑星探査が本格化する。

太陽系の化石
米探査機「オシリス・レックス」は、打ち上げから2年3カ月、約20億キロの長旅を経てベンヌに到着した。
最大のねらいは、ベンヌの試料を地球に持ち帰ることだ。

「太陽系の化石」と言われる小惑星には、46億年前の誕生当時の姿を残す岩石や砂があるとされる。
直接調べれば、生命に欠かせない水やアミノ酸などの有機物の起源、太陽系の成り立ちに迫ることができる。

オシリス・レックスは今月1日(日本時間)、ベンヌの高度2キロ以内に近づき、61時間で1周する軌道に入った。
小さな天体はいびつな形で重力も弱く、探査機が周回するには、入射角度などの慎重な調整が求められる。
ベンヌの直径は約500メートルで、これまで探査機が周回した天体としても最も小さい。

ミッション責任者でアリゾナ大のダンテ・ローレッタ教授は「素晴らしい成果だ。地図の作製と着陸場所探しが始まるのが楽しみだ」と述べた。
今後1年以上かけて撮影しながら、地表成分や地形、熱の噴出の有無などを詳しく調べ、着陸候補地を2カ所に絞る。

着陸は2020年7月の予定で、長さ約3メートルのロボットアームの先につけた円柱形の装置を地表に5秒間押しつけ、噴出した窒素ガスで舞い上がる砂を吸い込む。
少なくとも60グラムを採取し、23年9月の地球帰還を目指す。

表面に岩多数
ただ、着陸には懸念もある。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)のはやぶさ2が着陸するリュウグウの地表は、事前の想定以上に岩が多く、安全に着陸するためリハーサルを追加し、4カ月延期した。
ベンヌも同様に岩が多く、着陸は難航する可能性がある。

JAXAの久保田孝教授は「採取できる砂や石は大きくても2センチほどだろう。着陸場所に小さな砂があればいいが」と話す。

形状そっくり
オシリス・レックスが320キロの距離から捉えた画像は、昨年11月に公開されると、小惑星の研究者らに驚きを与えた。
数億キロ離れたリュウグウ(直径900メートル)の姿と、「双子」のようにそっくりだったからだ。

「同僚から『間違えてリュウグウに行ったんじゃないのか』と言われたよ」。
NASAで小天体探査の主任研究員を務めるポール・エーブル博士は、当時こう話した。

小惑星は、岩石成分が多い「S型」と炭素質で水や有機物を含むとされる「C型」などに分類される。
ベンヌとリュウグウはどちらもC型だ。
こうした成り立ちが形状に影響しているのか、今のところ不明だ。

一方、両者の違いも分かってきた。
ベンヌの表面には黒い点々が見つかり、水や有機物を含む炭素質コンドライトと考えられた。
赤外線分析で、地表は酸素と水素が結びついた水酸基(OH)で覆われていると見られる。
リュウグウにはこれまで、水の成分は観測されておらず、「カラカラの状態」らしい。

神戸大の臼井文彦特命助教によると、C型の水分は、太陽や隕石の衝突による熱によって失われる可能性がある。
臼井さんは「リュウグウとベンヌは進化の過程に違いがあるのではないか」と推測する。

科学的な成果をめぐりライバルとなる日米だが、着陸地点や試料回収の方法などの情報は共有している。
エーブル博士は「両国でタッグを組み、効率よく研究できる」と話す。
試料は回収後、互いに交換して解析する予定だ。

はやぶさ2ミッションマネージャでJAXAの吉川真准教授は「小惑星の共通点や相違点がわかることで、普遍的な知見が得られる。サンプルを持ち帰ったあとの分析が非常に楽しみ』と話している。

(石倉徹也)



稀勢の里の引退会見


大学に入るまでは、私は世間で言われるほどのアスリートではなかった。

勉強はそっち除(の)け、頭の8分目位はスポーツのことを考える、変チョコリンな中・高校生だった。
スポーツ好きだったことは超一流だった。

「保っちゃんは、勉強はしないから、頭の中はパンパラパン、そやけど、バスケットやサッカーについては頭が可笑しいほど狂うなあ」。
大学に入れなくて浪人するまでは、勉強なんてなんとかなる、ちょっと頑張ればそれなりの成績は採れるものだと思い込んでいた。

当時、人口4000人ぐらいの山野と水田、茶畑だけの貧村、寒村だった。
我家はお茶と米だけの貧農。
幼少の頃から、勉強なんかするものでないと親から教えられて育った。

