2019年1月19日土曜日

稀勢の里の引退会見


大学に入るまでは、私は世間で言われるほどのアスリートではなかった。

勉強はそっち除(の)け、頭の8分目位はスポーツのことを考える、変チョコリンな中・高校生だった。
スポーツ好きだったことは超一流だった。

「保っちゃんは、勉強はしないから、頭の中はパンパラパン、そやけど、バスケットやサッカーについては頭が可笑しいほど狂うなあ」。
大学に入れなくて浪人するまでは、勉強なんてなんとかなる、ちょっと頑張ればそれなりの成績は採れるものだと思い込んでいた。

当時、人口4000人ぐらいの山野と水田、茶畑だけの貧村、寒村だった。
我家はお茶と米だけの貧農。
幼少の頃から、勉強なんかするものでないと親から教えられて育った。

だが、何とかして大学に入ってサッカー部に入部した。
日本一レベルの高い大学だった。
簡単には入れないのだが、京都市にある名門・山城高校の先輩が居て、私の技量など一切お構い無しに入部させてくれた。
ここでは大学のことを余り話したくないが、古びた寮のアッチコッチに「ワセダ、ザ、ファースト」とあった。
ワセダとは、早稲田大学のことだ。
ことサッカーに関しては、大学界は勿論のこと、広く日本のサッカーの先陣を切ってお手本になるんだ、そんな部風は毅然としていた。
何も知らなく入部したものだから、こんな入部生は厄介者だっただろう。

私のスポーツ選手としての出来栄えは悲惨かつ無残なモノだった。
が、4年間はプレーヤーとしては褒められることはなかったが、学びとることは極めて大きかった。
その後の社会人としての「基本の基」の「根性」をがっちり学び取った。
感謝している。
今になって、少なからずサッカー部に寄付を試みるのは、ささやかな私の心です。

そんな私が横綱 稀勢の里が取り組みのなかで怪我をして、その後の彼の踏ん張りを観る時、何とも言えぬ、複雑な気持ちにさせられていた。
その彼が、16日、引退会見をした。
彼の口から発せられる一言一言が、私の脳の各所を差す。
此の頃、涙脆(もろ)くなっているばかりではない、恥じることなく、大粒の涙が止まることなく流れた。
1月13日には、年寄名跡・荒磯を取得した。
四股名(しこな)「稀勢の里」のいわれぐらい知りたいものだ。

その稀勢の里の引退会見の一部をネットで知った。
後日の為に、コピーさせてもらったのです。

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横綱 稀勢の里が引退会見

大相撲の横綱・稀勢の里の現役引退の記者会見が午後3時半すぎから
都内で始まりました。
稀勢の里は会見の冒頭で「私、稀勢の里は今場所を持ちまして引退し、年寄・荒磯として後進の指導に当たりたいと思います。
現役中は大変お世話になりました」と述べました。



「一片の悔いもない」

稀勢の里は現役引退を決断した今の心境について「横綱として皆様の期待に添えられないということは非常に悔いは残りますが、わたしの土俵人生に一片の悔いもございません」と話しました。

「感謝の気持ちでいっぱい」

稀勢の里は、どんな相撲人生だったかと問われ、「本当にいろいろな人に支えられ、
1人ではここまで来られなかったと思いますし、感謝の気持ちでいっぱいです」と話しました。
また、いちばん心に残っていることについて問われると「ありすぎてなかなか思い出せませんが、やはり稽古場が僕を強くしてくれました」と話しました。

今場所は「自信を持って臨んだ」

稀勢の里は今場所について、「覚悟を持って、場所前から過ごして、稽古してきました。
自分の中で『これでダメなら』という気持ちがあるくらい、いい稽古をしました。
その結果、初日から3連敗という形で自分の中で、一片の悔いもありません」と話しました。
そのうえで「けがをして以来、自分の中ではいちばんいい動きができていたので自信を持って臨みました。
一生懸命、やってきました」と涙を拭い言葉につまりながら話しました。

「このような結果 申し訳ない」

稀勢の里はケガを抱えながらどんな思いで横綱をつとめてきたのか問われ、「このまま潔く引退するか、いつも稽古場で自問自答していた。
応援してくれる方のために相撲は続けようと判断してやってきたが、このような結果になって申し訳ない」と振り返りました。