だが、何とかして大学に入ってサッカー部に入部した。
日本一レベルの高い大学だった。
簡単には入れないのだが、京都市にある名門・山城高校の先輩が居て、私の技量など一切お構い無しに入部させてくれた。
ここでは大学のことを余り話したくないが、古びた寮のアッチコッチに「ワセダ、ザ、ファースト」とあった。
ワセダとは、早稲田大学のことだ。
ことサッカーに関しては、大学界は勿論のこと、広く日本のサッカーの先陣を切ってお手本になるんだ、そんな部風は毅然としていた。
何も知らなく入部したものだから、こんな入部生は厄介者だっただろう。

私のスポーツ選手としての出来栄えは悲惨かつ無残なモノだった。
が、4年間はプレーヤーとしては褒められることはなかったが、学びとることは極めて大きかった。
その後の社会人としての「基本の基」の「根性」をがっちり学び取った。
感謝している。
今になって、少なからずサッカー部に寄付を試みるのは、ささやかな私の心です。

そんな私が横綱 稀勢の里が取り組みのなかで怪我をして、その後の彼の踏ん張りを観る時、何とも言えぬ、複雑な気持ちにさせられていた。
その彼が、16日、引退会見をした。
彼の口から発せられる一言一言が、私の脳の各所を差す。
此の頃、涙脆(もろ)くなっているばかりではない、恥じることなく、大粒の涙が止まることなく流れた。
1月13日には、年寄名跡・荒磯を取得した。
四股名(しこな)「稀勢の里」のいわれぐらい知りたいものだ。

その稀勢の里の引退会見の一部をネットで知った。
後日の為に、コピーさせてもらったのです。

-----------

横綱 稀勢の里が引退会見

大相撲の横綱・稀勢の里の現役引退の記者会見が午後3時半すぎから
都内で始まりました。
稀勢の里は会見の冒頭で「私、稀勢の里は今場所を持ちまして引退し、年寄・荒磯として後進の指導に当たりたいと思います。
現役中は大変お世話になりました」と述べました。



「一片の悔いもない」

稀勢の里は現役引退を決断した今の心境について「横綱として皆様の期待に添えられないということは非常に悔いは残りますが、わたしの土俵人生に一片の悔いもございません」と話しました。

「感謝の気持ちでいっぱい」

稀勢の里は、どんな相撲人生だったかと問われ、「本当にいろいろな人に支えられ、
1人ではここまで来られなかったと思いますし、感謝の気持ちでいっぱいです」と話しました。
また、いちばん心に残っていることについて問われると「ありすぎてなかなか思い出せませんが、やはり稽古場が僕を強くしてくれました」と話しました。

今場所は「自信を持って臨んだ」

稀勢の里は今場所について、「覚悟を持って、場所前から過ごして、稽古してきました。
自分の中で『これでダメなら』という気持ちがあるくらい、いい稽古をしました。
その結果、初日から3連敗という形で自分の中で、一片の悔いもありません」と話しました。
そのうえで「けがをして以来、自分の中ではいちばんいい動きができていたので自信を持って臨みました。
一生懸命、やってきました」と涙を拭い言葉につまりながら話しました。

「このような結果 申し訳ない」

稀勢の里はケガを抱えながらどんな思いで横綱をつとめてきたのか問われ、「このまま潔く引退するか、いつも稽古場で自問自答していた。
応援してくれる方のために相撲は続けようと判断してやってきたが、このような結果になって申し訳ない」と振り返りました。

「先代親方に感謝の気持ち伝えたい」

稀勢の里は入門時の師匠で、平成23年に亡くなった先代の鳴戸親方について聞かれ、「先代は稽古場というものを大事にしていた。
稽古場の大事さを次の世代の力士たちに教えていきたい。
先代には感謝の気持ちを伝えたい」と述べました。

そのうえで、先代の鳴戸親方が大関と横綱とで見える景色が違うと話していたことについて聞かれると、「大関と横綱は本当にまったく違うものだった。
だが、まだまだ先代が言っていた景色は見えなかった」と振り返りました。
そして横綱という地位はどういうものかと問われ、「自分自身を変えてくれた」と涙を流しながら答えました。

土俵人生でいちばんの取り組みは

稀勢の里は、これまでの土俵人生でいちばんの取り組みについて、「2017年に横綱昇進を決めたあとの千秋楽での横綱 白鵬関との一番です。
2011年に大関に昇進したときには千秋楽で琴奨菊関に負けたので、その悔しい思いを持って、次に昇進するときには絶対に負けないという気持ちで取った一番でした」と話しました。
また、土俵人生で貫いてきた信念について問われ、「『絶対逃げない』、その気持ちです」と話しました。

外国出身力士に対する思い

稀勢の里は外国出身力士に対する思いを問われ「自分を成長させてもらったのも横綱
朝青龍関をはじめモンゴルの横綱のおかげと思っているところもあるし、あの人の稽古を巡業中に見て、背中を見て少しでも強くなりたいという気持ちで稽古をしました。
上がれなかったときも日馬富士関に声をかけてもらったり、非常にいいアドバイスをいただいて本当に感謝の気持ちでいっぱいです」と話しました。

そのうえで、日本出身横綱として期待を背負ったことが重圧だったかと問われ、「いい環境でした。
あの声援の中で相撲を取れることは本当に力士として幸せなことで、本当にいい思い出です」と振り返りました。

今後について

稀勢の里は今後について、「一生懸命相撲を取る力士、けがに強い力士、そういう力士を育てていきたい」と話しました。

田子ノ浦親方「本当によく頑張った」

稀勢の里の引退会見に同席した田子ノ浦親方は「自分から引退を言うつもりはないと決めていました。
稀勢の里が入ってからずっと一緒にやってきて、いちばん近くで見ていたので。
どれだけ相撲に熱意をもっていたか、けがと向き合い相撲をやってきているのを見てきました。
自分の努力で横綱まで上がってきている責任感が強い男なので、そういう男が自分から私のところに相談に来るまではできるだけ支えていければなと思っていました」と話しました。

そのうえで「きのう本人から相談があると言われ、本人の口から『引退させてください』とありました。
本当によく頑張ったなと思います。
相撲界にというよりも先代が夢に描いていた幕内優勝、そして横綱という僕たちができなかったことをやり遂げてくれてすごく感謝しています」と話しました。

稀勢の里、故鳴戸親方の誕生日の9・29に断髪式

1/19(土) 8:12配信
元横綱稀勢の里荒磯親方(32=田子ノ浦)は初場所6日目の18日、都内の部屋での朝稽古にも両国国技館にも姿を見せなかった。
引退から一夜明けた5日目は、国技館にあいさつに訪れたが2月のNHK福祉大相撲までは職務が未定。
国技館への出勤義務はなく、師匠の田子ノ浦親方(元前頭隆の鶴)によると、当面は静養と関係各所へのあいさつ回りなどにあてられるという。

断髪式が行われる引退相撲は9月29日を予定している。
くしくも、この日は入門当時から指導を受けてきた、
故人の鳴戸親方元横綱隆の里)の誕生日だ。
田子ノ浦親方は「まだ正式にその日に決まったわけではない。
たまたまその日になったけど、先代も(天国から)見守ってくれたら」と話した。
また、部屋付き親方としての指導者デビューについては、田子ノ浦親方は「(部屋頭の大関)高安も自分の調整ペースがあるから、気を使わせないようにしているのでしょうと今場所後にずれ込む可能性も指摘した。
数年後には独立する意向で、関係者によると東京都江東区などに部屋候補地があるという。



2019年1月17日木曜日

家(うち)へ帰ろう

画像1
ホテルの女主人と夜カフェに出かけ、楽しく過ごした。

この映画を観にいくことには、切っ掛けがあった。
同居している三女夫婦、その婿が10日ほど前に観て来た映画で感動したことを話し、そして三女も負けずと観て来て、我が家は、その素晴らしさに火が付いた。
この感動したというのは洋画で、何とかかんとか?と題名を言った。

この私とは感性が随分違うようで、その映画を観に行く気にはなれなかった。
が、俺だってこの3連休、何かを観なくちゃイカンワイと思い、新聞広告に出ていた「家(うち)へ帰ろう」を観に行くことにした。
今回は、その映画についてのブログだ。

映画の内容とはちょっと違うが、京都出身の私は「自分自身のことをうち」と言い、関東の人は「自分が住んでいる家のことをうち」と言っているのではないか。
そんなことも考えて、まずは映画の題名「家(うち)へ帰ろう」に興味をもった。

映画館内は私の年齢以上の人が8割、90%の入り具合に吃驚した。
まさか、こんなに人気がある映画だったとは想像していなかった。
娘夫婦には負けてはおれないなんて、ちょっと嫌なジイジイだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
家(うち)へ帰ろう
監督・脚本=バブロ・ソラルス
2017年、スペインとアルゼンチンの合作映画
監督・脚本を手掛けたバブロ・ソラルスは、本作が長編映画の監督2本目で、自身の祖父の家では「ポーランド」という言葉がタブーであった。
それが発想の原点。
自身のアイデンティーを確認するために避けて通れないテーマだった。