「先代親方に感謝の気持ち伝えたい」

稀勢の里は入門時の師匠で、平成23年に亡くなった先代の鳴戸親方について聞かれ、「先代は稽古場というものを大事にしていた。
稽古場の大事さを次の世代の力士たちに教えていきたい。
先代には感謝の気持ちを伝えたい」と述べました。

そのうえで、先代の鳴戸親方が大関と横綱とで見える景色が違うと話していたことについて聞かれると、「大関と横綱は本当にまったく違うものだった。
だが、まだまだ先代が言っていた景色は見えなかった」と振り返りました。
そして横綱という地位はどういうものかと問われ、「自分自身を変えてくれた」と涙を流しながら答えました。

土俵人生でいちばんの取り組みは

稀勢の里は、これまでの土俵人生でいちばんの取り組みについて、「2017年に横綱昇進を決めたあとの千秋楽での横綱 白鵬関との一番です。
2011年に大関に昇進したときには千秋楽で琴奨菊関に負けたので、その悔しい思いを持って、次に昇進するときには絶対に負けないという気持ちで取った一番でした」と話しました。
また、土俵人生で貫いてきた信念について問われ、「『絶対逃げない』、その気持ちです」と話しました。

外国出身力士に対する思い

稀勢の里は外国出身力士に対する思いを問われ「自分を成長させてもらったのも横綱
朝青龍関をはじめモンゴルの横綱のおかげと思っているところもあるし、あの人の稽古を巡業中に見て、背中を見て少しでも強くなりたいという気持ちで稽古をしました。
上がれなかったときも日馬富士関に声をかけてもらったり、非常にいいアドバイスをいただいて本当に感謝の気持ちでいっぱいです」と話しました。

そのうえで、日本出身横綱として期待を背負ったことが重圧だったかと問われ、「いい環境でした。
あの声援の中で相撲を取れることは本当に力士として幸せなことで、本当にいい思い出です」と振り返りました。

今後について

稀勢の里は今後について、「一生懸命相撲を取る力士、けがに強い力士、そういう力士を育てていきたい」と話しました。

田子ノ浦親方「本当によく頑張った」

稀勢の里の引退会見に同席した田子ノ浦親方は「自分から引退を言うつもりはないと決めていました。
稀勢の里が入ってからずっと一緒にやってきて、いちばん近くで見ていたので。
どれだけ相撲に熱意をもっていたか、けがと向き合い相撲をやってきているのを見てきました。
自分の努力で横綱まで上がってきている責任感が強い男なので、そういう男が自分から私のところに相談に来るまではできるだけ支えていければなと思っていました」と話しました。

そのうえで「きのう本人から相談があると言われ、本人の口から『引退させてください』とありました。
本当によく頑張ったなと思います。
相撲界にというよりも先代が夢に描いていた幕内優勝、そして横綱という僕たちができなかったことをやり遂げてくれてすごく感謝しています」と話しました。

稀勢の里、故鳴戸親方の誕生日の9・29に断髪式

1/19(土) 8:12配信
元横綱稀勢の里荒磯親方(32=田子ノ浦)は初場所6日目の18日、都内の部屋での朝稽古にも両国国技館にも姿を見せなかった。
引退から一夜明けた5日目は、国技館にあいさつに訪れたが2月のNHK福祉大相撲までは職務が未定。
国技館への出勤義務はなく、師匠の田子ノ浦親方(元前頭隆の鶴)によると、当面は静養と関係各所へのあいさつ回りなどにあてられるという。

断髪式が行われる引退相撲は9月29日を予定している。
くしくも、この日は入門当時から指導を受けてきた、
故人の鳴戸親方元横綱隆の里)の誕生日だ。
田子ノ浦親方は「まだ正式にその日に決まったわけではない。
たまたまその日になったけど、先代も(天国から)見守ってくれたら」と話した。
また、部屋付き親方としての指導者デビューについては、田子ノ浦親方は「(部屋頭の大関)高安も自分の調整ペースがあるから、気を使わせないようにしているのでしょうと今場所後にずれ込む可能性も指摘した。
数年後には独立する意向で、関係者によると東京都江東区などに部屋候補地があるという。