あらすじ
アルゼンチン・ブエノスアイリスに住む仕立屋のアブラハムは足が悪くし、娘たちに老人ホームに入れられることになっていた。
今後アブラハムのことを主人公と著す。
しかし、主人公はそれを嫌い、自分が仕立てた最後のスーツを、70年以上も会っていないポーランドの親友に渡すための旅に出た。
ユダヤ人である主人公は、70年前にホロコーストの際に、親友に命を助けられた。


ーーーーーーーーーーーーーーーー

★ホロコーストとは




ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺。
ヒトラーが1933年に政権を握ると、ユダヤ人迫害を開始。
第2次大戦開始後に大量虐殺が始まった。
占領下のポーランドのアウシュビッツやソビブルなどの収容所にユダヤ人を移送し、ガス室などで殺害した。
45年までに約600万人が殺されたとされる。
移送の責任者アイヒマンは戦後、南米に逃亡。60年にとらえられ、エルサレムで死刑判決を受け、62年に執行された。
(2012-10-11 朝日新聞 朝刊 2外報)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
途中、飛行機の機内で雑誌を読む青年。
主人公が隣席のピアノを弾く音楽家志望の青年に何かと話しかけるが、青年はちょっと静かにして欲しいと考えて、空いている席に移動した。
画像3









主人公は空いた隣席と自分の席に横になって眠った。
飛行機から降りても、この青年は主人公のことが気になったのか、タクシーで町を彷徨った。
優しい男性だった。
列車で移動中にも体の具合は段々悪くなっていく。
ゆっきりできそうな席はないかと、あっちこっち探し回った。
そして列車の連結部に行ったとき、きっとドイツ兵だと思ったのだが、そのグループに絡まれた。
何とか逃げ出すことはできたが、体の不調に併せて精神まで苦しみ、気を失って通路に横たわってしまった。
画像4
担ぎ込まれた病院での看護婦さん。
そして病院に担ぎ込まれた。
マドリードの病院の看護婦さんに、私の行く所へ一緒に行ってくれないか? の質問に、いいですよと承諾してくれた。
でも、その行き先を聞いてぎょっと驚いた。
だが、行き場所を聞いて断念するのではなく、主人公の状態を鑑み承諾した。

ホテルの女主人。
この女主人も、なにやら、付き合いがよかった。
主人公の状態をよく聞いてくれた。
そして、夜には、近所のカフェに主人公を誘って出かける。
彼女も、主人公の気持ちを考えてのことか、楽しくお酒やダンスを楽しんだ。
何故(なにゆえ)にそうなったのか? 私には解かり辛かったけれど、二人はとても楽しそうだった。
主人公の人柄だったのだろう。

下の写真は、パリからドイツを通らずポーランドへ列車で訪れることができないかと係員の人と折衝した時のものだ。
列車での行き方と乗車費。
ホロコーストで苦しんだ主人公は、どんなことがあってもドイツの地を踏みつけたくなかった。
ドイツの何処かで、列車を降りることに成った時だって、ホームに着衣を長く敷き詰めて、その上を歩いた。
家へ帰ろうのイメージ画像2
ドイツ人の文化人類学者や旅の途中で出会う人たちは、主人公の力になろうと自然体で受け入れ、手助けをした。
そんな人たちに支えられながら旅を続けるが、アブラハムの病状は悪化していく。

そしてポーランド。
主人公が文化人類学者の援助を受けながら、たどり着いた場所は、70年前と同じ佇(たたず)まいをしていた。

果たして主人公の願いは叶うのか?
車椅子の主人公を街路に残し、家を探すために文化人類学者は、アパートの階段に姿を消した。
残された主人公は、ぎゅうっと一人で車椅子を動かした家の窓に、老人を見つけた。
老人は主人公を見つめた。
じっと、互いに見つめ合ううちに、その老人こそ主人公がアルゼンチンから服を渡すために会いに来た人であることがわかった。
顏が緩やかな笑みに変わり、目が頬がどうしょうもなくウルウルしてきた。
長く見つめ合った後、二人は激しく抱き合った。
二人の間には、巡る、、巡る、、想いが湧き出してきたのだろ。

そこで、老人は主人公に言った。
「家(うち)へ帰ろう」。
車椅子の主人公と老人は静かに家に向かった。








2019年1月15日火曜日

長生きしたくなった!

腰痛の苦しみは相変わらず。
腰椎椎間板ヘルニアで苦しみ、樹木からの落下による「高次脳機能障害」で足腰の痛みが加わって、この痛みには随分悩まされてきた。
日常化されていない言い方だが、「そんな痛みだって割と心易(こころやす)く?なってきた」。
心易くなんてちょっと可笑しいけれど、気楽になってきたのだ。

そんな自閉的で内面的な症状のため、これからの老人としての生活に、多少なりとも、上向きになれない日々だってあるだろう、と危惧している。

そして、今日は日曜日で私は休暇。
経理・財務以外の人間は、いつもと変わらぬ業務に励んでいるので、どうしても申し訳ないと思う。
そんな日、私はジャック&ベティで「家(うち)へ帰ろう」を観てきた。
09:20から。
アルゼンチンから故郷ポーランドへ、ホロコーストから逃れた88歳の仕立屋が70年の時を経て、親友との約束を果たすための旅に出る。
久しぶりの落涙の物語、大粒の涙を流したことだけは告白する。
この映画については次回に著したい。
画像1


映画を観て自宅に戻って、さあ!これからイーハトーブ(畑)へ行って、ミズナかほうれん草のどちらを持って帰ればいいかと妻に聞きながらテレビを観ていたら、女子高校によるサッカーの全日本選手権の決勝戦をやっていた。
映っているのは神奈川からの星搓(せいさ)国際情報高校と、相手は名門・宮城の常磐木学園高校。
これヤア~、イーハトーブなんかに行っている場合ではないぞ。
知らないうちにテレビの前に釘付(くぎづ)けになってしまった。

それにしても、横浜に住んで40年、横浜で働いて45年経つというのに、星槎国際情報高校のことを知らなかった。
サッカーに関しては、今までの一般法則、、、どっちの味方をするわけではなく、試合としていいモノをやってさえくれれば、それで十分幸せな感覚なんだ。
第27回全日本高等学校女子サッカー選手権の決勝戦だ。
積極的な入りを見せた神奈川の星槎国際情報が押し気味で試合を進めていた。
ボールを相手に取られても取られても、それを追い駈け回る守りの完璧さが、私を喜ばせた。
私も高校・大学とサッカーをやってきたが、守り専門家だったので、その厳しい守りに目から鱗が落ちそうだった。
星槎国際湘南

星槎国際湘南 女子サッカー部 第27回全日本高等学校女子サッカー選手権大会 初優勝!1
前半23分、に先制点を奪った。
ゴール正面のやや距離のある位置から、FK黒柳智世が直接思い切って強烈なシュートを放った。
立ち並ぶ相手チームの頭の上を通っての圧巻なフリーキック、見事にゴール右上に突き刺さった。
後半も、お互いにチャンスがありピンチがあり、それらに勝ったり負けたりの好ゲームだった。
チャンスがあった時にはイケイケ、、、、ピンチの時にはナントカシロと雄たけびを挙げた。
実際、どちらの味方でもなかったが、神奈川県代表、創部5年で初の選手権制覇を成し遂げると聞くと、他人には言えぬ複雑な心境だった。



イーハトーブ(畑)へ行くのを止めて一杯焼酎でも飲んで、新聞を楽しもうとした。
そしたら、客人があった。
私には子供が4人、孫が8人。
その孫の1人が、ジイジイの出た大学で模試をやってきたと、報告に来た。
この模試の内容については、いっつも私は梨(なし)の礫(つぶて)。
上の空(うわのそら)だ。
私抜きのミーテイングがあって、私には言わないようになっている、これは原則。

何号館で試験を受けたの?と尋ねると、15号館だったと言い、我は隙間なく私が授業を受けたのは14号館だったんだと即答。
大きな大学だったことを知り、それなりの驚きを表していた。
広さと余裕のあるスペースについては、父に父の通った旧帝国大学に連れて行ってもらってるから、ゴミゴミしている様(さま)に、愕いたのだろう。

そんなことがあって、私は私なりに考えることがあった。
私は立派な父親じゃなかったことには、自戒(じかい)シマクラ、チョコ(島倉千代子)チヨコしている。
私は仕事一途な男だったので、子供に対する相談役を担ったことはない。
愕いたことは、孫がこんなことを報告してくれたことだ。
先ずはこの子が1番目で、その後7人の進み方の報告があるのではないか、と思うと吾胸(わがむね)はドキドキしてくる。
実は、色んなことを話したのだが、余りに個人的なことなのでこれ以上詳しく書くこともないと考えた。

そこで私は気付いた。
これからの私の生活を、もっともっと前向きな信念をもって、楽しく生きなければならない。
今日1日の生活だけで、体を人並以上に気を付けて、大事な心身を維持しなければならない、と思うようになった。
映画で涙し、女子高校のサッカーで胸を潤(うるお)し、孫の話に脳と心臓が狂う程の歓喜を味わい。
これこそ、人生らしい人生ではないか。

そして、永く生きたいと考え出したトコロでございます。






2019年1月12日土曜日

紙おむつ②

「襁褓(むつき)」ーーー語源由来辞典による
おむつは、「襁褓」に接頭語「お」がつき、「き」が略された語。
「襁」の漢字は「衣」と「強」で「大丈夫」「きつく締める」の意味があり、赤ん坊を背負う帯をあらわす。
「褓」は「衣」+「保」で外から包む産衣(うぶぎ)をあらわす。


20190109 朝日新聞・朝刊(社会)
ニュース3Qを下記に転載させてもらった。
おむつのゴミ出しで苦しんでいると言えば、それは赤ちゃん用のおむつだと思われがちだが、私が悩んでいるのは、老人用のおむつのことです。
各家庭からのゴミ出しは、私がこの家事を担ってから、気づいたことなんだが、兎に角量が多くなっていることだ。

誰だって、ゴミ出しをやれば気づくこと。
そんな私だからこそ、気づく新聞記事だったかもしれない。
今回の「紙おむつ②」は前回の「紙オムツ①」に次いで2回目。
今回は新聞記事に従って、「おむつ」と平仮名表示にした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

紙おむつ 流して捨てる時代が来る?

使用済みの紙おむつを下水道に流して処理できないかーーーー。
下水を担当す国土交通省が本気で検討中だ。
トイレとは別の下水につながる専用装置を設置する。
一部は、早ければ再来年度にも実用化する方針だが、プラスチックごみの海洋汚染が世界的な問題になるなど課題も多い。
実現可能か?

高齢化進んで考案

一見、奇抜にも映るアイデアを初めに考案したのは、官僚や不動産会社、住宅設備メーカーなどで働く女性による研究会だ。
おむつを使うのは、幼児ばかりではない。
2016年12月に公表した報告書で、高齢化が進む現状に言及。
「排泄の自立とおむつは、高齢者にとっても、支える家族や社会にとっても、大きな課題」と問題提起し、おむつを下水道を通して回収するシステムを提案した。

この発想に国交省がさっそく反応した。
人口減で、今後、下水道の処理能力に余裕出てくるためだ。
昨年から大学教授や自治体、業界団体の担当者を招いた検討会で具体策を検討。
昨年3月に公表した「検討ロードマップ」には、
①トイレ内に便器とは別の装置を設置。分離した汚物だけを装置から流し、おむつはごみとして回収
②おむつを装置で破砕し、途中で分離して汚物だけを流す
③装置でおむつを破砕し、専用配管で下水道に流すーーーーの3案を盛り込んだ。

実用化に向けた取り組みも加速させる。
国交省は今年度、最も実現性の高い①案の実証実験を開始。
委託を受けた大手電器メーカー「パナソニック」が現在、試作機を開発中で、年度内に高齢者施設で試用する。
問題がなければ、再来年度からの実用化に踏みきる方針だ。
同省によると、実現すれば海外でも聞いたことのない取り組みだという。

実現なら負担軽減

こうした動きを当事者たちはどう見ているのか。
「おむつから便を分離できればおむつの重さが軽くなり、職員の負担を軽減できる」。
名古屋市の社会福祉法人の担当者はそう期待する。
運営する特別養護老人ホームの場合、1日当たりの紙おむつは利用者20人ほどで多いときが90リットル3袋分。
汚物が付くことで重くなり、運ぶには体力的な負担が大きいという。
「臭いや衛生面でも改善が見込める」とも話す。

おむつの処理は施設に限った問題ではない。
おむつ製造などの業界団体「日本衛生材料工業連合会」によると、大人用のおむつの生産量は一昨年が78億枚。
7年前の1・4倍に増え、高齢化で今後も増加が見込まれる。
国交省は介護関連施設約500施設に加え、介護する市民ら約4500人にアンケートを実施。
紙おむつの下水道処理に対する社会的ニーズや、将来の紙おむつ使用枚数を都道府県別に推計する方針だ。

下水道つまる懸念

ただ、普及に向けた課題は少なくない。
これまでの検討会では、最も利便性の高い③案について「下水道管がつまって浸水の恐れがある」などの否定的な意見も出た。
環境へのリスクも検討する必要がある上、パルプやプラスチックでできている今の紙おむつは分解されず、海や川に流すには新商品の開発が必須だ。

それでも、「実現すれば、介護現場の負担軽減につながる」と同省下水道企画課の村岡正季課長補佐は話す。
「高齢社会の社会インフラとしての役割を果たしたい」

(岡戸佑樹)


テープを使ったおむつ





2019年1月11日金曜日

紙オムツ①

「おばあちゃん ...」の画像検索結果

女房の母、私にとっての義母は4年ほど前に、京都から我が家にやってきた。
何も京都での生活が嫌だった訳ではない、自分の長女の下で暮らすのも気分転換にでもなるだろう、と思ったのだろう。
義母が、自分の健康や生活を思う気持ちや、今後の思惑くというか思慕というか思情なんてものは何なんだろうか、と思うことはある。
何是(なんぜ)お前、そんなことを? と思われるかも知れないが、同居人としては当然のことだろう。
一家総勢で仲良く暮らしたい、まして義母にとっては尚更だ。

小さな子供が日々成長して逞しくなっていく、誰にも嬉しさが込み上げてくる。
逆に、年老いた人は、日々体のどこかから弱っていく。
この弱っていく人を前に、私は何をどう振る舞えばいいのか、どのように付き合っていけばいいのか、頭が痛くなるのも当然のことだ。

そんな生活を何とか楽しくありたい、と思いながら生き続けています。

私の家庭内での仕事と言えば、朝飯前にゴミを所定の集荷場に出すこと、義母のベッドに朝晩のご飯を出すことだ。
「おばあチャン、今日は御馳走やで!」と話しかけると、にこやかな表情で「おおきに、有り難う」と返ってくる。
義母に朝の挨拶をし、ご飯の内容を喋り、ささやかだけれども会話を楽しみたい。

そこで、先ず気づいて、今後どうなるのだろうと心配していたのはゴミの量の多さと、紙オムツの量が年々多くなっていくことだった。
我が家は、多分2、000世帯以上はありそうな大きな分譲地で、私が住み出してから40年は過ぎている。
だから、分譲当時から住みだした人は、50年から60年は過ぎ去っているから、その人たちは随分の高齢者だろう。
Image
当然、家族の誰かの都合で引越しした人もいるだろう。
私の家の周りは、老人1人住まい、老夫婦2人住まいの家も多く、空き家になったままの家屋もある。
若い夫婦がいないから、小さな幼児、子供が少ない。
以前には、道路に白墨か石などで描いた落書きがあって、見た物に喜びを与えてくれた。
そんな状態だからだろう、大人用の紙オムツの入ったゴミ袋が、段々多くなってきて、それに私の家から出す紙オムツの量も多くなってきて、皆さまに悪いような気がする。
所定のゴミ集荷場の悲惨な未来が見えてくる。
ゴミ集荷場がゴミで溢れたらどうしよう? この数年間、非常に気になり出した。

横浜市では「横浜G30プラン」がある。
これは、平成22年度における全市のゴミ排出量を前年よりも30%削減すると言う行動のことだ。
今後、このプランを本格的に拡大したいと願っている。
減量、リサイクルの行動です。
このプラン通り、果たして、どれだけの家庭用の量が少なくなっているのだろうか、見た目には解らない。

そんなことが頭の中でギュウギュウしている時、年末の12月だったか11月だったか、朝日新聞で「使用済みの紙オムツを下水道に流せるかもしれない」、そんなタイトルの記事を見て、それなりの希望を持っていた。
同じことを心配している女房にも話した。

そして20190109の朝日新聞・朝刊(社会)に「紙おむつ 流して捨てる時代が来る?」のタイトルの記事を見た。
こりあ、紙中のどの選択であろうと、本当に本当ならこの新聞を捨てる訳にはいかない。
次回にその記事の転載をさせてもらう。




2019年1月10日木曜日

「パッドマン」女性を救う

1月の4日(金)、正月の三が日が終わってこれから年明け初出勤の5日(土)まで、俺は何をすればいいのか? 
腰を癒すこと、他に体づくりに何をすればいいのか。
今までのこと、これからのことを考えることだって、いいのだ。
そんなことを考えながら新聞を読んでいた。
頭の隅っこでは、何でも良いから、正月気分をもうひと声好くなるニュースでもあればなあ?とも考えていた。

そこで見つけたのが下にある新聞記事だ。

私だって、母から脱脂綿を買いに行かされたり、母の下着が納屋の裏に干されているのを見て、何だか良く解らないが、不思議な気分でいたことは間違いない。
脱脂綿を買うのは、私が小学生の頃からアルバイトをしていた大辻商店だったが、店主はニンマリ笑いながら商品を渡してくれたことを思いだす。
我が家では女性は母と祖母だけ、他は皆男性だったので、それに関する話は出たことない。

★見つけた新聞記事を、下部にそのまま転載させていただいた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1月4日(金)
朝日新聞/朝刊・8・オピニオン
(私が変える)


自身の製造機でつくったナプキンを手にする
ムルガナンタムさん(右)と妻シャンティさん


ムルガナンタムさんの製造機でナプキンをつくる女性たち
=いずれコインバトール
(奈良部健撮影)


インドで衛生的な生理用品を使う女性(15~24歳)の割合
(インドの国家家族健康調査から)



「パッドマン」女性を救う
安価な製造機 働く場広げた
(インド)

女性の生理がタブー視されたインドで、安価な生理用ナプキン(パッド)を開発し、多くの女性を救った男性がいる。
その取り組みは、無知や偏見から通学すら諦めてきた農村の少女に学ぶ場を取り戻しただけでなく、女性の新たな就業機会ももたらしている。



妻の言葉契機に
男性はインド南部コインバトール郊外で金物技師をしていたアルナチャラム・ムルガナンタムさん(56)。
後に「パッドマン」と敬われる挑戦のきっかけは1998年、新婚の妻シャンティさん(42)が自宅で、汚いぼろきれを隠すのを見たことだった。
使い道を尋ね,生理の時に使うとわかって驚愕(きょうがく)した。
「スクーターの汚れを拭く布よりもひどいものだった」

当時市販されていた生理用ナプキンは5枚で30ルビー(1ルビー=1・6円)。
購入して妻に渡すと「家のミルクが買えなくなる。返してきて」。
ムルガナンタムさんの当時の月収は約5千ルビー。
妻の言葉にナプキンの自作を誓ったという。

インドでは生理が不浄なものとしてタブー視されてきた。
政府の調査では、貧困や意識不足から、15~24歳で衛生的な生理用品を使っていない女性は約4割に上る。
古い布や木の葉、灰などで代用するため、感染症の発生率も生理用品の使用者より7割高く、不妊や敗血症で死に至ることもある。
初潮後に学業を諦めたり生理中の通学を避けたりするケースも少なくない。

ムルガナンタムさんは安いナプキン作りには、安価な製造機の開発が欠かせないと感じていた。
ゴミ拾いをしながら女手一つで生活を支えてくれた母親の姿が記憶にあり、製造機の開発で「女性が仕事を得られる。女性が働けば、貧困や教育問題の解決の一助になる」とも考えた。

仕事場の工場でナプキンの試作を始めると、社会の偏見が見えてきた。
試作品を着用して改良に協力してくれる女性は見つからず、村人のほか、家族からも奇異の目が向けられた。
それでも、市販品の仕組みを調べようとゴミ箱で使用済みナプキンを探し、ヤギの血を使って自らナプキンを下着につけて漏れないかを実験。
試行錯誤を重ね、試作開始から6年後の2004年に、ようやく満足できる製造機を完成させた。


大手価格の半分
ムルガナンタムさんのナプキンの価格は現在、大手メーカーの半分の1枚約4ルビーだ。
製造機も10万~30万ルビーに抑え、これまでに国内4500の農村に製造機を無償や安価で配布してきた。
自身は古里で十数人の工場を営みながら、国内各地の学校を訪ね、衛生的な生理用品を使う大切さを講演している。

コインバトールにある障害児家庭の支援施設は3年前に製造機を贈られ、女性6人がナプキンを作る。
10年前に夫を亡くしたプレミラさん(50)は知的障害がある息子を連れて働き、月2千ルビーを稼ぐ。
「最初は人前でナプキンを触ることや、生理の話をすることができなかった。でも今は恥ずかしがることが間違いだと思っている」と話す。
同僚女性と家々を訪ね、試供品を配って回る日々という。

ムルガナンタムさんの半生は18年にインドで映画化され、日本でも公開中だ。
取材に対し「インドには課題が多いが、課題があるから頑張れた」と振り返った。
ナプキンや製造機の普及を優先して特許を取らなかったこともあり、手元に残った金は多くない。
でも、その製造機はケニアやバングラデシュなど発展途上国を中心に約40カ国にまで広がり、10万人の女性に仕事をもたらしている。



生理中女性「不浄」の地域も
インドでは女性を男性より低くみる考えが今も残る。
11年の調査では、男女別の人口比で男性1千人に対する女性は940人にとどまる。
6歳以下の女児に限ると914人とさらに少ない。

胎児の性別判断は禁じられているが、秘密裏に医師の診断を受け、女児だった場合に人工中絶を選ぶ例が後を絶たない。
生まれた後に殺害するケースも報告されている。

また、長年の慣習などから整理中の女性と食卓を囲まなかったり、屋外で就寝させたりする地域も残っている。

(コインバトール=奈良部健)